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「上遠野浩平論」⑧~〈戦士〉の条件(『ぼくらは虚空に夜を観る』ほか)

 上遠野浩平論の第8回です。

 本論は、上遠野浩平の作品世界について文学論的検討を行うことを目指している。前回の第7回では、だいたい2000年以降の作品群を第2期上遠野浩平と呼ぶことを提案し、その第2期では〈決定論的な運命〉という概念が上遠野世界の中心的テーマになっているという見解を示した。 

 今回の第8回では、中心的なテーマである〈運命〉*1が、どのような形で作品に現れているかを提示するつもりだ。

 

 ということは、必然的に本記事は〈戦士〉*2について論じることになる。

 第2期上遠野浩平は、極端に単純化すればだが、基本的に二つの内容しか描いてない。

 うち一つは、セカイには誰にも抗えない絶望的な現実(=運命)が存在すること。

 もう一つは、抗えない絶望と対決しなければならないこと。

 そして絶望と対決する者のことを、上遠野浩平は〈戦士〉と呼んでいる。

 本記事では〈戦士〉の役割を負わされたキャラクターを掘り下げることで、概念全体の輪郭を浮き彫りにすることを目指す。そうすることで、上遠野浩平が運命との対決をどう考えているかが示されることになるはずだ。

 

 

+人類史上最強の〈戦士〉、工藤兵吾~『僕らは虚空に夜を観る』

 

 本記事で、主に考察の対象とする"〈戦士〉の役割を負わされたキャラクター"とは『ぼくらは虚空に夜を視る』に登場した、工藤兵吾=マバロハーレイである。彼は上遠野浩平の考える、最も典型的かつ最強の〈戦士〉だ*3

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

 

 『ぼくらは虚空に夜を観る』は、今は無き徳間デュアル文庫から2000年に出版されたSF小説で*4、今は星海社文庫から再版されている。2000年に出版ということは、本論が考える第2期上遠野浩平の概ね最初期に出た作品ということ。そして、この作品は〈戦士〉というタームを上遠野浩平が前面に押し出してきた最初の作品だ。

 具体的には、虚空牙がこの用語を明確な重要語として持ち出してきた。

 

「お前はいったいなんでこのカプセル船の中の世界に入ってきたんだ?」

 兵吾はあらためて、この”敵”に向かって訊ねかけた。

 これには、さっきと同じ返答が帰ってくるだけだった。

〝だから言っただろう。我は君に会うために来たのだ――〈戦士〉よ〟

 

 明確に〈戦士〉というタームが上遠野浩平の作品世界に現れたのは、このシーンが最初だ。〈戦士〉という単語は、例えば〈世界の敵〉と違って一般語の範疇にある語なので見逃しがちだが、これは上遠野浩平の文学において独自の意味を持つ概念である*5

 また、ここで特に説明なしで文学的解釈を前面に出してしまうが、そもそも虚空牙とは絶対的絶望の擬人化である。オキシジェンとはまた別の意味で〈決定論的な運命〉そのものと言える。絶対的絶望そのものたる存在が「なんか工藤兵吾ってやつが〈戦士〉っぽい」という理由で、わざわざ会いに来て話す。

 なぜなのか? 〈戦士〉の何がそんなに重要なのか?

 言うまでもないが、この扱いははなにも彼が超宇宙級に強力な戦闘機を他の人間より上手に使うから、ではない*6。実際、戦果の数、あるいは人類にとっての価値で判断するなら、"人類の守護者"という呼び方をされる マイロー・スタースクレイパー*7のほうが大きいのではないだろうか?人類全般・社会一般にとっての意味や価値、あるいは掲示板の強さ議論スレに列挙されるスペックは、工藤兵吾が〈戦士〉である事と何も関連性もない。

 

 では何が関連しているのか。作品中で語られていることを、順に拾い出してみよう。

 

 

+景瀬観叉子とリーパクレキスの絶望

 

 工藤兵吾について明らかにするには、同じ『虚空に夜』に登場する、景瀬観叉子・リーパクレキスから考察を始めるのがいい。

 景瀬観叉子・リーパクレキスは、"ナイトウォッチコア"、と"スタビライザー"が、入れ替わった存在である。つまり、ナイトウォッチを操縦していたリーパクレキスは虚空牙との戦いに嫌気が指したので現代日本で暮らすようになり、反対に景瀬観叉子はいじめか何かで現代日本が嫌になったので虚空牙と喜んで戦うようになったとうこと。彼女らは、工藤兵吾の先輩としていかにも優秀そうに振る舞うにも関わらず、その特異さ故に「ジャイロサイブレータに期待されてはいない*8」のだという。

 

 景瀬観叉子=リーパクレキスは、そういう自身の状況について、次のように冷静な意見をそれぞれ述べ、自分たちの正しさを主張する。 

「(なぜ入れ替わりが起きたのか)表面的な理由だけを言えば、私が手首を切ったからでしょうね」

「な……なんで? なんかあったのかよ?」

「そっちが納得しやすいような意味では、理由はないわ」「機械にも、困ったものだと思わない? 世界を再現すればいいなんて、あまりにも安直というものだわ。まるで苦痛や恐怖が絶対真空にしかないみたいな、すごく能天気な発想……。」

*景瀬美佐子の台詞

「(宇宙空間に居て)あの空っぽを前にしていると、どうしてもこういうことを考えてしまう――”なんで存在などということがあるのだろうか。世界はこんなにもどこまでも果てしなく空っぽなのに、存在なんて、何の意味があるんだろう?”って――」

「…………」

「覚悟の上で来たそこなのに、あまりにも身も蓋もない現実に、何もかもがどうでも良くなってしまう――。虚空牙との激しい戦闘を行っているその最中に、ついこんなことを考えてしまう時が来る。”ああ、ここでちょっとだけ回避行動を遅らせればそれで自分もからっぽになれる”――って。(中略)ストレスなら機械が分解してくれる。孤独感なら無意識の中では別の世界で暮らしていることで埋め合わせられる。希望がないことも、可能性はあるとごまかせる。でも――”事実”はどうしようもない。」

*リーパクレキスの台詞

 

 要するに、景瀬観叉子は現代日本の生活に、リーパクレキスは虚空牙との戦いに、それぞれ絶望していた。だから互いの立場を交換することで、互いに絶望を避けることにしたのだ。

 彼女らは、自分たちが直面した困難の原因は、そういう絶望を想定すらしていなかったジャイロサイブレータの不手際だと言っている。その主張は一見正当性を帯びて見える。

 

 

+工藤兵吾と景瀬観叉子の対比

 

 しかし忘れがちな事実がある。

 工藤兵吾は学校でいじめられている

 時折、彼がため息などつこうものなら、確かにくすくすという忍び笑いが聞こえてきたりして、一日二十四時間の中の、ホームルームや授業の合間の、ほんの数十分に過ぎなくとも、その時間は兵吾にとっては非常にキツイものであった。

(くそ、まるで拷問だな……)

 つい、そんな事も思ってしまう。

 

 この設定は、ナイトウォッチが本格的に登場する前の、ほんの序盤に短く描写されるだけなので、小説を読み終わった時点で全く印象に残らない。しかし、実はこの設定が『虚空に夜』において決定的に重要だ。つまり、工藤兵吾は、景瀬観叉子よりも過酷か少なくとも同等程度に劣悪な学校生活を送っているということなのだ。

 更に、もちろん工藤兵吾は空っぽの絶対真空で虚空牙と戦ってもいる。工藤兵吾という主人公には、景瀬観叉子たちとは別の特異性があり、"コア"と"スタビライザー"が同一人物である。リーパレキスと景瀬観叉子のように人格が分離したりしていない。だから現代日本と宇宙空間の両方を体験しているのだ。また、絶対真空の虚無感に気づいてないわけでもない。彼は、初戦闘終了時ですでに虚無のヤバさに気付いてパニック発作を起こしている。 

 つまり、工藤兵吾は景瀬観叉子とリーパクレキスが逃げだした苦境の両方を受け止めている

 

 上遠野浩平は、この差異がもたらす結果を「戦果を期待されていない」リーパクレキスと「戦闘の天才」工藤兵吾という形で、明確に表現している。景瀬観叉子とリーパクレキスは、何か強者っぽい態度でこそいるが、あんなのは見せかけだけで、実際には何の成果も出せないチキンなのだ。文学的な存在意義として話せば、真の〈戦士〉がどういう人間かを示すためだけに居る、かませ犬的な存在が景瀬観叉子・リーパクレキスだと言える。

 この露骨ですらある対比表現に、最初から気付ける人は気付いていたのだろうか。少なくとも僕自身はずいぶん後になるまで全く気付いていなかったが。

 

 

+絶望を忘れているコーサ・ムーグ

 

 このように『虚空に夜』は、実は「〈戦士〉とは何か?」を描こうとしている作品である。

 そうと判れば、虚空シリーズ3部作全体にも同じ理解を適応できることが容易に判る。虚空シリーズ3部作には、常に〈戦士〉であるキャラクターと、そうではないキャラクターの2種類が出てきており、そういう理解のもとで読めば物語全体の文学的な価値がずいぶんクリアに見えてくる。

 ここでは字幅の問題から3部作全てに言及することは避けるが、特に言及したい箇所としてもう一点、工藤兵吾⇔景瀬観叉子と同じような対比がある『わたしは虚夢を月に聴く』第4章を取り上げよう。

わたしは虚夢を月に聴く (星海社文庫)

わたしは虚夢を月に聴く (星海社文庫)

 

  虚空シリーズの第2作目『わたしは虚夢を月に聴く』は、章ごとに主人公が変わるタイプの短編連作だが、その第4章には連作のキーとなる人物、コーサ・ムーグが登場する。彼は、虚空牙と人類の共存を目指しており、シンパサイザーという装置を使うために醒井弥生の世界に現れた。この装置は、シールドサイブレータの仮想現実世界を構築するために使われているが、コーサ・ムーグは自身の思想を演説するためにそれを借りたいと考えている。しかし実はコーサ・ムーグは、過去の時点でとっくに目標に挫折しており、今は虚空牙に操られているだけの存在だ。シンパサイザーを使いたいと考えているのは、それによって虚空牙の影響をウイルスのように広げるためなのだ。

 

 コーサ・ムーグはほとんどシンパサイザーを使うという目論見に成功しかける。しかしその時、水乃星透子*9が現れ、彼が忘れていた過去の挫折を指摘する。

「ああ、あなただってもう知っているはず――あなたは、自分が救おうとした人間によって殺されたときに、はっきりと思ってしまった――”絶望”を」

 その一言は、コーサ・ムーグの胸をさながら電撃のように貫いた。

(――――!)

「人類は救う価値などない、ただの"愚か"なのだと、そう考えてしまって、そして……そのために死んだ。――その亡霊が、果たして人々に呼びかけ、伝えるべき言葉を持っているのかしら? あなたは、あなたを殺した人間たちを、ほんとうに心の底から許す事ができているのかしら? いいえ、信じられるのかしら? あなたは、あなたがかつて夢みていた、人と人でないものとの共存を? 人間は自分たちの間ですら殺し合いやすれ違いを繰り返しているのに……?」

 

  繰り返しておくが、コーサ・ムーグはこの絶望を指摘されるまで忘れていた。本論のここまでの表現に即せば、運命を受け止められていなかった。

 

 

 +コーサムーグと醒井弥生の対比

 

 ところで『虚夢を月』第4章の主人公は、先程少し名前を出した醒井弥生である。

 彼女は単なる女子高生だが、世界から消えてしまった水乃星透子のことを思い出そうとしている。彼女は非力だ。彼女のささやかすぎる努力は、世界に全く影響を与えることができない。その上、努力しているという事実は単なる利用されやすさとして扱われてしまい、システムの守護者・妙ヶ谷幾乃には外的排除の道具にされ、虚空牙の傀儡たるコーサ・ムーグの都合のいい現地ガイドにされたり、とにかくろくなことにならない。彼女の努力はマイナス以外、何の結果も残さない。

 だが少なくとも、醒井弥生は忘れたものを思い出そうとしているキャラクターだ

 虚空牙に利用され、ほとんど世界を滅ぼしかけたのは、コーサ・ムーグと全く同じだが、しかし、醒井弥生は、実は困難から目を反らすということを全然していない。結果的にマイナスの結果をもたらしたとしても、すべての行動は自分の想いを忘れなかったからだし、彼女はそのために自らの身の安全すら犠牲にした。作品中ずっと非力で無知なので見逃されがちだが、彼女こそは虚空シリーズ2作目において〈戦士〉の役割を負わされたキャラクターである

 

 醒井弥生は、『虚夢を月』のエピローグで、成長して大人になり、ついにかつて辿りつけなかった水乃星透子との対面を果たす。その第一声のシーンが非常に象徴的だ。 

「……あ……あなたは」

 わたしの声は震える。

 とうとう――会えた。

 ずっと探していて、確たるイメージさえなかったそのものが今、わたしの目の前にいる。

 だが、わたしに言えることは、それは――

「あなたは、私の妄想なの?」

 わたしはまず、それを訊かなくてはならないのだった。

 

 醒井弥生は、物語中ずっと水乃星透子の存在を確信していたように見える。にもかかわらず、「それは自分の妄想であるかもしれない」という想定も、ずっと忘れていなかった。自分にとって最も悲劇と思える想定を、直視していられる。それはまさに〈戦士〉の特徴だと言えよう。

 

 

+〈戦士〉はとにかく負けず嫌い ~ 九連内朱巳

 

 さて、ここまで虚空シリーズを検討してきたことよって、〈戦士〉という概念の大枠が理解できた。ここからはもう少し理解を精緻化していこう。 

 工藤兵吾や醒井弥生に代表される〈戦士〉たちは、どうしてそんなにも強くいられるのだろうか? 絶望の擬人化として虚空牙、あるいは無慈悲な決定論的な運命、そういうモノに直面すると、上遠野セカイの一般人はふつう「うううう……」となり一歩も動けなくなってしまう。あるいは、無意識のうちに絶望から目を逸らし、恐怖と直面することがないように行動してしまったりする。上遠野浩平が〈戦士〉と呼ぶのは、そうならないで居られる人格のことだが。しかし彼らが"そう"であることには何か特別な理由があるのだろうか?

 

 工藤兵吾の幼馴染である槇村聡美は、『虚空に夜』の中で、憎からず思っている彼がテロリストと戦う姿を直面する。そしてその闘争が本質的に何なのか、親しさ故の的確さで察知している。

(――あ)

 聡美は、兵吾のそういう表情を前にも見たことがあった。

 それは兵吾が、”ムキになっている”ときに見せる表情だった。たとえば野球をやっていて、自軍が負けていて、彼のところで一打逆転のチャンスが来たりしたときに、よくこういう表情になるのだ――そして聡美は知っていた。このときに兵吾に話しかけると、こういう返事しか返ってこないのである――”絶対に大丈夫だ”。

 工藤兵吾は、要するにムキになっているだけなのだという。別に、高尚な決意とか思想が彼を支えている訳ではないのだ。  

 この「ムキになること」は、上遠野浩平の中でかなりポジティブな意味を持つ感情のようである。上遠野サーガには、他の作品にも名だたる〈戦士〉たちが登場するが、彼らはしばしば「ムキになりやすい」あるいは「負けず嫌い」な性格の持ち主だということが明示される。

 

 そういう性質を持つ〈戦士〉の代表といえば、やはり九連内朱巳が挙がるだろう。 

 九連内朱巳については、初登場時の引用をするだけでほとんど語ることがなくなってしまうのだが。

 ……どうして少女はかくも我が強いのか。

 その理由はおそらく、こうして意地を張っている九連内朱巳本人にすはわからないだろう。訊ねることができるなら彼女はきっとこう答えるだろう。

「うるさいわね。人の勝手でしょ。ほっとしてよ。あたしが意地を貼るのと、あんたとなんの関係があるっていうのよ? 悪いけどあたしはあんたと関係なんか持ちたくないんだからね!」

 ……だがその意地のせいで彼女は今や抜き差しならぬ状況に陥った。彼女はこれからずっと、世界を制しているシステムを相手に、舌先三寸の詐欺を働き続けなくてはならなくなったのだ。彼女はいったいどこまで、このほとんど余所に根拠の見出せぬ意地を貫くことができるだろう?

 しかしそれをやめたいと弱気になったとしても、この九連内朱巳には助かる道がもはやどこにもない。その先に何が待っているのか彼女は今のところ大して気にかけていないし——気にしてもしょうがない。他の選択肢はないのだから。

 

 この通り、九連内朱巳は、最初から"絶対に勝てないものに直面して意地を張る"という方向性のキャラクターであり*10、この方向性は登場以来一切ブレていない。しかも、意地を張る理由は本人にすら判らない、損得や正邪の論理を超えた単なる感情による。つまり、あるキャラクターが〈戦士〉であるかどうかは、戦闘や交渉の能力でやはなく、一見些細な感情のあり方で決まるのだ上遠野浩平の世界に登場する〈戦士〉たちには全員、多かれ少なかれ感情が基盤というところがある*11

 

 またここでは、九連内朱巳は意地を張ったことによって損をしている、という点にも注意を払っておきたい。〈戦士〉であることは、気高い生き方かもしないが、別に本人に勝利をもたらしたりはしない*12。普通のジュブナイルであれば、主人公が抗うと決めることは即ち勝利フラグだろう。だが、上遠野浩平の物語においてはそうではない。上遠野浩平のセカイではどんな人間も負ける〈運命〉であり、本当の意味での勝利フラグなど何をやっても立たない。〈戦士〉とは「自分は負ける」という事実を直視できる人間であり、勝利する人間ではない

 上遠野浩平の〈戦士〉が、この作家独自の概念であることがこの点からもわかる。

 

 

+〈戦士〉には利己性が極めて薄い ~ 織機綺

 

 更に続けて〈戦士〉を〈戦士〉たらしめる、他の理由も見てみよう。

 工藤兵吾が戦う理由には、もちろん幼馴染の槇村聡美の存在があり、自己の利益や安全には最終的に頓着しない。醒井弥生は本来は引っ込み事案のお嬢様だったが、物語中では実家のお金を持ち出してまで調査の依頼をしたり、変人扱いされることを厭わずに水乃星透子の実在を叫んだりした。

 なんというか、利己性が薄いとでもいうのか。

 〈戦士〉は自己の利益や安定を、無視するわけではないが、それ自体を目的とはしない。己の身の安全はむしろ普通よりしっかり確保するが、それは他の究極目的に必要だからに過ぎない。上遠野浩平の物語において〈戦士〉は、根本的に自己の身を顧みない存在として書かれている。

 

 この考察に、最適なキャラクターがいるので見てみよう。『ロスト・メビウスの時の織機綺だ。

 『ロスト・メビウス』は、"牙の跡"に入り込んだ織機綺と蒼衣秋良が、虚空牙の端末・ブリックとうろうろする話だ。ブギーポップシリーズの中では評価が下位になりがちな作品だが、それはしょうがないところがある。全体的に何の説明もされない話だし、ぶっちゃけ繋ぎ回だ。織機綺、ブリック、リセットリミット姉妹といった主要人物たちは、そのどれもが、2018年の今もまだ描ききれてないキャラクターであり、『ロスト・メビウス』でなぜ描かれる必要があったのかが明らかでない。いつか彼らの物語が終わったときには、『ジンクスショップ』のように過去の重要作品としての位置づけを得るのじゃないかと思う。

 

 それは兎も角、織機綺である。個人的に大好きなシーンがあるので引用したい。一連の事件を通しての織機綺の行動が、歴戦の兵士である蒼衣秋良を戦慄させている。

 焚き火の向こう側では、綺が微かに震えながら、ぶつぶつと呟いている。

「……大丈夫だから、正樹――」

 同じ言葉ばかり繰り返している。よく飽きないな、とやや悪意をもって蒼衣はその言葉を聞いていた。だが――ふと、あることに気がついた。綺はずっと譫言のようにそれを反復しているのだが、そこには一度も――泣き言が混じっていないということに。

 助けて、とか、寂しい、とか――そういうことを全く言わない。辛くないはずがない。痛くないはずがない。優しい彼に会いたいと思っていないはずがない――なのに、

(この女……まさか、ずっと……?)

 そう、こいつはずっと、自分のことなど一言も言っていなかったのだ。彼女が言っていたのは、いつも相手のことだった。

 その相手とどんな関係なのか、蒼衣は知らない。しかし、電話で今日のことを話していたのは盗み聞きしていたから、それが忙しい二人の、おそらくは最後の対話であろうと思える。さよならの一言も、当然のことながらなかった。近いうちに会おうという二人がそんな言葉を交わす必要はない。だからもし、ここで綺が倒れたら――相手はとんでもなく辛い状況に放り出されるだろう。何が起こったのかもわからないまま、彼女が消えて、そしてそれっきりだ。

 綺は――それを恐れているのか?

(こいつは――自分よりも、その相手のことを、たった今、危機に陥っている自分自身の現在よりも、半端な立場におかれるであろう彼氏の未来を、そっちの方をこそ助けるために――それで、耐えているのか……?)

 きっと助けに行く。絶対にそんな目にあわせたりしない。ここから出て、必ずあなたのところに帰るから大丈夫――その間になにがあっても、そんなものは大丈夫だから――そう言っていたのか?

 

 ここで織機綺が、第2期上遠野浩平以降における*13キャラクター性・本質を露わにしているのである。彼女が体現するのが利己性の薄さだ。織機綺は、とにかく自分に価値がないと考えている。現実に居たらメンヘラを心配したくなる性格であるが、これは〈戦士〉の資質である。なぜなら、彼女にとっては、価値のない自分がどれほど辛かろうとどうでもいい。そんなことより愛のために継続して行動できるかが大事だからだ。

 自分が辛いことが諦める理由にならない。へこたれるということがない

 起きている結果が、九連内朱巳が負けず嫌い故に折れることがないのと全く同じである。 醒井弥生が極めて弱い存在なのと同様、織機綺は弱さが際立つキャラクターなので見逃されがちだが、彼女もまた〈戦士〉の役割を負わされた存在だ。

 

 ただし、織機綺が持つのは、「利他性」ではない

 自己承認の欠如がまず先にあり、他者への思いやりはその結果にすぎない。上遠野浩平の描く〈戦士〉たちは、捨て身で人を助けたりはするが、それは自分のためだとしばしば強調する。反対に、他者の利益に単に奉仕する者のことは、むしろ特異な存在や、洗脳済みの者として描かがちである*14

 また、利己性の薄さによって成立する〈戦士〉の資質は、どうも上遠野浩平の中で歪なものとして理解されているような感じがする。だからか、結局のところ織機綺は物事を上手く運ぶことができない。この点については、作品の中で作者自身が何らかの答えを示していくのだと思う。というか、答えの片鱗らしきものは作品の中で既に見えているのかもしれないが、織機綺は今の所まだ着地しきっていないキャラクターであり、本論での決めつけは控えておきたい。

 

 

+〈運命〉に「あきらめ」で応じる ~ ザ・ミンサー

 

  更にもう一組、〈戦士〉という概念の輪郭を示すにあたって、紹介しておきたいキャラクターたちがいる。ザ・ミンサー、そしてピート・ビートだ。

ビートのディシプリン〈SIDE2〉 (電撃文庫)

ビートのディシプリン〈SIDE2〉 (電撃文庫)

 

 ザ・ミンサーは『ビートのディシプリンside2』の中で、ピート・ビートの過去を示すために登場するキャラクターだ。彼女は、脳の電気信号を読み書きすることで疑似的な読心術を行う能力者だが、この能力を使う際に、相手側にも彼女の精神から影響が出てしまう。そのせいで、彼女がもつ”あきらめ”が広く伝播してしまい、最終的に〈世界の敵〉としてブギーポップに殺されることになった。

 ザ・ミンサーが"あきらめ"の体現であることは『side2』の全編にわたり、様々な形で示され続けている。最も直接的には、九連内朱巳がザ・ミンサーのそういうところが危ないのだと指摘したが、ほかにも例えば、ピート・ビートとモ・マーダーに出会った瞬間から既に彼女自身が「わたしを見捨てて逃げろ」とか言い出しているし、その後の展開でも、統和機構からもたらされる理不尽にもまるで逆らうことがない*15

 

 ここでは、特に本記事の流れで有用なシーンとして、少し間接的に”あきらめ”が表現されている部分を引用したい。ザ・ミンサーの影響下に入ってしまった女子高生が、彼女から受けた影響の素晴らしさを説いたセリフだ。

「ただ――かけらさまと会って、私たちはかけらが心の中にあることを知ったの。それだけよ。それだけでずっと、世界というものの見え方が変わる――たとえば、もう二度とわたしたちは、かけらを組み合わせてひとつのものにすることはできないのだ、とか」

「そう、この世にまったく希望はない――でも、それがどうした――そんな気持ちになれたのは、かけらさまのおかげよ」

「希望がないとわかったら、すごく身軽になれたわ。今までつまらないことで悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるわ」

 

 この直後に、ブギーポップがザ・ミンサーを殺しに現れて、それどころではなくなるのだが。よく見れば、これはどうも他の上遠野浩平作品でよく聞くフレーズではないだろうか。

 

 例えば、ほかならぬ工藤兵吾が『あなたは虚人と星に舞う 』での再登場時にこう言っている。 

「俺たちは――途中だ」

 兵吾はぼそり、と呟いた。

「きっと、どこにいても同じだ。無限の暗黒しかない恒星間区域の絶対真空の中でも、地べたを這いずり回る普通の、平凡な人生の中でもきっと――どこでも変わらない。みんながみんな、途中で生まれてきて、中途半端に生きて、途中で死んでいくんだ。自分たちが何を目指しているのか、正確に知ることもなく――しかし」

 彼は半分泣きそうな、だがもう半分では決して挫けないような、矛盾を抱え込んだ目をしていた。

「しかし――それがどうした」

 彼の口元には投げやりな、だか力強い笑みが浮いていた。

 

 まったく同じ「それがどうした」という台詞が飛び出している。

 この「それがどうした」は、上遠野浩平がしばしば物語のクライマックスでキャラクターに言わせる、「絶対的絶望の存在を認識しつつなお前に進む」という決意表明である。〈戦士〉の常套句といって良い。その常套句が、ザ・ミンサーに洗脳(?)された女子高生、とかいう意外なキャラクターから出てくる。この事は、ザ・ミンザーは〈戦士〉としての行動を半分までは取れている、ことを意味する。

 本記事はここまでの考察で〈戦士〉のことを、〈運命〉がもたらす絶望を受け止めることのできる存在、と定義してきた。ザ・ミンサーは、自分に訪れるであろう悲劇的な運命を正確に把握しているし、そのことを誤魔化したり忘れたりもしない。絶望の存在を認識し、逃げることなく正面から受け止めることができている。

 問題はそこからだ。ザ・ミンサーは受け止めた〈運命〉に抵抗しない。絶望をしっかり認識していながら、何の手を打つでもなく、ただただ敗北を受け入れる。

 それがザ・ミンサーが体現する”あきらめ”の正体なのだ。

 

 恐らく上遠野浩平は、本論が第2期上遠野浩平と呼んでいる流れを意識した上で、狙ってザ・ミンサーを出している。

 自分自身で提示してきた〈戦士〉という概念に「別に開き直れば万事オーケーじゃねぇぞ?」と釘を刺すためのキャラクターなのだ。

 

 

+「あきらめが悪い」が〈運命〉を知らない ~ ピート・ビート

 

 一方、ピート・ビート「あきらめが悪い」ことを強調されているキャラクターだ。

 この設定は、互いに大事に思っているザ・ミンザーとピート・ビートが人格の本質的に最も乖離している……という点が小説に悲哀や共感をもたらす。が、ここでは小説のエモーショナルな部分からは一旦距離を置こう。

 問題は、ザ・ミンサーと違ってあきらめないピート・ビートは〈戦士〉として十全の資質を持っていると言えるのか? という事である。

 

 ピート・ビートというキャラクターが物語の中で占める役割については、『ディシプリン』の冒頭で、飛鳥井仁と軌川十助が会話の中で提示している。

(飛鳥井仁や軌川十助は、己の〈運命〉を知ってしまっている人間であるから、何もしないでいることはできないだろう、という会話のあとで)

「……でも、試練か。それは自分がなんなのか知らない者にも訪れるのかな?」

「生きていることが試練である以上、それを免れるものはこの世には居ないと思うね」

「でも、僕の反対で、そのやるべきことがあまりにも大きい癖に、自分ではそのことをまったく知らないでいるような人は、そういうときに……どうなるんだろう?

「どうもならないだろうな」

「というと?」

「知っていようといまいと、彼はいずれその試練に直面する――誰のせいでもない。自分の運命というものと戦わざるを得なくなる。そういう存在は、その戦いのなかでやっと己自身を見出すことになるだろう。そう――それは”カーメン”とも呼ばれている」

 

 つまるところ、ピート・ビートは本論が〈運命〉と呼んできた絶望の存在を知らない

 『試練(ディシプリン)』とは、〈運命〉を知らない者が、何も知らないまま直面せざるを得なかった戦いの物語である。ピート・ビートもまた、上遠野浩平が自分が描いてきた概念に釘を刺すためのキャラクターということだ。「目の前に苦難にあらがってりゃオッケーでもねぇぞ?」と言っているのだ。

 

 それ故に、ピート・ビートもまた〈戦士〉ではない。

 彼は、ただあきらめることがないだけで、〈運命〉を受け止めることができていない。それは彼の人格に問題があるのではなく、さまざまな経緯から記憶と資質を剥奪されているせいなのだが、セカイはそんな個人の事情など考慮してくれない。

 ザ・ミンサーは、ピート・ビートのそういう性質に気付いていたのだろう。だから、オキシジェンは「ミンサーがお前(ピート)に何を託したのか気になった」と述べたし、浅倉朝子は「(ミンサーがカーメンを表現した言葉の)"スリー・オブ・パーフェクトペアー*16"とは、要するに世羅くんを励ましているのよ」と言った。ザ・ミンサーは、本質的にあきらめない存在であるピート・ビートが、真の〈戦士〉になればいいと期待していた。そのために自らの命を犠牲にしてビートの命をつないだし、実際ビートは後に己のカーメンにたどり着くことができた。

 『ディシプリン』はピート・ビートが、カーメン=〈運命〉を見つけることで、真の〈戦士〉になるまでの物語だ*17

 

 

ブギーポップによる第2期上遠野浩平の総括

 

 以上、上遠野文学における〈戦士〉が運命と対決する存在であることを示した後、対決に必要な資質として、負けず嫌いであること・利己性に薄いこと・あきらめないこと、の3条件を示した。

 

 上遠野浩平は、第2期と本論が呼ぶ期間を通し、実にこれだけのことを繰り返し描き続けている。なぜそうしなければならなかったかというと、〈決定論的な運命〉を発見した作者の文学的関心が「この絶望的なセカイを、どうやって我々は生きていくのか」という点に絞られたためだ。この文学的関心は、作者の精神から内発的に現れたように思われるが、一方で、発見されるまでもなく上遠野浩平の――というより、セカイ系文学に全般にもとから含まれていたものが顕在化しただけにも思える。結局のところ、セカイとの断絶という絶望と真摯に向き合い続けるなら、文学は我々の生き方を描いていく以外にないのだ*18

 

 ちょっと前の話になってしまうが、本論第4回では、ブギーポップが「戦わなければ生き残れない」みたいな事を述べているのを指摘したあと、でも全ての人間に戦う事ができるわけないですよね? という問題が残っている、と言っておいた。

 本記事のまとめとして、それについて、ブギーポップ先生から、厳しいお言葉を頂戴しておく。『彼方に竜が居るならば』の末尾で仰られた言葉である。

「君はどうやら、この世界が底なしだということを感覚としてわかっているみたいだが――それだけでは意味がないんだよ。そこから未来に一歩目を踏み出さないと。自動的な僕とは違って、君たちには意思があるのだから」

「そう、みんなそうやって世界と世界の狭間で空回りしている。取り憑かれた想念を振り切って前を向いただけで、そこで力尽きてしまった者もいる。張り付いた仮面を敢えて被り続けようとする者もいるし、賭けに出て、たとえ欲しいものを得られなくてもそのツケをきちんと払おうとする者もいる。みんなそれぞれ、底なしの世界の中で足掻いているんだ。君も同じだ。空から飛び降りるのをやめて、そして――これからどこへいく?」

「いや、別にすぐに答えなくていいし、僕に言う必要もない。それは君たちの心の問題なのだから」

 

 この言葉は、まさに第2期上遠野浩平全体を総括したものだ。『彼方に竜がいるならば』は2000年から2013年までの長きにわたって執筆された短編を、一冊にまとめた短編集である。いわば本自体が、第2期上遠野浩平の総括であるとも言える。

 ブギー先生は、誰もが常に戦いの最中にあると言っている。自分は戦士になれないし戦えないから戦ってない……とか思っていたらそれは間違いである。我々には、どのみち戦う以外の道は残されてない。戦いを終えてにどこへいくのかも含めて、自分で決めるしかない。

 我々は、〈戦士〉だから戦うことができるのではない。

 生きるために戦い続ける必要があり、戦い続けるために〈戦士〉であるべきなのだ。

 上遠野浩平が、〈運命〉と〈戦士〉を書き続けることで繰り返し示していたのは、実のところ「生きるために何をすればいいか」という、非常にプリミティブな問いへの答えなのだった。そして、もちろん人間の生き方は一様ではないから、答えも一様ではなく、何作も小説を発表するなかで様々な答えを示し続けていく。

 もしかしたらそれは、上遠野浩平が小説を書き続ける理由ですらあるのかもしれない。

 

 

 次回は、本論の終着点となるであろう、第2期上遠野浩平を終わらせた作品『ヴァルプルギスの後悔』についての考察をする――べきなのだが、せっかくなので、その前に寄り道をしたい。いわば、ラストダンジョンに突入する前に攻略しておくべき、サブストーリーのやりこみダンジョンがある。上遠野信者の一人として、ここまでやっておいてあの概念について話さないなんて勿体ないことはできない。

 というわけで次回はあの概念――キャビネッセンスの謎に迫る。

 

 

 

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*1:以下、山カッコで〈運命〉と述べた場合、〈決定論的な運命〉の省略形を示すものとする。もう少し広い意味で言う場合は、カッコなしあるいは鍵カッコを用いる。

*2:以下の本記事で内容を論じるが、山カッコつきで〈戦士〉と述べた場合は辞書的な定義とは違う意味を示すものとする。

*3:工藤兵吾は「人類史上最強の戦士」であるとされている。虚空牙が長い時間人類を観察した中で、最も強い戦士が彼だったのだという。この観察にはフォルティッシモやリセットリミット姉妹や霧間凪ブギーポップも入っていたと思われ、つまり工藤兵吾は上遠野サーガ最強の戦士でもある……らしい。

*4:全然関係ないけど、徳間デュアルの作品群ほんと好きだったんですよ。版形が謎にデカくて本棚に入りにくいところも含めて中二心をくすぐる。

*5:エンブリオ2部作の「サムライ」は似ているが違う概念である。エンブリオ以来出てこないので確定し難いが、サムライは問答無用で理想を実現する存在であるが、戦士はありのままの現実を生き抜く……みたいなイメージだと思われる。

*6:ナイトウォッチ3作目の『あなたは虚人と星に舞う 』に再登場した工藤兵吾が、キッパリと断言している

*7:本論では触れる幅がなかったが、「NOVEL21 少年の時間―text.BLUE 」の一遍に掲載されているマイロー・スタースクレイパーの物語は、甘ったれた少年が、一瞬にして真の〈戦士〉になる物語である。〈戦士〉になれるかどうかは本人の心持ち次第という事が示されているのだろう。

*8:ナイトウォッチ世界の端末であるヨンの証言による

*9:何かの手違いでシールドサイブレータ世界に再製されるべきでないのに再製されてしまった。手違いに気づいたシステムによって消去されたが、連作集『月に聴く』の全話に渡って影響が残っている。

*10:こういうキャラクターが霧間凪のライバル格として登場したのは、霧間凪もやはり意地を張るキャラクターだからだ。霧間凪については今後『ヴァルプルギスの後悔』と共に検討することになるだろう。

*11:反対の例で面白いのは、能力的には最強であることが名言されているフォルティッシモが「あの脳天気な」とかしょっちゅう言われていることである。フォルティッシモは感情面で幼く、故に〈戦士〉ではないのだ。彼はそのせいで、エンブリオの声がいつまでも聞こえていたり、久しぶりに対決したイナズマには良いようにあしらわれれてしまったりする。フォルティッシモは、自身のカーメンの旅を終えた時はじめて〈戦士〉になるのだろう。

*12:関連して、『ビートのディシプリン』の中で飛鳥井仁と対話する九連内朱巳が「君のことはすごいと思うが、羨ましいとはやはり思えないな」とか評されてしまう一幕もある。

*13:『VSイマジネーター』などに登場したときは、こんな性質はまだ持っていなかったはずだ。

*14:ここで本論は水乃星透子を「あのお方」と呼ぶ者たちのことを念頭に話している。しかし、ラウンダバウト・カレイドスコープ・モータルジムなど、他者に忠誠をささげたことで利己性を捨てて〈戦士〉に至った者もおり、どうにも理解を精緻化できない部分だ。上遠野浩平は自分以外の強者に己の人生を仮託する者たちのことをどう考えているのだろうか?

*15:ザ・ミンサーについて、オキシジェンとカレイドスコープは「理由だけがあってしかし克服できなかった」「あれは失敗で残念だった」と述べている。それはつまり、オキシジェンとしてはザ・ミンサーにあきらめを克服させたかったのだろう。その為に統和機構は、ザ・ミンサーに運命と戦う理由、即ち「家族」を与えた。「家族」は確かに理由として機能したが、しかしザ・ミンザーはあきらめの完全克服に至らず、彼女は中枢候補として失格と判断された。明言されていない上に描写が散らばっていて判りにくいが、『side2』で起きていたのはそういう事態だった。

*16:過去と現在と未来のこと。過去と現在のことがわかっていれば、未来のことも決定論的に求めることができる。つまり自分の〈運命〉を知ることができる。

*17:しかも『SIDE4』では、ピート・ビートが実はフォルティッシや浅倉朝子に巻き込まれただけの存在、いわばモブキャラであることが強調される。これは、どんな些末な人間にも試練は待つということ話でもある。

*18:前の論でも少し触れたが、宇野恒弘が『ゼロ年代の想像力 』で提示した、日本全体におけるセカイ系文学以降の展開と合致するとろがあるようにも思える。