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「上遠野浩平論」⑥可能性に基づく種々の考察(作品いろいろ)

 上遠野浩平論の第6回。

 前回の第5回では〈世界の敵〉というモチーフがどのように描かれているかをしてるか検討することによって、上遠野浩平の中に、「ヒトには無限の可能性があるという」前向きな希望と「可能性は将来的に必ず失敗する」との悲観的絶望が同居していることを確認した。

 また更に、ブギーポップが〈世界の敵〉を"最も美しい瞬間"に殺すのは、未来への可能性がまだ輝かしいものに見えているうちに、人生の方を先に終わらせてしまうためであることも示した。

 

 こうした「可能性」に関する考察は、上遠野浩平の文学性におけるまさに中核である。なので実は、ブギーポップ以外のキャラクターたちやモチーフも、「可能性」を軸に検討することで、文学的な意味での存在理由を明確にすることができる

 本記事では、前回考察の成果を用いて、ブギーポップ世界のこまごました設定を、文学論的に検討していく*1。関連性なく個別の検討を書き連ねていくので、今回に限っては、見出し毎に全く話が変わることに留意してほしい。

 

 

ブギーポップはなぜ能力バトルものになっていったか

 

 よく中期以降のブギーポップを評する際に、「なんか能力バトルものみたいになってつまらなくなった」とかいう話を聞く。『ビートのディシプリン』などは敢えてそれを目指したらしいが、それ以外も含めて。

 これは、個人的には正直否定したい評価ではある(そこらの能力バトルものと同じじゃあないんだよ)。しかし虚心坦懐にジャッジすれば、能力バトルものとしての要素が徐々に強くなっていることは否めない。もうたいていの新キャラが能力持ちだし、最近はただの一般人のはずだったキャラクターたち、それも新刻敬や末真和子といった重要普通人代表みたいな人たちが、どんどんMPLS能力に目覚めつつある。

 しかし、それはなぜなのか? 擁護は本論の趣旨に反するが、考察はできる。

 

 上遠野浩平の世界観において、能力とは、その人間の「未来の可能性」を意味する。未来への可能性を発揮した人間がMPLSになるのであり、〈世界の敵〉はその最も極端な発揮の形である。したがって、上遠野浩平が「可能性」についてのストーリーを描けば描くほど、それは「能力」についてのストーリーにならざるをえないのだ

 もし強弁が許されるとすれば、ブギーポップシリーズがやっているのは能力バトルではなく、「可能性バトル」とでもいうべきものだ。ブギーポップに登場するキャラクターたちは彼ら自身の能力の強さではなく、可能性の強さを競ってバトルしている。実際その為に、上遠野浩平の作品における能力バトルは、勝ち負けというよりも「将来の可能性が潰える」という破滅による決着になったりする。ジャンプやマガジンの漫画みたいに、選ばれた特殊能力でド派手な必殺技が出るから強い、みたいな話とは趣旨が違うのだ*2

 

 ただし、上遠野浩平が「可能性バトル」をやっているとの認識は、一つの残酷な真実も意味する。

 上遠野浩平は「可能性」に優劣や強弱の概念があると思っている

 

 セカイには、やはり才能のあるやつと無いやつが厳然と存在するのだ。そして才能の無いやつはより才能のある奴に淘汰される――少なくともされやすい。セカイ系作家上遠野浩平としての、夢や希望に絶望した悲観的リアリズムが、ここにも表れている。

 

 

+歪曲王~上遠野世界におけるもう一つのヒーローの形

 

 歪曲王について。(この連載で取り上げすぎだけど本当に好きなんです)

 この存在は明らかにブギーポップと対になるヒーローとして造形されている。

 まず歪曲王は、田中志郎の中に生まれた二重人格的ななにかであるが、意識は田中志郎とは独立している*3。これは明らかに、宮下藤花とブギーポップの関係と同一である。また彼が現れるとき、レッドツェッペリンの「カスタードパイ」が流れる。これもブギーポップが流れす「ニュルンベルグマイスタージンガー」との対比であるに違いなく、選曲基準は恐らくブギーさんは非常に重厚なクラシックだったから歪曲王は非常に軽薄な音楽にしたといったところであろう。極めつけに、歪曲王はブギーポップと同じ、自動的な存在であるという*4

 

 これらの外面上の対比は、二人の存在意義が対比しているが故に設定された

 最も根本にあるのは、歪曲王の「心の中の歪みを黄金にする」という行動原理であろう

 

 前記事における検討で、ブギーポップがする「その人間が最も美しい瞬間に殺す」とは、その人間が致命的な失敗をやらかす前に殺すことだと明らかにした。可能性が現実となって、それが失敗であることを知って絶望するよりも先に、サクッと人生のほうを終わらせてくれるヒーローが、死神ブギーポップだ。

 歪曲王がやっていることは全く逆。「心の中の歪みを黄金にする」とは、その人間を必然的な失敗に向かわせる”歪んだ”精神の方向性を、失敗以外の方向に正すことだと思われる。つまり、将来の約束された失敗が、起こらないように修正してくれる

 なんというか、ブラックジャックに対するDr.キリコとでも言おうか。この場合安楽死を試みるDr.キリコ側に位置しているのはブギーポップのほうだが。

 

 上遠野浩平は、歪曲王以前や以降もしばしば”歪み”という概念を使っている。

 精神に"歪み"を持つ者は、本来向かうべき方向には決して向かわず、失敗するべくして失敗する。逆に精神に歪みがなく、"まっすぐ”な者は、ほとんど何をやっても成功する。例えば、『しずるさん』でよーちゃんの全能性を担保しているのは彼女が"まっすぐ"であることだったりするし、『パンゲアの零兆遊戯』のエスタブたちは感性が"まっすぐ"であるから予知能力を持っているのだとされる。

 そうした世界観において、「心の中の歪みを黄金に」してもらえることが、どれほど強力な救いかおわかりだろうか

 

 はっきりいって歪曲王は、ブギーポップなんて目じゃないほどチート中のチートである。なにせ、ブギーポップは失敗する前に殺すが、歪曲王は失敗しないように修正してくれる。どっちが良いかなんて言うまでもない。デウスエクスマキナよりも更に都合のいい存在、それが歪曲王だ。僕はてっきり、もはや作家本人も存在を持て余していて、ストーリーに関わらせられないのだろうと思っていた。『デカダントブラック』で再登場があったのはほとんど奇跡だ*5

  

 

 +可能性を自ら潰した男と、なお残る問い~『ペパーミントの魔術師』

 

 ブギーポップを通読した人間に、どの話が一番好きかを尋ねると、結構な確率で『ペパーミントの魔術師』を真っ先に挙げる。僕もそうだ。

 その大傑作の主人公である軌川十助について。

  軌川十介は、アイスクリーム作りの天才であると同時に、シリーズでも最強格のMPLSの一人であるとされる。能力は「他人の痛みと同化すること」。どんな人間も自分の痛みを直視することは出来ないので、どんな人間も彼を発見したり傷つけたりできない。更に、彼の能力は他者の痛みを消すことができる。痛みを消された人間は、他者に対する攻撃性を失い、それに伴って人生におけるやる気、生きる意味といったものを喪失してしまう。彼は食べ物に自分の能力を乗せるので、食べ物を広く流通させることで世界全体から人生の意味を喪失させることができる、まさに〈世界の敵〉である。〈世界の敵〉であるはずだが、彼はブギーポップに見逃される。

 軌川十介自身が、彼の「痛みを消す」才能を使うことを忌避するからだ。

 

 これは類まれな才能(=可能性)を持つ男が、夢の実現を自ら諦めた話と読めばよいだろう

 己の可能性の実現を後先考えずに目指すはずの〈世界の敵〉が、〈世界の敵〉にならないというのは、つまり夢を諦めたということ。夢の実現を目指すことは、しばしば愛する人を傷つけることに繋がる。だから夢は捨てる。まさにセカイ系作家・上遠野浩平の本領発揮。90年代の若いんだから夢を追え、というメッセージに、全力でノーを突き付ける形だ。

 そして、この物語のラストシーンがまた印象的である。

「……どけよ」

 やっと彼は声を出し、黒帽子を少し乱暴に突き飛ばした。よろよろとふらつく足取りで遠ざかっていく。その背中にブギーポップが呼びかけた。

「なあ魔術師――」「君は世界をどう思う?」

「……」

「君はどうする?」

*一部引用者の判断で省略アリ

  自身の夢と可能性を全て捨てざるを得なかった男に、ブギーポップは、このくそったれなセカイで君は何を成すのかと問う。しかし彼はいま、やりたいことを全部投げ捨てたところなのだ。辛すぎるやりたいことを無くした彼に、なにをやれというのか……。

 軌川十介は、ブギーポップの問いに「お前の知ったことか」と悪態だけを残し、答えることはなかった。

 

 でも人生ってそんなもんだよね、というね。自分の可能性を実現しようとあがいているうちは、確かに何もかもが輝かしくて、万能感にあふれているかもしれない。しかし可能性は必ず潰える。そして、可能性の消えた人生が後に残るのだ。

 っていうか、これは、かつて中高生で今はオッサンになった我々上遠野ファンがいま生きている人生ではないのか

 

 軌川十介はブギーポップの問いに答えなかった。それは、我々の前にいまだこの問いが投げ出されているということでもある。 

 「君は世界をどう思う?」「君はどうする?」 

 ブギーさん相手なら、お前の知ったことか、で済ませてもいいが、自分自身にこの答えを返す訳にはいかない。この大傑作で主人公と同時に物語の語り部をやっていた軌川十介*6は、己の中でこの問いにどんな答えを示していたのか。そして我々自身は、この問いに何と答えるのだろうか。

 

 

+寺月恭一郎~可能性たちのパトロン

 

 『ペパーミントの魔術師』の話をしたので、ここで寺月恭一郎についても検討しておこう。

 寺月恭一郎は、上遠野ワールドの中でも最も頻繁に名前が登場するキャラクターの一人だ。統和機構の経済担当だったとされる彼は、どうやって稼いだのか意味が分からないほどとにかく金持ちで、ブギーポップ世界ではその死後の影響があちこちで現れている。例えば、最近の大きな関わりとしては、世界の統治者に直結するかもしれないエンペロイド金貨を集めていたのが寺月恭一郎だ。

 しかし影響力の大きさの割に、結局のところ彼は何がしたかったのか? が判りにくいところがある。統和機構に忠誠心が無かったことは確かだが、じゃあ統和機構を潰したかったかというとそんな様子はない。他にやりたいことがあるのかと思いきや、やっていることは「ムーンテンプルを建設して、警告のビデオメッセージを残す」とかで、動機のようなものはさっぱりわからない。統和機構に殺された理由すら、なんだか稼ぎすぎという理由で調査したらスケアクロウが何となく怪しい気配を感じた、だとか、具体的な内容に乏しい。

 

 僕が思うに、たぶん、本当に彼には大きな動機など何もないのだろう。

 というのも寺月恭一郎というキャラクターは、”パトロン”という役割を作者によって負わされているように思われるからである*7

 ほんの少しでも芸術・文学を志した人ならよく分かっているように、真の意味で「可能性」を実現しようとしたら、一番の問題になるのはお金のことである。日々の生活費や、絵の具代や、展示スペースの用意等、お金は可能性の実現とは無縁の場所で必要になるくせに、無いと可能性自体が頓挫する。かといって、お金のためにバイトなどしていると、いつの間にか可能性の芽は潰れてしまったりする。

 いつの時代も、芸術にパトロンは必須だ。現代でも、出版社やレコード会社や金を出して買うお客さん、即ち市場がパトロンの役割を果たしているが、市場というパトロンは割と作品内容に口を出してくるので、本当に尖ったことをしたいなら、巨大資産を持つ好事家をパトロンにつけておきたい。

 寺月恭一郎というキャラクターが、まさにその「好事家」なのだ。

 たぶん彼は、19世紀の金持ちがわけのわからない絵画を好むのと同じように、MPLSという可能性が単に好きだったのではないか。誰かが世界と戦うところを見てみたい、しかし自分自身にその才能はない、という。それが、有望そうなMPLS能力に金を出してみたり、何か事件を起こしそうな建物を意図的にたくさん作ってみたり、そういう行動に結びついたのでは。そして、このとにかくMPLSを育てる養分を無差別にばらまくような活動が、恐らくはオキシジェンの能力に察知され、それで抹殺へと向かっていったのではないか。

「まあ、寺月恭一郎の酔狂ってのが、こいつの最も適切な説明かもしれないな」

 これは羽原健太郎先輩がムーンテンプルがどういう建物かを説明したときの評価だが、どうやら羽原先輩の仰ることに間違いはなかった。寺月恭一郎は本当にあらゆることを酔狂でやっていたのではないだろうか。

 

 

+可能性の無駄使いという醜悪~『ハートレス・レッド』

 

 これまでの考察で、本論は、死神ブギーポップは「その人間が最も美しい時」に殺す存在であることを重視してきた。だが、実は〈世界の敵〉の中には、全然美しくないタイミングで死んだキャラクターが何人かいる。そういう時ブギーポップは、姿を見せるだけで自分からは手を下さない、という形で帳尻を合わせるのだが、しかし特異な状態ではあるので、この補足記事のうちに是非とも触れておくべきであろう。

 ぜんぜん美しくない時に死んだ〈世界の敵〉の代表といえば、個人的にはフェイルセイフだと思う。

 フェイルセイフは、水乃星透子の教団から、ストレンジデイズの能力をかすめ取った男である。彼は他者の「死」を自分自身の体に塗り込めておくという方法で、14回までは死んでも生き返ることが出来る。あと「死」を抜き取ったあとの他者は"自動的な存在"となってしまうので*8、フェイルセイフは前もってのプログラミングで犠牲者をロボットのように操ることができる。あと当然のことながら、直接ストレンジデイズ能力を使うことで敵を無力化もできる。

 要するに、再生+洗脳+接死能力者だ。

 たしかに色々できそうだが、正直なところ、そこまで強い感じはしない。性格もアレだし、身体能力自体は普通の男だし、悪役として明らかに小物だ。悪役が小物のせいか『ハートレス・レッド』はシリーズ中でも人気のあまりない作品だったりする。

 

 しかし実際のフェイルセイフは、ブギーポップに、

「……生命と魂と、そして意思と尊厳と――どれだけのものを踏みにじれば気が済むのか。どうやら今回の敵は酷く――」

 ブギーポップは底なし沼のような暗い目をしていた。

「――質が悪いようだ」

 とまで言わせた、特筆すべき〈世界の敵〉だったりするのである。ブギーポップが"一切の容赦がない"表情と"左右非対称の表情"以外の顔を浮かべているのだから、これは相当だ。*9

 

 この小物の何がそんなに悪いというのか?

 それは、フェイルセイフのやっていることが、言うなれば可能性の無駄遣いだからだろう。ブギー先生は、〈世界の敵〉としてのフェイルセイフに次のようなSEKKYOUをされた。

「君は"無為"なんだよ。何のためででもない存在なんだ。君というもののいることが、他のものにも、そして君自身にすら何の意味もない――」

「君には道が無いんじゃない。君は道なんかいらないと自らそれを破壊しているんだ。そして……世界に君という可能性を広げていく。先に何も残さないで、ただただ雲散霧消していくだけの未来を。だから――」

「だから――君は"世界の敵"なんだよ」

 引用だけでも十分ではあるが、一応本論なりの言葉で表現し直しておく。

 この記事の最初のほうでも触れたが、上遠野浩平の世界においてMPLS能力というのは、その人間の可能性そのものである上遠野浩平は人間の可能性を本当に重要視しているし、ブギーポップが人を殺す「その人間が最も美しい時」とは可能性が輝かしき未来にを目指して進んでいる時のことだ。

 しかし、フェイルセイフは、輝かしい未来なんてものにそもそも興味がない*10

 きわめて強い可能性でもって、他人の可能性を踏みにじるが、それは自分の可能性の実現とは何の関係もない。

 フェイルセイフは、言うなれば上遠野ワールドにおける「もっともドス黒い『悪』」である

 

 ブギーポップは、しばしば既にどうしようもなくなってしまった〈世界の敵〉を、挑発したり騙したりすることで「その人間が最も美しい」精神状態に誘導してから殺したりする。しかし、フェイルセイフについては、そもそも「美しい」状態になることがないので流石に無理だったのだろう。容赦なく殺すことを旨とする普段の方針とは全く反対に、死にかけたフェイルセイフを前に彼がいかに悪いかを丁寧に説明などした。しかしフェイルセイフは結局、そうして説明されたことすら理解することはなかった。見苦しくも水乃星透子についてブギーポップに密告した挙句、結局は「いやどっちみち君は出血多量で死ぬね」とか宣告されて死んだ。

 ちなみに、似たような末路を迎えたキャラクターには、他に『ジンクスショップ』に登場したギミーシェルターがいる。そういえば、ギミーシェルターも保身を主眼とするキャラクターですね。

 

 

+上遠野世界観における「最強の能力」、そして中期ブギーポップ以降

 

 上遠野浩平を語るうえで避けて通れない作品に『ジョジョの奇妙な冒険』がある( もっともドス黒い『悪』とか、今しがた本論でも使った)が、あの作品では知っての通り、"時を操作する能力"が、常に特別なパワーとして君臨しており、たぶんそれは、作者の狙いとかではなく、物語の自然な流れとして今現在そうなっている。なぜその話を急にしたかというと、実は、上遠野浩平の作品世界にも、そういった意味で"特別な能力"が存在すると思うからだ。

 

 それらを仮に、可能性を操作する能力と呼ぶことにしよう。

 初出は、恐らく『エンブリオ浸食/炎生』に登場した穂波弘・タイトロープ*11

 穂波弘は、この能力で、自分でも知らないままに世の中全部の状況を"姉を助ける"という自分の望みが叶うように操作していたという。

 これが上遠野世界においてどれほど例外的な事態か

 上遠野浩平の世界観において、「可能性」が作品モチーフの最上位に置かれていることは、これまで散々強調してきた通りだ。

 しかし、タイトロープという能力は、「可能性」を「確定」にしてしまっている

 可能性が可能性でいられるのは、未来が不確定だからなのだ。

 タイトロープの能力に捕まった者は、どんなに強力な力があっても、それに抗うことはできない。現に、あんなに強かったフォルティッシモもイナズマも、ほとんど万能存在に見えるエンブリオすら、物語が終わってみれば彼に全部いいように動かされていたことになった。

 

 穂波弘のタイトロープほど強力な能力は流石に少ないが、他にも"可能性を操作する"能力に近い能力者は、中期以降のシリーズでしばしば登場し、その誰もが特別な扱いを受けている。

 例えば才牙そら・ナイトフォールは、分かりやすく他人の未来を操作している。彼女が落下した場所が必ず事態の中心になるという能力で、これの対象になってしまったらの誰も逃れられない。本人は無意識というところも、タイトロープに似ている。

 あと、いまだ詳細は不明だが、末真和子・ムーンリヴァーは、"とにかく選択肢を間違えずに物事をうまくやってしまう"という能力だと思われ、これは自分自身の可能性を操作しているのではないか。

 浅倉朝子・モーニンググローリーもかなり特別扱いされている。物事の本質を直接につかんでしまう、という彼女の能力は、説明だけ見るなら可能性操作能力の仲間に入れていいかは微妙な線だが。しかし彼女の特別さは、「他の人間がまだ到達していない可能性や未来に一足飛びで到達するポテンシャルを持っている」と読むべき。あと、なにより物語中での振る舞いとして、彼女が操作しているのはほとんど世界全体だ。

 《奇蹟》がMPLS能力よりも完全に上位の能力であるとされるのも、可能性操作という概念との関係、というか、無関係があるのではないかと思う。可能とか不可能とかいう次元を超えていきなり結果を起こすのが奇蹟だ、とか。*12

 2018年4月発売の最新刊では、パニックキュートという大物キャラが登場した。これは世界の歪みが認識できる能力だったとされるが、それは世界の可能性と未来が認識できていたということではないか。直接能力を使った描写はないが*13、字面だけなら可能性操作能力の仲間に見える。

(我ながらだいぶ強弁を含んでいるのではという疑念はあるが一旦放っておいてほしい)

 

 そして、可能性操作能力を最も意識的に使っているのが、ほかならぬ統和機構アクシズ・オキシジェンである。

 しかしオキシジェンについてここで語るのは控えよう。

 というのも、次の記事からの連載の中心的なテーマにするからである。

 

 可能性を操作する能力が、上遠野浩平の作品世界に存在するということ。それは、MPLSや〈世界の敵〉の存在によって上遠野浩平が表現してきた可能性」よりも、オキシジェンが体現する「運命」のほうが上位に位置しているということだ。

 どんな「可能性」も、「運命」にはさからえない。

 上遠野浩平は、中期ブギーポップ以降、主に描くテーマを「人間の可能性」から「運命」に切り替えている節がある。このテーマの変更は、当初は分かりにくかったが――分かりにくかったせいで一部シリーズが迷走したとすら見られているが――デビュー20周年の節目を迎えた現在なら、考える材料も増えてきっちり文学的な検討ができると思う。

 

 という訳で、次回の第7回はオキシジェンについてだ。

 まだ正直いって検討がまとまりきらないので、少し時間をもらうかも。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:なお、この点はいくら強調しても足りないと思うのだが、本論の検討を「文学論的」とするのは、エンタメとしての価値や小説としての面白さの分析を行うのではないし、ましてや作者の意図の全てを明らかにする訳ではない、という点をはっきりさせる為である。

*2:能力バトル漫画は個人的にも好きであり、悪くいっている訳ではない。念のため。

*3:田中志郎と歪曲王が別の存在であることは、『歪曲王』のエンディングで、寝ている田中志郎が急に歪曲王として喋りだすことから判る。

*4:自動的な存在であるという設定は、上遠野浩平が「こいつめちゃ強い」とお墨付きを与えたも同然だ……と思っていいのだろうか?

*5:といっても、『デカダンドブラック』で歪曲王は、宿主に対して「君の歪みはもう歪み過ぎて僕にも処置なしだ」とか言っている。能力のチート性にある種の制約がつけられたとみて良く、これならまた登場があるだろうか?……いややっぱ難しいかな。短編『メタルグゥルー』はヒーローとしての歪曲王に、ライバル格の敵役が設定される話だったが、それも短編集にすら収録されないし。

*6:軌川十介が語り部をやっているということは、実は『ペパーミントの魔術師』全体が、彼自身による過去の振り返りということである。つまり彼は、分かりにくいが、第4回で検討した末真和子や木村昭雄と同じ「セカイと断絶したままの人生を生きている人」でもある。

*7:ちょっと悪い読み方をしてしまえば、ストーリーのギミック的にお金が必要になったら、寺月恭一郎の名前を出しておけばいい、みたいな。そういう意味でもパトロンの役割を作者に持たされたキャラクターと言える

*8:また出てきた、自動的な存在。ブギーポップや歪曲王はフェイルセイフの犠牲者と同じってことですよね。これはどう考えればいいのか……。

*9:どうでもいいが、本当に邪悪という設定の敵なのに読者からは小物にみられているという、このズレっぷり。本当に上遠野浩平っぽいと思う

*10:一応〈世界の敵〉でありながら可能性の実現に興味がないのは、彼の能力がしょせん貰い物で自分自身の可能性ではなかったからだ、という説明もできなくはない。彼自身の可能性が能力として目覚めたなら……いや、たぶん能力に目覚めるような可能性を持ってないからこその悪なのだろうな。

*11:恐らくと留保を設けるのは、『パンドラ』で、未来予知能力者たちがやっているのがそれでは?という話が本文中に出てきているので。しかし明確に可能性操作が名言されたのはタイトロープが最初のはずだ

*12:というか、どこかにそういう描写はあったと思うのだが。読み直して見つけたら引用元修正します。

*13:ないってことでいいよね。ネタバレかもしれないけど。