「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』)
上遠野浩平論の5記事目。ここからは第2章です。
第1章に位置付けた第1~4回では、上遠野浩平という作家の来歴を中心に見ることで、この作家が所謂「セカイ系」に属する作品を書いていること、それはブームを狙ったのではなく、むしろブームのほうが上遠野浩平の上を通り過ぎていったこと、上遠野浩平のセカイ系描写がまさに天才というべきものであることを確認した。
ここからはそんな上遠野浩平が一体どういう作品を書いているのか、上遠野浩平という作家にとって中心となる問題点・美意識は何なのかについて述べていく(いよいよ文学論っぽくなってきた)。
上遠野浩平の問題意識を探るのに、まず鍵となる概念は当然〈世界の敵〉だ。
ブギーポップが自動的に殺していく〈世界の敵〉とは何なのか。なぜ上遠野浩平は彼らをブギーポップに殺させるのか。それを検討すれば、この作家の中核となるポイントが見えてくると本論は考える。
+世界の敵とは何なのか~『歪曲王』における証言
さて〈世界の敵〉という問題に取り組むにあたり、開始地点とするのは、『歪曲王』のクライマックスだ。
- 作者: 上遠野浩平
- 出版社/メーカー: KADOKAWA / アスキー・メディアワークス
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既にたびたび引き合いに出したこの作品だが、なかでも歪曲王とブギーポップが直接対決するクライマックスは、シリーズでも5本の指に入る屈指の名シーンだ。その中で、ほかならぬブギーポップが、これまで戦った世界の敵たちについて解説を行っている。
……かつて、一人の少年が居た。その少年は、別にそれ自体では悪くもなんともない人間だった。だが彼は実は世界の敵だった。なぜなら彼には"生きること"というものにたいして本人も気づかぬ根深い憎悪があったからだ。それでもそのまま生きていたとしたら、あるいは何でもないまま、普通に生きていたかもしれない。だが彼は運命のいたずらで"人喰い"と出会ってしまって、自分のことをはっきりと知ってしまった。彼自身が"人を喰うもの"になってしまった。怪物の法は単に生存条件だったから人を殺していたが、彼のほうは理由らしい理由もなく、ただただ殺し続けた。彼には終点という発想がなかった。もし今でも生きていたとしたら、彼は完全にとりかえしのつかないものを探し出して、世界を破壊していただろう。
……そして、一人の少女がいた。彼女は人の死を見ることがことができた。それ自体ではなんでもない能力だった。医療関係や危機管理などの方面に進めば、役に立てることができる能力だったかもしれない。しかし彼女はその"死"を絶対的な物だと考えてしまった。人から"死"を取り出して寄せ集めて、何か巨大なものが創れるという考えにとりつかれてしまった。それが人という限界を"突破"することだと思ってしまった。素晴らしいものに近づけるなら、生きている必要などない、という立場に立ってしまい、そして世界の敵になってしまった。"死"を全く恐れないように人の心を作り変えてしまおう、とまで思うようになってしまった。
……どちらも僕の敵になってしまった者たちだ。彼らには、残念ながらそれ以外の道というものはなかった。ぼくとしては彼らがそれ以上進まないように"遮断"する以外なかった。
まず注目すべきなのは『笑わない』における〈世界の敵〉は、マンティコアではなく早乙女正美であった、という点だろう。人食いの化け物がそこにいること自体はどうでもよくて、ブギーさんの言うところの"人を食うもの"が問題だった、らしい。ただ、それはつまり行動の方向性の話ということだろうか。将来的にきっと世界に破滅をもたらした、という彼の精神性が問題だったのか。これだけでは判然としない。
また、ブギーポップは、水乃星透子がなぜ〈世界の敵〉だったのかについても言及している。どうも、単に”死が見えて触れる少女”というだけなら〈世界の敵〉ではないという話らしい。しかし、死のエネルギーを束ねて”突破”を目指したので、世界の敵認定を受けてしまったようだった。
なお、当の『歪曲王』のストーリーで〈世界の敵〉認定を受けていたのは、ゾーラギという大怪獣だったようである*1。想像上の存在だが、歪曲王の能力制御失敗で生まれかけており、もし本当に具現化していたら、まさしく世界が物理的に壊滅したであろう*2。
それにしても、こうして並べてるとなかなかに豊富なラインナップだ。
- なんだかちょっと頭のおかしいサイコパス。
- 超能力で何か変なことをしようとした少女。
- 物理的にただただ強い大怪獣。
ちょっとバラエティに富み過ぎてすらいる。
これら全てに適応できる〈世界の敵〉の定義とはいったいなんなのだろうか?
+〈世界の敵〉とは?への明快な答え~『夜明けのブギーポップ』
……まあ、答えは作品の中で割と明示的に示されているのである*3。僕含め上遠野ファンはわりと世界の敵の定義という話題で脳内が(直接上遠野浩平の話ができることは少ないので)盛り上がっちゃうのだが、実はあんまり議論の余地はなかったりする。
答えが示されているのは、シリーズ最終巻(仮)だった『歪曲王』の直後に出版された、『夜明けのブギーポップ』においてだ。
- 作者: 上遠野浩平
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本作は、ブギーポップがブギーポップになった時期の物語、いわばブギーポップのビギニングものである。なのでストーリーの随所で、不気味な泡(ブギーポップ)というネーミングの由来だとか、ブギーポップが黒い筒みたいな衣装を着てる理由だとか、ニュルンベルグのマイスタージンガーを流す理由だとかが語られている。*4
で、その一貫で、ブギーポップ自身が「自分が殺す〈世界の敵〉とはどういう存在か」をハッキリ語っているのだ。それは、宮下藤花が二重人格の患者として精神科医に連れられてきたシーンのことだ。
「しかし、使命のほうは分かっている。世界の危機を回避しなくてはならないんだ」
「へえ? 世界に危険がせまっているわけね?」
「そうらしいね。世界の敵がこのへんにあらわれている。このままでは世界は滅びる。迷惑をかけている宮下藤花本人や、その母親には悪いが、ぼくにはどうしようもなくてね」
「スケールが大きいわねえ」
「もっと正確に言うと、すべての人間はみな世界の敵たりうる可能性を秘めているんだ。人間というのは起爆剤のようなもので、ちょっとしたきっかけですぐに破裂する。そして後先考えずに世界を軋ませていく——ぼくは言うなれば、そういう者の天敵みたいなものか」
*注:引用者による一部省略アリ
僭越ながら僕が一言でまとめさせてもらおう。
〈世界の敵〉とは、なんか放っておいたら世界を滅ぼしてしまうやつのことである。
身も蓋もないが、書いてあることをそのまま読めばそうなる。"破裂"して世界の敵になってしまった人間は、"このままでは世界を滅ぼして"しまう。
問題は、ここで言う「世界を滅ぼす」とはどういう状態を指すのか、ということであるが。これは恐らく、観念的な意味とか例えではなく、ガチで世界が滅びることであろう。上遠野サーガにおける未来では必ずそれが起きることを、我々は知っている。虚空シリーズや奇跡使いのセカイが、ここでいう「世界が滅んだ」状態のはずだ。上遠野浩平は、「世界の滅び」についてかなり直接的な破滅を想定しているはずである(この点については本記事の中でまた改めて述べる)。
ブギーポップ曰く、〈世界の敵〉は、後先を考えずに、そういうガチの滅びへ向かってしまう。
例として最も判りやすいキャラクターは、まさに『夜明けのブギーポップ』に登場する敵、来栖真紀子=フィア・グールであろう。フィア・グールは自分自身の性質を分析するなかで、「もし自分に"世界の弱点"が判るようになったら、それを突かずにいられるだろうか?」を考察している。そして「まちがいなく突くであろう」とハッキリ述べている。放っておいたら、彼女はきっとそのレベルに達していたに違いない。だからブギーポップが殺す必要があったのだ。
上で挙げた、早乙女正美、水乃星透子、ゾーラギが持っていた共通点も、まさに「放っておいたらヤバかった」という一点にある。逆に言えば、ブギーポップは「放っておいても大丈夫なヤツ」のことは普通に見逃す。
本論の文学論としての趣旨から離れて、能力バトル設定的な話をすると、ブギーポップの最大の能力はそういう「危機かどうかの見極め」にあるのだろう。『オルフェの箱舟』の戦闘シーンにおいて、ワンホットリミットは、ブギーポップに攻撃しようとしても直前でそれを察知・対処される、と分析した。恐らくブギーポップは、直接戦闘だけでなく、〈世界の敵〉の感知という仕事にもこの危機察知能力を使っている。
+水乃星透子の誤解~『VSイマジネーター』
さて、これで〈世界の敵〉が「放っとくとなんか世界を滅ぼしちゃうヤツ」であることが判明した。
でもなんというか、本当にそうなのか? という気分が拭えないことはないだろうか。
実は、僕自身そうである。 いろいろ考えたのだが、恐らくこの違和感の原因は、作品内に「ブギーポップが殺す相手がどういう奴か」を誤解しているキャラクターがいるからだろう。
それは『VSイマジネーター』に登場する水乃星透子だ。
ブギーポップ・リターンズ VSイマジネーターPart2 (電撃文庫)
- 作者: 上遠野浩平
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『VSイマジネーター』は、基本的に谷口くんと織畑さんのボーイミーツガール、飛鳥井仁先生の人類補完計画、スプーキーEの統和機工悪だくみ、の3つのラインで構成された物語だ。しかし一方でこれは、上遠野ファンにとって貴重な「水乃星透子がガッツリ出てくる話」でもある。
水乃星透子=イマジネーターは、上遠野浩平が〈世界の敵〉というテーマに最も熱心に取り組んでいた時期に登場した大物キャラだ。しかも、ブギーポップの宿敵とされている。なので、実は彼女の存在にこそ〈世界の敵〉という概念に込められたテーマ性が、真正面から現れている。
水乃星透子がブギーポップに関する評価を下すシーン。part2冒頭の、ブギーポップに追い詰められているときの発言を確認してみよう。
「残念だわまったく——」
「結局あなたも"今"にとどまるだけの存在なのね……本当に残念なことだわ」
「しかし、あなたがいくら待ったところで、いっこうに何ひとつはじまることはないと思うわよ。そのうちにあなたは、その名前の通り世界にむなしく浮いては消えるだけの、ただの泡ということになるんだわ」
このあと彼女は、ブギーポップによって「イマジネーター」という名を与えられ、敢えて自殺することで、”本当に地面に落ちるまでの間"だけ存在する精神体として、ブギーポップにも手出しできない存在と化した。
このシーンは、物語のプロローグ部分にあたり、それにふさわしい思わせぶりかつ期待を煽る描写となっている。そのため、『VSイマジネーター』だけを読んでいる段階では、例によって単なる難しいセリフとして流してしまいそうになる。
しかし、上の『夜明けのブギーポップ』の検討で判明した〈世界の敵〉の定義を踏まえると、彼女はどうもおかしなことを言っている。
水乃星透子は自分のことを"今"の反対、イコール"未来"だと評しているのである。
つまり、自分が世界を滅ぼすなんてことは微塵も思っていない。
彼女が目指した「突破」が何だったのかは、今に至っても明らかではないが、水乃星透子はそれを”良いこと”だと確信しているようだ。 しかしブギーポップが反応している以上「突破」は、明確に世界を滅ぼす行為であるはずだ。恐らく、早乙女正美が核兵器のボタンを押すとか、ゾーラギが街をぶっ壊すとか、それと同等程度に明確な滅びがもたらされる事態のはずなのである。
ブギーポップと水乃星透子の見解が、正反対になっている。これは単なる立場の違いなのだろうか?
念のため述べておくと、二人のうちいずれが正しいかを決めることは、基本的にできない。上遠野浩平がいつか「やっぱりブギーポップは変化を潰しただけの悪で最後には滅びるんだよね」とかやってくる可能性はゼロではない。しかし、本論では敢えて、ブギーポップがやはり正しいのだと、メタ読みしてしまおう。なんといってもブギーポップは変身ヒーローで、正義の味方なのだから。
するとどうなるか? 先に引用したシーンは、水乃星透子がブギーポップを不当に非難している負け惜しみの場面ということになる。
ちょっとヒーロー物のお約束シーンを想像してみよう。ロボット探偵か何かが、悪のマッドサイエンティストを追い詰める。マッドサイエンティストはロボット探偵を「人類の未来のために私の研究は必要なのにそれがなぜわからん」とか唾を散らして罵る。それで緑色の薬品を自分に打って怪人に変身したりする――。
水乃星透子があんまり超然としているので、僕自身この記事を書き始めるまで思いもよっていなかったが。実は水乃星透子がイマジネーターになるあの墜落シーンは、そういう風に読むことが可能だ。
+統和機構の仲間と誤解されがちなブギーポップ
『VSイマジネーターpart2』における、水乃星透子のブギーポップ評は単なる負け惜しみに過ぎない。この読みには、他の描写からも有力な傍証を得ることができる。
先の引用をもう一度思い出そう。水乃星透子は「ブギーポップは所詮"今"に属す存在であるから、未来である私を殺そうとしている」と、述べている。
それをやっているのは、統和機構であって、ブギーポップではない。
ブギーポップは"現在"を守っている、というのは、しばしば我々読者も陥ってしまっている誤解だ。さっき〈世界の敵〉の定義を確認したときに感じた違和感も恐らくその誤解が原因で、ここで水乃星透子が言っていることを、真実だと考えていたからだと思われる。『VSイマジネーターpart2』は、『夜明けのブギーポップ』はより約1年前に先に出版されている。先に聞いた話をなんとなく信じてしまうのは、無理からぬこと。*5
その誤解をここで正してしまおう。
上で確認したように、ブギーポップが対処する〈世界の敵〉とは、ガチの滅びをもたらす存在である。この「ガチの滅び」は「世界がいまとは全く別のセカイになってしまうことを便宜上〈世界の危機〉と呼んでいる」みたいな問題ではないという意味に受け取らなければ筋が通らなくなる。
ブギーポップは、統和機構であれば間違いなく排除したであろう影響力の大きなMPLSや周辺状況を頻繁に見逃す。例えば、ノトーリアスI.C.E.やエンブリオがそうだし、世界に激変を与えたかもしれないピートビートのカーメンの旅や、ジンクスショップの活動に介入することはなかった。あるいは逆に、統和機構であれば"危険な道具"としか判断しなかったであろうロックボトムを〈世界の敵〉認定したりもする。
〈世界の敵〉と統和機構の敵が同じでないでないことは、ブギーポップの行動を通してだけでなく、もっと直接的な描写としても明示されている。例えば、『夜明けのブギーポップ』における霧間誠一と水乃星透子が会話するシーンでもそれは示される。
「——おじさん、なんなの」
「実はすごい大物なのさ。こう見えても私は社会の敵ナンバーワンなんだよ」
社会の敵という表現は、明らかに〈世界の敵〉との対比であろう。
この対比は「社会の敵は〈世界の敵〉とはまた違う存在ですよ」ということを示すための表現だ。実際、社会の敵たる霧間誠一を殺すのは、ブギーポップではなく統和機構である。
水乃星透子は、自分もまた霧間誠一のように〈社会の敵〉として殺されるのだと誤解していた。だからブギーポップを社会の傀儡と見做し、所詮現在に属する存在だったと非難した。しかしそれこそが誤解の元だったのだ。水乃星透子は、自分が霧間誠一よりもずっとタチの悪い存在になっていることに、全く気付いていなかった。いや、もしかしたら、自動的な存在でもあった*6彼女には、自分が世界を滅ぼすことなんてそもそも思い至ることすら不可能だったのだろうか。
いずれにしても、ブギーポップは、水乃星透子の誤解をわざわざ正すような真似はしなかった。死神は一旦敵と見做した相手に慈悲などみせない*7。水乃星透子は誤解を抱えたまま、即ち、自分が放っといたら世界を滅ぼしたであろうことなど全く知ることなく死んだ。
+霧間誠一の警句に込められた意図
そして、この水乃星透子の誤解と死を踏まえて、もう一度『VSイマジネーター』を通して読むと、当初は読み飛ばがちだった箇所が、ハッキリした文学的テーマ性を主張しだす。
各章冒頭に引用(?)されている、霧間誠一の警句に注目しよう。なかでも最もわかりやすく上遠野浩平の意図したテーマが表れてくるのが、part1の冒頭付近で出てくるこれ。
もしも君が善良たろうとするならば、未来などには関わらぬことだ。それはほとんどの場合、歪んだ方向にしか向いていない。
霧間誠一(VSイマジネーター)
水乃星透子がpart2の冒頭でブギーポップを「今」と罵るのを踏まえると、非常に示唆的である。水乃星透子が誤ってしまったのは、彼女が「未来」を目指したからだったのだ。
霧間誠一は似たようなことを次々に述べる。
可能性、もしくは想像力と我々が呼んでいるもののうち99%までは偽物で、本物は残る1%に過ぎない。しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ。
霧間誠一(VSイマジネーター)
自分の仕事を疑うのはよしたまえ。たとえどんなに意味不明で甲斐のない仕事に見えても、実際にその通りだという事実に直面するよりマシだ。
霧間誠一(VSイマジネーター)
新しい可能性は、ときに自分に似たものすべてを食い尽くし……挙句に自滅する。
霧間誠一(VSイマジネーター)
自分は正しいか、と自問するより、自分のどこが間違っているかと考えるほうがずっと事実に近いはずだ。ほとんどの人間はいつでも正しいことはできていない。
霧間誠一(VSイマジネーター)
総じて、霧間誠一は「何かをやろうとすると失敗するぞ」「可能性は良いことなんてほぼ起こさないぞ」「正しいと思ったことをやってるなら騙されてるぞ」という意味のことをずっと述べている。悲観主義も極まれり。およそ未来には希望などない。
本論は、上遠野浩平が描こうとしているテーマとは、まさにこれだと考える。
〈世界の敵〉というのは、「未来に向かおうとして失敗した者たち」である。
上遠野世界において、ヒトの持つ可能性は限りなく大きい。
上遠野浩平は、どの作品でも「可能性」や「未来」といった言葉にこだわる。上遠野浩平はヒトの可能性をほとんど無限だと考えている。あんまりにもヒトの可能性が大きすぎるので、ちょっと刺激を与えられた程度でMPLSなんてものがぽこぽこ出てくる*8し、独力で世界を破滅させなかねない規模の可能性を持つ者もごろごろいる。
しかし一方で、霧間誠一がさんざん述べているように、可能性を実現しようとすることは、致命的な失敗に至ることとほぼ同義である。その点において、上遠野浩平は極めて悲観的だ。誰もが可能性を持っていることは、誰もが必ず失敗することに等しい。しかもそれが失敗に至ったとき衝撃の大きさは、可能性の大きさに比例する。実際、小説の盛り上がりという制約を差し引いて考える必要があるにせよ、上遠野世界において何かを目指した人がそれを成し遂げることは殆どない。
上遠野浩平は、人間の可能性と未来について、無限の希望と底抜けの悲観を同時に抱いている。
その表れたるモチーフが〈世界の敵〉なのだ。
もっと言えば、これは他人事の失敗の話ではない。〈世界の敵〉というモチーフを通して上遠野浩平が表現しようとしているのは、「未来に向かおうとして失敗する僕たち」である。誰にでも可能性があることは、誰でも〈世界の敵〉に成り得るということ。何か自分なりの夢をかなえようと努力している中高生の僕たちは、失敗して〈世界の敵〉と化そうとしている途中なのだ。
それを認識してなお、僕たちには、なおも前に進もうとする勇気があっただろうか? 本当はもっと大きな夢があったけど、安定志向のためだけに大学受験を目指したりしなかったか? 僕同様に上遠野浩平のようになりたくてラノベ賞に投稿などしていた諸君、皆様の失敗の最大要因は、実は夢を目指したこと自体だったのです。
ここで少し〈世界の敵〉という本論のテーマからずれて、補足をしておく。我々は、将来の失敗が前提されているのを実は霧間誠一に言われるまでもなく知っている。しかし、失敗が怖いけど前に進まなければならない、という状態になるときがある。そんなときに付け込んでくる存在が「イマジネーター」である。イマジネーターとは、自身の正しさを担保してくれる存在である。自分は正しい方向に進んでいるという確信を、宗教のように与えてくれる*9。イマジネーターによって自身の正しさを得た人間は、飛鳥井仁のように、本来は出来ないような非道を確信をもって成してしまう。
人間の生涯に何らかの価値があるとするならば、それはその何者かと戦うことにしかない。自分の代わりに物事を考えてくれるイマジネーターと対決するVSイマジネーター——それこそが人々がまず最初に立たねばならない位置だろう。
私たちはイマジネーターに頼ってはならない。自信が間違っているとかもしれないという不安を抱えたまま、あくまでの己の意思で前に進まなくてはならない。その為に、前に進むかどうかを決断するよりも先に、まずイマジネーターと対決しないといけない。
+〈世界の敵〉が死ぬ「その人間が最も美しい瞬間」
こうして〈世界の敵〉が敵なのは、彼らが「未来に向かおううとした失敗」だからだという事が明らかとなった。
上遠野浩平は、初期ブギーポップにおいて、こういう「将来の可能性なんてものを本気で目指すと碌なことにならねーぞ」という話をわりと繰り返している。我々は、90年代のバブル崩壊前後まで、若さって素晴らしいとか、夢を実現しようだとか、そういうメッセージを受け取り続けてきたのであるが、上遠野世界が〈世界の敵〉に託しているのは、その手の希望のメッセージに対するアンチテーゼであろう。青春という輝かしいはずの時代にラノベなどに嵌っていた僕たちは、このメッセージに強い衝撃を受け、また共感した訳である。
しかし、改めて絶望的なメッセージだ。ブギーポップは決して明るい雰囲気の小説でないことは一読して分るが、こうして言語化してみると、未来は必ず失敗すると思っているとか、本当に暗いとしか言いようがない。
では、この絶望的なセカイに、救いはどこにもないのか?
救いはある。それこそが僕らのヒーロー、死神ブギーポップだ。
死神とも呼ばれている。ある人間がどうしようもなく汚れてしまう、その寸前に現れて、それ以上醜くなる前に、人生でもっとも美しいその瞬間に、ブギーポップはそいつを殺してしまうのだ、と言われている……。
ブギーポップは「その人間が最も美しい瞬間」に人を殺す。
そして、殺す対象は「〈世界の敵〉=未来に向かおうとして失敗した者」である。
では「未来に向かおうとして失敗した者」が「最も美しい瞬間」とは、何時なのか?
それは、未来の可能性が現実となる直前のことだろう。
上遠野浩平は、ヒトの無限の可能性を信じている。それ故、上遠野浩平は夢を目指す者たちの美しさもまた知っている。〈世界の敵〉になってしまった彼らは、たとえ将来の失敗を約束されているとしても、やはり美しい存在なのだ。上遠野浩平の筆致からは、〈世界の敵〉になることのできる存在への、一種の憧れすら読み取ることができる。〈世界の敵〉となったキャラクターたちは常に、強く、賢く、決断力に満ちている*10。そこらの善良な一般人よりもずっと生命力に溢れ、輝いている。
ブギーポップは、そんな彼らを殺すのだ。夢に向かって邁進していた若者が、自らの致命的失敗を知るよりも前の状態。無限の可能性が、まだ希望に満ちた未来に見えている、希望が絶望に変化するギリギリの瞬間。ブギーポップはその時にやってくる。
そうして殺される〈世界の敵〉たちは、ブギーポップが来なかった場合に自分が何をしたのか、悲劇的結末を知ることは決してない。全ての終わりはブギーポップがもたらすのであり、彼ら自身が間違っていたことは最後まで露呈することがない。ブギーポップは決して、その死の原因を相手の失敗に起したりしない。水野星透子にそうしたように、ただ容赦なく殺す。
ブギーポップが殺してくれるのは、自身の致命的な失敗なのである。
まさにセカイ系ヒーローにふさわしい。受験に失敗して自殺を考える類の中高生にとっての理想の死神だ。自分の頑張りが無駄だったと判る前に、サッと人生のほうを終わりにしてくれる。それが上遠野浩平が作り出した、ブギーポップという理想のセカイ系ヒーローなのだ。
しかも、ブギーポップは、しばしば何か絶望して自殺しようとしてる中高生の元に現れては、「君に今回起きたようなことは、到底僕が殺すほどの致命的失敗とはいえないな。君はぜんぜん本当の絶望なんか経験してないな」とか言って自殺を辞めさせたりするのである。
そういう意味でも理想のセカイ系ヒーローであると言えよう。
+〈世界の敵〉という希望と絶望、そしてその先
という訳で、以上が〈世界の敵〉とは何か、という問題に対する本論なりの決着である。
〈世界の敵〉とは、上遠野浩平の持つ「ヒトの持つ無限の可能性への期待」と「可能性の破綻に関する悲観的見解」という、二つの認識が結実した場所に生まれたモチーフである。
我々は誰でも〈世界の敵〉たりえるパワーを持つ。それ故に、〈世界の敵〉として世界を滅ぼしかねない。この希望と絶望の相克が、『ブギーポップ』というシリーズに通底している基本原理と言えるであろう。
そしてブギーポップというヒーローがやっているのは、この相克に一つの強制的な結末を齎すことである。結末をもたらすのが役割なのだから、それはデウスエクスマキナにもなる。
最後にもう一点補足がある。上遠野浩平は、可能性が必ず失敗する、という悲観主義に「失敗する前の死」という形で答えた。しかし、これはいわば悲観主義の上塗りであって、本論がたどり着いた希望と絶望の相克、という認識からすれば不十分。コインの裏側のみの答えに過ぎない。
上遠野浩平は、コインの表側、希望を信じる者としての答えも持っている。『夜明けのブギーポップ』の中で、作者の分身たる霧間誠一は、こう言った。
「しかし、その意志だけは残る。たとえそれがどんなに悪いことにしか見えなくても、何かをしようとしたこと、それに向かおうとした真剣な気持ち、そういうものは必ず他の者たちの中に残る。その者たちだって結局は途中かもしれない。だがそのときは、さらにその次に伝わる。そして——誰にわかる? その中の誰かは本当に世界の中心にたどり着くかもしれない……」
上遠野浩平は、ほとんどの可能性は必ず失敗に至るするという悲観主義の一方で、それでもほんの僅かな何かがあらゆる障害を乗り越えて、真の意味での成功に至るかもしれないという、その希望を決して捨てていない。
この最後の一線が、上遠野浩平の描く悲観的な物語世界において、しばしば大きな感動と共感を巻き起こすのである。
次回の第6回は、今回の補足とする。
何人かのキャラクターを中心に、いくつかの作品を個別に取り上げ、上遠野浩平が絶望と希望の相克をどのように表現してきたか、より詳細に検討していくことにしよう。これについては、語りたいことがいくらでもあるからね。
*1:歪曲王自身ではなかった、というのがミソで、「なぜそんなに自分を悪いと思うのか?」から始まるブギーさんの説教はシリーズでもナンバーワンの名文だと思う。歪曲王についてはじきに別記事で取り上げる。
*2:それか、ゾーラギが出てきてもフォルティッシモやリセット・リミット姉妹なら倒せたのだろうか?
*3:本論を書くために原典にしっかり当たったら書いてありました。読まずに議論とかしちゃだめだよね。僕も本論を書いている間ぐらいは気を付けたいが、ここまでの連載で既に一部怪しかったりする。
*4:ちなみに今回のアニメ化に際し、コミカライズがあるらしい。非常に楽しみ。
*5:というか、自分以外にもそう信じていたファンは多いと思いたい。
*6:イマジネーター水乃星透子は、ブギー先輩によれば「僕のように分裂はしてなかったがそれでも自動的な存在であったことに違いはない」存在だったらしい。自動的な存在であるというのは、たぶん「目標に対して常に最適解を出す」みたいな事を意味すると思うのだけど、それが上遠野浩平の中で何を意味するのかはよく分からない。後の課題にしたいと思います。
*7:『オルフェの箱舟』で成される「ブギーポップの例の左右非対称な表情は、全ての感情を含んでいるが、唯一そこから慈悲だけが欠けている」みたいな説明がすごく好きです。最近のブギーポップ読んでない人多いと思うけど、やっぱり面白いですよ。
*8:最近の作品では、ウトセラ・ムビョウが、自分が作っている合成人間製造薬はプラシーボ効果の偽薬にすぎないとか言い出している。
*9:上遠野浩平がこのことを意識していたのは、90年代当時に起きたオウム・法の華・統一教会といった一連の新興宗教ブームおよび事件と無縁ではあるまい。
*10:上遠野世界において「決断力」はもっとも根源的なパワーの一つだ。