というのも、
はてブ界隈で"冷静な議論を出来る人がいた"というブログ記事が称賛されていたのを見たので。
気になったのは、ポスターに不快感を覚えた女性たち(恐らく)がこぞって「冷静に議論できるオタクというのが居て嬉しい」とか「他のオタクはこれくらい考えてから言え」とかコメントしているってことです。
いや僕はずっと冷静に宇崎ポスターを擁護、というか、宇崎ポスター反対運動はダメだと思っていますが。ちょっと女性側に賛同する男の意見が出てきたからって、冷静な議論扱いするされてるのは納得いかない。あなた方それは自分に賛成しない意見を感情的とみなしているだけなのでは……。
あと元ブログに少し賛成できない点もありましたしね。
既にブームに対して遅きに失した感はありますが、自分の中の論点を整理することを主目的に、見ず知らず人のブログへのアンサーを勝手に書いていきます。
+元ブログ(紙屋高雪さん)の考えまとめ
まずは元のブログの考えをまとめます。
- 巨乳女性のイラストは環境型セクハラとして女性の人権を犯していない(この点で太田弁護士は間違っているか、少なくとも主張が雑である)
- しかし巨乳女性のイラストは我々の思想に無意識に影響を与え、女性は消費していい、との意識を醸成する恐れがある
- したがって、あのイラストに不快感を覚えたという主張は真摯に聞かねばならない
- しかしながら不快感を覚えるからといって作品自体の撤去や規制を求めるようなことはあってはならない。表現の自由は守るべき。
- しかしながら、公共団体のポスターにすべきでない、と主張し、政治的公正を求めることは表現の自由の侵害ではない。
ざっくりとしたまとめですので、実際には元ブログを読んでください。
これが冷静な議論、と言われるのは、双方の意見を順々に肯定する形で文章を提示したからだと思う。元ブログの論旨は、太田弁護士は間違っている→でも女性は正しい→
表現の自由は大事だ→でも公共の場批判は正しい、の順番に論が展開されています。これは発言者の態度としてはなかなか巧者だと思います
*2。
しかし、だからこそ
表現の自由戦士たる僕は、そんなテクニックには騙されんぞ! という反骨心を露わにするわけです。
僕から強く批判したいのはまず②についてです。
そして⑤ひいては③の不可能について指摘します。
最後に「ならどうするのか」「この先どうなるのか」について、元ブログの枝葉末節を用いながら僕の考えを述べたいと思います。
+巨乳女性のイラストは我々に女性差別感情を植え付けない
まず②について。
結論から言えば、巨乳女性のイラストが、我々または子供の権利意識に影響を与えることは無い、または無視できる程度に軽微であると考えられる。
この点、
フェミニズム界隈、あるいは教育界の皆様には以前から僕は不満を持っています。
フェミニズム以外の学問をちゃんとやりましょう。これは
メディア論、メディア効果論の分野です。
社会学の一分野であるメディア論では、20世紀までに「テレビやゲームの影響が社会全体や子供の発育に対してどれくらい影響があるのか?」を詳細に研究しています
*3。
それによれば、例えば「TVCMを見ることで思想を転向して大統領選の支持者を変える」という行動は全く観察できませんでした。
また例えば「暴力的な映画・ゲームをした後に、子供が暴力的になる度合い」は、統計的に有効となるほど大きくはない
*4。影響は無視できる程度に小さく、またあったとしても一過性のものであることが確認できています。
メディアの影響は、少なくともストレートにな意味では、弱い。
ですので、普通に考えて、エロいポスターを見たからといって、大人や子供がエロくなるとは考えられないと言える。
なぜそうなるのか?という事についてメディア論は、一般的に選択的需要という概念を用いて説明します。
大統領選のTVCMは効果がないのではありません。もともとその候補に興味がある人たちに強く喚起する力があります。暴力的なゲームは、もともと暴力的な素養を持つ子供にのみ強く影響し、その子はゲームの真似をした犯罪を起こしたりします
*5。
つまり、受容する側の状態が、あるメディアの影響を受けるかどうかを決定づけるのです。メディアの側が、その影響力で、受容者の状態を変えることはない。
体験的にも理解できるのではないかと思う。人間は誰かに言われたからって簡単に考えを変えたりしない。FPSゲームのプレイヤーが銃犯罪に走り、エロゲーのプレイヤーが性犯罪に走る可能性は極めて低い。映画ジョーカーを見て犯罪に走る人が居たなら、その人は映画を見る前から鬱屈していたのでしょう。
……ちなみに、では子供の
人間性に最も強く影響するのは何か?
それは両親です。メディアの影響など、両親の影響力に比べたら極小もいいところ。
僕もいいかげん親世代ですから、テレビや漫画の影響を受けて子供が悪行を行わないか心配なのはわかりますが、貴方の家庭がちゃんとしてればまずそういう子供にはならない*6。もしも貴方の身近に、女性をモノ化して扱う男性がいたとしたら、まず考えるべきは、彼の父親がそうだった可能性でしょう。彼が性的漫画を読んだかどうかではなく……。
閑話休題。いまは他人の家庭の健全さについての話をするときではありません。
ともあれ、そういう訳で、宇崎ポスターの影響力で子供ひいては社会全体の女性感が歪む心配などする必要がないと、明確に言える。
元から社会が歪んでいたらエンタメが女性蔑視的なシーンを書くことはあるでしょうし、過去あった。しかしその逆は無い。エンタメやメディアには社会を歪める力など認められない。
表現の自由戦士と呼ばれる人たちは、もともと
フェミニズムと戦うよりも、
ゲーム脳だなんだとやってくる教育関係者と戦ってきましたので、この「メディアの影響などない」話にはまあまあ敏感です。
逆に「文化が女性をモノ化する思想を保存拡散している」というのは、古くから
フェミニズムが拡散してきた思想ですので、真面目に本を読んで勉強した結果信じてる人が専門家にも結構多いです。
僕がここでしてのは、このうち、前者が正しく、後者は間違っているという話です。
最初も言いましたが、僕の
フェミニズムに対する不満ってのはそれで……彼女らはしばしば
フェミニズムの古典に書いてあった、今の科学なら否定できる神話をそのまま紹介するんですよね。これもその類です。
+それは「政治的公正」なのか
次に⑤について。
元ブログは、公共の場のポスターにするな、という主張をするのことは
表現の自由の侵害にはあたらない、という旨の主張を展開しました。僕も今回の場合
*7それは賛同せざるを得ないと考えるところです。
ただし、その主張が「政治的公正」に基づく、という点については疑問を呈したい。
先に述べた通り、性的なポスターが公共の場に
掲示してあることによる、文化・人権的な負の影響はほぼ存在しないと考えられます。
あの内容を見たからといって、ヒトは、女性をモノ化してもいいとか考えるようになったりしない。
となれば、実質的なデメリットはないということです。
あれを見た女性が不快になっている、という事実を除けば。
そうです。その点だけは紛れもない事実として、真摯に男性が受け止めねばならないでしょう。「宇崎ちゃんはウザ顔をするキャラで絶頂表現ではない」とか「巨乳なだけのキャラである」とかいう主張は、原作漫画のファンでもある僕は全くそのとおりだと頷くものの、それでも女性が不快に感じた、という事実は覆すことができない。
宇崎ちゃんは、実際性的であるからウケているキャラクターです。
性的なポスターじゃないし不快に思う方が変だよ、みたいな話はちょっと論点ずらしと言われても仕方がない。
一方で、不快な表現だから撤去すを求めるという主張が「政治的公正」だ、という話になるとどうか。
全面的に否定はしませんが、強い疑問がある。
なぜなら、あの表現を求める政治市民は、不快感を覚える市民と同様に、実在するからです。しかもその市民はおそらく男性であり、反対派の女性と同数であると仮定できる。その状況でどっちが公正かを本当に決められるのか? 何度も言いますが、合理的な実害は女性の嫌悪感情以外にないんです。
こう言うと、「いや、好きにやっていい権利と、嫌なことをされない権利では、後者が優越する」という理屈を出してくる方もいるでしょう。
しかし、それも程度問題があります。
実際、紙屋さんの元ブログでは、「件のポスターは環境型セクハラに当たらない」という旨が明確にされました。確かに胸は強調されているが、性器どころか肌も露出していないというのが客観的記号的事実。法的には明確にセーフです。こういうセーフの表現を、気分でアウトにしていくなら、他の表現も嫌われるという理由でアウトにできる。
一部の煽り系自由戦士には、これがダメならジャニーズも禁止な! とか言う人が居ます。僕はそうすべきとは考えませんが、しかし客観的事実や法の範囲を逸脱した範囲に「公正」を置くならば、そういうアウトが現実的になっていく。
それが政治的公正なのか。僕は違うと思う。
+女性の嫌悪感の優越への疑義
そもそも女性がああした巨乳キャラのイラストに嫌悪感を覚えるのは、進化生物学的な理由が大きいと思われます。
ヒトという動物の雌にとって「自分が欲情してないときに、他の雄が欲情している」状況は純粋にリスクです(レイプされるかもしれない)。したがって、ヒトの雌は、雄の性欲を喚起する自分以外のモノについて、基本的に嫌悪感を覚えるようにできている。
この知見を実際に現実で使っている人たちが居ます。ナンパ師といわれる人たちです。
友達にいるのですが、彼はナンパ師だけあってとんでもないドスケベです。しかし彼曰く、どんなエロい発言をしてもだいたいの女性にキモいセクハラと思われない、そんな方法があります。
それは「一切ニヤニヤせずに真顔で言うこと」です。ポーカーフェイスでさえいれば、貴方のパンツを見せてください、という発言をしてもセクハラではなくギャグとして処理できる。ニヤニヤしている=欲情しているという視覚情報さえ与えなければ、女性の動物脳は騙すことができるのです*8。
女性の嫌悪感を引き起こすのは言葉やコンテンツの内容ではない、ということです
宇崎ポスターを見るのがオタクであり、オタクはニヤニヤしてキモい、という想像力が嫌悪感を引き起こしている可能性が高い*10。
最近の
twitterでは、このことを女性の「
負の性欲」と呼び表す表現が少し流行ってきているようです。
この表現は非常に強力だし的確だと思います。
女性にとって、宇崎ちゃんの巨乳に嫌悪感を覚えるのは、男性が宇崎ちゃんの巨乳に引き寄せられるのと同じぐらい当然のことである。この認識は、多くの女性が"男ってバカだから"とある程度譲歩を引き出してくれるのと、同じ効果を多くの男性から引き出せる可能性があるのではないか。
しかし一方でこれは、女性が巨乳に嫌悪感を持つという状態は、男が巨乳を好きなのと同じくらいしょうもない反応である、という話にもなる。
はたして、そういう嫌悪感に配慮することが「政治的公正」になりえるのか。
女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するなんて理屈が倫理哲学から導き出せるのか。
イ
エスもノーも考えは様々だと思いますが、少なくとも全会一致の結論とか、自明の前提とはならないはずです。
*11
+真摯に聞いたからといって解決するのか
更に、宇崎ポスターへの嫌悪感は女性の生物的反応、負の性欲である、という認識によって③が怪しくなってきます。
例えば
ゾーニングをしっかりやって、宇崎ポスターが
献血の場に出てくることがなくなったとしましょう。そしたら似たような批判はもう出てこないのか?
そうは思わない。男が欲情しなくなるぐらいありえない。
実例をまとめてくれた人もいます。
これまでに、駅の擬人化、のうりんポスター、ヴァーチャルコメンテーター、専門誌の表紙、コンビニの売り場、果ては本屋の専門売場コーナーまで、ざまざまなものがやり玉にあげられてきた。
しかも重要なのは、これらは全社会的ななにかではない。たまたま誰かの目についてSNSで拡散した以外の共通点がない。他にエロ方面でやばいものはあったが、それが叩かれることはなかった。
これは僕の予想にすぎないといえばそうなのですが、女性という動物は、たまたま目についた「エロいもの」について文句を言うようにできている。
負の性欲、という認識はこの予想を強力に支持する。
だとすれば、
ゾーニングの最終的な成功とは、女性の目につく場所に一切の「エロいもの」が目につかないようにすることでしょう。今文句を言っている強いツイフェミの人たちは、それまで文句を言うことを辞めないに違いない。
それは例えるなら、すべての女性がブルカを被せられる社会と大差ない状態でしょう。かつて
イスラム社会は、性を追放するために女にブルカを被せたが、現代ポリコレ社会では
サブカル表現がブルカを被せられようとしている。
我々が真に危惧するのはそれです。
フェミの方々は「オタクは批判をすぐ拡大解釈する」と常々いっているが、
表現の自由戦士としての僕は「フェミの方々が批判を拡大しない」ということを経験的にも理論的にも全く信じられない。おそらく無意識だろうが、批判対象を無限に拡大していくと思うし、貴方がた自身にもそれは止められないと思う。
+良識フェミがなんと言おうとサブカルは被害を受ける
しかも我々オタクは、すでにポリコレ棒による実害が
サブカル界に現実化していることを知っています。
ジェームズ・ガンの作る
ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが見たかった。ポリコレ棒に屈さないでほしかった。幸いにも我々のそうした訴えは認められ、3では
ジェームズ・ガンが作ることになった。しかし間違いが"人権意識"の発達している欧米で起きたのは事実。しかもこれは最も極端な例であって、見ている人にしか分からないレベルではもっといろいろなことが起きている。
スターウォーズの主人公は女性と黒人になり、
ゴーストバスターズの女版が大して面白くもないのにリメイクされ、
ターミネーターはサイボーグのSF映画ではなくサラ・コナーの映画になった。日本でもあれこれが起きている。一つ一つとしては大きな問題あるとは言えないが、我々はポリコレの圧力をひしひしと感じている。
重要なのは、これらは法的な根拠や公的な正義に基づいて起きた規制ではないということです。ポリコレ文化人のロビー活動に基づく、メディアの萎縮がこうした状況を欧米で生んでいる。
良識あるフェミ界隈の人々は、作品の撤去を求めるわけではない、と言うだろう。
だが撤去されるんだ実際に。
日本はそういうものからできうる限り自由であってほしい。
アズールレーンの中国人たちが、本当にしたい表現ができると喜ぶ日本であってほしい。
だから、動物的な負の性欲を、ポリコレという文化的ラッピングに包んだだけの運動には、どんなものであれ、
表現の自由戦士としてのオタクは断固反対して行かざるを得ない。
少なくとも、それが自明の「政治的公正」ではない、ということは主張していきたい。
+終わらない闘争、という安定
さて、
表現の自由戦士として譲ることができない内容について、述べました。
しかし……ここで認めてしまいましょう。それは僕の男性としての「正の性欲」と無関係ではない、と。もしも僕に欲望がなければ、宇崎ちゃんが連載中止に追い込まれたとしても大して声を上げたりはしないに違いない。
この点で僕は、僕の
表現の自由戦士としての思想が、規制派ツイ
フェミニズムに優越すると主張することが残念ながらできません。
僕たち表現の自由戦士は、女性たちの主張を「所詮お気持ちじゃねーか」と正義の天蓋から地べたに引き落としますが、そうして引き落とした地べたでは、僕たちもまた泥に塗れています*12。
所詮は性欲と性欲のぶつかり合いです。生物学的感情に基づく以上、どちらにも譲歩の余地はない。理屈ではないからです。
実は元ブログの論拠の中で、もっとも気になっているのがそのポイントです。
そして根本的には、政治的不公正、例えば
ジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルドインするような啓発・教育・学習の方にもっと充填を置くべきじゃあないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれは虚構上のネタだとすぐにわかる。
こういう世界観は、まさに日本の
*13「人権教育」の行き届いてなさからくる
非現実的な虚構ではないかと思う。
ポリコレ棒を教育によってビルドインされた人々は、自然と不公正な表現をへらすのではなく、棒で叩くための表現を探すだけの存在になるでしょう。争いはかえって激化し、社会は不安定になり、
ゾーニング論者が求めるような炎上の存在しないネット言論界はかえって遠のくことになる。
なぜなら権利とは、闘争の原理だからです。平和をもたらすような概念ではない
*14。
もしも人権教育として行うべきことがあるとしたら、ポリコレ棒で殴りたい対象が目の前に現れてもまずは相手の立場を尊重せねばならない、多様性とは他者との違いを許容することである、みたいな教育ではないかと思います。
現状それができている人もいます。
表現の自由戦士、あるいはツイフェミに、同意しないまでも相手に理解を示す人は、実は全体のうち多数派であるはずです(そして元ブログの紙屋氏もその多数派の一人であるはずだ)。
しかし同時に、そうした良識教育が全国民に行き届くことはありえない。そして良識を持たない人の軽率なツイートは拡散され、ポリコレ棒で殴られるでしょう。常に悪貨は良貨を駆逐するのです。
この状況を無くすことは出来ません。だって性欲だから。争っているからそれをなくしたい……とか考える事自体がおそらく不毛で、関わらないことが唯一の正解に違いありません。
というか、そうした殴り合いと争いのサイクルこそが、元ブログの言う「旺盛な批判」なのでしょう。言葉の暴力の伴わない批判などきっと永遠に実現しないし、
表現の自由戦士とツイフェミがSNSで殴り合っている状態が正しくさえある。
+ポスターについては性欲以外の要素で判断しろ
というわけで、全ては正の性欲と負の性欲の闘争に過ぎず、不毛であると同時に状態として正しい、というのが僕の意見です。
貴方がたは、争いを止めようと心を痛めること自体を止めてください。
しかしそれとは別に、じゃあ宇崎ポスターの是非はどう判断するのか、という問題がある。
全体としての争いや炎上は不可避だとしても、個々のケースについては何らかの判断をして決着をつけねばならない。それはどうすべきか。
それは、もう性欲を抜いた要素で判断するしかないでしょう。つまり、宇崎ポスターが不快だからとか、好きだからとか、そういう要素に基づく、人権思想や"政治的公正"で判断しないということ。
さんざん言われていることではありますが、
やっぱり献血が増えたかどうかの実利でだけ判断するのがいい。
女性がポスターに反感を覚えるのは厳然たる事実ですから。それは
表現の自由戦士として何を言っても変えられない。我々オタクは、大好きなエロい漫画が市場原理のせいで連載を止められてしまうという経験を幾度となくしています。コンビニエロ漫画規制のときも「あれは高齢者向きの商品で実際撤去したほうが売上は増えるかも」という話になった時点で、「チッ、だったらしょうがねえな……」みたいに殆どの人間がなりました。
女性が不快だし不快が正義だから公的に撤去せよ! という話には全力で抵抗します。抵抗しますが、女性が不快であるせいで
献血が減ったかも……とか
献血団体が言ったら、チッ、だったらしょうがねえな……とせざるを得ない。
*15。実際、オタクは別に巨乳じゃなくても
リーフレットもらえるなら
献血に行く。これは人権や正義とは関係ない、広告センスの問題です。
広告センスの問題に過ぎない、ということを強調していくしかないと思います。
ゾーニングの精査や倫理的検討では、闘争は永遠に続くし止まりません。そうじゃなくて、クレームだけが目的の女性やオタクからの電話もかかってくるから、人権や公正とは無関係なそういった現実にこそ対処しなければならない。そういった現実にだけ対処すればいい。
そうすれば、我々オタクの行動は
表現の自由戦士としてのものから、単なるオタクとしてのものに変わる。好きな作品を買い支えるというのは我々にとって普通のことです。宇崎ちゃんが売れて欲しいという理由で
献血に行く人も出てくるでしょう。
+都合の悪い現実を直視し、軽率な発言をやめよう
まとめます。
- 宇崎ちゃんのポスターが社会や子供に負の影響を与えることにはならない。
- したがって反対運動の根拠は女性の嫌悪感だけである。
- 女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するという理屈を公正とは呼べない。
- 両方が性欲によって話す以上、冷静な議論やゾーニングの検討は無意味。
- 公正や倫理の問題ではなく、広告センスとして処理しろ。
以上です。
この記事で僕が特に言いたかったのは、「貴方がたそれは倫理ではなく生物的性欲なのわかってないでしょ?」ということです。
それが分かっていれば避けられる軽率な発言がたくさんあると思います。特に、自分の生物的嫌悪を理解させるために、ゲイポルノを男性に向けてくるのはほんと軽率で、ゲイとかいう人たちが生物的に嫌悪されてるのを防ぎたいのが、LGBT運動だったんじゃないのか。🌈とか名前につけてる人がそれに賛同してるのがまた軽率すぎる。
そういった思いでいますので、元ブログの
ブコメにあった、「冷静な議論できないオタクが多かったのがイラッとして人が多かったのでは」みたいなコメントね、こっちも同じですから。我々は、男も女もオタクもフェミも、性と正義への生物的欲望に駆動されてる、愚かな動物に過ぎないのです。
そして生物的欲望に抗うために、論理を鍛えましょう。特に女性学専門家の方々は、生物学や
社会学の他分野がもたらす、フェミ古典にとって都合の悪い先行研究を参照し、受け入れてください。