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「上遠野浩平論」⑦~決定論的な運命(『パンドラ』『ジンクスショップ』『酸素は鏡に映らない』)

 上遠野浩平論の第7回です。

 いま本論は、連載の第5回以降を第二章と位置づけ、上遠野浩平の文学が追及してい美意識・問題意識について検討している。その初めとなる第5回第6回では、「可能性」が上遠野文学の中核であるとの認識の元、〈世界の敵〉というタームや、種々のキャラクターの文学的な意味での存在意義について考察を重ねた。 

 この第7回からは、上遠野浩平の問題意識について、新しい検討に入っていく。 

 

 上遠野浩平は、ゼロ年代に入ったあたりで一度、作品で扱う主要なテーマを変更している

 このゼロ年代以降のことを第2期上遠野浩平*1と呼ぶことにする。本記事では、第1期と第2期の分割がなぜ可能かを示すため、ゼロ年代に起きた作品テーマ変更について語るつもりだ。

 最初に結論を提示しておくが、第2期における上遠野浩平のテーマ変更とは、作品世界の核心が「可能性」から「運命」に切り替わった、というものだ。

 このテーマの変化は、各作品だけを個別に呼んでいてはなかなか分かりにくいところがあったために、リアルタイムで作品を追っていた最中には「最近のブギーポップは微妙なことが増えた」みたいに見られていた*2。しかし、デビュー20周年の今ならば材料も出そろい十分に明快なな検討が可能なはずだ。

 

 記事の流れとしては、まず第1期上遠野浩平で「運命」という概念がどういう扱われ方をしていたかを確認する。次に、その「運命」がどうして2期以降作品の中心的テーマになったのかを明らかにする。最後に、第2期上遠野浩平の中核となった「運命」がどのような概念なのかを詳細に検討していく。

 

 なお、いつも以上に記事がクソ長いです。分割しようかとも思ったが、ここはブログタイトルの精神でいかせていただきます。

 

 

+第1期上遠野浩平における「運命」~『パンドラ』

 

 さて、冒頭に述べたようなことを検討するにあたり、まず最初は、第1期上遠野浩平において「運命」という概念がどのように扱われているかを確認しておきたい。

  上遠野浩平の作品の中で、最初に「運命」にフューチャーした作品は『パンドラ』だ。

 

 『パンドラ』は、ブギーポップシリーズの3作目で、予知能力者たちを主人公にした青春群像劇の傑作だ。王道かつ他作品とのリンクや思想的な困難さが抑えられているため、上遠野浩平を読みだした読者が最初にハマる作品になりやすい。その一方で、王道故にセカイ系としては特筆するところのない作品であること*3や、作品感リンクや思想的側面の薄さが印象の薄さにも繋がってしまうことがあるのだろうか。人気の割にはあまり話題には挙がらない。個人的にも、最初大好きだったのが、ファン歴を経るほどに不思議と読み返す機会の減っていた作品である*4

 

 そんな『パンドラ』だが、特に「運命」が俎上にあがるのは次のシーンである。

 事件が全てが終わった後の、天色優=ユージンによる総括を引用しよう。

 

 だがそれにしても、回ってきた責任は重すぎた。世界の危機、そんなものにまで直面しなければならなかったというのは、少し行き過ぎだ。

(……それとも、逆だったのか? まわっていたのではなく――)

(――最初から、そうなるようになっていたのか)

 ぼくらはこの世界の危機に対応するために集められて、そしてその使命を果たした……そういうことだったのか? 運命、あるいは世界そのものが持っているバランス――そういうものがぼくらを操って、そして、こうして――

(――そのときが来たので、スイッチが入れられた、とでも……)

*一部執筆者の判断で省略アリ

 

 ユージンは、「運命」のことを「世界のバランス」ではないかと言っている。 

 

 ここで「運命」という呼び名で存在を示唆されているのは、「自動的であるブギーポップを動かしている何か」だろう。タイムトラベルもののSFでたまに出てくる、歴史の修正力のようなものが実在して、それが世界の危機への対応策を決定しているのだ……というアイデアが、初期の上遠野浩平にはあったと思われる。

 

 

+第1期上遠野浩平にみる〈神秘主義的な運命〉

 

 実は、同じアイデアが『パンドラ』の次に出版した『歪曲王』でも語られている。

 ムーンテンプルに残されていた、寺月恭一郎のビデオ映像を確認する。

 

 君は、世界になんというか、"流れ"のようなものがある、とか思ったことはないかな? 運命とか趨勢とかいうような言葉で表されているものだよ。(中略)いろいろなことがわかってきている。なにしろ"進化"という発想が生まれてからだいぶ経っているものでね。

 そう……あれは確率では説明がつかないんだ。どう考えても、ある程度何らかの指向性というか、流れがあるとしか考えられない節がある。キリンの首はいきなり長くなったとしか思えず、鯨はみるみるうちに馬鹿でかくなったとしか証明できない。たまたま適応する突然変異が、徐々に広まっていったにしては、その変化はほとんどの場合急すぎるんだよ。

 そして当然こういうことを考えた者がいる。”その流れは、今でも流れ続けているのだろうか? だとしたらその先――とまでは行かなくても、方向を知ることはできないか?"とね。

 それは神の領分だろうって? 神の領域に手を出そうとしなかった権力者など人類の歴史には一人もいないよ。

*表示部以外にも執筆者の判断で省略アリ

 

 寺月恭一郎は、「運命」のことを「流れ」と呼んでいるのが分かる

 言っていること自体はユージンの「世界のバランス」と同じだ。世界には独自の方向性があり、我々はそれに動かされている。進化のプロセスにも――つまりMPLSの出現にも――それは影響している。そして、ブギーポップや歪曲王 が自動的なのは、それに動かされているからであり、統和機構という人たちはそれを利用している不思議な謎の組織である。

 

 ユージンと寺月恭一郎の証言で、特に注意して欲しいのは、彼らは基本的に誰かに操作されている感覚について語っているという点だ。何か神様のようなものが矮小な我々の運命を操作している、という発想が、初期の上遠野浩平にはあった。

 第1期上遠野浩平にみられるこの運命観を神秘主義的な運命〉と呼ぶことにしよう。

 

 天性のセカイ系作家である上遠野浩平に、このような運命観が見られるのは、セカイとの断絶*5の向こうには我々の知らないもっと大きな意思があるはずだ、という考え方の表れだと思われる。

 セカイ系作品には割とよくある傾向なのだ。アカシックレコードだとか、ガイア仮説だとか、あるいはシンプルに"神"だとか、そういう単語と組み合わさって登場しがちなアレコレ。批評界隈では、そこには「我々の運命は瑣末ではなく、何か大きな物語があってほしい」という思春期的な欲望があったとされるが。初期の上遠野浩平もこの点では、セカイ系作家としての傾向から大きく外れてはいなかったということだ。

 

 

+〈神秘的主義な運命〉の問題点

 

 しかしこの神秘主義的な運命〉には、創作上の問題点がいくつかあった

 そして恐らく、上遠野浩平自身もそのことに気付いていた。

 問題点を3つに分けて順に確認しよう。

 

  第一に、このアイデアは、既にちょっと古いところがあった

 オカルト神秘主義が最も面白かったとされるのは、だいたい70年代から80年代とされている。それがフィクションに反映されるのは『ぼくの地球を守って』とか『アウターゾーン』とかで、だいたい80年代後半~90年代前半までが世代だ。

 つまり、ライトノベル作家としてデビューした上遠野浩平が当初メイン読者層としていた90年代後半の中高生には、あまり〈神秘主義的な運命〉は刺さらなかった*6

 しかもエンターテイメントとしてのオカルトは、その後もますます古びていった。本論が考えるところの第1期上遠野浩平の期間――デビューの96年から00年代に入るまで――は、オカルトがなんとか一定のリアリティを保っていた最後の時代だ。昔は学者による真面目な考察だったUFOや超能力の話題は、既にTV『特命リサーチ200X』や漫画『MMR』のように荒唐無稽な語り口しかとれなくなっていたし、最終的にノストラダムスの大予言が外れたのが止めとなって、オカルトはフィクションの題材として必要なリアリティをほとんど喪失した。セカイ系ブームの中においても、例えばエヴァには死海文書のようなオカルト成分が多分に含まれていたにも関わらず*7、2000年以降のセカイ系作品ではオカルト要素が希薄になっているのが確認できる。

 それ故、ゼロ年代以降の上遠野浩平は「運命」という自身の作品世界にとって重要なタームを、世界のバランス、みたいなオカルト神秘主義めいた古い語りから脱出させねばならなかったのである。

 

 第二に、思想としてシンプルに間違っている

 フィクションなのだから正誤は関係ないと言えばないのだが、リアリティがないのは問題だろう。

 そもそも、「世界のバランス」のような発想が当時のフィクションから出てきたのは、上で少し述べたように、地球を生き物と見做すガイア仮説の誤読がオカルト界隈で広まった影響が大きい(関係ない話が長くなるのは流石にアレなので詳しくは脚注*8)。なので、実は「世界や自然自身がなんらかの意図をもって全体を操作している」という設定がリアリティを持つのは、科学への無理解が前提というところがある。

 また、より明確な間違いとしては、上記の引用で寺月恭一郎が述べた「進化の流れ」みたいな話、これは今、進化論をちょっと勉強したら最初に矯正される考え方である。キリンの首が急に伸びた理由は、単純な淘汰と生存の理屈として説明可能なのであり、「何かの意思があるとしか思えない」とかいう考えは必要ない*9。こうした進化に関する知識は、ちょうど第1期上遠野浩平と同時期*10に一般へ広まりだしたので、この頃の上遠野浩平に進化に関する知識がないのは仕方ないのだが。

 それにしても、寺月恭一郎がデタラメを言っていたと判って僕がうけた衝撃に*11、共感を持ってくれる人はいるのでないだろうか。これらの件に関しては、上遠野浩平もどこかの時点で「大人は嘘をつくのではないのです……間違いをするだけなのです……」となったと思う。少なくとも、今の作品でもう一度、進化の流れ、という表現を使うことはできないはずだ。

 

 

 +〈神秘主義的な運命〉を否定していた上遠野浩平

 

 そして、次に述べる問題点が恐らく最も大きい。

 第三に、上遠野浩平自身が〈神秘主義的な運命〉の存在を信じていなかった

 『パンドラ』から、ウィスパリング・神元くんと、その理解者であるオートマティック・辻希美さんの会話を引用する。

 

「……だがどうやらこの子に僕らが関わるのは運命だったようだ」

「運命、ね……」希美はため息をついた。「らしくないわね。そういう考え方は大っ嫌いじゃなかったの。親と一緒にするなって」

「……それは」

 

 この二人は、ユージンと同じように「運命」あるいは「世界のバランス」の存在を感じながらその実在に半信半疑、というより、かなり否定的である。

 そもそも神元くんは、新興宗教を否定して勘当された息子、という設定のキャラクターである。そして「世界のバランス」がどうこういう話は、オウム真理教その他が掲げたオカルト世界観そのものだ。上遠野浩平は『VSイマジネーター』でも新興宗教的なものを敵に設定していたし、神元くんには最初から「運命」を否定するためのキャラクターという側面があった*12

 そんなキャラクターがなぜ、最初に「運命」に言及した『パンドラ』という作品で重要な地位を占めているのか。

 考えてみれば、記事の最初に引用したユージンの言葉だって、「運命なんて存在してほしくない、信じたくない」という意味を言外に含んでいる。

 

 上遠野浩平は最初の時点から〈神秘主義的な運命〉に否定的だったのである。

 

 実は、先程は敢えて言及しなかった論点もある。先のユージンと寺月恭一郎の独白の中で、上遠野浩平は「運命」を表現するために、"バランス"、"流れ"、"方向性"といった単語を選んでいるが、この表現には、意思とか意図とかいった単語を避ける意味合いがあったはずだ*13。つまり、宇宙人とか神みたいな精神を持った存在が全てを決めているのではない。SF作品の運命論にありがちな、神の支配を認識し、神と直接の対決を目指す路線は、明確に避けられていた*14上遠野浩平は、自分自身の物語世界に運命を操る神などといった、明確な敵、あるいは救いの存在を、決して許したことはないのである。

 しかし一方で、ユージンは、"集められて"、"操って"、"スイッチを入れた"と言い、寺月恭一郎に至っては明確に"神の領分"という表現を使ってしまっている。単語の選び方から離れてユージンや寺月恭一郎のセリフ全体の印象を見ても、やはり「何者かが明確な意思とか意図をもって運命の名のもと我々を操作している」という印象を受けざるを得ない。

 恐らく、上遠野浩平のなかでまだ「運命」という概念に対するスタンスが固まりきっていなかったのだ。

 上遠野浩平は、なんだかんだいってオカルト全盛時代の青春を過ごした人である。それ故、当初は古いオカルト世界観に基づいて「運命」を理解したのだろう。だが、自分でもその理解に納得しておらず、否定する方法を探していた、のではないろうか*15。 

 これは憶測であり、実際のところは定かではないけれども。

 

 ただ、実際に作品から読みとれるものは憶測ではない。

 神秘主義的な側面の強かった「運命」というタームは『パンドラ』以降姿を消した——というより、作品世界の深いところに浸水してしまったように思える。そうして、表向きは物語の中心的テーマとはならなくなった*16一方、時折思い出したように浮上して顔を見せては、思わせぶりな雰囲気をかもしだしたりしていた*17。そうしたシーンには、以下で本論が指摘していく内容がよく現れており、全体としては重要な意味を持っている。が、たいていはそれ以降に出版された別作品も読まないと何を言っているのかよく分からない、結果として思わせぶり(あるいは上遠野節)としか言いようのないシーンになっている。

 

 

+「運命」が「可能性」を上書きする~『ジンクスショップにようこそ』

 

 物語世界の深い場所に潜っていた「運命」というタームが、再び物語の中心に躍り出た作品は、『ジンクスショップにようこそ』である。

 「運命」の体現者、オキシジェンの登場だ。

 『ジンクスショップにようこそ』は、統和機構アクシズたるオキシジェンが、自分の後継者を探すために、4人のMPLSたちを争わせる話だ。『パンドラ』とは真逆で、他作品とのリンクが強すぎるせいで、単体作品として分かり難く、初読者の人気はあまりない*18。しかしシリーズ全体としては最重要作品の一つだと、誰もが薄々わかっている作品だと言える  

 そう、誰もが薄々察していた通り、この作品では、上遠野浩平の文学世界にとって、真に決定的なことが起こっている。しかも本論は、作品の中のある一つのシーンだけを、まさに決定的なことが起きた瞬間と考えている

 

 さっそく確認してみよう。ジンクスショップが詐欺扱いされたことで警察署に一旦捕まったオキシジェンが、カレイドスコープに助けられて、能力に捉えらえて身動きがとれない警察官たちの中を普通に歩いて外に出たシーンだ。

 大勢の者たちの中を、まるで無人の荒野を行くかの如く堂々たる態度で、オキシジェンたちは警察署の外に出ていった。

「さて――ジンクスショップに関わった運命どもは、どこまで残っているものかな……?」

 オキシジェンは夕暮れの空に向かってひとり呟いた。

 

 地味なシーンだが、お分かりだろうか。

 オキシジェンが、MPLSのことを「運命」と呼んでいることに注目してほしい。

 

 これは本当に決定的だ。

 これまでの連載でも確認してきた通り、ブギーポップシリーズにおいて、MPLSとはその人間が持つ「可能性」の体現である。言うなれば、MPLSイコール可能性である。つまりオキシジェンは「可能性」のことを「運命」と呼んだのだ。

  この瞬間、ブギーポップというシリーズの中心的テーマは、「可能性」から「運命」に上書きされた

 

 

+輝かしき未知の消失と、悲観主義の勝利

 

 もっと詳しく分析していこう。

 オキシジェンがMPLSを「運命」と呼ぶのはは、オキシジェンにはMPLSの可能性など先の決まり切ったものにしか見えていないからである。 彼の能力は物事の決まった行き先を察知するものであるから当然だろう。しかしこの事を、単にオキシジェンにセカイがそう見えているだけだ、と考える訳にはいかない。

 オキシジェンにそう見えているからには、事実として、可能性の未来は決まりきったものだからだ。オキシジェンの見ているセカイは独我論的解釈*19を許す類のものではないはずだ。本論の第6回連載で可能性操作能力について触れたとき、"可能性"は"確定"になってしまうと最早可能性ではいられなくなる、という指摘をしておいたが、オキシジェンは、この世の全ての"可能性"にそれを起こしている。

 

 しかも"未来が決まりきっている"という事実は、考えてみれば、上遠野浩平がこれまでに提示していた世界そのものでもある。本論第5回では、霧間誠一が「可能性は必ず失敗するのだ」と散々述べていると確認したが、必ずというのは100%ということであって、それは可能性の行先は最初から決定しているという意味ではなかったか

 確かに、第5回連載でこれを指摘したときには——つまり第1期上遠野浩平の範疇による語りでは——"未来など決まりきっている"という絶望的リアリズムへの反証として霧間誠一が「ほとんど全ての可能性が必ず失敗するとしても、ほんのわずかな可能性が未来に到達するかもしれない。それは誰にもわからない」と述べているシーンを『夜明けのブギーポップ』から引用しておいた。

 これはしかし、根本的に我々が未来について無知である、という前提があって初めて成り立つ話だ。例えるなら、「火星人が実在する可能性は火星に未探査区域が残っている限りゼロではない」というような。それは欺瞞であろう。普通に考えて、火星人は居ない。

 

 つまるところ、MPLSを「可能性」扱いすることもまた、欺瞞だったのだ。

 

 我々は、誰もがセカイと断絶しているが故に、真の意味で未来全体を知ることはできない。我々の未来への不安は永劫に払拭されない。これは絶望であって、絶望感こそがかつてセカイ系文学を成立させたはずである。だが、セカイとの断絶は、即ち、セカイに残る未知でもあっただから我々は未知を良いことに、断絶の向こうに何か素晴らしいものがあるかもしれないと、無意識に期待することができた

 強弁を承知で断言してしまえば、セカイ系文学を成立させたのは断絶への絶望感であったが、セカイ系文学のブームとヒットを支えたのは未知への期待のほうだった。

 

 しかし上遠野浩平は、セカイとの断絶を超えることのできる能力者にして、"断絶の向こう"の象徴たる統和機構の中心、オキシジェンを登場させたのだオキシジェンの登場によって、セカイとの断絶の向こう側が明確に描写されることとなった。それと同時に、上遠野浩平の文学世界から、未来への可能性、万に一つの成功、輝かしい未知は、完全に姿を消した。セカイとの断絶の向こうにあるのも、また絶望であることが暴露されてしまったのだ*20

 

 象徴的なシーンとして、『ジンクスショップにようこそ』から、夢を追っていたお嬢様が決定的に挫折するシーンを引用しておこう。

(う、うう……)

 それ以上、足が前に出なかった。

 恐怖があった。警察が怖いとか、野次馬たちが怖いとか、そういうのではなかった――彼女はそのとき、何もかもが急に、恐ろしくて仕方なくなってしまったのだ。理由も根拠も彼女にはわからない。だが、見えない鎖が彼女を縛り上げてしまったかのように、不二子はその場から一歩も動けなくなってしまったのだった。

 ”運命が切れた”

 さっきのオキシジェンの、冷ややかな言葉が脳裏に甦っていた。

 逆境なら抗うこともできるだろう。不運なら努力しだいでどうにかなるかも知れない。しかし――切れてしまった運命にはどうすればいいというのだろうか?

 

 こうして上遠野浩平が持っていた希望と絶望の相克は、ついに絶望の勝利で決着した。 

 その絶望の名を、「運命」と呼ぶ。

 

 

+〈決定論的な運命〉という認識

 

 ところで、こうして『ジンクスショップ』において再び存在感を露わにした「運命」というタームは、ユージンや寺月恭一郎がその存在を忌避した〈神秘主義的な運命〉とは、ずいぶん趣を異にしている。

 新しい運命観が姿を現しているのだ。

 それが具体的に判るシーンとして、『ジンクスショップ』から、オキシジェンに導かれたMPLSの一人、スイッチスタンス=小宮山愛が無謀にもオキシジェンを支配しようと試みた時のシーンを引用する。

 

「僕から意思を奪うだと? ……いくらでも持っていくがいい。ただし……そこに運命の本質を見て、己というものを全く鍛えていないおまえの意思が、どこまで保つかは保証しないがな……」

 彼の冷ややかな声など、小宮山の耳には届いていないようだった。彼女は、彼女の内部にあの靄と共に入り込んできた”認識”によって今や押し潰されそうになっていた。

「……そんな、そんなことって……それじゃあ、それじゃあこの世には……何の理由も存在しないって……世界は、世界はただの……ぐ、偶然が……」

 

 スイッチスタンスが自分を見たものを偶然と呼んでいることに注目してほしい。 

 これは明らかに、ユージンの「世界のバランス」や寺月恭一郎の「流れ」とは異なった認識である。〈神秘主義的な運命〉の根本には、"何らかの秩序があり、それが我々を操作している"という発想があった。だが、オキシジェンの操る「運命」は、秩序ではなく、偶然性を認識した先に現れるものだ。なんの意図も意義もない偶然が、我々の人生と運命を支配しているという理不尽。ジンクスショップで販売されていたような、「黄色信号を無視するかどうか」「金色のヘアピンを刺しているかどうか」とかいう極めてどうでもいいイベントが、我々の人生の成否を決定しているという理不尽さ。スイッチスタンスが耐えられなかったのは、恐らくこの理不尽さに対する認識であった。

 

 この認識のことを、本論では決定論的な運命〉と呼ぶことにする。

 そして、なぜそう呼ぶことにするのかを説明する前に、まず〈決定論的な運命〉が持つ2つの明確な特徴を提示しておこう。

 

  1. その人間の「運命」は、過去から未来に至るまでの、ある時点で決定する
  2. 普通の人間は「運命」の分岐点がどこなのか、知ることはできない*21

 

+〈決定論的な運命〉の特徴~『酸素は鏡に映らない』

 

 少し唐突気味に〈決定論的な運命〉という用語を提示してしまった。ここからは、用語の具体的内容が読み取れるシーンを詳しく見てみよう。せっかく*22オキシジェンの話をしているので、ここでは『酸素は鏡に映らない』を用いたい。 

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

 

 『酸素は鏡に映らない』は、電撃文庫によるブギーポップシリーズではなく、講談社が「少年少女向けミステリーを著名な作家陣に依頼して出す」という趣旨で03~16年の間刊行していたミステリーランドというレーベルから出た作品だ。そのため本作品は、少年向けということを意識して、主人公が小学生男子、サブ主人公が平成ライダー俳優、子供が好きそうな宝探しが本筋……みたいなジュブナイル設定がふんだんに盛り込まれている。がしかし、こればっかりは上遠野浩平の悪癖ではないだろうか。恐らく筆が暴走した結果、完成した作品はどう見ても「統和機構アクシズのオキシジェンが死ぬ話」である。子供向けとしては難解かつ暗すぎる上、既存シリーズを知らない大人のミステリファンからすら、なんか裏に設定があるっぽかったのに全く説明不足で終わった、とか感想を書かれている*23(困ったものだ)。

 とはいえ、そういう作品であるからこそ、『酸素は鏡に映らない』は、オキシジェンと彼が体現する「運命」の特徴を検討するのに最適といえよう。

 

 この作品のプロローグを引用する。オキシジェンの登場シーンなので、必然的に「運命」の存在を暗示する内容になっている。

 シーンは、健輔という少年が、珍しいクワガタを追いかけて公園に入ってきたところからはじまる。公園にはオキシジェンがブランコに座っていて、ちょうどオキシジェンの膝の上にクワガタが止まる。そしてオキシジェンが唐突に口を開く。

 その影の薄い男は、健輔のことをいやにまっすぐな瞳で見つめている。やがて彼はその個性のない形の唇をひらいた。

「……ふたつにひとつ、だ」

「え?」

「欲しいものを諦めるか、それとも死ぬか……どっちがいい……?」

「え、えと……」

 戸惑った健輔は、その場で少し立ちすくんでしまった――そして、それが彼の命を助けることになった。次の瞬間、公園に面した道路のほうからいきなり、一台のオートバイが茂みを突き破って飛び出してきたからだ。ぶおん――という風を切る音が、健輔の目の前を通り過ぎていって、それはもし彼がクワガタを取ろうとして足を進めていたら、確実にぶつかっていた場所――そのものだった。

 健輔が呆然としていると、後ろからあのぼそぼそ声が聞こえてきた。

「――生命の方を、選択したわけだな……。」

 はっとなって振り向くと、男の膝からこの騒ぎに驚いたクワガタが、ぶうん、と空に向かって飛んでいってしまった。

*一部引用者による中略アリ

 

 上で述べておいた、2つのテーゼがかなり直截に表現されているのがお分かりだろうか。

  

 まず、主人公の健輔少年の「運命」は、最初の時点で決定していなかった

 健輔少年の運命の行く末が決定したのは、彼がクワガタを追いかけるかどうかを決めた時である。つまり「運命」は一本道ではなく、それぞれの人生にはちゃんと選択肢がある。これが先に示した1つめのテーゼで本論が言わんとしてたことだ。『パンドラ』でユージンが危惧していたような、最初から決まっていたからそうなるしかない、みたいな話ではないのだ。この点が〈神秘主義的な運命〉と明確に異なる。

 

 しかし、健輔少年は「運命」が決定した瞬間を認識できなかった。

 というか、誰が自分の命とクワガタが天秤にかかっているなんて思うだろう? 予知能力者でもなければ、そこに運命の選択があることなど予想できるはずもない。そして、予想できないのだから、運命の選択は常に軽率にならざるを得ない。これこそ本論が提示した2つめのテーゼである。少年は極めて軽率かつ、無自覚に、自分が死ぬか生きるかという真に重要な選択をした。もしもオキシジェンに声をかけられなければ、そこに"クワガタか死か"という運命の分岐点があることすら認識しなかった。

 これによって、新しい運命観は結果的に〈神秘主義的な運命〉と同じ効果をもたらす。自分自身で運命を決定できないことと、前もって運命が決定されていることで、当の本人にとって何の違いがあろうか。

 上遠野浩平は、おそらく意図的に、キャラクターたちの重要な分岐点を、物語の極めてどうでもいい時点に配置する*24。キャラクターの「運命」は、一見なにも関係のないような軽率な決断によって――よくあるパターンとしては、自分の能力ならどうせ勝てる敵だからついでに潰しておこう、とかいう決断によって――左右される。そしてそのキャラクターは、自身がその時重要な決断を下していたことに手遅れになってから気付き、たいていはそのまま死ぬ。

 

 

+〈決定論的な運命〉は常に手遅れ

 

 更に重要なのは、健輔少年の運命の分岐点は「バイクが飛んでくる」という危機を認識した瞬間ではなかったということである。危機を認識した瞬間、あるいは敵との戦っている最中、それらは「運命」の視点から言えば既に手遅れなのだ。

 

 本論が、決定論的な運命〉という用語を提案するのはそれを表すためだ。

 例えば、ボールを遠投する時のことを考える。ボールはどこに落ちるか? それはボールを投げた瞬間の力、風の強さ、ボールの重さや大きさ、地球の重力といった要素によって決定する。つまり、ボールの向かう先はボールが落下する前に既に決定しており、このことを、"ボールの落下地点は決定論的である"とか、"落下地点を決定論的に求めることが出来る"とか言う。

 つまり、「運命」の結果も、ボールの落下地点同様、実際にそれが起きる瞬間よりもずっと前に決定している、という話だ。それは単純な因果関係の作用によるものであり、〈神秘主義的な運命〉が想定していたような、秩序だった方向性や何者かの意図した操作ではない*25。むしろ、この「運命」には基本的に誰も介入できない。この世の全ての人間は、何が”ボールを投げる”行為に相当するのかすら、知ることができないからだ。

 一言で言えば、決定論的な運命〉のもとでは、あらゆる対処は常に手遅れになる

 わたしたちが○○を上手く操作して成功させたい、と考えたり、あるいは、××が起こりそうだ念のため逃げておこう、と考えたりすることはほとんどの場合無駄である。個人が意思決定を行う頃には、大抵の「運命」は既に決定しており、我々が何を悩もうと結末を左右することはできない。

 

 この認識は、よく小説の場面転換に利用されている。

 例えば以下は、『ビートのディシプリンside1』における、ピートビートが学校の教室で欠伸をして、それを見て浅倉朝子がニコニコするという、極めて平和なシーンの直後の描写である。

 一見すると、やや風変わりな乱入者はいても、いつもと大して変わらない学校の風景ではあった。

 ――だが既に、”モーニング・グローリー”を巡る、この錯綜する事態は大きく動き始めており、取り返しの付かぬ運命のうねりが学園を覆いはじめていることを、この学校に居る者はまだ、誰一人知らない。

 

  もう一つ、場面転換の例を示しておく。『ヴァルプルギスの後悔 Fire1.』で、霧間凪と羽原健太郎が、浅倉朝子の知り合いだという理由でラウンダバウトを助けた直後のシーン。

  凪には――この傷ついているとはいえ、怪しいことこの上ない男装の少女を”助けない”という発想がそもそも浮かばないようだった。それが霧間凪という人間である。だがその性格故に、今――彼女は後戻りのできない決定的な一歩を踏み出してしまっていたことを、健太郎も凪自身も知るよしはなかった。

 

 いずれも、はっきり言って陳腐な場面転換の描写である。

 なにしろ「主人公たちはこのストーリーの先に待ち受ける運命を知るよしもなかったのである……」だ。陳腐でないわけがない。しかしある時期以降の上遠野浩平は、この陳腐な場面転換をむしろ多用する。

 キャラクターの将来に事件が起こることは既に決定しており、しかも彼らは自分たちの運命を知らない、ということが、上遠野浩平の物語世界にとって極めて重要だからだ。上遠野浩平のキャラクターたちは、だいたいいつも、既に手遅れになった事態の中で右往左往している。

 

 

+〈決定論的な運命〉と、第2期上遠野浩平の始まり

 

 以上、初期の上遠野浩平においてみられた〈神秘的な運命〉がある時点で後退し、オキシジェンの登場とともに、〈決定論的な運命〉が上遠野浩平の作品世界に現れたことを論じた。記事の最初に、上遠野浩平の作品全体のテーマが「可能性」から「運命」に移行したと書いたが、正確に言えば、作品の中心的テーマとなったのはこの〈決定論的な運命〉である。

 この決定論的な運命〉の登場をもって、第2期上遠野浩平が始まっているのだと本論は主張したい。

 

 本記事では話の流れの都合で『ジンクスショップ』をターニングポイントとして紹介したが、第2期の最初がどのポイントだったかを明確に確定することは控える。継続的に年に何作も作品を出し続ける必要があるラノベ作家のことであるから、その変化はシームレスで、明確な変更点を決定すること自体が恐らく適切ではないし、『ジンクスショップ』は変化のピークではあっても開始地点では恐らくない。…… 強いて言えば、『ペパーミントの魔術師』の時点ではまだ変化は起こっていなくて、あのあたりまでが明確な第1期でいいのではないか? その次に出版された『エンブリオ浸食/炎生』ではまだ可能性がテーマの中心であるものの、タイトロープによって可能性操作という概念が姿を見せた。更にその後の、『ハートレスレッド』や『ホーリィ&ゴースト』では〈世界の敵〉とMPLS能力は単なる物語の背景と化しているし、徐々に決定済のものとしての「運命」が片鱗を見せ始めている。また、ゼロ年代前半の連載だった『ビートのディシプリン』や、新規作品の『事件シリーズ』『虚空シリーズ』も、明らかにテーマの軸足が「運命」寄りである。

 恐らくだが、上遠野浩平にとってもこの展開は手探りなところがあったはずだ。第2期上遠野浩平では、初期の上遠野浩平にあったような、出す作品が毎回名作! というシンプルな破壊力は後退し、これは面白いのだろうか? と一旦は首を傾げるような、でも上遠野節としか言いようがなくて好きだ、そんな作品が増えていく*26

 そういう作品も、〈決定論的な運命〉という軸足を意識することで、明確に作者の意図をくみ取り、より楽しむことができるようになるのではないかと思う。

 

 今回の記事は、概念の紹介に終始してしまい、あまりそういう面白い解釈論について踏み込めなかった。次回は〈決定的な運命〉という認識から生まれた上遠野浩平の新たな世界観について語ろう。

 先に予告してしまうと、それは戦士たちの世界である。

 

 

 

 

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*1:なお、最初は「中期上遠野浩平」と書いていたが、そうすると「後期」が発生してしまうので、表現を変えました。まだ現在進行形の作家ですからね。

*2:僕自身そういう風に感じつつ作品を買っていた頃があった。

*3:『パンドラ』は言ってしまえば「超能力者がセカイを救う」話であって、例えば『笑わない』の「実はセカイを救っていたのは紙木城直子=ただの優しい娘でした」と比べると普通の展開ではある。

*4:なお、『歪曲王』は逆にファン歴が伸びるほど読み返す回数が増えた。

*5:"セカイとの断絶"については連載の第4回で詳しく述べた。

*6:本当にに世代一般に刺さらなかったかどうかは、当時中高生だった筆者の主観がかなり入っているが……まあ的外れではないと思う。

*7:オカルト要素は『エヴァンゲリオンの謎』等で大いに消費された。エヴァ謎本の類が流行ったのは昔オカルトが好きだった層がアニメにお金を出す世代を占めていたからという部分が大きかったのではないか。

*8:関係ない話なので脚注にて詳しく述べる。ガイア仮設とは、元は「地球を一個の生き物であると考えれば恒常性や新陳代謝の概念を自然環境全体に適応できる」ということを述べた学説だった。しかしオカルト的な誤った理解により、地球は生き物である→生き物だから意思がある→地球には意思や記憶や感情がある、という変遷を遂げてしまった。この誤読に基づく有名な作品としては『おもいでエマノン』『星虫』『ファイナルファンタジー7』などを上げることができ、いまでもこれらの名作群が、ガイアの意思、みたいな誤読的理解を再生産し続けている。本来のガイア仮説の考え方は、今では「生態圏(バイオスフィア)」と呼ばれている。誤読抜きのガイア仮説は別にトンデモではなく、生物多様性とか環境保護のバランスとか、そういう問題を考える最初の一歩となった、有効な比喩だったと評価されている。

*9:これについて脚注で説明するのは僕の手には余る。興味のある方は「進化は漸進的ではない」などのワードでgoogle先生に訊いてみていただきたい。

*10:進化論の伝道師スティーブン・ジェイ・グールド『パンダの親指』がベストセラーになったのは、『笑わない』と同じ96年。その後、グールド最大ヒットの『ワンダフル・ライフ』は2000年の出版だった。グールドのヒットにより、アノマロカリスが有名なったり、この本を基にしたNHKスペシャルが便乗ヒットを飛ばしたりした。

*11:2001年ごろで、僕は大学生だった。

*12:否定していたものに追い付かれてしまう、というのがストーリー上の役回りではあるが。

*13:虚空牙とか魔女とかいった存在は、セカイの断絶の向こうにあるなにか大きなモノを利用はしているかもしれないが、大きなモノ自体ではないのだ。これについては『ヴァルプルギスの後悔』についての考察で述べたい。

*14:今となっては上遠野サーガにおける神の非実在は当然にも思えるが。しかし、初期ブギーポップの時点では、エコーズが何かしらの情報を送った先が「神」である……と誰もが想像していたのではないだろうか? そんな中、上遠野浩平はその方向性を明確に否定したという、これはこの人の天才エピソードの一つに数えて良いと思う。

*15:上遠野浩平が「運命」を発見しつつ否定の方法を探していたという点は、これまでの論で述べてきたような、上遠野浩平作品における希望と絶望の相克の一部とも読むことができるであろう。

*16:とはいえ〈神秘主義的な運命〉は完全に消え去ったわけではなく、例えば、短編『ギニョールアイの城』は〈神秘主義的な運命〉に操られ続けた少年の人生を描いた作品である。

*17:「運命」が作品のテーマとは全然関係ないタイミングでふいに顔を出す一例として、『ハートレスレッド』には、ブギーポップに運命論を持ち出された霧間凪が「運命なんて考えは甘えだ」と運命の実在を否定し、しかしブギーポップには「君はとても強い。だからこそ運命に縛られている」と反論される一幕がある。

*18:それでも老執事とお嬢様のストーリーは本当に感動モノで、過小評価されてるところがあると僕は思う。同じような自己犠牲的な愛のストーリーは『騎士は恋情の血を流す』で再度描かれていて、上遠野浩平の真骨頂の一つだ。

*19:独我論とは、「自分以外の他者に精神や思考があるかは原理的に確認できない」という理屈を用いて、自分の認識していないモノはセカイにおいて確実ではないと看做す、哲学的解釈の一つである。この解釈を採用すると「確かに月に人類が着陸したというニュースは聞いたが、俺は月に行ってないので、月にはウサギがやはりいるのではないか」みたいな不毛な事が起こる。

*20:全くの想像なので脚注にしまい込んでおくが、これは上遠野浩平の狙い通りというより、単にシリーズを継続する上で避けては通れない道だったのではないかと思う。デビュー作から数作の範囲にあるうちは統和機構が謎に包まれていてもよかっただろう。しかし上遠野浩平という作家は、謎の組織の実態を永遠にはぐらかすほど不誠実な書き手ではないし、はぐらかし続けることが可能なほどの器用さを持ち合わせてもいない。

*21:なお、二つの特徴が導く論理的な帰結により、3.「運命」は理不尽である。という特徴も現れることとなる。第2期以降の上遠野浩平作品では、しばしば中心的テーマはこの3番目のテーゼになるが、その前提にはやはり1番と2番のテーゼがある。

*22:決定論的な運命〉に関する話は、2期上遠野浩平の中核であることもあって、実はどの作品を紹介してもその特徴をくみ取ることはできる。また連載第6回のように、個別な作品について語る回を設けるかもしれない。

*23:オチで急に末間和子(大学生)とカレイドスコープとか出てきて、彼らが誰なのかはブギーポップを読んでないと判らないんだから、残当と言わざるを得ない。

*24:たぶん、見るからに重要な瞬間が運命の分岐点であることもない訳ではないのだろうが。

*25:オキシジェンのような可能性操作能力者、あるいはその究極である魔女たちは、因果関係の全容を感知することで運命を操作するが、因果関係という仕組み自体を改編するわけではない。この点はかなり重要であり、恐らく今後の考察で改めて触れることになるだろう。

*26:このゼロ年代上遠野浩平から離れた読者がかなりの数いるのは正直しかたないと信者の僕としても思う。けれども、10年代になると上遠野浩平は何か吹っ切れたところがあったのか、今はまた名作を連発している。ぜひまた読んで欲しい。