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上遠野浩平論⑩(終)~未来へと向かう上遠野浩平(『螺旋のエンペロイダー』『不可抗力のラビット・ラン』『パンゲアの零兆遊戯』など)

 上遠野浩平論の第10回です。今回で最終回になります。

 前回の第9回では『ヴァルプルギスの後悔』で起きた魔女消滅後の世界を〈一巡後のセカイ〉と定義し、また〈一巡後のセカイ〉を舞台とする『ヴァルプルギス』以降の作品群を第3期上遠野浩平と呼ぶことを提案した。

 最終回となる今回は、最近発表された作品をいくつか取り上げることで、第3期上遠野浩平における文学とはどんなものなのか、つまり現在の上遠野浩平が描いている文学がどんなものなのを論じる。

 第3期上遠野浩平の舞台となる〈一巡後のセカイ〉とは、かつて「運命」の前に破れた「可能性」が、再び息を吹き替えした世界である。故に、第3期上遠野浩平の文学とは、第1期上遠野浩平と同じく「可能性」を中心的テーマとするものである。しかし、その内容はかつてと同じでは決してない。同じ場所に戻ってきたようでいて、明確に進化している。"螺旋上昇している"という表現がこれほどふさわしい作家も居ない。

 また本記事では、今出版されている作品群の話から、更に僕が個人的に読み取った、上遠野浩平の未来への挑戦についても扱う。

 言い訳がましい話を最初にさせておいてもらうが、これまで上遠野浩平論と称してあれこれ書けたのは、上遠野浩平を読み始めてから20年の蓄積がが大きい*1。故に、蓄積のない現代ひいては未来の話をするとあっては、的外れも多くなっていくだろう。読者の皆様に置かれましては、サッカーニュースのコメンテーターの勝敗予想を聞くような気持ちで、気軽に本論の結末に目を通していただきたい。

 

 

+「運命」に疑問を呈する男、才牙虚宇介~『螺旋のエンペロイダー

 

  まずは螺旋のエンペロイダーから議論を始めないといけない。同作品は、『ヴァルプルギス』終了後の電撃文庫MAGAZINEで、2012年3月から2016年11月まで連載された。

 この作品は、虚空牙の影響下で生まれた才牙虚宇介・才牙そらの二人を中心に、統和機構のMPLS育成所・NPスクールに通う生徒たち*2、そして枢機王が、エンペロイダーと呼ばれる謎の概念についてあれこれ争う物語である。

 なぜ『エンペロイダー』から最終回の議論を始めるかというと、この作品は、文中で明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台となっている旨が示されているからである。具体的には、まず『ヴァルプルギス』のラストで登場した御堂璃央がNPスクールに在籍している。また『Spin.2』に登場するフェイ・リスキィが、奇蹟使いの能力を使いこなしていて、「ちょっと前の(MPLSなら)何でもかんでも抹殺してしまえって風潮だった頃~」と統和機構の内部で決定的な方針転換があったことも話す。あと、九連内朱巳とイディオティック・オキシジェンの仲がやけに良さそうだったりする。

 

 そんな『エンペロイダー』は、文学的にも明確に『ヴァルプルギス』後の展開を、つまり本論が第3期上遠野浩平と呼ぶ流れを描いている。

 特にそれが現れるのは、主人公の才牙虚宇介の言動だ。

 

 才牙虚宇介は『Spin.1』で最初の敵役となったミューズトゥファラオ・虹川みのりと、こんな会話をした。

「――ふざけるな!」みのりは絶叫した。「貴様も化け物なら、化け物らしくしろ! なんだその――優等生みたいな言い草は!」

「ほらほら、だからそこだよ――狭い。すごく狭い。どうして君の能力が、そのまま世界の敵になるしかないって思い込みに直結するんだ?」

 虹川みのりは、この会話の前に、「私には覚悟ができた――何ものにも負けないという決意が」などと、運命と対決する〈戦士〉の立場を度々表明し続けている*3。それらは、第2期上遠野浩平であれば主人公が高らかに宣言したであろう台詞であり、実際虹川みのりはNPスクールの生徒たちなどより、明らかに〈戦士〉として格上である。

 才牙虚宇介は、そんな虹川みのりの前に急に現れて、「その戦いは本当に必要なんですか? あなたは本当に〈世界の敵〉なんですか? あなたが〈戦士〉である必要は実はないんじゃないですか?」と、前提をひっかり返す疑問をぶつけている訳だ。

 

 もう一つ同じような会話を引用する。才牙虚宇介は『Spin.2』で、アロガンスアローの能力を引き出して枢機王と戦おうとする才牙そらと対峙し、こののような話をした。

「私たちの、本来の使命を忘れるな――お前はまだ、あのNPスクールという欺瞞に囚われているの? 適度に安全なMPLSを矯正して教育する、とか――馬鹿馬鹿しい。全ての能力者は、この〈アロガンス・アロー〉のように、世界を組み替えて変革するためにのみ存在している――今の世界の敵であり、未来の支配者となるか否か、その二者択一の運命しかない」

「だから単純だって言ってるんだよ――運命なんて曖昧な言葉を、そんな風に物々しく使うもんじゃない。そもそも君の、その人間を見極めるとかいうやり方も、ずいぶんと粗雑で取りこぼしの多い話じゃないか」

 才牙そらは、やはり「日高迅八郎は自分の運命を自覚してなくて可哀想」「運命からは決して逃れられない」などと、第2期上遠野浩平を彷彿させる台詞を連発している。というか、彼女のナイトフォールの能力は、言ってしまえばオキシジェンや魔女の縮小版*4であり、第2期上遠野浩平の擬人化とさえ読むことが可能だ。

 才牙虚宇介は、そこに「運命って本当に絶対なんですか? そんな単純には決められないんじゃないんですか? 何であなたは運命を分かったつもりになってるんですか?」という疑問をぶつけ、やはり前提自体をひっくり返してしまう。

 

 つまり、才牙虚宇介とは第2期上遠野浩平という文脈自体に疑問を呈してくるキャラクターなのだ。

 

 魔女が消滅した〈一巡後のセカイ〉とは、基本的に、万に一つの成功が否定できなくなっただけの世界であり、我々を失敗に導く「運命」は相変わらず絶望的なまでに強大だ。だから、第2期上遠野浩平の文脈を踏襲した虹川みのりや才牙そらの言葉は、既存作品で発せられた時と同じように正しく見えるし、実際ほとんどの場合彼女らは正しい。

 しかし彼女らは、才牙虚宇介に根本的な疑問を突き付けられると、何も反論できない。正しいはずの主張が通らなくなるので、彼女らは、もはや逆ギレする以外になくなってしまう。

 才牙虚宇介というキャラクターは、空気を読まずに疑問を呈するだけで何が本当に正しいのかは言わない。なので、普段の態度はひたすら曖昧でどっちつかずに見える。そういう傾向は、特にシリーズ前半の『Spin.1』から『Spin.2』にかけて顕著だ。(『Spin3』以降の展開についてはまた本記事の後半で改めて触れる)

 

 

+将来の問われる既存キャラたち~『不可抗力のラピッドラン』など

 

 明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台だと示されない作品にも、第3期上遠野浩平の影響は見て取れる。 

 中でも 『不可抗力のラビット・ラン』で九連内朱巳のもとに訪れた影響の大きさには、本論がこれまでで指摘して来たような既存作品の内容を把握していると、ちょっとびっくりさせられてしまう。

  この本で初めて九連内朱巳の前に現れたブギーポップの言葉を、複数のシーンから引用する*5

「君はまだ、”負けてたまるか”と思っていればいいと考えている。自分というものを抑圧する敵が居て、そいつに打ち勝てばいいと……だがもう、それは限界なんだ」

「………」

「十分に強い君は、他人を踏みにじっても、もはや対して面白いとは思えない。そしてそれは君だけではない――世界中の人間が、心のどこかで飽き飽きしているんだ。しかし他のやり方をしらないし、見つけられない。だから仕方なく、これまでの惰性をえんえんと続けていくしかないと思っていて、それにうんざりしている――」

「君はずっと文句を言い続けてきた。あれこれが悪い、どれそれがおかしい、誰彼が間違っている、と攻撃するだけでよかった。それが逆に、他者から攻撃される立場になったら、かつての自分の浅ましさが逆流してくるようで、それが苦しいんだ」

 

 九連内朱巳が、あろうことか〈戦士〉であることを責められている。 

 これには本当にびっくりだ。ゼロ年代に描いてきたものを丸々ひっくり返すような展開。

 だが、これが第3期上遠野浩平なのである。

 

 前回の第9回の末尾で述べておいたとおり、第3期上遠野浩平とは「勇敢に戦い、真の勝利を目指す時代」である。一方、第2期上遠野浩平で展開してきた〈戦士〉という語は、負けるという現実を直視できる者を意味し、絶望に折れずに抗える者を称えるためのモチーフである。〈戦士〉とは、勇敢に勝利を目指す者とか、勝利するもののことではない*6

 即ち〈戦士〉であるだけでは、第3期上遠野浩平のセカイを生き抜くことはできない

 負けず嫌いなだけ、今の場所で踏ん張っているだけでは全然だめで、未来の勝利に向かって一歩を踏み出さねばならないのだ。 『ラビットラン』で世界の敵となった白渡須奈緒は"未来について真剣に悩んでない"キャラクターであった。そして九連内朱巳は、それと同類だとブギーポップに怒られている訳だ。

 

 しかし、じゃあ未来に向けて一歩を踏み出すことにするとして。その時必然的に問題となってくるのは、我々はどっちに向かって踏み出せばいいのか? なにをやったら未来に向かって踏み出したことになるのか? 

 平たく言えば、僕たちは将来どんな大人になればいいのか? という話になる。

 現在、第3期上遠野浩平は、特にブギーポップシリーズの新展開と既存キャラクターの再登場を通して、青春期の若者たちにこの問いを突き付け続けている。『オルタナティヴエゴ』ではカミールは統和機構に戻った。『デカタントブラック』で新刻敬は風紀委員の自分に折り合いをつける。『ラビットラン』のもう一人の主人公・羽原健太郎は、霧間凪からの独立を考えだしている。『パニックキュート』で末真和子はアクシズとしての活動に本格的に着手した*7

 最近のブギーポップで描かれていたのは、月並みのようだが、いわゆる進路志望調査だったということである。

 

 それにしても、20年もライトノベル(≒ジュブナイル)を描いてきて、やっとテーマに出来るようになった新たな展開が「君たちはどんな大人になるのか」ですよ。

 ホント上遠野浩平って作家は度し難いな! エモ中のエモ(唐突な感情の発露)!

 

 

+復活した「可能性」が生み出す新たな葛藤

 

 最近のブギーポップについて見ることで、第3期上遠野浩平における葛藤の焦点が一つ明らかとなった。ここで、より深く葛藤の核心に迫るために一旦『螺旋のエンペロイダー』に戻る。

 

 この『螺旋のエンペロイダー』という小説は、タイトル通りエンペロイダーという概念の謎を追うことがストーリーの主軸となっている。この謎の舞台設定的な正解は、一応「枢機王が虚空牙から隠れる目的で、エンペロイド試論と呼ばれるでっちあげの論文を書き、統和機構をMPLSを沢山増やすように誘導した」なのだが、しかしこの説明ではモチーフの文学的意図が明確にならない。 

 本論が行いたい解釈のために、最も重要な見解の一つが『Spin.3』の冒頭でオキシジェンが示しているものである。

「エンペロイダーという……仮説は……あるかもしれないという、仮定……もしくは妄想にすぎない……本来は」

 ぼそぼそ声の男が言う。

「……いずれ、すべての可能性が潰えたときに、その果てにもなお立っている者こそ、真の支配者……最後の皇帝であろう、という……それに至る前段階、その似姿……」

 

 「可能性」の中でも、最後に残った者こそがエンペロイダーなのだという

 つまり、誰が最後に残るかで序列がつく序列のために競争する話だということ。 

 これまでも述べてきたとおり、第3期上遠野浩平の物語世界では、どんな人間にも真の成功に至る「可能性」がある。「可能性」が真の成功に至り得ることは、僅かだが確かに存在する希望だ。キャラクターたちは、誰もがこの僅かな希望を目指して、各々が現実に立ち向かう。

 しかし、もし仮に”万が一の成功”に至れるのはただ一人で、他の者は全て敗退するのだとしたら? 僅かな希望を奪い合うために、凄惨な争いが発生してしまうのではないか。

 エンペロイダーという仮説、あるいは被害妄想*8が示唆するのは、この競争なのだ。本当は「可能性」が互いに成功を奪い合うなどという必然性は無いはずだし、実際それ作中でほぼずっと単なる妄想だと言われ続けているのだが。しかし競争への不安に駆られた者たちは*9、互いに相争わずにはいられなくなる。流刃昴夕のように、積極的に他者同士を潰し合せようとする者も出てくる。

 

 ここでこの解説をしなければならなかったのは……エンペロイダーという謎っぽいモチーフについて話すのが面白かったのもあるが……それよりも、先に話しておいた進路志望調査の件と併せて、という話である。

 結局は同根の葛藤であることを指摘したい。

 つまり、第3期上遠野浩平で描かれるセカイは、確かに「可能性」という希望が復活しているが、別に薔薇色の時代ではない。既存キャラクターたちが進路選択に苦心する羽目になることといい、エンペロイダーの闘争が生まれることといい、むしろ希望の存在自体が新たな葛藤、問題、不安となるのだ。

 これからの上遠野浩平が何を描いていくのかは知るよしもないが、この路線の葛藤は今後もかなり重要になっていくはずである。

 

 それにしても、未来に希望があることが逆に不安、だとか。こんな月並みの話、いくら上遠野浩平が天才でも、デビュー時点で描いていたとしたらなんかよくある青春モノっぽいと思うだけで、ここまで真に迫った物語と受け取ることはできなかったであろう。

 20年かけて螺旋上昇した成果がここにある! エモ中のエモ(突然の感情の発露)!!!

 

 

+セカイとの断絶を踏破する~『パンゲアの零兆遊戯』

 

 さて、ここまで、第3期上遠野浩平という文学の特徴と、現出する新たな文学的葛藤について述べた。

 けれど、本記事ではやはり、第3期上遠野浩平が描くのは希望の存在するセカイであることを強調していきたい。世の中には確かに問題が尽きることがないし、基本的にエンタメ小説である以上、何かしらの解決すべき問題は描かれる。

 しかし、これまでの上遠野浩平では間違いなく描けなかったであろう希望あふれる展開も、今の上遠野作品には確かに現れている。

 

 このポジティブな論点では2つの作品を紹介する。

 そのうちの一つはパンゲアの零兆遊戯』だ。

パンゲアの零兆遊戯

パンゲアの零兆遊戯

 『パンゲアの零兆遊戯』は、エスタブと呼ばれる予知能力者たちがプレイしているジェンガに、主人公・生瀬亜季と、伝説のプレイヤー零元東夷が投入され、ゲームを戦い抜く姿を描く話だ。物語構造自体は、もろに『ライヤーゲーム』であり、恐らくは上遠野浩平が"最近の流行りも取り入れてみた*10"やつ。しかし僕は、現時点で上遠野浩平の最高傑作は何かというと、この作品だと思っている。

 なにせ、これが『ライヤーゲーム』や『アカギ』であれば主人公が勝つのは頭がいいからだが、この作品で描かれる勝負はそういう問題ではない。頭脳ゲームものを描いていながら、頭脳ゲームの勝ち負けや出来不出来はどうでもよく、プレイヤーたちは各々の人生全体を試され、敗北していく。完全に他の作家よりレイヤーが上のものを書いている*11。作中の零元東夷の台詞を借りるなら「次元が違うんだ、次元が。レベルなどというみみっちい発想からは外れている」。

 

 他の作家と異なるというだけではなく、上遠野浩平自身の他作品と比べても『パンゲア』という作品は、今までに無かった考えられない展開を盛り込んでいる。

 

 小説の最終版だ。それまで基本的にゲームを傍観していた生瀬亜季は、状況の変化によって、自らゲームに参加することになる。その直後、生瀬亜季は、自分が生前のみなもと雫(偽名:宇多方玲唯)に、最後にあったときの会話を回想する。

「ねえ、あんたは何になりたい? 亜季?(中略)たとえば、だ――あんた、宇多方玲唯か、みなもと雫になりたいと思う?」

 いきなり言われて、反応に困る。

「……なれる訳ないじゃないですか。無理ですよ。私だけじゃなくて、誰にも玲唯さんの代わりなんかできっこないです」

「それは世界中のだれでも同じことよ、亜季。別に人間はひとりひとり偉大とかそういう綺麗事じゃない。悪い意味でも人は、誰かの代わりを完全に務めることはできない。だから世界は劣化していくことを避けられない。新しいものを無理やり隙間に詰め込んで、どんどん形が変わっていくことを止められない――しかし、私はその点で、少しだけ希望を持っているのよ」

 ここで、生瀬亜季はみなもと雫の後継者であったことが明らかになる。

 生瀬亜季はこの後のゲームの中で、エスタブとしての才能を開花する。彼女は才能を見出されていたキャラクターであり、この物語全体で起きた出来事は全て、彼女の才能のためにあったのだ。

 彼女は、暴走する才能の中で、みなもと雫の幻覚を見る。

(みなもと雫――)

 挫折した未来予測のスペシャリストでもなく、夭折した天才アーティストでもない。余計の飾りのなくなった彼女がそこに視えていた。

 いろいろ踏まえて、一言で言えば、こうだ。

 

 生瀬亜季は、みなもと雫になった

 

 これが本当に考えれば考えるほどとんでもない。みなもと雫は『ソウルドロップ』シリーズにおいて、音楽関係者等から絶対に追いつけない絶望扱いされていたキャラクターである。コンセプトだけで言えば、虚空牙と同じ*12乗り越えられない"セカイとの断絶"そのものといえる。

 それと同じになった。あるいはそれの真の姿を捉えた。

 つまり、生瀬亜季とは、ついに自力で"セカイとの断絶"を乗り越えたキャラクターである。

 かつて霧間誠一が夢見た真の成功を達成した人物なのだ。上遠野浩平の作品遍歴において、これは本当にエポックメイキングな出来事だと思う。ついにここに到達したか! という感じだ。

 

 しかも同時に『パンゲア』は、やはり今まで通りの上遠野文学でもあるのだ。

 この物語の終盤では、零元東夷もまた、"セカイとの断絶"をとっくに乗り越えて、輝かしき成功に到達していた人物だということが明らかになる。しかし彼は、明らかにパッとしない、自分以外には価値のわからない人生を歩んでいる。

 作品のラストシーンで彼は、「零元東夷を舐めているやつが居なくなった」という理由で、何かを成し遂げるでも、報酬をうけとるでもなく、淡々と舞台から去る。

「君は――これから何をするつもりだ? どんな未来が視えている?」

 来栖の問いに、東夷は振り返って、そして面倒くさそうに、投げやりに、

「そいつが問題なんだ」

 と言って静かに扉を閉ざした。

 

 これこそは、上遠野浩平が『笑わない』でのデビュー以来ずっと書いているものである*13全てが終わったあとも人生は続く。それは真の可能性の成功に辿り着こうが世界の敵となり果てようが、何も変わることはないのだということが、第3期上遠野浩平という文脈において、改めて確認された訳である。

 

 

+セカイとの和解~『恥知らずのパープルヘイズ』

 

 もう一つ、希望に満ちた作品として取り上げたい作品がある。

 アニメ化もあって盛り上がりに盛り上がっている名作、『恥知らずのパープルヘイズ』だ。

  ジョジョ5部アニメの成功もあいまって、話題に上がることも多くなってきた本作。上遠野浩平の作品としては例外的に、上遠野サーガの外に位置しており、作品間リンクの要素を持たないが、上遠野浩平の文学の一つである以上、テーマ的な一貫性はやはりある。本論における議論の上では、この作品も第3期上遠野浩平に属する作品の一つだ。

 しかも、この作品もまた、既存の上遠野作品では考えられなかった展開を含んでいるのである。ラストシーンにおける、主人公のフーゴとギャングのボスとなったジョルノの会話、そのクライマックスを引用する

 その影がフーゴにかかる。顔を上げる。ジョルノは彼を正面から見つめながら、

「半歩だ」

 と言った。

「君が一歩を踏み出せないと言うのなら、ぼくの方から――半歩だけ近付こう」

「………」

「すべては君の決断にかかっているが、それでも悲しみが君の脚を重くするのならば、ぼくもそれを共に背負っていこう」

 

 この会話、普通にジョジョとして読んでも名台詞だが、第3期上遠野浩平の言葉として受け取ると、また違った趣が出てくる。

 漫画では主人公として我々の感情移入の対象だったジョルノだが、『恥知らずのパープルヘイズ』では、"あのブチャラティすらも従えていた圧倒的カリスマを持った存在"として描かれている。シーラEやムーロロといった上遠野キャラたちは、ジョルノに対して、ギャングのボスだからとかそういう問題ではない忠誠を捧げており、パッショーネディアボロの時代より遥かに強い権力を備えている。

 ハッキリ言ってこの小説では、ジョルノ・ジョバーナというキャラクターはみなもと雫の同類になっている。ジョルノとフーゴの間にはもはや、セカイと断絶が立ちふさがっているのである。

 

 つまりこのシーンでは、"断絶"の向こうの存在が半歩近づいてきてくれている

 

 上遠野浩平は、パンナコッタ・フーゴというキャラクターを"一歩を踏み出せない"キャラクターとして描いた。フーゴは「うううう……」となっちゃうタイプの人ということだ。彼は麻薬チームとの戦いを通じて、かつてナランチャが先に進めた理由を、いわば、彼にとってのカーメンを得ている。だというのに、彼にはやはり一歩が踏み出せない。〈戦士〉になりきれない。

 こういう人は、従来の上遠野作品では、そのまま取り残されるのが常だった。せいぜいブギー先生が「僕らは前に進むしかないんだ」と厳しいお声をかけてくれるぐらいで、救いなんてものはほとんど無かった。

 それに明確な救いが与えられている。

 上遠野浩平はついに、厳しいばかりだったセカイと、一つの和解を成し遂げるところまで来た。

 

 『恥しらずのパープルヘイズ』は2011年の出版であり、これは『ヴァルプルギスの後悔』の完結とほぼ同時だ。つまり『恥知らず』こそが、第3期上遠野浩平の最初の作品である。

 だとしたら――根拠のない情緒優先の読みをしてしまうが――この作品でのセカイと和解する展開は、荒木飛呂彦が"半歩"を埋めてくれたが故の、上遠野浩平にとっての断絶の克服だったのかもしれない。そしてこの時に経験したセカイとの和解が、現在に至るまでの第3期上遠野浩平作品に、優しさの血脈となって受け継がれているのかもしれない。

 

 

上遠野浩平の「愛」への挑戦

 

 以上、現在出版されている、第3期上遠野浩平の既存作品について述べたいことを述べた。

 ここからは、本論の〆として、これからの上遠野浩平、未来の上遠野浩平について予想というか、思うことを書く(つまりいよいよ話が信憑性の薄い領域に踏み込んでいく)。

 

 三度『螺旋のエンペロイダー』の検討に戻ろう

  先に確認した通り、連載前半では第2期上遠野浩平の文脈に疑問を呈し続けていた才牙虚宇介だが、『spin3』から『spin4』までの連載後半では、いよいよ他人に疑問を突き付けるだけでなく、自分自身の問題*14に直面せざるをえなくなっていく。

 その中で、彼が決定的な場面で頼ったのは、クラスメイトの日高迅八郎との友情であった。当該箇所では、バトル展開のクライマックスとは思えない、単なる少年同士の会話に数ページを費やしている。他にも、この作品では最終的な結論として、人間としての絆みたいなものが強調される。才牙そらは兄と同様に友人の志邑詩歌に救われて、最終的に遠未来に旅立つ。その姉の志邑咲桜も、愛する妹との関係を再確認し、更なる戦いへと身を投じていった。

 

 これって今まであったようで無かった展開だよな、という話で。

 

 さっき既存キャラクターたちの進路志望に絡めても触れたが、第3期上遠野浩平という文脈において、避けて通れない問題があるとすれば、それは「何をもって真の成功に至ったと判断するのか」という事である。

 単に敵を倒せば成功でもないだろう。大きな夢を実現すれば成功でもないだろう。

 じゃあ何が成功例としてふさわしいか?

 一般的な発想として、「愛」とか「絆」というものは当然、具体的な成功として描かねばならないはず、ではないだろうか。

 

 折しも「愛」は、上遠野浩平が今まであまり書いてこなかったモチーフでもある。

 僕が思うに、第1期上遠野浩平で描かれていたのは、「愛」というよりも「ボーイミーツガール」だった。『冥王と獣のダンス』や『VSイマジネーター』に描かれているのは、具体性に欠けた曖昧な理想としての恋愛であり、成功が絶望的な可能性の一つに過ぎなかった。

 第2期上遠野浩平では、もうちょっと踏み込んで「愛」について描いた作品として『戦車のような彼女たち』や『騎士は恋情の血を流す』のような作品が出て来た。だが、ここで描かれたのはキャラクターが利己性を捨てて〈戦士〉に至る理由としての「愛」であった。これは行動の原因ではあっても、目的とか達成ではない。

 

 そうじゃなくて、第3期上遠野浩平は、もっとそれ自体で価値のある、輝かしき達成としての「愛」とか「絆」について描こうとしている。もしくは描かざるを得なくなっているんじゃないだろうか? 

  先に引用した『エンペロイダー』以外にも、いまSFマガジンで第2部を連載中の『製造人間』にコノハ・ヒノオ君が出てくるのは、家族愛を表現するためだと思うし。なぜか急にジャンプ恋愛小説対象に上遠野浩平が寄稿した『しずるさんとうろこ雲』では、久々にしずるさんとよーちゃんと、更には東澱奈緒までひっぱりだして、そのものズバリ恋愛の話をし始めている*15。こうしてみると、愛や絆が大事になってくる*16という傾向は、やはり確かにあるように思えてくる。

 

 ただ、この先の第3期上遠野浩平で中心的な話題となるかまでは判らないですね。なにしろ話が現在進行形過ぎるので。 

 あと、その『しずるさんとうろこ雲』の中で、しずるさんがちょっと気になる話をしていた。

「まあ、どう答えられても、私には反応のしようがないのだけど。私、恋とか苦手だから。感受性に乏しいのよね」

 あっさりとした調子で言う。私はますます困る。

「乏しい、って──」

「私はほら、知識がなくて、さっきみたいにすっごくとんちんかんなことを言うでしょ。あれよ。私が恋について話すっていうのは、きっと魚が鳥について語るようなものよ。的外れで、肝心の所には触れられない」

 

 これは、上遠野浩平自身の代弁だと思う。

 本論の第2回でも、上遠野浩平は恋愛描写があんまり上手じゃないという話はした。アマチュア期間もいれたら30年近いキャリアを持つ作家が、自分のそういう資質について自覚的でない訳がない。

 ということは「『愛』について描く」という、今まさに作品にみられる傾向は、上遠野浩平が新たな地平に挑戦しているという事でもある……のかもしれない。

 そうだとすれば、我々読者は、その挑戦がどういうふうに結実するのか、ただただ注視するのみである。

 

 

ブギーポップが「ワタシの敵」となるとき?

 

 もう一つ、これから上遠野浩平が書くかもしれないものについて。

 まだ消化していない伏線の中で、特に気になるものがある。

 

 『ロストメビウス』のエピローグから、リミットに憑りついて?いる水乃星透子と、ブギーポップの会話を確認する。

「過去と未来と――どこまでおまえは、その力を広げているんだ?」

 それは紛れもなく、なにか巨大なものに挑む者の言葉だったが、しかしこれに、

「――いいえ、そうではないわ」

 と、リミットの姿を借りた者は首を横に振った。

「残念だけど、もうこの世界に私はいないのよ。あなたの敵だった、”イマジネーター”は消滅している――ここに私はいない」

 ガラスに写っているその微笑みは、まったく何にも動じることがないように、変わらない。

「あなたの自動的なまでの奇妙(ストレインジ)さを受け止めてあげることは、もう存在しない私にはできないによ”不気味な泡”さん――世界の敵機の、敵――あなたという存在の矛盾、そのことはきっといつか、あなた自身に跳ね返ってくる――その日はもうそんなに遠くない」

「……………」

 そいつは、その言葉を受けていわくがたい、なんとも不思議な表情をした。

 それは怒っているような、泣いているような、悟っているような、苛立っているような、どれでもありどれでもないような、左右非対称の顔だった。

 

 世界の敵の敵、という矛盾?

 いや、これはどういうことになるんだろうか。

 ブギーポップシリーズの最終回の構想すら思わせる話だが、この件に関しては『ロストメビウス』以降、ずいぶん長いこと関連する言及がなかった。だからハッキリ言って、これは上遠野信者であっても多くが忘れ気味になっている伏線ではないかと思うのだが。

 しかし、最近になってこの伏線が再浮上してきているような気がする。たぶん第3期上遠野浩平という時代が、先に述べてあるような理由で、宮下藤花の将来を要請するようになってきたからだろう。最も記憶に新しいところでは、最新刊『パニックキュート帝王学』で、末間和子を助けられないブギーポップという存在の限界について言及があった。

 

 考えてみれば、ブギーポップという存在は、設定のそもそもから危うい。

 言うまでも無いことだが、ブギーポップは「自動的」な存在だが*17、『海賊島事件』や『悪魔人間は悼まない』の描写によれば、自動的であるということは「持っている可能性が大きすぎるとその可能性に行く先を縛られてしまう」という話のようである。例えるなら、ピアノの類まれな才能を持った子供が、ピアノの練習以外の道を断たれてしまうように。

 ということは、ブギーポップという強力すぎる可能性は、自動的であることによって、宮下藤花という女子高生の未来を閉ざしているのだ。

 実際、彼女はブギーポップ活動のせいで浪人する*18し、竹田先輩との恋愛関係もギクシャクしがちで、もしずっとこのままなら、やっぱり人生に支障が出るんじゃないか。

 

 ブギーポップが何の敵かといったら、宮下藤花の敵に他ならない

 

 この事実とどう折り合いをつけるのか*19。イマジネーターを倒したその後の活動は単なる惰性かもしれないブギーポップ、一方で、成長して不安定な思春期を脱する次期に入りつつある宮下藤花。

 これについて上遠野浩平は、書くんだろうか、書かないんだろうか。わからないけれど、少なくとも問題意識としては既に意識にのぼっているだろう。しかしこの問題に取りくむということは、上遠野浩平の文学を根本から問い直す作業でもある。第3期上遠野浩平といわず、あるいは次の20年にまで、この課題は残っていくかもしれない。

 もはや我々読者がどうこう言うこと自体が――つまりこの記事のこの項目自体が――不適切である。黙って何が出てくるのかを待つべきなのだろう。

 

 いやでもなー気になるなー。だれかと気になることについてはなしたいなー(感情の発露)。

 

 

+セカイを抱えたままの未来へ~上遠野浩平21周年~

 

 以上です。

 本当にこれでもう、言いたいことは全部言い終わりました! 以上です!

 少なくとも次の何かを読むまで新たに追加して言うべきことはないです。この20年で貯まりに溜まったものを、残さずインターネットに吐き出し終わりました。虚脱感にも似た清々しさがある。

 

 上遠野浩平のデビュー作『ブギーポップは笑わない』は、調べてみたところ、1998年2月6日に発売されたようです。即ち、本日2019年2月6日をもって、上遠野浩平は21周年に突入したということであります。連載を通して20周年だ20周年だと強調し続けてきたが、もう次の年になってしまいました。

 もう次の未来が来てしましました。

 我々がよく知る上遠野浩平なら、こんなふうに言うでしょう。20周年も21周年も関係がない。ただ淡々とやるべきことをやるだけだ。未来が来たとか印象的なレトリックを使ったところで、それが何ら特別なものではないという事は隠しようがなく、我々はただダラダラと今を生きていくのだ。とかなんとか。

 実際、このような論考は上遠野浩平の次の作品の発売日が来るかどうか、アニメのDVDが売れて2期……とまでも言わないまでもペパーミントの映画版とかパンドラのOVAとか……が出るかどうかに比べれば、全く大したことがない。読む必要など全くない記事でありましょう。

 

 それでも、書いておきたかった。

 だって読み込めば読み込むほど面白いですよ! 上遠野浩平は! 作品間でリンクしているのは設定とかだけじゃないというか、テーマ性とか主張こそ、むしろ強固にリンクしているってことをですね、この期に理解した上で、新刊を待っていただきたい。この手のハイコンテキストを理解出来たほうが、絶対面白いですからね!

 もっと言えば、他の人が僕の気づいてないことについて書いているのを読むほうが、僕はもっと面白くなると思います。こんなクソ長いブログを最後まで読んだ皆様におかれましては、この期に皆様なりの上遠野浩平論を書いて、セカイに問うてみていただけると、僕が嬉しいです。

 これで僕なりの「上遠野浩平論」を終わります。

 

 

 

*1:書きはじめる前には、数少なかったネットの先行考察や掲示板関係の意見も結構参考にしています。先行研究を手がけた皆様には、この場で大きなリスペクトを表明させていただきます。

*2:ところでNPスクールの生徒たちは、前回の第9回で引用した魔女消滅次の記述「強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――」に対応しているように読める。生徒たちには、正義とか公正とか傲慢とか臆病とか、それぞれ役割というか、世界に対する態度の類型が割り当てられている。

*3:この態度は流刃昂夕に植え付けられたものだった訳だが。

*4:これは流刃昂夕のマジカル・ミステリー・ツアーにも同じことが言える。

*5:なお、本論における主張を分かりやすくするため、引用する二つのシーンは登場順を逆にしています。

*6:このことは第8回で九連内朱巳について触れた時、既に言及しておいた

*7:ところでこの疑問の先には、さっさと将来を決めちゃった彼氏にコンプレックスを持ち、大学浪人もすることになる、宮下藤花というキャラクターがどんな大人になるのかという問いがぶら下がっていると思うのだが……この点についてはこの記事の最後に改めて触れよう。

*8:被害妄想、という単語は『エンペロイダー』の中でしばしば強調される。この語は虚空牙侵略への不安を示すと同時に、己の成功が出し抜かれるかもしれない、という不安も示している。

*9:虹川みのりは、才牙そらに「エンペロイド金貨を求めるのは弱虫だけよ」と言われた。

*10:前にも書いたが『エンペロイダー』も最近流行りの学園サバイバルものの体を取った作品だと思う。

*11:連載の第4回で『笑わない』が他のセカイ系作品よりも完全に上だ、と指摘したことが思い出される。デビューの頃の爆発力が戻ってきている。

*12:っていうか本当に虚空牙関係の何かであるかもしれない。『パンゲア』では、みなもと雫が音楽やパンゲアゲームを片手間にやっており、本当は別の「何か」と戦っていて、その末に死んだという事が示唆されている。

*13:あの名作『ペパーミントの魔術師』のラストと同じ問いであることに注目していただきたい。

*14:問題とはもちろん彼の出自のことだ。具体的な内容は特に本論の主張と関係ないので詳しくは扱わない。

*15:あと「愛」の話をするとなると、たぶんリセット・リミットの姉妹愛と、ブリックへのリミットの母性愛の話をせざるを得なくなると思うんだよな。どういう感じで消化するんでしょうか、この伏線。上遠野浩平が寝かせ過ぎた話を小説にすると微妙な作品が生まれるっていう傾向は不安だけども、やっぱり楽しみですね。

*16:これには負の側面もある。最近のブギーポップシリーズでは「単体では大したことないMPLSがたまたま来た合成人間に影響を与えたら、相互作用で世界が滅びかねない現象が起きた」みたいなパターンが多い。人と人の繋がりによって生まれた可能性は、やはりそれ自体が失敗に至って〈世界の敵〉となってしまう訳だ。

*17:「自動的」絡みの話は、本連載を執筆しコメント等をいただく中で考えがまとまってきたものです。当初は愛についての話で連載は終わるつもりだったが、やっぱりまとまった考えを最後に書いておきたいと思った。改めてですが、ありがとうございます。

*18:ブギーポップファントム(旧アニメ)の展開を公式扱いしていいのかはイマイチわからないが、まあ、これについては大筋原作通りと考えてよかろう。

*19:例えば漫画版のブギーポップデュアルの展開を輸入したら、宮下藤花とブギーポップが分離されるけれど、それでいいのかという気もする。能力が精神を渡り歩く、というネタは『沈黙ピラミッド』のメザニーンで消化したし……。