「上遠野浩平論」⑨~魔女の消滅と「可能性」の復活(『ヴァルプルギスの後悔』)
上遠野浩平論の第9回です。
本論はこれまで、第5回・第6回では「可能性」を描いた第1期上遠野浩平について、第7回・第8回では「運命」を描いた第2期上遠野浩平について、それぞれ論じることで、デビューからゼロ年代にかけての上遠野浩平が、どのような流れの中で自分の文学を展開してきたかを示してきた。
今回はそうした流れの集大成となった作品について論じよう。
論じる作品とは、『ヴァルプルギスの後悔』だ。
作者が「ブギーポップシリーズを終える上で必要な作品」と称したこの作品は、本論がこれまで提示してきた用語で説明するならば、第2期上遠野浩平を終わらせた作品、にあたる。この作品が何に必要だったのかといえば、第3期上遠野浩平に移行するために必要だったのである。
なぜそう言えるのか?
第3期上遠野浩平とは何なのか?
本記事では複雑に絡まりあった作品の構造を紐ほどき、シンプルな形に整理しなおしていく。またそうすることで、第2期上遠野浩平の終わりと、作者の現在に直結する更なる文学的展開を示す。
+上遠野浩平の暗中模索~『ヴァルプルギスの後悔』
『ヴァルプルギスの後悔』は、2007~2011年に、電撃hpと電撃文庫magazineで連載*1 された。その前に連載されていた『ビートのディシプリン』の実質的続編である*2。
この作品は紛れもない重要作品であり、上遠野浩平の文学を理解するためには絶対読まねばならない。しかし……議論の正当性を確保するためにはハッキリ言葉にしておかねばならないだろう……『ヴァルプルギスの後悔』は、あまり褒められた作品ではない。面白くないとは言いたくないが、少なくとも面白さが判り難い。しかもそれは内容が難しいからではなく、蛇足が長く、放置された伏線が多く、構成がとっちらかっているからだ。ネットの感想を探したら星1評価が余裕で出てくる類の低評価作品である*3。
個人の所感だが、低評価作品となった原因の大部分は、この作品が連載形式で発表されたことにあると思う。それでなくても、上遠野浩平はどちらかというとその場の勢い重視の作家で、計算ずくで書かれるべき長期間連載に向いた書き手ではない*4。だというのに、この作品は2000年に連載開始した『ディシプリン』も入れて考えると、連載期間が10年を超えているのだ。
実際、どうもこの作品のストーリー展開は、最初に構想していた形にはなってない。連載前半に張っていた伏線がいくつも、連載後半になって不自然に放棄されているように読める。
特に酷いのは「天敵」という語で、最初これは浅倉朝子に与えられた役割のはずだったが、『ヴァルプルギス』の開始と同時に役割が織機綺に移行、能力バトル的には魔女には勝てないことが明言されつつも、カレイドスコープに「この少女が天敵として完成したら魔女戦争のついに幕が降りるのかもしれない……」とか*5思わせぶりなことを言われ、しかし結局のところ最終決戦で凪の勝利に貢献することは一切なかった。じゃあ「天敵」って一体なんだったの? 魔女に利用されるだけのコマなら、『ディシプリン』の頃から何年もこの語を温めておく必要はなかったのでは? あと特に気になるのは、序盤に霧間凪の宿敵、という話が出てきたジィドが結局ぜんぜん凪と絡まないこと*6。あと、中枢候補になる?みたいな話までされた飛鳥井仁がそのシーン以降全然出てこないこと。それと、魔女の出現に備えていたはずのイディオティックとオキシジェンが場当たり的に行動しているように見えること。
作者からの内情バレも実はある。上遠野浩平は、そういうことは割と素直に言ってしまうタイプの作家だと思う*7。
2010年8月に出版された『Fire.3』から、あとがきを見てみよう。
小説を書いていると当然、登場人物のことを考える訳だが、その中でもよく頭を悩ませるのは「こいつは何が楽しくていきているんだろう?」ということである。「何が目的なんだ?」「生き甲斐ってなに?」みたいなことを、自分が考えたはずのキャラクターに対して不思議がっているのは相当に変だが、でも本当に、疑問に思わざるを得ないほどに、ストーリーを練っていくとかなり頻繁に、とんでもないことをしでかすヤツが現れる。事前にはまったく予想できなかったような行動である。そのせいで話は逸れるは当初のテーマはどっかに行ってしまうわ終わりが全く見えなくなるわと大変なのだが、そいつがそういうことをするのはもう、あまりにも当然という感じで直しようがないのだ。最初に「こういう感じの人」といって決めたはずの設定など、そいつの生き様の前には消し飛んでいまうという風なのだ。別に立派なことばかりじゃなくて、「えーっ、おまえ、そこで挫けちゃうの?」というマイナス面も多くて、どう突っついても先に進んでくれなくなる。一体どうしてそうなるのだ、と思っても、なったんだからしょうがない、と連中は割りきっちゃうのである。実に困る。
単独で読めば割とよく見る創作あるあるだが。
しかしなぜこのタイミングでこの話をしたのか? 恐らく『Fire3』に掲載された範囲の執筆時、あるいはあとがきが書かれた2010年時の連載作業の中で、まさにそういう思いをしていたのではないか。しかも、このあとがきのタイトルが「あとがき――要するに、つまらない話であろうか?」という。連載がシンプルな面白さから離れていってしまっていることは、作者自身も織り込み済みだったらしい。もちろんその状態から軌道修正しようと苦心もしただろう。
要するに何が言いたいかと言うと、上遠野浩平は『ヴァルプルギスの後悔』を、作者にすら先の読めない暗中模索の中で執筆したということだ。つまり、読者である我々の前に提示されているのは、作者の混乱も含まれるという意味での紛れもない"文学作品”であり、作品を誠実に読むためには、そのあたりの混乱に忖度することが必要となるだろう。
+実はシンプルな物語構造
そういう訳で、ここから先は全力の忖度とともに物語を整理していく。
一見とっちらかって見える『ヴァルプルギスの後悔』だが、実は骨格となる物語構造自体は非常にシンプルだ。起こったことだけを見れば、物語には3つの段階しかない。
準備・対立・解決からなる、伝統的な三幕構成*8を踏襲していると考えていいだろう*9。
そして、この基本骨格の周囲に、物語の主題とは関係ない、上遠野サーガリンクの要素が肉付けされているのが『ヴァルプルギスの後悔』という小説だ。魔女の戦いとは、基本的に他人の運命をコマとして操作することなので、どうしたって沢山のコマ=魔女と関係ない他人が登場することになる。それにかこつけて作品間リンクを貼りまくって、上遠野サーガの全容を提示しようというのが、作品のコンセプトだったんじゃないかと思う。
肉付けされたものとは、まず統和機構のアクシズ交代に絡むパート。あと、ロボット将軍・マキシムGが初登場したのは、どうにかロボット探偵・千条雅人を作品に出したかったから。フェイ・リスキィ博士のくだりがあるのも奇蹟使いを出したかったから、など。相克渦動の話や、オリセ・クォルトとリ・カーズの話も少しでてくる。
なかでも大きく扱われるのが織機綺の周辺の話だ。彼女は『ヴァルプルギス』で、本論第8回でも言及した利己性の欠如がもたらす歪み*10に向き合った。この話は、結構上遠野浩平にとっても大事だったと思うのだが、魔女の消滅時に無かったことにしたのは、設定上しかたなかったのか? それとも、連載時の混乱で上手くいかなかったという判断なのか? いずれにしても、このテーマには後に『オルタナティヴ・エゴの乱逆』で再挑戦がなされる。
あとここでは、パールについて触れておきたい。"生き延びる"ことに特化したこのキャラクターは、上遠野浩平の現実主義的な部分を煮詰めたような〈戦士〉だが……やることなすことが現実的すぎるのだろうか。小説で描かれるべき、自身の価値が試されるような試練にぜんぜん直面しない。魔女と長時間行動を伴にし、アルケルティスからアクシズ候補に挙げられ、可能性操作の一つである”終点を導きだす能力”を自覚し、最後には"生滅の指輪"を受け継ぎまでしたのに、連載全体を見たときにキャラクターにとって真に重要な出来事は何も起きなかった。結果として、『ヴァルプルギス』はパールにとっては溜め回である。今後、何か個別作品が出てくることを期待したい。
なんにせよ、本記事の議論では肉付け部分は扱わない。個別の世界設定を考察するにはむしろそちらが重要なのだが、本論は、作品全体が上遠野文学においてどのような位置づけにあるかを示すのを目指すからだ。
+〈神秘主義的な運命〉の復活
先に確認した物語の3段階で起きていることで、順に確認していこう。
まずは1段階目について。
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『Fire1』と『Fire2』の文庫2冊分にあたるこの段階では、霧間凪を中心とした「運命」が、抵抗虚しく成就するまでが描かれる。
この段階で行っているのは、基本的にそれまでの第2期上遠野公平作品で描いてきた「運命」表現のリフレインである。「○○はこの先の運命を知らない――」「避けられない運命に向かっていくことになる」「どっちみちもう逃げられないのよ」といった表現が繰り返され、運命には絶対に敵わないことが再確認される。キャラクターとしては、リキ・ティキ・タビが頑張って運命に抗おうとするが、失敗する。
また、運命にただ流されていては碌なことにならない事も再確認される。村津隆はそのためのキャラクターで、彼は自らすすんで「運命」を成就させるために動き、結果使い捨ての道具として死ぬ*11。
さてこの物語の第1段階では、本論にとって重大な事が一つ起きている。
〈神秘主義的な運命〉の復活である。
本論第7回で主に述べたが、初期の上遠野浩平文学において「運命」という語は、”何者かが秩序だった方向へ世界と我々を操作している”という、オカルト的な意味を持っていた。しかしこの考えは比較的早い段階で破棄され、オキシジェンの登場とともに”我々は真の因果関係を決して把握できない”という認識からなる〈決定論的な運命〉が登場した。この概念は上遠野浩平の文学における主要な位置を占めており、第2期上遠野浩平において多用される「運命」という語は、ほぼ全てこの〈決定論的な運命〉であった。
しかし、第2期上遠野浩平も後半になって始まった『ヴァルプルギス』で登場した二人の魔女は、どうみても〈神秘主義的な運命〉の擬人化である。魔女たちは、しばしば「私の目指す秩序が素晴らしく、敵の魔女も秩序を口にするがそれは間違っている」という話をする。これは〈神秘主義的な運命〉の、無軌道な世界に恣意的な秩序をもたらすという発想そのものである。
しかも〈決定論的な運命〉と〈神秘主義的な運命〉は、連載中に露骨に切り替わっている。具体的には、『Fire1』に登場する運命は〈決定論的な運命〉で、『Fire2』以降に登場する運命は〈神秘主義的な運命〉である。
確認してみよう。まずは『Fire1』でモブ敵役となった、合成人間ドーバーマンが霧間凪に敗北した直後の独白から。
(なんで俺は、今――こんな状況になった? あの女はなんだったんだ? 俺は船に行こうとしていて、そこであの女は――もし俺が船に乗っていたら、今頃はどうなっていたんだ?)
なんだか変な感じだった――統和機構がこれからドーバーマンにどのような裁定を下すのかはわからない。だがそれは決して甘いものではなさそうだった。もしも、彼が今、あの女にそのままやられていたら、あいつは彼を殺していただろうか、それとも――。
(なんでだ? なんで――俺は今、もしかすると……あの女に助けられたのかも知れないって、そんなふうに思っているんだ……?)
〈決定論的な運命〉の存在に事態が終了してから気づく、典型的な描写である。
船に乗っていたら、実はドーバーマンはフォルティッシモに吹き飛ばされて死んでいた。つまり彼の目の前には「船に乗るか、命を保つか」という運命の選択肢があったのだが、〈決定論的な運命〉において普通の人間は運命の選択肢の存在を察知することはできないので、ドーバーマンは軽率にも船に乗る方の運命を選ぼうとしていた。そこを霧間凪の介入によって、九死に一生を得ていた。彼は自分が死ぬ〈運命〉を選びかけていたことに、手遅れになってから気付いた。
ここには魔女の操作する「運命」は存在しない。ただただ不可知で無秩序な世界法則がある。
続いて『Fire2』におけるモブ敵役、合成人間部隊トラス・アトラスが、霧間凪に敗北した直後の会話を見てみよう。
「……す、するとあいつがお前が探していたやつだったというのか?」
「すごい偶然ね――と言いたいところだけど、これはそうじゃないわ。単なる運命よ。避けられない状況が迫ってきているということだけ」
普通ならば単なる偶然というところを、彼女は逆に言った。そしてふふっ、と笑って、
「だからもう、あなたたちも逃げられないのよ。”あいつ”の敵になってしまったんだから」
その微笑は、どう見てもかつてのトラス・サウスではなかったが、しかし他の者達はそのことを追求していいものかどうか迷っていた。彼らは自分たちが感じている恐怖が、今戦った相手に対してのものなのか、それとも目の前の味方のはずの女に対してのものなのか、今ひとつ判別がついていなかった。(中略)彼らは知らなかった。それはどっちにしろ、同じ存在に対しての恐怖だということを。――”魔女の災厄”に対しての。
既にアルケルティスの傀儡となっているトラス・サウスが、やってきて残りのメンバーに「運命」を告げる。告げられているのは「魔女の操作している運命」、即ち〈神秘主義的な運命〉の存在である。トラス・アトラスたちには、不可知の運命の選択肢が存在したことなどない。彼らが逃げられないのは、魔女に目をつけられたからであり、自分たちが不用意だったからではない。
同じように霧間凪に負けているのに、ドーバーマンのときとは、負けた原因に関する描写が全然違っているのだ。
他にも、霧間凪や村津隆や織機綺の身に起きることはずっと「運命」と呼ばれているのだが、同じ語の含意が『Fire1』の序盤と『Fire2』の後半では全く変わっていたりする。
この〈神秘主義的な運命〉の復活展開は、割と唐突であり、それまで上遠野浩平が表現してきたこととも全く食い違うため、初読時はだいぶ面食らわされた。
しかし、いまでは個人的な考えもある。たぶん「炎の魔女と氷の魔女が戦う」というアイデアは、まだ〈神秘主義的な運命〉が有効だったころに思いついたものなんじゃないか。根拠は特にないのだが、上遠野浩平が構想だけ示して寝かせている作品がいくつあるか、またキャリア後期になってデビュー前のアイデアを使った作品がいくつもあることを考えたら、僕にはこれがむしろ自然だと思える*12。
+〈戦士〉ではなかった魔女たち
物語の第2段階には、だいたい『Fire3』と『Fire4』の前半が相当する。
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第2段階では、魔女とはどんなものなのかが主に描かれる。魔女たちは、マキシムGを誑かしたり、フェイ・リスキィの奇跡使いの才能を前倒しで開花させたりすることで、非常に迂遠な闘争を行う。作中の表現に即していえば「魔女たちは自分たちの未来という駒を如何に使うかを競っている」*13。最終的には、リキ・ティキ・タビすら、魔女のコマの一つとして存在したに過ぎないことが明らかとなった。また、霧間凪の肉体の封印から脱出したヴァルプルギスは、統和機構の首脳陣を支配してみせることで、魔女の横暴さを遺憾なく発揮する。
この段階では、魔女たちは〈戦士〉ではないという事が明示されている。
『Fire4』から、オキシジェンからヴァルプルギスへのSEKKYOUを引用する。
「おまえは中途半端だ、オキシジェン――本来ならば経なければならなかった試練、もうひとりの候補との滅しあいを回避して、ずるずると長らえたツケが回ってきているのよ。それに比べてこの霧間凪は、これまでずっと自分よりも強い相手と戦ってきた。本来ならば勝負にならないはずのお前とも、こうやって対等にやり合えるほどに」「おまえとは違うのよ。アルケルティスの保護を受けながら中枢を続けてきたようなすねかじりの支配者とは、ね――」
ここまで一方的に言われてきたオキシジェンが、そこでやっと口を開いた。
「……それは、おまえも……だ、ヴァルプルギス――」
「――あ?」
「おまえも――霧間凪ではない。どんなに姿かたちがそっくりでも……お前は彼女にはなれない……」
オキシジェンの眼は、彼女のことを正面から見据えている。
「おまえも、私と同じ……決して手に入らない。霧間凪のようには、絶対になれない。いくら世界を支配できる力や、宇宙を引き裂くパワーを持っていても……己の虚無を埋める強さだけは……心のどこにもないのだ……」ぼそぼそ声で、ひたひたと迫るように語っていく。「アルケルティスも、おまえも……ほんとうは戦っているんじゃない……互いの暗闇を押し付けあっているだけだ……」
(中略)
「お前は霧間凪と一体化していたと思っているようだが――それは違う」と、やはり冷たい声で言う。「ただ……凪のことをこっそりと見ていただけだ。おまえはなんら……彼女に影響を与えていない。凪は自分だけで運命に立ち向かっていたが……おまえは」彼の目は、ずっと彼女のことを正面から見つめ続けている。「……凪の影に隠れていただけだ。対決を避けていたのはアルケルティスだけじゃない。おまえも……凪に――」
言葉の途中で、彼が最後まで言い終わる前に、魔女は再び動いていた。
言うべきことはオキシジェンが全部言ってしまっているが、例によって、本論なりの言葉で言い直しておく。
本論第8回で確認した通り、〈戦士〉とは己の過酷な運命に立ち向かう者のことである。そしてそれで言えば、二人の魔女は全く己の運命に立ち向かうことが出来ていない。立ち向かうべき「運命」は、事前に能力で回避してしまうからだ。魔女たちは、イディオティックとのつぶしあいを回避したはオキシジェンと同じことを、常時やっている。原理的に〈戦士〉たり得ない存在なのだ。
第2期上遠野浩平の文学世界では、〈戦士〉であるかどうかがキャラクターの明暗を分けてきた。『虚空に夜』のリーバクレキスが”戦果を期待されていない”と扱われたのと同じ扱いが、魔女たちにも待っている。霧間凪のようには絶対になれない*14、という訳だ。
+〈神秘主義的な運命〉の消滅と〈決定論的な運命〉との直面
物語の第3段階となる『Fire4』の後半以降では、ヴァルプルギスと霧間凪の直接対決が実現する。
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最終的に、ヴァルプルギスは、自分では世界を滅ぼす気など毛頭ないという”覚悟の無さ”を霧間凪に突かれて、自ら敗北を受け入れざるを得なくなる。案の定〈戦士〉ではないことが、魔女の敗北に繋がったというわけだ。また、戦いの過程では紙木城直子が助けるために現れ*15、凪というキャラクターの在り方が示される。
この最終段階において、『ヴァルプルギス』でも最大の問題となるシーンが描かれる。魔女の敗北によって世界に激変?がおき、魔女が存在したことを覚えている人間が誰も居なくなる。『ヴァルプルギス』の連載で起きたこと全てが無かったことになる上、エヴァ最終回を思わせる訳のわからない描写がなさていて、正直意味がわからない。
判らないなりになんとか考察すべく、まずはメインの該当箇所を引用してみよう。
とぷん――
というその("氷の魔女"となった凪とヴァルプルギスが)沈んだ際に散った波紋が、世界の至るところに向かって広がっていった。
そのときに生じた変化を表現するのは、溶けてしまった氷の彫刻を後から推測するようなもので、どうしても無理であり、また意味のないことだ。
人間ではその認識の片鱗にすらたどり着いていない領域に起こった変動は、太陽が爆発すれば日光もなくなるから、昼夜もなくなるというような意味で、なにかを消し去った。
それがなんなのか、後から振り返ることはできない。この世界に存在する意思、気配、希望、絶望、指向、可能性――囲い込みようもないぐらいに大雑把な”そういうもの”――仮に万物に魂が宿っているのだとするならば、このときにその魂は一斉に、ちょっとだけ傷ついた。ごくごくわずかに、あるいは半身を裂かれるほど大きく、その規模を計りようもないくらいに、決定的に傷ついた。
影を落としていたものがなくなって、露わにされたところに容赦なく降り注いだものが全てを変えた。それに直に対応するように強制されるようになった魂たちは、その瞬間からそれまでの無垢を失い、変化を余儀なくされることになる。
強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――対立していた二つのものは、しかし、もはやその境界線を消失して、限りなく同一のものになっていく。
今まで見えなかった、対立を溶け合わせるものが、対立それ自体よりも先に問題になる。そういう傾向が如実になっていく。
もう、地の文が「人間には認識の片鱗にすらたどり着けない」と言ってしまっている訳だが*16。
実際に起きたことだけを言えば、世界の過去・現在・未来の全てから、魔女が消滅した、という事だろう。過去からも居なくなっているので、霧間凪ほか数名*17を除いた全員から、魔女の記憶が消えた。
魔女が消えたことは、本論の言葉でいえば〈神秘主義的な運命〉が消えたということを意味する。引用部分では「太陽が爆発することで昼夜も無くなる」という言い方で、昼夜=運命が世界から消えたことが言い表されている。
また、「影を落としていたものがなくなった」ことで「露わにされたところで容赦なく降り注いだ」、あるいは「直に対応するように強制されるようになった」のは〈決定論的な運命〉に対しての話だろう。〈神秘主義的な運命〉の影響下では、人々はある意味「運命」を選択する責任から逃れていた。平たく言えば、あらゆる悪い出来事を魔女の操作のせいだと考える事ができていた*18のだが、もはやそれは通用しない。各々が自分自身の責任で、自分の「運命」に対するスタンスを示さねばならなくなった。
エピローグで、再び霧間凪に封印されたヴァルプルギスはこう言った。
”魔女という巨大な制御を失って、このさきどうなるのかは誰にも判らないけれど、少なくとも無遠慮で無分別な方向に向かってしまうことは確実……目先のことに流されて、あっちこっちへ移ろって、肝心のことをどんどん見失っていく時代になることでしょうね――”
総じて、「偶然」が世界を支配するようになると言っている。
本論第7回で紹介した『ジンクスショップ』で、スイッチスタンスが「偶然」を見たことが思い出される。魔女の制御が失われた世界とは、〈決定論的な運命〉に人々が翻弄される世界にほかならない。
以上で、だいたい物語の3段階を整理することができた。こうしてみると、実は『ヴァルプルギスの後悔』とは〈神秘主義的な運命〉が消滅して〈決定論的な運命〉が世界を席巻するという、第2期上遠野浩平が始まったときの展開を小説の中に落とし込んだ作品だったということがわかる。
本論でさんざん述べてきた内容を使って理解が可能という意味である。今まで長々と読んでくださった皆様は、これでもう『ヴァルプルギス』を読んでも、意味わかんねーなこれ、みたいな気分になることはないはず。
しかし、一件だけ、この作品にだけ起きた特別な自体が含まれている。
上遠野浩平の文学を理解するためには、その部分をこそ論じねばならない。
どうして〈神秘主義的な運命〉が消えて〈決定論的な運命〉の時代が到来すると同時に、全ての人間が記憶を失わねばならなかったのだろうか?
+未来への未知と「可能性」の復活
ここからが、本記事で本当に言いたかった話。
まず前提として、魔女の消滅によって『ヴァルプルギス』で起きた全てが無かったことになる、というこの状況は、ジョジョ6部のラストで到来した「一巡後の世界」にインスパイアされたものだと思われる*19。
だから本論でも、魔女消滅後の物語世界のことを〈一巡後のセカイ〉と呼ぶことにする。『ヴァルプルギス』以降のブギーポップは、ジョジョの7部や8部がパラレルワールドを舞台としているのと同様、〈一巡後のセカイ〉が舞台になっていると考えるべきだと思う*20。
そして、この〈一巡後のセカイ〉を舞台とする作品群を第3期上遠野浩平と定義することにしよう。
上遠野浩平が『ヴァルプルギス』がブギーポップが終わるために必要と言っていたのは、作品を〈一巡後のセカイ〉に到達させねばならなかったからである。〈一巡後のセカイ〉は、上遠野サーガのリンク解釈や、各キャラクターに貼られた伏線という以上に、文学的な意味での衝撃が非常に大きいのだ。
では〈一巡後のセカイ〉とは、一体どんなセカイなのか?
それを論じるためには、そもそも第1期上遠野浩平から第2期上遠野浩平に移行したときの流れを思い出さねばならない。
第1期上遠野浩平とは「可能性」の時代であった。
上遠野浩平は、人々が極めて大きな「可能性」を持っていながら、ほぼ確実に失敗して〈世界の敵〉になっていくという、希望と悲観の相克した世界観を描いていた。「可能性」は、大きければ大きいほど失敗したときのショックも大きくて、持っているだけ損でさえある*21。しかし、それでも万に一つの確率で、「可能性」が本当に新たな未来となるかもしれなかった。我々にとって未来が未知である以上「可能性」が真の成功に至る僅かな可能性を、完全に否定することはできない。未来を知りえないことは、将来への不安が消せないことであり、不安こそがかつてセカイ系文学が描いた"断絶"の本体だったが、不安をもたらす未知は同時に希望でもあった。
第2期上遠野浩平では、「可能性」が駆逐され、「運命」が物語世界の中心となった。
「可能性」の駆逐は、未知の消滅によって行われた。上遠野浩平はオキシジェンのような能力者*22たちを登場させることで、セカイとの断絶の向こう側を描写し始めた。これではもはや、"未来に何が起こるかなんて判らないから「可能性」が成功する確率はゼロじゃない"などと、開き直ることはできない。我々は誰もが、間違いなく人生を失敗する。失敗するという前提で生きていく必要があるということが過酷な現実が確認された。上遠野浩平は過酷な現実を生き延びるために〈戦士〉という生き様を繰り返し描くようになり、各作品において〈戦士〉であるキャラクターが生き延び、〈戦士〉になれないキャラクターは敗北した。
そして今、第3期上遠野浩平では魔女が消滅した。
魔女が消滅したということは未来を知ることは再び不可能になったということだ。
というか、『ヴァルプルギス』で示されたのは、実は俯瞰観測者(オーバースケール)にとってすら未来は不確定である、ということだった。魔女に「一部しか見えてない」と明言されたオキシジェンは言うに及ばず、末真和子の能力を看破できなかったり、霧間凪の意図を全然見通せなかったりした魔女たちも、結局のところ我々と同じ。後になって「なんで私はあのときあんな判断をしたんだろう」と後悔*23する程度の存在だった。御都合主義バトルの極地みたいな強力な超能力を想定してすら、未知は消滅などしなかったのだ。
未来がやはり未知であるなら、当然、セカイに再び「可能性」が復活する。
+〈一巡後のセカイ〉がもたらす〈戦士〉の自覚
しかもこれは、上遠野浩平の文学が第1期のデビュー時と全く同じになった、という話ではない。
ジョジョでプッチ神父が構想した「一巡後の世界」は、人々が未来を前もって認知していることで、普通に生きていても将来に起きる悲劇への覚悟している世界であった。魔女消滅によって訪れた〈一巡後のセカイ〉もこれと似ている。
第2期上遠野浩平という期間を経て、我々は〈決定論的な運命〉の存在を自覚している。
そして、〈決定論的な運命〉という絶望と戦うためには〈戦士〉である必要があるのだと、作品を通して幾度も学んでいる。
未来への未知が復活したというとは、”セカイとの断絶”がもたらす不安もまた復活したことを意味する。かつてセカイ系文学は、この絶対に解決できない不安から逃れることができず、「ひきこもり/心理主義*24」に至った。碇シンジは不安と対決することが出来ず、母の子宮に回帰するしかなかった。
しかしブギーポップで〈一巡後のセカイ〉に至った者たちは、今や誰もが〈戦士〉である。〈戦士〉とは、絶対に勝つことができない絶望に対しても果敢に挑むことのできる存在である。だとすれば、将来が不安だからといって、立ち竦むことがあろうか? 0.1%でも勝利の確率があるならば、むしろ状況は良くなってさえいる。
不安を前に、ひたすら立ちすくんでいた第1期とは違う。
勇敢に戦うが、勝利は決して得られない第2期とも違う。
勇敢に戦場に飛び込み、真の意味で勝利を目指す時代が訪れた。
上遠野浩平は『ヴァルプルギス』の結びとなるあとがきにこのように書いた。
それは不安と隣り合わせで、限りなく不条理に近づくことでもあるが、その辺はもう”怖いもの知らず”ってことで切り抜けるんじゃないか、と。いったい何の話なんだというと、もちろん霧間凪の話をしていた訳であるが、うまく行ったかどうか作者は見極められない。手に負えない。効果があるかどうかもわからない素材で薬を作って、それが効くかもしれないという錯覚に頼るしかない。どうなんでしょうこれ?
第3期上遠野浩平のセカイは、相変わらず将来が不安であり、読むことのできない運命は不条理でなままである。しかし、勇気があれば、不安は乗り越えられる。
そして不安を乗り越えた先には、かつて諦めた真の「可能性」が待っている。
+そして第3期上遠野浩平へ~上遠野浩平20周年~
アニメ放映を翌日に控えた2019年1月3日*25現在、上遠野浩平はいまも第3期の文学を描いている。
最初に第1回の記事を書いたとき、「上遠野浩平は、螺旋上昇を続けて今や"セカイ系をかかえたその先"に至った」と述べておいた。ここがその場所である。ブームに捕らわれずにセカイ系を書き続けた作家の、一つの到達点が、ここにある。
最近のブギーポップが、かつてのように面白い、と感じている読者は多いのではないか?と思うが、それは上遠野浩平が再び「可能性」をテーマに描くようになっているのが大きいと、僕は思う。1998年2月にデビューした上遠野浩平は、現在20周年の最終盤を終えて、次の21周年目に入ろうとしている。当然、これからも作品は発表され続け、作品世界は進化を続けるだろう。
上遠野信者の一人として、その瞬間を楽しみに待つつもりだ。
次回は連載のエピローグとして、第3期上遠野浩平における各作品について言いたいことを述べるとともに、将来の展望や期待について好き放題を書く。
*2:ところで『ディシプリン』が終了してから『ヴァルプルギス』が開始するまで期間の発表作に『オルフェの方舟 』がある。この作品は、全てを燃やし尽くす能力者vs全てを停止させる能力者、という設定を持っており、なんだか"炎の魔女と氷の魔女の話を描く前に練習しておく"という意味で書かれたように思える。
*3:連載中から不人気だったらしく、雑誌バックナンバーを検索しても「掲載作品一覧」にタイトルすら載ってなくて困る。打ち切りとかない雑誌で本当によかった。
*5:『Fier.3』chapter3のラストでのこと。こんな後半に思わせぶりな伏線はったら普通は何かあるだろう。
*6:wikipediaの『ヴァルプルギスの後悔』のジィドのキャラクター紹介に、魔女の運命から自ら引いた、みたいなことが書いてあるんですが、そんな描写ありました? 連載版から文庫になったとき修正が入ったりしているのかな。
*7:しかし言い回しが全て上遠野節なのでよく読まないと今内情をばらしている、ということを見落としがちだ。このブログ連載がやっているのは、要するにその見落としをひたすら拾い上げるだけのことだったりする。
*8:ハリウッドで脚本執筆の技術を理論化したときに、基礎とされている技術。映画2時間あるいは本1冊に、ストーリーを規則正しく配置するのに役立つ。
*9:ただし、『Fire1』と『Fire2』つまり全体の半分が、第1段階の準備シークエンスにあたるのは長すぎる。また、第2段階の対立シークエンスでやってることが、ほぼストーリーの本質と無関係な上遠野サーガ間リンクの提示であり、構成の役に立ってない。根本的な部分で三幕構成になっておらず、これもまた連載時における混乱の結果であろう。
*10:『Fire2』には、霧間誠一の引用で「最も卑屈な者は、同時に最も傲慢な者でもある」という警句が載っている。
*11:ただし、上遠野浩平は『Fire2』のあとがきで「実はちょっとだけ、彼のことがうらやましいと思っているのだ、僕は」とも言っている。運命に流されて平気でいられるなら、それはそれで個人の生き方だ。
*12:また、そうだとすれば〈決定論的な運命〉に上遠野浩平が至れた理由は「魔女が操る運命っていうのは一体なんなんだろうな?」ということを考え続けた結果なのかもしれない。……これは流石に踏み込みすぎかな。脚注にしまっておく。
*13:とはいえ、ここで魔女たちの能力考察に踏み込むのはやめておく。虚空牙と同じでできることや出来ないことを精密に考える事自体が無駄な感じがあるし、作品中にハッキリと「我々には理解できない」と書いてさえある。ただ将来の別作品で、新しい魔女が出てきたら、そのときはこの『Fire3』を読み返す価値があるかも。
*14:霧間凪の〈戦士〉の資質について、ここでまとめておく。彼女の強さは2つの能力?による。第一に、本来誰よりも弱い存在である彼女は、敵の弱さに共感することで敵の弱点を見抜く。フォルティッシモの"油断しない"特性が防御特化として、その攻撃版みたいな感じだ。第二に、常に直感による即座の判断を行うことで〈決定論的な運命〉における選択の瞬間を逃すことが無い。こっちは末真和子の"運命の選択を間違わない能力"に近いかな。つまり、上遠野シリーズでも相当無茶なキャラの特性を併せ持っているということですね。どうりで強いわけだよ。
*15:上遠野浩平の能力バトル的作品群において、最も「そのときなにかふしぎなことがおこった」と言うしかない展開。エコーズと話すことのできた紙木城直子は、やっぱり特別な存在だったんですかね。
*16:以下本文では引用部分の考察をしているわけだが、実は「対立を溶け合わせるものが対立自体よりも先に問題になる」くだりだけ、まだちょっと僕にもピンときていない。相克渦動の話だろうか、VSイマジネーターの話だろうか。あるいはその両方だろうか。
*17:九連内朱巳、フォルティッシモ、パールの3人だけが依然として魔女のことを覚えている
*18:『Fire4』のあとがきには、現実の魔女というのはこの世の悪いことの責任を押し付ける存在であった、という話がされている
*19:とくに根拠はないのだが、少なくともよく似ているので、とりあえずそういう前提で論を進める。
*20:言うまでもないが、ジョジョ7部や8部が「一巡後の世界(そもそもそれ自体はプッチ神父の死で消滅した)」であると公式にアナウンスがあったことはない。ブギーポップもその点は同じはずだ。
*21:最近『製造人間』シリーズで雑誌掲載された『悪魔人間は悼まない』には"自動的な存在"であることの意味について触れられている。どうやら、可能性があまりにも大きいと可能性を実現すること以外のことが考えられなくなる、可能性に縛られることになる、という話らしい。
*22:本論の言い方でより正確に表現するならば、可能性操作能力者。
*23:『ヴァルプルギスの後悔』というタイトルについて、僕は読み終わった後もしばらく「いったい霧間凪が何を後悔したというんだ?」とか考えていたが、ヴァルプルギスと霧間凪は別人だと先の引用部でオキシジェンがハッキリいっているし、エピローグではちゃんとヴァルプルギスが、何で私は霧間凪と戦っちゃってりしたんだろう、という後悔をしている。
*25:当日前に記事をアップ出来て本当によかった。