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「上遠野浩平論」④傑作セカイ系作品にみる天才性(『ブギーポップは笑わない』)

 祝アニメ化!!!……とは、関係なく書いていた、上遠野浩平論の第4回です。

 期せずしてタイムリーなことになった。

 

 第1回第2回第3回まで、上遠野浩平という作家の生い立ち・性質・執筆スタイルを詳しく検討することで、上遠野浩平を論じる上での基礎を固めてきた。それによって本論は、主に上遠野浩平が世間のブームとは無関係にセカイ系的なテーマを書いていたこと、いわば「天性のセカイ系作家」であることを明らかにした。 

 今回は上遠野浩平が「天性」だけでなく「天才性」すらも持っていることを述べていく。上遠野浩平が天才であることなど、今更僕が言うまでもないことではあるが、しかしどこが天才的なのかを改めて言語化しておくことは、上遠野浩平を論じる上で有用だし、それよりなによりも面白いだろう。

 言語化の対象とするのは、言わずと知れたデビュー作ブギーポップは笑わないだ。この作品の非凡さを逐一指摘することで、上遠野浩平の天才性をネット世界に共有していこう。

 

 

 +天才による偶然の受賞作 

 

 ブギーポップは笑わないは1997年の第4回電撃ゲーム大賞*1で大賞を受賞、出版した上遠野浩平のデビュー作だ。なお、この第4回での金賞は橋本紡、銀賞は阿知太郎。*2

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

 

 上遠野浩平は、この作品の成立と受賞が「偶然だった」旨をたびたび強調している

 

 まずそもそも、電撃ゲーム大賞を投稿先に選んだのは特殊な構造の作品がゲームっぽくて受けるかもと思った程度のことだった。本人は別にライトノベル*3を狙って書いていた訳ではない。

 また、当時の電撃文庫はまだ亜流もいいところで売れ線とは言いがたいところがあった*4電撃文庫でヒットすることがその後の一時代を作ることに繋がるなんて、当時はだれも思ってなかった。

 内容にも偶然性は影響しており、例えば当時のメインストリームだったファンタジーでなく学園モノを書いたのは、本人としては古臭いと思っていた。が、結果それがむしろ一周して新しいとウケた面があり*5、実際ちょうどその後から時代は学園ラノベが主流となった。しかもその流れを作ったのはブギーポップではなく*6フルメタとか涼宮ハルヒとかシャナとかだったと思われる。

 

 そしてなにより、これが最も大きいのだが、ブギーポップというシリーズが90年代後半という時代に熱烈にウケたのは、やはり「セカイ系だったからだ」と考えるのが適切だと思われる。第2回の『冥王と獣のダンス』の検討で確認したように、上遠野浩平ブギーポップ以前から変わらずセカイ系を書き続けいていた。しかし、20世紀末の日本ではバブルが崩壊し、時代が変化した。そうして、たまたま上遠野浩平が書いていたような世界観が流行る時代が来た

 

 『ブギーポップは笑わない』が強い偶然に恵まれた作品であるのは間違いないだろう。作家本人もそれに自覚的である*7

 

 ただし、本人は単なる偶然だったと言うとしても、僕のような信者はこれらの偶然エピソードは上遠野浩平の天才性を示唆すると思っている訳だ。

 狙わずして傑作を書く作家のことを天才の他に何と呼べばいいのか。

 

 

 +『ブギーポップは笑わない』の変則的な物語構造

 

 さて、作品内容の検討に入ろう。

 この記事を書くにあたって、改めて『ブギーポップは笑わない』を読み返したが(皆さん読み返したらいいと思う。ブギーポップは何度よんでもいい)、それにしてもこの小説は独特な構造をしている。

 本作は5人の人物が語り手を入れ替わる短編連作だ。語り手ごとに、5章に分かれる。

 

  1. 竹田くん。恋人の宮下さんの二重人格・ブギーポップと友達になる。
  2. 末真さん、霧間凪がなにやら調査をしているらしいことが示唆される。
  3. 早乙女くん、怪物マンティコアの存在を知ってその仲間になる。
  4. 木村くん、事件後何年も経ってから紙木城さんの痕跡を探しに来て、異常を見つける。
  5. 新刻さん、委員長気質を発揮した結果マンティコアの死を目の当たりにする。

 

 他に、マンティコアの材料になったらしき謎の存在・エコーズ、そのエコーズをかくまった紙木城さん、ビッチ気質の紙木城さんの本命でマンティコアに止めも刺した田中くん、などが登場する。

 

 この小説の変則的なところとして、具体的に2点が指摘できる。

 

 まずこの話には固定された主人公というのがいない

 というか物語全体の主人公たりうるキャラクター(ブギーポップ霧間凪・紙木城さん)は、そろって各章の語り手から外されている。わざわざサブキャラを語り手に採用して、それを5回もやっている訳だ。まだライトノベルの方向性が萌えの方向に固まりきってない時代なことを加味しても、キャラクター小説としてカテゴリーエラー一歩手前の手法である。

 

 また、この小説では時間軸が激しく前後する

 冒頭1章に事件結末が来ているはもちろんあるが、特に4章などは事件から数年も後の話だ。高校生たちの青春の話だと思っていたら、急に「高校卒業したあと浪人生をやってる宮下藤花=ブギーポップ」なんてものが出てくる。これも当時のヤングアダルト小説からしたら、女子高生主人公(?)が成長して大学生になった姿なんてのは、基本的に禁じ手だったのではなかろうか。今ですら、キャラクターの成長後とかエンディングや幕間でかろうじて見れるかどうかというところなのに*8。しかも浪人生・宮下藤花は、ページ数も半ばを超えた四章というタイミングで出てくる。

 

 なぜこんな変則的なことをしているのか?

 もちろんこれは、ただ奇をてらったとかではない。むしろこの小説の優れた発想に端を発する必然だ上遠野浩平はこうした工夫を用いて、より広くて深い"セカイとの断絶"を表現しようとした

 

 

+どんな人間もセカイには関われない

 

 セカイ系特有の表現の主な部分として、"セカイとの断絶感"があるという旨の話は、既に何度かした。それは「自分が何をしようがセカイには何の影響も与えることなどできない」という絶望。アムロと違って、ロボットにのってもセカイを変えられない碇シンジの絶望感である*9

 その断絶感の描写が、上遠野浩平は圧倒的に上手い

 しかも技術的にどうこうではなく、考えかたの根本が他のセカイ系作品を明らかに上回っている。

 

 上回っているは具体的にどこか。

 まずブギーポップは笑わない』の登場人物たちは事件の全容を知らないということに注目しよう。

 

 そもそも『笑わない』は、新刻委員長のこの一言から始まる小説だ。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際には実に単純な、よくある話に過ぎないのだろう。

 でも、私たち一人一人の立場からはその全貌を知ることはない。

 油断すると、単なる冒頭モノローグと見做して流してしまう部分だが、実は上遠野浩平はこの描写について本気も本気だ。全ての人物は、比喩とか叙述トリックとか描写上の都合ではなく、本当に作品世界のだれも事件の全容を知らない。 

 

 例えば物語冒頭の語り部である竹田くんが最も顕著だ。彼はブギーポップと最も親しく会話し、あの自動的な存在に君は友達だとまで言わせしめたのに、ブギーポップが何と戦っていたのかすら知らないまま終わった。

 あるいは、田中くんマンティコア弓道で止めを刺したが、ブギーさんに言われるままにしただけで、自分が何に矢を打ち込んだのかも分かってない。物語の決定的な行為者でありながら、単なる傍観者の竹田くんと同程度に真実から遠い。

 また、早乙女くんも同じである。彼は物語の「真犯人」であるにも関わらず、自分が起こした事件が何なのか、自分が愛した怪物が本当はどういう存在なのか、ほとんど把握していない。陰謀の主体である彼ですら本質的に事態の傍観者だ。

 謎の対象がマンティコアならばまだマシなほうで、エコーズに至ってはそもそも設定上から謎の存在だ。謎だからこそ研究されていた訳で、物語の外側に存在する研究所(統和機工だろう)の人たちにとってすら彼が何なのかは謎。ましてや、彼の決断如何で世界が終わっていたであろうことや、その決断を回避して真に世界を救ったのは、実は紙木城さんの小さな優しさだったりしたなんて知りようがない。

 紙木城さんがの優しさが真に成したことが何だったのかについては、エンディングで霧間凪や新刻さんが言及しているが、それは単なる想像であり、紙木城さんの仕事の価値を知っているわけではない。物語のオチを付けた彼女らの言葉すら、真実とは何も関係がない。

 

 そして、最も真実に近いはずの読者にとってすら、事件の全容は謎である

 なにしろこの本の出版時点では「統和機構」「虚空牙」「MPLS」といったキータームはまだ影も形もない訳だ。『ブギーポップは笑わない』だけを読んで一体本当は何が起きていたのかを知るのは限りなく無理に近い。

 

 物語世界全体が読者にとって謎につつまれているという表現方法は、セカイ系としては比較的スタンダードな手法である。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』において視聴者は人類補完計画とは何か、使徒がなぜ攻めてくるのか、ほとんど知ることはない。あるいは『最終兵器彼女』で、読者はヒロインが戦っていた戦争の全容を知ることはない。

 しかし『ブギーポップは笑わない』ほど徹底して、作品内のキャラクターも物語世界全体を把握していない、という事実は、他のセカイ系作品と比べても相当異質だ

 

 

+セカイには碇ゲンドウもゼーレもいない  

 

 他のセカイ系と比べても異質、とはどういうことか。

 それが何の意味を持つのか。

 

 例えば『新世紀エヴァンゲリオン』について考えてみよう。確かに作品世界の全容は、視聴者にとって謎だが、よく考えたらほとんど全てを把握している作品内のキャラクターが居る。ほかならぬ、碇ゲンドウその人である。視聴者の関心は「ゲンドウがいったい何を知っているのか?」「シンジ君はそれを知ってどうするのか?」とかいう部分に向くように、物語自体が出来ていた*10

 また『最終兵器彼女』の場合は更に露骨であり、無力で何も知らないのは主人公だけである。真実は漫画のコマの外でテレビニュースがちゃんと流しているし、自衛隊の人たちはある程度状況をコントロールして抗っていた。何も知らないのは読者だけであり、セカイのどこかには全てを知っている大人が必ず居て、我々にとっての謎の戦争は、セカイにとっては謎でもなんでもなかった。

 他の大抵のセカイ系作品においても、主人公と読者がセカイを把握できないのは、単に我々が無知で無力だからである*11。なんならあのセカイ系作品はどうだったか、各自思い返してみればいい。

 

 しかし『ブギーポップ』では、そういう"全てを知っている大人"は誰もいない。

 上遠野浩平の作品世界においては、本当にあらゆる人間がセカイから断絶されている 

 上遠野浩平の作品世界においては、どんなに強大な能力を持っていても、絶大な権力を持った裏社会のフィクサーでも、本当の真実にアクセスすることはできない。あの統和機構のアクシズすら、おそらくは虚空牙や枢機王ですら、本当の意味で本当の全容は何も知らない*12

 上遠野浩平の物語において、我々がセカイと断絶しているのは、我々が子供で無力だからではないのだ大人だって断絶されており、わけもわからずセカイに翻弄され続けているのだ。

 

 考えてみれば、それは当時の中高生読者すら判っていたであろう、当たり前の認識であった。なぜならば、大人になればセカイと互角に戦えるようになる、と信じることが出来るのなら、いくら思春期の中高生でも絶望なんかしなかったはずだ。というか、セカイ系が流行った時代背景には、バブルがはじけて将来の成功が信じられなくなった事があったはずなので、それは「大人なら上手くいく」という認識とは真逆だ。

 中高生だった僕たちが確かにセカイとの断絶を感じていた一方で、作品世界の側が碇ゲンドウやゼーレのごとき大人が居る(=将来そうなれる可能性がある)こと」を示していたのは、読者との乖離に他ならない。我々は、心の奥底で自分が碇ゲンドウになんてなれるはずがないと知っていたはずなのだから、"セカイとの断絶"を表現する文学表現において*13、実は碇ゲンドウの存在は余計もいいところだった。

 だから上遠野浩平はそういう余計を『ブギーポップは笑わない』によって一切排したのだ。 

 

 それによってブギーポップ世界のセカイ系表現は、より時代の核心に迫った。  

 こうして上遠野浩平が表現したものを、僕なりの言葉として、"セカイとの断絶"の〈広さ〉と呼ぶことにする。誰もその影響範囲からは逃げられない、という意味である。

 『ブギーポップは笑わない』の語り手が各章ごとに交代し、しかもメインキャラを避けて語り手を選んでいるのは、実にその〈広さ〉を表現するためであった。

 

 

+時間は断絶の絶望を消し去らない

 

 更に上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』において、断絶の〈広さ〉だけでなく、〈深さ〉の表現でも他のセカイ系作品との違いを見せている

 セカイ系という作品群は"セカイとの断絶"を主に書くものだが、実はブギーポップは笑わない』で主なテーマとして書かれているのは、断絶それ自体ではない。

 

 この小説の主題は、セカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちにある。

 

 僕がセカイとの断絶の〈深さ〉と呼ぶのは、このテーマによって表現されている要素。即ち、セカイとの断絶は決して一過性のものではない、青春期の一時の気の迷いではない、という認識のことだ。

 

 例えば、第2章で語られる末真さんの物語を思い返そう。

 後のシリーズで重要人物となる末真和子は、この本の第2章で、過去の殺人事件で自分が知らないうちに救われていたことについて、お礼ぐらい言わせろと霧間凪に迫った。*14が、よく考えてみれば末真和子の過去はマンティコアとエコーズの物語には必要ない。『笑わない』が紙木城さんとエコーズとマンティコアの事件を描くだけの小説だったなら、末真和子は単に無関係なキャラクターである。それがなぜ描かれているのか?

 また第4章では、木村くんはもう大学生なのに、昔の彼女だった紙木城さんの真実をわざわざ探しに来てしまう。事件当時から何年も経ってからの出来事を、わざわざ物語中盤の一章を割いて描写している訳だが、実はマンティコアの事件の真実に迫るだけなら、別に木村くんは卒業してなくてもよかった。なんなら新刻委員長や田中くんといっしょにラストバトルに参加したほうが盛り上がった可能性もある。しかし上遠野浩平はそうしない。なぜ事件から何年も経った後の出来事を書かねばならなかったのか?

 

 末真さんや木村くんに共通するのは、何年も前の事件においてセカイと断絶されていたし、今でもそれが解決していない、ということである。つまり、彼らこそがセカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちである。

 そして、上遠野浩平がそんな人生を送る人たちを通して言わんとしてるのは、「今この場でセカイと断絶していることなど大した問題ではない」ということ。

 

 もし今、我々がセカイとの断絶を絶望しているのであれば、この絶望は将来にわたっても続いているのかもしれない

 

 これも考えてみれば当たり前の認識であった。

 上で言及した、上遠野浩平世界に碇ゲンドウが存在しない理由と同じだ。僕たちの絶望は、「大人になってもセカイに接続できる気がしない」、という無力感の認識から始まっているのだ。将来の僕たちがゼーレや碇ゲンドウになれないのという認識が事実ならば、それは論理的に言って、今僕たちが感じている断絶感は将来にわたっても消えないということも意味する。

 まさに、当時の僕たちが感じていた絶望は「セカイと断絶したまま僕たちはずっと生きていくであろう」という予感において存在した

  上遠野浩平の天才性は、絶望の本質を、鋭く的確に貫いていた。

 

  その後の作品でも、上遠野浩平は「セカイと断絶したままの人生」というテーマをしばしば扱う。しかし、とりわけ最も大きな主題としたのは、デビュー作の『ブギーポップは笑わない』においてである。

 この作品で、時間軸が変則的に前後しなければならなかったのは、それを表現するためであった。

 

 

 +作品外にすら突き抜ける絶望の深み

 

 ここで、セカイとの断絶の〈深さ〉という点に関連して、特に指摘しておきたいことがある。本作、『ブギーポップは笑わない』のカラーページについてだ。

 この本の冒頭カラーページには、オシャレな各キャラのイラストと、物語中の印象的なセリフが引用されている。これは今でこそラノベ文庫定番の手法だが、当時は斬新であり*15非常に印象に残った人も多いはず。

 その中において、田中くんのこのセリフ*16

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「彼のほうが彼女のことを、僕よりも好きだったんじゃないかと思いますから」

 

 このセリフは『ブギーポップは笑わない』の本文中に登場しない

 どこに出てくるかというと、『歪曲王』で、羽原健太郎先輩の手によって歪曲王の夢から現実に戻された、その直後にぽろっと漏らすのである。このセリフが象徴する田中志郎の心の歪みが歪曲王*17を生んだ。田中くんの葛藤の中核となり、後のシリーズでもかなり重要な位置づけのセリフが、『ブギーポップは笑わない』の本文に入っておらず、しかし当然存在するものとしてカラーページに引用されているのだ。

 これは、上遠野浩平の狙い通りの演出なのだろうか? それともたまたま推敲段階で抜けたセリフを後に再利用したのか? それは作家本人でないと知りようがないが。 

 ただ、一つ言えるのは、上遠野浩平が「マンティコアに止めを刺した田中くんのその後の人生」に思いを馳せていたのは確実である。引用のセリフは、明らかに過去形だ。なので恐らく、これは事件からしばらく経ったあとに、既に居なくなった紙木城直子について話したセリフである。

 

 『歪曲王』はブギーポップシリーズの最終巻になる可能性も構想されていた、という話はファンの間では有名だが、それもこのあたりに端を発するのだろう。マンティコア殺しの英雄・田中志郎の心残りを解決してあげることが、実は「ブギーポップという物語の終わり」だったのである。

 考えてみれば、田中くんは怪物を倒してセカイを直接的に救った、碇シンジではなくアムロのポジションにいるはずの男である。イケメンだし好青年だし女にもモテて、怪物を倒す弓の才能を紙木城さんに見出されていた。設定と行動だけみれば本当に英雄的な少年なのだ。しかし上遠野浩平の手腕によって、英雄もまた誰にも理解されない断絶をかかえているという、彼はそういう状態を表現するキャラクターになっている。*18

 

 上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で描いたセカイとの断絶の〈深さ〉は、文庫一冊の厚みに最初から収まっていない。

 ではその射程はどこまで続いているのだろうか? 僕らがは上遠野サーガの深みにのめり込んでいくのは、まさにそれを確かめるためかもしれない。

 

 +断絶に対するブギーポップの回答

 さて、こんなにも〈広さ〉と〈深さ〉を兼ね備えた断絶を前にして、我々は立ちすくむばかりである。

 では、人生に迷う中高生だった我々に、上遠野浩平はただ絶望だけを示したか

 全く違う。なぜなら上遠野世界には、絶望から我々を救いあげるヒーローも存在するからだ。『ブギーポップは笑わない』の中で、われらがブギーポップ先輩は、立ちすくむ若者たちにこう仰っている。

「僕には義務があるように、君や宮下藤花にもやるべき仕事があるんだ。君らは自分で自分たちの世界を作っていかなくちゃならないんだよ。」

「紙木城直子は自分の使命を立派に果たした。だから君も、君の仕事を彼女に恥じぬように果たすべきだ」

 百点満点の回答。ほとんど唯一の正解だと言える

 たとえ我々がセカイを前に無力だとしても、その事実は認識したうえで、我々はただ前進していくしかないのである。絶望の広さも深さも抱えたまま、自分たちの使命を果たすべく、自分で自分の仕事に取り組んでいかないといけない。結果として、紙木城直子のように死ぬことになるとしてもだ。

 これは、後の2000年代批評文化がセカイ系ムーブメントに取り組んだ際にも、ほとんど唯一の正解と見做された回答と同じである碇シンジがダメなのは、セカイとの断絶を前に絶望して、引きこもってしまったからであった。宇野恒弘は、エヴァから始まったセカイ系文学にはそういう引きこもり的な問題点があったが故に、後の世代では、『戦わなければ生き残れない』で有名な仮面ライダー龍騎のような作品が登場したと指摘した。

 上遠野浩平はここでも時代を先取りしていたのであった。ブギーポップは、戦わなければ生き残れないのだと、とっくのとうに我々に告げていた。

 

 ただし、ここで重要なことがある。

 戦うことが、全ての人間にできるはずがない

 上遠野浩平はそのことも、ちゃんと分かっている。上遠野世界において、絶望を前にして立ちすくむこともなく、パッと動くことを決断して自分なりの闘争へシフトしていけるのは、自動的に動く変身ヒーローとか、炎の魔女のような正義の戦士とか、そういう奴らだけである。一般人はたいてい「うううううう……」とか唸るだけ唸って、何も決断できないで終わる。それが上遠野浩平の世界観だ。

 決断には強さが必要となるし、弱い僕らは強さなんてものとは無縁なのだ。

 

 ではどうするか?

 上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』の後も、デビュー20周年を迎えた今日ですらセカイ系作品を書いているのだが、取り組んでいるのは結局はそういうことだと僕は思っている。より詳しい検討は後の連載に譲るが、ひとまずは『笑わない』で答えが示されたテーマには、まだ続きがあることを認識しておいていただきたきたい。

 

+天才的セカイ系描写ゆえ、熱狂されて当然 

 という訳で、あの頃ブームになったブギーポップシリーズが書いていたセカイ系描写には、他のどの作品よりも〈広さ〉と〈深さ〉があった。

 まさに天才の仕事。将来に不安を抱える中高生の僕たちが熱狂したのも、今にして思えば当然と言える。

 

 さっきもちょっと触れたが、ブギーポップは今年20周年だそうである。それとともに、我々は中高生からオッサンになった。バブル後という時代はテロや地震と戦ってるうちにいつの間にか消え去り、セカイ系ブームもずいぶん遠くなってしまった。

 しかし、"セカイとの断絶"がもたらす不安は、別に消えて無くなった訳ではない

 したがって、今読んでも『ブギーポップは笑わない』は揺るぎなき名作である

 それに、本論ではあえてセカイ系描写の天才ぶりに絞って作品の魅力を分析したが、それは分析的にアプローチできるのがその部分だったからにすぎない。キャラクターの魅力、文庫デザインの革新性、文体のカッコよさといった要素もまた、当然のことながら作品の魅力を構成している(というか、そちらがメインかもしれない)。

 まあ、結局のところ名作だってことは読めばわかるのだから、その辺はやっぱり改めて自身でお読みくださいという話だ。

 

 この第4回までで、上遠野浩平論は第1章を完結とする。第1章では「上遠野浩平がどういう作家か」を述べることを目標とした。本当はブログ記事1つぶんでここまで書くつもりだったのだけれど、文字数が2万を超えたところでそれを諦めて分割したので、多少読みにくいところがあるかもしれない。

 第5回からは上遠野浩平論の2章と位置づけ、上遠野浩平の作品世界における美意識・思想の内容に迫る。特に次回では「世界の敵」という表現がいったい何を意味しているのかを僕なりに書くつもりだ。

 

 またどうせ文字数がとんでもないことになるだろうが、旬の話題になっちゃったのでできるだけ更新を急ぎます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:電撃の新人賞は最初のうち「ゲーム大賞」という名前だった。それは、富士見やスニーカーの賞がジュブナイルノベルの本流であり、電撃文庫はむしろ亜流だったということ。電撃文庫は、もともスニーカー文庫ヤングアダルト小説を出版していた角川書店が、新規作家をより積極的に発掘するために立ち上げたレーベルで、"ゲーム大賞"と名付けたのは、バーチャファイターが出たりFF7が出たりしていたのゲームの世界を時代の先端と捉え、メイン層よりもエッジの利いた先端を狙っていく、みたいな意図だったと思われる。ヤングジュブナイルが「ライトノベル」になっていった当時の流れには、このような、小説が漫画・ゲームに魅力で劣る、という危機感が大きな流れとしてあったと思う。

*2:いずれも当時からのラノベ読みなら知ってて当然クラスの作家だ。

*3:当時は「ヤングアダルト

*4:富士見ファンタジアが擁するスレイヤーズオーフェンが全盛の時代である

*5:http://dengekitaisho.jp/novel_interview_30.html

*6:学園ラノベ隆盛の端緒ではあったという見方もあるが、それなら蓬莱学園シリーズとかが先に挙がってくると思うのだ。

*7:この時の経験が、あるいは上遠野浩平に創作に関する偶然性を強く意識させたのかもしれない。この出世作を取り巻く偶然ぶりが、第3回で紹介した『製造人間』の発言が示唆するような創作哲学に、上遠野浩平を導いていったんじゃないかと——確かなことは言えないが——考えることもできる。

*8:そういう認識でいえば、近年の『鉄血のオルフェンズ』でアトラちゃんが出産するとか、やっぱり革新的だったのかもしれない。物語市場はいつも変わらないと見せかけて、ちゃんと進歩もしていると思う。

*9:この時代の日本でそういう絶望を主に書くセカイ系が流行ったのは、バブル崩壊で社会全体に広まった無力感と無関係ではない、と言われている。ここでは本論から外れるので深くは踏み込まない

*10:無論ここは雑なまとめであって異論は積極的に認める。論の展開からエヴァについて話さざるを得ないが、僕は正直エヴァはそこまで好きでも詳しくもない。

*11:今、ふと思ったのだが、だから所謂『謎本』が時期ブームになったりしたのだろうか。セカイについて解き明かせないかという足掻きだったのかも。

*12:むしろオキシジェンなどは殆ど能力の奴隷と化している節がある

*13:文学表現において、という言い方をするのは「ストーリー的な面白さや整合性はともかく」という留保である。念のため。

*14:彼女にとって、自分の命にとって真に重大だった事件と断絶したままセカイを生きていくという事態は耐え難かったからだ。この痛みは、非常に切実で、共感できる。大人になった今だから判る名シーンの一つだと思う。

*15:地の分の引用とともに、物語中の1シーンをそのままイラストで載せるのが(つまり、普通の文庫中の挿絵に色を塗ったものを載せるのが)当たり前だった。

*16:この点に気付いている人が多いのか少ないのか、ファン同士の交流というものにとんと接してない僕にはわからない。常識レベルの話だったらすいません。

*17:歪曲王は上遠野浩平にとって実はとても大事な存在である。そのことは後の記事で語るつもりだ。

*18:……今書きながら気づいたけど、そういえば「志郎」って、英雄につける名前だよ。「志」という感じにはそういう意図を込めるもんじゃないか、っていうか、言ってしまえば赤い弓使いの英霊につける名前だし。 それが平凡の極みの「田中」についてるんだよ。今ならこのキャラクターが何だったのか、名前からすら深読みできちゃう気がするよ。