能書きを書くのが趣味。

文章がすぐ長く小難しくなるけど、好き放題長く小難しく書く。

「上遠野浩平論」③上遠野浩平の創作哲学(『製造人間は頭が固い』)

 上遠野浩平論の第3回。

 第2回では、エヴァよりも前に書かれたと思われる投稿時代の作品が既にセカイ系の特徴を踏まえていることを通して、上遠野浩平セカイ系ブームの影響を受けていないのだと主張した。

 今回は、更にその主張を補強するために、上遠野浩平の創作論に踏み込む。

 もちろん、上遠野浩平が自身の創作スタイルを完全に詳らかにしているなんてことはないが、たまたま最近、そういう分析にうってつけの作品が出版された。

 

 

+上遠野版の岸部露伴~『製造人間は頭が固い』

 

 うってつけの作品とは、何を隠そう『製造人間は頭が固い』

 前回に投稿時代の作品をやったのに、一気に最大ジャンプして2017年の作品となる。

 この作品は、SFマガジン不定期連載されていたものをまとめた短編集だ。内容は、統和機構の合成人間を作っているウトセラ・ムビョウという男が、リセットリミット姉妹やフォルティッシモといったお馴染みのキャラクターと話す、というもので、書籍版にはフェイ・リスキィ博士による間章が追加されている。ハヤカワSFマガジンの連載だが、電撃のブギーポップシリーズを読んでないと意味がわからないかもしれない。上遠野作品には偶にある、完全ファン向けの作品だ*1

 

 なぜこの作品を上遠野浩平という人物を分析するタイミングで紹介するかというと、僕の読んだ感じ、ウトセラ・ムビョウのモデルは上遠野浩平本人だからだ。少なくとも他のキャラよりも本人の性質が多めに投影されているはず。例えるなら、荒木飛呂彦における岸部露伴みたいな存在とでもいおうか。

 だってすべての合成人間の生みの親ですよ。それってやっぱり上遠野先生のことじゃないですか。

 しかもウトセラ・ムビョウは霧間誠一と違って生きていてしゃべる。

 故に『製造人間は頭が固い』は、上遠野浩平という作家の人物像を探り出すにあたり、早い段階で紹介しておいたほうがいい作品だ。

 

 

+作者の理想像としての分身

 

 とはいえ、荒木飛呂彦はクモの味を見ておこうなんて思わなかったろうし、空中に絵を書いてスタンドを出したりもしないし、プッチ神父の加速する世界の中で締め切りを守ることもたぶんできないだろう。

 岸辺露伴荒木飛呂彦は、当然のことながら同一人物ではない。

 同様のことは、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平にももちろん言える。

 上遠野浩平本人も『製造人間』刊行インタビュー*2の中でこう発言している。

(ウトセラが不思議な存在であることに同意して)私が彼を理解しているわけではないんですよね。先生の場合は、思考回路的なものを疑似的に頭の中に作って、それに問いかけると、よくわからない答えが返ってくる。私自身が作中のようなことを言われても、ウトセラ先生と同じ答えはできないです。そういう意味では、憧れの存在を書いているとも言えますね。何をいってもまったく動じずに反応する。正統性があるかどうかは別にして、そういう姿勢に憧れますね。

 このように、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平は別に同一の存在ではない。

 それは確かだ。

 しかし、僕はこのインタビューの発言を敢えて次のように読もうと思う。 

 上遠野浩平とウトセラ・ムビョウがイコールでないとしても、上遠野浩平がウトセラ・ムビョウを「憧れの存在」として書いたのなら、ウトセラ・ムビョウの言う内容は上遠野浩平が正しいと考える内容とイコールと見做してよいのではないか荒木飛呂彦も岸部露伴のことを「理想の漫画家像」だと公言している。それと同じだ。

 ウトセラ・ムビョウは、上遠野浩平から見て間違ったことは決して言わない。むしろ我々に伝えたいと思っていることや理想を積極的に語るキャラクターとして作られていると考えられる。

 

 ウトセラ先生の思想はすなわち上遠野先生の思想だ。

 勇み足なのは承知の上だが、そういう読みは少なくとも可能なはずである。

 そして、もしウトセラ先生の思想を作家自身の思想と見做すことが妥当なら、我々が今試みている上遠野浩平の文学論にとって非常に有用だ。

 なぜならば、ウトセラ・ムビョウは、物語のクライマックスで、一種の創作論を語るからだ

 

 

+製造人間による 交換人間=市場主義 批判

 

 ウトセラ先生が創作論を語るのは、製造人間と対を成す存在として登場する、交換人間ミナト・ローバイとの対決シーンだ。

 

 このミナト・ローバイというキャラクター*3も、露骨にモデルが透けて見える造形である。

 なにしろ名前からして直球だ。「交換人間」の「交換」とは、文化研究的な文脈で使われる「交換」を意味していると思われる。これは物品や価値を相互に贈与するという意味の単語で、しばしば経済の起源を論じる際に用いられるのだが。

 要するに、ミナト・ローバイというキャラクターは市場主義の権化である。やたらと価値の話をするところからも、ほぼ間違いないとみていいだろう。

 また、ミナト・ローバイは、迷うことも他者を振り返ることもなく、ひたすら自分の考える正解に向かって邁進する。それは彼が合理主義の権化でもあるということを意味すると思われる。

 市場主義と合理主義が、製造人間の敵として立ちふさがっているわけだ*4

 

 市場合理主義=ミナト・ローバイは、何物も新しい価値を創造してなどおらず、あるのは「交換」によって生じる価値の取り扱いの変化だけだと断言する。この世にもう真に新しいものを創造する余地などないのだと。そして自分自身こそが最も上手く価値の変化を扱えるのだと豪語する。*5

 

 それに対して、ウトセラ・ムビョウは、交換人間の主張を痛烈に批判して、こう言う。

ただし――何かと何かを交換するだけで世界を動かせる、という考え方には従わない。世界は不平等だ。それは事実だ。しかし、だからといって、その不平等の落差を利用するだけで豊かになろうとする、それが価値の創造とか言われては、話にならない。ほんとうの創造がなんなのか。モノを創り出すということがなんなのか全く判っていない。

創造の本質は『偶然』だ。たまたま出来る――それだけだ。本質的に不条理なものなんだ。それが僕が製造人間として生きてきて掴んだ実感だ。(中略)物作りというは結局、たまたまうまく出来るまで延々と続けることでしか成立しない、デタラメなモノだ。それを価値を交換してどうの、なんてことを途中でやっていたら、肝心のものにはいつまたっても到達できないんだ。交換だけをやたらと重要視し、至高のものと思い込むことは、自分は何も生み出せませんから、世界の寄生虫になります、と言っているようなものだ。

もちろん君たちは創造の一端には関わっているだろう。しかし忘れないでもらいたい。役に立つものを作って、そこで満足しているうちは、それはしょせんは工業でしかないんだ。僕と同じ製造人間だ。みんな産業に支配された、大多数にとって都合の良い部品に過ぎないんだ。それが悪いわけじゃない。僕だって同じだ。しかし真の未来は、今は役に立たないゴミのようなものの中からしか生まれないことだけは、見過ごしてはならない。役立たずの無能の、無数の可能性の屍のうちに文明は成り立っていて、僕らはそれを漁っている屍肉喰らいなのだということを――。

  物語上では、極端な主張をする悪役に主人公がSEKKYOUしているシーンに過ぎない。というか、実のところウトセラ先生は善も悪も述べてはなく、能力バトル的な都合から敵の挑発を試みているだけである。内容を読み飛ばしてもエンタメとしては何の問題もない。

 しかし、これが「小説家本人の化身が、擬人化した市場主義に言ったセリフ」だとすれば、だいぶ趣が変わってくるのが判るだろうか。

 

 

上遠野浩平の創作哲学

 

 上記の引用部分でウトセラ先生が言った内容は、創作活動全般への姿勢として読むことが出来そうである*6

 要素を抜き出して、検討してみよう。

 

 まず彼は、明らかに創作を制御できる可能性を否定している

 より正確にいえば、制御して作られた作品は「未来≒新しい作品」などではないと言っている。"本質的に不条理なもの"であり、つまり理屈をつけるのは不可能な活動だ。

 

 更に彼は、真に新しい作品を作るには試行回数を増やす以外に無いと指摘している。

 全て創作は制御不能の偶然に左右されるのであって、偶然を確実に変えるのは試行回数以外にない。意図や計算や市場分析の入り込む余地はなく、それどころか、意図や計算や市場分析に労力を割いていたら"いつまで経っても到達できない"、即ち、費やした労力の分だけ試行回数が減るので成功の確率が減る。

 

 そして、創作において他者の評価を気にすることは無駄であり有害だと言っている。

 他人の役に立つのは、即ち、市場の要請に従って人気のありそうな作品を作るのは、それは創作でなく工業に過ぎない。製造人間=上遠野浩平がしているのも実はそれである。しかし、真の意味で新しい作品は、工業的な活動からは出てこないことも、製造人間=上遠野浩平には判っているのである。

 

 どうだろうか。「創造」についての話としては正鵠を得ているようにも見えるが、小説執筆に関する理論だと読むと、かなり尖ったことを言っているのが判るだろうか。ウトセラ・ムビョウ=上遠野浩平は、緻密なプロットとか綿密な検討とかによって、真に新しい小説ができることはない、と断言している。ましてや、ブームに合わせた小説を書くことでは真に新しいものはできない。そうした執筆姿勢は、創造性のない工業であり、屍肉喰らいの行為に過ぎない

 純文学の分野ならこういうことを言う人はまあまあいるかもしれないが、ライトノベル作家がこれを言っている、という事実には、ちょっと感じ入るところがある。

 

 ところで、そろそろ本論がこのタイミングを最新作を取り上げた理由が明確になったのではないか。

 こういうことをいう作家が、流行ったからとセカイ系に手を出したりするか? という話なのだ。

 

 

上遠野浩平の執筆スタイル

 

 正直僕は、常に哲学めいた内容を書く上遠野浩平は頭が良いのだから、緻密にプロットや計算を行っているのだろうと思っていた。

 いや、ウトセラ・ムビョウが「自分も工業をやっている」と言うように、上遠野浩平ライトノベル読者が何を求めているかの計算ぐらいはしているだろう*7。しかし、そんな計算では真の名作は生まれないんだけどなあ、という思いがどうやらあるようなのだ。

 

 思っているだけでない。どうも上遠野浩平は、もともと計算して書くタイプの書き手ではないようだ。 小説家には、計算でプロットを練り上げて書くタイプと天性の勢いで書くタイプが居る、という話が経験的によく語られるが、それで言えば、上遠野浩平はどうやら天性の勢いで書くタイプの作家だ

 第1回で紹介した『小説家になるには』のインタビューでも、自身の書き方について、こんなことを言っていた。

――創作ノートは作りますか

上遠野:昔は作っていましたが、最近はほとんど作りません。せいぜい登場人物の名前を書き出しておくぐらいで。以前はプロットというかストーリーを書いて、矢印で次の展開を示したり分岐させていったりしたんだけど、あまり設計通りにならないんで。

――冒頭から書いていくんですか。

上遠野:頭からじゃないと書けないです。人によってはヤマ場から書くとか、ミステリだと解決するところから書いていって、それにあわせて事件を作っていくという人もあるようですが、私の場合は最初からでないと書けない。

  あるいは『ファウストvol5』に載っていた西尾維新との対談で、各作品にキャラクターが出て来るリンクについて「年表などがあるのか」との質問に答えて、こんなことも言っている。

上遠野:いや、それは作ってないですよ。作っちゃうとどうしても時系列が一列に並んじゃうので。

西尾:上遠野さんの作品は現時点で30作近くあって、しかもそれがすべてクロスオーバーしているから、僕なんかだと出てきたキャラクターを覚えきれないこともあります。

上遠野:作者にもわからないときがありますよ(笑)。でもあんまり意識してなくても大丈夫なんです。一つの作品のなかで、立ち位置がはっきりさえしてればいい。

(*引用者の判断で一部略あり)

 このように様々な部分で、実は上遠野浩平は――誤解を生む言い方だが他に言いようが思いつかない――その場のノリで書いている様子を見せる。作品としても例えば、雑誌連載だった『ビートのディシプリン』や『螺旋のエンペロイダー』は、文庫一冊で小説を発表した時とは物語構造や読書感が全然異なっている。

 

 

+やはり天才か……

 

 というわけで、上遠野浩平は世間のセカイ系ブームに流されるタイプの作家ではない。

 というか、たぶんそういうことの出来る人ではない

 

 上遠野浩平セカイ系とか評価されるのは、たまたまそういう時代が来たという、純粋に偶然の結果だ。上遠野浩平は特に狙ってなくても書く作品がセカイ系っぽくなってしまう作家であって、それは恐らく、上遠野浩平の天性と問題意識が、セカイ系と呼ばれた対象に向かい続けているからにすぎない。

 時代の寵児ではあっても、時代に迎合したわけではない、という訳だ。

 

 ……ところで、さっき小説家のタイプの話をしたが、計算して書くタイプの書き手は、しばしばこんな風に自分のスタイルを称する。聞いたことがないだろうか?  「中には勢いだけで書いても面白くなる天才作家もいると聞くが、自分は天才ではないので、しっかりして計算して書かないといけない」だとか。この手の主張は、小説執筆ハウツー本などにすらしばしば載る。なので僕のごときワナビ崩れは、計算して書くことこそが正しいのだとすら思いがちなのだが。

 翻って、今回の記事で、上遠野浩平は計算なしで書くタイプの作家だということになった。

 もしかしたら本論は、上遠野浩平は天才、という事実を図らずして証明したのではなかろうか? 

 

 ……。まあ、知っていたけどね。

 上遠野先生が天才ってことは読めばわかるし。

 

 次回は読めばわかる上遠野浩平の天才性へ、あえて分析的にアプローチする。

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:とはいえ初読者でも楽しめたとのレビューも見たので、先にあれ読めとか言うのは無粋というものなのだろう。上遠野浩平は、どの作品でも繋がりが判らなかろうが面白くなるよう努力している、としばしば釘を刺す発言をしている。

*2:https://www.hayakawabooks.com/n/n059f6430e6c2

*3:このキャラは上遠野世界観において珍しい、全く留保のない悪役だ。こんなにも明確に「悪」なのは、他にはフェイルセイフぐらいしかぱっと思いつかない。枢奇王などには悪は悪でもダークヒーロー的な一面があるのだが、ミナト・ローバイにはそれがない。

*4:本来別物のはずの市場主義と合理主義を一緒くたにしている、という点は、今後の上遠野読書において結構重要な気がする。が、今すぐどうこう言うことはできそうになかったので、補足に書いておく。

*5:そう豪語する交換人間が、唯一自分より上だと認めるのはオキシジェンだというのがまた、上遠野世界観におけるこのキャラクターの「悪」を端的に示している。オキシジェンというキャラクターが何なのか、についてもこの先機会を探して書きたい。

*6:というか、僕はそういうものが書かれていると読んだ

*7:螺旋のエンペロイダー』などは明らかに「なんか最近流行っている学園サバイバルモノ」を試しに書いてみた作品だろう。もっとも、上遠野浩平の天才性は物語を学園サバイバルとは完全に無関係な場所に着地させたが。