能書きを書くのが趣味。

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科学によって根拠を失った「人権」という概念

 前回、人権概念の社会的変容について書きました。

gentleyellow.hatenablog.com

 でも実は、「人権」の危機について語り切れてない部分がある。

 前回は権利概念の歴史的バックボーンや、社会情勢の変化、ヘイトスピーチ問題や、ポリティカルコレクトネスといった、純粋に文系的な分析から人権概念の変容を描きました。しかし、ここには大きく抜けている要素がある。それは、科学技術の進歩です。

 人権概念が生まれたのは、当時最先端の科学分析からでした。しかし、18世紀の科学は、21世紀現在までにずいぶんと変化し、誤解を恐れずに言えばかつての理論はその大部分が否定されてしまっている。

 つまり、人権を生んだ根拠の大部分は、実はすでに否定されてしまっているのです。そのことが、人権概念に変容と危機を持たらなさないはずがありません。

 この記事では、科学技術の進歩によって起きている人権概念の変容について、僕なりに述べていきます。

 

+人権という発想は啓蒙思想から生まれた

デカルトの似顔絵イラスト

  まず前回記事でも述べたことをざっと説明しておきます。

 人権が革新的だったのは「権利闘争に勝利したからではなく、ただ人間であるだけで権利を認めた」という点でした。それまで全ての権利は、本人や祖先が過去勝ち取ったから認められるものだった。例えば土地の所有権があるのは祖先がそこに住んでいたからだし、参政権があるのは戦争に兵士として参加したからでした。フランス人権宣言は、そうではなく、人間として存在するだけで幸福になる権利があると言った。戦争に参加したかどうかや、過去に犯罪者だったかどうかは関係ない。

 

 ところで、なぜフランス人は「人間であるだけで権利がある」と考えたのでしょうか?

 

 それは自然権という考え方が当時広まっていたことによります。これは、ホッブスやロックの社会契約説に基づく思想です。人間には、自然状態で=生まれついた瞬間から*1ある種の権利が宿っている。これは、そう考えないと社会契約説によって社会ができたと考えることが出来ないから生まれた発想です。何の権利もない人は社会契約もできないので、社会ができるよりも先に権利があったに違いない、という*2

 

 いずれにせよ、人権という発想を生んだのは当時の啓蒙思想だった、ということをここでは抑えておきます。

 

啓蒙思想時代の人間観と、人間ではないもの

神絵師のイラスト弱肉強食のイラスト

 人権思想は、啓蒙思想に基づいて「人間であるだけで権利がある」と考えた。

 

 では、人間とはなにか?

 結論から言えば、人間とは「動物ではない存在のこと」です

 

 権利というのは、常に内部と外部を想定する概念です。人間に権利を認めると断言したならば、必ず、人間以外に権利は認めないと断言しているのです。当時の啓蒙思想が排除した「人間以外」とは、いったい何だったのでしょうか? もちろん、人間以外とは動物のことだったのです。

 もう少し正確に言えば、ヒトは、神*3によって「人間」として作られたのです。神はヒトとは別に動物を作ったのであって、それは明確に区別されていた。人間と動物は完全に別の存在であり、定義の必要がないものだったのです。

 

 そしてこの時代、動物は、今われわれが考えるよりもずっと下等な存在だと考えらえていました

 具体的には、キリスト教において動物には霊魂がありません。霊魂を持つのは人間だけなのです。したがって、動物には精神もありません。精神は霊魂の作用だからです。精神がないので動物は理性や感情も持っておらず、ただ精巧にできているだけの、自動機械に等しい存在です。動物は野蛮であり、愛とか信仰とかいった善に属するものは理解しない。根本的に人間とは異なるのです*4

 

 今の僕らからしてみると、ちょっとペットを飼うだけで嘘っぱちだと判る、相当に無茶苦茶な論理ですが、当時の啓蒙思想——すなわち、知的階級の中ではこれが常識だったんですね。

 

 そういう時代に生まれた人権思想も、実はこの認識において「人間」を定義しています。

 人権が成立するのは、人間が神の創りたもうた高等な存在だからです

 念のため付記しますが、これは別に「人権」の根拠の全てではありません。が、屋台骨であったことは疑いない。今でも人権の根拠を定義しようとすると、どうしたって『人間はなぜ特別なのか(特別扱いすべきなのか)』を述べることになります。かつてそれは、本質的に宗教的な伝統に支えられていたのです。宗教的であるってことは、自明であることでもあり、むしろ初期の人権において非常に良く働いたと思われます。

 もっとも、啓蒙思想っていうのは宗教的な非合理をどうにか脱しようとするものでもあったので、一見論理的な理屈がいろいろと発表されたりもしました(その内容については後で紹介します)。

 

+グドールのチンパンジーの衝撃

道具を使うチンパンジーのイラスト

 人間が高等であり、動物は下等であるという認識は、ダーウィンの進化論などいつくかの事件を重ねてなお、長いこと支配的であり続けました。

 

 しかし、20世紀中盤、決定的な研究が発表されます。

 それはジェーン・グドールという女性によるチンパンジーの研究でした。

 

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

 

 

 グドールさんは、大学を出ていませんでしたが、有名教授の秘書として大学に勤務していました。そして教授の研究についていって、アフリカでチンパンジーの観察をします。教授はいい人だったので素人のグドールさんにも論文を書かせてくれて、そうして出版されたのが『森の隣人』です。

 

 この本の何が衝撃的だったか。

 グドールさんは大学を出ていませんでしたので、一般的な科学論文の手法を知りませんでした。だから、チンパンジーの観察結果を、文学の手法で表現した。すると、チンパンジーに明らかに精神があるという描写になった。○○というサルは引っ込みじあんであり、△△というサルは子育てが上手であり、総じて彼らには個性があった。またサルたちはコミュニケートしたり愛を表現したりして、明らかに社会を持っていた。更に科学的にホットなトピックとしては、あの有名な「葉っぱの茎をつかってアリをとるサル」を見つけたのもグドールだった。道具を使う動物を発見したわけだ。

 動物は精神のない自動機械にすぎない、という認識とはかけ離れた真実がそこにありました

 

 グドールの研究は、最初は黙殺され失笑されました。なにしろグドールは大学を出てなかったし、当時の科学の常識からかけ離れていたからです。しかしその後の努力もあって*5、徐々にグドールの発見は浸透していった。

 動物にも、人間同様の精神があることが、20世紀後半という割と最近のタイミングで明らかになったのです。

 

+人間が特別ではなくなっていく

考える人のイラスト

 人間と動物が等しくなることは、 実は人権思想(=哲学)にとって空前絶後の大事件です

 なにしろ、ヒトは高等だから人権を与えられたというのに、ヒトは思ったより高等でないことが明らかになった。我々一般人がサルって賢いんだなあと納得している影で、実は思想界隈では人文の専門家たちが右往左往していました*6

 

 人間が動物より特別であるという発想は、基本的にキリスト教の宗教観が根拠です。しかし、啓蒙思想は宗教を乗り越えようとするムーブメントだったので、少し前に述べた通り、宗教によらない論理によって人間の特別さを定義していました。

 さっき補足していた通り、ここでいくつか紹介・検討してみましょう。

 

 例えば、そもそもホモ・サピエンスのサピエンスとは「考える」という意味です。人間だけが考えることのできる存在だという、分かりやすい名前で、人間が特別だということを表していたのでした。

 でもグドール以降、考えるのはヒトだけでないことが明らかになった訳です。実は「サピエンス」などという言葉自体が、既に科学的な定義としては成り立たなくなっていた。

 

 他の例では、人間のことをホモ・ファーベルということがあります。ファーベルとは「道具を使う」という意味です。

 しかし、この定義もやはりダメですね。グドールのチンパンジーが道具を使ってましたし、それ以降もサルやラッコやビーバーやキツツキが道具を使うのが見つかってます。

 

 ホモ・ルーデンスという言葉もあります。ルーデンスとは「遊ぶ」という意味の単語。生存に無意味なことをするのは人間だけだという意味でしたが、案の定これも使えなくなってます。

 ウチの猫ちゃんも水族館のイルカも余裕でおもちゃ大好きですから。

 

 あとはホモ・シンボリクス。「象徴を使う」という難しい意味ですが、これは要するに難しい言語が使えるという意味です。

 もはやこんな判りにくいところまで追い詰められた感のある定義ですが、これもだめでした。手話を覚えたサルの話は有名だからご存知ではないでしょうか。

 

 他にも、社会を作る人、言語を使う人、文化を持つ人、音楽をする人、などなど、いろいろなホモ・○○○○が考案されました。それはどれも「○○ができるのは人間だけだから、人間は動物とは違う!」という意味でしたが、しかし科学が進むと、どこかに必ず○○が出来る動物が見つかったのです。

 科学は20世紀を通して、かなり熱心に、人間が動物と決定的に異なる証拠を探しましたが、それは結局のところ見つかりませんでした。

 

 もし動物が人間と同様の存在なのだとしたら、どうして人間だけが特別に権利が認められているのでしょうか? 

 

+人間じゃなくても人権を与えるべき?

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 人間と動物が同じなら、人間だけが特別じゃないのではないか。

 この当然の発想から生まれたのが、ネット界隈では悪名高い、動物の権利運動(アニマルライツ運動)です

 

 動物の権利っていう発想を最初に言いだしたのは、ピーター・シンガーという人*7で、彼の主張はかいつまめば非常に単純です。「動物にも精神があるんだから、動物の権利をないがしろにするのは、人種差別と同じで倫理的に間違いである」。シンガー以降、現代に至るまで、いろいろな文脈で動物の権利は主張さていれますが、基本は同じです。「動物にも人間同様の精神があるから(ex:イルカは人間同様にかしこいから)権利を尊重しなければいけない」。

 倫理学を熱心に学ぶ人ほど、この主張には説得されてしまったりします。だって偉大な古典を読むと「人権を守るのは、人間に精神があるからだ」と書いてある。精神があるものを食べるのは食人に等しいので、彼らは菜食主義を推奨していたりもします*8

 

 でも僕に言わせれば、この記事で述べてきたように、それは倫理学の大古典のほうが間違っていたのです。人権というのは、人間全体に権利を与えたかっただけの思想です。精神云々は「なぜ人間だけなのか」という疑問に対する18世紀の言い訳にすぎません

 科学が後に発見する事実を知らなかったから、こういう言い方になっただけです。動物にも精神があるから動物にも人権がある、みたいな主張は、ほとんど揚げ足取りみたいなものです。

 

 ただし、人権思想には取られる揚げ足がある、というのも事実です。

 アニマルライツ運動の広告をみて、頭がおかしい、と感じた皆さんは多いでしょう。

 しかし、皆さんが見ていたのは、実は頭のおかしい人たちではなく、人権思想の歪みだったのです

 

人間性最後の牙城も風前の灯

文章を書く人工知能のイラスト

 しかしそれでも、やっぱり人間と動物は違います。

 

 犬と牛が同じではないように、人間と動物一般は同じではない。 確かにイルカやカラスは賢いかもしれない、サルやオウムは言語を理解するかもしれない。ビーバーやキツツキは建築すら行うかもしれない。しかし、人間と同じ規模・同じ精度でそれらをする動物はいません。

 つまり、人間は動物よりもスゴい。21世紀の現在、それこそが人間性の定義になっていると考えていいでしょう。

 

 実はスゴいから人権を守るのだとかいう話にしてしまうと、それはそれで問題が出てくるのですが(超すごいイチローは一般人より人権も大きいのでしょうか?)まあ目をつぶれる範囲の問題です。人間と動物を区別できることが重要なんですから。

 

 しかし、近年この最後の牙城を崩す要素が、またしても科学の発展によって現れました。

 それは、人工知能です。人工知能の登場は、以前から人間性にとって危機なのではないか? と言われていましたが、特にここ数年の人工知能ブームを起こした技術革新は、人間性の定義にとって会心の一撃となりかねないものでした。

 ディープラーニングという言葉を聞いたことがあるでしょうか。あるいは、画像認識技術の発展についてのニュースを聞いたことは。

 あれらは人間の脳の機能に着想を得て、真似したことで、飛躍的に発展した技術です

 

 ということは、将来的に人間の脳を完全に模倣した人工知能というものが、現れるのではないでしょうか

 それに精神が無いと考える理由がなにかあるのか?

 

 しかも、汎用人工知能*9は間違いなく人間よりスゴイ。これは単純な話で、人間の脳は生化学反応で回路を作ってますが、それが全部光ファイバーだったらもっと速く動くに決まってます。

 

+空想の存在にさえ縋らざるをえない

人工知能と喧嘩をする人のイラスト

 こういう人工知能論に対して、人文学が持ち出してくるのがクオリアです。

 クオリアとは、よく「赤いという感じ」だとかいう判りにくい説明がされる概念です。我々の脳は電気刺激で動いているのであって、赤いリンゴを見たら赤いリンゴを見た電気刺激が脳に現れる。しかし、電気刺激は精神や思考自体ではない。「電気刺激によって、何か精神っぽい現象が起きた」その結果として、我々は赤い色を認識したのではないか? この、何かわからないけど引き起こされた現象をクオリアと呼ぶことになってます。

 

 人文学をかじった人たちは言います。「AIがいくら発展しても、脳は脳、機械は機械であるから、機械にはクオリアは宿らない。クオリアが宿らないということは機械は精神を持てない」だとか。

 これはちゃんちゃらおかしい主張です

 

 まず、そもそもクオリアという概念は脳科学が一旦持ち出したものの、よく考えたら意味なかったので捨てた考え方です。「神経細胞Aと神経細胞Bを突っつくと、同じように反応するんだけど、二つの神経細胞は違う役割を持っている。何が違うんだ。その違いをクオリアと呼ぼう」とか言ってたんですが、よく考えたら個別の神経細胞の役割の違いは神経間の接続方法に依存するのであって、クオリアなんて存在を仮定する必要はなかった。クオリアは脳機能の説明に要らなかった概念なのです。

 あと、クオリアを科学的に定義するのは不可能だったクオリアっていう概念はよく考えたら"観察出来ない"という内容を定義に含みます。神経細胞を見ても観察できないものがクオリアであって、観察できないものは科学では基本的に存在しないものとして扱います。だから本家の脳科学では、クオリアは無かったことになった。クオリアは、非科学的な概念でもあるのです。

 

 しかし人文学は、その捨てられた非科学的概念を拾い上げました。何しろ、この概念は科学では扱えないことが証明されているってことはどんなにいじくり回しても、こんどこそ科学がいちゃもんをつけてくることはないクオリアを持つのが人間だということにしてしまえば、二度と人間性は脅かされることはない。

 

 ……はい、こじつけですね。文系とはいえ仮にも学問が、事実をねつ造してどうするのか。

 クオリアは無いってことになったんだから、それはもう無いんです。確かに無いことは科学で証明できないけど、そんなこといったら妖精さんがこの世に居ないことだって証明できない。

 

 でも人文学はそれに縋るのです。

 妖精と実質的に同じ存在をもちださないと、もはや「人間だけが特別である」という主張ができないからです

 胡散臭いクオリア概念だけが、人権の根拠たりえる風に見えてしまうのです。僕は俗流クオリア論は批判したい側の人間ですが、しかしどうにか人権を守りたいという心意気は理解しないでもない。

 

+人権に根拠はあるのか、根拠が無いと何が起こるのか

養子縁組した同性カップルのイラスト(女性)

 まあしかし、いくら俗流クオリア論を振り回しても、事実は変わりません。

 「人権」はとっくに根拠を失っていると認めるべきです

 恐らく、いまフランス革命をやっても、人権宣言を再び成立させることはできないでしょう。人間だけに権利を認める、客観的・合理的な理由がない。

 かつてあると思われていた理由は、全部ウソだったことが暴露されてしまいました。

 

 今、我々が使っている「人権」という概念は、非常に主観的なものです。だからアニマルライツ運動のような、かわいそうだから権利がある、という論理がまかり通るのです。我々が普通の人権を守るのもまた、人権がないことにするなんて「かわいそうだから」にすぎない。我々は「かわいそうだから」発展途上国の人権侵害に憤るのであって、他に理由はありません。

 

 しかし、こんな主観的で、感情的で、客観的根拠が全く成立しない思想を、我々はいつまで正常に運用していけるのでしょうか? そのほころびは、すでにあちこちで現れています。

 

 僕自身の考えでは、人権概念はもう基本に立ち戻るしかありません。「人間だから」「理由とかなしに」「権利を認める」。人間が賢いからとか、人間に精神があるからとか、人間は思いやるべきだからとか、そういう全ての理由は余計な要素です。ただ人間でありさえすればいいという、フランス革命当初の理念を、もう一度決断するしかない。

 いわゆる人間賛歌ってやつっですね。

 たぶん「人権」は、そういう判断を、今まさに迫られているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから追記〜〜〜〜〜〜〜〜

 

なんかバズりました。

一晩経ってまあまあ落ち着いてきたと思うので、そろそろいくつかブクマのコメント見てて気になったことを書いておきますね。

 

+なんか「根拠がなくなった」と僕が書いているのを「人権は無効になった」とか「人権は要らなくなった」と読んで怒ってる人が多いと思います。

 僕が考えてるのは、せいぜい「指針がなくなってる」までです。もちろん人権はなくなったりしないし、守る。

+自然科学は人文科学の概念に関係しねーよ、とか怒ってる方もまあまあいます。これは完全に反対させていただきます。

 自然科学から遊離した人文科学なんて、ただの空想です。少なくとも影響はあるよ。

+既存の人権に関する根拠論に触れてないことを怒ってらっしゃるかたがたもいました。これは、僕はそうした論を全て『人間に精神があるからだ』にまとめてしまっているからです。そう出来るし、したほうが良いと思います。

 例えばロールズの無知のヴェールについて触れてる人は複数いましたが、ロールズは「そのヴェールを被ると自分が人間かミトコンドリアかもわからなくなる」とまでは言いませんでした。多くの古典は同様に人間だけに対象を限定することを、無言で前提していると思います。そしてその揚げ足をアニマルライツにとられていると思います。

+クオリア論の起源の部分、調べてみたら確かに僕が勉強したこととWikipediaの記述が食い違っています(それしかみれてない)。もうちょっと追いかけたほうがよさそうです。ご指摘ありがとうございました。

+特に気になったのは、「根拠なしに人間の権利を認めることは宗教的に人間の権利を認めるのと同じでは」みたいな指摘。言われてみれば確かにそうで、だとしたら根拠なき人間性の肯定は可能なんでしょうか?

 僕が言ったのは、人権の根拠と指針がなくなってる、までですから、「なくなったこの先どうなっていく」までは考えが及んでないです。ただ強いて言えば、前記事で述べたように、人権を殴り棒をした争いが激化するんではないか?とかぼんやり思っています。

+「専門家なら人権が実在するとか思ってない。理想を追求したらより良い社会が実現できるという事に過ぎない」というコメントも面白いと思いました*10。なるほど、僕は確かに素人ですので、そこら辺の専門界隈の機微はわかりかねますし、僕が言うようなことは当然専門家は前提しているでしょう。

 しかし僕はひねくれものですので、二つの疑問を持ちました。第一に、だったら専門家はどうして僕たちに人権なんか実在しないと言わないのか。実在を信じてる活動家のほうが多いのは間違いないと思う。僕らはやはり人権思想に騙されているのか。第二に、人権を追求したら社会がよくなるのは本当か。こんな主観と客観がごっちゃになった欠陥思想より、例えば最初から主観しかない孔子の「仁」とかのほうがよくないか。

 おそらくは、専門界隈でも人権の扱いが混乱しているんだろうと思います。

+面白がっていただきもしたようです。

 毎度ありがとうございます。

 

 

 

*1:厳密には、自然状態と"生まれた瞬間"は違います。自然状態とは「社会に一切属していない状態」のことです。

*2:ちなみに社会契約説は、今では事実ではなかったとされています。人間はサルのころから群れを作っていたので、「自然状態の人間」などというものは存在しないはずだからです。社会契約説が架空の説だったことも、この後説明する展開に大いに関係します。

*3:無論これはキリスト教の神です

*4:人権の話をしてる都合上キリスト教のせいにしてますが、東洋でも動物のことは「畜生」と呼んでバカにしてた。たぶんこれは世界全体の常識でした

*5:教授がまた本当にいい人で、グドールさんを大学に入れたりしてくれたそうです。

*6:グドールの成果を最後まで認めなかったのは、哲学・人文学の世界だったと聞きます。生物学が動物の精神を当然と見做すようになってなお、哲学はそれを否定し続けたそうです。

*7:それはまさにグドールの登場から数年後のことでした

*8:僕は、菜食主義の流行は、20世紀倫理学の犯した重大な人間性への裏切りだと思う。動物を食べるのが間違いだと述べることは、人間の歴史全てを間違いだと述べたに等しい。倫理が人間を愛さなくてどうするのか。

*9:ちなみに「汎用人工知能」とただの人工知能は違います。汎用人工知能が普通の人が考える人工知能で、要するに話しかけたらなんでもしてくれるスタートレックのコンピューター。ただ「人工知能」といっただけだと、例えばExcelのマクロは人工知能の一種です。

*10:これは久々にみたら面白いブコメがついていたので遅すぎる追記です