「天皇陛下がコロナを心配する」ことの意味
この記事では、天皇陛下がコロナ情勢を心配している、というニュースについて、その意味を語ります。
たまたま今読んでいた本と関係して、面白い能書きが書けそうだ、と思ったので。
+ 國體論「天皇とは民意のことである」
読んでいた本というのは、これのことです。
面白かったのでまずはオススメ。
その論文によれば、戦時中の30〜40年代に広まった天皇を絶対視していた「國體」イデオロギーは、通常は大正デモクラシーのような民主主義思想と完全に対立していると見られているけれど、実は民主主義的な理想を共有しているのだといいます。
そもそも、民主主義を思想的に語る際には、選挙と議会によって運営する代表制が、民主主義的に完璧とは程遠い欠陥だらけの制度であるという話が前提になるんですね。
だって、選挙って、どう取り繕っても多数決じゃないですか?
ということは、少数派の意見を切り捨てる作業が、すなわち選挙なんですよ。
民主主義っていうのは、国民全体の民意を政治に反映するものですよね。でも選挙を通している限り、民意を政治に反映することには、原則失敗しているとかし言いようがない。だって絶対に民意全体じゃないもん!
過去の学者たちも、そういう話にはとっくに気付いていて、例えばルソーだとかトクヴィルみたいな、民主主義の起源で生みの親みたいにあつかわれている学者からして、議会制民主主義を否定したり批判したりしています*2。
で、戦時中の我が国で広まった、いわゆる國體論によれば、天皇制こそは、そういう民主主義の不備を解決する最良の政治制度なのです。
なぜならば、天皇陛下は、少数であろうが多数であろうが国民全てを気にかけていらっしゃるので。
天皇陛下は、国民を切り捨てたりしない。全体を全体のまま総覧していらっしゃる。だから、選挙で不可避的に起きる切り捨てのない民意の紛れもなく全体が、天皇陛下を通じて政治にたいして表現される。しかも、日本国民全体も、宗教文化を通じて、それを積極的に承認している。
ならばこれは議会制民主主義よりもはるかに完全な民主主義であるのだ!
そういう理屈が、戦前の天皇制度では採用されていたんですね。
もっともこの考え方は「より完全な民主主義制度を採用している日本は西欧よりもアジアよりも優れた国である」みたいな、ご都合ナショナリズム理論の基礎となってしまった。だから今となっては全く採用できない理屈ですけれど。
+ 現代でも天皇陛下は民意(であろうとしている)
國體論は戦前の、もう捨てられた思想の話ですけど、その流れは現代の象徴天皇制にもちゃんと通じているんだと、僕は感じました。
僕もかつてしたことがあります。
その時に、天皇擁護論者から、必ず出てくる見解っていうのがあるんですよ。
「天皇陛下は、私たち国民のことを本当に気にかけてくださっている」
大二病に罹患していた僕は、こう思った。
「は? 気にかけているからなに? やっぱ象徴天皇制って意味なくない?」
皆さんも考えたことがありませんか。そういうこと。
でも意味がない訳じゃなかった。彼らは実は、民主主義の話をしていたんですね*3。
天皇陛下は私たち国民全体のことを本当に気にかけている。
それは天皇陛下が、国民全体の代弁者、一般意思の表れ、全にして個の民意そのものであるということを意味しているのです。
民意そのものであるかもしれない存在を、蔑ろに扱うのは、それは流石の僕も抵抗がありますね。象徴天皇は、さすが象徴になるだけのことがある存在だったのだ。
しかもですよ、ここからは僕の全くの想像なんですか、恐らくかくあるべしという理想は、むしろ天皇家内部にこそ強固に受け継がれているのではないか。
だって昭和天皇から、まだ3代ですよ。普通に考えて、お爺ちゃんがマジに大事にしてた家訓ぐらい、孫は知ってるし守るでしょう。なんか天皇家のドキュメンタリーだかインタビューだかで、国民一人一人のことを気にかけよと教わったみたいな話も聞いた気がするし。
だから、天皇陛下がニュースで公的に発言したら、それは民意を表現している、ということなんですよ。
多数決によっては現れない、権力と経済原理と合理性によって無慈悲に切り捨てざるをえない、しかし存在するし痛ましくも切実な、そういう意思みたいなもの。それを表現するために、天皇とういう存在は公的に発言する。
神ではなく物理的な人間となってしまった天皇には、もはや切り捨てのない民意全体を個の内に宿すことなど、実際のところ不可能なのかもしれない。
しかし個人としての天皇陛下は少なくともそうしようとしている。
いえ、何しろ直接話したわけではないが、本当のところはわかりませんが、きっとそうなんだろうと思います。
+ 「民意」とあなたの意見が一致するのは当たり前です
そう考えたときに、先日の「天皇陛下がコロナと五輪のことで懸念を表明した」ニュースに対するSNSと世界の反応が、ズレてるなあと思って。
これに対してですね、特にSNSのあるクラスタでは、「天皇陛下がオリンピックを不安がってるw」「中止すべきだと言ったw」「勅旨では?w」という面白がりかたというか、天皇が自分の味方になってくれたというハシャギかたをしている方々が散見された。
それが、もう全然違うよな、と。ちょっとイラっとしたということですよね。
だってね、天皇陛下の言葉は民意そのものの表現なんですよ。
ハシャいでいるあなた方、日本国民であって、民意の一部ですよね?
そして、これは天皇陛下が貴方に賛成した、のとは違うんですよ。
なぜならば、天皇陛下は民意全体そのものなのだから、貴方の反対意見も同時に個のうちに含んでいるんですよ。
確かに、オリンピック開催にコロナ対策に不安がある、と陛下はおっしゃいました。だってそういう民意は現実に存在するからね。でも言葉の外には必ず、「オリンピックが開催したいなあ」「ワクチンを打つのはモルモットみたいで不安があるなあ」「賠償で日本が金を払うことになると困るなあ」「とにかく自民党が決めたなら今は従っておくか」みたいな矛盾した意思も持っているのです。だってそういう民意も現実に存在するから。
賭けてもいいですが、天皇陛下はいざオリンピックが開催されたら、開会式でもどこでも「オリンピックが開催されたことをうれしく思います」ぐらいのことは言うでしょう。なぜなら我々国民の中に、オリンピックが開催されたら嬉しい、という民意は確実に存在するからです。
切り捨てられてない完全な民意全体ってのは、そういうものです。
矛盾しており、一致しておらず、理屈ではない。
つまり何が言いたいかっていうと、天皇陛下がオリンピック反対派の味方になっただとか、政府がその意思を抹殺しただとか、そういう話ではないということが言いたかった。
マスコミが天皇陛下のニュースを削除したり改変したりしたとしても、それはせいぜい、街頭アンケートの結果が曲解して伝わっていたので修正した、それが政府に都合悪かったので修正が迅速だった、とか。それぐらいの話じゃないかな。
海外ニュースが反応していることを得意げに報じるまえに、海外ニュースに対して、いやこれはエリザベス女王が己の意見を言ったのとは話が違うんですよと、日本の文化ってやつを説明したほうがいいんじゃないですかね。
(でも論文集でわざわざ紹介されなきゃいけなかった國體論の解釈なんて、政府もマスコミも誰も踏まえてないのでは?)
(そうかもしれんが、俺の能書きもまた民意ということで一つ)