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ガキ使批判記事に見られた「人権」概念の変容

 今回は「人権」について書きます。

 なぜ人権について書くかというと、ハフィントンポスト記事の話題をTwitterで読んだからです。

 この件について、ハフィントンポストは批判されています。最も頷けた批判は、「エディ・マーフィーの真似をすることは、黒人を戯画化することとは違うだろ」というもので、僕もその批判に賛同するところです*1

 しかし、批判している皆さんは、自分が批判しているものについて、本当に理解しているのでしょうか? 「そもそも人権とはなにか?」ということを考えなければ、この記事から生まれる謎の不快感の正体を捉えることはできないと思う。

 この「人権」という一見批判しようもないように見える概念は、もともとかなり特殊で、不安定さを孕んだ思想です。しかも21世紀までに起きた社会情勢の変化は、もともとの不安定さを、潜在的な危うさと言えるレベルまで膨らませています。日本人は「人権」をあまりにも素朴に扱っていて、その特殊性や危険性に無自覚ですが。しかし、我々の目の前に今回のような批判されるべき記事が出てくるのも、そうした危うさ、最近の社会情勢や思想の変化をバックグラウンドとしているのです。

 ここでは僕の察知した「人権」についての事実を書いていきます。

 

+「権利」とは所有権のこと。所有権は常に侵害しあう。

ジェロニモの似顔絵イラスト

 人権について考える前に、「権利」についてはっきりさせておきましょう。

 権利という考え方は恐らく、そもそも所有権を考える上で生まれてきたものです*2

 しかも、特に土地所有権に関する問題が権利という概念を生み出しました。「我々が耕した畑であるからこの農作物は我々のものである」「先祖代々の土地であるから私が受け継ぐのである」。そういう一種素朴な観念が権利の始まりだったはずです。

 土地っていうのは、畑とイコールだから、それを占有できるかはまさに生きるか死ぬかの問題だった。ここで重要なのは、ある土地の所有権を主張するということは、他者がその土地を所有する権利を認めないことだ、という点です。土地境界線を確定したら、その線を侵犯することは何者にも許されない。

 権利が主張されるのは常にその土地を侵害する侵略者が現れたときです。そして、縄張り争いは闘争の起源です。古来より、戦争の多くは土地所有権をめぐって行われた。権利という考え方には、最初から「その土地を守るためなら戦う」という、闘争の論理が刻み込まれています。

 権利が持つのは闘争の論理であって、善とか優しさの論理ではないということです。法が権利を定めるのは、闘争を調停するためであって、みんな仲良くしたいからではありません。権利に厳しい文化を持つアメリカ人やイギリス人はこのことに非常に自覚的であって、よく知られる彼らはSorryと滅多に言わないという話も、権利を譲ることが、占有をあきらめ不利益を受けることに繋がると考えているからです。

 そして、平和の原理だと思われている「人権」もまた、例外ではなく、闘争を基本としているのです。僕がこのブログ記事で言っていくのも、最終的にはそれが全部です。

 

+架空の権利としての「人権」

イマジナリーフレンドのイラスト

 歴史において、権利は常に闘争と共にありました。

 例えば民主政治で数百年の平和を築いた共和制ローマですが、彼らは平民の参政権とか、貴族・大富豪から権利をぶんどって平民の小作農に配るとか、現代の左派政策に通じることをちゃんとやっていました。しかしそれらの平民の権利は全て、元老院と平民会の争いによって、平民が勝ち取ったものです。ローマ人は、善を知っていたのではなく、単に多数派が勝ったとか合理性が勝ったとか、それだけのこと。権利のために闘争し、勝ったから権利があるという。人類はずっとそれ一本でやってきました。

 

 それがひっくり返ったのがフランス革命の人権宣言です。これは本当に、いい意味でも悪い意味でも革命的なもので。なにしろ勝ったからではなく、人間であるから権利を認めるという。

 同時代でも、これがイギリスの権利章典だったら、それは「先祖代来受けついできたかつての良き法を取り戻す」という趣旨です。王が持っていたと言っているものも、遡れば臣民のものだったことがあるという、歴史と証拠に基づいた、ある意味では通常の権利闘争でした。

 フランス革命は、そういう歴史性を「権利」から意図的に切り離した。祖先が何をやっただとか、今までどういう戦いに参加しただとか、過去の行いが善人か犯罪者かとか、そういうことは「人権」では考慮されないフランス革命に参加しなかった人たちも権利があることにした、という言い方なら、この革新性が伝わるでしょうか。ただ人間でさえあれば、幸福を追求する権利が認められるのです。

 

 例えるなら、権利闘争に於ける徳政令なんですね。いきなり全員借金ゼロ!みたいな。フランス革命における歴史性排除は、今日でも、基本的人権のおおもとの考え方になっています。

 

 しかしここで注意を促したいのは、歴史を持たない人間など存在しないし、人間は歴史を考慮するものである、という点です。人間の感情は、当然のことながら、善人と犯罪者を区別するようにできています。「犯罪者であっても権利を認める」などという思想は、実に理性的であり理想的な反面、機械的で非人間的なものです人権派弁護士とかいうと、優しくて人間性を重視しそうに感じますが、意外にも彼が信じるのは原理原則であり人間性ではない。彼らはある意味で人間のことは見ていないのです*3

 よく知られるように、貧民を救うために世界で幾度か行われた徳政令は、大抵別の問題を伴いました。歴史性を無いものと見做し、広範な人類全体を救おうとした「人権」も同様に、大きな問題を孕むことになったのです。それは、現実の人間に即してない、ある意味で架空の原則であるということ。この問題は大抵の場合無視されますが、問題を無視しきれなくなる場合もしばしばあります。その最たるものが、人権侵害について論じる場面です。

 

+みんなが無自覚な「差別反対」の本質

人種差別のイラスト(黒人)

 さて、人権が問題になるのは、しばしば「差別」――とりわけ「人種差別」においてです。冒頭のハフィントンポスト記事も、人種差別を取り上げたものでした。

 しかし上で述べてきたことを踏まえると、人権の名のもとに人種差別撤廃する、という論理が、実は結構過激な主張であることがわかります。あらゆる権利は闘争にもとづき、他者の権利と対立するものであることを思い出してください。ある権利を認めるということは、他者にある権利を認めないこと、認めないという論理のもとに闘争すること。人権もまた、何か別の権利と闘争することで成り立っている。

 では人種差別闘争はどんな権利を闘争し、侵害しているか?

 それは「他人を自由に嫌う権利」です。

 よく考えたら、これは相当に冒険的な闘争です。他人の自由な感情を侵害しようというのです。うちの妻に「お前が人参を嫌いであることは間違いだ」とか言ったとしたら、相当機嫌が悪くなること間違い無し。それは人参でも黒人でも韓国人でも同じことでしょう。

 

 っていうか、そもそも思想信条の自由こそ、本来は人権が保証しているのではないでしょうか? にも関わらず、なぜ人種差別では感情の制限が認められるのか?

 それは、本来、人種差別の議論で問題になったのは「誰かが嫌われていること」ではないからです。例えば黒人差別では、黒人嫌いという感情が白人の親から子に受け継がれること、受け継いた白人の子が政府高官や企業社長を占めることが問題となります。そして、その政府や企業が黒人職員を採用しなかったり、白人と黒人の学校を分けたり、警察の対応を不平等にしたりした、という事実が問題でした。

 つまり、嫌っているという思想信条を禁止したのではない。その思想信条にもとに政府の政策が不公平になっていることを批判したのが、人種差別反対運動です

 これは”人権””のもつ歴史性を排除する考え方と完全に合致します。例えば警察の扱いの件には「実際黒人のほうが犯罪者が多いから仕方ない」という現場の反対はありました。しかし、人権とはそういう事実は考慮しない思想なのです。過去の黒人犯罪者がいくら多かろうが、人間は平等に扱わねばならないのです。

 人種差別するなっていうのは、別に黒人や韓国人が嫌いでもいいのです。

 ただ、採用試験のときに不平等な扱いをしないのなら、それでいい。

 しかしここで人権概念の架空性が問題となってきます

 

+感情を制限しているわけじゃない、はずだったが

ヘイトスピーチのイラスト学生運動のイラスト

 人権は架空性を持つ思想です。現実の人間とは乖離しています。

 ですから、人権思想にもとづいて内心の自由を制限しないけど公平な扱いをしますよ、とか言っても、そんなことは人間には不可能なのです。人間は本質的に歴史性を持つ動物であり、それを排除することはできません。

 黒人が嫌いな人に、黒人を平等に扱えと言っても、それを完全に履行するのは無理です。必ずどっかで何か不平等な扱いをします。これは、差別する側だけでなく差別される側にしてももそうで、「嫌われてるけど公平な扱いを受けている」なんて信じることのできる人間はいなかったのです。ですから、黒人を真の意味で社会が平等に扱うには、黒人を嫌いでいることを禁止するしかなかった。人種差別の議論は、参政権や教育機会の是正という公的要素の是正が済んだあたりから、徐々に感情の制限を求めるようになっていきました。

 

 この矛盾が、とりわけ強く噴出した問題こそ、最近日本でも議論が盛んになってきたヘイトスピーチ問題でした。

 ヘイトスピーチが問題となったのは、さる白人犯罪者の法廷報道からです。この白人犯罪者はとっても黒人嫌いでした。ですから、法廷を出たマスコミのカメラの前で、裁判や犯罪とは全く関係がなく、黒人はクソだという内容を叫び続けました。

 従来の人権概念からすれば、彼の発言や内心の自由は、彼が犯罪者であることや差別主義者であることとは何の関係もなく、人権のもと保護されているはずです。しかし彼は本当に黒人を罵っただけだった。「この発言の自由を守る必要が本当にあるのか?」みんながそう思いました。こうしてヘイトスピーチ=公共のもとで差別的な感情を吐露する自由は、制限されることとなった

 今でも、ヘイトスピーチ規制の議論では「本当に自由な発言や感情を制限していいのか?」という疑問が頻繁に呈されています。しかし、大抵は退けられます。なぜなら事実として傷ついている人がおり、事実としてヘイトスピーチは公的利益になっておらず、事実は"人権"などという架空の原理原則より重いからです

 

 ヘイトスピーチ問題は、だいたいが規制の是非としてしか語られません。しかしこれは思想的に見てそうとう革新的なことです。21世紀現在、人権概念は再び歴史性と人間性を取り戻しました。今や、かつてフランス革命が想定していたようなやり方で、機械的に全ての人権を保護することは許されないのです。”人権”は架空性という蛹から脱皮しようとしている。

 しかしそのことは、人権概念に大きな歪みを産んでいます

 冒頭のハフィントンポストの記事に現れているのは、その歪みなのです。

 

+人権侵害とは「社会的弱者を不快にすること」なのか

部下を怒鳴りつけている上司のイラスト

 ヘイトスピーチ規制の流れに見られるように、20世紀後半から21世紀にかけて、人権概念は「他者の感情を思いやること」を重視するようになりました。いわば人権概念は、人を愛することを思い出した*4。それは良いことのようにも思えます。

 しかし、思い出してください。そもそも権利とは闘争の原理であり、人権も例外ではありません。人権を侵害するものは、攻撃されなければならないのです。その人権が「愛」によって――言い換えれば「主観的感情」によって判断するようになった

 これは下手をすると主観的な感情によって闘争が起こることを意味します

 上記のハフィントンポストの記事がやっていることこそ、まさにそれです。

多くの日本人は「そんな過去は知らない」「そんなつもりは無い」と言うでしょう。

しかし、例えばアメリカ人が「ヒロシマの人の真似」と言って、焼けただれボロボロになった格好をして笑いを取っていたら、我々はどう感じるでしょうか?

 「どう感じているか」を基に、表現の自由とか思想信条の自由を制限することが、当然のことかのように、この記事の執筆者は言っている。これは人間性あふれる思いやりと見せかけて、相当に危険なことです*5。公的利益ではなく、ある特定の集団の趣味嗜好・感情傾向が、権利闘争の根拠となっていることに、この執筆者は全く無自覚です。無自覚に"人権"を侵害をしている。「無自覚な差別こそ問題」とか人に言ってる場合ではない。

 この理屈が通るなら、次のようなことも言えてしまう。社会的弱者が不快感を覚えるから言論統制をするべきならば、まさにこの記事が不快感を与えたせいでネットが炎上しています*6。この記事が多くの人に不快感を与えているのは事実だ。だからあの記事は削除すべきだ。

 そんなことが許されるのか。そして、許すかどうかより重要なのは——そういう問題があることに気付くことができるのか?

 

 最初に紹介したこの記事に対するTwitterの批判「エディ・マーフィーというキャラクターを戯画化することが、黒人差別を助長するとでもいうのか?」は、客観的な公的利益を強調したものでした。感情は知らんけど、客観的に言えば黒人差別の助長はないからいいじゃないか、という。そっちが本来の――古いタイプの、と言うべきか――"人権"だったはずなのです。

 しかし、そういった客観性が通用しない時代が、21世紀の今、訪れている

 社会的弱者が不快になるからやめよう、という主張が、一種の正当性をまとうようになっており、それは僕のようなひねくれものですら、こうして文章にしないとおかしさに気付けないほどです。

 

+ポリティカルコレクトネスで、臭いものに蓋

 ハフィントンポストは、ネット上の批判に反応したのか。この後、似ているけれど全く意味の違う記事をいくつか出しました。その代表がこちら。これなら僕も認める。

 実際の外国人の声が紹介されているのが、とりわけ素晴らしい記事です。中でも大きく大きく取り上げられているこの人の発言に注目しましょう。

「顔、容姿、特に皮膚の色で表現しようとするなんて、すごく繊細な問題だからやるべきではない」(白人男性・高校生) 

  やるべきでないのは、悪だからではありません。「繊細な問題だから」です

 最近はこういう「繊細な問題」を扱う方法を、ポリティカル・コレクトネスと呼びます。政治的な正しさ、という意味のこの単語ですが、言っていることは本質的にこれまで述べたのと同じこと。人権概念に人間らしい感情を復活させるという考え方です。

 考えてみてください。政治的に正しい、とはどういうことでしょうか? 有権者に嫌われないことこそが、政治的な正しさなのです。つまり、有権者の感情に配慮すること……客観的理性的な正義はおいといてでも、有権者の感情に配慮することが、ポリティカル・コレクトネスです*7

 ポリコレを積極的に擁護する主張は、しばしば正しくないと馬鹿にされるが、それも無理のないことなのです。だって、ポリコレは客観的正しさじゃないから。感情に対する主観的配慮こそ、ポリコレの本質であって、原理とか原則みたいに扱うと必ず間違うことになります。ルールじゃないのにルールみたいになるので、ポリコレ嫌いを公言する人も多いです。

 しかしポリティカル・コレクトネスは、どうにかして世に広まる人々の感情を調停する手段としては有用です。政治的な正しさを目指すからには、例えばネトウヨ諸君の「そうはいっても韓国人は嫌いである」という感情にも配慮はするはず。理想的なポリコレにおいては、韓国人差別のヘイトスピーチを制限はするかもしれないが、同時に積極的な韓国人宣伝表現も否定するでしょう。

 後から紹介した記事で紹介されている外国人の発言も、そういったポリコレ教育が大変に行き届いているといえます。「我々は別にコメディを思想統制しない」「しかしあれは不快に思う人が確実に出る」「だから明確な意図なしにやるのは自重したほうがよいだろう」。それなら僕もだいたい賛同する。難しい時代になったとは思いますが、他人を思いやるってのは元来難しいことでしょう。そして、そういう教育が日本で行き届いてない、という話には、同意するしかない。

 

 ただし、ポリティカルコレクトネスは、本質的になんの解決にもなっていない、ということには、改めて注意を促したいと思います。ポリコレが言うのは、主観的感情と主観的感情が対立するのは当たり前だから、全ての矛盾を全部個別に調停するということです。つまり、実質的になんの矛盾も解決していない。かつてのような客観的な判断基準ではないし、単なる「気を付けよう」という注意喚起にすぎない。

 人権概念に感情を復活させたことで噴出した矛盾を、「ポリコレの徹底が大事だね」とかで解決するかのように扱うのは、まさに臭いものに蓋というものです。蓋をしても矛盾は消えたりしない。人権という思想の大黒柱が腐っていることは、変えようのない事実です

 

+単なる思いやりとしての「人権」は成立するのか

オリーブの枝をくわえた鳩のイラスト

 ハフィトンポストで炎上したあの記事が見せたのは、思いやりだと思って行った正義の批判が、実は必ずしも正しくないし、別のだれかを傷つけかねないものだったという、ある種当たり前の事実でした。

 左派の皆さんはもっと、自分たちが「正義の戦争」を批判していることに自覚的であるべきです。自分が絶対的に正義であると思うときほど危うい。

 しかし僕は、あの記事に現れたような、素朴すぎるほど素朴な感情への配慮、それが無価値だとも思わないのです。人権概念は揺らいでいますが、人類普遍を救済したいという理念は、依然として価値を持っている。あの記事を書いた人は、黒人をいたわろうとした。そういういわたりの道にヒトを導いてきたのが「人権」という概念だったのも、また変えようのない事実です。

 単純で、素朴で、この弱者は傷ついているから救わなければならないとシンプルに考えることができる、そうした「人権」という概念は、この先もつつがなく運用していけるのでしょうか?

 

 それにはもしかしたら、皆が人権に起きている揺らぎを知らないほうがいいのかもしれない。不信感が広まるよりは、無自覚であったほうがましなのかも。人権が完全な善だという信仰を持っていたほうが。

  しかしそれでも、言わずにはいられなかったのでした。

 人権って、君たちが思っているのほど、絶対的な善の概念じゃないから。

 このような記事はまったくポリティカルコレクトネスに反しているといえます。政治的に正しくない。利益とか平和を求めるなら、こういう発言はやめたほうがいいですよ。しかし僕は利益を求めないので書いた。

 

 

 

追記:この記事で語り切れなかった人権概念の揺らぎについて、別の記事を書きました。人権という概念の当初の根拠は無効になってしまった、という話です。

gentleyellow.hatenablog.com

*1:念のため述べておきますが、なんか個人コラム的な記事だし、ハフィントンポスト本体に責任があるかは微妙です。あと、ハフィントンポストはこの記事のあと、もっと事実紹介に沿ったマシな記事を出しており、僕はそちらの論調にも概ね賛同するところです。記事の最後に紹介します

*2:権利の起源とかいうと、教科書ではジョン・ロックがどうとかいう話になりますが、それは権利思想の起源であって、権利は紀元前からありました。確かなことはいえないので"恐らく"という言い方になりますが。

*3:もちろん非人間的であることは正しくないことではない、という点はちゃんと留保しておきたいと思います。

*4:本当はここで、アドルノの「痛み」に関する議論を引こうと思いましたが、あまりにも理屈っぽくなりすぎるので控えました。

*5:っていうかたぶん、人間性っていうものが本来危険で、公平とは程遠いものなんでしょう。

*6:これは全然関係ないですが、左派の方々がネトユヨを社会的弱者の敵として扱うのは理屈が通らない、と常々僕は思っています。ネトウヨになるのは彼らが社会的に弱者で貧乏だからだ。それは統計的にも思想的にも明らかです。

*7:実は僕はポリコレについてはまだそこまで詳しくありません。今のところこういう理解ですが、あとから勉強して修正するかもしれません