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「上遠野浩平論」8.5~キャビネッセンスと生命と心(『ソウルドロップシリーズ』)

 上遠野浩平論の第8.5回です。

 第8.5回、という言い方をするのは、今回の記事では本来この連載が目ざす文学論の論旨にあまり必要ない話をするので。もともとは第8回で〈戦士〉の話をするついでに、1パラグラフぐらい使って簡単に触れておこう、ぐらいに思っていた内容なのだが、語りたいことが多すぎてどんどん膨らんでいったので、もう完全にページを独立させることにした。

 語りたいこと、というのは『ソウルドロップシリーズ』の話。

 特に、キャビネッセンス、というあの謎めいた概念が何を意味しているのか、整理がついていない読者も多いのではないだろうか?*1 ここでは僕が本論を構築する過程で得た理解をブログ記事にまとめていく。内容は、作家論を離れて作品論とかテキスト論、もっといえば”設定まとめ”みたいになるかもしれないが、もう今回は気にしない。書いてて面白ければそれでいいつもりで書くので、どうかお手柔らかに読んでいただきたい。

 

 

+怪盗との対決劇ではなく群像劇~『ソウルドロップシリーズ』

 

 まず、『ソウルドロップシリーズ』という作品自体について。

ソウルドロップの幽体研究 (NON NOVEL)
 

 ソウルドロップシリーズ*2は、2004年~2012年の刊行。これまでに7冊が出版されている*3。このシリーズは、「その人間にとって命に等しいもの」=キャビネッセンスを盗む謎の怪盗ペイパーカットと対決を描いた作品だ――という事になっているが、それは本の帯に印刷された惹句上だけの話*4。実際にはペイパーカットに関わる人々の姿を描いた群像劇だ*5。どの作品でもペイパーカット自体は、実は単なる印象的な舞台装置にすぎない*6

 

 第2期上遠野浩平作品の一つである当シリーズは、これまで本論が論じてきた絶対に勝てない〈運命〉との対決を描いた作品でもある。

 ソウルドロップシリーズで初めて上遠野浩平を手に取る読者に対しては不親切としか言いようのないことだが、この作品は結局のところペイパーカットに勝つことはできないという認識が前提されている。勝てない理由は、我々上遠野信者には自明なのだが、一応言語化しておくとやはり面白くなってくるというか……つまり、ソウルドロップシリーズは現代日本を舞台とする広義のミステリなのに対し、ペイパーカット=虚空牙っていうはスペース系SF作品たるナイトウォッチシリーズの大ボスであって……。

 ……例えるなら、古畑任三郎vsゼットン、みたいな

 なにそれ、としか言いようがない。

 ソウルドロップシリーズは、最初から理不尽なカテゴリーエラーか仕組まれた作品だ。上遠野浩平は、その理不尽さに気付くことのできないまま翻弄される人々を、ミステリ仕立ての群像劇として描いた。

 

 

+唯一怪盗に恐怖できている男、伊佐俊一

 

 そんなソウルドロップシリーズにおいて、主人公をやっているのが伊佐俊一である。

 彼が主人公なのは、彼こそがこの作品における〈戦士〉であり、ペイパーカットのことを誰より正確に認識しているからだ。

 伊佐俊一の"ペイパーカットを一番判っている"というキャラクター性は、シリーズ中ほぼずっと強調されているのだが、ここでは特に本論に都合のいい具体例として、シリーズ3作目『メイズプリズンの迷宮回帰(脱走のやつ)』のから、伊佐俊一の独白を引用しよう。

「――俺とお前たちの違いは何だだろうと思った(中略)――答えは簡単だった。俺にあっておまえたちにないもの、それはペイパーカットに対する恐怖感だ。俺は、ヤツが怖い――だからそのにおいに敏感でいつもびくびくしている。今回の件は、明らかにそのにおいがするのに、しかしヤツ自信の影は全然見えない――」

 

 伊佐俊一は、ペイパーカットが怖い

 本論第8回を読んでいただいた皆様には、もうこれだけで伊佐俊一が真の〈戦士〉だと解って頂けると思う。彼だけが、ペイパーカット=虚空牙という脅威、作品に仕組まれたカテゴリーエラーの理不尽さを認識できているということだ。

 ソウルドロップシリーズのキャラクターたちは、どいつもこいつも、全くペイパーカットを怖がらない。彼らにとってペイパーカットとは、何か不思議な現象であり、サーカムが保険金を払う材料であり、科学の未知の地平であり……色々あるが、恐怖の対象でないという点においては同じだ。ペイパーカットが危険ということぐらい知っている! と覚悟っぽい事を言う者はそこそこいるが、怖がってないという点については変わらない。

 伊佐俊一だけが「ヤツは人殺しだ」「ヤツを許してはいけない」「ヤツに関わるのは危険だ」「危険だからお前は逃げておけ」と言い続けている。これはほぼ間違いなく、上遠野浩平が故意にそうしている。普通に連続殺人ミステリをシリーズもので出していたら、もっと怯える人間が居ても良さそうなものだ。なにしろ、人が死んでいるし、自分が殺されるかもしれないのだから。しかし、もし今夜わたしがペイパーカットに殺されたらどうしよう? とか考えている人が登場しない。

 

 なぜそうする必要があったか? それは、伊佐俊一だけがペイパーカットのことを判っていて、他の人間は基本的に判っていない、という状況が、作品とって重要だからだ。この群像劇の根幹には「そのキャラはペイパーカットのことをどう認識しているか?」という問題がある。

 

 

+伊佐俊一だけが銀色を見られる

 

 ペイパーカットは、認識する人間によって姿が変わる存在である。

 判りきったことではあるが、念の為確認しよう。

 

 基本的には、ペイパーカットの姿は見た人間のキャビネッセンスに関連した人物となる。一番判りやすい例では、ロボット探偵・千条雅人には、ペイパーカットの姿が"生前"の姉の姿に見える*7。この現象は、どうやらペイパーカット自身の意思や操作とはあまり関係ないらしく、ペイパーカットはしばしば「君には僕がこの姿で見えるのか」と自身の姿について受動的であることを示す台詞を口にする*8

 ペイパーカットの姿が、銀色の髪とコートを着た謎の人物・飴屋に見える場合もある。ペイパーカットを飴屋として見るキャラクターは、1巻につき必ず1人~数人登場するのだが、なぜ彼らが"そう"なのか、直接的な言及は少ない。一応ペイパーカット本人から説明がなされたケース*9もあるのだが、肝心の説明が一定しない。1作目の『ソウルドロップの幽体研究 (ライブのやつ)』ではペイパーカットを家に泊めたカップルに対して「その人物のキャビネッセンスが”決して奪えないもの”である場合」に飴家の姿を見るいう説明がされていたのに、3作目の『メイズプリズン(脱走)』に登場した双季蓮生は明らかに"奪う事の出来る"キャビネッセンスを持ちながら飴家を見た、そして4作目の『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』では、妹に執着する保険マン諸三谷吉郎に対し「その人物が自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っている」から飴家の姿が見えるのだという、従来とは全然異なる説明がされた。(複数の説明がある理由は後に考察する)。

 

 ペイパーカットの見え方は、基本的にはこの2パターンたが、例外的に3パターン目の認識が存在する。他ならぬ、伊佐俊一のパターンだ。

 重要なので引用を使おう。伊佐俊一は『メイズプリズン(脱走)』において、思わせぶりな老脱走犯に次のような指摘を受けている。

「伊佐さん、あなたは実際のところ、それを”現象”だとは感じていないのでしょう? それは見るものによって全然違う姿に見えるという……そう言われても、あなた自身にはどうもピンとこない……違いますか?」

「何が言いたいんだ?」

「そうでしょう? あなたにはそれがただ”銀色”にしか見えなかったのではありませんか?」

「…………!」

 

 伊佐俊一はペイパーカットの姿を見ても"銀色"以上の印象を何も受けない*10

 伊佐俊一は、数度だけあるペイパーカットとの直接対面で、他の人間と同じように、謎の男・飴屋の姿を見ている。しかし他の人間は、飴家の姿を見たとしても、「銀色の服を着たなんか派手なくせに印象の薄い人だな」と思うだけで、「銀色以外の印象がない」なんてことは考えない。これは彼だけの特殊なケースだと考えるべきだ。また、他に伊佐俊一だけが持っている感覚として、彼はペイパーカットが他の誰かの姿に見えたという他の人間の言葉に違和感を感じているという。

 

  • 普通、ペイパーカットがキャビネッセンスに関連した人物に見える。
  • 一部の人間には、ペイパーカットは銀色の謎の男、飴屋に見える。
  • 伊佐俊一は、ペイパーカットを見ても"銀色"だとしか思えない。

 

 もちろん、これは伊佐俊一だけが正しいということだ

 先の2パターンが間違っており、伊佐俊一の認識が最も正解に近い。伊佐俊一が真実に近いのだということは、作品中でずっと書かれ続けているのだから、ここでもそのように見るべきである。

 しかしだとしたら、ペイパーカットの"銀色"とはいったい何を意味するのか?*11

 

 

+"銀色"の理由=二人目の虚空牙だから

 

 もったいぶってもしょうがないのでさっさと答えを言ってしまおう。

 ペイパーカットが"銀色"なのは、この存在が「鏡」であるという意味だ

 

 直接の描写としては、5作目の『クリプトマスクの擬死工作(映画のやつ)』のラストで言及があった。このシーンでは、舟曳沙遊里が、ペイパーカット映画の1場面を演じている。

 「――あなたの心がわからない。あなたが何を知りたいのか、私は想像もできない」

「あなたのしていることに理由があるのか、それともただの気まぐれなのか、私はそれが本当に知りたいのかしら? ひとつだけわかっていることは、私の言葉なんてあなたの前じゃ意味がないってことだけ――あなたは自分勝手に、私の想いをつまみ食いするだけなんだから」

「あなたを理解しようとしても、無駄だってわかっているわ。あなたは鏡。私の胸の内の乱れをただ映しているだけ。だからあなたに振り向いてもらうには、私は私自身を見つめなきゃいけない」

「ああ――でも、それはなんて難しいことなのかしら。私はあなたに夢中で、あなたのことしか考えられないのに」

 

 明確に、ペイパーカットのことを「鏡」と呼んでいる

 舟曳沙遊里は『クリプトマスク(映画)』で問題となったペイパーカット映画を通じて、伊佐俊一すら気付いていないペイパーカットの意図や文脈に気付いているキャラクターである。だからこのセリフは、そのままペイパーカットの真実と考えていい。

 この『クリプトマスク』でペイパーカットしんじつを認識してから前巻までのシリーズを再読してみると、実は折々に触れて「銀色は全ての光を反射する色だ」とか、「(ペイパーカットを探している者は)本当は自分自身を探しているのだ」とか、鏡を意味する描写がされている*12。初読でそれらが鏡の比喩だと見抜くのは結構難しいので、何となくペイパーカットって設定が曖昧すぎない? と感想に書いてしまったりするが、シリーズの最初からこの怪盗は鏡なのだという設定はカッチリ確定しているのだ。先に紹介しておいた、伊佐俊一の"銀色"しか印象がないという証言もそうした後になって気付く比喩の一つで、彼が言っているのは「そこには鏡があるようにしか見えない」という意味の話だ。ジャングルにでっかい鏡を置いて、映った自分の姿にむかってゴリラや豹が威嚇している動画を見たことある人も多いのではないかと思う*13が、あのイメージが上遠野浩平の中にあるのではないだろうか? 伊佐俊一はいわば、特別に賢くて鏡がそこにある事が判っているゴリラだ。このゴリラは鏡に写っている自分を見ても、そこにあるのは鏡だと判っているので無駄な威嚇はしない。鏡に向かった自分に向かって威嚇している他のゴリラを見て「何やってるんだあいつ?」とか思ったりもする。だから伊佐俊一は『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』や『アウトギャップの無限試算(マジシャンのやつ)』で、他のハンターの的外れさに終始呆れていのだろう。

  

「ペイパーカット=鏡」という認識は、物語世界の謎に、判りやすい説明をつけてくれたりもする。

 例えば、伊佐俊一の視力障害には、実は大して謎なんてものはない。彼はたまたま目を傷めている時に、強烈に光を反射する「鏡」を直視してしまった*14だけである。認識してはいけないものを認識したのではと推測されたり、釘斗博士が伊佐だけが特別な理由を不思議がったりしているが。たぶん他の人間でも、目を傷めている状態でペイパーカットを見たら同様に目を傷めるだろう*15

 他にも、ペイパーカットの「初対面でもなぜか親身にしてもらえる能力」の件がある*16。この能力は、自分自身が相手なので親身にならざるをえない、という理屈で発生しているはずだ。たいていの人間は自分を愛しているし、自分自身に秘密を持つこともできない。*17

 あとは、ペイパーカットがたまにやる「そこにある物体を見えなくする能力」は、手品の鏡を使ったトリックが念頭にあるはず。それと、「通行人から一切注目されない能力」は、鏡があっても背景に混じってしまって注意しないとわからない、みたいなイメージだろうか*18

 

 元々のアイデアは、ごく単純な発想でしかなかったはずである。

 恐らくは「一人目のエコーズが音を反射していたのだから、二人目は光を反射するやつがいいよね*19」とかいう考えから設定を膨らませていったのが、ペイパーカットなのだと思う。 

 

 

 +鏡に反射している〈何か〉の発見

 

 では、さっき確認したうち、伊佐俊一以外の人間がペイパーカットを見た場合の2パターンも「ペイパーカット=鏡」という点から説明可能なのだろうか?

 もちろん可能だ。順に確認していく。

 

 まず、キャビネッセンスに関連した人物の姿となる場合だが、これはもちろん「自分自身の姿が鏡に映っている」ことを意味する。ペイパーカットが見る人によって姿を変えるのは、ペイパーカットが見た人の姿になっているから、という訳だ。ペイパーカットが鏡であることさえ分かっていれば、特に付記すべきことはない。非常に判りやすい理屈だ。

 そして、もう一つのパターンである、一部の人間にはペイパーカットが銀色の男・飴家の姿に見える場合だが、これは結論から言えば鏡に何も映らないのでに"銀色"が見えるということを意味する。ただし、先ほど確認した通り、作中において飴屋が見える理由(=鏡に何も映らない理由)には、複数の説明があり*20、それは一つの理由を様々な言葉で説明しているのではなく、理由自体が複数あるのだと思われる。

 まず「キャビネッセンスが"決して奪えないもの"であるから」という説明だが、これは映るべき物理的実体が無いので鏡には映らないということだと思われる。『ソウルドロップ(ライブ)』に登場したカップルのキャビネッセンスはいわゆる"愛"というヤツだが、そんなものが鏡に映るわけがなく、したがって銀色が銀色のままで見える。他にも、『メモリアノイズの流転現象(田舎の名家のやつ)』で飴家を見た早見壬敦のキャビネッセンスは恐らく"自由"、『クリプトマスク(映画)』のヒライチは"病気"だった。次の『メイズプリズン(脱走)』の双季蓮生は、キャビネッセンスが"生き別れた家族へのお土産だった人形"であり、物理的実体が存在することが明示されているにも関わらず飴屋の姿を見ている。これは恐らく、双季蓮生が極端に生に執着しない人物だったせいだ。生命の光が弱すぎて鏡にすら映らないという理由で、彼は銀色を銀色のまま見ることができたのだと思われる。このパターンは作中でもかなり特殊な例に見えるが、もしかしたら『コギトピノキオの遠隔思考(孤島のやつ)』のドクトルワイツも同じだったのかもしれない。あとは、『トポロシャドウ(トポロス)』でされた「自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っているから」だという説明*21だが、これはエネルギーに強い指向性があるので鏡に干渉しないということだろう。強い指向性を持つレーザー光線は、暗闇にあっても拡散しないので周囲を照らすことがない。そのイメージで、『トポロシャドウ(トポロス)』諸三谷吉郎の光のエネルギーは自分の妹の方向にしか向いていないので、結果として別の方向に立っている鏡には何も反射されず、銀色を銀色のままで見られた。『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一や、『アウトギャップ(マジシャン)』のスイヒン素子も、明確なキャビネッセンスがあるのに飴家を見たのは同じ理由だったと思われる。

 もしかしたら他にも理由はあるのかもしれないが、とりあえず読み取れるのはこんなものだろう。彼らは伊佐俊一と違って鏡のことは何も分かってないのだが、鏡に写った像をみることがないので、鏡像に誤魔化されることもない。

 

 さて、これでペイパーカットの見え方についての設定考察を終えたが、ここにはこの先の議論に向けて注意を払っておくべきちょっとしたポイントがある。

 鏡が反射している〈何か〉は普通の光ではない

 普通の光だったら、当然鏡には自分自身の姿が見えるはずだからだ。上の説明では、生命の光だとか光のエネルギーだとか適当な語で考察を進めたが、たぶん実際には、人間の精神を放射源とするなにかエネルギーがあって、ペイパーカットの鏡はそのエネルギーを反射しているはず。 

 ……いやいやいや。本当にそうか? 読んでいる人はたぶん「確かに何か鏡が関係してるかもしれんが、何も本当にエネルギーを反射していることにしなくても」とか思っているんじゃないか? 確かに、白雪姫の魔法の鏡が小説に登場するからといってそこに厳密な世界設定を求めるのは、不誠実な読解としかいいようがない。ペイパーカットについても、能力バトルから離れた単なる不思議現象と読む方が道理ではないか?

 あるいはそうかもしれない。

 しかし、何しろペイパーカットによる反射は、光?の強さや弱さが関係するし、またエネルギーの指向性のようなものも存在する。具体的な実態としてペイパーカットが操作して、エネルギーを子供に与えることすらもできる。白雪姫的な"魔法な鏡"の表現にしては、いちいち描写が具体的すぎるのだ。

 具体的なエネルギーとしての〈何か〉があると考えたほうが話が通りやすくなるとは言えないだろうか?

 

 

+キャビネッセンスは〈何か〉が生み出す

 

 正直根拠が茫漠としているが、一旦以下は〈何か〉が存在することを前提に話を進める。というのも、「ペイパーカットが鏡であること」と「鏡は〈何か〉を反射すること」の二つを確認することで、念願のキャビネッセンスの話題に入ることができる。

 

 キャビネッセンス(Cabinessence)とは、もともとはビーチボーイズの未発表のアルバム収録曲*22に使われている造語だそうである。その意味はCabin+Essenceで「狭いところに閉じ込めた霊的なモノ」という感じだとか。その語源に沿うとするならば、キャビネッセンスとは「生命を狭い場所に閉じ込めたモノ」を意味するのだろう*23。 

 本記事ではここまで、このキャビネッセンスという概念を、「ペイパーカットは見た人物のキャビネッセンスに関連した姿になる」という説明の一部として扱ってきた。また、そのことに特に疑問を呈したりはしなかった。ペイパーカットの姿の変化に、キャビネッセンスが関係しているのだということを、本記事は根拠なく自明視してきたし、読者も普通はそう考えていると思う。

 

 しかし我々は、今、ペイパーカットの見え方の変化は〈何か〉によって起きることを確認した

 

 これが何を意味するのかというと、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の変化に、相関が見られるように思えたのは、疑似相関だったということだと思う。

 疑似相関とは、原因Aが、結果Bと結果Cを同時に生み出すとき「Bの変化とCの変化に相関がある」ように見えることだ。有名な例では、アイスクリームの売上が多い月は、溺死者が多いので、統計を見て「アイスクリームを食べた人は溺死しやすくなる」とかいいたくなるが、本当は猛暑という真の原因がアイスと溺死の両方の結果を生み出しているだけだ、とかいう話がある。

 つまり、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の関係は、アイスクリームと溺死の関係と同じだった。真の原因である〈何か〉の影響が両方に及んでいるため、あたかも両者に相関があるかのように見えていただけだった。本当は、ペイパーカットの見え方を変えていたのは〈何か〉のエネルギーであり、同じエネルギーが、何がその人間のキャビネッセンスになるのかも決定付けていた。

 

 一言で言えば、キャビネッセンスを生み出しているのも〈何か〉である

 

 鏡に反射する前のエネルギーが、特定の物品に強い影響を及ぼすとき、その物品のことをキャビネッセンスと呼ぶ。〈何か〉の存在を仮定することで、そういう結論にたどり着くことが可能となるのだ。

 

 

+〈何か〉は「意思」と関係している

 

 もしも〈何か〉が存在し、またキャビネッセンスにとって決定的な役割を果たしているなら、本論は〈何か〉の正体について有力な手がかりを提示ことができる。

 先にも言及した、伊佐俊一とは別の意味でペイパーカットの正体に最も肉薄しているキャラクター、舟曳沙遊里は、キャビネッセンスについてこう証言した。

「キャビネッセンスが関係しているのは、実際は生命ではなく、意思のほうよ」

 

 作品中では衝撃的な台詞として提示された後、特に回収されるでもストーリー展開に絡むでもない台詞だが。

 いままでの仮定を踏まえれば、この説明は〈何か〉は人間の意思に関連するエネルギーであると読むことができそうだ。

 そして、意思が関係しているのだと考えれば、ここでもまた、いろいろなことの説明がつくようになる。

 例えば、『トポロシャドウ(トポロス)』の諸三谷吉郎や『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一は、ペイパーカットの匠な弁舌に精神状態を誘導されることで、他人から認識されなくなる不思議な能力を発揮した。あれは、当人の精神状態が〈何か〉のエネルギーに影響を与えたということではないのか。また別の例としてキャビネッセンスの性質について考えることもできて、どんな人間も必ずキャビネッセンスを持っているというあれはどんな人間も必ず意思を持っているということだろうし、ペイパーカットが人間がすぐにキャビネッセンスを変化させてしまうことを不思議がるのは、どんな強固な意思も永遠に変わらないことなどない、ということだろう。

 

 注意してほしいのだが、我々がいま〈何か〉と呼んでいるものは、物理的な光に近い性質を持つ具体的なエネルギーであって、通常「意思」と呼ばれるような抽象的な精神活動や現象ではない。

 〈何か〉は、反射したり、指向性を持たせたり、トポロスとして数学的に計算することができる*24具体性を持った、しかし実態が謎のエネルギーである。このエネルギーは我々には観測できないが、ペイパーカットには観測も操作もできる。いくら虚空牙でも、他人の意思を直接操作するような真似はできないはず。というか、むしろ人間の精神を操作することだけが、ほとんど唯一、虚空牙に不可能な行為のはずだ*25

 恐らく、意思は〈何か〉のエネルギーを操ったり操作したりする要素だ。強い意思をもって命じた場所にエネルギーが移動すると考えるのは、ラノベ的発想としても自然に思える。本人の意思が無意識のうちに集中している地点に〈何か〉のエネルギーは自然と集中するし、集中した先が物品であれば定着してキャビネッセンスと呼ばれるモノになる。さっきは、”キャビネッセンスは〈何か〉が生み出している”という言い方をしたが、どうやら生み出している訳ではなく、単にエネルギーが物品に宿っているだけなのかも。

 

 ……ん? 物品に宿っている、意思に反応するエネルギー?

 

 ここで上遠野信者である我々は、ある推測の存在に気付くことができる。

 

 意思に反応して、物品に残すことのできるエネルギー、それは、別シリーズで〈呪詛〉と呼ばれているものではないのか

 

 

+ペイパーカットが本当に盗んでいるもの

 

 呪詛〉についての詳しい説明は、『紫骸城事件』のなかでされている。

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

 

 魔法の原理とは、単純に言ってしまえば、生命エネルギーの二次利用、ということになる。ここでいう一次利用とは"生きていること"そのものである。それは当然、死ぬときに終わる。だがその生命の残滓というものがこの地上には残り、それが呪詛と呼ばれる魔力の源となるエネルギーなのだ。通常は見ることも感じることもない。しかし、この地上に生命が誕生してどれくらいになるのか正確なところは知らないが、少なくともそれが夥しい量であろうというのは誰でも想像のつくことだろう。

(中略)

 しかし我々は確かに呪詛を使って文明を築いているし、人間以外の動物でも魔法に類する能力を持っているものが珍しくないにも関わらず、つまるところ呪詛というのが如何なるものなのか、という点についてはまだまだわからないことが多い。ただ、このエネルギーが生物の”思考の流れ”のようなものに反応することは判っている。反応すれば、その分だけその生物は呪詛の存在とパワーを認識し利用できる。

 

 非常に興味深い。

 この説明からは、ソウルドロップシリーズにおける「キャビネッセンス」と、無視できない関連を2つ見つけることができる。

 

 第一に、〈呪詛〉のエネルギーは本来生命維持に使われている

 キャビネッセンスを盗まれると人は死ぬ、という事実を思い出さずにはいられない。

 キャビネッセンスを盗まれた者は、同時にそこに宿る〈何か〉のエネルギーも失っているのではないだろうか? 〈何か〉が〈呪詛〉であるなら、そのエネルギーを失うと、人が死ぬことの説明がつく。また、必ずしも人が死なないことの説明もつく。恐らくだが、生来多量のエネルギーを持っているならば、その大半を失っても生命活動維持には足りるということはあるのではないだろうか? 更に、これならば、ペイパーカットが魂の一滴(ソウルドロップ)と呼ぶものを与えることで、死にかけた人間を癒やすことが出来た理由も説明がつく*26

 第二に、「呪詛」は人の思考の流れに反応する

 思考の流れ、つまりは意思である。しかも、『紫骸城事件』ではこの説明が「意識的に思考の流れをを扱う訓練を受けた人間を魔術師と呼ぶ」という話につながるのだが、逆に言ったら、それは訓練を受けてなくても思考の流れ自体は存在するという意味ではないだろうか。例えば、命と同じくらい大切に思っているモノの方向に〈呪詛〉のエネルギーが自然と集まっていく、というようなことは起こるのではないか。また、集まったエネルギーは活用されれば魔法となるのだろうが、別に活用されなくてもエネルギーの移動はあるではないだろうか。

 ついでに言えば、『紫骸城事件』はソウルドロップシリーズの3年前の出版であり、〈呪詛〉という発想がキャビネッセンスというアイデアに先攻していたのは間違いない。

 あまりにも関連が明確である。これはもう、どうやら間違いない。

 

 キャビネッセンスとは、その人間の生命を維持している〈呪詛〉が集中している物品のことである

 即ち、ペイパーカットが本当に盗み、操作し、研究対象としているのは〈呪詛〉である

 

 ペイパーカット自身は、自分は生命を研究しています、と常に言っているが、それはペイパーカットの勘違いである。

 千条雅人の姉によれば、

「たぶん、遥か向こうから観ているせいで、生命とそうでないものとの区別が微妙についていないんでしょうね――だから類似するものを収集しているんだわ」

 

 ということだ。

 ペイパーカットには、生命と、生命維持の材料たる〈呪詛〉の、区別がついていない。風邪と病原菌の区別がつかないようなものだろう。初歩的な違いのようにも思えるし、病気という概念を持たない宇宙人には区別が難しいかもとも思える。

 

 

+虚空牙が来た理由と上遠野サーガの全容(の妄想)

  

 考えてみれば、ペイパーカットが「生命」を研究対象にしているという話は、元から奇妙だった。なにしろ、他シリーズの虚空牙は、ヒトの生命のことなんて全然調べている様子がない。

 虚空牙が何を調べようとしているかは、『虚夢を月』で明らかになっている。コーサ・ムーグを介した試みが失敗に終わり、現れた虚空牙はこのように研究の失敗を嘆いた。

”――失敗だ”

 どことも知れぬ虚無から響く声が聞こえてくる。

”――また失敗だ。またしても〈心〉なるものの手がかりが消滅した”

 

 虚空牙が気にしているのは「心」である

 他にも、『笑わない』のエコーズは人間の善悪*27を報告せねばならなかったようだし、『虚空に夜』では直接〈戦士〉である工藤兵吾のことを調べに来たし。あとこれは単なる予想だが、『螺旋のエンペロイダー』の才牙虚空介と才牙そらは、試しに一から端末を人間社会で(しかも男女の兄弟で)育ててみるという実験*28の対象者のはず。

 いずれも、どう見ても調査の傾向が「心」寄りである。ペイパーカットの研究対象だという「生命」だけが、どうも他の調査から乖離しているように見える。この乖離は、各シリーズが明確に独立しているため、いくら作品間リンクの好きな上遠野浩平でも関係のない事例として処理したくなってしまうが。

 

 しかし、ペイパーカットの研究対象が実は〈呪詛〉であるならばここにも話が通る。

 虚空牙が「心」を通じて調べたがっているモノもまた、実は〈呪詛〉だった違いない

 全ては呪詛エネルギーの振る舞いを、つまりは振る舞いに影響をあたえる「心」のことを調査するためなのだ。

 

 この気付きによって上遠野信者の妄想はますます爆裂する。

 せざるを得ないッ! うおおおお!

 

 (*以下すごく早口で喋るので読み飛ばしていただいて結構です)

 きっと、純粋なエネルギー体であり、しかも「心」を認識できない虚空牙にしてみれば、地球という場所は「何にもないのに何故かエネルギーが激しく動いている場所」なのだ。原理が判らなかった頃のブラウン運動を見るような感覚だろうか。虚空牙が呪詛エネルギーの激しい動きを観測して地球を調べにきたのは、ブギポ世界=現代がだったが、これは当時代がMPLSが急に増加している時代であることと、無関係ではないだろう。MPLSも呪詛を使っているということだな。そういえば現代におけるMPLSの増加は、魔女の存在と関係あるらしい。だとすると魔女のせいで虚空牙が地球に来たとことになってしまうぞ。魔女というのは全くなんて傍迷惑な連中だろうか。それはともかく、どうやら虚空牙は最初のうち、研究対象に影響を与え過ぎないよう注意して研究をすすめたようだ。エコーズが喋れない設定とかあったし。ペイパーカットもかなり手加減しているように見える(ペイパーカットは配慮に失敗していると言わざるを得ないが)。で、それらの初期調査によって、どうもエネルギーの動きには「心」って奴が関係しているんじゃないかって事と、「心」の影響を受けてエネルギーの出力が強くなったり弱くなったりするという事は虚空牙にも分かった。だけど、やはり根本的なところはわからない。「心」は虚空牙にとって本質的に認識不可能な事象だというので無理もない。そこで、虚空牙はちょっと大胆な実験を行うことにした。できるだけ地球のエネルギーがブーストされるように、あえて強い刺激を与えてみることにしたのだ。これが虚空牙による地球攻撃である。虚空牙という外敵を得たことで、人類は外宇宙に進出し、ナイトウォッチを作り出すほどの文明を手にしたのだという。ペイパーカットに呪詛を盗まれた人間からは、生き様からやる気や創造性が失われることがあるが、ならばその逆で、エネルギーが強くなったらやる気と創造性がもりもりわいてくるのではないだろうか。そしてやる気が向上しまくれば、文明の発展さえ促されるということがあるのでは? こうして出来たのが虚空シリーズの世界。しかし、やがて虚空牙は実験を終えて、地球を引き上げて、すると人類の不自然なやる気ブーストは途絶えて、宇宙文明は衰退した。文明が衰退した地球で、人類はあいかわらず生きたり死んだりしたが、やがて魔女の影響からも既に逃れた時代、本来のタイミングであらためて奇蹟使いたちがエネルギーの利用法を見出していく。あと、界面干渉学の向こう側に存在する『事件シリーズ』のパラレルワールドでは、そもそも生まれた時からこのエネルギーを活用している魔物だとか竜だとかいう生き物がいて、パラレル人類もそれに沿って呪詛文明を築いているッ。

 

 これが!! 上遠野サーガの全容だあああ!!!!!

 

 

上遠野浩平の生命観

 

 申し訳ない。不用意に興奮してしまいました。

 正直なところ、こんなのは一繋ぎの財宝やラフテルの正体を妄想するようなもので、信憑性はあんまりないし、作品の魅力や本質とも全然関係がない。だから、文学論を目指すうえでは関係ない話をする、と前もって言っておかなければならなかったんだよね。面白いのは間違いないのだけど。

 

 だが、せっかくなので最後にあらためて、文学論に舵を切っておこう。

 上遠野浩平は、キャビネッセンス、あるいは〈呪詛〉というモチーフを用いて一体何を描こうとしているのか? 

 

 その手掛かりとして、エネルギーだとか文明だとか上遠野サーガ間のリンクだとか、余計な修飾を排除した、純粋な作者の生命観ともいうべきものが表れているシーンがある。

 『虚夢を月』から、兎型月探査ロボット・シーマスが登場する第3章を紹介したい。この短編の末尾では、旧設備を復活させようとするシーマスのもとに突然、水乃星透子があらわれる。水乃星透子はシーマスに対し、死への誘惑を試みるが、彼はいとも簡単に一蹴する。

”ここには調和があるわ。冷たい死の、月にふさわしい静かな世界が、ね。それを再び目覚めさせて、残酷な真実に直面させることにどれほどの意味があるのかしら?”

「……えーと、その」「僕には難しいことを言われてもよくわかんないけど――でも、一人生き残っているんだよ。助けないと」

”生き延びることが助かることになるのかしら””生き延びれば幸福が待っているというのは、世界が喜びで満たされている時だけだわ。この冷たく凍りついた月にそんなものがあるのかしら?”

「だって、生きているってことは遊ぶってことだろう? だったらどんなトコにだって面白いことは見つけられるんじゃないかな」

”そんなに簡単なものかしら?”

「そんなに難しいことなのかな。生きるって」「苦しいなら苦しくないようにしようとする。つまらないなら面白いことをみつける。生きるってことはそれだけのことじゃないのかな。そんなに難しいとも思えないけど?」

”……”

 すると少女の微笑みに、少しそれまでとは異なる表情が混じった。なんというか、それはわがままを言い通す子供を見た時の母親のような、あきらめといとおしさが入り混じったような”しょうがないな”という微笑みだった。

”心っていうのはまったくしぶといものね”

 

 水乃星透子は、シーマスが死の道理に屈しないのは「心」がしぶといせいだと言う。

 つまり、「生命」というのは本質的に「心」が維持している

 心があるから我々は生きているのであって、生きているから心があるのではない。

 心が主であり生命は従である

 

 〈呪詛〉という発想の根本にあるのは、この生命感であると思われる。

 現実的悲観主義を作品の前面に出すことの多い上遠野浩平だが、どうやらこと生命に関してだけは、理想主義的な側面を持っているようだ。上遠野浩平は、

「生命なんて化学現象ですよ」とか、

「魂なんて電気信号ですよ」とか、

「だから一切に価値はなく無情ですよ」とか、

 そういう漫画や小説でもよくある現実主義・即物主義的な立場を取らない。〈運命〉の悲観の中にあって、生きていることには価値がある、という一点だけは決してブレることがない。

 上遠野浩平という作家は、しばしば死の描写が巧いと評される。個人的には『パンドラ』で仲間たちが死んでいくシーンや、『ジンクスショップ』で老執事が倒れるシーンが、特に顕著なのではないかと思うが。いずれにしても、それらのシーンの巧さ、エモーショナルなリアルさは、上遠野浩平が生命の喪失を非常に重く感じ取っているということの表れなのだ。

 こうした上遠野浩平の生命観は、特に第1期とか第2期とかで変化はしていないので、本連載では今後は特に触れる予定はないが。作者を理解する上では重要なポイントの一つではあるし、なによりこれから出てくる作品の中で今後も度々見ることができるはずである。

 

 

 以上、連載の本来の流れを無視して、ソウルドロップシリーズとキャビネッセンスについて、言いたい放題を語った。

 次回は元の流れに戻る。満を辞して『ヴァルプルギスの後悔』と、第2期上遠野浩平の結末について論じよう。

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:毎回のことではあるが、もちろん整理がついていなかったのは僕自身だ。人より自分のほうが読めてるとか畏れ多いことは思ってない。

*2:またどうでもいい話を脚注でしていくが、ソウルドロップシリーズは、タイトルの言葉の意味がわからないし、第何巻みたいな通し番号もついてないし、表紙は全部ペイパーカットのどアップだしで、どれがどれやら全然わからん。だからこの記事で各作品の名前を出すときには、同時に簡単な説明も書いておくことにした。

*3:断言は避けたいが、個人的にはもう最終回を迎えたシリーズなんだろうと思っている。マジシャンの話で伊佐俊一とペイパーカットの直接対決をやって、最後にオーロードが盗まれる=延々ペイパーカットを追いかける話が終わる、という話でオチになっているんだろう。もし続きがあるとしたら、ペイパーカットが居ない別シリーズで、ロボット探偵が吸血鬼に戻る話、とかかな……。

*4:むしろ不思議なのは、出版時の帯に「神出鬼没の謎の怪盗vs異能の私立探偵!」とか書いちゃってることのほう。やっぱりミステリ界隈的には探偵が敵と対決するっていうポーズのほうが売れるのかなあ

*5:もちろん作者本人も最初からそのつもりで書いていて、『クリプトマスク(映画)』のプロローグでペイパーカットを題材とした映画について「謎の存在すぎてストーリーにならないよ」「じゃあ、そいつ自体は謎にして、それを巡る人々の物語にしようか」と言っているのは内情の暴露であろう。

*6:しかし一方でこの作品の構造の特異さは、作品内のキャラクターたちはペイパーカットと対決しているつもり、という点にある。小説全体としては群像劇なのに、キャラクターたちは、ロボット探偵も、ライバルたちも、サーカムも、東澱も、謎の怪盗ペイパーカットと対決するための行動をとるということ。つまり、キャラクターの言動の焦点が、物語の焦点とは全然違う場所にある。この点を逃してしまうと、シリーズの面白い部分を取り落としがちになってしまうと思う。

*7:あとは、子供などキャビネッセンスを作り出す人生観自体が明確になってない場合は、なにかボンヤリした像しか見えないこともある。特異なパターンともとれるが、本記事では1つ目のパターンの類型として扱う。

*8:しかし、ペイパーカットはしばしば任意で他人の認識を弄るような能力も使う。この点は、能力バトル的な設定考察ではほぼ説明ができない。だって、ならペイパーカットは鏡でなくなることもできるんじゃないのか? なぜそうしないのか?……もはや「虚空牙は万能かつ理解不能だから」と考えるしかない

*9:ただしペイパーカットは基本的にキャビネッセンスのことが判ってない(だから研究している)。つまりペイパーカットは自分でも判ってないことを説明しようとしているのであって、説明が正しい保証はないのが厄介だ。

*10:同じ内容は他に、釘戸博士による問診で証言されている。

*11:これは記事の流れのために上でペイパーカットの正体は謎、みたいなフリをしてるだけであって……常識レベルの話の気がしてならない。でも僕はマジで今回読み込むまでわかってなかったんです。

*12:再読してみたら思ったよりもたくさん見つかってびっくりしたよ

*13:参考動画検索結果:ジャングル 鏡像認知

*14:警察内部に侵入していた暗殺者ともみ合ったときに、銃の火薬が目に入ったという描写がわざわざされている。

*15:恐らく、鏡に反射した光=伊佐俊一の意思の力が特別に強烈、ということもあるので、皆が皆ではないだろうけれど。

*16:サーカムが把握してないせいで明文化されないのだが、飴屋がしばしば何も知らない一般人と一時的に行動を共にする度に、その一般人が「初対面のはずなのにおかしいな?」とか思いながらも飴屋と親しくする……いう形で描写がある。

*17:伊佐俊一は、恐らく自分自身を許すことができない人間だからだろう、ペイパーカットを見ると胸がむかむかしてきたりするようだ。早見壬敦からはそのことを「いっさん、アンタはペイパーカットを許せるのかな」と心配されている。

*18:本記事ではここで厳密さを捨てたイメージ先行の考察を使っている。というのも、先の脚注でも述べた通り、厳密な能力分析は恐らく無駄なので。能力バトル的には「ペイパーカットは他人の認識をかなりの程度操れる」という事であろうが、でもじゃあ何が出来て何が無理なのかという話になると、虚空牙にはほぼ何でもできるはずで、認識以外のものすら好きに操っているのかもしれないし。

*19:他シリーズで「虚空牙は人間を通してしか人間を理解できない」とされるのも、彼らが反射をつかさどっていることと恐らく関係がある……と思うのだが、「時間」を使うらしきブリックや、あと何を使っているかよくわからない(「螺旋」なのか?)才牙虚宇介は、人間から何かを反射しているようには思われないんだよなあ。

*20:巻が進むごとに、理由が変化しているように見える。これはペイパーカットの興味の対象が移り変わっているということなのだろうか? それとも移り変わっているのは上遠野浩平の興味か?

*21:この説明の言いようは、どうみても他シリーズでこの時期描き続けていた〈戦士〉とダブるが、しかしソウルドロップシリーズで飴家の姿を見る人々はどう見ても「ううう……」となるタイプの人たちで〈戦士〉からは程遠い。関連はしているが別の要素だと思っていたほうがよさそうだ。あるいは、これはペイパーカットこそが研究対象を良く分かってがない故に起きる間違い、の一環なのかもしれない。

*22:「未発表のアルバム収録曲」という単語だけでもう最高に上遠野浩平が好きそう。

*23:突然だが、伊佐俊一のキャビネッセンスとは何か? 直接の描写はないのだが、それは恐らく「いのち」である。伊佐俊一はいつも人が死んだり命が粗末にされたりすると怒っている。伊佐俊一にとって、命より大切なものなど命以外にはない。即ち、伊佐俊一とは生命のエネルギーを狭いところに閉じ込めてない男なのだ。ペイパーカットにとってはさぞ興味深い研究対象であろう

*24:キャビネッセンスの代替品として作られたというトポロスは、恐らく「エネルギーが宿った物質にどういう力が加わるかを計算する」という試みであった。博士はキャビネッセンスだと判っている物質に、何らかの変質の痕跡を発見したのかもしれない。しかし、いくら正確なモデルを作ろうと、そこにエネルギーが宿っていない限りはキャビネッセンス自体とは成りえないだろうし、やっぱり的外れだったとしか言いようがない。

*25:この点については本記事中にもう一度触れる。

*26:特に前半のシリーズで見られた行動で、『ソウルドロップ(ライブ)』では伊佐俊一を、『メモリアノイズ(田舎)』ではかわいそうな昭彦少年を癒やした。

*27:というか、エコーズはどうも「人間とは共同体において助けあうのか排斥しあうのか」を調べていたようだ。複数の人間の呪詛エネルギーの相互干渉かなにかに関係するのだろうか?

*28:たぶんそういう話ですよね?