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「上遠野浩平論」⑦~決定論的な運命(『パンドラ』『ジンクスショップ』『酸素は鏡に映らない』)

 上遠野浩平論の第7回です。

 いま本論は、連載の第5回以降を第二章と位置づけ、上遠野浩平の文学が追及してい美意識・問題意識について検討している。その初めとなる第5回第6回では、「可能性」が上遠野文学の中核であるとの認識の元、〈世界の敵〉というタームや、種々のキャラクターの文学的な意味での存在意義について考察を重ねた。 

 この第7回からは、上遠野浩平の問題意識について、新しい検討に入っていく。 

 

 上遠野浩平は、ゼロ年代に入ったあたりで一度、作品で扱う主要なテーマを変更している

 このゼロ年代以降のことを第2期上遠野浩平*1と呼ぶことにする。本記事では、第1期と第2期の分割がなぜ可能かを示すため、ゼロ年代に起きた作品テーマ変更について語るつもりだ。

 最初に結論を提示しておくが、第2期における上遠野浩平のテーマ変更とは、作品世界の核心が「可能性」から「運命」に切り替わった、というものだ。

 このテーマの変化は、各作品だけを個別に読んでいてはなかなか分かりにくいところがあったために、リアルタイムで作品を追っていた最中には「最近のブギーポップは微妙なことが増えた」みたいに見られていた*2。しかし、デビュー20周年の今ならば材料も出そろい十分に明快なな検討が可能なはずだ。

 

 記事の流れとしては、まず第1期上遠野浩平で「運命」という概念がどういう扱われ方をしていたかを確認する。次に、その「運命」がどうして2期以降作品の中心的テーマになったのかを明らかにする。最後に、第2期上遠野浩平の中核となった「運命」がどのような概念なのかを詳細に検討していく。

 

 なお、いつも以上に記事がクソ長いです。分割しようかとも思ったが、ここはブログタイトルの精神でいかせていただきます。

 

 

+第1期上遠野浩平における「運命」~『パンドラ』

 

 さて、冒頭に述べたようなことを検討するにあたり、まず最初は、第1期上遠野浩平において「運命」という概念がどのように扱われているかを確認しておきたい。

  上遠野浩平の作品の中で、最初に「運命」にフューチャーした作品は『パンドラ』だ。

 

 『パンドラ』は、ブギーポップシリーズの3作目で、予知能力者たちを主人公にした青春群像劇の傑作だ。王道かつ他作品とのリンクや思想的な困難さが抑えられているため、上遠野浩平を読みだした読者が最初にハマる作品になりやすい。その一方で、王道故にセカイ系としては特筆するところのない作品であること*3や、作品感リンクや思想的側面の薄さが印象の薄さにも繋がってしまうことがあるのだろうか。人気の割にはあまり話題には挙がらない。個人的にも、最初大好きだったのが、ファン歴を経るほどに不思議と読み返す機会の減っていた作品である*4

 

 そんな『パンドラ』だが、特に「運命」が俎上にあがるのは次のシーンである。

 事件が全てが終わった後の、天色優=ユージンによる総括を引用しよう。

 

 だがそれにしても、回ってきた責任は重すぎた。世界の危機、そんなものにまで直面しなければならなかったというのは、少し行き過ぎだ。

(……それとも、逆だったのか? まわっていたのではなく――)

(――最初から、そうなるようになっていたのか)

 ぼくらはこの世界の危機に対応するために集められて、そしてその使命を果たした……そういうことだったのか? 運命、あるいは世界そのものが持っているバランス――そういうものがぼくらを操って、そして、こうして――

(――そのときが来たので、スイッチが入れられた、とでも……)

*一部執筆者の判断で省略アリ

 

 ユージンは、「運命」のことを「世界のバランス」ではないかと言っている。 

 

 ここで「運命」という呼び名で存在を示唆されているのは、「自動的であるブギーポップを動かしている何か」だろう。タイムトラベルもののSFでたまに出てくる、歴史の修正力のようなものが実在して、それが世界の危機への対応策を決定しているのだ……というアイデアが、初期の上遠野浩平にはあったと思われる。

 

 

+第1期上遠野浩平にみる〈神秘主義的な運命〉

 

 実は、同じアイデアが『パンドラ』の次に出版した『歪曲王』でも語られている。

 ムーンテンプルに残されていた、寺月恭一郎のビデオ映像を確認する。

 

 君は、世界になんというか、"流れ"のようなものがある、とか思ったことはないかな? 運命とか趨勢とかいうような言葉で表されているものだよ。(中略)いろいろなことがわかってきている。なにしろ"進化"という発想が生まれてからだいぶ経っているものでね。

 そう……あれは確率では説明がつかないんだ。どう考えても、ある程度何らかの指向性というか、流れがあるとしか考えられない節がある。キリンの首はいきなり長くなったとしか思えず、鯨はみるみるうちに馬鹿でかくなったとしか証明できない。たまたま適応する突然変異が、徐々に広まっていったにしては、その変化はほとんどの場合急すぎるんだよ。

 そして当然こういうことを考えた者がいる。”その流れは、今でも流れ続けているのだろうか? だとしたらその先――とまでは行かなくても、方向を知ることはできないか?"とね。

 それは神の領分だろうって? 神の領域に手を出そうとしなかった権力者など人類の歴史には一人もいないよ。

*表示部以外にも執筆者の判断で省略アリ

 

 寺月恭一郎は、「運命」のことを「流れ」と呼んでいるのが分かる

 言っていること自体はユージンの「世界のバランス」と同じだ。世界には独自の方向性があり、我々はそれに動かされている。進化のプロセスにも――つまりMPLSの出現にも――それは影響している。そして、ブギーポップや歪曲王 が自動的なのは、それに動かされているからであり、統和機構という人たちはそれを利用している不思議な謎の組織である。

 

 ユージンと寺月恭一郎の証言で、特に注意して欲しいのは、彼らは基本的に誰かに操作されている感覚について語っているという点だ。何か神様のようなものが矮小な我々の運命を操作している、という発想が、初期の上遠野浩平にはあった。

 第1期上遠野浩平にみられるこの運命観を神秘主義的な運命〉と呼ぶことにしよう。

 

 天性のセカイ系作家である上遠野浩平に、このような運命観が見られるのは、セカイとの断絶*5の向こうには我々の知らないもっと大きな意思があるはずだ、という考え方の表れだと思われる。

 セカイ系作品には割とよくある傾向なのだ。アカシックレコードだとか、ガイア仮説だとか、あるいはシンプルに"神"だとか、そういう単語と組み合わさって登場しがちなアレコレ。批評界隈では、そこには「我々の運命は瑣末ではなく、何か大きな物語があってほしい」という思春期的な欲望があったとされるが。初期の上遠野浩平もこの点では、セカイ系作家としての傾向から大きく外れてはいなかったということだ。

 

 

+〈神秘的主義な運命〉の問題点

 

 しかしこの神秘主義的な運命〉には、創作上の問題点がいくつかあった

 そして恐らく、上遠野浩平自身もそのことに気付いていた。

 問題点を3つに分けて順に確認しよう。

 

  第一に、このアイデアは、既にちょっと古いところがあった

 オカルト神秘主義が最も面白かったとされるのは、だいたい70年代から80年代とされている。それがフィクションに反映されるのは『ぼくの地球を守って』とか『アウターゾーン』とかで、だいたい80年代後半~90年代前半までが世代だ。

 つまり、ライトノベル作家としてデビューした上遠野浩平が当初メイン読者層としていた90年代後半の中高生には、あまり〈神秘主義的な運命〉は刺さらなかった*6

 しかもエンターテイメントとしてのオカルトは、その後もますます古びていった。本論が考えるところの第1期上遠野浩平の期間――受賞の97年から00年代に入るまで――は、オカルトがなんとか一定のリアリティを保っていた最後の時代だ。昔は学者による真面目な考察だったUFOや超能力の話題は、既にTV『特命リサーチ200X』や漫画『MMR』のように荒唐無稽な語り口しかとれなくなっていたし、最終的にノストラダムスの大予言が外れたのが止めとなって、オカルトはフィクションの題材として必要なリアリティをほとんど喪失した。セカイ系ブームの中においても、例えばエヴァには死海文書のようなオカルト成分が多分に含まれていたにも関わらず*7、2000年以降のセカイ系作品ではオカルト要素が希薄になっているのが確認できる。

 それ故、ゼロ年代以降の上遠野浩平は「運命」という自身の作品世界にとって重要なタームを、世界のバランス、みたいなオカルト神秘主義めいた古い語りから脱出させねばならなかったのである。

 

 第二に、思想としてシンプルに間違っている

 フィクションなのだから正誤は関係ないと言えばないのだが、リアリティがないのは問題だろう。

 そもそも、「世界のバランス」のような発想が当時のフィクションから出てきたのは、上で少し述べたように、地球を生き物と見做すガイア仮説の誤読がオカルト界隈で広まった影響が大きい(関係ない話が長くなるのは流石にアレなので詳しくは脚注*8)。なので、実は「世界や自然自身がなんらかの意図をもって全体を操作している」という設定がリアリティを持つのは、科学への無理解が前提というところがある。

 また、より明確な間違いとしては、上記の引用で寺月恭一郎が述べた「進化の流れ」みたいな話、これは今、進化論をちょっと勉強したら最初に矯正される考え方である。キリンの首が急に伸びた理由は、単純な淘汰と生存の理屈として説明可能なのであり、「何かの意思があるとしか思えない」とかいう考えは必要ない*9。こうした進化に関する知識は、ちょうど第1期上遠野浩平と同時期*10に一般へ広まりだしたので、この頃の上遠野浩平に進化に関する知識がないのは仕方ないのだが。

 それにしても、寺月恭一郎がデタラメを言っていたと判って僕がうけた衝撃に*11、共感を持ってくれる人はいるのでないだろうか。これらの件に関しては、上遠野浩平もどこかの時点で「大人は嘘をつくのではないのです……間違いをするだけなのです……」となったと思う。少なくとも、今の作品でもう一度、進化の流れ、という表現を使うことはできないはずだ。

 

 

 +〈神秘主義的な運命〉を否定していた上遠野浩平

 

 そして、次に述べる問題点が恐らく最も大きい。

 第三に、上遠野浩平自身が〈神秘主義的な運命〉の存在を信じていなかった

 『パンドラ』から、ウィスパリング・神元くんと、その理解者であるオートマティック・辻希美さんの会話を引用する。

 

「……だがどうやらこの子に僕らが関わるのは運命だったようだ」

「運命、ね……」希美はため息をついた。「らしくないわね。そういう考え方は大っ嫌いじゃなかったの。親と一緒にするなって」

「……それは」

 

 この二人は、ユージンと同じように「運命」あるいは「世界のバランス」の存在を感じながらその実在に半信半疑、というより、かなり否定的である。

 そもそも神元くんは、新興宗教を否定して勘当された息子、という設定のキャラクターである。そして「世界のバランス」がどうこういう話は、オウム真理教その他が掲げたオカルト世界観そのものだ。上遠野浩平は『VSイマジネーター』でも新興宗教的なものを敵に設定していたし、神元くんには最初から「運命」を否定するためのキャラクターという側面があった*12

 そんなキャラクターがなぜ、最初に「運命」に言及した『パンドラ』という作品で重要な地位を占めているのか。

 考えてみれば、記事の最初に引用したユージンの言葉だって、「運命なんて存在してほしくない、信じたくない」という意味を言外に含んでいる。

 

 上遠野浩平は最初の時点から〈神秘主義的な運命〉に否定的だったのである。

 

 実は、先程は敢えて言及しなかった論点もある。先のユージンと寺月恭一郎の独白の中で、上遠野浩平は「運命」を表現するために、"バランス"、"流れ"、"方向性"といった単語を選んでいるが、この表現には、意思とか意図とかいった単語を避ける意味合いがあったはずだ*13。つまり、宇宙人とか神みたいな精神を持った存在が全てを決めているのではない。SF作品の運命論にありがちな、神の支配を認識し、神と直接の対決を目指す路線は、明確に避けられていた*14上遠野浩平は、自分自身の物語世界に運命を操る神などといった、明確な敵、あるいは救いの存在を、決して許したことはないのである。

 しかし一方で、ユージンは、"集められて"、"操って"、"スイッチを入れた"と言い、寺月恭一郎に至っては明確に"神の領分"という表現を使ってしまっている。単語の選び方から離れてユージンや寺月恭一郎のセリフ全体の印象を見ても、やはり「何者かが明確な意思とか意図をもって運命の名のもと我々を操作している」という印象を受けざるを得ない。

 恐らく、上遠野浩平のなかでまだ「運命」という概念に対するスタンスが固まりきっていなかったのだ。

 上遠野浩平は、なんだかんだいってオカルト全盛時代の青春を過ごした人である。それ故、当初は古いオカルト世界観に基づいて「運命」を理解したのだろう。だが、自分でもその理解に納得しておらず、否定する方法を探していた、のではないろうか*15。 

 これは憶測であり、実際のところは定かではないけれども。

 

 ただ、実際に作品から読みとれるものは憶測ではない。

 神秘主義的な側面の強かった「運命」というタームは『パンドラ』以降姿を消した——というより、作品世界の深いところに浸水してしまったように思える。そうして、表向きは物語の中心的テーマとはならなくなった*16一方、時折思い出したように浮上して顔を見せては、思わせぶりな雰囲気をかもしだしたりしていた*17。そうしたシーンには、以下で本論が指摘していく内容がよく現れており、全体としては重要な意味を持っている。が、たいていはそれ以降に出版された別作品も読まないと何を言っているのかよく分からない、結果として思わせぶり(あるいは上遠野節)としか言いようのないシーンになっている。

 

 

+「運命」が「可能性」を上書きする~『ジンクスショップにようこそ』

 

 物語世界の深い場所に潜っていた「運命」というタームが、再び物語の中心に躍り出た作品は、『ジンクスショップにようこそ』である。

 「運命」の体現者、オキシジェンの登場だ。

 『ジンクスショップにようこそ』は、統和機構アクシズたるオキシジェンが、自分の後継者を探すために、4人のMPLSたちを争わせる話だ。『パンドラ』とは真逆で、他作品とのリンクが強すぎるせいで、単体作品として分かり難く、初読者の人気はあまりない*18。しかしシリーズ全体としては最重要作品の一つだと、誰もが薄々わかっている作品だと言える  

 そう、誰もが薄々察していた通り、この作品では、上遠野浩平の文学世界にとって、真に決定的なことが起こっている。しかも本論は、作品の中のある一つのシーンだけを、まさに決定的なことが起きた瞬間と考えている

 

 さっそく確認してみよう。ジンクスショップが詐欺扱いされたことで警察署に一旦捕まったオキシジェンが、カレイドスコープに助けられて、能力に捉えらえて身動きがとれない警察官たちの中を普通に歩いて外に出たシーンだ。

 大勢の者たちの中を、まるで無人の荒野を行くかの如く堂々たる態度で、オキシジェンたちは警察署の外に出ていった。

「さて――ジンクスショップに関わった運命どもは、どこまで残っているものかな……?」

 オキシジェンは夕暮れの空に向かってひとり呟いた。

 

 地味なシーンだが、お分かりだろうか。

 オキシジェンが、MPLSのことを「運命」と呼んでいることに注目してほしい。

 

 これは本当に決定的だ。

 これまでの連載でも確認してきた通り、ブギーポップシリーズにおいて、MPLSとはその人間が持つ「可能性」の体現である。言うなれば、MPLSイコール可能性である。つまりオキシジェンは「可能性」のことを「運命」と呼んだのだ。

  この瞬間、ブギーポップというシリーズの中心的テーマは、「可能性」から「運命」に上書きされた

 

 

+輝かしき未知の消失と、悲観主義の勝利

 

 もっと詳しく分析していこう。

 オキシジェンがMPLSを「運命」と呼ぶのはは、オキシジェンにはMPLSの可能性など先の決まり切ったものにしか見えていないからである。 彼の能力は物事の決まった行き先を察知するものであるから当然だろう。しかしこの事を、単にオキシジェンにセカイがそう見えているだけだ、と考える訳にはいかない。

 オキシジェンにそう見えているからには、事実として、可能性の未来は決まりきったものだからだ。オキシジェンの見ているセカイは独我論的解釈*19を許す類のものではないはずだ。本論の第6回連載で可能性操作能力について触れたとき、"可能性"は"確定"になってしまうと最早可能性ではいられなくなる、という指摘をしておいたが、オキシジェンは、この世の全ての"可能性"にそれを起こしている。

 

 しかも"未来が決まりきっている"という事実は、考えてみれば、上遠野浩平がこれまでに提示していた世界そのものでもある。本論第5回では、霧間誠一が「可能性は必ず失敗するのだ」と散々述べていると確認したが、必ずというのは100%ということであって、それは可能性の行先は最初から決定しているという意味ではなかったか

 確かに、第5回連載でこれを指摘したときには——つまり第1期上遠野浩平の範疇による語りでは——"未来など決まりきっている"という絶望的リアリズムへの反証として霧間誠一が「ほとんど全ての可能性が必ず失敗するとしても、ほんのわずかな可能性が未来に到達するかもしれない。それは誰にもわからない」と述べているシーンを『夜明けのブギーポップ』から引用しておいた。

 これはしかし、根本的に我々が未来について無知である、という前提があって初めて成り立つ話だ。例えるなら、「火星人が実在する可能性は火星に未探査区域が残っている限りゼロではない」というような。それは欺瞞であろう。普通に考えて、火星人は居ない。

 

 つまるところ、MPLSを「可能性」扱いすることもまた、欺瞞だったのだ。

 

 我々は、誰もがセカイと断絶しているが故に、真の意味で未来全体を知ることはできない。我々の未来への不安は永劫に払拭されない。これは絶望であって、絶望感こそがかつてセカイ系文学を成立させたはずである。だが、セカイとの断絶は、即ち、セカイに残る未知でもあっただから我々は未知を良いことに、断絶の向こうに何か素晴らしいものがあるかもしれないと、無意識に期待することができた

 強弁を承知で断言してしまえば、セカイ系文学を成立させたのは断絶への絶望感であったが、セカイ系文学のブームとヒットを支えたのは未知への期待のほうだった。

 

 しかし上遠野浩平は、セカイとの断絶を超えることのできる能力者にして、"断絶の向こう"の象徴たる統和機構の中心、オキシジェンを登場させたのだオキシジェンの登場によって、セカイとの断絶の向こう側が明確に描写されることとなった。それと同時に、上遠野浩平の文学世界から、未来への可能性、万に一つの成功、輝かしい未知は、完全に姿を消した。セカイとの断絶の向こうにあるのも、また絶望であることが暴露されてしまったのだ*20

 

 象徴的なシーンとして、『ジンクスショップにようこそ』から、夢を追っていたお嬢様が決定的に挫折するシーンを引用しておこう。

(う、うう……)

 それ以上、足が前に出なかった。

 恐怖があった。警察が怖いとか、野次馬たちが怖いとか、そういうのではなかった――彼女はそのとき、何もかもが急に、恐ろしくて仕方なくなってしまったのだ。理由も根拠も彼女にはわからない。だが、見えない鎖が彼女を縛り上げてしまったかのように、不二子はその場から一歩も動けなくなってしまったのだった。

 ”運命が切れた”

 さっきのオキシジェンの、冷ややかな言葉が脳裏に甦っていた。

 逆境なら抗うこともできるだろう。不運なら努力しだいでどうにかなるかも知れない。しかし――切れてしまった運命にはどうすればいいというのだろうか?

 

 こうして上遠野浩平が持っていた希望と絶望の相克は、ついに絶望の勝利で決着した。 

 その絶望の名を、「運命」と呼ぶ。

 

 

+〈決定論的な運命〉という認識

 

 ところで、こうして『ジンクスショップ』において再び存在感を露わにした「運命」というタームは、ユージンや寺月恭一郎がその存在を忌避した〈神秘主義的な運命〉とは、ずいぶん趣を異にしている。

 新しい運命観が姿を現しているのだ。

 それが具体的に判るシーンとして、『ジンクスショップ』から、オキシジェンに導かれたMPLSの一人、スイッチスタンス=小宮山愛が無謀にもオキシジェンを支配しようと試みた時のシーンを引用する。

 

「僕から意思を奪うだと? ……いくらでも持っていくがいい。ただし……そこに運命の本質を見て、己というものを全く鍛えていないおまえの意思が、どこまで保つかは保証しないがな……」

 彼の冷ややかな声など、小宮山の耳には届いていないようだった。彼女は、彼女の内部にあの靄と共に入り込んできた”認識”によって今や押し潰されそうになっていた。

「……そんな、そんなことって……それじゃあ、それじゃあこの世には……何の理由も存在しないって……世界は、世界はただの……ぐ、偶然が……」

 

 スイッチスタンスが自分を見たものを偶然と呼んでいることに注目してほしい。 

 これは明らかに、ユージンの「世界のバランス」や寺月恭一郎の「流れ」とは異なった認識である。〈神秘主義的な運命〉の根本には、"何らかの秩序があり、それが我々を操作している"という発想があった。だが、オキシジェンの操る「運命」は、秩序ではなく、偶然性を認識した先に現れるものだ。なんの意図も意義もない偶然が、我々の人生と運命を支配しているという理不尽。ジンクスショップで販売されていたような、「黄色信号を無視するかどうか」「金色のヘアピンを刺しているかどうか」とかいう極めてどうでもいいイベントが、我々の人生の成否を決定しているという理不尽さ。スイッチスタンスが耐えられなかったのは、恐らくこの理不尽さに対する認識であった。

 

 この認識のことを、本論では決定論的な運命〉と呼ぶことにする。

 そして、なぜそう呼ぶことにするのかを説明する前に、まず〈決定論的な運命〉が持つ2つの明確な特徴を提示しておこう。

 

  1. その人間の「運命」は、過去から未来に至るまでの、ある時点で決定する
  2. 普通の人間は「運命」の分岐点がどこなのか、知ることはできない*21

 

+〈決定論的な運命〉の特徴~『酸素は鏡に映らない』

 

 少し唐突気味に〈決定論的な運命〉という用語を提示してしまった。ここからは、用語の具体的内容が読み取れるシーンを詳しく見てみよう。せっかく*22オキシジェンの話をしているので、ここでは『酸素は鏡に映らない』を用いたい。 

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

 

 『酸素は鏡に映らない』は、電撃文庫によるブギーポップシリーズではなく、講談社が「少年少女向けミステリーを著名な作家陣に依頼して出す」という趣旨で03~16年の間刊行していたミステリーランドというレーベルから出た作品だ。そのため本作品は、少年向けということを意識して、主人公が小学生男子、サブ主人公が平成ライダー俳優、子供が好きそうな宝探しが本筋……みたいなジュブナイル設定がふんだんに盛り込まれている。がしかし、こればっかりは上遠野浩平の悪癖ではないだろうか。恐らく筆が暴走した結果、完成した作品はどう見ても「統和機構アクシズのオキシジェンが死ぬ話」である。子供向けとしては難解かつ暗すぎる上、既存シリーズを知らない大人のミステリファンからすら、なんか裏に設定があるっぽかったのに全く説明不足で終わった、とか感想を書かれている*23(困ったものだ)。

 とはいえ、そういう作品であるからこそ、『酸素は鏡に映らない』は、オキシジェンと彼が体現する「運命」の特徴を検討するのに最適といえよう。

 

 この作品のプロローグを引用する。オキシジェンの登場シーンなので、必然的に「運命」の存在を暗示する内容になっている。

 シーンは、健輔という少年が、珍しいクワガタを追いかけて公園に入ってきたところからはじまる。公園にはオキシジェンがブランコに座っていて、ちょうどオキシジェンの膝の上にクワガタが止まる。そしてオキシジェンが唐突に口を開く。

 その影の薄い男は、健輔のことをいやにまっすぐな瞳で見つめている。やがて彼はその個性のない形の唇をひらいた。

「……ふたつにひとつ、だ」

「え?」

「欲しいものを諦めるか、それとも死ぬか……どっちがいい……?」

「え、えと……」

 戸惑った健輔は、その場で少し立ちすくんでしまった――そして、それが彼の命を助けることになった。次の瞬間、公園に面した道路のほうからいきなり、一台のオートバイが茂みを突き破って飛び出してきたからだ。ぶおん――という風を切る音が、健輔の目の前を通り過ぎていって、それはもし彼がクワガタを取ろうとして足を進めていたら、確実にぶつかっていた場所――そのものだった。

 健輔が呆然としていると、後ろからあのぼそぼそ声が聞こえてきた。

「――生命の方を、選択したわけだな……。」

 はっとなって振り向くと、男の膝からこの騒ぎに驚いたクワガタが、ぶうん、と空に向かって飛んでいってしまった。

*一部引用者による中略アリ

 

 上で述べておいた、2つのテーゼがかなり直截に表現されているのがお分かりだろうか。

  

 まず、主人公の健輔少年の「運命」は、最初の時点で決定していなかった

 健輔少年の運命の行く末が決定したのは、彼がクワガタを追いかけるかどうかを決めた時である。つまり「運命」は一本道ではなく、それぞれの人生にはちゃんと選択肢がある。これが先に示した1つめのテーゼで本論が言わんとしてたことだ。『パンドラ』でユージンが危惧していたような、最初から決まっていたからそうなるしかない、みたいな話ではないのだ。この点が〈神秘主義的な運命〉と明確に異なる。

 

 しかし、健輔少年は「運命」が決定した瞬間を認識できなかった。

 というか、誰が自分の命とクワガタが天秤にかかっているなんて思うだろう? 予知能力者でもなければ、そこに運命の選択があることなど予想できるはずもない。そして、予想できないのだから、運命の選択は常に軽率にならざるを得ない。これこそ本論が提示した2つめのテーゼである。少年は極めて軽率かつ、無自覚に、自分が死ぬか生きるかという真に重要な選択をした。もしもオキシジェンに声をかけられなければ、そこに"クワガタか死か"という運命の分岐点があることすら認識しなかった。

 これによって、新しい運命観は結果的に〈神秘主義的な運命〉と同じ効果をもたらす。自分自身で運命を決定できないことと、前もって運命が決定されていることで、当の本人にとって何の違いがあろうか。

 上遠野浩平は、おそらく意図的に、キャラクターたちの重要な分岐点を、物語の極めてどうでもいい時点に配置する*24。キャラクターの「運命」は、一見なにも関係のないような軽率な決断によって――よくあるパターンとしては、自分の能力ならどうせ勝てる敵だからついでに潰しておこう、とかいう決断によって――左右される。そしてそのキャラクターは、自身がその時重要な決断を下していたことに手遅れになってから気付き、たいていはそのまま死ぬ。

 

 

+〈決定論的な運命〉は常に手遅れ

 

 更に重要なのは、健輔少年の運命の分岐点は「バイクが飛んでくる」という危機を認識した瞬間ではなかったということである。危機を認識した瞬間、あるいは敵との戦っている最中、それらは「運命」の視点から言えば既に手遅れなのだ。

 

 本論が、決定論的な運命〉という用語を提案するのはそれを表すためだ。

 例えば、ボールを遠投する時のことを考える。ボールはどこに落ちるか? それはボールを投げた瞬間の力、風の強さ、ボールの重さや大きさ、地球の重力といった要素によって決定する。つまり、ボールの向かう先はボールが落下する前に既に決定しており、このことを、"ボールの落下地点は決定論的である"とか、"落下地点を決定論的に求めることが出来る"とか言う。

 つまり、「運命」の結果も、ボールの落下地点同様、実際にそれが起きる瞬間よりもずっと前に決定している、という話だ。それは単純な因果関係の作用によるものであり、〈神秘主義的な運命〉が想定していたような、秩序だった方向性や何者かの意図した操作ではない*25。むしろ、この「運命」には基本的に誰も介入できない。この世の全ての人間は、何が”ボールを投げる”行為に相当するのかすら、知ることができないからだ。

 一言で言えば、決定論的な運命〉のもとでは、あらゆる対処は常に手遅れになる

 わたしたちが○○を上手く操作して成功させたい、と考えたり、あるいは、××が起こりそうだ念のため逃げておこう、と考えたりすることはほとんどの場合無駄である。個人が意思決定を行う頃には、大抵の「運命」は既に決定しており、我々が何を悩もうと結末を左右することはできない。

 

 この認識は、よく小説の場面転換に利用されている。

 例えば以下は、『ビートのディシプリンside1』における、ピートビートが学校の教室で欠伸をして、それを見て浅倉朝子がニコニコするという、極めて平和なシーンの直後の描写である。

 一見すると、やや風変わりな乱入者はいても、いつもと大して変わらない学校の風景ではあった。

 ――だが既に、”モーニング・グローリー”を巡る、この錯綜する事態は大きく動き始めており、取り返しの付かぬ運命のうねりが学園を覆いはじめていることを、この学校に居る者はまだ、誰一人知らない。

 

  もう一つ、場面転換の例を示しておく。『ヴァルプルギスの後悔 Fire1.』で、霧間凪と羽原健太郎が、浅倉朝子の知り合いだという理由でラウンダバウトを助けた直後のシーン。

  凪には――この傷ついているとはいえ、怪しいことこの上ない男装の少女を”助けない”という発想がそもそも浮かばないようだった。それが霧間凪という人間である。だがその性格故に、今――彼女は後戻りのできない決定的な一歩を踏み出してしまっていたことを、健太郎も凪自身も知るよしはなかった。

 

 いずれも、はっきり言って陳腐な場面転換の描写である。

 なにしろ「主人公たちはこのストーリーの先に待ち受ける運命を知るよしもなかったのである……」だ。陳腐でないわけがない。しかしある時期以降の上遠野浩平は、この陳腐な場面転換をむしろ多用する。

 キャラクターの将来に事件が起こることは既に決定しており、しかも彼らは自分たちの運命を知らない、ということが、上遠野浩平の物語世界にとって極めて重要だからだ。上遠野浩平のキャラクターたちは、だいたいいつも、既に手遅れになった事態の中で右往左往している。

 

 

+〈決定論的な運命〉と、第2期上遠野浩平の始まり

 

 以上、初期の上遠野浩平においてみられた〈神秘的な運命〉がある時点で後退し、オキシジェンの登場とともに、〈決定論的な運命〉が上遠野浩平の作品世界に現れたことを論じた。記事の最初に、上遠野浩平の作品全体のテーマが「可能性」から「運命」に移行したと書いたが、正確に言えば、作品の中心的テーマとなったのはこの〈決定論的な運命〉である。

 この決定論的な運命〉の登場をもって、第2期上遠野浩平が始まっているのだと本論は主張したい。

 

 本記事では話の流れの都合で『ジンクスショップ』をターニングポイントとして紹介したが、第2期の最初がどのポイントだったかを明確に確定することは控える。継続的に年に何作も作品を出し続ける必要があるラノベ作家のことであるから、その変化はシームレスで、明確な変更点を決定すること自体が恐らく適切ではないし、『ジンクスショップ』は変化のピークではあっても開始地点では恐らくない。…… 強いて言えば、『ペパーミントの魔術師』の時点ではまだ変化は起こっていなくて、あのあたりまでが明確な第1期でいいのではないか? その次に出版された『エンブリオ浸食/炎生』ではまだ可能性がテーマの中心であるものの、タイトロープによって可能性操作という概念が姿を見せた。更にその後の、『ハートレスレッド』や『ホーリィ&ゴースト』では〈世界の敵〉とMPLS能力は単なる物語の背景と化しているし、徐々に決定済のものとしての「運命」が片鱗を見せ始めている。また、ゼロ年代前半の連載だった『ビートのディシプリン』や、新規作品の『事件シリーズ』『虚空シリーズ』も、明らかにテーマの軸足が「運命」寄りである。

 恐らくだが、上遠野浩平にとってもこの展開は手探りなところがあったはずだ。第2期上遠野浩平では、初期の上遠野浩平にあったような、出す作品が毎回名作! というシンプルな破壊力は後退し、これは面白いのだろうか? と一旦は首を傾げるような、でも上遠野節としか言いようがなくて好きだ、そんな作品が増えていく*26

 そういう作品も、〈決定論的な運命〉という軸足を意識することで、明確に作者の意図をくみ取り、より楽しむことができるようになるのではないかと思う。

 

 今回の記事は、概念の紹介に終始してしまい、あまりそういう面白い解釈論について踏み込めなかった。次回は〈決定的な運命〉という認識から生まれた上遠野浩平の新たな世界観について語ろう。

 先に予告してしまうと、それは戦士たちの世界である。

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:なお、最初は「中期上遠野浩平」と書いていたが、そうすると「後期」が発生してしまうので、表現を変えました。まだ現在進行形の作家ですからね。

*2:僕自身そういう風に感じつつ作品を買っていた頃があった。

*3:『パンドラ』は言ってしまえば「超能力者がセカイを救う」話であって、例えば『笑わない』の「実はセカイを救っていたのは紙木城直子=ただの優しい娘でした」と比べると普通の展開ではある。

*4:なお、『歪曲王』は逆にファン歴が伸びるほど読み返す回数が増えた。

*5:"セカイとの断絶"については連載の第4回で詳しく述べた。

*6:本当にに世代一般に刺さらなかったかどうかは、当時中高生だった筆者の主観がかなり入っているが……まあ的外れではないと思う。

*7:オカルト要素は『エヴァンゲリオンの謎』等で大いに消費された。エヴァ謎本の類が流行ったのは昔オカルトが好きだった層がアニメにお金を出す世代を占めていたからという部分が大きかったのではないか。

*8:関係ない話なので脚注にて詳しく述べる。ガイア仮設とは、元は「地球を一個の生き物であると考えれば恒常性や新陳代謝の概念を自然環境全体に適応できる」ということを述べた学説だった。しかしオカルト的な誤った理解により、地球は生き物である→生き物だから意思がある→地球には意思や記憶や感情がある、という変遷を遂げてしまった。この誤読に基づく有名な作品としては『おもいでエマノン』『星虫』『ファイナルファンタジー7』などを上げることができ、いまでもこれらの名作群が、ガイアの意思、みたいな誤読的理解を再生産し続けている。本来のガイア仮説の考え方は、今では「生態圏(バイオスフィア)」と呼ばれている。誤読抜きのガイア仮説は別にトンデモではなく、生物多様性とか環境保護のバランスとか、そういう問題を考える最初の一歩となった、有効な比喩だったと評価されている。

*9:これについて脚注で説明するのは僕の手には余る。興味のある方は「進化は漸進的ではない」などのワードでgoogle先生に訊いてみていただきたい。

*10:進化論の伝道師スティーブン・ジェイ・グールド『パンダの親指』がベストセラーになったのは、『笑わない』と同じ96年。その後、グールド最大ヒットの『ワンダフル・ライフ』は2000年の出版だった。グールドのヒットにより、アノマロカリスが有名なったり、この本を基にしたNHKスペシャルが便乗ヒットを飛ばしたりした。

*11:2001年ごろで、僕は大学生だった。

*12:否定していたものに追い付かれてしまう、というのがストーリー上の役回りではあるが。

*13:虚空牙とか魔女とかいった存在は、セカイの断絶の向こうにあるなにか大きなモノを利用はしているかもしれないが、大きなモノ自体ではないのだ。これについては『ヴァルプルギスの後悔』についての考察で述べたい。

*14:今となっては上遠野サーガにおける神の非実在は当然にも思えるが。しかし、初期ブギーポップの時点では、エコーズが何かしらの情報を送った先が「神」である……と誰もが想像していたのではないだろうか? そんな中、上遠野浩平はその方向性を明確に否定したという、これはこの人の天才エピソードの一つに数えて良いと思う。

*15:上遠野浩平が「運命」を発見しつつ否定の方法を探していたという点は、これまでの論で述べてきたような、上遠野浩平作品における希望と絶望の相克の一部とも読むことができるであろう。

*16:とはいえ〈神秘主義的な運命〉は完全に消え去ったわけではなく、例えば、短編『ギニョールアイの城』は〈神秘主義的な運命〉に操られ続けた少年の人生を描いた作品である。

*17:「運命」が作品のテーマとは全然関係ないタイミングでふいに顔を出す一例として、『ハートレスレッド』には、ブギーポップに運命論を持ち出された霧間凪が「運命なんて考えは甘えだ」と運命の実在を否定し、しかしブギーポップには「君はとても強い。だからこそ運命に縛られている」と反論される一幕がある。

*18:それでも老執事とお嬢様のストーリーは本当に感動モノで、過小評価されてるところがあると僕は思う。同じような自己犠牲的な愛のストーリーは『騎士は恋情の血を流す』で再度描かれていて、上遠野浩平の真骨頂の一つだ。

*19:独我論とは、「自分以外の他者に精神や思考があるかは原理的に確認できない」という理屈を用いて、自分の認識していないモノはセカイにおいて確実ではないと看做す、哲学的解釈の一つである。この解釈を採用すると「確かに月に人類が着陸したというニュースは聞いたが、俺は月に行ってないので、月にはウサギがやはりいるのではないか」みたいな不毛な事が起こる。

*20:全くの想像なので脚注にしまい込んでおくが、これは上遠野浩平の狙い通りというより、単にシリーズを継続する上で避けては通れない道だったのではないかと思う。デビュー作から数作の範囲にあるうちは統和機構が謎に包まれていてもよかっただろう。しかし上遠野浩平という作家は、謎の組織の実態を永遠にはぐらかすほど不誠実な書き手ではないし、はぐらかし続けることが可能なほどの器用さを持ち合わせてもいない。

*21:なお、二つの特徴が導く論理的な帰結により、3.「運命」は理不尽である。という特徴も現れることとなる。第2期以降の上遠野浩平作品では、しばしば中心的テーマはこの3番目のテーゼになるが、その前提にはやはり1番と2番のテーゼがある。

*22:決定論的な運命〉に関する話は、2期上遠野浩平の中核であることもあって、実はどの作品を紹介してもその特徴をくみ取ることはできる。また連載第6回のように、個別な作品について語る回を設けるかもしれない。

*23:オチで急に末間和子(大学生)とカレイドスコープとか出てきて、彼らが誰なのかはブギーポップを読んでないと判らないんだから、残当と言わざるを得ない。

*24:たぶん、見るからに重要な瞬間が運命の分岐点であることもない訳ではないのだろうが。

*25:オキシジェンのような可能性操作能力者、あるいはその究極である魔女たちは、因果関係の全容を感知することで運命を操作するが、因果関係という仕組み自体を改編するわけではない。この点はかなり重要であり、恐らく今後の考察で改めて触れることになるだろう。

*26:このゼロ年代上遠野浩平から離れた読者がかなりの数いるのは正直しかたないと信者の僕としても思う。けれども、10年代になると上遠野浩平は何か吹っ切れたところがあったのか、今はまた名作を連発している。ぜひまた読んで欲しい。

岡山県真備町・小田川の決壊における背景

 今回は、このほど岡山県倉敷市真備町で起きた洪水について書きます。

 被災者の皆様におかれましては、お悔みとお見舞いを申し上げます。

 

 しかしそれにしてもなんてタイミングで起きた災害だったか。

 今回決壊したのは、倉敷市真備町の南を流れる小田川という川です。ここはずっと前からヤバイヤバイと言われていた場所で、言ってしまえば、水害が懸念されていた場所で水害が起きたという、当たり前の事故でした。しかもこれは、人災といえば人災だが、誰が悪いとも言いにくい。何しろ、まさに今年から対策工事を始めようとしていたところに本当の災害が起きてしまうという。なんとも無念さの残るとしかいいようがない事態でした。

 既に県からの発表を受けて、そういった報道も始まっています。

www.sanyonews.jpmainichi.jp 

 でも字幅の問題がありますので、新聞記事を読んだだけではわかりにくいと思った。

 なので今回の記事では、こういった報道が言っていることの背景情報として、真備町という場所がなぜ危ないとされていたのか、どんな対策工事がされようとしていたのかについて、個人的にブログにまとめておきたいと思います。

 

 

+現地の地形~小田川と柳井原貯水池

 まずは被害をうけた真備町と決壊した小田川の地形について。

 

f:id:gentleyellow:20180710092033p:plain

 

 真備町は、小田川という川が、岡山県におけるメイン河川の一つである高梁川に、ちょうど合流する箇所にあります。

 実はこの河川合流点は、人工的に作られています。もともとの川は、今は柳井原貯水池になっている場所を流れていました(地図からも貯水池がなんとなく川っぽい形をしているのがわかります)。

 明治期に高梁川の堤防を作ったとき、堤防を作るついでに川の合流箇所をショートカットして、余った河道をしめきって農業用水確保のための貯水池にしました。

 

 参考リンク: https://www.jcca.or.jp/kaishi/253/253_doboku.pdf

 

 しかしこのせいで小田川はとても溢れやすい川になってしまった。

 

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 こういう風に川が流れにくくなることを「バックウォータ―現象」というそうです。

 戦後期から真備周辺はたびたび内水被害を受けており、その原因が小田川高梁川合流点にあるのは明らかでした。

 

 

+柳井原堰の計画と脱ダム

 

 問題があるのは明らかでしたので、国は対策事業を立てた。

 それは、高梁川総合開発事業といい、柳井原堰の整備を軸とするものでした。

 高梁川総合開発事業は、岡山県の西側に位置する高梁川と河口から約13.4㎞付近で合流する支川の小田川との合流点を現況より約4.6㎞下流に付け替えることにより、小田川の高水位を低下させて洪水及び内水被害の軽減を図ると共に、高梁川本川狭窄部の治水安全度の向上を図る。また、新たな合流点付近に流水の正常な機能の維持、水道用水の供給を目的とする柳井原堰を建設するものである。

  これはネットで見つけた当時の資料の引用です*1

 図にするとこう。

f:id:gentleyellow:20180710112304p:plain

 

 しかしこの事業にはなかなか着手できなかった。

 どうもダム建築に地元の反対があったらしいですね*2。そして、反対に対応する形で、計画の見直しを繰り返しているうちに、社会情勢の方が変わってしまった。

 2001年の長野県・田中知事による脱ダム宣言を受けて、全国でダム事業の見直しが行われました。岡山県でも2002年、柳井原堰の事業計画は国に「今後は治水のみによる事業を」と中止の申し入れがされました*3

 長野の脱ダムはかなり紛糾しましたが、岡山県のこの見直しのほうは、比較的妥当なものだったようです。もともと柳井原貯水池は農業用貯水池として作られた割に農業用水としての利用がほとんどされていなかった。ダムによる水利事業は必ずしも必要ではなかった訳だ。しかもこの地域は倉敷市中心部からもまあまあ近く、都市開発が進み田んぼがずいぶん減っていました。

 とはいえ、小田川の危険個所の是正はこれでずいぶん後回しになった。

 

 

+いよいよ事業をスタートしたところだった

 

 その後状況が動いたのは、2010年のこと。

 ダムは建設せずに小田川の付け替えだけを行う、小田川付け替え事業がスタートした。今度こそ地元の理解も問題なく、半世紀ごしの懸案が解決に向かっていくことになった。

 事業は工事期間10年、総事業費280億円と、県内有数のビックプロジェクト。

 有識者と専門家の委員会やら、業者による各種設計業務やらを繰り返し、ようやく工事に着手する予定だったのが今年。今年は本格的工事の前段階として、工事用道路や仮堤防の整備をすすめる計画となっていて、それらの工事の施工業者も既に決まっていて、施工は秋からの予定。まさにさあこれからといったタイミング。

 そこに今回の大雨が起きてしまった。 

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 今回の雨では、とても大きな河川の高梁川からして溢れてしまっています。この地図で言ったら右下にあるイオンモール倉敷では平面駐車場が浸かったという噂も災害当時聞いたし。ここから更に上流の総社市高梁市でも大雨被害は大きく、特に総社では高梁川沿いにあったアルミ工場で爆発事故*4が起きたりしました。

 そんな状況なものだから、高梁川よりも性能の悪い小田川はもう全然ダメだった。水が堤防を越えて流れ出し、堤防の土をその水が削り出し、ついに堤防が決壊したそうです。今も復旧作業や被害状況の確認が行われているらしい。より詳しい状況はその報道を待たねばなりませんが。

 

 なんで僕がこの記事を書いているかというと、大雨報道で被害区域に真備町の名前を聞いたとき。県内の小田川周りの事情を知ってた人はみんなそうだと思いますが、「ああ~~起きてしまったか~~~」という気持ちがね。防げたはずだったというか、防ぎに行くところだった災害が防げなかったことが、非常に残念という。やるせない気持ちがありますよね。

 

 

+強いて教訓を考えるとするならば

 

 僕は別に専門家ではありませんし、被害を直接受けた訳でもありません。単に小田川の工事予定についてたまたま地元の資料を読んで知ってたというだけです。

 だからあんまりあれこれ言うのは良くないのかもしれないが、それでもやっぱり思うところはある。

 

 第1には、やっぱり脱ダム宣言とか、コンクリートから人へとか、公共事業は悪みたいな風潮は間違っていたということ

 当時の判断としては、そういう潮流が生まれるのは致し方ないところがあったのは確かです。公共事業のムダはだめ、みたいな話に危機感を覚えていた人なんかいるんですか。少なくとも僕は違う。たぶん柳井原堰には実際問題があったんだろう。

 けれど、やっぱりそれぞれの地域にはそれぞれの事情があって、公共事業はそういう事情に即して立案されたものです。やったほうがいい工事は高額な税金がかかってもやったほうがよくて、素人が税金のムダだけを見て反対運動に突入する前に、少なくとも「前に専門家がこれが要ると判断したことがある」ことは重視するべきだった。

 

 第2には、そういう間違った風潮はちゃんと是正されているということです

 今回は間に合わなかったけれど、小田川付け替え事業はまさに実行されようとしていた訳です。実行されていれば今回のような被害は起こらなかっただろうし。当然、今後も事業は進むのだから、今回のような被害は二度と真備町に起こらない……少なくともリスクは大幅に減るはずです。

 そういう計画が、実際に災害が起きてからの後手後手ではなく、実行されようとしていた。これはやっぱり希望なんだろうと思います。

 

 だからまあ、きっと大丈夫だ、というね。

 政治家が飲み会してたから怒るだとか、迷惑なボランティアが千羽鶴を送ってくるから怒るだとか、自民で良かったとか民主が良かったとか、災害後を心配すればするほどそういうマイナス面の発言をしちゃうけども、思ったよりポジティブなことはあるんだという。それを知ろうとしたり報道したりSNSで共有したりしてもいいんじゃないかと。ぼんやり被災地近くの外野から考える訳でした。

 

 あと、もし反省が必要としたら、とりあえず自分の自治体のハザードマップぐらい再確認したほうがいいでしょうね。真備町に住んでた人たちには、小田川のことを知らない人多かったのかなと思うんですよ。

 

 

 

 

 

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 ここから追記

 本記事はまあまあの好評をいただきました。早い時期に書けたのがよかったのだろう。お読みいただきありがとうございます。

 早い時期に書いただけあって、結構内容に怪しいところもある記事ですが、いくつか参考になるコメントもいただきました。コメント返しをしておきますね。

 

>状況が動いたのは、平成19年(2007年)です。
>そしてその途中で、平成22年(2010年)の民主党事業仕分けで妨害されてます。
>そして小田川付け替え事業が復活したのが平成29年(2017年)です。

 

 確認してみました。

・基本計画の検討を始めたのが2007年

・計画を高梁川整備計画に明記したのが2010年

・事業着手が2014年(設計等の開始)

・設計等が完了して工事予定が確立したのが2017年

 のようです。

 この手のデカい公共事業はたいてい、基本計画を作る>基本設計をする>実施設計・環境アセスをする>工事に入る、という順番で進むのですが、どうもネットや報道では情報源によって、どこを「小田川付け替え事業の復活」と見るかが異なるようですね。

 あと、民主党事業仕分けの影響が小田川にあったかどうかを断言するのは、できれば控えたほうがいいと個人的に考えています。別に仕分けの中で小田川の名前が出た訳じゃないし、2010年の高梁川整備計画に計画が明記されており、削除されたという事実はないからです。

 もっとも、河川関係の防災予算の削減があったのは事実で、そのことが実施時期にどう影響を与えたかは、確かなことが言いにくい部分です。それに、いずれにしても事業仕分け自体が良くなかったのは記事の中でも述べた通り。コストの額しか見てないところがあった。

 

 

>これはしかし、元々の川の流れを変えて人工的に無理な合流地点を作ってしまっていた明治時代の人々の責任でもあると思うけど?
>そのせいで小田川が溢れ易くなっていたとの事だし、行政がのんびりしすぎてますね。

 

 明治時代にはまだ水防の知識が発達しきってなかったのでしょうね。それに、真備町で災害が起きだしたのは1970年代ぐらいからのようです。つまり明治時代には溢れてなかったということ。恐らく、高梁川堤防が完成に近づくにつれ、高梁川が溢れにくくなった反面水位が上がりやすくなり、バックウォーター現象が起こるようになったのでしょうか。

 国がのんびりしていた、という批判は僕はどうかと思います。というのも、柳井原堰が出来なかったのは地元の反対を無視しなかなかったからだし、2002年で事業中止になった後2007年に再検討を始めるというのは、僕の感覚からいうと十分早い範囲だからです。もっと早くはできただろうけど、既に改善してたり取り掛かったりしているものの責任取りをしてもしょうがないよ。

 あと、その間にも堤防の更新は別の場所で進んでいる、というのもありますしね。県内では岡山市中心部を通る旭川百間川では、今回の雨による浸水被害はほぼありませんでした。小田川高梁川の他、溢れそうになっていたのは、笹ケ瀬川・砂川などで、これらもまた、今まさに堤防の工事をしている河川です。

*1:

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00549/1999/51-0665.pdf

*2:当時の反対運動のことはもっと資料を掘り下げないとわからない。誰か詳しい人がこの記事を読むことがあるのだろうか。

*3:岡山県内で他のダムも見直しの対象になっているが、ここではそれは省略。

*4:こっちはこっちで大変な被害です。総社の件もまた、高梁川下流がちゃんと流れれば防げたかもしれない。

真の「民主主義の死」は公文書偽造で起きているのではない

 今回は民主主義について書きます。

 というのも、このほどのモリカケほか公文書偽造の件でもって、「民主主義の死である」などという意見が散見されるからです。その意見は正しい。公文書の偽造がまかり通るようになると、民主主義は立ち行かなくなる。

 しかし、僕が気になったのは「君たちは偽造が発覚するまで、民主主義がまともに生きているとでも思っていたのか?」ということです。公文書偽造によって理想の民主主義は確かに立ち行かなくなりますが、理想を実現するためには他にもいくつかの条件があり、それは今の日本で明らかに満たされていません。民主主義は最初から生きてなどいない。下手をすると、立ち行くことなど原則ありえない制度が民主主義であるかもしれない。

 もしも我々が、赤い布を見た牛の如く単にズルい奴に怒ってるのでなく、あるいは憲法改正に反対という理由で敵の弱点を見つけて喜んでいるのでもなく、本気の本気で民主主義を生き返したいと望んでいるのならば、安部政権以外のにも同じ怒りを向けねばいけません。

 具体的には、教育と、マスコミと、自分自身に怒りの矛先を向けねばならない。

 そして逆に、敵には怒りを向けることなく意見を聞かねばならない

 なにより、野党に方針の変更を求めないといけない

 

 本記事では僕なりに、理想的な民主主義とはどのような状態になるのか? ということと、それを阻害している今の日本の問題点とは? を書きます。それによって、本当は何に怒らねばならないかをハッキリさせます。

 

 

 +理想の民主主義とはどういう状態か

 

国会中に遊んでいる人たちのイラスト

 まず、民主主義とは何か、について。このような記事を読もうと思った人に言うのは恐らく釈迦に説法でしょうが、記事の流れとして。

 

 民主主義(デモクラシー)とは、民衆が主権者である政治体制のことです。

 

 これは何も複雑なところの一切ない、非常にシンプルな考えです。

 つまり普通の国ならば主権者は王様です。王様と同じ役割を国民がする国が民主主義国家です。自由だとか権利と義務だとか、そういう意味は一切含みません。王様に逆らってはいけないように、ただ国民*1に逆らうな。それだけの話です。

 実務としては、歴史上はじめて民主主義を実践した都市国家アテネやそれを参考したローマのように、投票と議会を運営します。

 しかし、それはどうやって上手く運営するのか?

 この時点で話が複雑になりだす。アテネの民主主義は衆愚政治収賄と独裁の繰り返しだったのは高校レベルの世界史で学んだ通り。そうならない為にはどうすべきか?

 理論的には、どういう状態になればいいのかは、ハッキリしています*2

 

  1. 人国10万人の国で、A、Bさんが大統領に立候補する。
  2. 十分に賢い国民が情報を精査し、どちらがふさわしいか判断する。
  3. もしAが7割の正しさ、Bが3割の正しさを持っているとしたら、国民は十分に賢いのでそれを見抜き、A´グループが7万人、B´グループが3万人に分かれる。
  4. A大統領が就任し、全ての国民がそれを認める。
  5. A大統領はA´グループだけでなく、B´グループに配慮した政策を実施する。なぜならB´グループの3万人が反乱を起こすと国が転覆するので。
  6. 同じプロセスが定期的に行われる。

 

 本記事ではきっかけが公文書の話なので、まず2を話題の中心に据えることになります。

 

 

+偽装のない公文書がなぜ理想の民主主義に必須か

 

 かわいい王様のイラスト大臣のイラスト

 上で述べた理想の民主主義プロセスを正しく回すには、偽装の無い公文書が必須です。だからみんな公文書偽装に怒っています*3

 

 民主主義とは、先に見たとおり、王様と同じことを国民がするということです。

 じゃあ王様とは何をするものなのか

 

 ここではイメージ優先にまとめましょう。

 王様が玉座に座ってると、部下から報告が挙がってきます。「○○という地方で干ばつが起きております」「○○に敵が攻めてきました」「○○のためには税金を集めねばなりません」などなど。それを基に、王様は、支援物資を送れ、敵を迎撃せよ、徴税権を地元有力者に与えて仕事をさせよ、とか政策を決定します。*4

 このとき重要なのは、王様は基本的に○○を自らいちいち見に行ったりしない、ということです。

 あくまでも部下の報告を基に判断する

 

 では、もしその報告がウソ情報だったら? 王様はウソ情報をもとに判断して、間違えるでしょう。

 王様が部下に騙された事例は歴史上いくらでもあります。奸臣がウソの反乱計画を王に教え、忠臣が切腹を命じられて、最終的に国が亡びるだとか。そんなことはかなり頻繁に起きています。

 だから公文書偽装はイコール亡国の危機なのです。

 王様が間違えたら 国がほろびる。

 だから間違えの原因になる要素はあってはならない。当然のことです。

 

 ……しかし、公文書に偽装さえなければ王様は間違えないでいられるのか?

 僕がひっかかってるのはそこだ。

 

 

+公文書以外に必要なもの

 

 グループディスカッションのイラスト

 民主主義は、結局のところ国民が王様の役をする制度です。

 ですので、理想的な民主主義とは「国民が政治判断を間違えない状態」を意味します。政治の理想とは政治が上手くいくことです。国民が間違えてもいいんだったら、それは公文書に偽造があってもいいということだ。

 

 それを踏まえて、上で確認したプロセスをもう一度確認しましょう。

 

 たとえば2番目の項目には、「十分に賢い国民が」政治を判断するのだと書いておきました。王様が無教養だと政治は間違える。これもまた当然のこと。さて我々日本人は、というか「あなた」は政治を十分に賢く判断しているのか? もっと言えば、そもそも判断をしているか? インフルエンサーが拡散した自分に都合のいいツイートをRTしてるだけではないか? 考えることを放棄して、国民がそもそも政治的判断をしないことも、当然ここでは問題になります。

  あと、3項目には、10万人の国民が7万と3万にピッタリわかれるとも書いておきました。今の日本の投票率はだいたいどんな選挙でも3割~4割ぐらいですから、国民はせいぜいAグループ3万人とBグループ1万人に分かれ、のこり6万人は態度不明のNグループです。6割がた態度不明の王様とか、結構な害悪ではないでしょうか。しかも、ちゃんと投票した4割の人たちは"政治的に熱心な人"が主で、それは悪く言えば、中立的で冷静な人が少ないということ。投票した人の意見だけを反映した政治は、中立性を失っているかもしれない*5。それは民主主義的に問題があるんじゃないのか*6

 5項目めには、代表者は反対派の国民の声も聴くことも必要だと書いておきました。上の例えでは代表者は大統領ですから、反対派とは少数派とイコールですが、選挙区制をとる日本の場合はそうではない。議員は、自分自身を支持者たちだけの代表者としてではなく、他候補を支持した地域の人たちの代表でもあると考えねばならない。テレビでよくみるあの議員さんは、自分に投票しなかった人の意見を聞いて、自分の意見に取り入れたりしているか?

 

 こういう理想の民主主義の話なんか、この記事をクリックした政治的に熱心なブロガーさんたちは、言われるまでもなく知っているでしょう。

 でも、僕がこの記事で言いたいのは、「ほならね、公文書偽造を怒るのと同じ勢いでね、国民の不勉強に怒ったり、無投票に怒ったり、したんですか」みたいな話なんです。

 もっと言えば「ほならね、公文書偽造した人らの言い分をそもそも聞こうとしてない政治家たちが*7、普段は、自分とは反対の意見に耳を傾けたりしてるというんですか」とかね。

 

 この憤りに何の意味も効果もないことは分かってる。

 確かに不正に怒ってるときは怒りにまかせて行動したほうが運動は盛り上がるかもしれない。

 でも筋が通ってないモンは、やっぱり筋が通ってないんだよ。

 

 

+特に必要な「ジャーナリズム」に基づく報道

 

 嫌な面接官のイラスト(就職活動)

 なかでも特に大きな問題がいくつかあります。

 そのうちの一つとして、理想の民主主義が実行されていない状況でとりわけ批判の対象にされるべきなのが、マスコミでしょう。

 

 皆様は「ジャーナリズム」という概念について正確なところを、ご存知でしょうか。

 ジャーナリズムというのは、18世紀に新聞(ジャーナル)ってものが出てきた時に、政治報道を主に行っていたその新聞を運営する上で持つべき倫理感という意味で語られ出した概念です。

 なぜ倫理観が問題になったのか? それは、インターネットも無かった当時、民衆にとって新聞だけが政治的判断を下す材料だったからです。民主主義下に置いて民衆が王様ってことは、王様は新聞だけを見て政治的決定を下しているということ。冷静に考えて、こんな怖い話があるか? だからまあ、せめて新聞を作る人にはかなり慎重な良識を持ってもらわねばならない、という。ジャーナリズムというのはそういう話。つまり、ジャーナリズムの良しあしっていうのは「民主主義の役にたっているか」だと言っていい*8。よく言われる客観報道とか真実を伝えるとかいう話は、そうしたほうが民主主義に役立つから言い出したことです。

 

 そうした理解を前提にすると、果たして今の報道ってのは、「民主主義の役に立って」いるのか? 

 これは本当に問題だと思ってるんですが、今の政治報道には、そもそも「民主主義の役に立とう」という意識自体が希薄です。

 

 もちろん、 芸能人のワイドショーや煽情的なだけの犯罪報道やりながら、ジャーナリズムがどうとか知る権利がどうとか、ちゃんちゃらおかしいわ……みたいな話は当然としてですよ。

 例えば「この報道で社会正義を成したい」だとか「国民を正しい方向に導きたい」だとか「悪の政治家を懲らしめたい」だとか。報道の人たちはそうやって考えている人が多いんじゃあないでしょうか?

 そんな心持ちで報道が成されてるっていうのは、国民=王様というこれまで繰り返してきた民主主義の比喩から言えば、王様の耳もとで「あいつ気に入らないから左遷しましょう」と囁き続けてくる部下が居る、という状態です。それがいい状態のわけがない。

 社会正義が何か決めたり、誰を裁くかを決めたり、ましてやどっちの方向が正しいか決めたりするのは、王様=国民で、マスコミではない。それが民主主義であり、ジャーナリズムというもの。

 

 これについて僕は、公文書偽造に怒ってる人らと同じぐらい怒ってるので、もう一度書いておきます。

 

 「国民を正しい方向に導く」のはジャーナリズムではないそんなのはただの扇動だ*9。 

 

 今の日本の職業報道人たちには、ジャーナリズムと民主主義の関係がわかってない人が多すぎる。自分は報道を職業にしてるからジャーナリストだ、ぐらいに思っている人が多い。少なくともそのように見える*10

 

 

+もう望まれてすらない民主主義

 

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 もう一つ、もっと根本的な問題について述べておきたい。

 民主主義はそもそも望ましいのかどうか

 多くの専門家や活動家が民主主義を守らねばならないということを、「ベストではないが、ベター」だとかよく言いますが、皆様はそのことをどれくらい本気で検討しましたか? なぜベターだと言えるのか、ちゃんと根拠を持っているか

 

 念のため最初に述べておきますがが、これは答えの出ない問題です。

 社会科学ってのはそういうところがあって、本当の科学なら、民主主義を採用した国と採用してない国を実験室にそれぞれ1000個づつ培養して実験しないといけないのだが。そんな訳にもいかないので、だから答えは出ない。

 しかし、正確なところは分からなくても、世界史を勉強することで明らかに嘘かどうかぐらいは判断がつくことがあって。そういう視点から見て明らかな嘘の根拠を持っている人が多いんじゃないかと思う。

 

 例えば、民主主義が望ましい根拠に、自由・権利・平和などを挙げたら、それは嘘です。よく知られているように、ナチスドイツの蛮行もイラク戦争の行為も民主主義制度下で行われたのであって、民主主義であるかどうかはそれら理想の実現とあまり関係がないのが明らかです。

 あるいは、自由民主主義社会は経済的に発展する、という考え方もある。これは冷戦下でソ連アメリカを対比したときに言われていたもので、古いが強力な思想です。昔はこれが正しいとされていたが、21世紀現在、だいぶ怪しくなってきました。というのも、自由化を進めたソ連は別に豊かにはならなかったし、民主化が不十分な中国がむしろ迅速な決定対応で経済的有利を築いているからです。

 あとは、民主主義でなくなった国では国民が弾圧される、という考え方もある。これは実際の弾圧の例を聞くことも多く、まあまあ有望ではないかと思います。しかし個人的にはどうかな。というのも、僕たちって今、まったく弾圧されてないと言えるんですかね? 犯罪被害者の家に野次馬やマスコミが殺到するのと、特高警察がやってくるのとで、どれほどの違いがあるのか?

 あと、逆に「民主主義が望ましくない理由」だってありますよね。

 一番わかりやすいのは、民主主義国家は戦争が弱い。これは歴史が証明した純然たる事実であって、ギリシャやローマが強かったのはペリクレスカエサル等による独裁制が強かったころだし、中国王朝もヨーロッパ諸国も王権が弱くなった国から滅んでいったし、逆になんだかんだいってナチスドイツも大日本帝国も(しばらくは)勝てた。普通、戦争が弱いと国は滅んでしまいます。今は核とかテロとかのせいでそうとは限らないが*11、自国の繁栄だけで考えるなら、戦争が強いに越したことはないのは確かだ。

 

 既にここまでの話で、ネトウヨがクソ議論をぶち上げてる、ぐらいに読んでる人も多いかもしれない。でも、ここで僕が訴えたいのは、「だから民主主義は捨てるべき」とかいう話じゃあないんですよ。主権を持っている国民自身が、こういう主張に説得力を感じはじめているってことを、もっと重要視したほうがいい

 国民主権を完璧に貫くのであれば、民主主義っていうのはもう捨てられるか、少なくとも弱体化するのが当たり前なのが昨今の世界です。トランプが当選したり、ブリグジットが起こったり、あるいはもっと身近かつ単純にネトウヨを良く見るとかいう話は、国民がそれを望んでいるということです。そのことをもっとよく考えてほしい。「民主主義を守るっていう結論に至らないやつは一部のアホ」みたいな考えを持っているとしたら、そいつがアホだと言わざるを得ない

 普通に生きてたら民主主義なんて馬鹿らしくなるのが今の社会ですよ。

 みんなそれくらいの不利益や不満は抱えている。

 

 なので、公文書偽装が発覚したからと、民主主義が死んでいる! と騒ぐ人たちを、僕は冷ややかな目で見ざるを得ない。民主主義が死んだかどうかより、制度とは無関係の民衆が救われているかを話したほうがいい。さもないと本当に民主主義は死ぬ。

 

 

+民主主義に唯一現存するメリット

 

 ドラフト会議でくじを引く人達のイラスト

 ここからは少し趣旨が変わります。

 民主主義の死についてじゃなく、生についても述べないといけない。民主主義のデメリットばかり述べると、まるで民主主義滅びろとか言っているみたいですが、僕は明確に民主主義は守らないといけないと思っています。でも、それは国民の権利や自由がどうこういう話じゃない(民主主義でそれが守れるという話は上で確認したようにウソです)。

 

 民主主義が「ベストではなくベター」である実際的な理由があるとすれば、それは流動性の確保という一点に尽きる

 民主主義社会っていうのは、衆愚政治に陥りやすくて、しばしば政治は迷走する。戦争にも弱いし、そのくせ戦争大好き人間がリーダーになることも多い。社会はすぐに混迷に陥り、対立が煽られやすいところがある。マスコミは暴走するし、官僚は不正をするし、決定が遅いから科学技術や経済の発展にも最適とはとてもいえない*12

 しかし、選挙が正常に行われている限り、内戦が起こらない

 流動性があるので内戦がおこらない、というこのたった一文が、民主主義制度における唯一最大のメリットです。

 

 これが王政や独裁制であれば、政権が交代するときには必ず内戦が起こります

 王政による統治は、いまよりもずっと安定していて、いったん賢王が統治につけばその先の数十年間は民衆が政治のことを何にも考えないでもオッケーで、民主主義よりもずっと安心感が強い。王が賢ければカリスマ統治で黄金時代を築く事もしばしばある。しかし盛者必衰。永遠に賢いまま存続できる政権など存在しません。けれど、愚かな独裁者が自分の権力を守らない訳がないし、独裁者から権力をはく奪するには武力以外の方法がない。

 王政・独裁制を採用している国家は、将来的な内戦があらかじめ確定しているということです*13。これは歴史的にも理屈的にも明らかなこと。安定すぎる社会はしばしば硬直的で、組みなおすときに必ず破壊を伴ってしまう。

 

 民主主義にとってもっとも大事な要素とは、何年かに一度選挙が行われ、その結果によって政権の強弱や、政権担当者自体の変更が成されることです

 どんなクソ政権が今の政治をおこなっていても、数年たったら入れ替わるのだから、わざわざ暴力に訴える理由がない。だから内戦やクーデターが起こらない。

 このメリットだけが、ほとんど死にっぱなしの民主主義制度を、今なお意味ある制度にしている。と僕は思います。国民の権利がどうとかいう他の理由は、ほとんどは関係ないか、関係あるとしても今は実現していない理想ばかりだと思う。

 

 逆に言ったら、ちゃんとした選挙が行われてさえいれば、民主主義は別に死んでなんかいないとも考えられる。選挙が不正で正常に行われなかったとかいう理由で起きる内戦が国際ニュースに載ることがありますが、あれこそが真の「民主主義の死」です。公文書偽装が見つかったとしても、それが選挙結果に反映されるなら別に民主主義的には構わないんですよ。

 

 

+唯一のメリットを潰してやしないか

 

選挙ポスターを見る人達のイラスト

 しかし、そういう前提に立つと腹立たしいのは野党だ。

 野党、特に立憲民主党共産党ですが、彼らは選挙で勝つ気がない

 少なくとも、選挙で勝つための最適戦略を取っていない。 選挙っていうのは、結局のところ人気投票ですよ。一番票を取ったやつが勝つ。その為には、多数派の支持を得ることが必須です。デモに参加してる少数派からいくら熱烈に支持されても過半数議席はとれないんです。

 

 例えば、政権交代を目指す視点でいえば、憲法改正反対をメインの主張に据えるのは絶対にNGです憲法改正の賛否はかなり明確に、ピッタリ半々に国民の意見が割れているので、憲法改正反対をメインに打ち出すのは、票の半分を取り逃すことに等しい。

 だから安部自民党はそれをしませんね。せいぜいサブに添えるだけ。

 でも野党は憲法改正をメインにしますね。

 それで勝てるわけがない。

 

 同じような理屈で、野党と野党支持者の今やってることのほとんどが否定できてしまう。

 まず、安部自民党批判を繰り返すのは選挙的にはNGですね

 確かにかつて、民主党は、自民批判を繰り返すことで一度政権を取りました。しかし懲罰的投票行動の結果、民主党政権はヒドかった、というのが国民の大方の評価です*14。ですので、もう一回自民党の悪を主張しても、自分の人気にはならず、政治不信が進んで投票率が下がるだけ。そして投票率が下がると組織票の強い自民・公明党が有利になる。あと単純に人の悪口を言ってる人はイメージが悪くなります。「アベガー」とかネットで言われてるのは選挙的にマジでやばいですよ。

 最近やってた国会欠席戦術も選挙的にはNGです

 こればっかりは、いくら政治の専門家が正当性を主張したり、自民も昔同じことをしたことを主張したり、それらの主張がいくら正しいとしても無駄。仕事してない、ということがプラスのイメージにつながる訳ないでしょう*15? 昨今は労働ストですら、何週間も前から告知したうえ1日だけで終えたりするというのに。

 アベノミクスの効果の無さをアピールするのもNGですよ

 本当に効果があったかは確かに不透明な部分はありますが、現実問題として、アベノミクスに効果があったと感じる国民がかなりの割合いるのだから、これを否定してもなんの意味もない。彼らを取り込めるような"もっといいアベノミクス"を提案するのがどう考えても常道です。ましてやドアホノミクスだとかいう造語を述べても、大半の人は言ってる言葉が下品っぽいから離れる。

 

 総じて言って、無党派層を取り込む、という選挙の大・大・大原則を忘れているとしか思えない

 リベラル活動家の支持でまあまあの支持率を取れたので、それで目が曇っているのでしょうか? そういえば政権交代とかも、もうあまり言わなくなりましたね。*16

 人気を取ることに興味がない野党は、当然与党よりも人気がないので、今回の公文書偽造問題も選挙結果にあまり反映されないでしょう*17。これこそが今の日本で最も重要な民主主義の機能不全であり、本当に民主主義を憂うなら考えないといけないことだと思う。

 

 

+守りたいのは民主主義か、正義の自分か

 

 まとめます。

 

  • 公文書偽造は確かに民主主義の危機です。
  • でも日本の民主主義は公文書偽造なんかなくてもずっと危機的でした。
  • 危機に陥っていてもかまわないという考え方すらある。
  • いくら危機的でも選挙さえちゃんと動いてればオッケーです。
  • 今の野党は選挙に勝とうとしてないからダメ。

 

 まあこんなこといっても、大概無駄なんでしょうけどね。今の野党を支持してるようなリベラル活動家が、自分が「正義」であるという思想を転向して勝利を目指すことなど、僕も期待していません。だからどんなに不祥事が出てきても自民有利は続くだろうし、そのことに安堵と絶望を同時に感じています。

 でも誰かに伝わってほしい。

 公文書偽造にいまのやり方で怒っている限り、野党とリベラル派は勝てないし、本当の意味で「民主主義は生き返る」には、彼らが選挙に勝ち得る存在にならないといけないんだと思っています。

 そのためには、思想上の正義なんか捨てて、真の理想実現に向けた合理性を取らないといけないよ。野党とリベラル派の皆さんは、悪と戦ったりしてる場合じゃないんだ。ほんと。

 

*1:ここで「国民」とは何なのか? という話にもっていくと、ルソーの一般意思とかいう話になるのですが、今回は記事のテーマがとっ散らかるので省略。

*2:なお、この記事の後で確認するように、この理想のプロセスはちゃんと成立したことがありません。この点を指摘して、理想の民主主義などないのだとよく言われる。

*3:この後の話を僕は「きみたちホントは民主主義に必須だからじゃなく、公文書偽装が単にズルい感じだから怒ってるだろ」という風に持っていくつもりですが、ここでは一旦、誰もが民主主義のために怒っていることにします。

*4:民主主義の場合は選挙で王様の支持を仰ぐのもコストがかかるので、基本的には代理総督の人事ぐらいにしか王様は口出ししませんが。

*5:よく言われるのは、今の日本では若者ほど投票率が低いせいで政治が若者を冷遇しがち、とか。

*6:集合知について述べた名著、スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』では、集合知が正しい答えを出す条件の一つに、一部ではなく全員の意見を集計すること、を挙げていました。無効票が多い選挙は単純に結果が間違っている恐れも強いです。

*7:相手がアホかどうかや不誠実かどうかは関係ないですよ。念のため。

*8:もとが"倫理観"とかいう曖昧な趣旨なので、ジャーナリズムへの考え方は専門家でも相当ブレがありますが、僕はこれくらい言うべきだと思います。

*9:念のため、僕以外に同じことをもっとマトモに言っているブログを紹介しておきますね。http://sakaiosamu.com/2015/0109080045/

*10:これには昔から言われている原因があって、欧米ではマスコミに就職するのはジャーナリスト大学を出た学生だったりするそうですが、日本の特に大手新聞社・テレビ局に就職するのは、多くの場合学歴が高くて見た目に優れている人です。ジャーナリズムを専門に勉強した学生は、使いにくいので積極的に面接で弾かれると聞きます。

*11:戦後日本という国は、戦争が弱いおかげで発展した歴史上でも極めて珍しい国です。冷戦構造においては、日本がアメリカ軍の保護下にあってほしいと他ならぬアメリカ自身が望んでおり、おかげで日本は軍事力を全く使わずに貿易有利を享受した。普通の国の歴史だったら、80年代のジャパンバッシングとか起きるよりも前に、『これ以上舐めた貿易してきたら軍事力に訴えようかな』とか言われて経済発展は阻害されるか、対抗策としての再軍事化があったはずです。

*12:ちなみに、こういった不利益を根本的に抱えている民主主義は、地政学的に有利な地域で根付きやすいとされます。日本やアメリカやイギリスで議会制民主主義が簡単に根付き、中国やロシアや中東で独裁がむしろ望まれるのは、地政学的に不利で他国との戦争に常に晒されてきた地域では、伝統的に強いリーダーが欲されているからです。民主主義には「少々の不利を受けても皆の納得を重要視できる恵まれた環境」が必要だ。

*13:この点、中国は非常に自覚的なのが強い。極端な民主化による内戦を警戒しながら、出来る範囲で流動性を用意しようとしていると思う。ロシアのプーチン政権も自覚はあるけど、対応策が「さらなる盤石化」なので、プーチン後にまたペレストロイカ的な内戦状態になるんじゃないか。北朝鮮はヤバイですね。体制が今のままなら、2・3世紀以内にクーデターは起こる。実際今の代になるときに血みどろの闘争はあった訳だし。なお、この脚注は全部僕の妄言です。

*14:野党の首脳陣がこの「国民の大方の評価」を把握してないかもしれないというのが、また頭の痛い点だが

*15:これを書いていた時点ではまだだったのですが、その後、実際にイメージがマイナスになりすぎて欠席戦術は失敗した、という報道が出てきましたね。

*16:こういう行動の不合理さは、きっと民主党の議員さんも多くの人が感じていたと思う。希望の党に流れたり、国民民主党を作ったりしたのは、そういう層だったんじゃないかと僕は想像しています。だから国民民主党にはちょっと期待している。

*17:しかも野党支持活動家は自民支持の多数派をしばしば「やつらはアホだから自民支持なんだ」とかいう。だとしたら君たちがアホに合わせないから勝てないのです。自民支持者の悪口を言っている皆様は、自分が野党の選挙の邪魔をしていることを認識したほうがいい。

「なんでアイツは脱走なんかしたの?」とかいう疑問の危うさ

 今回は例の脱走したアイツの事件について思うところを書きます。

  というのも、知っての通り無事に捕まりましたので。

 この事件が起こっている間、僕が住んでいる岡山県は比較的地理的にも近いということもあったのか、職場やら実家やらで、しばしば、「逃げてるね」「怖いね」「つかまらんかな」という話をする機会がありました。

 その中で、必ずあった発言が「っていうかあいつは何で逃げたかな? すぐに釈放だったろうに」という疑問。

 そういう疑問を持ってしまう人が多かった、という点に、そもそもの社会の歪さとかが表れている気がするので、ちょっと自分の中の整理をかねて書いてみます。

 

 

+「理由がないのが理由」です

 

 不良少年のイラスト

 まずは、冒頭の疑問に僕としての明確な答えを示しておきます。

 もともと微罪であり、1年程度の契機で出る予定であり、模範囚であった平尾氏がなぜ逃げたのか。妹がどうこういう話が出てきたり、つかまってみたら本人は「人間関係が嫌になった」とか言っていたりしますが。しかしそれにしたって、冒頭の質問をしたうちの親父のような人にとっては「いや、逃げたらむしろ妹とは会えなくなるやろ?」「いや、人間関係キツくても逃げたらもっとキツイやん?」みたいな話に見える。

 これに関して、俺が返す答えは一つです。

 

 そんな後のことが計算できるんだったらそもそも犯罪なんかしない。

 

 冒頭のような質問が出てくる人は、社会の底辺って場所にどういう人たちがいるのか、実感できてないのだと思う。無理もない。僕もたまたま友達に一そういうのがいるから判っているだけだし。

 ヤツらは、あなた方の想像をはるかに超えてアホだ*1。24時間よりも先の計画はほぼ建てれないと思っていい。財布の中に金があったら、それが帰りの交通費だと判っていてもキャバクラかパチンコにいくし、次の日になって帰りの交通費がないから貸してくれとか泣きついてくる。*2

 

 たぶん平尾氏は、あるときフッと「あ、出れるな」ということに気付いたんですよだから出た。出たあとで苦労するであろうことや、しばらく我慢したほうが確実だったことなど、そもそも頭の中にない。できたからやっただけで、他の理由などない。はずだ。

(僕は彼の人格や実際の状況を全く知らないので、これは後に論を進めるための空想だ、ということは申し添えておくけれども)

 

 

+「よほどの理由」を求めちゃうカシコイ方々

 

陰謀論のイラスト

 以上のような「脱走の理由」は、僕としては、話を聞いた瞬間からまあだいたいこんなところだろうなぐらいに想像がつくことだと思うのだけど。しかし今回、僕は結構多くの場で冒頭の「なんであいつ脱走なんかしたんだ?」という疑問を聞いた。ていうかずっとワイドショーではその話ばかりしてたし、捕まった翌日の今日も、報道の主眼が"今後の捜査で動機の解明を進める"とかでした。

 なんかいい例ないかなと思って、真っ先に見つかったこれです。

 内容としては、開放型刑務所の必要性を強調した報道です。それはいい。開放型刑務所に効果があるのは数字が証明しているし必要だと思う。それはそれとして、

ノンフィクション作家で、ここを取材したこともある斎藤充功さんは「なにか、よほどの理由があったとしか考えられない」という。施設は刑務官の監督下にはあるが、日々の生活は受刑者の自治ルールで運営されている。逃げ出す理由を見つけにくい

  元刑務官は「規律はむしろ厳しいですよ。その悩みを刑務所側が受け止めていたかどうか、疑問があります」と語った。生活ルールは受刑者が決めるのだが、おじぎの角度、移動は隊列を組み、曲がるときは直角、毎日の反省会など、開放型であるがゆえにしっかりした自覚が求められる。ただ規則を守るだけの一般刑務所とは違うのだ。

 この二つの描写が並行してならんでいることにちゃんと違和感を感じられましたか?

 

 キツかったら逃げる奴は、そりゃあいるよ

 元刑務官という方は、流石に現場を知っていて、そのことが良く分かっていらっしゃる。逆にノンフィクション作家だという斎藤充功氏は*3、取材どうこうというより、ちょっと人間への理解が追い付いてないところがあるんじゃないか。

 もっと言えば、開放してるんだから、どんなに楽だろうと逃げるやつは逃げるよ。前もって面接やらなんやらで入る人を選んでいるとはいえ、100%面接で人格が見分けられるなら世話ないって話だし。

 

 なんていうんでしょうね、これって非常に危ないんじゃないかと思って。

 つまり、社会にアホが存在することを想定してない、ってことですよね。

 

 ちなみに、今回の脱走を「和製プリズンブレイク」とか見てしまったかたがたも、方向性が違うだけで、同じ間違いを犯していることに気をつけてくださいね。洋ドラみたいな大層な事がなくても、ほとんどの犯罪はその場のノリで起こる。その場のノリだけで広島まで逃げることもできる。

 

 

+アホを想定しない社会はアホを許容しない

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 この件について特に危ういと思うのは、社会的弱者の味方であるはずの、リベラルとか左派とか人権派とか平和主義者とか自認してる方々です。

 人権良識派の方々ってのは、ノリで犯罪を犯しがちアホたちも「普通の人」として扱おうとするが、そのせいでアホに普通の良識ある反応を期待していると思うし、アホだと判った相手を「普通じゃない人」扱いしがちだと思う。

 自分たちが保護しようと思っているヤツラはアホである、ということをきちんと認識できていないと、きっとおかしなことになる。

 

 例えば、今回の事件でいえば、開放型刑務所の意義を強調するために、

一部のアホがいるが、他の大部分はまともに更生している

 だとか言う人が沢山いると思います。

 それがもうだめ。

 開放型刑務所みたいな更生施設は、むしろアホのためにあります。だって賢かったら普通の刑務所に入って出てきたところで、別に再犯なんかしないのだから。今回たまたま平尾氏の場合は失敗したけれども、アホを100%救うのはどのみち無理なんだから、それはしょうがないぐらいの話。"他の大部分のまともに更生してる人たち"が普通で、平尾氏は例外事例であるとか考えるのは、まず間違いなく認知の歪みです。たぶんみんなそんな変わらないよ。

 

 あるいは、今回の脱走が人間関係原因だという報道を見て、

刑務所側はもっと受刑者の人格を尊重すべき

 だとか言っちゃったりする方々もいるでしょう。

 それももうだめ。

 人格を尊重すれば必ず分かってくれる、とかいう発想は、実際のアホを真のあたりにしたとき、きっと貴方を不寛容な人間にする。貴方が人格を尊重してあげたアホは、きっとあなたを裏切るよ。だってアホだから。弱者を救いたいとか、人権を追求したいとか考えるなら、貴方の金でパチンコに行ったアホのことは、とりあえず叱り飛ばしたあと、普通にいっしょに酒を飲みにいくぐらいの感性が必要です。金を渡しといてパチンコに使われたときに、人としてあり得ない!とか怒り狂うのは、それはあなたが”人としてあり得る"ことを知らなかっただけだ。

 

 別に、アホの犯罪者を許せとか、逆にアホは殺せとか、そういう話じゃなくて。

 現実を知らないと、ちゃんとした対策ってものが建てれないでしょう

 現実的に考えることができていたら、開放型刑務所のある島にはちゃんと海に向けて監視カメラしかけておくとか。刑務所が人格尊重ぶりが十分かどうかを平尾氏の証言だけで判断つけるのはヤバそうとか。そういう話にちゃんとたどり着くはずだ。

 

 もっとも、直接物事を見聞きしてる現場は現実的にそういう対処をしているんでしょうが。

 外野でごちゃごちゃいう人たちには、あまり現実が伝わってないように、今回の一連の報道と周囲の反応を見ていて思った次第です。

 

 

 

 

 

(今回は何だかいつも以上に能書き感があるなあ。)

(まあいいじゃん。趣味だし)

*1:一方で「彼らとつきあっていると、我々自身、我々が思っているよりもずっとアホに近い生物であることも分かってくる」とかも実は言いたいのだが、それはまた別の機会に。

*2:僕よりもずっと具体例に詳しい方の記事が話題になったことがありましたよね。

「貧困は社会のせいだ!」と信じて、生活保護申請随行のボランティアをしたら、クズばっかりだった話

*3:調べたら、刑務所ルポを積極的に執筆している方だった。他のキツイところを見過ぎて感覚が鈍ってたのかな……。

「上遠野浩平論」⑥可能性に基づく種々の考察(作品いろいろ)

 上遠野浩平論の第6回。

 前回の第5回では〈世界の敵〉というモチーフがどのように描かれているかをしてるか検討することによって、上遠野浩平の中に、「ヒトには無限の可能性があるという」前向きな希望と「可能性は将来的に必ず失敗する」との悲観的絶望が同居していることを確認した。

 また更に、ブギーポップが〈世界の敵〉を"最も美しい瞬間"に殺すのは、未来への可能性がまだ輝かしいものに見えているうちに、人生の方を先に終わらせてしまうためであることも示した。

 

 こうした「可能性」に関する考察は、上遠野浩平の文学性におけるまさに中核である。なので実は、ブギーポップ以外のキャラクターたちやモチーフも、「可能性」を軸に検討することで、文学的な意味での存在理由を明確にすることができる

 本記事では、前回考察の成果を用いて、ブギーポップ世界のこまごました設定を、文学論的に検討していく*1。関連性なく個別の検討を書き連ねていくので、今回に限っては、見出し毎に全く話が変わることに留意してほしい。

 

 

ブギーポップはなぜ能力バトルものになっていったか

 

 よく中期以降のブギーポップを評する際に、「なんか能力バトルものみたいになってつまらなくなった」とかいう話を聞く。『ビートのディシプリン』などは敢えてそれを目指したらしいが、それ以外も含めて。

 これは、個人的には正直否定したい評価ではある(そこらの能力バトルものと同じじゃあないんだよ)。しかし虚心坦懐にジャッジすれば、能力バトルものとしての要素が徐々に強くなっていることは否めない。もうたいていの新キャラが能力持ちだし、最近はただの一般人のはずだったキャラクターたち、それも新刻敬や末真和子といった重要普通人代表みたいな人たちが、どんどんMPLS能力に目覚めつつある。

 しかし、それはなぜなのか? 擁護は本論の趣旨に反するが、考察はできる。

 

 上遠野浩平の世界観において、能力とは、その人間の「未来の可能性」を意味する。未来への可能性を発揮した人間がMPLSになるのであり、〈世界の敵〉はその最も極端な発揮の形である。したがって、上遠野浩平が「可能性」についてのストーリーを描けば描くほど、それは「能力」についてのストーリーにならざるをえないのだ

 もし強弁が許されるとすれば、ブギーポップシリーズがやっているのは能力バトルではなく、「可能性バトル」とでもいうべきものだ。ブギーポップに登場するキャラクターたちは彼ら自身の能力の強さではなく、可能性の強さを競ってバトルしている。実際その為に、上遠野浩平の作品における能力バトルは、勝ち負けというよりも「将来の可能性が潰える」という破滅による決着になったりする。ジャンプやマガジンの漫画みたいに、選ばれた特殊能力でド派手な必殺技が出るから強い、みたいな話とは趣旨が違うのだ*2

 

 ただし、上遠野浩平が「可能性バトル」をやっているとの認識は、一つの残酷な真実も意味する。

 上遠野浩平は「可能性」に優劣や強弱の概念があると思っている

 

 セカイには、やはり才能のあるやつと無いやつが厳然と存在するのだ。そして才能の無いやつはより才能のある奴に淘汰される――少なくともされやすい。セカイ系作家上遠野浩平としての、夢や希望に絶望した悲観的リアリズムが、ここにも表れている。

 

 

+歪曲王~上遠野世界におけるもう一つのヒーローの形

 

 歪曲王について。(この連載で取り上げすぎだけど本当に好きなんです)

 この存在は明らかにブギーポップと対になるヒーローとして造形されている。

 まず歪曲王は、田中志郎の中に生まれた二重人格的ななにかであるが、意識は田中志郎とは独立している*3。これは明らかに、宮下藤花とブギーポップの関係と同一である。また彼が現れるとき、レッドツェッペリンの「カスタードパイ」が流れる。これもブギーポップが流れす「ニュルンベルグマイスタージンガー」との対比であるに違いなく、選曲基準は恐らくブギーさんは非常に重厚なクラシックだったから歪曲王は非常に軽薄な音楽にしたといったところであろう。極めつけに、歪曲王はブギーポップと同じ、自動的な存在であるという*4

 

 これらの外面上の対比は、二人の存在意義が対比しているが故に設定された

 最も根本にあるのは、歪曲王の「心の中の歪みを黄金にする」という行動原理であろう

 

 前記事における検討で、ブギーポップがする「その人間が最も美しい瞬間に殺す」とは、その人間が致命的な失敗をやらかす前に殺すことだと明らかにした。可能性が現実となって、それが失敗であることを知って絶望するよりも先に、サクッと人生のほうを終わらせてくれるヒーローが、死神ブギーポップだ。

 歪曲王がやっていることは全く逆。「心の中の歪みを黄金にする」とは、その人間を必然的な失敗に向かわせる”歪んだ”精神の方向性を、失敗以外の方向に正すことだと思われる。つまり、将来の約束された失敗が、起こらないように修正してくれる

 なんというか、ブラックジャックに対するDr.キリコとでも言おうか。この場合安楽死を試みるDr.キリコ側に位置しているのはブギーポップのほうだが。

 

 上遠野浩平は、歪曲王以前や以降もしばしば”歪み”という概念を使っている。

 精神に"歪み"を持つ者は、本来向かうべき方向には決して向かわず、失敗するべくして失敗する。逆に精神に歪みがなく、"まっすぐ”な者は、ほとんど何をやっても成功する。例えば、『しずるさん』でよーちゃんの全能性を担保しているのは彼女が"まっすぐ"であることだったりするし、『パンゲアの零兆遊戯』のエスタブたちは感性が"まっすぐ"であるから予知能力を持っているのだとされる。

 そうした世界観において、「心の中の歪みを黄金に」してもらえることが、どれほど強力な救いかおわかりだろうか

 

 はっきりいって歪曲王は、ブギーポップなんて目じゃないほどチート中のチートである。なにせ、ブギーポップは失敗する前に殺すが、歪曲王は失敗しないように修正してくれる。どっちが良いかなんて言うまでもない。デウスエクスマキナよりも更に都合のいい存在、それが歪曲王だ。僕はてっきり、もはや作家本人も存在を持て余していて、ストーリーに関わらせられないのだろうと思っていた。『デカダントブラック』で再登場があったのはほとんど奇跡だ*5

  

 

 +可能性を自ら潰した男と、なお残る問い~『ペパーミントの魔術師』

 

 ブギーポップを通読した人間に、どの話が一番好きかを尋ねると、結構な確率で『ペパーミントの魔術師』を真っ先に挙げる。僕もそうだ。

 その大傑作の主人公である軌川十助について。

  軌川十介は、アイスクリーム作りの天才であると同時に、シリーズでも最強格のMPLSの一人であるとされる。能力は「他人の痛みと同化すること」。どんな人間も自分の痛みを直視することは出来ないので、どんな人間も彼を発見したり傷つけたりできない。更に、彼の能力は他者の痛みを消すことができる。痛みを消された人間は、他者に対する攻撃性を失い、それに伴って人生におけるやる気、生きる意味といったものを喪失してしまう。彼は食べ物に自分の能力を乗せるので、食べ物を広く流通させることで世界全体から人生の意味を喪失させることができる、まさに〈世界の敵〉である。〈世界の敵〉であるはずだが、彼はブギーポップに見逃される。

 軌川十介自身が、彼の「痛みを消す」才能を使うことを忌避するからだ。

 

 これは類まれな才能(=可能性)を持つ男が、夢の実現を自ら諦めた話と読めばよいだろう

 己の可能性の実現を後先考えずに目指すはずの〈世界の敵〉が、〈世界の敵〉にならないというのは、つまり夢を諦めたということ。夢の実現を目指すことは、しばしば愛する人を傷つけることに繋がる。だから夢は捨てる。まさにセカイ系作家・上遠野浩平の本領発揮。90年代の若いんだから夢を追え、というメッセージに、全力でノーを突き付ける形だ。

 そして、この物語のラストシーンがまた印象的である。

「……どけよ」

 やっと彼は声を出し、黒帽子を少し乱暴に突き飛ばした。よろよろとふらつく足取りで遠ざかっていく。その背中にブギーポップが呼びかけた。

「なあ魔術師――」「君は世界をどう思う?」

「……」

「君はどうする?」

*一部引用者の判断で省略アリ

  自身の夢と可能性を全て捨てざるを得なかった男に、ブギーポップは、このくそったれなセカイで君は何を成すのかと問う。しかし彼はいま、やりたいことを全部投げ捨てたところなのだ。辛すぎるやりたいことを無くした彼に、なにをやれというのか……。

 軌川十介は、ブギーポップの問いに「お前の知ったことか」と悪態だけを残し、答えることはなかった。

 

 でも人生ってそんなもんだよね、というね。自分の可能性を実現しようとあがいているうちは、確かに何もかもが輝かしくて、万能感にあふれているかもしれない。しかし可能性は必ず潰える。そして、可能性の消えた人生が後に残るのだ。

 っていうか、これは、かつて中高生で今はオッサンになった我々上遠野ファンがいま生きている人生ではないのか

 

 軌川十介はブギーポップの問いに答えなかった。それは、我々の前にいまだこの問いが投げ出されているということでもある。 

 「君は世界をどう思う?」「君はどうする?」 

 ブギーさん相手なら、お前の知ったことか、で済ませてもいいが、自分自身にこの答えを返す訳にはいかない。この大傑作で主人公と同時に物語の語り部をやっていた軌川十介*6は、己の中でこの問いにどんな答えを示していたのか。そして我々自身は、この問いに何と答えるのだろうか。

 

 

+寺月恭一郎~可能性たちのパトロン

 

 『ペパーミントの魔術師』の話をしたので、ここで寺月恭一郎についても検討しておこう。

 寺月恭一郎は、上遠野ワールドの中でも最も頻繁に名前が登場するキャラクターの一人だ。統和機構の経済担当だったとされる彼は、どうやって稼いだのか意味が分からないほどとにかく金持ちで、ブギーポップ世界ではその死後の影響があちこちで現れている。例えば、最近の大きな関わりとしては、世界の統治者に直結するかもしれないエンペロイド金貨を集めていたのが寺月恭一郎だ。

 しかし影響力の大きさの割に、結局のところ彼は何がしたかったのか? が判りにくいところがある。統和機構に忠誠心が無かったことは確かだが、じゃあ統和機構を潰したかったかというとそんな様子はない。他にやりたいことがあるのかと思いきや、やっていることは「ムーンテンプルを建設して、警告のビデオメッセージを残す」とかで、動機のようなものはさっぱりわからない。統和機構に殺された理由すら、なんだか稼ぎすぎという理由で調査したらスケアクロウが何となく怪しい気配を感じた、だとか、具体的な内容に乏しい。

 

 僕が思うに、たぶん、本当に彼には大きな動機など何もないのだろう。

 というのも寺月恭一郎というキャラクターは、”パトロン”という役割を作者によって負わされているように思われるからである*7

 ほんの少しでも芸術・文学を志した人ならよく分かっているように、真の意味で「可能性」を実現しようとしたら、一番の問題になるのはお金のことである。日々の生活費や、絵の具代や、展示スペースの用意等、お金は可能性の実現とは無縁の場所で必要になるくせに、無いと可能性自体が頓挫する。かといって、お金のためにバイトなどしていると、いつの間にか可能性の芽は潰れてしまったりする。

 いつの時代も、芸術にパトロンは必須だ。現代でも、出版社やレコード会社や金を出して買うお客さん、即ち市場がパトロンの役割を果たしているが、市場というパトロンは割と作品内容に口を出してくるので、本当に尖ったことをしたいなら、巨大資産を持つ好事家をパトロンにつけておきたい。

 寺月恭一郎というキャラクターが、まさにその「好事家」なのだ。

 たぶん彼は、19世紀の金持ちがわけのわからない絵画を好むのと同じように、MPLSという可能性が単に好きだったのではないか。誰かが世界と戦うところを見てみたい、しかし自分自身にその才能はない、という。それが、有望そうなMPLS能力に金を出してみたり、何か事件を起こしそうな建物を意図的にたくさん作ってみたり、そういう行動に結びついたのでは。そして、このとにかくMPLSを育てる養分を無差別にばらまくような活動が、恐らくはオキシジェンの能力に察知され、それで抹殺へと向かっていったのではないか。

「まあ、寺月恭一郎の酔狂ってのが、こいつの最も適切な説明かもしれないな」

 これは羽原健太郎先輩がムーンテンプルがどういう建物かを説明したときの評価だが、どうやら羽原先輩の仰ることに間違いはなかった。寺月恭一郎は本当にあらゆることを酔狂でやっていたのではないだろうか。

 

 

+可能性の無駄使いという醜悪~『ハートレス・レッド』

 

 これまでの考察で、本論は、死神ブギーポップは「その人間が最も美しい時」に殺す存在であることを重視してきた。だが、実は〈世界の敵〉の中には、全然美しくないタイミングで死んだキャラクターが何人かいる。そういう時ブギーポップは、姿を見せるだけで自分からは手を下さない、という形で帳尻を合わせるのだが、しかし特異な状態ではあるので、この補足記事のうちに是非とも触れておくべきであろう。

 ぜんぜん美しくない時に死んだ〈世界の敵〉の代表といえば、個人的にはフェイルセイフだと思う。

 フェイルセイフは、水乃星透子の教団から、ストレンジデイズの能力をかすめ取った男である。彼は他者の「死」を自分自身の体に塗り込めておくという方法で、14回までは死んでも生き返ることが出来る。あと「死」を抜き取ったあとの他者は"自動的な存在"となってしまうので*8、フェイルセイフは前もってのプログラミングで犠牲者をロボットのように操ることができる。あと当然のことながら、直接ストレンジデイズ能力を使うことで敵を無力化もできる。

 要するに、再生+洗脳+接死能力者だ。

 たしかに色々できそうだが、正直なところ、そこまで強い感じはしない。性格もアレだし、身体能力自体は普通の男だし、悪役として明らかに小物だ。悪役が小物のせいか『ハートレス・レッド』はシリーズ中でも人気のあまりない作品だったりする。

 

 しかし実際のフェイルセイフは、ブギーポップに、

「……生命と魂と、そして意思と尊厳と――どれだけのものを踏みにじれば気が済むのか。どうやら今回の敵は酷く――」

 ブギーポップは底なし沼のような暗い目をしていた。

「――質が悪いようだ」

 とまで言わせた、特筆すべき〈世界の敵〉だったりするのである。ブギーポップが"一切の容赦がない"表情と"左右非対称の表情"以外の顔を浮かべているのだから、これは相当だ。*9

 

 この小物の何がそんなに悪いというのか?

 それは、フェイルセイフのやっていることが、言うなれば可能性の無駄遣いだからだろう。ブギー先生は、〈世界の敵〉としてのフェイルセイフに次のようなSEKKYOUをされた。

「君は"無為"なんだよ。何のためででもない存在なんだ。君というもののいることが、他のものにも、そして君自身にすら何の意味もない――」

「君には道が無いんじゃない。君は道なんかいらないと自らそれを破壊しているんだ。そして……世界に君という可能性を広げていく。先に何も残さないで、ただただ雲散霧消していくだけの未来を。だから――」

「だから――君は"世界の敵"なんだよ」

 引用だけでも十分ではあるが、一応本論なりの言葉で表現し直しておく。

 この記事の最初のほうでも触れたが、上遠野浩平の世界においてMPLS能力というのは、その人間の可能性そのものである上遠野浩平は人間の可能性を本当に重要視しているし、ブギーポップが人を殺す「その人間が最も美しい時」とは可能性が輝かしき未来にを目指して進んでいる時のことだ。

 しかし、フェイルセイフは、輝かしい未来なんてものにそもそも興味がない*10

 きわめて強い可能性でもって、他人の可能性を踏みにじるが、それは自分の可能性の実現とは何の関係もない。

 フェイルセイフは、言うなれば上遠野ワールドにおける「もっともドス黒い『悪』」である

 

 ブギーポップは、しばしば既にどうしようもなくなってしまった〈世界の敵〉を、挑発したり騙したりすることで「その人間が最も美しい」精神状態に誘導してから殺したりする。しかし、フェイルセイフについては、そもそも「美しい」状態になることがないので流石に無理だったのだろう。容赦なく殺すことを旨とする普段の方針とは全く反対に、死にかけたフェイルセイフを前に彼がいかに悪いかを丁寧に説明などした。しかしフェイルセイフは結局、そうして説明されたことすら理解することはなかった。見苦しくも水乃星透子についてブギーポップに密告した挙句、結局は「いやどっちみち君は出血多量で死ぬね」とか宣告されて死んだ。

 ちなみに、似たような末路を迎えたキャラクターには、他に『ジンクスショップ』に登場したギミーシェルターがいる。そういえば、ギミーシェルターも保身を主眼とするキャラクターですね。

 

 

+上遠野世界観における「最強の能力」、そして中期ブギーポップ以降

 

 上遠野浩平を語るうえで避けて通れない作品に『ジョジョの奇妙な冒険』がある( もっともドス黒い『悪』とか、今しがた本論でも使った)が、あの作品では知っての通り、"時を操作する能力"が、常に特別なパワーとして君臨しており、たぶんそれは、作者の狙いとかではなく、物語の自然な流れとして今現在そうなっている。なぜその話を急にしたかというと、実は、上遠野浩平の作品世界にも、そういった意味で"特別な能力"が存在すると思うからだ。

 

 それらを仮に、可能性を操作する能力と呼ぶことにしよう。

 初出は、恐らく『エンブリオ浸食/炎生』に登場した穂波弘・タイトロープ*11

 穂波弘は、この能力で、自分でも知らないままに世の中全部の状況を"姉を助ける"という自分の望みが叶うように操作していたという。

 これが上遠野世界においてどれほど例外的な事態か

 上遠野浩平の世界観において、「可能性」が作品モチーフの最上位に置かれていることは、これまで散々強調してきた通りだ。

 しかし、タイトロープという能力は、「可能性」を「確定」にしてしまっている

 可能性が可能性でいられるのは、未来が不確定だからなのだ。

 タイトロープの能力に捕まった者は、どんなに強力な力があっても、それに抗うことはできない。現に、あんなに強かったフォルティッシモもイナズマも、ほとんど万能存在に見えるエンブリオすら、物語が終わってみれば彼に全部いいように動かされていたことになった。

 

 穂波弘のタイトロープほど強力な能力は流石に少ないが、他にも"可能性を操作する"能力に近い能力者は、中期以降のシリーズでしばしば登場し、その誰もが特別な扱いを受けている。

 例えば才牙そら・ナイトフォールは、分かりやすく他人の未来を操作している。彼女が落下した場所が必ず事態の中心になるという能力で、これの対象になってしまったらの誰も逃れられない。本人は無意識というところも、タイトロープに似ている。

 あと、いまだ詳細は不明だが、末真和子・ムーンリヴァーは、"とにかく選択肢を間違えずに物事をうまくやってしまう"という能力だと思われ、これは自分自身の可能性を操作しているのではないか。

 浅倉朝子・モーニンググローリーもかなり特別扱いされている。物事の本質を直接につかんでしまう、という彼女の能力は、説明だけ見るなら可能性操作能力の仲間に入れていいかは微妙な線だが。しかし彼女の特別さは、「他の人間がまだ到達していない可能性や未来に一足飛びで到達するポテンシャルを持っている」と読むべき。あと、なにより物語中での振る舞いとして、彼女が操作しているのはほとんど世界全体だ。

 《奇蹟》がMPLS能力よりも完全に上位の能力であるとされるのも、可能性操作という概念との関係、というか、無関係があるのではないかと思う。可能とか不可能とかいう次元を超えていきなり結果を起こすのが奇蹟だ、とか。*12

 2018年4月発売の最新刊では、パニックキュートという大物キャラが登場した。これは世界の歪みが認識できる能力だったとされるが、それは世界の可能性と未来が認識できていたということではないか。直接能力を使った描写はないが*13、字面だけなら可能性操作能力の仲間に見える。

(我ながらだいぶ強弁を含んでいるのではという疑念はあるが一旦放っておいてほしい)

 

 そして、可能性操作能力を最も意識的に使っているのが、ほかならぬ統和機構アクシズ・オキシジェンである。

 しかしオキシジェンについてここで語るのは控えよう。

 というのも、次の記事からの連載の中心的なテーマにするからである。

 

 可能性を操作する能力が、上遠野浩平の作品世界に存在するということ。それは、MPLSや〈世界の敵〉の存在によって上遠野浩平が表現してきた可能性」よりも、オキシジェンが体現する「運命」のほうが上位に位置しているということだ。

 どんな「可能性」も、「運命」にはさからえない。

 上遠野浩平は、中期ブギーポップ以降、主に描くテーマを「人間の可能性」から「運命」に切り替えている節がある。このテーマの変更は、当初は分かりにくかったが――分かりにくかったせいで一部シリーズが迷走したとすら見られているが――デビュー20周年の節目を迎えた現在なら、考える材料も増えてきっちり文学的な検討ができると思う。

 

 という訳で、次回の第7回はオキシジェンについてだ。

 まだ正直いって検討がまとまりきらないので、少し時間をもらうかも。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:なお、この点はいくら強調しても足りないと思うのだが、本論の検討を「文学論的」とするのは、エンタメとしての価値や小説としての面白さの分析を行うのではないし、ましてや作者の意図の全てを明らかにする訳ではない、という点をはっきりさせる為である。

*2:能力バトル漫画は個人的にも好きであり、悪くいっている訳ではない。念のため。

*3:田中志郎と歪曲王が別の存在であることは、『歪曲王』のエンディングで、寝ている田中志郎が急に歪曲王として喋りだすことから判る。

*4:自動的な存在であるという設定は、上遠野浩平が「こいつめちゃ強い」とお墨付きを与えたも同然だ……と思っていいのだろうか?

*5:といっても、『デカダンドブラック』で歪曲王は、宿主に対して「君の歪みはもう歪み過ぎて僕にも処置なしだ」とか言っている。能力のチート性にある種の制約がつけられたとみて良く、これならまた登場があるだろうか?……いややっぱ難しいかな。短編『メタルグゥルー』はヒーローとしての歪曲王に、ライバル格の敵役が設定される話だったが、それも短編集にすら収録されないし。

*6:軌川十介が語り部をやっているということは、実は『ペパーミントの魔術師』全体が、彼自身による過去の振り返りということである。つまり彼は、分かりにくいが、第4回で検討した末真和子や木村昭雄と同じ「セカイと断絶したままの人生を生きている人」でもある。

*7:ちょっと悪い読み方をしてしまえば、ストーリーのギミック的にお金が必要になったら、寺月恭一郎の名前を出しておけばいい、みたいな。そういう意味でもパトロンの役割を作者に持たされたキャラクターと言える

*8:また出てきた、自動的な存在。ブギーポップや歪曲王はフェイルセイフの犠牲者と同じってことですよね。これはどう考えればいいのか……。

*9:どうでもいいが、本当に邪悪という設定の敵なのに読者からは小物にみられているという、このズレっぷり。本当に上遠野浩平っぽいと思う

*10:一応〈世界の敵〉でありながら可能性の実現に興味がないのは、彼の能力がしょせん貰い物で自分自身の可能性ではなかったからだ、という説明もできなくはない。彼自身の可能性が能力として目覚めたなら……いや、たぶん能力に目覚めるような可能性を持ってないからこその悪なのだろうな。

*11:恐らくと留保を設けるのは、『パンドラ』で、未来予知能力者たちがやっているのがそれでは?という話が本文中に出てきているので。しかし明確に可能性操作が名言されたのはタイトロープが最初のはずだ

*12:というか、どこかにそういう描写はあったと思うのだが。読み直して見つけたら引用元修正します。

*13:ないってことでいいよね。ネタバレかもしれないけど。

「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』)

 

 上遠野浩平論の5記事目。ここからは第2章です。

 第1章に位置付けた第1~4回では、上遠野浩平という作家の来歴を中心に見ることで、この作家が所謂「セカイ系」に属する作品を書いていること、それはブームを狙ったのではなく、むしろブームのほうが上遠野浩平の上を通り過ぎていったこと、上遠野浩平セカイ系描写がまさに天才というべきものであることを確認した。

 

 ここからはそんな上遠野浩平が一体どういう作品を書いているのか、上遠野浩平という作家にとって中心となる問題点・美意識は何なのかについて述べていく(いよいよ文学論っぽくなってきた)。

 上遠野浩平の問題意識を探るのに、まず鍵となる概念は当然〈世界の敵〉

 ブギーポップが自動的に殺していく〈世界の敵〉とは何なのか。なぜ上遠野浩平は彼らをブギーポップに殺させるのか。それを検討すれば、この作家の中核となるポイントが見えてくると本論は考える。

 

 

 +世界の敵とは何なのか~『歪曲王』における証言

 

 さて〈世界の敵〉という問題に取り組むにあたり、開始地点とするのは、『歪曲王』のクライマックスだ。

 既にたびたび引き合いに出したこの作品だが、なかでも歪曲王とブギーポップが直接対決するクライマックスは、シリーズでも5本の指に入る屈指の名シーンだ。その中で、ほかならぬブギーポップが、これまで戦った世界の敵たちについて解説を行っている。

 ……かつて、一人の少年が居た。その少年は、別にそれ自体では悪くもなんともない人間だった。だが彼は実は世界の敵だった。なぜなら彼には"生きること"というものにたいして本人も気づかぬ根深い憎悪があったからだ。それでもそのまま生きていたとしたら、あるいは何でもないまま、普通に生きていたかもしれない。だが彼は運命のいたずらで"人喰い"と出会ってしまって、自分のことをはっきりと知ってしまった。彼自身が"人を喰うもの"になってしまった。怪物の法は単に生存条件だったから人を殺していたが、彼のほうは理由らしい理由もなく、ただただ殺し続けた。彼には終点という発想がなかった。もし今でも生きていたとしたら、彼は完全にとりかえしのつかないものを探し出して、世界を破壊していただろう。

  ……そして、一人の少女がいた。彼女は人の死を見ることがことができた。それ自体ではなんでもない能力だった。医療関係や危機管理などの方面に進めば、役に立てることができる能力だったかもしれない。しかし彼女はその"死"を絶対的な物だと考えてしまった。人から"死"を取り出して寄せ集めて、何か巨大なものが創れるという考えにとりつかれてしまった。それが人という限界を"突破"することだと思ってしまった。素晴らしいものに近づけるなら、生きている必要などない、という立場に立ってしまい、そして世界の敵になってしまった。"死"を全く恐れないように人の心を作り変えてしまおう、とまで思うようになってしまった。

  ……どちらも僕の敵になってしまった者たちだ。彼らには、残念ながらそれ以外の道というものはなかった。ぼくとしては彼らがそれ以上進まないように"遮断"する以外なかった。

 まず注目すべきなのは『笑わない』における〈世界の敵〉は、マンティコアではなく早乙女正美であった、という点だろう。人食いの化け物がそこにいること自体はどうでもよくて、ブギーさんの言うところの"人を食うもの"が問題だった、らしい。ただ、それはつまり行動の方向性の話ということだろうか。将来的にきっと世界に破滅をもたらした、という彼の精神性が問題だったのか。これだけでは判然としない。

 また、ブギーポップは、水乃星透子がなぜ〈世界の敵〉だったのかについても言及している。どうも、単に”死が見えて触れる少女”というだけなら〈世界の敵〉ではないという話らしい。しかし、死のエネルギーを束ねて”突破”を目指したので、世界の敵認定を受けてしまったようだった。

 なお、当の『歪曲王』のストーリーで〈世界の敵〉認定を受けていたのは、ゾーラギという大怪獣だったようである*1。想像上の存在だが、歪曲王の能力制御失敗で生まれかけており、もし本当に具現化していたら、まさしく世界が物理的に壊滅したであろう*2

 

 それにしても、こうして並べてるとなかなかに豊富なラインナップだ。

 

  •  なんだかちょっと頭のおかしいサイコパス
  •  超能力で何か変なことをしようとした少女
  •  物理的にただただ強い大怪獣

 

 ちょっとバラエティに富み過ぎてすらいる。

 これら全てに適応できる〈世界の敵〉の定義とはいったいなんなのだろうか?

 

 

+〈世界の敵〉とは?への明快な答え~『夜明けのブギーポップ

 

 ……まあ、答えは作品の中で割と明示的に示されているのである*3。僕含め上遠野ファンはわりと世界の敵の定義という話題で脳内が(直接上遠野浩平の話ができることは少ないので)盛り上がっちゃうのだが、実はあんまり議論の余地はなかったりする。

 答えが示されているのは、シリーズ最終巻(仮)だった『歪曲王』の直後に出版された、『夜明けのブギーポップにおいてだ。

 本作は、ブギーポップブギーポップになった時期の物語、いわばブギーポップのビギニングものである。なのでストーリーの随所で、不気味な泡(ブギーポップ)というネーミングの由来だとか、ブギーポップが黒い筒みたいな衣装を着てる理由だとか、ニュルンベルグマイスタージンガーを流す理由だとかが語られている。*4

 で、その一貫で、ブギーポップ自身が「自分が殺す〈世界の敵〉とはどういう存在か」をハッキリ語っているのだ。それは、宮下藤花が二重人格の患者として精神科医に連れられてきたシーンのことだ。

「しかし、使命のほうは分かっている。世界の危機を回避しなくてはならないんだ」

「へえ? 世界に危険がせまっているわけね?」

「そうらしいね。世界の敵がこのへんにあらわれている。このままでは世界は滅びる。迷惑をかけている宮下藤花本人や、その母親には悪いが、ぼくにはどうしようもなくてね」

「スケールが大きいわねえ」

「もっと正確に言うと、すべての人間はみな世界の敵たりうる可能性を秘めているんだ。人間というのは起爆剤のようなもので、ちょっとしたきっかけですぐに破裂する。そして後先考えずに世界を軋ませていく——ぼくは言うなれば、そういう者の天敵みたいなものか」

 *注:引用者による一部省略アリ

 僭越ながら僕が一言でまとめさせてもらおう。

 

 〈世界の敵〉とは、なんか放っておいたら世界を滅ぼしてしまうやつのことである。 

 

 身も蓋もないが、書いてあることをそのまま読めばそうなる。"破裂"して世界の敵になってしまった人間は、"このままでは世界を滅ぼして"しまう。

 問題は、ここで言う「世界を滅ぼす」とはどういう状態を指すのか、ということであるが。これは恐らく、観念的な意味とか例えではなく、ガチで世界が滅びることであろう。上遠野サーガにおける未来では必ずそれが起きることを、我々は知っている。虚空シリーズや奇跡使いのセカイが、ここでいう「世界が滅んだ」状態のはずだ。上遠野浩平は、「世界の滅び」についてかなり直接的な破滅を想定しているはずである(この点については本記事の中でまた改めて述べる)。

 

 ブギーポップ曰く、〈世界の敵〉は、後先を考えずに、そういうガチの滅びへ向かってしまう

 

 例として最も判りやすいキャラクターは、まさに『夜明けのブギーポップ』に登場する敵、来栖真紀子=フィア・グールであろう。フィア・グールは自分自身の性質を分析するなかで、「もし自分に"世界の弱点"が判るようになったら、それを突かずにいられるだろうか?」を考察している。そして「まちがいなく突くであろう」とハッキリ述べている。放っておいたら、彼女はきっとそのレベルに達していたに違いない。だからブギーポップが殺す必要があったのだ。 

 上で挙げた、早乙女正美、水乃星透子、ゾーラギが持っていた共通点も、まさに「放っておいたらヤバかった」という一点にある。逆に言えば、ブギーポップは「放っておいても大丈夫なヤツ」のことは普通に見逃す。

 

 本論の文学論としての趣旨から離れて、能力バトル設定的な話をすると、ブギーポップの最大の能力はそういう「危機かどうかの見極め」にあるのだろう。『オルフェの箱舟』の戦闘シーンにおいて、ワンホットリミットは、ブギーポップに攻撃しようとしても直前でそれを察知・対処される、と分析した。恐らくブギーポップは、直接戦闘だけでなく、〈世界の敵〉の感知という仕事にもこの危機察知能力を使っている。 

 

 

+水乃星透子の誤解~『VSイマジネーター』

 

 さて、これで〈世界の敵〉が「放っとくとなんか世界を滅ぼしちゃうヤツ」であることが判明した。

 でもなんというか、本当にそうなのか? という気分が拭えないことはないだろうか。

 実は、僕自身そうである。 いろいろ考えたのだが、恐らくこの違和感の原因は、作品内に「ブギーポップが殺す相手がどういう奴か」を誤解しているキャラクターがいるからだろう

 それは『VSイマジネーター』に登場する水乃星透子だ。

 『VSイマジネーター』は、基本的に谷口くんと織畑さんのボーイミーツガール、飛鳥井仁先生の人類補完計画、スプーキーEの統和機工悪だくみ、の3つのラインで構成された物語だ。しかし一方でこれは、上遠野ファンにとって貴重な「水乃星透子がガッツリ出てくる話」でもある。

 水乃星透子=イマジネーターは、上遠野浩平が〈世界の敵〉というテーマに最も熱心に取り組んでいた時期に登場した大物キャラだ。しかも、ブギーポップの宿敵とされている。なので、実は彼女の存在にこそ〈世界の敵〉という概念に込められたテーマ性が、真正面から現れている。 

 

 水乃星透子がブギーポップに関する評価を下すシーン。part2冒頭の、ブギーポップに追い詰められているときの発言を確認してみよう。

「残念だわまったく——」

「結局あなたも"今"にとどまるだけの存在なのね……本当に残念なことだわ」

「しかし、あなたがいくら待ったところで、いっこうに何ひとつはじまることはないと思うわよ。そのうちにあなたは、その名前の通り世界にむなしく浮いては消えるだけの、ただの泡ということになるんだわ」

    このあと彼女は、ブギーポップによって「イマジネーター」という名を与えられ、敢えて自殺することで、”本当に地面に落ちるまでの間"だけ存在する精神体として、ブギーポップにも手出しできない存在と化した。

 このシーンは、物語のプロローグ部分にあたり、それにふさわしい思わせぶりかつ期待を煽る描写となっている。そのため、『VSイマジネーター』だけを読んでいる段階では、例によって単なる難しいセリフとして流してしまいそうになる。

  しかし、上の『夜明けのブギーポップ』の検討で判明した〈世界の敵〉の定義を踏まえると、彼女はどうもおかしなことを言っている。

 

 水乃星透子は自分のことを"今"の反対、イコール"未来"だと評しているのである。 

 つまり、自分が世界を滅ぼすなんてことは微塵も思っていない

 

 彼女が目指した「突破」が何だったのかは、今に至っても明らかではないが、水乃星透子はそれを”良いこと”だと確信しているようだ。 しかしブギーポップが反応している以上「突破」は、明確に世界を滅ぼす行為であるはずだ。恐らく、早乙女正美が核兵器のボタンを押すとか、ゾーラギが街をぶっ壊すとか、それと同等程度に明確な滅びがもたらされる事態のはずなのである。

 

 ブギーポップと水乃星透子の見解が、正反対になっている。これは単なる立場の違いなのだろうか?

 

 念のため述べておくと、二人のうちいずれが正しいかを決めることは、基本的にできない。上遠野浩平がいつか「やっぱりブギーポップは変化を潰しただけの悪で最後には滅びるんだよね」とかやってくる可能性はゼロではない。しかし、本論では敢えて、ブギーポップがやはり正しいのだと、メタ読みしてしまおう。なんといってもブギーポップは変身ヒーローで、正義の味方なのだから。

 するとどうなるか? 先に引用したシーンは、水乃星透子がブギーポップを不当に非難している負け惜しみの場面ということになる。

 

 ちょっとヒーロー物のお約束シーンを想像してみよう。ロボット探偵か何かが、悪のマッドサイエンティストを追い詰める。マッドサイエンティストはロボット探偵を「人類の未来のために私の研究は必要なのにそれがなぜわからん」とか唾を散らして罵る。それで緑色の薬品を自分に打って怪人に変身したりする――。

 水乃星透子があんまり超然としているので、僕自身この記事を書き始めるまで思いもよっていなかったが。実は水乃星透子がイマジネーターになるあの墜落シーンは、そういう風に読むことが可能だ。

 

 

+統和機構の仲間と誤解されがちなブギーポップ

 

 『VSイマジネーターpart2』における、水乃星透子のブギーポップ評は単なる負け惜しみに過ぎない。この読みには、他の描写からも有力な傍証を得ることができる。

 先の引用をもう一度思い出そう。水乃星透子はブギーポップは所詮"今"に属す存在であるから、未来である私を殺そうとしている」と、述べている。

 

 それをやっているのは、統和機構であって、ブギーポップではない。 

 

 ブギーポップは"現在"を守っている、というのは、しばしば我々読者も陥ってしまっている誤解だ。さっき〈世界の敵〉の定義を確認したときに感じた違和感も恐らくその誤解が原因で、ここで水乃星透子が言っていることを、真実だと考えていたからだと思われる。『VSイマジネーターpart2』は、『夜明けのブギーポップ』はより約1年前に先に出版されている。先に聞いた話をなんとなく信じてしまうのは、無理からぬこと。*5

 

 その誤解をここで正してしまおう。

 上で確認したように、ブギーポップが対処する〈世界の敵〉とは、ガチの滅びをもたらす存在である。この「ガチの滅び」は「世界がいまとは全く別のセカイになってしまうことを便宜上〈世界の危機〉と呼んでいる」みたいな問題ではないという意味に受け取らなければ筋が通らなくなる。

 ブギーポップは、統和機構であれば間違いなく排除したであろう影響力の大きなMPLSや周辺状況を頻繁に見逃す。例えば、ノトーリアスI.C.E.やエンブリオがそうだし、世界に激変を与えたかもしれないピートビートのカーメンの旅や、ジンクスショップの活動に介入することはなかった。あるいは逆に、統和機構であれば"危険な道具"としか判断しなかったであろうロックボトムを〈世界の敵〉認定したりもする。

 

 〈世界の敵〉と統和機構の敵が同じでないでないことは、ブギーポップの行動を通してだけでなく、もっと直接的な描写としても明示されている。例えば、『夜明けのブギーポップ』における霧間誠一と水乃星透子が会話するシーンでもそれは示される。

「——おじさん、なんなの」

「実はすごい大物なのさ。こう見えても私は社会の敵ナンバーワンなんだよ」

 社会の敵という表現は、明らかに〈世界の敵〉との対比であろう

 この対比は「社会の敵は〈世界の敵〉とはまた違う存在ですよ」ということを示すための表現だ。実際、社会の敵たる霧間誠一を殺すのは、ブギーポップではなく統和機構である。

 水乃星透子は、自分もまた霧間誠一のように〈社会の敵〉として殺されるのだと誤解していた。だからブギーポップを社会の傀儡と見做し、所詮現在に属する存在だったと非難した。しかしそれこそが誤解の元だったのだ。水乃星透子は、自分が霧間誠一よりもずっとタチの悪い存在になっていることに、全く気付いていなかった。いや、もしかしたら、自動的な存在でもあった*6彼女には、自分が世界を滅ぼすことなんてそもそも思い至ることすら不可能だったのだろうか。

 いずれにしても、ブギーポップは、水乃星透子の誤解をわざわざ正すような真似はしなかった。死神は一旦敵と見做した相手に慈悲などみせない*7。水乃星透子は誤解を抱えたまま、即ち、自分が放っといたら世界を滅ぼしたであろうことなど全く知ることなく死んだ

 

 

+霧間誠一の警句に込められた意図

 

 そして、この水乃星透子の誤解と死を踏まえて、もう一度『VSイマジネーター』を通して読むと、当初は読み飛ばがちだった箇所が、ハッキリした文学的テーマ性を主張しだす。

 各章冒頭に引用(?)されている、霧間誠一の警句に注目しよう。なかでも最もわかりやすく上遠野浩平の意図したテーマが表れてくるのが、part1の冒頭付近で出てくるこれ。

もしも君が善良たろうとするならば、未来などには関わらぬことだ。それはほとんどの場合、歪んだ方向にしか向いていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 水乃星透子がpart2の冒頭でブギーポップを「今」と罵るのを踏まえると、非常に示唆的である。水乃星透子が誤ってしまったのは、彼女が「未来」を目指したからだったのだ

 霧間誠一は似たようなことを次々に述べる。

可能性、もしくは想像力と我々が呼んでいるもののうち99%までは偽物で、本物は残る1%に過ぎない。しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分の仕事を疑うのはよしたまえ。たとえどんなに意味不明で甲斐のない仕事に見えても、実際にその通りだという事実に直面するよりマシだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

新しい可能性は、ときに自分に似たものすべてを食い尽くし……挙句に自滅する。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分は正しいか、と自問するより、自分のどこが間違っているかと考えるほうがずっと事実に近いはずだ。ほとんどの人間はいつでも正しいことはできていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 総じて、霧間誠一は「何かをやろうとすると失敗するぞ」「可能性は良いことなんてほぼ起こさないぞ」「正しいと思ったことをやってるなら騙されてるぞ」という意味のことをずっと述べている。悲観主義も極まれり。およそ未来には希望などない。

 本論は、上遠野浩平が描こうとしているテーマとは、まさにこれだと考える。

 

 〈世界の敵〉というのは、「未来に向かおうとして失敗した者たち」である

 

 上遠野世界において、ヒトの持つ可能性は限りなく大きい

 上遠野浩平は、どの作品でも「可能性」や「未来」といった言葉にこだわる。上遠野浩平はヒトの可能性をほとんど無限だと考えている。あんまりにもヒトの可能性が大きすぎるので、ちょっと刺激を与えられた程度でMPLSなんてものがぽこぽこ出てくる*8し、独力で世界を破滅させなかねない規模の可能性を持つ者もごろごろいる

 しかし一方で、霧間誠一がさんざん述べているように、可能性を実現しようとすることは、致命的な失敗に至ることとほぼ同義である。その点において、上遠野浩平は極めて悲観的だ。誰もが可能性を持っていることは、誰もが必ず失敗することに等しい。しかもそれが失敗に至ったとき衝撃の大きさは、可能性の大きさに比例する。実際、小説の盛り上がりという制約を差し引いて考える必要があるにせよ、上遠野世界において何かを目指した人がそれを成し遂げることは殆どない。

 

 上遠野浩平は、人間の可能性と未来について、無限の希望と底抜けの悲観を同時に抱いている。

 その表れたるモチーフが〈世界の敵〉なのだ

 

 もっと言えば、これは他人事の失敗の話ではない。〈世界の敵〉というモチーフを通して上遠野浩平が表現しようとしているのは、「未来に向かおうとして失敗する僕たち」である。誰にでも可能性があることは、誰でも〈世界の敵〉に成り得るということ。何か自分なりの夢をかなえようと努力している中高生の僕たちは、失敗して〈世界の敵〉と化そうとしている途中なのだ。

 それを認識してなお、僕たちには、なおも前に進もうとする勇気があっただろうか? 本当はもっと大きな夢があったけど、安定志向のためだけに大学受験を目指したりしなかったか? 僕同様に上遠野浩平のようになりたくてラノベ賞に投稿などしていた諸君、皆様の失敗の最大要因は、実は夢を目指したこと自体だったのです。

 

 ここで少し〈世界の敵〉という本論のテーマからずれて、補足をしておく。我々は、将来の失敗が前提されているのを実は霧間誠一に言われるまでもなく知っている。しかし、失敗が怖いけど前に進まなければならない、という状態になるときがある。そんなときに付け込んでくる存在が「イマジネーター」である。イマジネーターとは、自身の正しさを担保してくれる存在である。自分は正しい方向に進んでいるという確信を、宗教のように与えてくれる*9。イマジネーターによって自身の正しさを得た人間は、飛鳥井仁のように、本来は出来ないような非道を確信をもって成してしまう。

人間の生涯に何らかの価値があるとするならば、それはその何者かと戦うことにしかない。自分の代わりに物事を考えてくれるイマジネーターと対決するVSイマジネーター——それこそが人々がまず最初に立たねばならない位置だろう。

 私たちはイマジネーターに頼ってはならない。自信が間違っているとかもしれないという不安を抱えたまま、あくまでの己の意思で前に進まなくてはならない。その為に、前に進むかどうかを決断するよりも先に、まずイマジネーターと対決しないといけない。

 

 

+〈世界の敵〉が死ぬ「その人間が最も美しい瞬間」

 

 こうして〈世界の敵〉が敵なのは、彼らが「未来に向かおううとした失敗」だからだという事が明らかとなった。

 上遠野浩平は、初期ブギーポップにおいて、こういう「将来の可能性なんてものを本気で目指すと碌なことにならねーぞ」という話をわりと繰り返している。我々は、90年代のバブル崩壊前後まで、若さって素晴らしいとか、夢を実現しようだとか、そういうメッセージを受け取り続けてきたのであるが、上遠野世界が〈世界の敵〉に託しているのは、その手の希望のメッセージに対するアンチテーゼであろう。青春という輝かしいはずの時代にラノベなどに嵌っていた僕たちは、このメッセージに強い衝撃を受け、また共感した訳である。

 

 しかし、改めて絶望的なメッセージだ。ブギーポップは決して明るい雰囲気の小説でないことは一読して分るが、こうして言語化してみると、未来は必ず失敗すると思っているとか、本当に暗いとしか言いようがない。

 では、この絶望的なセカイに、救いはどこにもないのか?

 

 救いはある。それこそが僕らのヒーロー、死神ブギーポップ

 

死神とも呼ばれている。ある人間がどうしようもなく汚れてしまう、その寸前に現れて、それ以上醜くなる前に、人生でもっとも美しいその瞬間に、ブギーポップはそいつを殺してしまうのだ、と言われている……。

 

 ブギーポップは「その人間が最も美しい瞬間」に人を殺す。

 そして、殺す対象は「〈世界の敵〉=未来に向かおうとして失敗した者」である。

 では「未来に向かおうとして失敗した者」が「最も美しい瞬間」とは、何時なのか?

 

 それは、未来の可能性が現実となる直前のことだろう

 上遠野浩平は、ヒトの無限の可能性を信じている。それ故、上遠野浩平は夢を目指す者たちの美しさもまた知っている。〈世界の敵〉になってしまった彼らは、たとえ将来の失敗を約束されているとしても、やはり美しい存在なのだ。上遠野浩平の筆致からは、〈世界の敵〉になることのできる存在への、一種の憧れすら読み取ることができる。〈世界の敵〉となったキャラクターたちは常に、強く、賢く、決断力に満ちている*10。そこらの善良な一般人よりもずっと生命力に溢れ、輝いている。

 ブギーポップは、そんな彼らを殺すのだ。夢に向かって邁進していた若者が、自らの致命的失敗を知るよりも前の状態。無限の可能性が、まだ希望に満ちた未来に見えている、希望が絶望に変化するギリギリの瞬間。ブギーポップはその時にやってくる。

 そうして殺される〈世界の敵〉たちは、ブギーポップが来なかった場合に自分が何をしたのか、悲劇的結末を知ることは決してない。全ての終わりはブギーポップがもたらすのであり、彼ら自身が間違っていたことは最後まで露呈することがない。ブギーポップは決して、その死の原因を相手の失敗に起したりしない。水野星透子にそうしたように、ただ容赦なく殺す。

 

 ブギーポップが殺してくれるのは、自身の致命的な失敗なのである

 

 まさにセカイ系ヒーローにふさわしい。受験に失敗して自殺を考える類の中高生にとっての理想の死神だ。自分の頑張りが無駄だったと判る前に、サッと人生のほうを終わりにしてくれる。それが上遠野浩平が作り出した、ブギーポップという理想のセカイ系ヒーローなのだ。

 しかも、ブギーポップは、しばしば何か絶望して自殺しようとしてる中高生の元に現れては、「君に今回起きたようなことは、到底僕が殺すほどの致命的失敗とはいえないな。君はぜんぜん本当の絶望なんか経験してないな」とか言って自殺を辞めさせたりするのである。

 そういう意味でも理想のセカイ系ヒーローであると言えよう。

 

 

+〈世界の敵〉という希望と絶望、そしてその先

 

 という訳で、以上が〈世界の敵〉とは何か、という問題に対する本論なりの決着である。

 

 〈世界の敵〉とは、上遠野浩平の持つ「ヒトの持つ無限の可能性への期待」と「可能性の破綻に関する悲観的見解」という、二つの認識が結実した場所に生まれたモチーフである

 

 我々は誰でも〈世界の敵〉たりえるパワーを持つ。それ故に、〈世界の敵〉として世界を滅ぼしかねない。この希望と絶望の相克が、『ブギーポップ』というシリーズに通底している基本原理と言えるであろう。

 そしてブギーポップというヒーローがやっているのは、この相克に一つの強制的な結末を齎すことである。結末をもたらすのが役割なのだから、それはデウスエクスマキナにもなる。

 

 最後にもう一点補足がある。上遠野浩平は、可能性が必ず失敗する、という悲観主義に「失敗する前の死」という形で答えた。しかし、これはいわば悲観主義の上塗りであって、本論がたどり着いた希望と絶望の相克、という認識からすれば不十分。コインの裏側のみの答えに過ぎない。

 上遠野浩平は、コインの表側、希望を信じる者としての答えも持っている。『夜明けのブギーポップ』の中で、作者の分身たる霧間誠一は、こう言った。

「しかし、その意志だけは残る。たとえそれがどんなに悪いことにしか見えなくても、何かをしようとしたこと、それに向かおうとした真剣な気持ち、そういうものは必ず他の者たちの中に残る。その者たちだって結局は途中かもしれない。だがそのときは、さらにその次に伝わる。そして——誰にわかる? その中の誰かは本当に世界の中心にたどり着くかもしれない……」

  上遠野浩平は、ほとんどの可能性は必ず失敗に至るするという悲観主義の一方で、それでもほんの僅かな何かがあらゆる障害を乗り越えて、真の意味での成功に至るかもしれないという、その希望を決して捨てていない

 この最後の一線が、上遠野浩平の描く悲観的な物語世界において、しばしば大きな感動と共感を巻き起こすのである。

 

 

 次回の第6回は、今回の補足とする。

 何人かのキャラクターを中心に、いくつかの作品を個別に取り上げ、上遠野浩平が絶望と希望の相克をどのように表現してきたか、より詳細に検討していくことにしよう。これについては、語りたいことがいくらでもあるからね。

 

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:歪曲王自身ではなかった、というのがミソで、「なぜそんなに自分を悪いと思うのか?」から始まるブギーさんの説教はシリーズでもナンバーワンの名文だと思う。歪曲王についてはじきに別記事で取り上げる。

*2:それか、ゾーラギが出てきてもフォルティッシモやリセット・リミット姉妹なら倒せたのだろうか?

*3:本論を書くために原典にしっかり当たったら書いてありました。読まずに議論とかしちゃだめだよね。僕も本論を書いている間ぐらいは気を付けたいが、ここまでの連載で既に一部怪しかったりする。

*4:ちなみに今回のアニメ化に際し、コミカライズがあるらしい。非常に楽しみ。

*5:というか、自分以外にもそう信じていたファンは多いと思いたい。

*6:イマジネーター水乃星透子は、ブギー先輩によれば「僕のように分裂はしてなかったがそれでも自動的な存在であったことに違いはない」存在だったらしい。自動的な存在であるというのは、たぶん「目標に対して常に最適解を出す」みたいな事を意味すると思うのだけど、それが上遠野浩平の中で何を意味するのかはよく分からない。後の課題にしたいと思います。

*7:『オルフェの箱舟』で成される「ブギーポップの例の左右非対称な表情は、全ての感情を含んでいるが、唯一そこから慈悲だけが欠けている」みたいな説明がすごく好きです。最近のブギーポップ読んでない人多いと思うけど、やっぱり面白いですよ。

*8:最近の作品では、ウトセラ・ムビョウが、自分が作っている合成人間製造薬はプラシーボ効果の偽薬にすぎないとか言い出している。

*9:上遠野浩平がこのことを意識していたのは、90年代当時に起きたオウム・法の華統一教会といった一連の新興宗教ブームおよび事件と無縁ではあるまい。

*10:上遠野世界において「決断力」はもっとも根源的なパワーの一つだ。

「上遠野浩平論」④傑作セカイ系作品にみる天才性(『ブギーポップは笑わない』)

 祝アニメ化!!!……とは、関係なく書いていた、上遠野浩平論の第4回です。

 期せずしてタイムリーなことになった。

 

 第1回第2回第3回まで、上遠野浩平という作家の生い立ち・性質・執筆スタイルを詳しく検討することで、上遠野浩平を論じる上での基礎を固めてきた。それによって本論は、主に上遠野浩平が世間のブームとは無関係にセカイ系的なテーマを書いていたこと、いわば「天性のセカイ系作家」であることを明らかにした。 

 今回は上遠野浩平が「天性」だけでなく「天才性」すらも持っていることを述べていく。上遠野浩平が天才であることなど、今更僕が言うまでもないことではあるが、しかしどこが天才的なのかを改めて言語化しておくことは、上遠野浩平を論じる上で有用だし、それよりなによりも面白いだろう。

 言語化の対象とするのは、言わずと知れたデビュー作ブギーポップは笑わないだ。この作品の非凡さを逐一指摘することで、上遠野浩平の天才性をネット世界に共有していこう。

 

 

 +天才による偶然の受賞作 

 

 ブギーポップは笑わないは1997年の第4回電撃ゲーム大賞*1で大賞を受賞、出版した上遠野浩平のデビュー作だ。なお、この第4回での金賞は橋本紡、銀賞は阿知太郎。*2

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

 

 上遠野浩平は、この作品の成立と受賞が「偶然だった」旨をたびたび強調している

 

 まずそもそも、電撃ゲーム大賞を投稿先に選んだのは特殊な構造の作品がゲームっぽくて受けるかもと思った程度のことだった。本人は別にライトノベル*3を狙って書いていた訳ではない。

 また、当時の電撃文庫はまだ亜流もいいところで売れ線とは言いがたいところがあった*4電撃文庫でヒットすることがその後の一時代を作ることに繋がるなんて、当時はだれも思ってなかった。

 内容にも偶然性は影響しており、例えば当時のメインストリームだったファンタジーでなく学園モノを書いたのは、本人としては古臭いと思っていた。が、結果それがむしろ一周して新しいとウケた面があり*5、実際ちょうどその後から時代は学園ラノベが主流となった。しかもその流れを作ったのはブギーポップではなく*6フルメタとか涼宮ハルヒとかシャナとかだったと思われる。

 

 そしてなにより、これが最も大きいのだが、ブギーポップというシリーズが90年代後半という時代に熱烈にウケたのは、やはり「セカイ系だったからだ」と考えるのが適切だと思われる。第2回の『冥王と獣のダンス』の検討で確認したように、上遠野浩平ブギーポップ以前から変わらずセカイ系を書き続けいていた。しかし、20世紀末の日本ではバブルが崩壊し、時代が変化した。そうして、たまたま上遠野浩平が書いていたような世界観が流行る時代が来た

 

 『ブギーポップは笑わない』が強い偶然に恵まれた作品であるのは間違いないだろう。作家本人もそれに自覚的である*7

 ただし、本人は単なる偶然だったと言うとしても、僕のような信者はこれらの偶然エピソードは上遠野浩平の天才性を示唆すると思っている訳だ。

 狙わずして傑作を書く作家のことを天才の他に何と呼べばいいのか。

 

 

 +『ブギーポップは笑わない』の変則的な物語構造

 

 さて、作品内容の検討に入ろう。

 この記事を書くにあたって、改めて『ブギーポップは笑わない』を読み返したが(皆さん読み返したらいいと思う。ブギーポップは何度よんでもいい)、それにしてもこの小説は独特な構造をしている。

 本作は5人の人物が語り手を入れ替わる短編連作だ。語り手ごとに、5章に分かれる。

 

  1. 竹田くん。恋人の宮下さんの二重人格・ブギーポップと友達になる。
  2. 末真さん、霧間凪がなにやら調査をしているらしいことが示唆される。
  3. 早乙女くん、怪物マンティコアの存在を知ってその仲間になる。
  4. 木村くん、事件後何年も経ってから紙木城さんの痕跡を探しに来て、異常を見つける。
  5. 新刻さん、委員長気質を発揮した結果マンティコアの死を目の当たりにする。

 

 他に、マンティコアの材料になったらしき謎の存在・エコーズ、そのエコーズをかくまった紙木城さん、ビッチ気質の紙木城さんの本命でマンティコアに止めも刺した田中くん、などが登場する。

 

 この小説の変則的なところとして、具体的に2点が指摘できる。

 

 まずこの話には固定された主人公というのがいない

 というか物語全体の主人公たりうるキャラクター(ブギーポップ霧間凪・紙木城さん)は、そろって各章の語り手から外されている。わざわざサブキャラを語り手に採用して、それを5回もやっている訳だ。まだライトノベルの方向性が萌えの方向に固まりきってない時代なことを加味しても、キャラクター小説としてカテゴリーエラー一歩手前の手法である。

 

 また、この小説では時間軸が激しく前後する

 冒頭1章に事件結末が来ている点はもちろんあるが、特に4章などは事件から数年も後の話だ。高校生たちの青春の話だと思っていたら、急に「高校卒業したあと浪人生をやってる宮下藤花=ブギーポップ」なんてものが出てくる。これも当時のヤングアダルト小説からしたら、女子高生主人公(?)が成長して大学生になった姿なんてのは、基本的に禁じ手だったのではなかろうか。今ですら、キャラクターの成長後とかエンディングや幕間でかろうじて見れるかどうかというところなのに*8。しかも浪人生・宮下藤花は、ページ数も半ばを超えた四章というタイミングで出てくる。

 

 なぜこんな変則的なことをしているのか?

 もちろんこれは、ただ奇をてらったとかではない。むしろこの小説の優れた発想に端を発する必然だ。上遠野浩平はこうした工夫を用いて、より広くて深い"セカイとの断絶"を表現しようとした

 

 

+どんな人間もセカイには関われない

 

 セカイ系特有の表現の主な部分として、"セカイとの断絶感"があるという旨の話は、既に何度かした。それは「自分が何をしようがセカイには何の影響も与えることなどできない」という絶望。アムロと違って、ロボットにのってもセカイを変えられない碇シンジの絶望感である*9

 その断絶の描写が、上遠野浩平は圧倒的に上手い

 しかも技術的にどうこうではなく、考えかたの根本が他のセカイ系作品を明らかに上回っている。

 

 上回っているは具体的にどこか。

 まずブギーポップは笑わない』の登場人物たちは事件の全容を知らないということに注目しよう。

 

 そもそも『笑わない』は、新刻委員長のこの一言から始まる小説だ。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際には実に単純な、よくある話に過ぎないのだろう。

 でも、私たち一人一人の立場からはその全貌を知ることはない。

 

 油断すると、単なる冒頭モノローグと見做して流してしまう部分だが、実は上遠野浩平はこの描写について本気も本気だ。全ての人物は、比喩とか叙述トリックとか描写上の都合ではなく、本当に作品世界のだれも事件の全容を知らない。  

 例えば物語冒頭の語り部である竹田くんが最も顕著だ。彼はブギーポップと最も親しく会話し、あの自動的な存在に君は友達だとまで言わせしめたのに、ブギーポップが何と戦っていたのかすら知らないまま終わった。

 あるいは、田中くんマンティコア弓道で止めを刺したが、ブギーさんに言われるままにしただけで、自分が何に矢を打ち込んだのかも分かってない。物語の決定的な行為者でありながら、単なる傍観者の竹田くんと同程度に真実から遠い。

 また、早乙女くんも同じである。彼は物語の「真犯人」であるにも関わらず、自分が起こした事件が何なのか、自分が愛した怪物が本当はどういう存在なのか、ほとんど把握していない。陰謀の主体である彼ですら本質的に事態の傍観者だ。

 謎の対象がマンティコアならばまだマシなほうで、エコーズに至ってはそもそも設定上から謎の存在だ。謎だからこそ研究されていた訳で、物語の外側に存在する研究所(統和機工だろう)の人たちにとってすら彼が何なのかは謎。ましてや、彼の決断如何で世界が終わっていたであろうことや、その決断を回避して真に世界を救ったのは、実は紙木城さんの小さな優しさだったりしたなんて知りようがない。

 紙木城さんがの優しさが真に成したことが何だったのかについては、エンディングで霧間凪や新刻さんが言及しているが、それは単なる想像であり、紙木城さんの仕事の価値を知っているわけではない。物語のオチを付けた彼女らの言葉すら、真実とは何も関係がない。

 

 そして、最も真実に近いはずの読者にとってすら、事件の全容は謎である。なにしろこの本の出版時点では「統和機構」「虚空牙」「MPLS」といったキータームはまだ影も形もない訳だ。『ブギーポップは笑わない』だけを読んで一体本当は何が起きていたのかを知るのは限りなく無理に近い。

 

 物語世界全体が読者にとって謎につつまれているという表現方法は、セカイ系としては比較的スタンダードな手法だ。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』において視聴者は人類補完計画とは何か、使徒がなぜ攻めてくるのか、ほとんど知ることはない。あるいは『最終兵器彼女』で、読者はヒロインが戦っていた戦争の全容を知ることはない。

 しかし『ブギーポップは笑わない』ほど徹底して、作品内のキャラクターも物語世界全体を把握していない、という事実は、他のセカイ系作品と比べても相当異質だ

 

 

+セカイには碇ゲンドウもゼーレもいない  

 

 他のセカイ系と比べても異質、とはどういうことか。

 それが何の意味を持つのか。

 

 例えば『新世紀エヴァンゲリオン』について考えてみよう。確かに作品世界の全容は、視聴者にとって謎だが、よく考えたらほとんど全てを把握している作品内のキャラクターが居る。ほかならぬ、碇ゲンドウその人である。視聴者の関心は「ゲンドウがいったい何を知っているのか?」「シンジ君はそれを知ってどうするのか?」とかいう部分に向くように、物語自体が出来ていた*10

 また『最終兵器彼女』の場合は更に露骨であり、無力で何も知らないのは主人公だけである。真実は漫画のコマの外でテレビニュースがちゃんと流しているし、自衛隊の人たちはある程度状況をコントロールして抗っていた。何も知らないのは読者だけであり、セカイのどこかには全てを知っている大人が必ず居て、我々にとっての謎の戦争は、セカイにとっては謎でもなんでもなかった。

 他の大抵のセカイ系作品においても、主人公と読者がセカイを把握できないのは、単に我々が無知で無力だからである*11。なんならあのセカイ系作品はどうだったか、各自思い返してみればいい。

 

 しかし『ブギーポップ』では、そういう"全てを知っている大人"は誰もいない。

 上遠野浩平の作品世界においては、本当にあらゆる人間がセカイから断絶されている 

 上遠野浩平の作品世界においては、どんなに強大な能力を持っていても、絶大な権力を持った裏社会のフィクサーでも、本当の真実にアクセスすることはできない。あの統和機構のアクシズすら、おそらくは虚空牙や枢機王ですら、本当の意味で本当の全容は何も知らない*12

 上遠野浩平の物語において、我々がセカイと断絶しているのは、我々が子供で無力だからではないのだ大人だって断絶されており、わけもわからずセカイに翻弄され続けているのだ。

 

 考えてみれば、それは当時の中高生読者すら判っていたであろう、当たり前の認識であった。なぜならば、大人になればセカイと互角に戦えるようになる、と信じることが出来るのなら、いくら思春期の中高生でも絶望なんかしなかったはずだ。というか、セカイ系が流行った時代背景には、バブルがはじけて将来の成功が信じられなくなった事があったはずなので、それは「大人なら上手くいく」という認識とは真逆だ。

 中高生だった僕たちが確かにセカイとの断絶を感じていた一方で、作品世界の側が碇ゲンドウやゼーレのごとき大人が居る(=将来そうなれる可能性がある)こと」を示していたのは、読者との乖離に他ならない。我々は、心の奥底で自分が碇ゲンドウになんてなれるはずがないと知っていたはずなのだから、"セカイとの断絶"を表現する文学表現において*13、実は碇ゲンドウの存在は余計もいいところだった。

 だから上遠野浩平はそういう余計を『ブギーポップは笑わない』によって一切排したのだ。 

 

 それによってブギーポップ世界のセカイ系表現は、より時代の核心に迫った。  

 こうして上遠野浩平が表現したものを、僕なりの言葉として、"セカイとの断絶"の広さと呼ぶことにする。誰もその影響範囲からは逃げられない、という意味である。

 『ブギーポップは笑わない』の語り手が各章ごとに交代し、しかもメインキャラを避けて語り手を選んでいるのは、実にその広さを表現するためであった。

 

 

+時間は断絶の絶望を消し去らない

 

 更に上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』において、断絶の広さだけでなく深さの表現でも、他のセカイ系作品との違いを見せている

 セカイ系という作品群は"セカイとの断絶"を主に書くものだが、実はブギーポップは笑わない』で主なテーマとして書かれているのは、断絶それ自体ではない。

 

 この小説の主題は、セカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちにある*14

 本論がセカイとの断絶の深さと呼ぶのは、このテーマによって表現されている要素。即ち、セカイとの断絶は決して一過性のものではない。青春期の一時の気の迷いではない、という認識のことだ。

 

 例えば、第2章で語られる末真さんの物語を思い返そう。

 後のシリーズで重要人物となる末真和子は、この本の第2章で、過去の殺人事件で自分が知らないうちに救われていたことについて、お礼ぐらい言わせろと霧間凪に迫った*15。が、よく考えてみれば末真和子の過去はマンティコアとエコーズの物語には必要ない。『笑わない』が紙木城さんとエコーズとマンティコアの事件を描くだけの小説だったなら、末真和子は単に無関係なキャラクターである。それがなぜ描かれているのか?

 また第4章では、木村くんはもう大学生なのに、昔の彼女だった紙木城さんの真実をわざわざ探しに来てしまう。事件当時から何年も経ってからの出来事を、わざわざ物語中盤の一章を割いて描写している訳だが、実はマンティコアの事件の真実に迫るだけなら、別に木村くんは卒業してなくてもよかった。なんなら新刻委員長や田中くんといっしょにラストバトルに参加したほうが盛り上がった可能性もある。しかし上遠野浩平はそうしない。なぜ事件から何年も経った後の出来事を書かねばならなかったのか? 

 末真さんや木村くんに共通するのは、何年も前の事件においてセカイと断絶されていたし、今でもそれが解決していない、ということである。つまり、彼らこそがセカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちである。

 

 そして、上遠野浩平がそんな人生を送る人たちを通して言わんとしてるのは、今この場でセカイと断絶していることなど大した問題ではない、ということ。 

 もし今、我々がセカイとの断絶を絶望しているのであれば、この絶望は将来にわたっても続いているのかもしれない

 これも考えてみれば当たり前の認識であった。

 上で言及した、上遠野浩平世界に碇ゲンドウが存在しない理由と同じだ。僕たちの絶望は、「大人になってもセカイに接続できる気がしない」、という無力感の認識から始まっているのだ。将来の僕たちがゼーレや碇ゲンドウになれないのという認識が事実ならば、それは論理的に言って、今僕たちが感じている断絶感は将来にわたっても消えないということも意味する。

 まさに、当時の僕たちが感じていた絶望は「セカイと断絶したまま僕たちはずっと生きていくであろうという予感において存在した。

  上遠野浩平の天才性は、絶望の本質を、鋭く的確に貫いていた。

 

  その後の作品でも、上遠野浩平は「セカイと断絶したままの人生」というテーマをしばしば扱う。しかし、とりわけ最も大きな主題としたのは、デビュー作の『ブギーポップは笑わない』においてである。

 この作品で、時間軸が変則的に前後しなければならなかったのは、それを表現するためであった。

 

 

 +作品外にすら突き抜ける絶望の深み

 

 ここで、セカイとの断絶の深さ、という点に関連して、特に指摘しておきたいことがある。本作、『ブギーポップは笑わない』のカラーページについてだ。

 この本の冒頭カラーページには、オシャレな各キャラのイラストと、物語中の印象的なセリフが引用されている。これは今でこそラノベ文庫定番の手法だが、当時は斬新であり*16非常に印象に残った人も多いはず。

 その中において、田中くんのこのセリフ*17

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「彼のほうが彼女のことを、僕よりも好きだったんじゃないかと思いますから」

 

 このセリフは『ブギーポップは笑わない』の本文中に登場しない

 どこに出てくるかというと、『歪曲王』で、羽原健太郎先輩の手によって歪曲王の夢から現実に戻された、その直後にぽろっと漏らすのである。このセリフが象徴する田中志郎の心の歪みが、のちに歪曲王*18を生んだ。田中くんの葛藤の中核となり、後のシリーズでもかなり重要な位置づけのセリフが、『ブギーポップは笑わない』の本文に入っておらず、しかし当然存在するものとしてカラーページに引用されているのだ。

 これは、上遠野浩平の狙い通りの演出なのだろうか? それともたまたま推敲段階で抜けたセリフを後に再利用したのか? それは作家本人でないと知りようがないが。 

 ただ、一つ言えるのは、上遠野浩平が「マンティコアに止めを刺した田中くんのその後」に思いを馳せていたのは確実である。引用のセリフは、明らかに過去形だ。なので恐らく、これは事件からしばらく経ったあとに、既に居なくなった紙木城直子について話したセリフである。つまり、実は田中志郎もまた「セカイと断絶したままの人生」を送ることになるキャラクターとして構想されている。

 

 考えてみれば、田中くんは怪物を倒してセカイを直接的に救った、碇シンジではなくアムロのポジションにいるはずの男である。イケメンだし好青年だし女にもモテて、怪物を倒す弓の才能を紙木城さんに見出されていた。設定と行動だけみれば本当に英雄的な少年なのだ。しかし上遠野浩平の手腕によって、英雄もまた誰にも理解されない断絶をかかえているという、彼はそういう状態を表現するキャラクターになっている。*19

 『歪曲王』はブギーポップシリーズの最終巻になる可能性も構想されていた、という話はファンの間では有名だが、それもこのあたりに端を発するのだろう。マンティコア殺しの英雄・田中志郎の心残りを解決してあげることが、実は「ブギーポップという物語の終わり」だったのである。

 

 上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で描いたセカイとの断絶の深さは、文庫一冊の厚みに最初から収まっていない。

 ではその射程はどこまで続いているのだろうか? 僕らがは上遠野サーガの深みにのめり込んでいくのは、まさにそれを確かめるためかもしれない。

 

 

 +断絶に対するブギーポップの回答

 

 さて、こんなにも広さと深さを兼ね備えた断絶を前にして、我々は立ちすくむばかりである。

 では、人生に迷う中高生だった我々に、上遠野浩平はただ絶望だけを示したか? 全く違う。なぜなら上遠野世界には、絶望から我々を救いあげるヒーローも存在するからだ。

 

 『ブギーポップは笑わない』の中で、われらがブギーポップ先輩は、立ちすくむ若者たちにこう仰っている。

「僕には義務があるように、君や宮下藤花にもやるべき仕事があるんだ。君らは自分で自分たちの世界を作っていかなくちゃならないんだよ。」

「紙木城直子は自分の使命を立派に果たした。だから君も、君の仕事を彼女に恥じぬように果たすべきだ」

 

 百点満点の回答。ほとんど唯一の正解だと言える

 たとえ我々がセカイを前に無力だとしても、その事実は認識したうえで、我々はただ前進していくしかないのである。絶望の広さも深さも抱えたまま、自分たちの使命を果たすべく、自分で自分の仕事に取り組んでいかないといけない。結果として、紙木城直子のように死ぬことになるとしてもだ。

 これは、後の2000年代批評文化がセカイ系ムーブメントに取り組んだ際にも、ほとんど唯一の正解と見做された回答と同じである碇シンジがダメなのは、セカイとの断絶を前に絶望して、引きこもってしまったからであった。宇野恒弘は、エヴァから始まったセカイ系文学にはそういう引きこもり的な問題点があったが故に、後の世代では、『戦わなければ生き残れない』で有名な仮面ライダー龍騎のような作品が登場したと指摘した*20

 上遠野浩平はここでも時代を先取りしていたのであった。ブギーポップは、戦わなければ生き残れないのだと、とっくのとうに我々に告げていた。

 

 ただし、ここで重要なことがある。

 戦うことが、全ての人間にできるはずがない

 上遠野浩平はそのことも、ちゃんと分かっている。上遠野世界において、絶望を前にして立ちすくむこともなく、パッと動くことを決断して自分なりの闘争へシフトしていけるのは、自動的に動く変身ヒーローとか、炎の魔女のような正義の戦士とか、そういう奴らだけである。一般人はたいてい「うううううう……」とか唸るだけ唸って、何も決断できないで終わる。それが上遠野浩平の世界観だ。

 決断には強さが必要となるし、弱い僕らは強さなんてものとは無縁なのだ。

 

 ではどうするか?

 上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』の後も、デビュー20周年を迎えた今日ですらセカイ系作品を書いているのだが、取り組んでいるのは結局はそういうことだと僕は思っている。より詳しい検討は後の連載に譲るが、ひとまずは『笑わない』で答えが示されたテーマには、まだ続きがあることを認識しておいていただきたきたい*21

 

 

+天才的セカイ系描写ゆえ、熱狂されて当然 

 

 という訳で、あの頃ブームになったブギーポップシリーズが書いていたセカイ系描写には、他のどの作品よりも”広さ”と”深さ”があった。

 まさに天才の仕事。将来に不安を抱える中高生の僕たちが熱狂したのも、今にして思えば当然と言える。

 

 さっきもちょっと触れたが、ブギーポップは今年20周年だそうである。それとともに、我々は中高生からオッサンになった。バブル後という時代はテロや地震と戦ってるうちにいつの間にか消え去り、セカイ系ブームもずいぶん遠くなってしまった。

 しかし、"セカイとの断絶"がもたらす不安は、別に消えて無くなった訳ではない

 したがって、今読んでも『ブギーポップは笑わない』は揺るぎなき名作である

 それに、本論ではあえてセカイ系描写の天才ぶりに絞って作品の魅力を分析したが、それは分析的にアプローチできるのがその部分だったからにすぎない。キャラクターの魅力、文庫デザインの革新性、文体のカッコよさといった要素もまた、当然のことながら作品の魅力を構成している(というか、そちらがメインかもしれない)。

 まあ、結局のところ名作だってことは読めばわかるのだから、その辺はやっぱり改めて自身でお読みくださいという話だ。

 

 この第4回までで、上遠野浩平論は第1章を完結とする。第1章では「上遠野浩平がどういう作家か」を述べることを目標とした。本当はブログ記事1つぶんでここまで書くつもりだったのだけれど、文字数が2万を超えたところでそれを諦めて分割したので、多少読みにくいところがあるかもしれない。

 第5回からは上遠野浩平論の2章と位置づけ、上遠野浩平の作品世界における美意識・思想の内容に迫る。特に次回では「世界の敵」という表現がいったい何を意味しているのかを僕なりに書くつもりだ。

 

 またどうせ文字数がとんでもないことになるだろうが、旬の話題になっちゃったのでできるだけ更新を急ぎます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:電撃の新人賞は最初のうち「ゲーム大賞」という名前だった。それは、富士見やスニーカーの賞がジュブナイルノベルの本流であり、電撃文庫はむしろ亜流だったということ。電撃文庫は、もともスニーカー文庫ヤングアダルト小説を出版していた角川書店が、新規作家をより積極的に発掘するために立ち上げたレーベルで、「ゲーム大賞」と名付けたのは、バーチャファイターが出たりFF7が出たりしていたのゲームの世界を時代の先端と捉え、メイン層よりもエッジの利いた先端を狙っていく、みたいな意図だった(はずだ)。ヤングジュブナイルライトノベルになっていったあの時代とは、このような、小説が漫画・ゲームに魅力で劣るという危機感が大きな流れを起こし始めていた時代でもあった。

*2:いずれも当時からのラノベ読みなら知ってて当然クラスの作家だ。

*3:当時は「ヤングアダルト

*4:富士見ファンタジアが擁するスレイヤーズオーフェン全盛の時代である

*5:http://dengekitaisho.jp/novel_interview_30.html

*6:学園ラノベ隆盛の端緒ではあったという見方もあるが、それなら蓬莱学園シリーズとかが先に挙がってくると思うのだ。

*7:この時の経験が、あるいは上遠野浩平に創作に関する偶然性を強く意識させたのかもしれない。つまり、この出世作を取り巻く偶然ぶりが、第3回で紹介した『製造人間』の発言が示唆するような創作哲学に上遠野浩平を導いていったんじゃないか、と考えることもできる。

*8:そういう認識でいえば、近年の『鉄血のオルフェンズ』でアトラちゃんが出産するとか、やっぱり革新的だったのかもしれない。物語市場はいつも変わらないと見せかけて、ちゃんと進歩もしていると思う。

*9:この時代の日本でそういう絶望を主に書くセカイ系が流行ったのは、バブル崩壊で社会全体に広まった無力感と無関係ではない、と言われている。ここでは本論から外れるので深くは踏み込まない

*10:無論ここは雑なまとめであって異論は積極的に認める。論の展開からエヴァについて話さざるを得ないが、僕は正直エヴァはそこまで好きでも詳しくもない。

*11:今、ふと思ったのだが、だから所謂『謎本』が時期ブームになったりしたのだろうか。セカイについて解き明かせないかという足掻きだったのかも。

*12:むしろオキシジェンなどは殆ど能力の奴隷と化している節がある

*13:文学表現において、という言い方をするのは「ストーリー的な面白さや整合性はともかく」という留保である。念のため。

*14:2019年1月追記・このテーマは、後に述べる通りマンティコアとエコーズの物語には本来必要ないため、アニメ化に際してごっそり丸ごと削られてしまった。原作の主テーマだったはずなのだが……。でも後の巻をしっかり書くためにはしょうがないか!!これについては皆さん、原作を読もう!!!

*15:彼女にとって、自分の命にとって真に重大だった事件と断絶したままセカイを生きていくという事態は耐え難かったからだ。この痛みは、非常に切実で、共感できる。大人になった今だから判る名シーンの一つだと思う。

*16:地の分の引用とともに、物語中の1シーンをそのままイラストで載せるのが(つまり、普通の文庫中の挿絵に色を塗ったものを載せるのが)当たり前だった。

*17:この点に気付いている人が多いのか少ないのか、ファン同士の交流というものにとんと接してない僕にはわからない。常識レベルの話だったらすいません。

*18:歪曲王は上遠野浩平にとって実はとても大事な存在である。そのことは後の記事で語るつもりだ。

*19:……今書きながら気づいたけど、そういえば「志郎」って、英雄につける名前だよ。「志」という感じにはそういう意図を込めるもんじゃないか、っていうか、言ってしまえば赤い弓使いの英霊につける名前だし。 それが平凡の極みの「田中」についてるんだよ。今ならこのキャラクターが何だったのか、名前からすら深読みできちゃう気がするよ。

*20:参考:ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

*21:(脚注追記)この点については連載第8回で言及した。