能書きを書くのが趣味。

文章がすぐ長く小難しくなるけど、好き放題長く小難しく書く。

現代ラノベのエッジランナー、藤孝剛志を読め!【即死チートが最強すぎてシリーズ】

 どうも、能書きを書くことを趣味とするものです。


 今回は、藤孝剛志というライトノベル作家について書きます。
 とはいえ数多のライトノベル作家が泡のように浮かんでは破裂していく昨今、作者名だけでわかるようなガチ勢は数少ないと思います。
 代表作は、このほど原作が完結し、アニメ化も決定したこれ。

「即死チートが最強すぎて、異世界のやつらがまるで相手にならないんですが。」シリーズ。
 
 アニメ化が決まっただけあって、この作品、一般に「なろう系」とされるジャンルの中でも、かなりランキング上位にある作品です。コミカライズも普通に成功しており、知っている人は普通に知っているんではないでしょうか? メジャーなろう系と言えます。

 ただしそれは、この作品が普通のなろう系に属することを意味しません。
 むしろ僕は、カッコ付きで語られる「なろう小説」で、もっとも尖ったな作品の一つであると思っています。結構な古参連載でありながら、余裕でエッジです。
 エッジなんだから、これは読むべきだと思う。藤孝剛志を読まないで、なろう系やラノベ現代日本エンタメを語ろうなんて、ウォーホルやバンクシーを見ずに現代美術を語ろうとするようなもんですよ。


 面白いとか好き嫌いとか関係なく、藤孝剛志は読んでおくべき。
 この記事ではそういう論法で、僕の好きな作家をゴリ推していきます。
 
 なお、以下、ネタバレに対して一切の容赦がない。

 ネタバレに対しての一切の容赦がない(念押し)。

 お勧めされるまでもなく読む気が少しでもあるなら、原典を買ってください。

 

 

+デビュー作『姉ちゃんは中二病』シリーズ

 藤孝剛志は、web小説出身でこそありますが、実はいわゆる"なろう作家"ではありません。
 まだなろう系という言葉が一般に広まり切っていない2013年、普通に投稿作がラノベ賞を受賞して、HJ文庫からデビューしました。
 デビュー作は『姉ちゃんは中二病シリーズです。 

 公表されているラノベ賞の選評によれば「粗削りだが勢いを感じる」ので金賞受賞になったとのこと。
 僕は、この時審査員たちをうならせた「勢い」とは、今やスタンダートと化した、なろう系の潮流だったのだと思います。


 この『姉ちゃんの中二病』がどういうお話なのか、ざっくりネタバレ解説します。
 まず主人公の男の子には、破天荒な姉がいます。この姉は重度中二病かつ弟を溺愛しているので「弟が大切だからいついかなる時もサバイバルできるようしてあげよう!」という思想のもと、めちゃくちゃな武術の訓練を弟に施しています。
 で、そんな主人公が、いろんな超常の敵と出会います。
 まず、クラスメートの女の子が殺人鬼であることが判明してしまいます。殺人鬼であることがばれたので、女の子は主人公に襲いかかってきます。殺人鬼は種族的な意味での鬼でもあって、戦闘能力も凄いです。
 が、中二病の姉を持つ主人公は、そこそこ余裕でのりきります。
 彼は姉の影響でめちゃくちゃな武術の訓練をしていて、超強いからです
 更に、クラスメートの別の女の子が吸血鬼であることも判明します。この女の子は自覚がなかったけど実は吸血鬼の真祖の家系で、なんと兄が世界征服をもくろんでいます。つまり、神祖吸血鬼が世界征服に乗り出しきたわけですね。
 が、中二病の姉を持つ主人公ならば、普通に倒せてしまいます。
 彼は姉の影響でめちゃくちゃな武術の訓練をしていて、超強いからです。
 無茶苦茶な能力者も登場します。その敵は「主人公」という能力を持っており、彼のやることなすことは全て主人公的に上手くいきます。ヒロインと会えば撫でポし、ピンチになれば助けがきて、必要になれば突如能力に覚醒します。ドラえもんでいったら、ソノウソホントの使い手です。そんな無茶な!
 が、中二病の姉を持つ弟が戦ったら、わりと普通に勝てました。
 彼は姉の影響でめちゃくちゃな武術の訓練をしていて、超強いからです。


 おわかりでしょうか。藤孝剛志の書くお話は、一事が万事この調子です。
 

 

+「なろう系小説」に一家言があります

 藤孝剛志の書いているようなストーリーは「俺tueeee小説」と言われています。昨今は「なろう系」と言われていることのほうが多いかもしれません。まあ、"小説家になろう"は小説を発表するサイトで、なろうには俺が強い話も弱い話もさまざまに違う系統の作品があるので、実は不正確な表現……なんだけど、さすがにここで正確性に拘ってもしょうがないか。要するに、さすおにだとか、イキリ太郎だとか、そういうミームで揶揄されがちな、一連の「なろう系」というジャンル、読者の感情移入先である主人公がとにかく強くて気持ちよくなれる小説があって、藤孝剛志はそれに属するという訳です。
 
 この「なろう系=俺tueeee小説」について、藤孝剛志にはかねてより一家言があったようです。

 商業処女作である「姉ちゃんの中二病」シリーズの、第4巻には、サブヒロインとして、同じ学校に通う高校生ライトノベル作家、というキャラクターが出てきます。

 彼女はストーリーの流れで、主人公姉弟に「最近の流行だという俺tueeee小説(なろう系)とは何なのか?」を相談します。
 そして、作者の分身たる中二病の姉が、持論を開陳する。

「最近のラノベなんかでは俺tueee要素が無いと売れないなんて言われていて、それに対して愚痴を言っているラノベ作家なんてのもいるらしいんだけど、俺tueeeを最後までやり切っている物語なんて滅多にないのに、何言っちゃってんの!?、こいつ!? とか私は思っているわ!」
「そうなのか? そんなのばっかだって聞いたことあるけど」
「全然だめ! 最初はね、俺tueeeで始まっても絶対に最後までその調子ではいけないわ! 結局同格のライバルが現れたり、格上のラスボスが出てきたり、葛藤したり、困難に直面したりするのよ! そうじゃなかったとしても、暴力ヒロインの尻に敷かれたりとかそんなことでバランスを取ろうなんてしちゃったりするのよ!」
「そりゃ……ずっと強いままなんてメリハリなくてつまんないんじゃねーの?」
 出てくる敵は全て瞬殺、どんな問題もあっさり解決して、悩みもしない完璧超人が主人公であれば、その物語は実に平坦なものになるだろう。
「そう、そう思っちゃうのよ! 物語作家って人たちは! けどね! 私はそんなものを求めてないの! とにかく終始tueeeしてくれ! って思う訳よ! そしてこれは決して少数派の意見ではないわ!」

*省略アリ。強調部は引用者

 

 こういう主張は、2023年の今でこそまあまあ聞いたことあるなという感じがします*1が、2014年出版の中二病姉4巻出版時点では、結構コアな読者の間でしか語られてなかった気がする。引用中で言われているとおり、少数派の意見ではなかったのですが、意見を言語化できている奴は少数だったというか……(2014年はさすおにアニメの放映されていた年です)。
 つまり、藤孝剛志はこの時点から、かなりコアな読者であり、同時に尖ったエッジの上に立とうとする作者でした。 
 そしてそんなエッジランナーが、その後の2016年度に、"小説家になろう"で発表した作品が、『即死チートが最強すぎて異世界のやつらがまるで相手にならないんですか』シリーズになります。
 
 

+マジで本当に主人公が最強のなろう小説

 ここで一応、「即死チート」シリーズについて、内容を解説しておきますね。
 上のリンク画像はコミカライズ版ですが、主人公は表紙に映ってる男の子のほう、高遠夜霧くんです。
 いわゆるクラス転移の文脈で、異世界にやってきました。クラスメイト全員が異世界召喚にまきこまれて、全員がスキルを貰うタイプのやつですね。でも彼は異世界でスキルとかもらう前から、特殊な能力者だったので、転生してからスキル貰った仲間たちより圧倒的に有利……という、これもまた、まあまあある展開。


 ただし、夜霧くんの能力は「任意の対象を即死させる」というものです。彼が殺したいと思った相手は、即座に死にます。要するに、エターナルフォースブリザードです。なんなら本文ツカミの説明パートに"エターナルフォースブリザード"って単語が出てくる。
 そして、夜霧くんは、死に属する能力を持っている応用なのか、自分を殺しかねない攻撃を事前に察知できます。そして反射的に、即死能力で反撃します。例えばスナイパーライフルで彼を狙って、引き金を引こうとすると、引き金を引ききる前に即死能力が発動して、射手が死にます。この発動範囲は非常に正確かつ広範で、広範囲爆殺で巻き込み事故で殺そうとすると爆破スイッチを押す前に即死しますし、目にもとまらぬ速さで殺される前に殺そうとしたら速さを発揮しようとした段階で死にますし、他人を洗脳能力で操って殺そうとすると洗脳された直接攻撃者だけじゃなくて洗脳能力者も死にます。攻撃を察知されないことは、一切できません。

 極めつけに、何が「即死」にあたるかは、夜霧くんが決めます。ゾンビはもう死んでるから殺せないだろ! と言ってたら、ゾンビは死にました。ロボットは機械だから殺せないよね!? とか言ってたら、ロボットは機能を停止しました。夜霧くん的には、どんな理由があれ動いているなら生きており、止まっていれば死んでいると考えるからです。

 死んでも蘇生魔法で生き返します! とか言ってるやつもいたけど、夜霧君は「いや死んだってことは生きかえらないってことだよね?」と思ってるので、即死後はもう蘇生魔法も効きませんでした。常識とかファンタジー世界の設定などより、彼の認識が優先されるのです。
 夜霧くんの認識が優先なので、考え方次第で、なんでも殺せます。道をふさいでいる邪魔な結界を「即死」させて破壊する、なんてこともやってのけます。


 いや、これは誰にも殺せないですね。まさに最強です。
 最強なので、同格のライバルが現れたり、格上のラスボスが現れたり、葛藤したり、困難に直面したりしません。とにかく終始俺tueeeeします。

 作者の藤孝剛志は、前作品のなかで言及していた通りの、真の俺tueeee小説を書きました。有言実行というわけです。素晴らしいな。僕がまず皆様にお伝えしたいのはこのこと。「即死チート」ファンの人も、以前からずっと藤高剛志がそうだったことは、あまり知らなかったんではないです?


 

+マジで本当に主人公が最強だと物語はどうなってしまうのか?

 特筆すべきは、主人公がマジの本当に最強であることによって、小説全体が「最強であるとはどういうことなのか?」を掘り下げる思考実験めいてくるという点です。僕たち読者も、強くて無双がどうこうより先に、それを楽しみにしてるところがある。

 

 例えば最序盤で出てくる展開に、こういうのがあります。

 手加減の実験をするためだ。
 二人はこの街に来るまでに力の使い方を話しあっていた。夜霧の力はあまりにも強力なため、使い勝手が悪い。そこでもう少し手加減ができないかと相談しあったのだ。
「半分死ね」
 虎の獣人を指差し言う。虎の獣人はたちまち崩れ落ちた。夜霧は下半身を狙ったのだ。これが手加減として考えた方法の一つだった。
 虎の獣人は意味不明の叫び声をあげた。生きてはいるようだが、その叫び声もすぐに止んだ。
 ——ま、当然かいきなり上半身になったら普通は死ぬだろうし。
「余計な力を使う割には上手くいく感じがしないな……」

※引用中に略アリ

 マジの本当に最強のチート主人公は、手加減が苦手! 
 なぜなら何をやっても敵は死んじゃうから!
 いやあ、なるほど、改めて言語化されると、そりゃそうだという感じがしますね。
 更に、手加減が苦手なせいで、夜霧くんは"敵を脅迫して情報を吐き出す"とか"敵を説得していったん引いてもらう"みたいな行為にもしばしば苦戦します。彼が力を発揮したときはもう相手は死んでいるので。
 そういえば、他の作品のあのキャラやあのキャラも、脅迫で敵から情報を引き出そうとして、失敗してたような気がする。それで「チッ、手加減は苦手なんだよな」とか言ったりなんかして。うんうん、これでみなさんも最強キャラの理解の精度が深まりましたね。自分の小説に最強キャラを出す時はやってみてください。


 他に、よく読者間でも引用される点として、こういうのもあります。

 異世界召喚した奴が、高遠夜霧ってなんなんだよ? を知るために、元の世界から「高遠夜霧を知ってる奴」を召喚したシーンです。

 慌てていた男だが、何かを納得したのか、興奮してぶつぶつと言いながらポケットから携帯端末を取り出す。
「あははははははっ」
 そして、携帯端末の画面を見た男は、気が触れたかのように笑い始めた。
「奴が、奴の反応がここにある! そうだよ、奴が死ぬなんてありえないんだ! ここに奴を連れてきたのが、あなたたちだというんですね! ならばあなたたちは救世主だ! 文字通りに世界を救ったんですよ! 僕が世界、いや、人類を代表して、感謝の意を伝えようじゃありませんか!」

引用中に略アリ

 この会話、なんなんです? 説明しましょう。
 高遠夜霧くんという男は、別に転生してチートを貰ったわけじゃなくて、現代日本にいるときから即死チートで最強だった。それっていうのは一体どういうことなんでしょうか? 日本で人を殺しまくってたの? そうだとして、彼は自分の能力をどうやって秘密にしていたのか……?

 結論だけ言うと、秘密になどできていませんでした。

 彼は、現代日本にいる頃から、複数の世界的組織から監視され管理される存在であり、いつ誰を殺すかと怯えられていました。

 いや、そりゃそうですよね。マジのガチで最強の主人公は、現代社会で軍隊とか警察と戦ったって、普通に勝つんですよ。そんな奴がまともに扱われてるわけない。範馬勇次郎アメリカの衛星に常に監視されてるし、他の最強主人公だってそうでないとおかしい。特に夜霧くんの場合は、政府に便利に使われてすらいなかった。便利に使おうとしたやつも好きに殺せるからです。なので、腫れ物扱いと呼ぶのすら烏滸がましい、まだ爆発してないだけの地球破壊爆弾みたいな扱いを受けていた。

 皆さんもマジでガチに最強のキャラクターを自分の物語世界に作った時には、そのキャラを監視する世界的組織も同時に設定してくださいね。必要なので。

 

 

 高遠夜霧くんは、世界から監視される存在だったので、実は一緒に異世界転移してきたクラスメイトのうち何人かは、陰陽寮とかCIAとかの組織から派遣されている監視エージェントです。
 その、主人公監視エージェントどうしの会話も、序盤のかなり面白いポイントなんですよね。

「怖く……ないんですか?」

「怖い? ああ、そっちとは考え方が違うのかな。もしかして高遠くんのことを化け物だとか思ってる?」

「違うのですか?」

「そうだなぁ。ごく単純に考えたらいいと思うよ。全ての生き物の死を支配する存在。それって何?」

「まさか……」

「現実に存在するそれを知った私たちは揺さぶられ、結果、今までの信仰を捨てるしかなくなった。ま、そういうこと」

 そう言ってキャロルは出て行った。

 その新たな信仰は、異世界に来ても変わることがないのだろう。

引用中に略アリ

 マジでガチの最強主人公は、異世界転生する前から、大いなる神として崇められていました。

 そ、そこまでか!?
 いや、そこまでだよな。マジガチ最強ってのは、そういうものなんですよ。実際、夜霧くんなら、神殺しとか余裕だし。神を殺せるぐらいの存在とか、それはもう神なんですよ。マジでガチの最強主人公とは、クトゥルフ神話めいたえげつない神様であって、たとえ見た目と思考が男子高校生だとしても、たいてい人間に尊敬されたり承認されたりするより、むしろ恐怖され、遠巻きにされています。

 みなさんの最強キャラ設定ノートにも「*友達は少ない。孤独」の一文を書き加えておくように。マジガチの最強キャラってやつは、モテることはあるとしても、結局リア充になれる訳がないわけですよ。

 

 

 マジのガチの最強主人公の周りには友達だとか信頼できる人とかが、極端に少ない。ということは、懐いた犬とか、子供のころできた初めての友達の姿とかに凄い執着します。ヒロインもなんなら珍しい理解者ぐらいの立ち位置です。

 でも、そんな孤独な夜霧くんが、転移前までは普通の男子高校生をやっていた……ということは、幼少期の彼に絶大な良い影響を与えた、聖人みたいな親代わりの人がいたはず。マジガチ最強主人公の親は、常識をはるかに超えてすばらしい人格者です。そりゃそうなのよ。マジガチ最強主人公が人格者じゃなかったら、今頃地球滅びてるもん。

 その親とはどういう人物なのか……!?
 この辺の、異世界転生前のことは商業書籍版で掘り下げられており、それがまた非常に面白いです。だから、なろう連載で読んだという方も、ぜひとも有料版を買って読んでみてほしいんですが(ダイマ)。
 
 

+どんな敵にも勝てるなら、どんな敵でも出していい!

 もう一点、「即死チート」シリーズ、というか藤高剛志の作品全般に、強調しておきたい特筆点があります。
 それは、とにかく敵がクソ強いということです
 これ、いきなり説明の字面だけ見てもピンとこないと思いますが、本当に藤高剛志という作家の発明だと僕は思います。主人公がマジのガチで最強でありさえすれば、敵も際限なく強くできるんですよ。なんかもう強さのインフレとかいう話にぜんぜんならない。最初から最大値が∞(無限大)なので、逆にインフレの余地がない。

 

「即死チート」には、即死するための強敵が、わんこそばか? という勢いで現れますが、そのどれもが独創性に富んでいる。

 聖剣を携えた運命の勇者、太古の封印から目覚めた魔王
 そんなのまだ序の口です。
 神、ドラゴン、ロボット、他の転生チート者
 都合のいいことが必ずおきちゃうラッキーマン、時間能力者
 ダンシモンズのSFに出てきたシュライクみたいな異世界存在
 広範囲洗脳能力者、能力無効化能力者、世界を滅ぼすとされる邪悪
 世界設定を操作する能力者、レベルがとっくに億を超えてる転移者
 まばたきで起こす風圧で物理的に敵を殺せる筋肉野郎
 しかもそれらは、エピソードのボスとして出てくるんじゃないんですよ。ストーリーを進行していたら、わりとすぐに通常エンカウントします。誰も思いつかないことをやるというより、他の作者が自制してることを遠慮なくやってくるんですよね。

 藤高剛志にはそれができる。

 だってそうでしょ、自分で考えたラスボスの倒し方が思いつかなくて頭抱えるとか、よく聞く話じゃないですか。だからそうならないように、普通の作者はDIOの時止め時間に秒数の上限をつけるし、時を戻したり加速したりする能力は別のボスの能力にする。
 藤高剛志は、普通である必要がありません。なぜなら主人公が一番強いから。こうなるともう、設定を考えるのも楽しくて仕方ないでしょうね*2

 

 そんなアホみたいに強力な敵が、バンバンに出てくる。しかも、彼らは別に一枚岩でもなんでもなく、各自に思惑とか欲望があって、良く言えば破天荒な性格ぞろい。互いに協力とかしないし、なんならクソ敵とクソ強敵が戦っているのが世界観的には本筋でだったりする。

 なので、ストーリーも相応に破天荒になります。
 藤高剛志の書くストーリーは、基本的に通常のテンプレ構成をとらない。

 例えるなら、主人公がなし崩しに地下最強格闘トーナメントに参加することになった、という導入から、トーナメントの第1回戦に花山薫が登場。第2回戦はターンAガンダム。第3回戦はドクターストレンジ。準決勝は突然地下闘技場が爆発したために開催されず、地獄からエスタークセフィロスとギーグが蘇ってきます。

 あのね、誰ですか? 最強の絶対負けない主人公だと、展開が平坦になってつまらない、とか言っちゃってた人は。
 エスタークセフィロスとギーグが三つ巴になる話が、平坦なわけないだろ! むしろ制御不能寸前の暴れ馬です。藤高剛志の小説は、常にそういう暴走寸前の破天荒さを内包しています。*3

 なお、地下トーネメントの優勝者は決まりませんが、安心してください。傲慢な大会主催者は夜霧くんに会った結果、死にます。

 
 

+読者界隈へのメタ影響力も甚大

 もう一つ、これは言っていいのか? という類の話ではあるんですが、Google検索について。

 マジでガチの最強主人公である「高遠夜霧」の名前を、戯れにネット検索にぶち込むと、いったいどんなページが出てくるでしょうか? まあとりあえず公式が出てくるのは当然として、2023年末現在、上位で目につくのは2ちゃんねる最強スレwikiですね。

 古のインターネッターである僕にはまあまあ馴染みのあるサイトですが、令和でもまだやってることに驚く方もいるんじゃないか?

 最強スレの内容自体は、別にどうでもいいです。

 独特なレギュレーションでやってる界隈ではありますからね。基準としては全く一般化できない。

 

 それでも、検索したらまず最強スレに誘導される、ということ自体が結構面白いと思ってて。個人の狭い認識で、他の作品でそういう扱いを挙げた代表を言えとなったら、僕の世代ではまずDIO、そしてその次の世代ではアクセラレータでしょうね。*4

 やっぱりあそこら辺のキャラの強さってのは、他の作品を読んでいるときにもある程度念頭にあったっていうか。「ん~~~このバーン様っていうラスボス強くてカッコいい~~~、でもDIOが時を止めればたぶん勝てるから最強というほどでもないか!」みたいなことを、僕は普通に考えていました。そういえばバーン様の前にはバランの敵だった冥竜王ヴェルザーとかいう対等の存在もいるよな……と気づいたのは、DIO様との比較を考えた後のことで。

 高遠夜霧くんは、それと同じ逸材だってことです。

 

 たまにね、素人のファン以下の、碌に読みもしてないやつが言ったりする訳ですよね。なろう主人公の? ○○が最強で? だからこのキャラクターは作者の願望とか欲望の投影でメアリースーなんですよね~~~~とか。

 メジャー系なろう作家の、藤高剛志さえ読んでればそんなこと言う訳ないんですよ。

 だってその○○というなろう主人公、高遠夜霧よりもぜんぜん弱いですよ??

 まだまだぜんぜん控えめですよ。主人公最強ジャンルに括るなぞ烏滸がましい。

 

 これは強弁を承知でぶち上げるんですけど、高頭夜霧というキャラクターにはそういう認知を読者に与える力があるのではないか

 冒頭に引用で紹介した、藤高剛志の心の声をしゃべってるキャラも、言っていましたよね。主人公が俺tueeeに徹している作品は、この世になかなか存在しない
 だから、例えば「主人公が最強になっちゃうタイプの小説が俺は好きじゃない」と言っている人間がいるとしても、その批判者が嫌ってるのは、本人も判ってないだけで、主人公が最強であることじゃないんですよ。*5だってたぶん、そんなレアな小説読んだことない。

 だからまずは自分が読んでないことに気づいてほしい。

 高頭夜霧というキャラクターを知っていることで、読者は「自分が読んでいるのは主人公が最強の小説ではない」ということに気付くことができるのではないかな、という感触を僕は持っています。

 

 さすがにね、このエンタメの多様化した現代で、しかもネット小説ですから。

 今回アニメ化するとはいえ、DIOぐらい全ての読者が知っている定番キャラクターに、高遠夜霧がなるとは思っておりませんが。

 それでもキャラクターと作品、ひいては藤高剛志の作品全般を知っている読者に対しては、大きなある種の影響力を与える存在になっているのではないでしょうか。


+なろう系、俺tueeeに好き嫌いはあるよ? でもね?

 いやまあ、流石の僕も、藤高剛志とその俺tueee小説をすべての人間にお勧めする気はありませんが。
 普通に、癖が強くて客を選びますしね。
 "癖が強い"をより詳しく言語化するならば、非常に高度なオタク文化のハイコンテキストを要求する、ということでしょうね。あの漫画やあのラノベやあのアメコミのことは当然知っていますね? それに出てくるこういうキャラクターが人気なのもご存知ですよね? じゃあ……の上で読んで初めて面白いところがある。あと、メンタル面での受け入れ準備も関係あるかな、俺tueeeという文脈を恥ずかしく思わずに正面から接種できるかどうかみたいな。

 無作為に他人に勧めて好きだと言ってもらえる可能性は低そうです。単純に、なろう系の内部ですら、序列一位であるとか、一番面白い作品とか、一番売れる作品とか主張したら、首を傾げられる部類の作品でもある。ドラゴンボールとかワンピースの立ち位置ではさすがにない。

 でも、間違いなくある方向に一番尖ってる作品ではあります。

 だから、好きとか嫌いとかは一旦置いておいて、やはり読むべきだと思うんですよね。タイトルにも入れてますが、ラノベ界のエッジランナーなんですよ、この藤高剛志という作者は。かならず記憶に残るし、後世にラノベ文学史、文学のパターンを語るときには、例示の中に必ず入れたい作品群を書いている。

 とくに「なろう系」で、なんか感想とか評価とか語りたいなと思ってる人は、絶対に押さえておいてほしい。文芸を含む、広い意味でのアート分野では、どうしたって基礎教養ってものが発生してしまいます。オタク分野ですら、ガンダムとかジョジョとか押さえておくべき、義務として履修するべきみたいな感じになりますよね。
 その列に並ぶ作品の一つとなるのが、23年度冬期アニメ化・藤高剛志の「即死チート」シリーズとなります。
 いやアニメ化上手くいくかは、謎ですけども。でもコミカライズは面白いし、結構広報も力入っているしいけるんじゃあないか!? 

 頼む! 売れてくれ! バズれ!

  

 あと、藤高剛志の他の作品も、同じベクトルで面白いです。即死チートしか読んでない人、web版だけで書籍は買ってない人、この気に買って読んでみてはいかがでしょうか? 何せエッジの作家なので、ラノベ文芸出版でまあまあ打ち切りの憂き目にもあってたりはしますが、それでも作者買いする価値のある作家だと思いますよ。

 ハルミさんとか、どうにかもっと読めないものかなあ。

 

*1:今はアルファツイッタラーの風倉氏が同じ意味の主張をカクヨムのエッセイやSNSで展開したことで、だいぶ一般的な見解になった気がします。

*2:とある魔術の禁書目録』で鎌池和馬も同じ楽しさで最強の敵を出しまくっているのかもしれないな。でもあの作品の場合は、作者が敵の倒し方を考えるのに苦労しているという記事も読んだことがある

*3:この点勘違いしてると、即死チートシリーズとか展開が悪いと思ってしまう気がする。クセ強なので好き嫌いはいいけど、良し悪しを普通の小説の尺度ではかるのは辞めた方が良い。

*4:普通にそのあたりの作品を藤高剛志が好きで、影響を受けてそう。

*5:だいたいは、どちらかというと主人公が最強でないところを見せるやり方が気に食わなかったとかじゃないですかね? 日常の見せ方が面白いかどうかみたいな……。

「天皇陛下がコロナを心配する」ことの意味

 この記事では、天皇陛下がコロナ情勢を心配している、というニュースについて、その意味を語ります。
 たまたま今読んでいた本と関係して、面白い能書きが書けそうだ、と思ったので。
 

 

+ 國體論「天皇とは民意のことである」

 
 読んでいた本というのは、これのことです。
 面白かったのでまずはオススメ。
 これはいわゆる論文集というやつですが*1その中の一つ、川村覚文「⑧全体を代表することは可能か」が、天皇を扱っています。
 その論文によれば、戦時中の30〜40年代に広まった天皇を絶対視していた「國體」イデオロギーは、通常は大正デモクラシーのような民主主義思想と完全に対立していると見られているけれど、実は民主主義的な理想を共有しているのだといいます。
 
 
 そもそも、民主主義を思想的に語る際には、選挙と議会によって運営する代表制が、民主主義的に完璧とは程遠い欠陥だらけの制度であるという話が前提になるんですね。
 だって、選挙って、どう取り繕っても多数決じゃないですか?
 ということは、少数派の意見を切り捨てる作業が、すなわち選挙なんですよ。
 民主主義っていうのは、国民全体の民意を政治に反映するものですよね。でも選挙を通している限り、民意を政治に反映することには、原則失敗しているとかし言いようがない。だって絶対に民意全体じゃないもん!
 過去の学者たちも、そういう話にはとっくに気付いていて、例えばルソーだとかトクヴィルみたいな、民主主義の起源で生みの親みたいにあつかわれている学者からして、議会制民主主義を否定したり批判したりしています*2
 
 で、戦時中の我が国で広まった、いわゆる國體論によれば、天皇制こそは、そういう民主主義の不備を解決する最良の政治制度なのです。
 
 なぜならば、天皇陛下は、少数であろうが多数であろうが国民全てを気にかけていらっしゃるので。
 天皇陛下は、国民を切り捨てたりしない。全体を全体のまま総覧していらっしゃる。だから、選挙で不可避的に起きる切り捨てのない民意の紛れもなく全体が、天皇陛下を通じて政治にたいして表現される。しかも、日本国民全体も、宗教文化を通じて、それを積極的に承認している。
 ならばこれは議会制民主主義よりもはるかに完全な民主主義であるのだ! 
 
 そういう理屈が、戦前の天皇制度では採用されていたんですね。
 戦時中の天皇制ってもっとこう、絶対崇拝の君主制みたいなイメージでしたが、その理想の部分には、むしろ、より民主主義制度を徹底しようという方向性が掲げられていたという話。
 もっともこの考え方は「より完全な民主主義制度を採用している日本は西欧よりもアジアよりも優れた国である」みたいな、ご都合ナショナリズム理論の基礎となってしまった。だから今となっては全く採用できない理屈ですけれど。
  
 

+ 現代でも天皇陛下は民意(であろうとしている)

 
 國體論は戦前の、もう捨てられた思想の話ですけど、その流れは現代の象徴天皇制にもちゃんと通じているんだと、僕は感じました。
 
 現代日本に、天皇がなんで居るのか? なくしていいんじゃないか? ……みたいな話、大二病ぐらいの時期に必ずするじゃないですか。
 僕もかつてしたことがあります。
 その時に、天皇擁護論者から、必ず出てくる見解っていうのがあるんですよ。
 
天皇陛下は、私たち国民のことを本当に気にかけてくださっている」
 
 大二病に罹患していた僕は、こう思った。
「は? 気にかけているからなに? やっぱ象徴天皇制って意味なくない?」
 皆さんも考えたことがありませんか。そういうこと。
 でも意味がない訳じゃなかった。彼らは実は、民主主義の話をしていたんですね*3
 
 天皇陛下は私たち国民全体のことを本当に気にかけている。
 それは天皇陛下が、国民全体の代弁者、一般意思の表れ、全にして個の民意そのものであるということを意味しているのです。
 民意そのものであるかもしれない存在を、蔑ろに扱うのは、それは流石の僕も抵抗がありますね。象徴天皇は、さすが象徴になるだけのことがある存在だったのだ。
 
 しかもですよ、ここからは僕の全くの想像なんですか、恐らくかくあるべしという理想は、むしろ天皇家内部にこそ強固に受け継がれているのではないか。
 だって昭和天皇から、まだ3代ですよ。普通に考えて、お爺ちゃんがマジに大事にしてた家訓ぐらい、孫は知ってるし守るでしょう。なんか天皇家のドキュメンタリーだかインタビューだかで、国民一人一人のことを気にかけよと教わったみたいな話も聞いた気がするし。
 
 だから、天皇陛下がニュースで公的に発言したら、それは民意を表現している、ということなんですよ
 多数決によっては現れない、権力と経済原理と合理性によって無慈悲に切り捨てざるをえない、しかし存在するし痛ましくも切実な、そういう意思みたいなもの。それを表現するために、天皇とういう存在は公的に発言する。
 
 神ではなく物理的な人間となってしまった天皇には、もはや切り捨てのない民意全体を個の内に宿すことなど、実際のところ不可能なのかもしれない。
 しかし個人としての天皇陛下は少なくともそうしようとしている。
 いえ、何しろ直接話したわけではないが、本当のところはわかりませんが、きっとそうなんだろうと思います。
 
 

+ 「民意」とあなたの意見が一致するのは当たり前です

 
 そう考えたときに、先日の「天皇陛下がコロナと五輪のことで懸念を表明した」ニュースに対するSNSと世界の反応が、ズレてるなあと思って。
  これに対してですね、特にSNSのあるクラスタでは、「天皇陛下がオリンピックを不安がってるw」「中止すべきだと言ったw」「勅旨では?w」という面白がりかたというか、天皇が自分の味方になってくれたというハシャギかたをしている方々が散見された。
 それが、もう全然違うよな、と。ちょっとイラっとしたということですよね。
 
 だってね、天皇陛下の言葉は民意そのものの表現なんですよ。
 ハシャいでいるあなた方、日本国民であって、民意の一部ですよね?
 だったら天皇陛下と意見が一致するのは当たり前です。だって天皇陛下はあなたと一致した意見を言おうとしているんだから。
 そして、これは天皇陛下が貴方に賛成した、のとは違うんですよ
 なぜならば、天皇陛下は民意全体そのものなのだから、貴方の反対意見も同時に個のうちに含んでいるんですよ。
 確かに、オリンピック開催にコロナ対策に不安がある、と陛下はおっしゃいました。だってそういう民意は現実に存在するからね。でも言葉の外には必ず、「オリンピックが開催したいなあ」「ワクチンを打つのはモルモットみたいで不安があるなあ」「賠償で日本が金を払うことになると困るなあ」「とにかく自民党が決めたなら今は従っておくか」みたいな矛盾した意思も持っているのです。だってそういう民意も現実に存在するから。
 賭けてもいいですが、天皇陛下はいざオリンピックが開催されたら、開会式でもどこでも「オリンピックが開催されたことをうれしく思います」ぐらいのことは言うでしょう。なぜなら我々国民の中に、オリンピックが開催されたら嬉しい、という民意は確実に存在するからです。
 
 切り捨てられてない完全な民意全体ってのは、そういうものです。
 矛盾しており、一致しておらず、理屈ではない。
 
 つまり何が言いたいかっていうと、天皇陛下がオリンピック反対派の味方になっただとか、政府がその意思を抹殺しただとか、そういう話ではないということが言いたかった。
 マスコミが天皇陛下のニュースを削除したり改変したりしたとしても、それはせいぜい、街頭アンケートの結果が曲解して伝わっていたので修正した、それが政府に都合悪かったので修正が迅速だった、とか。それぐらいの話じゃないかな。
 海外ニュースが反応していることを得意げに報じるまえに、海外ニュースに対して、いやこれはエリザベス女王が己の意見を言ったのとは話が違うんですよと、日本の文化ってやつを説明したほうがいいんじゃないですかね。
 
 
 
 
 
(でも論文集でわざわざ紹介されなきゃいけなかった國體論の解釈なんて、政府もマスコミも誰も踏まえてないのでは?)
 
(そうかもしれんが、俺の能書きもまた民意ということで一つ)

*1:民主主義って制度のへの不信感について突き詰めたかったので買いました。ちょっと前の本ですが、今の時代にこそホットだと思うし、オススメですよ。

*2:昔、日本の国会議員が何かで首相を批判するときに「それは議会制民主主義の否定だ!」と怒っていたのが、個人的に印象に残っています。議会制民主主義って否定されて当然ぐらいの制度だと思うんですよね……それが正義とイコールみたいになってるのが解せないっていうか。

*3:たぶん自分ではそのつもりがないとしても、彼らにその考えを教えた人はそのつもりだったはずです。

『虚構推理』おひいさまは現代ミステリ最先端の体現だ

 今回は『虚構推理』について書きます。
 2020年3月現在、アニメが絶賛放映中のミステリ作品です。原作厨を自認する僕はアニメを見たかったがために、まずは原作のほうを全巻買いました。
虚構推理 (講談社タイガ)

虚構推理 (講談社タイガ)

 

 

 そしたらこれが、なんというか批評的な意味で面白かった。

 語りがいがありそうだったので、アニメが終盤に入ってきたこのタイミングで、一発ブログにまとめておきたいと思います。

 
 結論から言えば、『虚構推理』は平成後期から令和現在にまで連なる、本格ミステリの困難――もしかしたら本格ミステリの"衰退"――を踏まえたうえで、それを克服しようとしている。時代の最先端にあるミステリ*1だということです。しかも作者は、恐らく計算と作為によってそれを書いた。
 そしてその計算を体現しているのが、『虚構推理』人気の本体であろう岩永琴子、通称おひいさまです(ということにします。記事タイトルをキャッチーにするために)。
 計算して書かれた最先端であることは、この作品の最大の長所でもあり、短所でもあると思いますが、とりあえず今読んでおくべきなのは間違いない。メディア化されたのも当然の作品だし、今後これを踏まえた作品というのが出てくるのではないでしょうか?
 
 本記事では「虚構推理」をなぜ作為された最先端のミステリと僕が評価するのか、ミステリというジャンル全体の展開を踏まえたうえで、勝手な批評を書きなぐっていきます。
 
 

+ミステリとは「異常な状態を正常に戻す」ジャンル

 
 まず前提条件から始めます。
 そもそもエドガー・アラン・ポーの登場以来現代にまで連綿と続く、ミステリというジャンル、脚本論的に言えば「異常な状態を正常に戻す」ジャンルです*2。 

 これは史上初のミステリとされる『モルグ街の殺人』ですが、このあたりからもうお約束という名の物語構造が構築されている。一般的には、これをそのまま踏襲した、シャーロック・ホームズのほうが有名かもしれませんが。

 

 そもそもエンターテイメントであるならば、ストーリーは、まず何らかの問題に直面し、それを解決しなければなりません。
 例えばバトル漫画なら「強い敵が出てくる→邪魔なので→倒す
 パニック映画なら「死にそうな状況になる→死にたくないので→逃げる
 刑事ドラマなら「犯罪が起きる→任務なので→犯罪者を捕まえる
 というプロセスを描きます。
 
 これがミステリの場合は、
異常な事態が起きる→異常なのは怖いので→異常ではないと指摘する
 です。
 先に刑事ドラマを別途挙げておいた通り、犯人を捕まえることが目的地ではないのがミソです。人間の感情は、本能的に整理された状況を望み、異常な状況で不安を覚えます。不条理を解決することで、読者の感情を不安から安心へと動かす。それがミステリというジャンルに課せられた使命であり、目的だと言えます。
 
 

+犯罪は「異常な事態」ではない

 
 ここからちょっと極論寄りの持論を述べてしまいます。
 先に述べた「異常を解決する」意味でのミステリはジャンルとして――特に古典的な探偵ミステリに顕著なのですが――実は21世紀現在、時代遅れになってしまっています*3
 
 大きな原因は、犯罪が「異常な事態」でないことがバレてしまったことにあります。
 ポーやホームズの時代、つまり19世紀から20世紀中盤まで、犯罪者っていうのはすなわち異常者でした。まともな人間は犯罪を犯したりしないし、つまり異常者である犯罪者は何をしてくるか判らない。皆きっとそう思っていましたよね?
 だからそれを倒すヒーローは「異常者の思考を読み解く者」であればよかったのです。
 
 ところが、社会科学の発展と情報メディアの発達によって、犯罪者は異常者ではないことが読者一般に明らかになりました。
 
 殺人のほとんどはカッとなって勢いで行われます。何十年もかけてトリックの準備をする人は居ません。
 犯罪のほとんどは、バカが貧乏と短気を理由に起こします。巧みなトリックで不可能犯罪を作ることができる犯罪者も居ません。
 犯人逮捕に必要なのは、アリバイの確認や言葉の矛盾を突くことではなく、自供と目撃証言です。時刻表の読み解きや密室の解明やなどどうでもいい。古畑任三郎が揚げ足取りで追い詰めた犯人はたぶん現実なら無罪になっているのです。
 
 『虚構推理』のおひいさまもこうおっしゃっています。
 

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身も蓋もない探偵

 こういう言動、現代のミステリではもう定番ですね。
 探偵役が「児童虐待なら児童相談所だ」とか「この密室を解く必要はないだろ」とか、身も蓋もなくオッカムのカミソリを持ち出してくる。それで、相棒のミステリマニアが「それはどうなの」と当惑したり呆れたりする。
 ミステリの側も、認めざるを得なくなっているのです。我々のやってきたことは現実の犯罪とは何の関係もなかった、と。リアリティと論理の整合性を確保するためには、もうミステリの側がこれを言わざるを得ない。
 この話は普通、ミステリ界隈では"後期クイーン問題"という名前で、全く違う切り口の下に整理されています。ただ、僕は今、そのバックグラウンドにはそもそもの社会情勢の変化――社会一般における犯罪への理解の促進――があったという話をしています。
 
 

+「探偵」はもうヒーローではない

 
 更に、現実の犯罪と探偵ミステリが完全に切り離された結果、平成後期以降のミステリでは「探偵」がヒーローではいられなくなっています
 
 シャーロックホームズの時代、探偵とは、圧倒的なパワーで正義を成すヒーローでした。
 しかもそのヒーローは他と違って現実に存在するかもしれなかった。戦隊レッドに変身するためのガジェットは偽物のオモチャしか存在しないけれど、頭脳と推理力と観察力なら誰もがも持っています。訓練すればマジでホームズになれるかもしれないという希望があった。
 少しませた子供が、大人になったら戦隊よりもシャーロックホームズになりたいと真面目に言っていた。そんな時代がかつて確かにありました*4
 
 今は違います。「探偵」は荒唐無稽な存在です*5
 いまや、ギャグの一種ですらあります。漫画の『ああ探偵事務所』や『命運探偵神田川』や『全く最近の探偵ときたら』を読んだことはありますか? 
命運探偵 神田川(1) (ガンガンコミックスONLINE)

命運探偵 神田川(1) (ガンガンコミックスONLINE)

 

 これは個人的に特にオススメの神田川

 ギャグ漫画でネタとされているだけならまだ言い訳がきかなくもないけど、どちらかといえば、JCDとかいって探偵って要素をネタ消費しはじめたのは本格(シリアス)のほうが先ですからね。

 あとは、最近の金田一少年やコナンの扱いがとくに来るところまで来た感じがあります。犯人目線の漫画面白いですが、「探偵」が、もうヒーローというより、災厄とか確定フラグの類になっていることにお気づきでしょうか。同じキャラクターを書いているのに、90年代の探偵と令和の探偵で明確な差がある*6
 
 当たり前だけど、ヒーローが出てくる小説・脚本っていうのは、それだけでもう魅力的です。つまり、かつて「探偵」は存在するだけで物語の魅力を一定程度担保する存在だったのです。
 
 それが現代では違うということ。
 
 今や、ミステリであることが物語の魅力に直結しない
 
 本格ミステリが斜陽になるのも当然です。かつてSFというジャンルが、現実の科学に追い付かれて冬の時代を迎えたのに似ているんじゃないでしょうか*7
 
 

+ヒーロー物語から激辛ラーメン

 
 こんなことを言うと、ミステリファンを自認する方々から、いやミステリは今でも面白いよ! という反論があると思います。
 実際、以前ほどの勢いはないにせよ、相変わらずミステリは売れていますしね。
 ただ、それについて、僕は適切な比喩を一つ持っています。
 
 今のミステリっていうのは、激辛ラーメンなのです*8
 
 本当に美味い激辛ラーメンって、食べたことあります? 辛い! 辛いけど食べられるのが辞められない! 美味さと辛さが後からくる! そんな感じの。あの旨さを引き出しているのは、果たしてトウガラシのカプサイシンでしょうか? 違います。トウガラシが入っただけの水なんておいしくもなんともない。旨さを持っているのはあくまでも質の良い油や出汁です。旨い激辛ラーメンは、トウガラシが入っていなくても間違いなく美味しい。
 ミステリ要素っていうのは、ラーメンで言うところトウガラシなんですよ。
 確かに、料理は辛ければ辛いほどいい! というガチのミステリファンは居ます*9。いますが、多くの場合、ピリ辛ラーメンを食べる人が美味がっているのは実は辛さそれ自体ではありません。
 つまり、ミステリに分類される作品を読んでいても、多くの人々はミステリの特徴であるとされる謎解きや論理を主な魅力と感じてはいなかったりする*10
 
 かつて、ミステリっていう素材からは、濃厚な出汁が出ていました。
 もうそれを入れただけでラーメンが美味しくなるレベル。
 しかし現代において、ミステリだけでラーメンを作るのは無理です。素材がカラカラの鷹の爪みたいにになってしまっているのです。今のミステリからは、旨味の欠けたカプサイシンしか得ることができません*11
 
 

+次郎ラーメン系ヒロイン、岩永琴子

 
 そんな訳で、ミステリ、というジャンルはこの現代において衰退の危機に瀕しています*12
 なので、エンターテインメントとしてのミステリをやろうと思ったら、何か別の要素で旨味を補う、それなりの工夫が必要です。
 『虚構推理』は、その工夫がすごい。
虚構推理 スリーピング・マーダー (講談社タイガ)

虚構推理 スリーピング・マーダー (講談社タイガ)

  • 作者:城平 京
  • 発売日: 2019/06/21
  • メディア: 文庫
 

  もちろん、工夫を凝らしているのは他のミステリ全般もですが、『虚構推理』の場合は、工夫の具合が良い意味でえげつない。それを逐一指摘することが、批評として面白いと思ったので、僕はこんな長文を書いているのです。

 
 その工夫が、最も直接的に表れているのが主人公の岩永琴子の存在です。
 
 アニメやコミックから『虚構推理』に入った皆様は、"おひいさま"こと岩永琴子が魅力的なキャラクターであることを全面的に認めてもらえるのではないでしょうか。
 2012年のミステリ小説『虚構推理』が、令和の今になってアニメ化している。その原動力のうち半分ぐらいは、主人公の魅力にあると言っていい*13
 
 ではその魅力を生み出しているのが何か。
 冷静に考えると、これがものすごい露骨なのです。
 
 列挙してみましょう。
 岩永琴子は、まず、言いにくいことをズバズバ言っちゃう系女子です。主人公が持つべき資質としては一つの鉄板ですね。社会からのしがらみに囚われることのない、読者とは一線を画した、理想像としてのメンタル強者です。
 あと低身長です。つるぺたです。めちゃくちゃかわいくて、西洋人形のような、という描写が小説でも頻繁に使われます。服装もそれに即したひらひらフリフリのデザインです。杖も障碍者用というよりただのオシャレアイテムに見える。あと、このキュートさは強者メンタルとのギャップを演出してもいます。
 それと、おひいさまは超能力者です。特殊な生い立ちを持っています。それで、いろんな化け物と話すことができます。夏目友人帳です。ドリトル先生です。これも一つの鉄板ですね。
 更に、義手と義眼を使っています。身体に欠損があるって、中二病のころ憧れませんでした? ぶっちゃけハガレンですよね。露骨にそれをアピールもします。読者の前で義眼の眼球部分にわざと触ってみせたり、義足を外してくつろいでいるところを見せたりします。フェチズムです。
 彼女は、なんと少女漫画的な恋愛の主体でもあります。物語中で、推理するとき以外はほぼ全部、恋愛のことを考えています。その文脈でのギャグも多くて、つまりラブコメ要素も完備です。
 
 そして、この主人公を最も象徴すると思うセリフがこれ。
「大丈夫?」
「ええ…、破瓜の痛み比べればこれくらい」

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この顔をしながら言った
 なんて露骨なセックスアピール!
 こんなこと言うヒロイン、ラノベでもなかなか居ないよ。
 しかもこのセリフ、読者へのセックスアピールであると同時に、自ら恋愛にアプローチする強いヒロインの表現でもあり、衝撃的すぎることを言うタイプの下ネタギャグでもある。おひいさまのキャラクター性を象徴する一コマじゃないです?
 
 いやあ、なんでしょうか。
 この、お前らの好きなものを全部つめこんだぜ!感は。
 ラーメンでいえば全部乗せ、いや、それも超えていっそ次郎系かな。
 探偵要素だけじゃ魅力を作れないなら、探偵以外の魅力を詰め込めばいい!!*14 エンタメ創作理論としてめちゃくちゃ強力ではないですか。
 
 ちなみに、この方向性でミステリを成立させている他作品は、『謎解きはディナーの後で』とか、『心霊探偵八雲』とか。あの辺の作品は、硬派なファンには賛否両論あるんでしょうが*15、個人的にはそれで激辛ラーメンが美味くなるんだからそれでいいんではないかと思う。
 それらの作品にしたって、岩永琴子ほど属性山盛りではなかったけども。
 
 

+ミステリに媚びるため、ミステリ以外のジャンルに媚びる

 
 さっきちょっと夏目友人帳がどうとか言いましたが、その点も重要ですよね。
 『虚構推理』は、ミステリであると同時に、妖怪モノです
 
 ミステリと妖怪は親和性が圧倒的に高い。
 私見というか、偏見と言われてもしかたないですけど、ミステリファンを自称する女性なら、絶対『夏目友人帳』とか『蟲師』とかも好きでしょ。金田一がすぐに山奥の廃村に行って怪奇みたいな目にあうのも、メフィスト賞の探偵役がやたら民俗学に詳しかったりするのも、理由が同じでしょ。
 無理やり理屈という名の軟膏を引っ付けるとするなら、もともと「異常な犯罪」に関わろうとするのがミステリだったからでしょうかね。ミステリを好む者はその解決の有無に関わらず、「異常な状態」に魅力を感じていたのであって、従って別の「異常」に関わる物語、つまり怪異・妖怪モノに魅力を感じるのかもしれない。
 まあ、理屈の是非はともかく、こんなのは経験的に誰もが判ってることなんですよ。
 
 『虚構推理』はいっそ露骨なほどにそのツボを突いてくる。
 
 ミステリをやります → 魅力を増したい → だから妖怪を出しましょう!
 
 こんなダイレクトな発想ある?
 あと、妖怪モノとして見たときも、人間に友好的な、かわいい妖怪を出してくるのも良さ味がありますよね。ホラー調の怖い妖怪って、それこそ鋼人七瀬ぐらいしか出ません。おひいさまにてんこ盛りされた属性と同じ。絶対にウケたいという強い意志を感じる。
 
 しかし、妖怪モノであることは、あくまでもミステリとしての魅力を追及するためです。
 この事は、ミステリとしての『虚構推理』の頑固さをみれば一目でわかります。
 

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しつこすぎる蛇
 『虚構推理』は、いっそくどい程に延々と、論理を積み上げます。"理屈が通っている"ことに、作品の熱量と会話とページ数のほとんどを費やします。
 アニメ化範囲では、蛇のエピソードとか顕著ですよね。あと今放映中の鋼人七瀬討伐シーンもですが。アニメの蛇のシーン、2話から3話のほとんどを使ってしまって、鋼人七瀬のレスバも全然進むペースが遅くて、「ちょっと話しつこくね?」と思いませんでしたか。
 あれは実際にしつこい。
 ミステリがそこまで好きでない、尋常の書き手なら削ってしまうところです。
 
 しかしこれがミステリファンという激辛好きには必要なのです。
 述べたように、ミステリパートっていうのは、激辛ラーメンで言えばカプサイシンなんですよ。実はちょっぴり振りかけるぐらいに抑えておいたほうが一般受けする可能性がある。
 でも、精読して理屈の不備が見つからない事。重箱の隅が存在しない事がミステリの条件で、それはノックスの十戒よりもはるかに強力な第零戒といえます。重箱の隅をつぶしきるためには、それなりに行数を食ってしまいますが、それをやっているからこそ『虚構推理』は、妖怪モノでありがながら、ジャンルとしてはミステリでいられる。
 
 この作品は、ミステリ外にめちゃくちゃに媚びていながら、いっそラブコメ異世界転生ラノベか、という要素を主人公に全部盛りにしながら、そのすべては「ミステリであること」に奉仕するためにある。明確にミステリファンに向けて書かれているのです。
 
 ……いや実は『虚構推理』は2012年の原作公表時から、これはミステリなのか? という議論になることの多い作品なのですけどね。妖怪とか超能力が出して、ノックスをバールのようなもので殴りつけた上、"理屈が通っているだけ"の言い訳みたいな論理でアリバイ作りを重ねてくるから。
 でも、結局のところ、ミステリというしかないでしょう。むしろここまでやってなおミステリであることを褒めるべきだと僕は思う。
 
 

+「謎を解かない。問題を解決する」という答え

 
 更に『虚構推理』は、犯罪とミステリが無関係になってしまった、という時代の要請にも明快な答えを見せています。
 それは、そもそも犯罪や謎にかかわらない、というものです*16

 複数の事件に矢継ぎ早に関わる、短編集を読むのが判りやすいでしょう。

 現実の犯罪や謎に関わらない、という一点について『虚構推理』は徹底しています。

 そもそもおひいさまは、自らの異能力を使って、犯罪の犯人を立ちどころに知ることができます。彼女はどのエピソードでも、だいたいが「現場にいた妖怪が目撃していました」で真犯人を特定しています。

 しかし、おひいさまは、だからと言って犯人逮捕に関わったりはしません。そもそも関わるまでもなく、真犯人は警察が捕まえた人物で間違いない場合がほとんどですし、そうでない場合ですら特に何も言ったりはしません。
 おひいさまが解決するのは、あくまでも妖怪の問題です。
 彼女は、自らの知能と論理思考能力と弁説をもって、妖怪を説得したり、疑問に答えたり、妖怪の要請に従って現実の人間に干渉したりします。そのためなら、持ち前の頭脳でもっともらしい嘘をついたりもします。
 
 注目したいのは、あくまでも頭脳で問題を解決している、という点です。
 怪異を己の頭脳と論理のみでひも解く、ヒーローとしての探偵が復活している。
 
 確かに、おひいさまこと岩永琴子は超能力者です。しかも相棒役の彼氏は、おまえワンパンマンにいるS級ヒーローの上位互換よね? って感じの能力者で、彼女もそのパワーを存分に利用します。
 でも、あくまでも問題の解決は、頭脳一本槍なんですよね。
 
 最初のほうで、シャーロック・ホームズというヒーローについて述べたことを覚えていますでしょうか。頭脳一本でヒーローになれるなら、自分もヒーローになれるかもしれなかったんですよ。仮面ライダーの変身ベルトは持ってないけど、頭脳は自分にもあるんだから。
 それと同じで、岩永琴子になら、読者もなれるかもしれませんよね
 確かに妖怪と話す能力なんて僕にはないけれども、それが彼女の本質でないことぐらい判ります。
 
 これはもはや、魅力としてのジャンル「ミステリ」が復活しているではないか、と思う
 
 『虚構推理』の"犯罪には関わらない"という姿勢は、しばしば「アンチミステリ」という語に絡めて語られると思います。
 でも僕は、本格ミステリっていうジャンル内部だけではない、もうちょっとエンタメにとって本質的な事がここでは起きていると感じます。そしてこれは、同じようにアニメ化した『氷菓』なんかが有名ですが、ミステリっていうジャンル全体で起きている変化の一端なのではないか。
 
 

+良くも悪くも「良アニメ化」

 
 まとめます。
 
  • ミステリは平成後期以降、本来の魅力を喪失しつつあった
  • 『虚構推理』はその状況へのアンサーとして秀逸である。
  • アンサー①ミステリと無関係の魅力をしこたま盛った。
  • アンサー②なおかつミステリとしての魅力を徹底した。
  • アンサー③リアルな犯罪に関わらないことで、知的ヒーローとしての「探偵」を復活させた。
 
 まあ正直なところ僕はミステリ読みでは全くないので、本当のファンの見解とは一致しないかもしれませんがね。
 
 ところでこんな特徴を持つ『虚構推理』ですが、こんな特徴を持つからこその欠点が、明確に存在するようにも思えます。
 一つは、中二病ラノベ的に設定をガン盛りした結果として、旧来の硬派な本格ミステリファンがちょっと引いた目でみてるフシがあります。僕はラノベもよく読むので全く気にならないですが、だからこそ、ラノベ的要素に引いちゃう層がかなりいるという現実はよく知っている。
 もう一つは、ラノベ的魅力で人を集めた結果、ミステリが大して好きじゃない人まで作品に集まっています。述べてきたように、彼らにとって論理とか謎解きは魅力とならない。他の人の漫画の感想を読んでいて「謎ときシーンは退屈だから読み飛ばせばいいよ」とか書かれているのを見つけてしまって僕は、ああーっ、ってなりました。
 つまるところ、ミステリファンからも、非ミステリファンからも、全面的には受け入れてもらってない現実がある。
 
 今のアニメ化も、だいぶそれに即した作りになっていますね。3月17日現在、アニメは鋼人七瀬解決編の長い長い描写にはいっていますが、もう毎週「あんまり話が進まなかったな」みたいな感じになると思う。でも『虚構推理』はあくまでもミステリですから、これが元からなんですよ。
 第1話からテンポよく小粒な謎を解決していったのは、さすが良アニメ化の演出。しかしアニメ演出の方は、中盤から後半にかけて、むしろ忠実にミステリとしての本作を再現することに力を注いでいるように見える。そのことで、『虚構推理』の悪いところも忠実にアニメ化している……と言えるかも。
 アニメ期間の半分以上を原作と関係ない事件に費やした『ロードエルメロイⅡ世』とは真逆ですね。どっちが良いかは判断しかねる。
 
 まあどっちみち、僕にとっては面白いので、このまま続きを楽しみにしたいと思います。皆様も楽しみにアニメ終盤を見ていきましょう。
 (もしくは見終わってこの記事にきましたか? どうでしたか?)

*1:といっても、これ2012年の作品ですけどね。まあ2020年の現代まで同じ時代が続いていると考えればいいだろう。

*2:参考:ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101

*3:後にも注釈をつけていきますが、謎解き全振りを趣旨とした本格ミステリの台頭は、この時代の変遷に対応した一つの形だったのだと思います。しかし結局のところ対応しきれておらず、後期クイーン問題とか言い出さざるを得なかったのだと思う。

*4:これは実体験ですから時代の有無についての異論は認めません。

*5:この変化がいつから始まっているのか? について僕は語ることはできないのですが(ミステリの古典全般は追えていないので)、本格というジャンルの誕生自体「探偵」の脱ヒーロー化の進行と関係があったという読みも可能かもしれませんね。

*6:犯人モノのスピンオフだけじゃなくて、例えば本人が書いている続編『金田一37歳』にすらそういう傾向は現れているように思うんですよねえ。今回そこには踏み込みませんけれど。

*7:そして今、ジャンルとしてのSFは科学の更なる発展の兆しによって復活しつつある……のではないか? まさか『ロボサピエンス前史』が売れる時代になるとは。ミステリも何らかの社会的要因や作劇上の発明でそうなっていくかもしれません。ていうか今、それについて僕は記事を書いているのかも。

*8:この例えは、僕がネットで無貌の誰かに諭されたもので、オリジナルではないことを一応明記しておく。

*9:そういうミステリファンが読むのが例えば『その可能性は既に考えた』だったりします。一般人にあれは無理。ていうか僕があまり好きじゃないです。

*10:っていうかこれ僕の読み方の話ですけどね。でも少なくとも的外れじゃないし、自分側がマジョリティだと自分で思ってます

*11:逆に言えば、カプサイシンを得ることはできるわけですよ。話の流れ上ミステリ全体を貶すみたいになってますが、それはそれで唯一無二です。なんの料理にせよ、ピリ辛要素はやっぱり美味になることが多いのではないでしょうか。

*12:ここ凄く怒られそうなので言い訳を追記しておくんですが、先に述べた通り「ミステリ」を「異常を解決する」ジャンルだと定義した場合にそれが衰退していると言っているのであって、本屋のミステリの棚が消えるとか言っているわけではないです。あと、この記事は「衰退の危機を現代ミステリがどう克服しているか」についての話ですから、現実には危機はもう去っているはずです。

*13:なお、もう半分は大胆なコミカライズの手腕です。原作読んで、アニメ見て、それからコミカライズ読んだら「アニメ良改変じゃん!」と思ってた部分はほぼコミカライズがやっていましたよ。

*14:念のため付記しておきますと、別にキャラに要素をぶち込むのは現代ミステリに限ったことではありません。ごく標準的な創作手法です。でも、探偵役が「探偵以外」の要素を必ず持つみたいな傾向は、最初に述べておいたようなミステリの危機が顕在化して以降の顕著になったと思う。「探偵」一本槍ではもはやキャラクターが成立しなくなっている。

*15:本格ミステリが一番ブームだった世代には、真顔でアニメ絵のラノベを読むのはつらいものがあるでしょう。気持ちはわかります。たぶん。

*16:先にもたびたび述べていますが、恐らく作者的には"後期クイーン問題"という呼ばれる、ミステリ特有の問題にたいする答えとしてこの姿勢を出していると思います。しかし本論では、それは必ずしもミステリ特有の問題を反映したものではない、社会情勢の変化に対応するための答えでもある、という解釈を使っていきます。

『宇崎ちゃん』献血ポスター問題を表現の自由戦士として考える

 今回は『宇崎ちゃんは遊びたい』献血ポスター問題について、表現の自由戦士*1として書きます。
 というのも、はてブ界隈で"冷静な議論を出来る人がいた"というブログ記事が称賛されていたのを見たので。
 

 気になったのは、ポスターに不快感を覚えた女性たち(恐らく)がこぞって「冷静に議論できるオタクというのが居て嬉しい」とか「他のオタクはこれくらい考えてから言え」とかコメントしているってことです。
 いや僕はずっと冷静に宇崎ポスターを擁護、というか、宇崎ポスター反対運動はダメだと思っていますが。ちょっと女性側に賛同する男の意見が出てきたからって、冷静な議論扱いするされてるのは納得いかない。あなた方それは自分に賛成しない意見を感情的とみなしているだけなのでは……。
 あと元ブログに少し賛成できない点もありましたしね。
 
 既にブームに対して遅きに失した感はありますが、自分の中の論点を整理することを主目的に、見ず知らず人のブログへのアンサーを勝手に書いていきます。
 
 

+元ブログ(紙屋高雪さん)の考えまとめ

 
 まずは元のブログの考えをまとめます。
 
  1. 巨乳女性のイラストは環境型セクハラとして女性の人権を犯していない(この点で太田弁護士は間違っているか、少なくとも主張が雑である)
  2. しかし巨乳女性のイラストは我々の思想に無意識に影響を与え、女性は消費していい、との意識を醸成する恐れがある
  3. したがって、あのイラストに不快感を覚えたという主張は真摯に聞かねばならない
  4. しかしながら不快感を覚えるからといって作品自体の撤去や規制を求めるようなことはあってはならない。表現の自由は守るべき。
  5. しかしながら、公共団体のポスターにすべきでない、と主張し、政治的公正を求めることは表現の自由の侵害ではない。
 
 ざっくりとしたまとめですので、実際には元ブログを読んでください。
 これが冷静な議論、と言われるのは、双方の意見を順々に肯定する形で文章を提示したからだと思う。元ブログの論旨は、太田弁護士は間違っている→でも女性は正しい→表現の自由は大事だ→でも公共の場批判は正しい、の順番に論が展開されています。これは発言者の態度としてはなかなか巧者だと思います*2
 
 しかし、だからこそ表現の自由戦士たる僕は、そんなテクニックには騙されんぞ! という反骨心を露わにするわけです。
 
 僕から強く批判したいのはまず②についてです。
 そして⑤ひいては③の不可能について指摘します。
 最後に「ならどうするのか」「この先どうなるのか」について、元ブログの枝葉末節を用いながら僕の考えを述べたいと思います。
 
 

+巨乳女性のイラストは我々に女性差別感情を植え付けない

 
 まず②について。
 結論から言えば、巨乳女性のイラストが、我々または子供の権利意識に影響を与えることは無い、または無視できる程度に軽微であると考えられる。
 
 この点、フェミニズム界隈、あるいは教育界の皆様には以前から僕は不満を持っています。フェミニズム以外の学問をちゃんとやりましょう。これはメディア論、メディア効果論の分野です。
 社会学の一分野であるメディア論では、20世紀までに「テレビやゲームの影響が社会全体や子供の発育に対してどれくらい影響があるのか?」を詳細に研究しています*3
 それによれば、例えば「TVCMを見ることで思想を転向して大統領選の支持者を変える」という行動は全く観察できませんでした。
 また例えば「暴力的な映画・ゲームをした後に、子供が暴力的になる度合い」は、統計的に有効となるほど大きくはない*4。影響は無視できる程度に小さく、またあったとしても一過性のものであることが確認できています。
 メディアの影響は、少なくともストレートにな意味では、弱い。
 ですので、普通に考えて、エロいポスターを見たからといって、大人や子供がエロくなるとは考えられないと言える。
 
 なぜそうなるのか?という事についてメディア論は、一般的に選択的需要という概念を用いて説明します。
 大統領選のTVCMは効果がないのではありません。もともとその候補に興味がある人たちに強く喚起する力があります。暴力的なゲームは、もともと暴力的な素養を持つ子供にのみ強く影響し、その子はゲームの真似をした犯罪を起こしたりします*5
 つまり、受容する側の状態が、あるメディアの影響を受けるかどうかを決定づけるのです。メディアの側が、その影響力で、受容者の状態を変えることはない
 体験的にも理解できるのではないかと思う。人間は誰かに言われたからって簡単に考えを変えたりしない。FPSゲームのプレイヤーが銃犯罪に走り、エロゲーのプレイヤーが性犯罪に走る可能性は極めて低い。映画ジョーカーを見て犯罪に走る人が居たなら、その人は映画を見る前から鬱屈していたのでしょう。
 
 ……ちなみに、では子供の人間性に最も強く影響するのは何か? それは両親です。メディアの影響など、両親の影響力に比べたら極小もいいところ。
 僕もいいかげん親世代ですから、テレビや漫画の影響を受けて子供が悪行を行わないか心配なのはわかりますが、貴方の家庭がちゃんとしてればまずそういう子供にはならない*6もしも貴方の身近に、女性をモノ化して扱う男性がいたとしたら、まず考えるべきは、彼の父親がそうだった可能性でしょう。彼が性的漫画を読んだかどうかではなく……。
 
 閑話休題。いまは他人の家庭の健全さについての話をするときではありません。
 ともあれ、そういう訳で、宇崎ポスターの影響力で子供ひいては社会全体の女性感が歪む心配などする必要がないと、明確に言える。
 元から社会が歪んでいたらエンタメが女性蔑視的なシーンを書くことはあるでしょうし、過去あった。しかしその逆は無い。エンタメやメディアには社会を歪める力など認められない。
 
 表現の自由戦士と呼ばれる人たちは、もともとフェミニズムと戦うよりも、ゲーム脳だなんだとやってくる教育関係者と戦ってきましたので、この「メディアの影響などない」話にはまあまあ敏感です。
 逆に「文化が女性をモノ化する思想を保存拡散している」というのは、古くからフェミニズムが拡散してきた思想ですので、真面目に本を読んで勉強した結果信じてる人が専門家にも結構多いです。
 僕がここでしてのは、このうち、前者が正しく、後者は間違っているという話です。
 最初も言いましたが、僕のフェミニズムに対する不満ってのはそれで……彼女らはしばしばフェミニズムの古典に書いてあった、今の科学なら否定できる神話をそのまま紹介するんですよね。これもその類です。
 
 

+それは「政治的公正」なのか

 
 次に⑤について。
 元ブログは、公共の場のポスターにするな、という主張をするのことは表現の自由の侵害にはあたらない、という旨の主張を展開しました。僕も今回の場合*7それは賛同せざるを得ないと考えるところです。
 ただし、その主張が「政治的公正」に基づく、という点については疑問を呈したい。
 
 先に述べた通り、性的なポスターが公共の場に掲示してあることによる、文化・人権的な負の影響はほぼ存在しないと考えられます。あの内容を見たからといって、ヒトは、女性をモノ化してもいいとか考えるようになったりしない。
 となれば、実質的なデメリットはないということです。
 
 あれを見た女性が不快になっている、という事実を除けば。
 
 そうです。その点だけは紛れもない事実として、真摯に男性が受け止めねばならないでしょう。「宇崎ちゃんはウザ顔をするキャラで絶頂表現ではない」とか「巨乳なだけのキャラである」とかいう主張は、原作漫画のファンでもある僕は全くそのとおりだと頷くものの、それでも女性が不快に感じた、という事実は覆すことができない。
 宇崎ちゃんは、実際性的であるからウケているキャラクターです。
 性的なポスターじゃないし不快に思う方が変だよ、みたいな話はちょっと論点ずらしと言われても仕方がない。
 
 一方で、不快な表現だから撤去すを求めるという主張が「政治的公正」だ、という話になるとどうか。
 全面的に否定はしませんが、強い疑問がある。
 なぜなら、あの表現を求める政治市民は、不快感を覚える市民と同様に、実在するからです。しかもその市民はおそらく男性であり、反対派の女性と同数であると仮定できる。その状況でどっちが公正かを本当に決められるのか? 何度も言いますが、合理的な実害は女性の嫌悪感情以外にないんです。
 
 こう言うと、「いや、好きにやっていい権利と、嫌なことをされない権利では、後者が優越する」という理屈を出してくる方もいるでしょう。
 しかし、それも程度問題があります。
 実際、紙屋さんの元ブログでは、「件のポスターは環境型セクハラに当たらない」という旨が明確にされました。確かに胸は強調されているが、性器どころか肌も露出していないというのが客観的記号的事実。法的には明確にセーフです。こういうセーフの表現を、気分でアウトにしていくなら、他の表現も嫌われるという理由でアウトにできる。
 一部の煽り系自由戦士には、これがダメならジャニーズも禁止な! とか言う人が居ます。僕はそうすべきとは考えませんが、しかし客観的事実や法の範囲を逸脱した範囲に「公正」を置くならば、そういうアウトが現実的になっていく。
 それが政治的公正なのか。僕は違うと思う。
 
 

+女性の嫌悪感の優越への疑義

 
 そもそも女性がああした巨乳キャラのイラストに嫌悪感を覚えるのは、進化生物学的な理由が大きいと思われます。
 ヒトという動物の雌にとって「自分が欲情してないときに、他の雄が欲情している」状況は純粋にリスクです(レイプされるかもしれない)。したがって、ヒトの雌は雄の性欲を喚起する自分以外のモノについて基本的に嫌悪感を覚えるようにできている
 
 この知見を実際に現実で使っている人たちが居ます。ナンパ師といわれる人たちです。
 友達にいるのですが、彼はナンパ師だけあってとんでもないドスケベです。しかし彼曰く、どんなエロい発言をしてもだいたいの女性にキモいセクハラと思われない、そんな方法があります。それは「一切ニヤニヤせずに真顔で言うこと」です。ポーカーフェイスでさえいれば、貴方のパンツを見せてください、という発言をしてもセクハラではなくギャグとして処理できる。ニヤニヤしている=欲情しているという視覚情報さえ与えなければ、女性の動物脳は騙すことができるのです*8
 女性の嫌悪感を引き起こすのは言葉やコンテンツの内容ではない、ということです
*9
 宇崎ポスターを見るのがオタクであり、オタクはニヤニヤしてキモい、という想像力が嫌悪感を引き起こしている可能性が高い*10
 
 最近のtwitterでは、このことを女性の「負の性欲」と呼び表す表現が少し流行ってきているようです。
 この表現は非常に強力だし的確だと思います。
 女性にとって、宇崎ちゃんの巨乳に嫌悪感を覚えるのは、男性が宇崎ちゃんの巨乳に引き寄せられるのと同じぐらい当然のことである。この認識は、多くの女性が"男ってバカだから"とある程度譲歩を引き出してくれるのと、同じ効果を多くの男性から引き出せる可能性があるのではないか。
 しかし一方でこれは、女性が巨乳に嫌悪感を持つという状態は、男が巨乳を好きなのと同じくらいしょうもない反応である、という話にもなる。
 
 はたして、そういう嫌悪感に配慮することが「政治的公正」になりえるのか。
 女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するなんて理屈が倫理哲学から導き出せるのか
 イエスもノーも考えは様々だと思いますが、少なくとも全会一致の結論とか、自明の前提とはならないはずです。*11
 
 

+真摯に聞いたからといって解決するのか

 
 更に、宇崎ポスターへの嫌悪感は女性の生物的反応、負の性欲である、という認識によって③が怪しくなってきます。
 
 例えばゾーニングをしっかりやって、宇崎ポスターが献血の場に出てくることがなくなったとしましょう。そしたら似たような批判はもう出てこないのか?
 そうは思わない。男が欲情しなくなるぐらいありえない。
 
 実例をまとめてくれた人もいます。

 これまでに、駅の擬人化、のうりんポスター、ヴァーチャルコメンテーター、専門誌の表紙、コンビニの売り場、果ては本屋の専門売場コーナーまで、ざまざまなものがやり玉にあげられてきた。

 しかも重要なのは、これらは全社会的ななにかではない。たまたま誰かの目についてSNSで拡散した以外の共通点がない。他にエロ方面でやばいものはあったが、それが叩かれることはなかった。

 
 これは僕の予想にすぎないといえばそうなのですが、女性という動物は、たまたま目についた「エロいもの」について文句を言うようにできている
 負の性欲、という認識はこの予想を強力に支持する。
 だとすれば、ゾーニングの最終的な成功とは、女性の目につく場所に一切の「エロいもの」が目につかないようにすることでしょう。今文句を言っている強いツイフェミの人たちは、それまで文句を言うことを辞めないに違いない。
 それは例えるなら、すべての女性がブルカを被せられる社会と大差ない状態でしょう。かつてイスラム社会は、性を追放するために女にブルカを被せたが、現代ポリコレ社会ではサブカル表現がブルカを被せられようとしている。
 ならば表現の自由戦士として反発しない理由があるか? いやない。
 我々が真に危惧するのはそれです。
 
 フェミの方々は「オタクは批判をすぐ拡大解釈する」と常々いっているが、表現の自由戦士としての僕は「フェミの方々が批判を拡大しない」ということを経験的にも理論的にも全く信じられない。おそらく無意識だろうが、批判対象を無限に拡大していくと思うし、貴方がた自身にもそれは止められないと思う。
 
 

+良識フェミがなんと言おうとサブカルは被害を受ける

 
 しかも我々オタクは、すでにポリコレ棒による実害がサブカル界に現実化していることを知っています。
 ジェームズ・ガンの作るガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが見たかった。ポリコレ棒に屈さないでほしかった。幸いにも我々のそうした訴えは認められ、3ではジェームズ・ガンが作ることになった。しかし間違いが"人権意識"の発達している欧米で起きたのは事実。しかもこれは最も極端な例であって、見ている人にしか分からないレベルではもっといろいろなことが起きている。スターウォーズの主人公は女性と黒人になり、ゴーストバスターズの女版が大して面白くもないのにリメイクされ、ターミネーターはサイボーグのSF映画ではなくサラ・コナーの映画になった。日本でもあれこれが起きている。一つ一つとしては大きな問題あるとは言えないが、我々はポリコレの圧力をひしひしと感じている。
 
 重要なのは、これらは法的な根拠や公的な正義に基づいて起きた規制ではないということです。ポリコレ文化人のロビー活動に基づく、メディアの萎縮がこうした状況を欧米で生んでいる。
 良識あるフェミ界隈の人々は、作品の撤去を求めるわけではない、と言うだろう。
 だが撤去されるんだ実際に
 
 日本はそういうものからできうる限り自由であってほしい。アズールレーンの中国人たちが、本当にしたい表現ができると喜ぶ日本であってほしい。
 だから、動物的な負の性欲を、ポリコレという文化的ラッピングに包んだだけの運動には、どんなものであれ、表現の自由戦士としてのオタクは断固反対して行かざるを得ない。
 少なくとも、それが自明の「政治的公正」ではない、ということは主張していきたい。
 
 

+終わらない闘争、という安定

 
 さて、表現の自由戦士として譲ることができない内容について、述べました。
 しかし……ここで認めてしまいましょう。それは僕の男性としての「正の性欲」と無関係ではない、と。もしも僕に欲望がなければ、宇崎ちゃんが連載中止に追い込まれたとしても大して声を上げたりはしないに違いない。
 
 この点で僕は、僕の表現の自由戦士としての思想が、規制派ツイフェミニズムに優越すると主張することが残念ながらできません。僕たち表現の自由戦士は、女性たちの主張を「所詮お気持ちじゃねーか」と正義の天蓋から地べたに引き落としますが、そうして引き落とした地べたでは、僕たちもまた泥に塗れています*12
 所詮は性欲と性欲のぶつかり合いです。生物学的感情に基づく以上、どちらにも譲歩の余地はない。理屈ではないからです。
 実は元ブログの論拠の中で、もっとも気になっているのがそのポイントです。
 
そして根本的には、政治的不公正、例えばジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルドインするような啓発・教育・学習の方にもっと充填を置くべきじゃあないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれは虚構上のネタだとすぐにわかる。
 
 こういう世界観は、まさに日本の*13「人権教育」の行き届いてなさからくる非現実的な虚構ではないかと思う。
 ポリコレ棒を教育によってビルドインされた人々は、自然と不公正な表現をへらすのではなく、棒で叩くための表現を探すだけの存在になるでしょう。争いはかえって激化し、社会は不安定になり、ゾーニング論者が求めるような炎上の存在しないネット言論界はかえって遠のくことになる。
 なぜなら権利とは、闘争の原理だからです。平和をもたらすような概念ではない*14
 
 もしも人権教育として行うべきことがあるとしたら、ポリコレ棒で殴りたい対象が目の前に現れてもまずは相手の立場を尊重せねばならない多様性とは他者との違いを許容することである、みたいな教育ではないかと思います。
 
 現状それができている人もいます。表現の自由戦士、あるいはツイフェミに、同意しないまでも相手に理解を示す人は、実は全体のうち多数派であるはずです(そして元ブログの紙屋氏もその多数派の一人であるはずだ)。 
 しかし同時に、そうした良識教育が全国民に行き届くことはありえない。そして良識を持たない人の軽率なツイートは拡散され、ポリコレ棒で殴られるでしょう。常に悪貨は良貨を駆逐するのです。
 この状況を無くすことは出来ません。だって性欲だから。争っているからそれをなくしたい……とか考える事自体がおそらく不毛で、関わらないことが唯一の正解に違いありません。
 
 というか、そうした殴り合いと争いのサイクルこそが、元ブログの言う「旺盛な批判」なのでしょう。言葉の暴力の伴わない批判などきっと永遠に実現しないし、表現の自由戦士とツイフェミがSNSで殴り合っている状態が正しくさえある。
 
 

+ポスターについては性欲以外の要素で判断しろ

 
 というわけで、全ては正の性欲と負の性欲の闘争に過ぎず、不毛であると同時に状態として正しい、というのが僕の意見です。
 貴方がたは、争いを止めようと心を痛めること自体を止めてください。
 
 しかしそれとは別に、じゃあ宇崎ポスターの是非はどう判断するのか、という問題がある。
 全体としての争いや炎上は不可避だとしても、個々のケースについては何らかの判断をして決着をつけねばならない。それはどうすべきか。
 
 それは、もう性欲を抜いた要素で判断するしかないでしょう。つまり、宇崎ポスターが不快だからとか、好きだからとか、そういう要素に基づく、人権思想や"政治的公正"で判断しないということ。
 
 さんざん言われていることではありますが、やっぱり献血が増えたかどうかの実利でだけ判断するのがいい
 
 女性がポスターに反感を覚えるのは厳然たる事実ですから。それは表現の自由戦士として何を言っても変えられない。我々オタクは、大好きなエロい漫画が市場原理のせいで連載を止められてしまうという経験を幾度となくしています。コンビニエロ漫画規制のときも「あれは高齢者向きの商品で実際撤去したほうが売上は増えるかも」という話になった時点で、「チッ、だったらしょうがねえな……」みたいに殆どの人間がなりました。
 女性が不快だし不快が正義だから公的に撤去せよ! という話には全力で抵抗します。抵抗しますが、女性が不快であるせいで献血が減ったかも……とか献血団体が言ったら、チッ、だったらしょうがねえな……とせざるを得ない。*15。実際、オタクは別に巨乳じゃなくてもリーフレットもらえるなら献血に行く。これは人権や正義とは関係ない、広告センスの問題です。
 
 広告センスの問題に過ぎない、ということを強調していくしかないと思います。
 
 ゾーニングの精査や倫理的検討では、闘争は永遠に続くし止まりません。そうじゃなくて、クレームだけが目的の女性やオタクからの電話もかかってくるから、人権や公正とは無関係なそういった現実にこそ対処しなければならない。そういった現実にだけ対処すればいい。
 そうすれば、我々オタクの行動は表現の自由戦士としてのものから、単なるオタクとしてのものに変わる。好きな作品を買い支えるというのは我々にとって普通のことです。宇崎ちゃんが売れて欲しいという理由で献血に行く人も出てくるでしょう。
 
 

+都合の悪い現実を直視し、軽率な発言をやめよう

 
 まとめます。
 
  •  宇崎ちゃんのポスターが社会や子供に負の影響を与えることにはならない。
  •  したがって反対運動の根拠は女性の嫌悪感だけである。
  •  女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するという理屈を公正とは呼べない。
  •  両方が性欲によって話す以上、冷静な議論やゾーニングの検討は無意味。
  •  公正や倫理の問題ではなく、広告センスとして処理しろ。
 
 以上です。
 この記事で僕が特に言いたかったのは、「貴方がたそれは倫理ではなく生物的性欲なのわかってないでしょ?」ということです。
 それが分かっていれば避けられる軽率な発言がたくさんあると思います。特に、自分の生物的嫌悪を理解させるために、ゲイポルノを男性に向けてくるのはほんと軽率で、ゲイとかいう人たちが生物的に嫌悪されてるのを防ぎたいのが、LGBT運動だったんじゃないのか。🌈とか名前につけてる人がそれに賛同してるのがまた軽率すぎる。
 そういった思いでいますので、元ブログのブコメにあった、「冷静な議論できないオタクが多かったのがイラッとして人が多かったのでは」みたいなコメントね、こっちも同じですから。我々は、男も女もオタクもフェミも、性と正義への生物的欲望に駆動されてる、愚かな動物に過ぎないのです。
 そして生物的欲望に抗うために、論理を鍛えましょう。特に女性学専門家の方々は、生物学や社会学の他分野がもたらす、フェミ古典にとって都合の悪い先行研究を参照し、受け入れてください。
 
 これで僕なりの表現の自由戦士主張を終わります。

*1:これは僕が自らを卑下している表現であって、普段から積極的に炎上活動や罵倒に参加しているという意味ではないです。

*2:その意味で、僕には紙屋高雪さんに対する敵対意識や、まして憎しみの類は全くない、むしろリスペクトしていることを重ねて申し上げてあげたい。

*3:もちろん、これは社会科学の話です。つまり実験室の理科的分析ではなく、理系脳の皆様はそんなの証明されたとは言えないよ、と言うでしょう。これに対しては、文系科学ってのはそういうもんなんですよとしか言えない。ただ、先行研究の存在や妥当と信じられている仮説の存在を認識するぐらいはしたほうがよくないですか。

*4:この点"統計的に優位ではない"であることを"皆無じゃないってことだろうが"と取って否定されてない扱いする教育関係者がまあまあいるんですが、流石に無茶だと思う。

*5:映画「ボーリングフォーコロンバイン」などが、昔話題になりました。

*6:そしてちゃんとしている家庭とは「非道徳的なコンテンツが排除された環境」ではありません。

*7:今回の場合、に限るという但し書きはつく。ラノベ読者として表紙の件は到底許容できなかった……

*8:より確認しやすい実例として、少女漫画表現でも確認できます。主人公に性欲丸出しで男が迫るとき、ヒーローは真顔で、悪役やヤラレ役なニヤニヤしています。

*9:これは書いてから気づいたのですが、やはり多くの方が指摘した通り「宇崎ちゃんがニヤニヤしていた」のがやっぱ実は一番大きかったのでは。

*10:これをオタク差別、と見る向きもあるでしょうが、それは無理だと思う。これは述べたように生物的反応なので

*11:僕は、もとから社会的マイノリティの嫌悪感と人権侵害を同一視する風潮に懐疑的で、それについて記事も書きました。

*12:この点を認識できてない男が多い、という話にもまた同意せざるを得ない。

*13:日本だけかは怪しい……述べた通りポリコレ棒の殴り合いは欧米のほうが先鋭的なのです。

*14:先の引用でも貼りましたが、また自分で過去に書いた記事へのリンクを貼っておきます

*15:というか、献血団体としては、よほど献血が増えるのでもなければ、そうしていくでしょう。こんな炎上するんだったらめんどくさいから、次からは、KADOKAWAにあんま炎上しなそうなノベルティにしてくれって言うと思います。KADOKAWAだって、宇崎が献血に適しているとかいう判断はしていない。他にも人気がある作品のノベルティを総当りで出していて、宇崎ちゃんはその一つに過ぎないわけですよ。

新三国志(ソシャゲ)17鯖でここ一年に起きたこと

 今回は、『新三国志』というコーエーテクモゲームズ監修のソシャゲでサービス開始から1年間に起きたことについて書きます。

 実は、僕自身がこのゲームをやっている訳ではないです。しかし、実際にプレイしている友人のC君から聞いた話があまりにも面白く、またその一部始終は今のところ特にネットなどに纏められてはいないようですので、非才ながら司馬遷の志を次世代に繋ぐべく筆を取らせていただくことにした次第。

 あくまでも伝聞なので、不備があるとは思うし、基本C君視点の話にはなるのですが、話を聞いて去来した感動を是非とも共有させていただきたいと思います。

 

+2018年12月11日、激震

 

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 そもそも『新三国志』は、コーエーテクモゲームズが完全監修のもと中国企業が製作、日本向けに配信しているスマホゲームです。2018年8月にリリースされ、内容もなかなか好調な様子。

 このゲーム、僕自身は先述したようにやっていませんが(他のゲームが忙しいため)、基本的にソシャゲには辛口評価を下すC君がかなりマメにやっているのだから、相応の面白さがあるはずだと信じられる。C君は根っからの中国史オタである、という面を差し引く必要はあるでしょうが、彼が1年間同じゲームを続けているっていうのは、相当なことなんですよ。伝われ、この驚き。

 あと、19年8月めでたく一周年を迎えたそうです。 続いているということを鑑みても、やはりいいゲームなのだろう。

 

 コーエーファンのC君は、このゲームには登場当初から注目しており、最古参の一人としてサーバー17を舞台に独自に戦場を駆け巡り、群雄割拠、栄枯盛衰を繰り広げました。

 この手のゲームはやっぱり序盤が乱世で面白いところがありますからね。

 プレイヤーはみんな、自分なりの覇道を突き進み、いつか天下を獲る日を夢見ていたはず。

 

 だが2018年12月11日!!

 

 C君の主戦場だった、サーバー17に風雲急を告げる事態が!!!

 

ジャーンジャーンジャーン)

 

 

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サーバー17、中華統一、成る!!

 

 言わずもがなですが、上の画像のマス目を全プレイヤーが互いに奪い合っているのが『新三国志』というゲームです。つまり中華統一が成されたということは、他のプレイヤーの抵抗を全部なぎ倒して、圧倒的な戦力で戦場を蹂躙したということです。

 いくらなんでも、ソシャゲで普通そういうことは起こらない。現に他のサーバーではこんなことはまだ起こっていませんでした*1

 全サーバーで初めての快挙。

 しかもあまりにも急な快挙です。まさかそんなことができるとは!? と誰もが思った*2

 

 一体何者がそれを成したというのか!?

 

 

+天が乱世に遣わせた麒麟児 ichi

 ■

 サーバー17で三国時代の中華を制したのは、ichi というプレイヤーでありました。

 彼は知る人ぞ知る、世界的なプレイヤーです。

 

 元はといえば、ichi は『戦国炎舞』というソシャゲの高額課金者であったそうです。だが、彼はただの高額課金者ではない、あまりにも高額の課金者なのでなんと彼の引退が公式からアナウンスされたという。

*参考記事↓

 

 参考記事の内容を抜粋します。

 

  • 公開されたスクショから、戦国炎舞に3億3000万円以上課金していたことが判明。
  • 同じペースで課金していれば最終的に5億円は課金していたはず。
  • 戦国炎舞では後発組だったが一瞬でトップまで上り詰めた。
  • 初心者の質問に答えつづけ、ゲームコミュニティの中心人物だった。
  • 彼が居たからゲームを続けたプレイヤーも多い。
  • 他の高額課金者は嫉妬を覚えることすらできず、ありがたいものを見たという気持ちになる。

 

 全盛期の ichi 伝説コピペか何かか? 

 いえ、彼は今でもバリバリの全盛期なのです。

 

 彼が2016年の『炎舞』引退以来、何をしていたのかは我々には定かでないですが、C君が異変に気付いた時には、既にサーバー17は ichi 軍団の圧倒的な財力により蹂躙され尽くしていました。そうなってから初めて、17鯖の諸侯たちはichiという稀代の麒麟児の存在に気付きました。

 

 恐らくはその前段階には、桃の木の下にある小さな庵で過ごしていたichiの元に、何者かが訪れてこう言ったはずです。

 

「先生、実は面白いゲームがあります。ご存知コーエーテクモゲームズが監修した新三国志というスマホゲームです。しかし諸侯は驕り荒ぶり、民は放浪し、国は乱れるばかりです。先生が戦を憂いて、こうして隠居なさっておられるのは重々承知の上ですが、先生ほどの仁徳のある君主は他におりません。どうか立って天子となっていただけませんか。そしてわたくしを一番の臣下としてください」

 

 これに ichi 師は答えて曰く、

 

「民が苦しんでいるならばなぜ立たないということがあろうか」

 

 とかなんとか。

 ichi 師がゲームを始めたのは、どうやら2018年10月末のことです。これは中華統一の僅か1カ月半ほど前でありました。

 

 

+ichi という男の課金実態

 

龍のイラスト獏・バクのイラスト

 しかし、かつて別ゲーで伝説級の課金をしていたとはいえ、『新三国志』というゲームに、ichi 氏はどれほどの力を注いでいるのでしょうか?

 別にあらゆるゲームに廃課金しているわけではないかもしれない。

 これについて、C君に聞きました*3

 

 具体的に、ichi はどれくらいの強いのよ?

 

「具体的な数字の話は……ほんとやってもらわないとわからないところがあるんだけど」

 

 と、彼は前置きしてから説明した。

(と、言わないと嘘になりそうなので実際のプレイヤーの皆様は以下の説明の細部は多めに見てください)

 

 例えば『新三国志』において、プレイヤーの強さの指標となるある数値がC君の場合は20万パワーほどあります。

 ichi 氏は、これが40万パワーあります

 C君のおよそ倍です。

 

 え、無課金と比べてたった倍程度なの? と僕は思いました。しかし、これはとんでもない数値のようです。

 

 『新三国志』は、この手のゲームでよくある、砦に新たな施設を増築することで軍隊が強くなる方式を採用しています。この施設ですが、1個つくるごとに40~80程度のパワーが増えます。

 つまり、C君とのパワー差20万というのは、ざっくり施設2500個分の差があるということです。

 更にこの施設建築には、多大な資源はもちろんのこと、何よりも時間がかかります。施設1つにかかる施工期間はだいたいリアル3日ほどで、これは全プレイヤー共通です。ただし、この施工期間を短縮する方法があります。もちろん課金です。

 即ち、2500施設分の差があるという、イコール、 ichi氏 は施工短縮だけで2500回以上の課金を行っています。もちろん実際にはもっと多いはずで、ichi師は『新三国志』でも後発組ですから、C君たち最古参に追いつくまでの時間も課金で短縮しています。

 

 なるほど、2500回施工短縮をしていると。

 で、それは一体1回にいくらリアルマネーがかかるのかね?

 

「……とりあえず今の俺の城を施工短縮で強化しようとしたら2万円かかるね……」

 

 だそうです。

 もちろん低レベルのうちはもっと安いのですが、それにしたって1カ月で他プレイヤーをぶっちぎる回数の施工短縮課金を、ichi 氏は確実にしています。

 2万円課金を一体何回すればそこまでいけるのだろうか。

 仮にめちゃめちゃ大目に見て、低課金でできる分が1000回はあったとしても、1500回はやってるよね……2万×1500yen……? 僕が計算を間違っているのか……?

 

「まてまて、今のは拠点のパワーの話であって、武将とか武器とか軍とか兵法とか、いくらでも課金強化要素はあるから」

 

 課金要素がもっとあるの!?

 それはもう億待ったなしということだよね!?

 念のため確認しておきますが、これソシャゲの課金の話ですよ。

 

 

+ichi という漢の兵法

 ダビデとゴリアテのイラスト

 だが ichi とは、財力に任せて敵を殴るだけの卑劣漢なのだろうか?

 春秋三国時代のなみいる将軍たちは、札束で人を殴るしか脳がないオッサンに蹂躙されたとでもいうのか。

 

 そうではない。Cくんはこんなエピソードを話してくれました。

 

「ichiさんといえども、負けたことが皆無なわけではない」 

 

 あるとき、ichi が負けたとの一報がCくんに届いたという。

 やる気だけはある無課金勢として雌伏の時を過ごしていたCくんはいきり立ちました。そうかそうか! やつに勝つ方法があるのか! してそれはどうやったのだ。

 

 情報は簡単に見つかった。

 というのも、ichi がそのときのログを公開していたので。

 ichi は自分が負けると、広くログを公開して諸侯たちの意見まで求めたのだ。

 そして、その時の状況を徹底的に分析した。

 そうしてわかったのは、当時はまだマイナーだった「相手を同士うちさせる計略」が、ichiの最強軍団にブッ刺さっていて、その結果彼の軍は破れたということ。

 ichi は即座に対策を打った。豊富な財力を駆使して、同士討ちの計略に耐性がつく装備を整えた。前線にはカッチカチの防御特化兵を、後衛には攻撃特化兵をおいて、今まで以上に生半可では太刀打ちできない、盤石な耐性を整えた。

 

 そういう訳でCくんはもう火を点けかけていた反撃の狼煙を速攻で片付けた。

 Cくんが ichi 敗北の報を耳にしたときには、ichi 軍団はもう、今まで以上に手がつけられない存在になっていたからである。

 

 このエピソードを聞いて史家の僕は思いました。

 ichi がすごいのは財力がではない

 なんていうんでしょうか、彼はやるからには徹底的です。

 ゲーマーがたまたま金を持っているのではなく、金稼ぎも何もかもを徹底的にする気質の人間が、たまたまシミュレーションゲームも好きである

 そういう気配がしますね、この歴史上の人物からは。

 

 

+天帝 ichi との戦い方

 

孫子の兵法書のイラスト

 『新三国志』では、サーバーランキングで一位になると帝(みかど)の称号が得られます。

 もちろん17鯖の帝は ichi です。

 まさに天に帝になるべしと定めらえた男と言えるでしょう。

 

 しかし覇道・天道に敵多し!

 特に17鯖は、天下統一までやっているのだから、流石にみんな「ichi がヤバイ」という事は把握しています。三国志のゲームをやろうなんて思うやつはみんな我こそは天下人であると思うような野心家ばかりです(C君を見ての経験則です)。

 だから皆、何とかして ichi に一矢報いてやろうとしたはず。

 

 僕は史家としてC君に尋ねました。

「 ichi と戦う方策が何かあるのではないか? 奇策、計略の類は用いたのか?」

 

 C君は教えてくれました。

 ichi と戦うにあたって、共有された指針があったそうです。

 

  • ichi と1対1の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対2の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対4の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対8の状況になったら全力で攻撃しろ! そうすれば ichi の体力をそれなりに減らせるからである。

  

 その絶望的な指針は一体なんなんだよ。

 なお、1対8というのは、平面マップを使った戦略シュミレーションである『新三国志』のシステム的な上限値になります

 

 三国志が主題であるこのゲームは、後漢の首都である洛陽が戦略上の超重要地です。この場所を長時間抑えていればいるほど、高レアのキャラが配布されるので、誰もがこの都が欲しい。

 しかし当然、洛陽は ichi軍団 が常に抑えています

 長時間、洛陽の支配権を持っていればいるほど、ichi 軍団は強化されるということです。これでは ichi はますます手が付けられなくなってしまいます。本当は早々に波状攻撃でもなんでもして、 ichi から洛陽を奪うべきです。

 しかしそれができないのです。ichi が強すぎて、先陣を切って突っ込んだ奴から必ず死ぬからです

 

 

+17鯖ドラフト同盟の成立

 握手をしているビジネスマンのイラスト「若者とおじさん」

 

 このような圧倒的なパワーをもって、ichi軍団は乱世の中華を統一せしめたのでした。

 ichi の威光は17鯖において圧倒的であり、ワールドチャットでは時折、三国志とはまるで関係ないビジネス関係の相談が飛び交うといいます。億の課金が出来る人ともなれば、そりゃあ当然ビジネスの相談もできますよ。ゲームから離れてすら人間性能が強力すぎる。

 

 けれども、まあ、この現状はゲームとしてはあまりにもあんまりなのは否めなかった。

 なにしろ ichi とその仲間たちに勝つことは誰にもできませんからね。天下が統一されたまま、他の軍団は全く領土が取れないのではそもそもゲームにならない。

 そこで17サーバーでは、ユーザー間で特殊なルールが制定されました。

 

 一定期間ごとに、ランキングトップ勢の軍団リーダーが話し合いの場を持ち、ドラフト制を用いて交代制の同盟関係を結ぶ同盟関係にある間、軍団同士は互いに攻撃しない

 ここで言う同盟というのは、ゲーム上のシステムとは何も関係ありません。単なるプレイヤー同士の口約束だし、運営はまったく関与していない。

 その意味するところは、要するに、ある一定期間ごとに交代で Ichi と同盟関係を結ぶことができる、という話。

 

 ichi が居るからには、こういう特殊ルールでも作らないとやってられない。もはや17鯖において、ichi とはゲーム環境のことであり、『新三国志』は ichi が存在する中華をどう生き抜くかを競うゲームなのです。

 いやはや、ここまで来たか、という感じですね。

 

 ちなみに、時おり同盟関係を無視して攻撃を始めてしまう軍団員が出て、粛清の嵐が吹き荒れることもあるとか。

 なにそれめちゃくちゃ面白そう。

 

 

+黒雁公の乱

 中二病のイラスト

 

 しかし、繰り返しますが、三国志のゲームをやろうなんて思うやつはみんな、我こそは天下人である、と思うような野心家ばかりなんです

 ichi が強い、それがなんだ

 奴に勝ちたい。勝てるはずだ!

 当然そう思う人達もいます。

 

 その筆頭は、17鯖でサーバーランキング2位のプレイヤーで、仮にここでは黒雁公と呼ぶことにしましょう。彼は、C君曰く「ichi ほどではないにしろ十分手に負えないほど強い」武将です。

 黒雁公は各地の強力な諸侯に文をしたためたそうです。

 たぶんそれはこういう内容でした。

 

「この中華は今や ichi という成り上がりに支配されています。天がこんな状況を許すはずがない。多大すぎる課金は悪であり、悪は正されねばならない。志あるものは我々と伴に立ち上がれ!」

 

 かなりの諸侯がこの檄文に呼応したらしい。

 そして2019年初春!

 

 黒雁公同盟軍による ichiへの一斉攻撃が行われた!!

 

 同盟軍にはサーバー2位の黒雁公を筆頭に、17鯖でも選りすぐりの有史たちが参加。シュミレーションゲーム特有の攻撃中ラインが、ichiの拠点に向けて一斉に伸び、まるで漫画の集中線のようだったとC君は言います。

 

 先に、Cくんからは、8対1の戦いならば ichi の体力を減らせる、という話を聞いていましたよね。それを波状攻撃で繰り返せばもしかして勝てるのか。

 ましてや、黒雁公たちは曲がりなりにもサーバーで2番目に強い人たちです。ステータス上の差もそこまで圧倒的には見えない。

 これはもしかしたらするのでは……!!!

 

 と、思いますよね。

 

 結論から申し上げますと、全然だめだったようです。

 

 さっきC君から聞いた「8対1ならある程度いける」という話が、実はもう嘘だったことが、黒雁公の戦いの結果わかりました。

 C君曰く、「そうなるってことは ichi は外部から見れる数字では判別がつかない、隠しステータスみたいな部分までバッキバキに鍛えているってことなんだよね」だそうです。

 

 この黒雁公の乱を最後に、17鯖では ichi帝 への大規模な反抗作戦はなりを潜めてしましました。諸侯たちの野心の矛先は「2位以下の争いの中で少しでも上に行きたい」という風に完全にシフトしてしまったとか。

 

 

+覇道を征く〜未来へ〜

  飛行機雲のイラスト

 

 こうしてichi 帝は、盤石な天下を我が物にしたまま、『新三国志』というソシャゲで一周年フェスを迎えているのでした。

  今回はC君の証言をもとに17鯖での状態をまとめたので省きましたが、『新三国志』では各サーバーのトップ勢同士の対戦、というイベントも開催されており、そこでもichi がトップの座をほしいままにしているそうです。

 いやもうなんだ。圧倒的すぎるわ。

 

 ただし、今回の記事は、何度も言うようですが、C君から聞いた話があまりにも面白かったので門外漢の僕が伝聞をもとにブログに書いただけのものです。なので、正直面白さ重視で誇張してるところがある。C君の分と僕の分で、おもしろフィルターを2回も通ってしまっています。

 本当はどうか? については、是非ともあなたが実際のゲームで確かめてください。

 もしかしたら貴方はそこで、21世紀の覇道、というやつを目にできるかもしれませんよ。

 

*1:その後はいくつかのサーバーで中華統一は起きたようです

*2:想定外過ぎて運営も何も準備がなかったのか、中華統一が成されたゲーム上ではファンファーレの一つすら無く、プレイヤーたちからは結構な不満の声が挙がったといいます

*3:19年4月ぐらいの話で、もちろんソシャゲですから、プレイヤーは今もどんどんレベルアップしています

上遠野浩平論・目次(あと御報告)

 ご好評を受けました「上遠野浩平論」のための目次用ブログ記事です。

 2018年1月〜2019年2月ぐらいで、ちまちまブログに書いていました。

 ブログなので埋もれてしまうと掘り出しにくくなるかな? という懸念があるのと、目次を読んで内容がわかるのが真の良書、という師の教えに忠実であるために、新しい記事を投稿したこのタイミングで目次と称したリンクリストを用意しておきます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

 あと小さくここでご報告させていただきます。

 このブログをきっかけに依頼を頂きまして、雑誌「ユリイカ」2019年4月号、上遠野浩平特集において、第二期上遠野浩平に関してブログとは別の切り口で記した論考一編と、上遠野浩平全作品解題(2019年4月時点まで)の執筆を担当させていただきました。

  他の先生方の論考も大変すばらしいので、未読の方は今からでも御一読いただければと存じます。

 

 

 

 いや雑誌の表紙みるだけで今でもほんとグッとくるものがありますね。

 

 

上遠野浩平論⑩(終)~未来へと向かう上遠野浩平(『螺旋のエンペロイダー』『不可抗力のラビット・ラン』『パンゲアの零兆遊戯』など)

 上遠野浩平論の第10回です。今回で最終回になります。

 前回の第9回では『ヴァルプルギスの後悔』で起きた魔女消滅後の世界を〈一巡後のセカイ〉と定義し、また〈一巡後のセカイ〉を舞台とする『ヴァルプルギス』以降の作品群を第3期上遠野浩平と呼ぶことを提案した。

 最終回となる今回は、最近発表された作品をいくつか取り上げることで、第3期上遠野浩平における文学とはどんなものなのか、つまり現在の上遠野浩平が描いている文学がどんなものなのを論じる。

 第3期上遠野浩平の舞台となる〈一巡後のセカイ〉とは、かつて「運命」の前に破れた「可能性」が、再び息を吹き替えした世界である。故に、第3期上遠野浩平の文学とは、第1期上遠野浩平と同じく「可能性」を中心的テーマとするものである。しかし、その内容はかつてと同じでは決してない。同じ場所に戻ってきたようでいて、明確に進化している。"螺旋上昇している"という表現がこれほどふさわしい作家も居ない。

 また本記事では、今出版されている作品群の話から、更に僕が個人的に読み取った、上遠野浩平の未来への挑戦についても扱う。

 言い訳がましい話を最初にさせておいてもらうが、これまで上遠野浩平論と称してあれこれ書けたのは、上遠野浩平を読み始めてから20年の蓄積がが大きい*1。故に、蓄積のない現代ひいては未来の話をするとあっては、的外れも多くなっていくだろう。読者の皆様に置かれましては、サッカーニュースのコメンテーターの勝敗予想を聞くような気持ちで、気軽に本論の結末に目を通していただきたい。

 

 

+「運命」に疑問を呈する男、才牙虚宇介~『螺旋のエンペロイダー

 

  まずは螺旋のエンペロイダーから議論を始めないといけない。同作品は、『ヴァルプルギス』終了後の電撃文庫MAGAZINEで、2012年3月から2016年11月まで連載された。

 この作品は、虚空牙の影響下で生まれた才牙虚宇介・才牙そらの二人を中心に、統和機構のMPLS育成所・NPスクールに通う生徒たち*2、そして枢機王が、エンペロイダーと呼ばれる謎の概念についてあれこれ争う物語である。

 なぜ『エンペロイダー』から最終回の議論を始めるかというと、この作品は、文中で明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台となっている旨が示されているからである。具体的には、まず『ヴァルプルギス』のラストで登場した御堂璃央がNPスクールに在籍している。また『Spin.2』に登場するフェイ・リスキィが、奇蹟使いの能力を使いこなしていて、「ちょっと前の(MPLSなら)何でもかんでも抹殺してしまえって風潮だった頃~」と統和機構の内部で決定的な方針転換があったことも話す。あと、九連内朱巳とイディオティック・オキシジェンの仲がやけに良さそうだったりする。

 

 そんな『エンペロイダー』は、文学的にも明確に『ヴァルプルギス』後の展開を、つまり本論が第3期上遠野浩平と呼ぶ流れを描いている。

 特にそれが現れるのは、主人公の才牙虚宇介の言動だ。

 

 才牙虚宇介は『Spin.1』で最初の敵役となったミューズトゥファラオ・虹川みのりと、こんな会話をした。

「――ふざけるな!」みのりは絶叫した。「貴様も化け物なら、化け物らしくしろ! なんだその――優等生みたいな言い草は!」

「ほらほら、だからそこだよ――狭い。すごく狭い。どうして君の能力が、そのまま世界の敵になるしかないって思い込みに直結するんだ?」

 虹川みのりは、この会話の前に、「私には覚悟ができた――何ものにも負けないという決意が」などと、運命と対決する〈戦士〉の立場を度々表明し続けている*3。それらは、第2期上遠野浩平であれば主人公が高らかに宣言したであろう台詞であり、実際虹川みのりはNPスクールの生徒たちなどより、明らかに〈戦士〉として格上である。

 才牙虚宇介は、そんな虹川みのりの前に急に現れて、「その戦いは本当に必要なんですか? あなたは本当に〈世界の敵〉なんですか? あなたが〈戦士〉である必要は実はないんじゃないですか?」と、前提をひっかり返す疑問をぶつけている訳だ。

 

 もう一つ同じような会話を引用する。才牙虚宇介は『Spin.2』で、アロガンスアローの能力を引き出して枢機王と戦おうとする才牙そらと対峙し、こののような話をした。

「私たちの、本来の使命を忘れるな――お前はまだ、あのNPスクールという欺瞞に囚われているの? 適度に安全なMPLSを矯正して教育する、とか――馬鹿馬鹿しい。全ての能力者は、この〈アロガンス・アロー〉のように、世界を組み替えて変革するためにのみ存在している――今の世界の敵であり、未来の支配者となるか否か、その二者択一の運命しかない」

「だから単純だって言ってるんだよ――運命なんて曖昧な言葉を、そんな風に物々しく使うもんじゃない。そもそも君の、その人間を見極めるとかいうやり方も、ずいぶんと粗雑で取りこぼしの多い話じゃないか」

 才牙そらは、やはり「日高迅八郎は自分の運命を自覚してなくて可哀想」「運命からは決して逃れられない」などと、第2期上遠野浩平を彷彿させる台詞を連発している。というか、彼女のナイトフォールの能力は、言ってしまえばオキシジェンや魔女の縮小版*4であり、第2期上遠野浩平の擬人化とさえ読むことが可能だ。

 才牙虚宇介は、そこに「運命って本当に絶対なんですか? そんな単純には決められないんじゃないんですか? 何であなたは運命を分かったつもりになってるんですか?」という疑問をぶつけ、やはり前提自体をひっくり返してしまう。

 

 つまり、才牙虚宇介とは第2期上遠野浩平という文脈自体に疑問を呈してくるキャラクターなのだ。

 

 魔女が消滅した〈一巡後のセカイ〉とは、基本的に、万に一つの成功が否定できなくなっただけの世界であり、我々を失敗に導く「運命」は相変わらず絶望的なまでに強大だ。だから、第2期上遠野浩平の文脈を踏襲した虹川みのりや才牙そらの言葉は、既存作品で発せられた時と同じように正しく見えるし、実際ほとんどの場合彼女らは正しい。

 しかし彼女らは、才牙虚宇介に根本的な疑問を突き付けられると、何も反論できない。正しいはずの主張が通らなくなるので、彼女らは、もはや逆ギレする以外になくなってしまう。

 才牙虚宇介というキャラクターは、空気を読まずに疑問を呈するだけで何が本当に正しいのかは言わない。なので、普段の態度はひたすら曖昧でどっちつかずに見える。そういう傾向は、特にシリーズ前半の『Spin.1』から『Spin.2』にかけて顕著だ。(『Spin3』以降の展開についてはまた本記事の後半で改めて触れる)

 

 

+将来を問われる既存キャラたち~『不可抗力のラピッドラン』など

 

 明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台だと示されない作品にも、第3期上遠野浩平の影響は見て取れる。 

 中でも 『不可抗力のラビット・ラン』で九連内朱巳のもとに訪れた影響の大きさには、本論がこれまでで指摘して来たような既存作品の内容を把握していると、ちょっとびっくりさせられてしまう。

  この本で初めて九連内朱巳の前に現れたブギーポップの言葉を、複数のシーンから引用する*5

「君はまだ、”負けてたまるか”と思っていればいいと考えている。自分というものを抑圧する敵が居て、そいつに打ち勝てばいいと……だがもう、それは限界なんだ」

「………」

「十分に強い君は、他人を踏みにじっても、もはや対して面白いとは思えない。そしてそれは君だけではない――世界中の人間が、心のどこかで飽き飽きしているんだ。しかし他のやり方をしらないし、見つけられない。だから仕方なく、これまでの惰性をえんえんと続けていくしかないと思っていて、それにうんざりしている――」

「君はずっと文句を言い続けてきた。あれこれが悪い、どれそれがおかしい、誰彼が間違っている、と攻撃するだけでよかった。それが逆に、他者から攻撃される立場になったら、かつての自分の浅ましさが逆流してくるようで、それが苦しいんだ」

 

 九連内朱巳が、あろうことか〈戦士〉であることを責められている。 

 これには本当にびっくりだ。ゼロ年代に描いてきたものを丸々ひっくり返すような展開。

 だが、これが第3期上遠野浩平なのである。

 

 前回の第9回の末尾で述べておいたとおり、第3期上遠野浩平とは「勇敢に戦い、真の勝利を目指す時代」である。一方、第2期上遠野浩平で展開してきた〈戦士〉という語は、負けるという現実を直視できる者を意味し、絶望に折れずに抗える者を称えるためのモチーフである。〈戦士〉とは、勇敢に勝利を目指す者とか、勝利するもののことではない*6

 即ち〈戦士〉であるだけでは、第3期上遠野浩平のセカイを生き抜くことはできない

 負けず嫌いなだけ、今の場所で踏ん張っているだけでは全然だめで、未来の勝利に向かって一歩を踏み出さねばならないのだ。 『ラビットラン』で世界の敵となった白渡須奈緒は"未来について真剣に悩んでない"キャラクターであった。そして九連内朱巳は、それと同類だとブギーポップに怒られている訳だ。

 

 しかし、じゃあ未来に向けて一歩を踏み出すことにするとして。その時必然的に問題となってくるのは、我々はどっちに向かって踏み出せばいいのか? なにをやったら未来に向かって踏み出したことになるのか? 

 平たく言えば、僕たちは将来どんな大人になればいいのか? という話になる。

 現在、第3期上遠野浩平は、特にブギーポップシリーズの新展開と既存キャラクターの再登場を通して、青春期の若者たちにこの問いを突き付け続けている。『オルタナティヴエゴ』ではカミールは統和機構に戻った。『デカタントブラック』で新刻敬は風紀委員の自分に折り合いをつける。『ラビットラン』のもう一人の主人公・羽原健太郎は、霧間凪からの独立を考えだしている。『パニックキュート』で末真和子はアクシズとしての活動に本格的に着手した*7

 最近のブギーポップで描かれていたのは、月並みのようだが、いわゆる進路志望調査だったということである。

 

 それにしても、20年もライトノベル(≒ジュブナイル)を描いてきて、やっとテーマに出来るようになった新たな展開が「君たちはどんな大人になるのか」ですよ。

 ホント上遠野浩平って作家は度し難いな! エモ中のエモ(唐突な感情の発露)!

 

 

+復活した「可能性」が生み出す新たな葛藤

 

 最近のブギーポップについて見ることで、第3期上遠野浩平における葛藤の焦点が一つ明らかとなった。ここで、より深く葛藤の核心に迫るために一旦『螺旋のエンペロイダー』に戻る。

 

 この『螺旋のエンペロイダー』という小説は、タイトル通りエンペロイダーという概念の謎を追うことがストーリーの主軸となっている。この謎の舞台設定的な正解は、一応「枢機王が虚空牙から隠れる目的で、エンペロイド試論と呼ばれるでっちあげの論文を書き、統和機構をMPLSを沢山増やすように誘導した」なのだが、しかしこの説明ではモチーフの文学的意図が明確にならない。 

 本論が行いたい解釈のために、最も重要な見解の一つが『Spin.3』の冒頭でオキシジェンが示しているものである。

「エンペロイダーという……仮説は……あるかもしれないという、仮定……もしくは妄想にすぎない……本来は」

 ぼそぼそ声の男が言う。

「……いずれ、すべての可能性が潰えたときに、その果てにもなお立っている者こそ、真の支配者……最後の皇帝であろう、という……それに至る前段階、その似姿……」

 

 「可能性」の中でも、最後に残った者こそがエンペロイダーなのだという

 つまり、誰が最後に残るかで序列がつく序列のために競争する話だということ。 

 これまでも述べてきたとおり、第3期上遠野浩平の物語世界では、どんな人間にも真の成功に至る「可能性」がある。「可能性」が真の成功に至り得ることは、僅かだが確かに存在する希望だ。キャラクターたちは、誰もがこの僅かな希望を目指して、各々が現実に立ち向かう。

 しかし、もし仮に”万が一の成功”に至れるのはただ一人で、他の者は全て敗退するのだとしたら? 僅かな希望を奪い合うために、凄惨な争いが発生してしまうのではないか。

 エンペロイダーという仮説、あるいは被害妄想*8が示唆するのは、この競争なのだ。本当は「可能性」が互いに成功を奪い合うなどという必然性は無いはずだし、実際それ作中でほぼずっと単なる妄想だと言われ続けているのだが。しかし競争への不安に駆られた者たちは*9、互いに相争わずにはいられなくなる。流刃昴夕のように、積極的に他者同士を潰し合せようとする者も出てくる。

 

 ここでこの解説をしなければならなかったのは……エンペロイダーという謎っぽいモチーフについて話すのが面白かったのもあるが……それよりも、先に話しておいた進路志望調査の件と併せて、という話である。

 結局は同根の葛藤であることを指摘したい。

 つまり、第3期上遠野浩平で描かれるセカイは、確かに「可能性」という希望が復活しているが、別に薔薇色の時代ではない。既存キャラクターたちが進路選択に苦心する羽目になることといい、エンペロイダーの闘争が生まれることといい、むしろ希望の存在自体が新たな葛藤、問題、不安となるのだ。

 これからの上遠野浩平が何を描いていくのかは知るよしもないが、この路線の葛藤は今後もかなり重要になっていくはずである。

 

 それにしても、未来に希望があることが逆に不安、だとか。こんな月並みの話、いくら上遠野浩平が天才でも、デビュー時点で描いていたとしたらなんかよくある青春モノっぽいと思うだけで、ここまで真に迫った物語と受け取ることはできなかったであろう。

 20年かけて螺旋上昇した成果がここにある! エモ中のエモ(突然の感情の発露)!!!

 

 

+セカイとの断絶を踏破する~『パンゲアの零兆遊戯』

 

 さて、ここまで、第3期上遠野浩平という文学の特徴と、現出する新たな文学的葛藤について述べた。

 けれど、本記事ではやはり、第3期上遠野浩平が描くのは希望の存在するセカイであることを強調していきたい。世の中には確かに問題が尽きることがないし、基本的にエンタメ小説である以上、何かしらの解決すべき問題は描かれる。

 しかし、これまでの上遠野浩平では間違いなく描けなかったであろう希望あふれる展開も、今の上遠野作品には確かに現れている。

 

 このポジティブな論点では2つの作品を紹介する。

 そのうちの一つはパンゲアの零兆遊戯』だ。

パンゲアの零兆遊戯

パンゲアの零兆遊戯

 『パンゲアの零兆遊戯』は、エスタブと呼ばれる予知能力者たちがプレイしているジェンガに、主人公・生瀬亜季と、伝説のプレイヤー零元東夷が投入され、ゲームを戦い抜く姿を描く話だ。物語構造自体は、もろに『ライヤーゲーム』であり、恐らくは上遠野浩平が"最近の流行りも取り入れてみた*10"やつ。しかし僕は、現時点で上遠野浩平の最高傑作は何かというと、この作品だと思っている。

 なにせ、これが『ライヤーゲーム』や『アカギ』であれば主人公が勝つのは頭がいいからだが、この作品で描かれる勝負はそういう問題ではない。頭脳ゲームものを描いていながら、頭脳ゲームの勝ち負けや出来不出来はどうでもよく、プレイヤーたちは各々の人生全体を試され、敗北していく。完全に他の作家よりレイヤーが上のものを書いている*11。作中の零元東夷の台詞を借りるなら「次元が違うんだ、次元が。レベルなどというみみっちい発想からは外れている」。

 

 他の作家と異なるというだけではなく、上遠野浩平自身の他作品と比べても『パンゲア』という作品は、今までに無かった考えられない展開を盛り込んでいる。

 

 小説の最終版だ。それまで基本的にゲームを傍観していた生瀬亜季は、状況の変化によって、自らゲームに参加することになる。その直後、生瀬亜季は、自分が生前のみなもと雫(偽名:宇多方玲唯)に、最後にあったときの会話を回想する。

「ねえ、あんたは何になりたい? 亜季?(中略)たとえば、だ――あんた、宇多方玲唯か、みなもと雫になりたいと思う?」

 いきなり言われて、反応に困る。

「……なれる訳ないじゃないですか。無理ですよ。私だけじゃなくて、誰にも玲唯さんの代わりなんかできっこないです」

「それは世界中のだれでも同じことよ、亜季。別に人間はひとりひとり偉大とかそういう綺麗事じゃない。悪い意味でも人は、誰かの代わりを完全に務めることはできない。だから世界は劣化していくことを避けられない。新しいものを無理やり隙間に詰め込んで、どんどん形が変わっていくことを止められない――しかし、私はその点で、少しだけ希望を持っているのよ」

 ここで、生瀬亜季はみなもと雫の後継者であったことが明らかになる。

 生瀬亜季はこの後のゲームの中で、エスタブとしての才能を開花する。彼女は才能を見出されていたキャラクターであり、この物語全体で起きた出来事は全て、彼女の才能のためにあったのだ。

 彼女は、暴走する才能の中で、みなもと雫の幻覚を見る。

(みなもと雫――)

 挫折した未来予測のスペシャリストでもなく、夭折した天才アーティストでもない。余計の飾りのなくなった彼女がそこに視えていた。

 いろいろ踏まえて、一言で言えば、こうだ。

 

 生瀬亜季は、みなもと雫になった

 

 これが本当に考えれば考えるほどとんでもない。みなもと雫は『ソウルドロップ』シリーズにおいて、音楽関係者等から絶対に追いつけない絶望扱いされていたキャラクターである。コンセプトだけで言えば、虚空牙と同じ*12乗り越えられない"セカイとの断絶"そのものといえる。

 それと同じになった。あるいはそれの真の姿を捉えた。

 つまり、生瀬亜季とは、ついに自力で"セカイとの断絶"を乗り越えたキャラクターである。

 かつて霧間誠一が夢見た真の成功を達成した人物なのだ。上遠野浩平の作品遍歴において、これは本当にエポックメイキングな出来事だと思う。ついにここに到達したか! という感じだ。

 

 しかも同時に『パンゲア』は、やはり今まで通りの上遠野文学でもあるのだ。

 この物語の終盤では、零元東夷もまた、"セカイとの断絶"をとっくに乗り越えて、輝かしき成功に到達していた人物だということが明らかになる。しかし彼は、明らかにパッとしない、自分以外には価値のわからない人生を歩んでいる。

 作品のラストシーンで彼は、「零元東夷を舐めているやつが居なくなった」という理由で、何かを成し遂げるでも、報酬をうけとるでもなく、淡々と舞台から去る。

「君は――これから何をするつもりだ? どんな未来が視えている?」

 来栖の問いに、東夷は振り返って、そして面倒くさそうに、投げやりに、

「そいつが問題なんだ」

 と言って静かに扉を閉ざした。

 

 これこそは、上遠野浩平が『笑わない』でのデビュー以来ずっと書いているものである*13全てが終わったあとも人生は続く。それは真の可能性の成功に辿り着こうが世界の敵となり果てようが、何も変わることはないのだということが、第3期上遠野浩平という文脈において、改めて確認された訳である。

 

 

+セカイとの和解~『恥知らずのパープルヘイズ』

 

 もう一つ、希望に満ちた作品として取り上げたい作品がある。

 アニメ化もあって盛り上がりに盛り上がっている名作、『恥知らずのパープルヘイズ』だ。

  ジョジョ5部アニメの成功もあいまって、話題に上がることも多くなってきた本作。上遠野浩平の作品としては例外的に、上遠野サーガの外に位置しており、作品間リンクの要素を持たないが、上遠野浩平の文学の一つである以上、テーマ的な一貫性はやはりある。本論における議論の上では、この作品も第3期上遠野浩平に属する作品の一つだ。

 しかも、この作品もまた、既存の上遠野作品では考えられなかった展開を含んでいるのである。ラストシーンにおける、主人公のフーゴとギャングのボスとなったジョルノの会話、そのクライマックスを引用する

 その影がフーゴにかかる。顔を上げる。ジョルノは彼を正面から見つめながら、

「半歩だ」

 と言った。

「君が一歩を踏み出せないと言うのなら、ぼくの方から――半歩だけ近付こう」

「………」

「すべては君の決断にかかっているが、それでも悲しみが君の脚を重くするのならば、ぼくもそれを共に背負っていこう」

 

 この会話、普通にジョジョとして読んでも名台詞だが、第3期上遠野浩平の言葉として受け取ると、また違った趣が出てくる。

 漫画では主人公として我々の感情移入の対象だったジョルノだが、『恥知らずのパープルヘイズ』では、"あのブチャラティすらも従えていた圧倒的カリスマを持った存在"として描かれている。シーラEやムーロロといった上遠野キャラたちは、ジョルノに対して、ギャングのボスだからとかそういう問題ではない忠誠を捧げており、パッショーネディアボロの時代より遥かに強い権力を備えている。

 ハッキリ言ってこの小説では、ジョルノ・ジョバーナというキャラクターはみなもと雫の同類になっている。ジョルノとフーゴの間にはもはや、セカイと断絶が立ちふさがっているのである。

 

 つまりこのシーンでは、"断絶"の向こうの存在が半歩近づいてきてくれている

 

 上遠野浩平は、パンナコッタ・フーゴというキャラクターを"一歩を踏み出せない"キャラクターとして描いた。フーゴは「うううう……」となっちゃうタイプの人ということだ。彼は麻薬チームとの戦いを通じて、かつてナランチャが先に進めた理由を、いわば、彼にとってのカーメンを得ている。だというのに、彼にはやはり一歩が踏み出せない。〈戦士〉になりきれない。

 こういう人は、従来の上遠野作品では、そのまま取り残されるのが常だった。せいぜいブギー先生が「僕らは前に進むしかないんだ」と厳しいお声をかけてくれるぐらいで、救いなんてものはほとんど無かった。

 それに明確な救いが与えられている。

 上遠野浩平はついに、厳しいばかりだったセカイと、一つの和解を成し遂げるところまで来た。

 

 『恥しらずのパープルヘイズ』は2011年の出版であり、これは『ヴァルプルギスの後悔』の完結とほぼ同時だ。つまり『恥知らず』こそが、第3期上遠野浩平の最初の作品である。

 だとしたら――根拠のない情緒優先の読みをしてしまうが――この作品でのセカイと和解する展開は、荒木飛呂彦が"半歩"を埋めてくれたが故の、上遠野浩平にとっての断絶の克服だったのかもしれない。そしてこの時に経験したセカイとの和解が、現在に至るまでの第3期上遠野浩平作品に、優しさの血脈となって受け継がれているのかもしれない。

 

 

上遠野浩平の「愛」への挑戦

 

 以上、現在出版されている、第3期上遠野浩平の既存作品について述べたいことを述べた。

 ここからは、本論の〆として、これからの上遠野浩平、未来の上遠野浩平について予想というか、思うことを書く(つまりいよいよ話が信憑性の薄い領域に踏み込んでいく)。

 

 三度『螺旋のエンペロイダー』の検討に戻ろう

  先に確認した通り、連載前半では第2期上遠野浩平の文脈に疑問を呈し続けていた才牙虚宇介だが、『spin3』から『spin4』までの連載後半では、いよいよ他人に疑問を突き付けるだけでなく、自分自身の問題*14に直面せざるをえなくなっていく。

 その中で、彼が決定的な場面で頼ったのは、クラスメイトの日高迅八郎との友情であった。当該箇所では、バトル展開のクライマックスとは思えない、単なる少年同士の会話に数ページを費やしている。他にも、この作品では最終的な結論として、人間としての絆みたいなものが強調される。才牙そらは兄と同様に友人の志邑詩歌に救われて、最終的に遠未来に旅立つ。その姉の志邑咲桜も、愛する妹との関係を再確認し、更なる戦いへと身を投じていった。

 

 これって今まであったようで無かった展開だよな、という話で。

 

 さっき既存キャラクターたちの進路志望に絡めても触れたが、第3期上遠野浩平という文脈において、避けて通れない問題があるとすれば、それは「何をもって真の成功に至ったと判断するのか」という事である。

 単に敵を倒せば成功でもないだろう。大きな夢を実現すれば成功でもないだろう。

 じゃあ何が成功例としてふさわしいか?

 一般的な発想として、「愛」とか「絆」というものは当然、具体的な成功として描かねばならないはず、ではないだろうか。

 

 折しも「愛」は、上遠野浩平が今まであまり書いてこなかったモチーフでもある。

 僕が思うに、第1期上遠野浩平で描かれていたのは、「愛」というよりも「ボーイミーツガール」だった。『冥王と獣のダンス』や『VSイマジネーター』に描かれているのは、具体性に欠けた曖昧な理想としての恋愛であり、成功が絶望的な可能性の一つに過ぎなかった。

 第2期上遠野浩平では、もうちょっと踏み込んで「愛」について描いた作品として『戦車のような彼女たち』や『騎士は恋情の血を流す』のような作品が出て来た。だが、ここで描かれたのはキャラクターが利己性を捨てて〈戦士〉に至る理由としての「愛」であった。これは行動の原因ではあっても、目的とか達成ではない。

 

 そうじゃなくて、第3期上遠野浩平は、もっとそれ自体で価値のある、輝かしき達成としての「愛」とか「絆」について描こうとしている。もしくは描かざるを得なくなっているんじゃないだろうか? 

  先に引用した『エンペロイダー』以外にも、いまSFマガジンで第2部を連載中の『製造人間』にコノハ・ヒノオ君が出てくるのは、家族愛を表現するためだと思うし。なぜか急にジャンプ恋愛小説対象に上遠野浩平が寄稿した『しずるさんとうろこ雲』では、久々にしずるさんとよーちゃんと、更には東澱奈緒までひっぱりだして、そのものズバリ恋愛の話をし始めている*15。こうしてみると、愛や絆が大事になってくる*16という傾向は、やはり確かにあるように思えてくる。

 

 ただ、この先の第3期上遠野浩平で中心的な話題となるかまでは判らないですね。なにしろ話が現在進行形過ぎるので。 

 あと、その『しずるさんとうろこ雲』の中で、しずるさんがちょっと気になる話をしていた。

「まあ、どう答えられても、私には反応のしようがないのだけど。私、恋とか苦手だから。感受性に乏しいのよね」

 あっさりとした調子で言う。私はますます困る。

「乏しい、って──」

「私はほら、知識がなくて、さっきみたいにすっごくとんちんかんなことを言うでしょ。あれよ。私が恋について話すっていうのは、きっと魚が鳥について語るようなものよ。的外れで、肝心の所には触れられない」

 

 これは、上遠野浩平自身の代弁だと思う。

 本論の第2回でも、上遠野浩平は恋愛描写があんまり上手じゃないという話はした。アマチュア期間もいれたら30年近いキャリアを持つ作家が、自分のそういう資質について自覚的でない訳がない。

 ということは「『愛』について描く」という、今まさに作品にみられる傾向は、上遠野浩平が新たな地平に挑戦しているという事でもある……のかもしれない。

 そうだとすれば、我々読者は、その挑戦がどういうふうに結実するのか、ただただ注視するのみである。

 

 

ブギーポップが「ワタシの敵」となるとき?

 

 もう一つ、これから上遠野浩平が書くかもしれないものについて。

 まだ消化していない伏線の中で、特に気になるものがある。

 

 『ロストメビウス』のエピローグから、リミットに憑りついて?いる水乃星透子と、ブギーポップの会話を確認する。

「過去と未来と――どこまでおまえは、その力を広げているんだ?」

 それは紛れもなく、なにか巨大なものに挑む者の言葉だったが、しかしこれに、

「――いいえ、そうではないわ」

 と、リミットの姿を借りた者は首を横に振った。

「残念だけど、もうこの世界に私はいないのよ。あなたの敵だった、”イマジネーター”は消滅している――ここに私はいない」

 ガラスに写っているその微笑みは、まったく何にも動じることがないように、変わらない。

「あなたの自動的なまでの奇妙(ストレインジ)さを受け止めてあげることは、もう存在しない私にはできないによ”不気味な泡”さん――世界の敵機の、敵――あなたという存在の矛盾、そのことはきっといつか、あなた自身に跳ね返ってくる――その日はもうそんなに遠くない」

「……………」

 そいつは、その言葉を受けていわくがたい、なんとも不思議な表情をした。

 それは怒っているような、泣いているような、悟っているような、苛立っているような、どれでもありどれでもないような、左右非対称の顔だった。

 

 世界の敵の敵、という矛盾?

 いや、これはどういうことになるんだろうか。

 ブギーポップシリーズの最終回の構想すら思わせる話だが、この件に関しては『ロストメビウス』以降、ずいぶん長いこと関連する言及がなかった。だからハッキリ言って、これは上遠野信者であっても多くが忘れ気味になっている伏線ではないかと思うのだが。

 しかし、最近になってこの伏線が再浮上してきているような気がする。たぶん第3期上遠野浩平という時代が、先に述べてあるような理由で、宮下藤花の将来を要請するようになってきたからだろう。最も記憶に新しいところでは、最新刊『パニックキュート帝王学』で、末間和子を助けられないブギーポップという存在の限界について言及があった。

 

 考えてみれば、ブギーポップという存在は、設定のそもそもから危うい。

 言うまでも無いことだが、ブギーポップは「自動的」な存在だが*17、『海賊島事件』や『悪魔人間は悼まない』の描写によれば、自動的であるということは「持っている可能性が大きすぎるとその可能性に行く先を縛られてしまう」という話のようである。例えるなら、ピアノの類まれな才能を持った子供が、ピアノの練習以外の道を断たれてしまうように。

 ということは、ブギーポップという強力すぎる可能性は、自動的であることによって、宮下藤花という女子高生の未来を閉ざしているのだ。

 実際、彼女はブギーポップ活動のせいで浪人する*18し、竹田先輩との恋愛関係もギクシャクしがちで、もしずっとこのままなら、やっぱり人生に支障が出るんじゃないか。

 

 ブギーポップが何の敵かといったら、宮下藤花の敵に他ならない

 

 この事実とどう折り合いをつけるのか*19。イマジネーターを倒したその後の活動は単なる惰性かもしれないブギーポップ、一方で、成長して不安定な思春期を脱する次期に入りつつある宮下藤花。

 これについて上遠野浩平は、書くんだろうか、書かないんだろうか。わからないけれど、少なくとも問題意識としては既に意識にのぼっているだろう。しかしこの問題に取りくむということは、上遠野浩平の文学を根本から問い直す作業でもある。第3期上遠野浩平といわず、あるいは次の20年にまで、この課題は残っていくかもしれない。

 もはや我々読者がどうこう言うこと自体が――つまりこの記事のこの項目自体が――不適切である。黙って何が出てくるのかを待つべきなのだろう。

 

 いやでもなー気になるなー。だれかと気になることについてはなしたいなー(感情の発露)。

 

 

+セカイを抱えたままの未来へ~上遠野浩平21周年~

 

 以上です。

 本当にこれでもう、言いたいことは全部言い終わりました! 以上です!

 少なくとも次の何かを読むまで新たに追加して言うべきことはないです。この20年で貯まりに溜まったものを、残さずインターネットに吐き出し終わりました。虚脱感にも似た清々しさがある。

 

 上遠野浩平のデビュー作『ブギーポップは笑わない』は、調べてみたところ、1998年2月6日に発売されたようです。即ち、本日2019年2月6日をもって、上遠野浩平は21周年に突入したということであります。連載を通して20周年だ20周年だと強調し続けてきたが、もう次の年になってしまいました。

 もう次の未来が来てしましました。

 我々がよく知る上遠野浩平なら、こんなふうに言うでしょう。20周年も21周年も関係がない。ただ淡々とやるべきことをやるだけだ。未来が来たとか印象的なレトリックを使ったところで、それが何ら特別なものではないという事は隠しようがなく、我々はただダラダラと今を生きていくのだ。とかなんとか。

 実際、このような論考は上遠野浩平の次の作品の発売日が来るかどうか、アニメのDVDが売れて2期……とまでも言わないまでもペパーミントの映画版とかパンドラのOVAとか……が出るかどうかに比べれば、全く大したことがない。読む必要など全くない記事でありましょう。

 

 それでも、書いておきたかった。

 だって読み込めば読み込むほど面白いですよ! 上遠野浩平は! 作品間でリンクしているのは設定とかだけじゃないというか、テーマ性とか主張こそ、むしろ強固にリンクしているってことをですね、この期に理解した上で、新刊を待っていただきたい。この手のハイコンテキストを理解出来たほうが、絶対面白いですからね!

 もっと言えば、他の人が僕の気づいてないことについて書いているのを読むほうが、僕はもっと面白くなると思います。こんなクソ長いブログを最後まで読んだ皆様におかれましては、この期に皆様なりの上遠野浩平論を書いて、セカイに問うてみていただけると、僕が嬉しいです。

 これで僕なりの「上遠野浩平論」を終わります。

 

 

 

*1:書きはじめる前には、数少なかったネットの先行考察や掲示板関係の意見も結構参考にしています。先行研究を手がけた皆様には、この場で大きなリスペクトを表明させていただきます。

*2:ところでNPスクールの生徒たちは、前回の第9回で引用した魔女消滅次の記述「強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――」に対応しているように読める。生徒たちには、正義とか公正とか傲慢とか臆病とか、それぞれ役割というか、世界に対する態度の類型が割り当てられている。

*3:この態度は流刃昂夕に植え付けられたものだった訳だが。

*4:これは流刃昂夕のマジカル・ミステリー・ツアーにも同じことが言える。

*5:なお、本論における主張を分かりやすくするため、引用する二つのシーンは登場順を逆にしています。

*6:このことは第8回で九連内朱巳について触れた時、既に言及しておいた

*7:ところでこの疑問の先には、さっさと将来を決めちゃった彼氏にコンプレックスを持ち、大学浪人もすることになる、宮下藤花というキャラクターがどんな大人になるのかという問いがぶら下がっていると思うのだが……この点についてはこの記事の最後に改めて触れよう。

*8:被害妄想、という単語は『エンペロイダー』の中でしばしば強調される。この語は虚空牙侵略への不安を示すと同時に、己の成功が出し抜かれるかもしれない、という不安も示している。

*9:虹川みのりは、才牙そらに「エンペロイド金貨を求めるのは弱虫だけよ」と言われた。

*10:前にも書いたが『エンペロイダー』も最近流行りの学園サバイバルものの体を取った作品だと思う。

*11:連載の第4回で『笑わない』が他のセカイ系作品よりも完全に上だ、と指摘したことが思い出される。デビューの頃の爆発力が戻ってきている。

*12:っていうか本当に虚空牙関係の何かであるかもしれない。『パンゲア』では、みなもと雫が音楽やパンゲアゲームを片手間にやっており、本当は別の「何か」と戦っていて、その末に死んだという事が示唆されている。

*13:あの名作『ペパーミントの魔術師』のラストと同じ問いであることに注目していただきたい。

*14:問題とはもちろん彼の出自のことだ。具体的な内容は特に本論の主張と関係ないので詳しくは扱わない。

*15:あと「愛」の話をするとなると、たぶんリセット・リミットの姉妹愛と、ブリックへのリミットの母性愛の話をせざるを得なくなると思うんだよな。どういう感じで消化するんでしょうか、この伏線。上遠野浩平が寝かせ過ぎた話を小説にすると微妙な作品が生まれるっていう傾向は不安だけども、やっぱり楽しみですね。

*16:これには負の側面もある。最近のブギーポップシリーズでは「単体では大したことないMPLSがたまたま来た合成人間に影響を与えたら、相互作用で世界が滅びかねない現象が起きた」みたいなパターンが多い。人と人の繋がりによって生まれた可能性は、やはりそれ自体が失敗に至って〈世界の敵〉となってしまう訳だ。

*17:「自動的」絡みの話は、本連載を執筆しコメント等をいただく中で考えがまとまってきたものです。当初は愛についての話で連載は終わるつもりだったが、やっぱりまとまった考えを最後に書いておきたいと思った。改めてですが、ありがとうございます。

*18:ブギーポップファントム(旧アニメ)の展開を公式扱いしていいのかはイマイチわからないが、まあ、これについては大筋原作通りと考えてよかろう。

*19:例えば漫画版のブギーポップデュアルの展開を輸入したら、宮下藤花とブギーポップが分離されるけれど、それでいいのかという気もする。能力が精神を渡り歩く、というネタは『沈黙ピラミッド』のメザニーンで消化したし……。