能書きを書くのが趣味。

文章がすぐ長く小難しくなるけど、好き放題長く小難しく書く。

なぜ人は「積読が無駄」という勘違いをするのか

 今回は積読について書きます。

 なぜ積読について書こうと思ったかというと、今日たまたま「積読している自分を反省する。計算ができずに無駄遣いをしている」という旨の読書ブログを読んだので。いや、読書ブログやってて積読が無駄使いとか意味がわからない

 あるいはまた、友人がある時○○というちょい高めの本を買うか悩むと言う。僕は言った。「迷わず積めよ、積めばわかるさ!」。でも彼女にはそれは難しいらしい。なぜならば今の新居には本棚がないから。読書好きなのに本を積むところがないなんて大変なのことでは? 元気ですか!?

 積読はいいことです~なんて記事言説は、正直言ってネット上どころかネット以前から溢れています。それについて俺が新たにどうこう言うことはない。ただ、だからこそ読書好きにすら積読に忌避感があるのは変なことのように思えるのです。積読が悪くないないという言説は溢れるほどなのに、なぜ積読が悪いことだと思うのか」ということについて考えをめぐらせているうちに、いくつかこれじゃないか? ということを思いついたので、ここに書いておくことにしました。

 そこには現代社会の構造がもたらす文化・思考様式があるように思われます。この記事ではその問題について、仮説という名の放言を書いていくつもりです。

 

積読が良いことである理由

本棚から本を出す男の子のイラスト  積み重なった本のイラスト

 まずは、積読が悪いことではない理由を再確認しておきましょう。これは先述通りこれまでさんざん述べられている内容で、ちょっとネットを探せばより詳細な内容が簡単に見つかるものです。

 

  • 本は買わないと手に入らなくなる
  • 買わなかった本のことは忘れてしまう
  • 本には持っているだけでプラスになる面がある
  • 本を買うことは買い支えることに繋がる*1

 

 まず真っ先に思いつく理屈は「買っておかないともうその本は手に入らない」です。本は腐らないのでいつでも手に入るような気がしますが、実は全くそんなことはありません。アマゾンと電子書籍の現代においてすらです。僕はつい先日も、欲しい本をネットで注文しようとしたらプレミアで万の値段になっていて、絶望しました。プレミア系なので電子化も絶望的です。

 例え在庫が払底することがなくても「そもそも買うことを忘れてしまう」という状況も頻繁にあります。ネットで検索すれば判ることでも、検索語を忘れてしまえば二度と判らないのです。僕にも昔からずっと探している本があるのですが、タイトルをすっかり忘れているので、いまだに見つけられておりません。

 学術・実用書を中心に「本棚にあるだけで知になる」という考えもあります。人間の知には外部性という特徴がある。例えばものさしを使えば人間はミリ単位でものの長さを測れますが、これは「ものさしを持つ人間にはミリ単位でものを測る能力があること」を意味します。脳の中にあるものだけが知恵や知能じゃない。脳の外部にも能力や知識は保有されているのです。つまり本をたくさん持つ人間はそれだけ多くの知識を持っていると言える*2。あと、これはその人の生活にもよりますが、本棚に本が並んでるだけで刺激になるとかも言いますね。

 最後に少し方向性がかわるのは「好きな作品を買い支える」という話。積読をするからには読まないとしても買っています。買ったということは、その素晴らしい本の作者にいくばくかの収入とモチベーションをもたらしたということです。貴方が本を買わないならば、その素晴らしい本の作者は2作目を書かない可能性がある。好きな作品を買い支えるという消費は、今ようやく日本でも広まりつつある気がしますが、もっと広範に行われるべきです。

 

現代社会が積読を否定したがる理由4つ

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 以上のような事実が、積読を擁護するために頻繁に指摘されている訳です。

 しかしどういう訳だか、この手の言説は積読否定者たちの心に実感として届かず、積読は無駄づかいだなあ、という事実に反する感想が相変わらず胸の内を占めているようです。それはなぜなのか? 彼らにあるのはなんなのか?

 いくつか仮説があるので、先に全部確認しておきます。

 

  1. 消費社会の文化様式
  2. 暗記を重視する教育の弊害
  3. 文学という分野の衰退
  4. 経済に関する直感的すぎる理解

 

 なお、実はこの仮説には最も有力なゼロ番があって、それは「0.本に興味がないから」というものです。本が好きじゃないので、本を買うことを感情的に肯定できない。読みもしない本をまた買って、とか妻がまた愚痴る。うるせぇ、年に数度も使わないバッグや帽子を買うんじゃない。あ、いやすいません。そうじゃなくて、そこはお互いに踏み込みすぎないようにして趣味のぶんのお金は確保しておこうね。

 この記事では、あくまでも本が好きなのに積読がダメな気がする、という状態を問題にします

 

+仮説1:消費社会の文化様式

インテリアコーディネーターのイラスト(女性)

 この現代は消費社会です。

 ここでいう消費社会というのは、通俗的な理解による"いっぱいゴミを出しちゃう無駄の多い社会"のことじゃなくて、消費することが社会に属する条件になっている社会のことです。ジグムント・バウマンとかアンソニー・ギデンスとかが言いました。

 例えば、社会の上流階級の存在であると周囲のメンバーに認知されるためには、上流階級にふさわしい服を買っていないといけません。ハリウッドセレブであるためには、派手なドレスを着てベンツでパーティー会場に赴く必要がある。即ち、派手なドレスとベンツを買える消費者であることがハリウッドセレブである条件なのであり、例え借金まみれで役者としてのキャリアが微妙でも、ドレスとベンツを買っている間はハリウッドセレブであると見做されるのです。セレブの逆の例としてホームレスがあります。ホームレスであることとは「家や服を消費できないこと」であり、それ故に彼らは普通の社会に属していないと見做されます。現代というこの消費社会では、どういう消費をするかが、その人の属性を決定するのです。

 これは別に、そういう極端な階級の人に限らない。普通の市民であるかどうかにも、消費内容は大事です。「かしこい消費」をするかどうかが、自分が「かしこい市民」であるかどうかを決定づけます。「かしこい市民」でいることは、自分がこの社会で受容されているという満足感をもたらしてくれます。雑誌に載っているセンスのいい買い物をするのが「かしこい市民」。テレビで紹介された100均の便利収納グッズを買うのが「かしこい市民」。オシャレ雑貨屋で素敵なインテリア小物を買うのが「かしこい市民」です。

 翻って、読みもしない本を買うことや、大量の本で棚を占有することは「かしこい市民」の行動とはいえません。だってインテリア雑誌のオシャレな部屋はそんな風になっていないから。部屋の空間を背の高い本棚で埋めると圧迫感がでる、などという、昔の人は考えもしなかった価値観を雑誌とワイドショーが配信し続けています。本を買ってもいいが、それは読み終わったら断捨離するか、売って別のものを買う足しにするかするのが「かしこい」というだと雑誌は言っています。

 本を買って積むような消費形態は「かしこい市民」という望ましい社会階層から除かれる恐怖を伴ってしまうのです。

 個人的には、本当に賢く合理的な人間は社会の要請ではなく自分にあった生活様式を自分で選ぶと思いますから、読書好きならば上で述べたような積読のメリットを享受すべきだと思いますが。しかしまあ、積読的な消費がダサイとみる文化がいまの社会にあるのは確かです。

 

+仮説2:暗記を重視する教育の弊害

本棚・書棚のイラストf:id:gentleyellow:20171217152701p:plain

 上の積読のメリットを挙げた項で、知が外部性を持つことを述べておきましたが、これがどうも一般に広まってない。

 どうも現代人には蔵書と保有する知をイコールで結ぶ認識がない

 アインシュタインが自分の電話番号を覚えなかった逸話などは有名なのに、その核心部分「電話帳を持っていることは無数の電話番号を暗記しているのと同じ」が、なぜか自明と見做されてない。いやむしろ後退しているかもしれません。僕のおばあちゃんの時代までは、一家に一冊広辞苑といわれていたし、書斎と蔵書があることは知があることだったはずです。

 広辞苑が消えたのはインターネットができたから? 確かにそうかも。でもネットに関する言説で"インターネットに書いてないことが沢山あるから本を読みなさい"とか言うアレ。あれなんか本当は「インターネットに書いてないことが沢山あるから蔵書を持ちなさい」であるべきだ。ネットが完璧でないのと同様、僕らの記憶力も完璧じゃないんだから。

 なぜ蔵書を知とみなせないのか? それはたぶん暗記したことだけが保有する知であるという間違った印象を日本の義務教育が与えているからではないでしょうか。学校のテストでは、暗記していない知識は持っていないものとみなされる。きれいにまとまたノートを持っていることや、参考書のどこに求める情報が書いてあるか知っていることは、知識を持っていることとはみなされないのです。実用上はそちらのほうが余程大事に違いないのに。

 いや、暗記教育に意味がないとは言いません。すぐに知識を思い出せるということは、思考速度に直結する。しかし、だからといって暗記していない知識を知でないと見做すのは問題でしょう。そういう認識だから、「難しい本を読んでもどうせ忘れるから無意味ね」とか「もう二度と読まないであろう本を置いておくのは無駄だな」とかいう間違った結論に飛びつくのだ。

 蔵書、イコール、インテリジェンス。そのことを改めて確認したおいた方がいいと思います。そして、それができていないなら、積読と無意味を結び付けてしまうのも無理はないのかもしれない。

 

+仮説3:文学という分野の衰退

小川未明の似顔絵イラスト

 最初の序文で述べた、積読を反省してしまう読書ブログ、あるいは家に本棚を置かない読書好きの友人、彼らに共通しているのは主な読書がエンタメ系の小説作品に限られるということです。積読を反省とかしてしまうのは、読むものが娯楽作品だからなのかもしれない積読を擁護するのはたいてい学者だったりするし、実用書以外は積まなくていいと思ってしまうのか。しかし、なぜ娯楽作品だと蔵書を持たなくてもいい気がするのだろう?*3

 理由は恐らく文学という分野が無効となり、エンタメと実用知が明確に分離してしまったからでしょう

 かつて「文学」は作品ジャンルではなく、文字通りの学問でした。なぜフィクションを読みこむことが学問足りえたかというと、ざっくり言えば、文学作品を読むことは人生を経験することだったからです。人生経験が無意味な訳ありませんよね? 文学作品とは、読者に人生経験を積ませるものであり、それは研究に値するもの。実用に値する価値を持つものでした

 ところが現代になってフィクション作品は「研究価値のある(と偉い人の考えた)文学」と「ただ楽しいだけのエンタメ」に分かれてしまいました。原因はいろいろあるんでしょうが、僕には何とも言えない。強いていえば、変わったのは作品や社会ではなく蛸壺化していった文学者たちだったのだろうと思う。それが悪いことなのかどうかも分からない。ただ、そういう経緯があったせいで現代人は自分たちが読んでいるものを「文学ではないので実用上の価値がない」「人生ではなくただのフィクション」「娯楽になってもそれ以上の価値はない」とどこかで考えています。

 しかし、それは本当でしょうか?*4 かつてシェイクスピアが人生同等だと見られたことがあるならば、今僕が読んでるラノベだって人生同等とではなかろうか。記念写真のアルバムを捨てることを躊躇うのに、エンタメ本を捨てるのを躊躇わないのはなぜなのか。かつて、ほとんど初めて文学性に触れたあるオタクは言いました。CLANNADは人生。それは皮肉交じりに言い伝えられている名言ですが、僕が断言しましょう。CLANNADはガチで人生だし、他の作品も人生なんですよ。この人生は読まないから無駄なんて話は全く受け入れられない。

 そう考えたら、積読することは、未来の人生経験にむけた可能性を確保していることに等しいと言えるんじゃないでしょうか。

 

+仮設4:経済に関する直感的すぎる理解

ケチのイラスト

 ここまでは積読のメリットが理解されてないという話をしました。でもやっぱり、気は進まないけど、積読のデメリットにも言及しないと流石にアンフェアかもしれない。

 積読をすることの最大のデメリット、それはお金がかかるということです。読むぶんだけ買うのと、読めない分まで買うことでは、当然のことながら前者のほうがコストが安い。だから積読をすることは、お金の無駄であり、お小遣いの無駄遣いである。いや、ごもっとも。流石にそこを否定することはできそうにない。コストの問題は積読擁護派にとって、アキレウスの踵ジークフリートの背中の葉っぱ、GACKTの格付けヤラセ疑惑にあたります。だから気がすすまんと言ったんだ。

 しかし、敢えて、否定はできないという前提の上で、もう一度考えてみましょう。積読にかかるコストを、節約=善という素朴すぎる経済感覚に基いて計算してやしないか。

 もしも貴方が日々の暮らしにも事欠くような給与で暮らしているのならば、たしかに積読は勧められない。しかし少なくとも今まで積読をしていたのならば、貴方の給料は積読ができる程度にはあるはずです。となれば、積読をしているとしてもいいはずです。なんといっても、積読は未来に読む本を買うこと、いうなれば将来への投資。ただお金が財布にあるより、投資したほうがいいというのは、賢い経済行動の基本です

 いえ、さすがの僕も積読がリターンの大きい投資行動だとまでは申しません。申しませんが、じゃあ貴方は積読を止めたお金で何を買うつもりなのか? 本を買わなくなった金で定期預金を始めたり、個人年金のランクを上げたり、英会話教室に通ったりするとでも? きっと僕なら、コンビニ弁当をの代わりに2000円のランチを食べて節約した金を使ってしまう。もしそうするなら、積読のデメリットの代わりに別のデメリットが生まれるだけです。しかも2000円ランチは全く将来の投資とはいえない。

 だったら読書好きらしく、好き放題積読したほうがいいと思います

 あるいは、それでも積読をやめて金を何か別のマシなことに回したいなら、おすすめの使い方があります。積読を止めて数万円を節約したら、天井まである本棚とドキュメントスキャナを買おう。そういう将来的なビジョンができてから、初めて積読をやめればよいのです。

 

+心おきなく積読しよう。あと消化しよう。

読書の秋のイラスト(男性)

 以上、4つの仮設を述べることで、なぜあの人が積読を悪いことだと思っているのかを考えました。

 ……積読している自分のための擁護を精一杯述べただけだともいうが……。

 ただ、例えここで僕が述べたことが自己弁護にすぎないとしても、積読に捨てがたいメリットがあるのは厳然とした事実です。そして、もし上で放言した仮設の形にしたような考えを貴方が持っているならば、貴方は積読のメリットを過小評価しているかもしれない。

 先日、「積読しなくなる状態とは、読書欲が衰えている状態のことだ」という趣旨の発言をSNSで拝見しました。我々読書家にとってそれは、生存欲求が衰えていることだ。僕は目が見えなくなったら自殺するかもしれないと真面目に思っているし、他の読書家もそうだろうと真面目に思っている。我々にとって読書するとは生きることです。生きるのを欲望するのは普通のことだ。

 即ち、積読するのは普通のことだと言えます。心置きなく積読をしていこうじゃないですか。

 

 あとは、まあ、できるだけ積読は消化したほうがいいよね。もちろん

 

 

*1:なお「買うという楽しみを得た時点で役割が終わっている」とか「コレクションである」という積読擁護論は、広範な理解が得られそうにないので省きました。

*2:だから蔵書を捨てるのはやめた方がいいですよ。それは自らの知を捨てることです。場所がないなら考えるべきは、ドキュメントスキャナか本棚を買うことです。

*3:書きながら、たった今自覚しましたが、こう言っている僕ですら大量のライトノベル蔵書をうっすら無駄と思っていたようです。自戒が必要だ。

*4:ここから詭弁に入っている自覚はある。反省はない。