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「上遠野浩平論」②誰より早くセカイにたどり着いた作家(『冥王と獣のダンス』)

 上遠野浩論の第二回。

 前回上遠野浩平のプロフィール、あとがき、インタビューの証言を基に、上遠野浩平がどのような人生を送ってきているかを探り、それが作品のバックボーンとなっていることを確認した。

 今回からはいよいよ文学論らしく、発表作品の分析に入ろう。

 しばしばセカイ系作家の代表とされる上遠野浩平だが、上遠野浩平セカイ系なのは、20世紀末の日本社会に訪れていたムーブメントとは何の関係もない。むしろ日本社会のほうが、上遠野浩平に近づいてきたのだ。本論第2回となるこの記事では、前回に引き続き、上遠野浩平が日本社会に先行していたことの立証を目指す。

 

 

+投稿時代の作品~『冥王と獣のダンス

 

 さて最初に述べた通り、本論第1回で試みたのは、上遠野浩平に関する作品外の情報を用いて、そのルーツを探ろうとすることだった。しかし、インタビューやコラム以外に、デビュー前の上遠野浩平について、手掛かりになりそうな作品がある。

 それは2000年に出版された『冥王と獣のダンスだ。

 実は、この作品が出た2000年は上遠野浩平にとって記念すべき年である。というのも『殺竜事件』『冥王と獣のダンス』『僕らは虚空に夜をみる』が相次いで出版され、"ブギーポップ以外の上遠野浩平"が初めて読めるようになった年だからだ。

 まず内容から紹介しておこう。主人公の平凡な男・トモルが、兵器として超能力をもつヒロイン・夢幻に一目ぼれして、その女を追いかけて戦場に出ていく、すると実はトモルにも能力があったので、超能力者の中の革新派であるリスキィ兄弟に次代の指導者と見込まれる……。

 

 僭越ながら僕の評価を述べてしまうが、この作品は基本的に名作とはいえない。荒削りに過ぎる。無理やり気味にボーイミーツガールを作った痕跡がみてとれるのに、肝心のヒロイン・夢幻があんまり可愛くないうえ、恋愛要素もとってつけたみたいな感じでリアリティがない。一部レビューでは妙に情熱的な感想がつくこともあるが、おそらく最大の魅力は独特の遠未来設定であろうか。確かにリスキィ兄弟のキャラクター造形や、元は宇宙船だった自動工場プルートゥの設定は最高だ。しかし、魅力はあるにせよ、先述通り同じ年に出た『事件シリーズ』『虚空シリーズ』と比べると、やはり何ランクか落ちると言わざるを得ないのが正直なところである。

 

 ただし、粗削りなのはむしろ当然のことだ。

 なぜなら、この作品の第一稿はブギーポップ受賞前に書かれたものだからだ。*1

 つまりこの作品は、投稿時代における上遠野浩平の痕跡とみることができる*2

 それゆえ上遠野浩平論で最初に検討するのは、この作品でなければならない。

 ここで本論のために、投稿時代の作品たる『冥王と獣のダンス』から確認しておきたいことは2つある。第一に、ヒロインの設定について。第二に、作品のキモとなるシーンについて。それぞれ他のセカイ系作品と比較してみることにする。

 

 

+最終兵器ヒロイン=夢幻

 

 第一に、ヒロインの設定について。

冥王と獣のダンス』のヒロイン・夢幻は自身を兵器と自認している。しかも、大量殺戮兵器だ。命令されないからやらないだけで、本当はすぐにでも戦争を勝って終わらせることだってできる。

 ヒロインが超強力な兵器。となれば、セカイ系として最も有名な作品の一つ『最終兵器彼女』を思い出さずにはいられない。

 『最終兵器彼女』は高梁しんが2000年に発表した作品で、衝撃的な第一話・第二話が大変な話題になった。ヒロインのチセは主人公シュウジの彼女だが、知らないうちに戦争兵器に改造されている。そしてチセが戦争で戦っていることを知りながら、シュウジとチセは普通の日本とほとんど変わらない日常を過ごしていく*3

 

 設定の類似を挙げこそしたが、2作を読んだ印象はだいぶ異なったものだろう。

 それはテーマも構造も全然違うのだから当然だ。例えば『最終兵器彼女』のキモは主人公が戦争に出ることは一切ないという点だが、『冥王と獣のダンス』のトモル君はバリバリ前線の兵士だったりする。また『最終兵器彼女』は"ぼくたちは恋していく"というキャッチコピーが示す通り恋愛描写に主眼があるが、『冥王と獣のダンス』は恋愛描写が優れるとはとてもいえない作品だ。

 

 ただし、ヒロインが圧倒的に武力として強力で、主人公は無力という点においては間違いなく共通している。この設定はしばしばセカイ系で採用されることに注意しよう。なぜならこれは、主人公にセカイを変える力は無い、という認識から生まれる必然的設定だからだ

 主人公が無力である、という共通点は、セカイ系ムーブメントに関する批評で、しばしば指摘される。エヴァ以前以後のシーンで何かが変わったとしたらその点につきるのだ。

 兜甲児もアムロも、ひとたびロボットに乗れば戦況を決定的に変えることができた。しかし碇シンジはロボットに乗ったところで何も変えられない。ロボットアニメにおいて「ロボットに乗る」ことは「大人になること」を表している、というのは批評家界隈では有名な解釈だが、碇シンジは大人になっても何も変えられないし、何なら大人になることすらできない。

 ポストエヴァに属すとされる『最終兵器彼女』や『冥王と獣のダンス』のヒロイン最強設定(=主人公無力設定)も同じ内容を表現するために生まれた。

 

 20世紀後半というあの時代において、中高生が感情移入する主人公は、強くてはいけなかった。多くの少年たちが、世間の言説とは乖離した、自身の無力を感じていたからだ。

 上遠野浩平の投稿作『冥王と獣のダンス』は、そういう点において、ヒット作たる『最終兵器彼女』と同様の方向性を持っていた。

 

 

+ちょっと自分にプライドを取りもどせたのに

 

 同じような必然的類似は、第二に確認する『冥王』のキモになるシーンにも現れている。

 それはこういうシーンだ。

 ヒロインと晴れて合流し、浮かれていた主人公トモルは、夢幻が戦うところを目にする。トモルは、夢幻の強さなら実はいつでも戦争に勝つことが出来るのだとすぐに見抜いた。つまり、彼女の敵として前線の一兵卒をやっていたトモルの頑張りや犠牲は全くの無駄だった。どうせ負けると決まっていた戦いに、だらだらと犠牲を払っていたにすぎなかった。

 それに気づいてしまったトモルは、これまで夢幻に会うためだけに様々な苦難を乗り越えてきたにもかかわらず、自暴自棄になって夢幻に当たり散らす*4。恋愛も何もかも投げ捨てて絶望と怒りをあらわにする……。

 

 そして『最終兵器彼女』にも趣旨を同じくするシーンがある。

 ヒロインのチセはとうとう戦場に疲れてしまい、主人公と駆け落ちをする。二人は逃げた港町で平和に夫婦生活を過ごす。しかし実は、チセは兵器の宿命から逃れた訳でもなんでもなく、ちょいちょい自衛隊のヒトに見張られたりしていたうえ、それを食い止めていたのはチセの暴力だった。平和に過ごしていたと思っているのは主人公だけだったのだ。主人公はチセに二度と人殺しをさせないと誓いすらするが、最終的に戦火のもとで全てを失い、再びチセを戦場にもどすしかなくなる……。

 

 これらのシーンも、他のセカイ系作品でも描かれる定番といえるシーンなのである。

 つまり、セカイには手が届かないので、自分の手のとどく範囲で有意義な何かを作ろうとするが、それは巨大なセカイの前では無意味と知らされることになる、という。

 セカイ系作品は、ほぼ間違いなく自己のセカイに対する無力を描くが、自己とセカイとの無関係は描かない。むしろ、セカイと無関係で暮らそうとしても、そんなことは不可能だという認識を描く。キャラクター(と読者)はセカイ全体、ひいては無力感・劣等感にきちんと向き合わねばならないのだ。

 しかも、教科書的な物語構造では、しばしば物語中に示された劣等感は解消され最終版のカタルシスにつながるが、セカイ系作品では、露わにされた劣等感は一切解消されない。『冥王』でも『最終兵器』でも、主人公たちは最後の戦いに赴いたりはするが、たとえラスボスに勝ったり彼女の愛を勝ち得たりしても、それによって劣等感が解消されたりすることはない。劣等感や無力感は投げっぱなされたまま、全くその後の展開には一切関わらずに、ストーリーを終える。

 つまり、自身の影響はセカイに及ばないという根本的な断絶の感覚がここでは書かれる。作品世界という舞台に置いてすら、キャラクターはセカイに対する影響力を一切もたない無力な存在だ。

 この認識を描いてこそのセカイ系と言ってよかろう。僕が中高生のころ読みまくったのはたぶんそれだった。

 

 

+投稿時代の作品に、後の代表作と類似点があること

 

 さて、ここまで『冥王と獣のダンス』の物語構造が、『最終兵器彼女』の物語構造と類似点を持つことを確認した。

 なお、たまたまヒロインの夢幻が兵器がどうとか言ってたから『最終兵器彼女』を比較しただけで、別に比較先が『イリヤの空、UFOの夏』でも『エルフェンリート』でも同じことはできるだろう。要するに各作品がセカイ系の系譜にあることを確認しただけだからだ。

 

 ただし——ここからが本論のメインの主張だが——上遠野浩平は少なくとも『冥王と獣とダンス』を、ブギーポップより前に書いたということに改めて注意を促したい。

 念のため補足しておくが、97年の賞を受賞した『ブギーポップは笑わない』が書かれたのは96年頃のはずだ。それより前に書かれた『冥王と獣のダンス』は、遅くみて96年中の完稿か、もうちょっと前なら94~95年度の作品かもしれない*5

 セカイ系の作品群は、通常、"ポスト・エヴァンゲリオン"と見做されている。そして上遠野浩平の「ブギーポップ」もその一部とされている。

 しかし、セカイ系ブームに決定的な影響を与えたエヴァ最終回は96年1月最終兵器彼女の第1話に至っては2000年だ。というか、セカイ系のムーブメントがいよいよ盛り上がりだすのはだいたい2000年からだ。

 製作時期に関わるこれらの事実は、上遠野浩平が天性のセカイ系作家であるという本論の主張を強力に裏付ける

 上遠野浩平は、エヴァ後のムーブメントに影響を受けたからセカイ系を書き始めた訳ではない。これまでも何度も述べてきた通り、昔からセカイ系を書いていた上遠野浩平のレベルに、社会のほうがおいついてきたのだ

 

 

上遠野浩平は今も昔もセカイ系

 

 というわけで、上遠野浩平は今も、かつてセカイ系と見做されたテーマを主題に書いている。

 本論は基本的に上遠野浩平を賛美する方針である。だからという訳ではないが、僕はセカイ系であることをマイナスと捉えたりはしない。一時期、セカイ系作品が乱立したことがあったので、一部にセカイ系であることを浅薄であることや非エンタメ的あることと同一視する向きがあるが、要はセカイ系で書かれた物語世界が面白かったり示唆に富んだりしていればよいのである。

 その点において、上遠野浩平セカイ系が極めて本当に限りなく上質であることは、保障できる。

 こんなニッチな論を読んでいる人に今更言うことではないのだろうが。

 

  次回の第3回は、上遠野浩平エヴァブームから影響を受けたのではない、という論点を更に補強するために、上遠野浩平の創作論について分析を重ねることにする。

  

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:文庫カバーの作者コメント欄に書いてある。初読のときはあとがきも読み終わった最後にたどり着く箇所なので、びっくりと同時に、ああだからこんな作品なのかと妙な納得を覚えたものだった。

*2:ちなみに上遠野浩平は2000年前半頃、同じように投稿時代の作品やアイデアを修正して発表ということを幾度かしている。『冥王』の他に判る範囲では『機械仕掛けの蛇奇使い』『残酷号事件』がそうらしい。

*3:なお、高梁しんはこの前作まで、草彅剛がドラマを演じた現代サラリーマンドラマ『いいひと』を書いていた。当時の僕には「あの高橋しんがコレ!?」という衝撃があったことを強く覚えている。それもまたムーブメントの一つだったのだろう。

*4:実はこのシーンがキモであるということが『冥王の獣のダンス』は荒削りと僕が言う最大の理由だ。なにせ、物語の動機である恋ともラスボスである宇宙船とも全く関係のないシーンが最も印象的だってことなのだ。

*5:ちなみにこれは、流石に「執筆生活」後半の作品ではないかと思うので90~92年とかそういう考えは流石に無いんじゃないか、とかその程度の根拠で言っている。