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「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』)

 

 上遠野浩平論の5記事目。ここからは第2章です。

 第1章に位置付けた第1~4回では、上遠野浩平という作家の来歴を中心に見ることで、この作家が所謂「セカイ系」に属する作品を書いていること、それはブームを狙ったのではなく、むしろブームのほうが上遠野浩平の上を通り過ぎていったこと、上遠野浩平セカイ系描写がまさに天才というべきものであることを確認した。

 

 ここからはそんな上遠野浩平が一体どういう作品を書いているのか、上遠野浩平という作家にとって中心となる問題点・美意識は何なのかについて述べていく(いよいよ文学論っぽくなってきた)。

 上遠野浩平の問題意識を探るのに、まず鍵となる概念は当然〈世界の敵〉

 ブギーポップが自動的に殺していく〈世界の敵〉とは何なのか。なぜ上遠野浩平は彼らをブギーポップに殺させるのか。それを検討すれば、この作家の中核となるポイントが見えてくると本論は考える。

 

 

 +世界の敵とは何なのか~『歪曲王』における証言

 

 さて〈世界の敵〉という問題に取り組むにあたり、開始地点とするのは、『歪曲王』のクライマックスだ。

 既にたびたび引き合いに出したこの作品だが、なかでも歪曲王とブギーポップが直接対決するクライマックスは、シリーズでも5本の指に入る屈指の名シーンだ。その中で、ほかならぬブギーポップが、これまで戦った世界の敵たちについて解説を行っている。

 ……かつて、一人の少年が居た。その少年は、別にそれ自体では悪くもなんともない人間だった。だが彼は実は世界の敵だった。なぜなら彼には"生きること"というものにたいして本人も気づかぬ根深い憎悪があったからだ。それでもそのまま生きていたとしたら、あるいは何でもないまま、普通に生きていたかもしれない。だが彼は運命のいたずらで"人喰い"と出会ってしまって、自分のことをはっきりと知ってしまった。彼自身が"人を喰うもの"になってしまった。怪物の法は単に生存条件だったから人を殺していたが、彼のほうは理由らしい理由もなく、ただただ殺し続けた。彼には終点という発想がなかった。もし今でも生きていたとしたら、彼は完全にとりかえしのつかないものを探し出して、世界を破壊していただろう。

  ……そして、一人の少女がいた。彼女は人の死を見ることがことができた。それ自体ではなんでもない能力だった。医療関係や危機管理などの方面に進めば、役に立てることができる能力だったかもしれない。しかし彼女はその"死"を絶対的な物だと考えてしまった。人から"死"を取り出して寄せ集めて、何か巨大なものが創れるという考えにとりつかれてしまった。それが人という限界を"突破"することだと思ってしまった。素晴らしいものに近づけるなら、生きている必要などない、という立場に立ってしまい、そして世界の敵になってしまった。"死"を全く恐れないように人の心を作り変えてしまおう、とまで思うようになってしまった。

  ……どちらも僕の敵になってしまった者たちだ。彼らには、残念ながらそれ以外の道というものはなかった。ぼくとしては彼らがそれ以上進まないように"遮断"する以外なかった。

 まず注目すべきなのは『笑わない』における〈世界の敵〉は、マンティコアではなく早乙女正美であった、という点だろう。人食いの化け物がそこにいること自体はどうでもよくて、ブギーさんの言うところの"人を食うもの"が問題だった、らしい。ただ、それはつまり行動の方向性の話ということだろうか。将来的にきっと世界に破滅をもたらした、という彼の精神性が問題だったのか。これだけでは判然としない。

 また、ブギーポップは、水乃星透子がなぜ〈世界の敵〉だったのかについても言及している。どうも、単に”死が見えて触れる少女”というだけなら〈世界の敵〉ではないという話らしい。しかし、死のエネルギーを束ねて”突破”を目指したので、世界の敵認定を受けてしまったようだった。

 なお、当の『歪曲王』のストーリーで〈世界の敵〉認定を受けていたのは、ゾーラギという大怪獣だったようである*1。想像上の存在だが、歪曲王の能力制御失敗で生まれかけており、もし本当に具現化していたら、まさしく世界が物理的に壊滅したであろう*2

 

 それにしても、こうして並べてるとなかなかに豊富なラインナップだ。

 

  •  なんだかちょっと頭のおかしいサイコパス
  •  超能力で何か変なことをしようとした少女
  •  物理的にただただ強い大怪獣

 

 ちょっとバラエティに富み過ぎてすらいる。

 これら全てに適応できる〈世界の敵〉の定義とはいったいなんなのだろうか?

 

 

+〈世界の敵〉とは?への明快な答え~『夜明けのブギーポップ

 

 ……まあ、答えは作品の中で割と明示的に示されているのである*3。僕含め上遠野ファンはわりと世界の敵の定義という話題で脳内が(直接上遠野浩平の話ができることは少ないので)盛り上がっちゃうのだが、実はあんまり議論の余地はなかったりする。

 答えが示されているのは、シリーズ最終巻(仮)だった『歪曲王』の直後に出版された、『夜明けのブギーポップにおいてだ。

 本作は、ブギーポップブギーポップになった時期の物語、いわばブギーポップのビギニングものである。なのでストーリーの随所で、不気味な泡(ブギーポップ)というネーミングの由来だとか、ブギーポップが黒い筒みたいな衣装を着てる理由だとか、ニュルンベルグマイスタージンガーを流す理由だとかが語られている。*4

 で、その一貫で、ブギーポップ自身が「自分が殺す〈世界の敵〉とはどういう存在か」をハッキリ語っているのだ。それは、宮下藤花が二重人格の患者として精神科医に連れられてきたシーンのことだ。

「しかし、使命のほうは分かっている。世界の危機を回避しなくてはならないんだ」

「へえ? 世界に危険がせまっているわけね?」

「そうらしいね。世界の敵がこのへんにあらわれている。このままでは世界は滅びる。迷惑をかけている宮下藤花本人や、その母親には悪いが、ぼくにはどうしようもなくてね」

「スケールが大きいわねえ」

「もっと正確に言うと、すべての人間はみな世界の敵たりうる可能性を秘めているんだ。人間というのは起爆剤のようなもので、ちょっとしたきっかけですぐに破裂する。そして後先考えずに世界を軋ませていく——ぼくは言うなれば、そういう者の天敵みたいなものか」

 *注:引用者による一部省略アリ

 僭越ながら僕が一言でまとめさせてもらおう。

 

 〈世界の敵〉とは、なんか放っておいたら世界を滅ぼしてしまうやつのことである。 

 

 身も蓋もないが、書いてあることをそのまま読めばそうなる。"破裂"して世界の敵になってしまった人間は、"このままでは世界を滅ぼして"しまう。

 問題は、ここで言う「世界を滅ぼす」とはどういう状態を指すのか、ということであるが。これは恐らく、観念的な意味とか例えではなく、ガチで世界が滅びることであろう。上遠野サーガにおける未来では必ずそれが起きることを、我々は知っている。虚空シリーズや奇跡使いのセカイが、ここでいう「世界が滅んだ」状態のはずだ。上遠野浩平は、「世界の滅び」についてかなり直接的な破滅を想定しているはずである(この点については本記事の中でまた改めて述べる)。

 

 ブギーポップ曰く、〈世界の敵〉は、後先を考えずに、そういうガチの滅びへ向かってしまう

 

 例として最も判りやすいキャラクターは、まさに『夜明けのブギーポップ』に登場する敵、来栖真紀子=フィア・グールであろう。フィア・グールは自分自身の性質を分析するなかで、「もし自分に"世界の弱点"が判るようになったら、それを突かずにいられるだろうか?」を考察している。そして「まちがいなく突くであろう」とハッキリ述べている。放っておいたら、彼女はきっとそのレベルに達していたに違いない。だからブギーポップが殺す必要があったのだ。 

 上で挙げた、早乙女正美、水乃星透子、ゾーラギが持っていた共通点も、まさに「放っておいたらヤバかった」という一点にある。逆に言えば、ブギーポップは「放っておいても大丈夫なヤツ」のことは普通に見逃す。

 

 本論の文学論としての趣旨から離れて、能力バトル設定的な話をすると、ブギーポップの最大の能力はそういう「危機かどうかの見極め」にあるのだろう。『オルフェの箱舟』の戦闘シーンにおいて、ワンホットリミットは、ブギーポップに攻撃しようとしても直前でそれを察知・対処される、と分析した。恐らくブギーポップは、直接戦闘だけでなく、〈世界の敵〉の感知という仕事にもこの危機察知能力を使っている。 

 

 

+水乃星透子の誤解~『VSイマジネーター』

 

 さて、これで〈世界の敵〉が「放っとくとなんか世界を滅ぼしちゃうヤツ」であることが判明した。

 でもなんというか、本当にそうなのか? という気分が拭えないことはないだろうか。

 実は、僕自身そうである。 いろいろ考えたのだが、恐らくこの違和感の原因は、作品内に「ブギーポップが殺す相手がどういう奴か」を誤解しているキャラクターがいるからだろう

 それは『VSイマジネーター』に登場する水乃星透子だ。

 『VSイマジネーター』は、基本的に谷口くんと織畑さんのボーイミーツガール、飛鳥井仁先生の人類補完計画、スプーキーEの統和機工悪だくみ、の3つのラインで構成された物語だ。しかし一方でこれは、上遠野ファンにとって貴重な「水乃星透子がガッツリ出てくる話」でもある。

 水乃星透子=イマジネーターは、上遠野浩平が〈世界の敵〉というテーマに最も熱心に取り組んでいた時期に登場した大物キャラだ。しかも、ブギーポップの宿敵とされている。なので、実は彼女の存在にこそ〈世界の敵〉という概念に込められたテーマ性が、真正面から現れている。 

 

 水乃星透子がブギーポップに関する評価を下すシーン。part2冒頭の、ブギーポップに追い詰められているときの発言を確認してみよう。

「残念だわまったく——」

「結局あなたも"今"にとどまるだけの存在なのね……本当に残念なことだわ」

「しかし、あなたがいくら待ったところで、いっこうに何ひとつはじまることはないと思うわよ。そのうちにあなたは、その名前の通り世界にむなしく浮いては消えるだけの、ただの泡ということになるんだわ」

    このあと彼女は、ブギーポップによって「イマジネーター」という名を与えられ、敢えて自殺することで、”本当に地面に落ちるまでの間"だけ存在する精神体として、ブギーポップにも手出しできない存在と化した。

 このシーンは、物語のプロローグ部分にあたり、それにふさわしい思わせぶりかつ期待を煽る描写となっている。そのため、『VSイマジネーター』だけを読んでいる段階では、例によって単なる難しいセリフとして流してしまいそうになる。

  しかし、上の『夜明けのブギーポップ』の検討で判明した〈世界の敵〉の定義を踏まえると、彼女はどうもおかしなことを言っている。

 

 水乃星透子は自分のことを"今"の反対、イコール"未来"だと評しているのである。 

 つまり、自分が世界を滅ぼすなんてことは微塵も思っていない

 

 彼女が目指した「突破」が何だったのかは、今に至っても明らかではないが、水乃星透子はそれを”良いこと”だと確信しているようだ。 しかしブギーポップが反応している以上「突破」は、明確に世界を滅ぼす行為であるはずだ。恐らく、早乙女正美が核兵器のボタンを押すとか、ゾーラギが街をぶっ壊すとか、それと同等程度に明確な滅びがもたらされる事態のはずなのである。

 

 ブギーポップと水乃星透子の見解が、正反対になっている。これは単なる立場の違いなのだろうか?

 

 念のため述べておくと、二人のうちいずれが正しいかを決めることは、基本的にできない。上遠野浩平がいつか「やっぱりブギーポップは変化を潰しただけの悪で最後には滅びるんだよね」とかやってくる可能性はゼロではない。しかし、本論では敢えて、ブギーポップがやはり正しいのだと、メタ読みしてしまおう。なんといってもブギーポップは変身ヒーローで、正義の味方なのだから。

 するとどうなるか? 先に引用したシーンは、水乃星透子がブギーポップを不当に非難している負け惜しみの場面ということになる。

 

 ちょっとヒーロー物のお約束シーンを想像してみよう。ロボット探偵か何かが、悪のマッドサイエンティストを追い詰める。マッドサイエンティストはロボット探偵を「人類の未来のために私の研究は必要なのにそれがなぜわからん」とか唾を散らして罵る。それで緑色の薬品を自分に打って怪人に変身したりする――。

 水乃星透子があんまり超然としているので、僕自身この記事を書き始めるまで思いもよっていなかったが。実は水乃星透子がイマジネーターになるあの墜落シーンは、そういう風に読むことが可能だ。

 

 

+統和機構の仲間と誤解されがちなブギーポップ

 

 『VSイマジネーターpart2』における、水乃星透子のブギーポップ評は単なる負け惜しみに過ぎない。この読みには、他の描写からも有力な傍証を得ることができる。

 先の引用をもう一度思い出そう。水乃星透子はブギーポップは所詮"今"に属す存在であるから、未来である私を殺そうとしている」と、述べている。

 

 それをやっているのは、統和機構であって、ブギーポップではない。 

 

 ブギーポップは"現在"を守っている、というのは、しばしば我々読者も陥ってしまっている誤解だ。さっき〈世界の敵〉の定義を確認したときに感じた違和感も恐らくその誤解が原因で、ここで水乃星透子が言っていることを、真実だと考えていたからだと思われる。『VSイマジネーターpart2』は、『夜明けのブギーポップ』はより約1年前に先に出版されている。先に聞いた話をなんとなく信じてしまうのは、無理からぬこと。*5

 

 その誤解をここで正してしまおう。

 上で確認したように、ブギーポップが対処する〈世界の敵〉とは、ガチの滅びをもたらす存在である。この「ガチの滅び」は「世界がいまとは全く別のセカイになってしまうことを便宜上〈世界の危機〉と呼んでいる」みたいな問題ではないという意味に受け取らなければ筋が通らなくなる。

 ブギーポップは、統和機構であれば間違いなく排除したであろう影響力の大きなMPLSや周辺状況を頻繁に見逃す。例えば、ノトーリアスI.C.E.やエンブリオがそうだし、世界に激変を与えたかもしれないピートビートのカーメンの旅や、ジンクスショップの活動に介入することはなかった。あるいは逆に、統和機構であれば"危険な道具"としか判断しなかったであろうロックボトムを〈世界の敵〉認定したりもする。

 

 〈世界の敵〉と統和機構の敵が同じでないでないことは、ブギーポップの行動を通してだけでなく、もっと直接的な描写としても明示されている。例えば、『夜明けのブギーポップ』における霧間誠一と水乃星透子が会話するシーンでもそれは示される。

「——おじさん、なんなの」

「実はすごい大物なのさ。こう見えても私は社会の敵ナンバーワンなんだよ」

 社会の敵という表現は、明らかに〈世界の敵〉との対比であろう

 この対比は「社会の敵は〈世界の敵〉とはまた違う存在ですよ」ということを示すための表現だ。実際、社会の敵たる霧間誠一を殺すのは、ブギーポップではなく統和機構である。

 水乃星透子は、自分もまた霧間誠一のように〈社会の敵〉として殺されるのだと誤解していた。だからブギーポップを社会の傀儡と見做し、所詮現在に属する存在だったと非難した。しかしそれこそが誤解の元だったのだ。水乃星透子は、自分が霧間誠一よりもずっとタチの悪い存在になっていることに、全く気付いていなかった。いや、もしかしたら、自動的な存在でもあった*6彼女には、自分が世界を滅ぼすことなんてそもそも思い至ることすら不可能だったのだろうか。

 いずれにしても、ブギーポップは、水乃星透子の誤解をわざわざ正すような真似はしなかった。死神は一旦敵と見做した相手に慈悲などみせない*7。水乃星透子は誤解を抱えたまま、即ち、自分が放っといたら世界を滅ぼしたであろうことなど全く知ることなく死んだ

 

 

+霧間誠一の警句に込められた意図

 

 そして、この水乃星透子の誤解と死を踏まえて、もう一度『VSイマジネーター』を通して読むと、当初は読み飛ばがちだった箇所が、ハッキリした文学的テーマ性を主張しだす。

 各章冒頭に引用(?)されている、霧間誠一の警句に注目しよう。なかでも最もわかりやすく上遠野浩平の意図したテーマが表れてくるのが、part1の冒頭付近で出てくるこれ。

もしも君が善良たろうとするならば、未来などには関わらぬことだ。それはほとんどの場合、歪んだ方向にしか向いていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 水乃星透子がpart2の冒頭でブギーポップを「今」と罵るのを踏まえると、非常に示唆的である。水乃星透子が誤ってしまったのは、彼女が「未来」を目指したからだったのだ

 霧間誠一は似たようなことを次々に述べる。

可能性、もしくは想像力と我々が呼んでいるもののうち99%までは偽物で、本物は残る1%に過ぎない。しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分の仕事を疑うのはよしたまえ。たとえどんなに意味不明で甲斐のない仕事に見えても、実際にその通りだという事実に直面するよりマシだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

新しい可能性は、ときに自分に似たものすべてを食い尽くし……挙句に自滅する。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分は正しいか、と自問するより、自分のどこが間違っているかと考えるほうがずっと事実に近いはずだ。ほとんどの人間はいつでも正しいことはできていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 総じて、霧間誠一は「何かをやろうとすると失敗するぞ」「可能性は良いことなんてほぼ起こさないぞ」「正しいと思ったことをやってるなら騙されてるぞ」という意味のことをずっと述べている。悲観主義も極まれり。およそ未来には希望などない。

 本論は、上遠野浩平が描こうとしているテーマとは、まさにこれだと考える。

 

 〈世界の敵〉というのは、「未来に向かおうとして失敗した者たち」である

 

 上遠野世界において、ヒトの持つ可能性は限りなく大きい

 上遠野浩平は、どの作品でも「可能性」や「未来」といった言葉にこだわる。上遠野浩平はヒトの可能性をほとんど無限だと考えている。あんまりにもヒトの可能性が大きすぎるので、ちょっと刺激を与えられた程度でMPLSなんてものがぽこぽこ出てくる*8し、独力で世界を破滅させなかねない規模の可能性を持つ者もごろごろいる

 しかし一方で、霧間誠一がさんざん述べているように、可能性を実現しようとすることは、致命的な失敗に至ることとほぼ同義である。その点において、上遠野浩平は極めて悲観的だ。誰もが可能性を持っていることは、誰もが必ず失敗することに等しい。しかもそれが失敗に至ったとき衝撃の大きさは、可能性の大きさに比例する。実際、小説の盛り上がりという制約を差し引いて考える必要があるにせよ、上遠野世界において何かを目指した人がそれを成し遂げることは殆どない。

 

 上遠野浩平は、人間の可能性と未来について、無限の希望と底抜けの悲観を同時に抱いている。

 その表れたるモチーフが〈世界の敵〉なのだ

 

 もっと言えば、これは他人事の失敗の話ではない。〈世界の敵〉というモチーフを通して上遠野浩平が表現しようとしているのは、「未来に向かおうとして失敗する僕たち」である。誰にでも可能性があることは、誰でも〈世界の敵〉に成り得るということ。何か自分なりの夢をかなえようと努力している中高生の僕たちは、失敗して〈世界の敵〉と化そうとしている途中なのだ。

 それを認識してなお、僕たちには、なおも前に進もうとする勇気があっただろうか? 本当はもっと大きな夢があったけど、安定志向のためだけに大学受験を目指したりしなかったか? 僕同様に上遠野浩平のようになりたくてラノベ賞に投稿などしていた諸君、皆様の失敗の最大要因は、実は夢を目指したこと自体だったのです。

 

 ここで少し〈世界の敵〉という本論のテーマからずれて、補足をしておく。我々は、将来の失敗が前提されているのを実は霧間誠一に言われるまでもなく知っている。しかし、失敗が怖いけど前に進まなければならない、という状態になるときがある。そんなときに付け込んでくる存在が「イマジネーター」である。イマジネーターとは、自身の正しさを担保してくれる存在である。自分は正しい方向に進んでいるという確信を、宗教のように与えてくれる*9。イマジネーターによって自身の正しさを得た人間は、飛鳥井仁のように、本来は出来ないような非道を確信をもって成してしまう。

人間の生涯に何らかの価値があるとするならば、それはその何者かと戦うことにしかない。自分の代わりに物事を考えてくれるイマジネーターと対決するVSイマジネーター——それこそが人々がまず最初に立たねばならない位置だろう。

 私たちはイマジネーターに頼ってはならない。自信が間違っているとかもしれないという不安を抱えたまま、あくまでの己の意思で前に進まなくてはならない。その為に、前に進むかどうかを決断するよりも先に、まずイマジネーターと対決しないといけない。

 

 

+〈世界の敵〉が死ぬ「その人間が最も美しい瞬間」

 

 こうして〈世界の敵〉が敵なのは、彼らが「未来に向かおううとした失敗」だからだという事が明らかとなった。

 上遠野浩平は、初期ブギーポップにおいて、こういう「将来の可能性なんてものを本気で目指すと碌なことにならねーぞ」という話をわりと繰り返している。我々は、90年代のバブル崩壊前後まで、若さって素晴らしいとか、夢を実現しようだとか、そういうメッセージを受け取り続けてきたのであるが、上遠野世界が〈世界の敵〉に託しているのは、その手の希望のメッセージに対するアンチテーゼであろう。青春という輝かしいはずの時代にラノベなどに嵌っていた僕たちは、このメッセージに強い衝撃を受け、また共感した訳である。

 

 しかし、改めて絶望的なメッセージだ。ブギーポップは決して明るい雰囲気の小説でないことは一読して分るが、こうして言語化してみると、未来は必ず失敗すると思っているとか、本当に暗いとしか言いようがない。

 では、この絶望的なセカイに、救いはどこにもないのか?

 

 救いはある。それこそが僕らのヒーロー、死神ブギーポップ

 

死神とも呼ばれている。ある人間がどうしようもなく汚れてしまう、その寸前に現れて、それ以上醜くなる前に、人生でもっとも美しいその瞬間に、ブギーポップはそいつを殺してしまうのだ、と言われている……。

 

 ブギーポップは「その人間が最も美しい瞬間」に人を殺す。

 そして、殺す対象は「〈世界の敵〉=未来に向かおうとして失敗した者」である。

 では「未来に向かおうとして失敗した者」が「最も美しい瞬間」とは、何時なのか?

 

 それは、未来の可能性が現実となる直前のことだろう

 上遠野浩平は、ヒトの無限の可能性を信じている。それ故、上遠野浩平は夢を目指す者たちの美しさもまた知っている。〈世界の敵〉になってしまった彼らは、たとえ将来の失敗を約束されているとしても、やはり美しい存在なのだ。上遠野浩平の筆致からは、〈世界の敵〉になることのできる存在への、一種の憧れすら読み取ることができる。〈世界の敵〉となったキャラクターたちは常に、強く、賢く、決断力に満ちている*10。そこらの善良な一般人よりもずっと生命力に溢れ、輝いている。

 ブギーポップは、そんな彼らを殺すのだ。夢に向かって邁進していた若者が、自らの致命的失敗を知るよりも前の状態。無限の可能性が、まだ希望に満ちた未来に見えている、希望が絶望に変化するギリギリの瞬間。ブギーポップはその時にやってくる。

 そうして殺される〈世界の敵〉たちは、ブギーポップが来なかった場合に自分が何をしたのか、悲劇的結末を知ることは決してない。全ての終わりはブギーポップがもたらすのであり、彼ら自身が間違っていたことは最後まで露呈することがない。ブギーポップは決して、その死の原因を相手の失敗に起したりしない。水野星透子にそうしたように、ただ容赦なく殺す。

 

 ブギーポップが殺してくれるのは、自身の致命的な失敗なのである

 

 まさにセカイ系ヒーローにふさわしい。受験に失敗して自殺を考える類の中高生にとっての理想の死神だ。自分の頑張りが無駄だったと判る前に、サッと人生のほうを終わりにしてくれる。それが上遠野浩平が作り出した、ブギーポップという理想のセカイ系ヒーローなのだ。

 しかも、ブギーポップは、しばしば何か絶望して自殺しようとしてる中高生の元に現れては、「君に今回起きたようなことは、到底僕が殺すほどの致命的失敗とはいえないな。君はぜんぜん本当の絶望なんか経験してないな」とか言って自殺を辞めさせたりするのである。

 そういう意味でも理想のセカイ系ヒーローであると言えよう。

 

 

+〈世界の敵〉という希望と絶望、そしてその先

 

 という訳で、以上が〈世界の敵〉とは何か、という問題に対する本論なりの決着である。

 

 〈世界の敵〉とは、上遠野浩平の持つ「ヒトの持つ無限の可能性への期待」と「可能性の破綻に関する悲観的見解」という、二つの認識が結実した場所に生まれたモチーフである

 

 我々は誰でも〈世界の敵〉たりえるパワーを持つ。それ故に、〈世界の敵〉として世界を滅ぼしかねない。この希望と絶望の相克が、『ブギーポップ』というシリーズに通底している基本原理と言えるであろう。

 そしてブギーポップというヒーローがやっているのは、この相克に一つの強制的な結末を齎すことである。結末をもたらすのが役割なのだから、それはデウスエクスマキナにもなる。

 

 最後にもう一点補足がある。上遠野浩平は、可能性が必ず失敗する、という悲観主義に「失敗する前の死」という形で答えた。しかし、これはいわば悲観主義の上塗りであって、本論がたどり着いた希望と絶望の相克、という認識からすれば不十分。コインの裏側のみの答えに過ぎない。

 上遠野浩平は、コインの表側、希望を信じる者としての答えも持っている。『夜明けのブギーポップ』の中で、作者の分身たる霧間誠一は、こう言った。

「しかし、その意志だけは残る。たとえそれがどんなに悪いことにしか見えなくても、何かをしようとしたこと、それに向かおうとした真剣な気持ち、そういうものは必ず他の者たちの中に残る。その者たちだって結局は途中かもしれない。だがそのときは、さらにその次に伝わる。そして——誰にわかる? その中の誰かは本当に世界の中心にたどり着くかもしれない……」

  上遠野浩平は、ほとんどの可能性は必ず失敗に至るするという悲観主義の一方で、それでもほんの僅かな何かがあらゆる障害を乗り越えて、真の意味での成功に至るかもしれないという、その希望を決して捨てていない

 この最後の一線が、上遠野浩平の描く悲観的な物語世界において、しばしば大きな感動と共感を巻き起こすのである。

 

 

 次回の第6回は、今回の補足とする。

 何人かのキャラクターを中心に、いくつかの作品を個別に取り上げ、上遠野浩平が絶望と希望の相克をどのように表現してきたか、より詳細に検討していくことにしよう。これについては、語りたいことがいくらでもあるからね。

 

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:歪曲王自身ではなかった、というのがミソで、「なぜそんなに自分を悪いと思うのか?」から始まるブギーさんの説教はシリーズでもナンバーワンの名文だと思う。歪曲王についてはじきに別記事で取り上げる。

*2:それか、ゾーラギが出てきてもフォルティッシモやリセット・リミット姉妹なら倒せたのだろうか?

*3:本論を書くために原典にしっかり当たったら書いてありました。読まずに議論とかしちゃだめだよね。僕も本論を書いている間ぐらいは気を付けたいが、ここまでの連載で既に一部怪しかったりする。

*4:ちなみに今回のアニメ化に際し、コミカライズがあるらしい。非常に楽しみ。

*5:というか、自分以外にもそう信じていたファンは多いと思いたい。

*6:イマジネーター水乃星透子は、ブギー先輩によれば「僕のように分裂はしてなかったがそれでも自動的な存在であったことに違いはない」存在だったらしい。自動的な存在であるというのは、たぶん「目標に対して常に最適解を出す」みたいな事を意味すると思うのだけど、それが上遠野浩平の中で何を意味するのかはよく分からない。後の課題にしたいと思います。

*7:『オルフェの箱舟』で成される「ブギーポップの例の左右非対称な表情は、全ての感情を含んでいるが、唯一そこから慈悲だけが欠けている」みたいな説明がすごく好きです。最近のブギーポップ読んでない人多いと思うけど、やっぱり面白いですよ。

*8:最近の作品では、ウトセラ・ムビョウが、自分が作っている合成人間製造薬はプラシーボ効果の偽薬にすぎないとか言い出している。

*9:上遠野浩平がこのことを意識していたのは、90年代当時に起きたオウム・法の華統一教会といった一連の新興宗教ブームおよび事件と無縁ではあるまい。

*10:上遠野世界において「決断力」はもっとも根源的なパワーの一つだ。

「上遠野浩平論」④傑作セカイ系作品にみる天才性(『ブギーポップは笑わない』)

 祝アニメ化!!!……とは、関係なく書いていた、上遠野浩平論の第4回です。

 期せずしてタイムリーなことになった。

 

 第1回第2回第3回まで、上遠野浩平という作家の生い立ち・性質・執筆スタイルを詳しく検討することで、上遠野浩平を論じる上での基礎を固めてきた。それによって本論は、主に上遠野浩平が世間のブームとは無関係にセカイ系的なテーマを書いていたこと、いわば「天性のセカイ系作家」であることを明らかにした。 

 今回は上遠野浩平が「天性」だけでなく「天才性」すらも持っていることを述べていく。上遠野浩平が天才であることなど、今更僕が言うまでもないことではあるが、しかしどこが天才的なのかを改めて言語化しておくことは、上遠野浩平を論じる上で有用だし、それよりなによりも面白いだろう。

 言語化の対象とするのは、言わずと知れたデビュー作ブギーポップは笑わないだ。この作品の非凡さを逐一指摘することで、上遠野浩平の天才性をネット世界に共有していこう。

 

 

 +天才による偶然の受賞作 

 

 ブギーポップは笑わないは1997年の第4回電撃ゲーム大賞*1で大賞を受賞、出版した上遠野浩平のデビュー作だ。なお、この第4回での金賞は橋本紡、銀賞は阿知太郎。*2

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

 

 上遠野浩平は、この作品の成立と受賞が「偶然だった」旨をたびたび強調している

 

 まずそもそも、電撃ゲーム大賞を投稿先に選んだのは特殊な構造の作品がゲームっぽくて受けるかもと思った程度のことだった。本人は別にライトノベル*3を狙って書いていた訳ではない。

 また、当時の電撃文庫はまだ亜流もいいところで売れ線とは言いがたいところがあった*4電撃文庫でヒットすることがその後の一時代を作ることに繋がるなんて、当時はだれも思ってなかった。

 内容にも偶然性は影響しており、例えば当時のメインストリームだったファンタジーでなく学園モノを書いたのは、本人としては古臭いと思っていた。が、結果それがむしろ一周して新しいとウケた面があり*5、実際ちょうどその後から時代は学園ラノベが主流となった。しかもその流れを作ったのはブギーポップではなく*6フルメタとか涼宮ハルヒとかシャナとかだったと思われる。

 

 そしてなにより、これが最も大きいのだが、ブギーポップというシリーズが90年代後半という時代に熱烈にウケたのは、やはり「セカイ系だったからだ」と考えるのが適切だと思われる。第2回の『冥王と獣のダンス』の検討で確認したように、上遠野浩平ブギーポップ以前から変わらずセカイ系を書き続けいていた。しかし、20世紀末の日本ではバブルが崩壊し、時代が変化した。そうして、たまたま上遠野浩平が書いていたような世界観が流行る時代が来た

 

 『ブギーポップは笑わない』が強い偶然に恵まれた作品であるのは間違いないだろう。作家本人もそれに自覚的である*7

 ただし、本人は単なる偶然だったと言うとしても、僕のような信者はこれらの偶然エピソードは上遠野浩平の天才性を示唆すると思っている訳だ。

 狙わずして傑作を書く作家のことを天才の他に何と呼べばいいのか。

 

 

 +『ブギーポップは笑わない』の変則的な物語構造

 

 さて、作品内容の検討に入ろう。

 この記事を書くにあたって、改めて『ブギーポップは笑わない』を読み返したが(皆さん読み返したらいいと思う。ブギーポップは何度よんでもいい)、それにしてもこの小説は独特な構造をしている。

 本作は5人の人物が語り手を入れ替わる短編連作だ。語り手ごとに、5章に分かれる。

 

  1. 竹田くん。恋人の宮下さんの二重人格・ブギーポップと友達になる。
  2. 末真さん、霧間凪がなにやら調査をしているらしいことが示唆される。
  3. 早乙女くん、怪物マンティコアの存在を知ってその仲間になる。
  4. 木村くん、事件後何年も経ってから紙木城さんの痕跡を探しに来て、異常を見つける。
  5. 新刻さん、委員長気質を発揮した結果マンティコアの死を目の当たりにする。

 

 他に、マンティコアの材料になったらしき謎の存在・エコーズ、そのエコーズをかくまった紙木城さん、ビッチ気質の紙木城さんの本命でマンティコアに止めも刺した田中くん、などが登場する。

 

 この小説の変則的なところとして、具体的に2点が指摘できる。

 

 まずこの話には固定された主人公というのがいない

 というか物語全体の主人公たりうるキャラクター(ブギーポップ霧間凪・紙木城さん)は、そろって各章の語り手から外されている。わざわざサブキャラを語り手に採用して、それを5回もやっている訳だ。まだライトノベルの方向性が萌えの方向に固まりきってない時代なことを加味しても、キャラクター小説としてカテゴリーエラー一歩手前の手法である。

 

 また、この小説では時間軸が激しく前後する

 冒頭1章に事件結末が来ている点はもちろんあるが、特に4章などは事件から数年も後の話だ。高校生たちの青春の話だと思っていたら、急に「高校卒業したあと浪人生をやってる宮下藤花=ブギーポップ」なんてものが出てくる。これも当時のヤングアダルト小説からしたら、女子高生主人公(?)が成長して大学生になった姿なんてのは、基本的に禁じ手だったのではなかろうか。今ですら、キャラクターの成長後とかエンディングや幕間でかろうじて見れるかどうかというところなのに*8。しかも浪人生・宮下藤花は、ページ数も半ばを超えた四章というタイミングで出てくる。

 

 なぜこんな変則的なことをしているのか?

 もちろんこれは、ただ奇をてらったとかではない。むしろこの小説の優れた発想に端を発する必然だ。上遠野浩平はこうした工夫を用いて、より広くて深い"セカイとの断絶"を表現しようとした

 

 

+どんな人間もセカイには関われない

 

 セカイ系特有の表現の主な部分として、"セカイとの断絶感"があるという旨の話は、既に何度かした。それは「自分が何をしようがセカイには何の影響も与えることなどできない」という絶望。アムロと違って、ロボットにのってもセカイを変えられない碇シンジの絶望感である*9

 その断絶の描写が、上遠野浩平は圧倒的に上手い

 しかも技術的にどうこうではなく、考えかたの根本が他のセカイ系作品を明らかに上回っている。

 

 上回っているは具体的にどこか。

 まずブギーポップは笑わない』の登場人物たちは事件の全容を知らないということに注目しよう。

 

 そもそも『笑わない』は、新刻委員長のこの一言から始まる小説だ。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際には実に単純な、よくある話に過ぎないのだろう。

 でも、私たち一人一人の立場からはその全貌を知ることはない。

 

 油断すると、単なる冒頭モノローグと見做して流してしまう部分だが、実は上遠野浩平はこの描写について本気も本気だ。全ての人物は、比喩とか叙述トリックとか描写上の都合ではなく、本当に作品世界のだれも事件の全容を知らない。  

 例えば物語冒頭の語り部である竹田くんが最も顕著だ。彼はブギーポップと最も親しく会話し、あの自動的な存在に君は友達だとまで言わせしめたのに、ブギーポップが何と戦っていたのかすら知らないまま終わった。

 あるいは、田中くんマンティコア弓道で止めを刺したが、ブギーさんに言われるままにしただけで、自分が何に矢を打ち込んだのかも分かってない。物語の決定的な行為者でありながら、単なる傍観者の竹田くんと同程度に真実から遠い。

 また、早乙女くんも同じである。彼は物語の「真犯人」であるにも関わらず、自分が起こした事件が何なのか、自分が愛した怪物が本当はどういう存在なのか、ほとんど把握していない。陰謀の主体である彼ですら本質的に事態の傍観者だ。

 謎の対象がマンティコアならばまだマシなほうで、エコーズに至ってはそもそも設定上から謎の存在だ。謎だからこそ研究されていた訳で、物語の外側に存在する研究所(統和機工だろう)の人たちにとってすら彼が何なのかは謎。ましてや、彼の決断如何で世界が終わっていたであろうことや、その決断を回避して真に世界を救ったのは、実は紙木城さんの小さな優しさだったりしたなんて知りようがない。

 紙木城さんがの優しさが真に成したことが何だったのかについては、エンディングで霧間凪や新刻さんが言及しているが、それは単なる想像であり、紙木城さんの仕事の価値を知っているわけではない。物語のオチを付けた彼女らの言葉すら、真実とは何も関係がない。

 

 そして、最も真実に近いはずの読者にとってすら、事件の全容は謎である。なにしろこの本の出版時点では「統和機構」「虚空牙」「MPLS」といったキータームはまだ影も形もない訳だ。『ブギーポップは笑わない』だけを読んで一体本当は何が起きていたのかを知るのは限りなく無理に近い。

 

 物語世界全体が読者にとって謎につつまれているという表現方法は、セカイ系としては比較的スタンダードな手法だ。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』において視聴者は人類補完計画とは何か、使徒がなぜ攻めてくるのか、ほとんど知ることはない。あるいは『最終兵器彼女』で、読者はヒロインが戦っていた戦争の全容を知ることはない。

 しかし『ブギーポップは笑わない』ほど徹底して、作品内のキャラクターも物語世界全体を把握していない、という事実は、他のセカイ系作品と比べても相当異質だ

 

 

+セカイには碇ゲンドウもゼーレもいない  

 

 他のセカイ系と比べても異質、とはどういうことか。

 それが何の意味を持つのか。

 

 例えば『新世紀エヴァンゲリオン』について考えてみよう。確かに作品世界の全容は、視聴者にとって謎だが、よく考えたらほとんど全てを把握している作品内のキャラクターが居る。ほかならぬ、碇ゲンドウその人である。視聴者の関心は「ゲンドウがいったい何を知っているのか?」「シンジ君はそれを知ってどうするのか?」とかいう部分に向くように、物語自体が出来ていた*10

 また『最終兵器彼女』の場合は更に露骨であり、無力で何も知らないのは主人公だけである。真実は漫画のコマの外でテレビニュースがちゃんと流しているし、自衛隊の人たちはある程度状況をコントロールして抗っていた。何も知らないのは読者だけであり、セカイのどこかには全てを知っている大人が必ず居て、我々にとっての謎の戦争は、セカイにとっては謎でもなんでもなかった。

 他の大抵のセカイ系作品においても、主人公と読者がセカイを把握できないのは、単に我々が無知で無力だからである*11。なんならあのセカイ系作品はどうだったか、各自思い返してみればいい。

 

 しかし『ブギーポップ』では、そういう"全てを知っている大人"は誰もいない。

 上遠野浩平の作品世界においては、本当にあらゆる人間がセカイから断絶されている 

 上遠野浩平の作品世界においては、どんなに強大な能力を持っていても、絶大な権力を持った裏社会のフィクサーでも、本当の真実にアクセスすることはできない。あの統和機構のアクシズすら、おそらくは虚空牙や枢機王ですら、本当の意味で本当の全容は何も知らない*12

 上遠野浩平の物語において、我々がセカイと断絶しているのは、我々が子供で無力だからではないのだ大人だって断絶されており、わけもわからずセカイに翻弄され続けているのだ。

 

 考えてみれば、それは当時の中高生読者すら判っていたであろう、当たり前の認識であった。なぜならば、大人になればセカイと互角に戦えるようになる、と信じることが出来るのなら、いくら思春期の中高生でも絶望なんかしなかったはずだ。というか、セカイ系が流行った時代背景には、バブルがはじけて将来の成功が信じられなくなった事があったはずなので、それは「大人なら上手くいく」という認識とは真逆だ。

 中高生だった僕たちが確かにセカイとの断絶を感じていた一方で、作品世界の側が碇ゲンドウやゼーレのごとき大人が居る(=将来そうなれる可能性がある)こと」を示していたのは、読者との乖離に他ならない。我々は、心の奥底で自分が碇ゲンドウになんてなれるはずがないと知っていたはずなのだから、"セカイとの断絶"を表現する文学表現において*13、実は碇ゲンドウの存在は余計もいいところだった。

 だから上遠野浩平はそういう余計を『ブギーポップは笑わない』によって一切排したのだ。 

 

 それによってブギーポップ世界のセカイ系表現は、より時代の核心に迫った。  

 こうして上遠野浩平が表現したものを、僕なりの言葉として、"セカイとの断絶"の広さと呼ぶことにする。誰もその影響範囲からは逃げられない、という意味である。

 『ブギーポップは笑わない』の語り手が各章ごとに交代し、しかもメインキャラを避けて語り手を選んでいるのは、実にその広さを表現するためであった。

 

 

+時間は断絶の絶望を消し去らない

 

 更に上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』において、断絶の広さだけでなく深さの表現でも、他のセカイ系作品との違いを見せている

 セカイ系という作品群は"セカイとの断絶"を主に書くものだが、実はブギーポップは笑わない』で主なテーマとして書かれているのは、断絶それ自体ではない。

 

 この小説の主題は、セカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちにある*14

 本論がセカイとの断絶の深さと呼ぶのは、このテーマによって表現されている要素。即ち、セカイとの断絶は決して一過性のものではない。青春期の一時の気の迷いではない、という認識のことだ。

 

 例えば、第2章で語られる末真さんの物語を思い返そう。

 後のシリーズで重要人物となる末真和子は、この本の第2章で、過去の殺人事件で自分が知らないうちに救われていたことについて、お礼ぐらい言わせろと霧間凪に迫った*15。が、よく考えてみれば末真和子の過去はマンティコアとエコーズの物語には必要ない。『笑わない』が紙木城さんとエコーズとマンティコアの事件を描くだけの小説だったなら、末真和子は単に無関係なキャラクターである。それがなぜ描かれているのか?

 また第4章では、木村くんはもう大学生なのに、昔の彼女だった紙木城さんの真実をわざわざ探しに来てしまう。事件当時から何年も経ってからの出来事を、わざわざ物語中盤の一章を割いて描写している訳だが、実はマンティコアの事件の真実に迫るだけなら、別に木村くんは卒業してなくてもよかった。なんなら新刻委員長や田中くんといっしょにラストバトルに参加したほうが盛り上がった可能性もある。しかし上遠野浩平はそうしない。なぜ事件から何年も経った後の出来事を書かねばならなかったのか? 

 末真さんや木村くんに共通するのは、何年も前の事件においてセカイと断絶されていたし、今でもそれが解決していない、ということである。つまり、彼らこそがセカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちである。

 

 そして、上遠野浩平がそんな人生を送る人たちを通して言わんとしてるのは、今この場でセカイと断絶していることなど大した問題ではない、ということ。 

 もし今、我々がセカイとの断絶を絶望しているのであれば、この絶望は将来にわたっても続いているのかもしれない

 これも考えてみれば当たり前の認識であった。

 上で言及した、上遠野浩平世界に碇ゲンドウが存在しない理由と同じだ。僕たちの絶望は、「大人になってもセカイに接続できる気がしない」、という無力感の認識から始まっているのだ。将来の僕たちがゼーレや碇ゲンドウになれないのという認識が事実ならば、それは論理的に言って、今僕たちが感じている断絶感は将来にわたっても消えないということも意味する。

 まさに、当時の僕たちが感じていた絶望は「セカイと断絶したまま僕たちはずっと生きていくであろうという予感において存在した。

  上遠野浩平の天才性は、絶望の本質を、鋭く的確に貫いていた。

 

  その後の作品でも、上遠野浩平は「セカイと断絶したままの人生」というテーマをしばしば扱う。しかし、とりわけ最も大きな主題としたのは、デビュー作の『ブギーポップは笑わない』においてである。

 この作品で、時間軸が変則的に前後しなければならなかったのは、それを表現するためであった。

 

 

 +作品外にすら突き抜ける絶望の深み

 

 ここで、セカイとの断絶の深さ、という点に関連して、特に指摘しておきたいことがある。本作、『ブギーポップは笑わない』のカラーページについてだ。

 この本の冒頭カラーページには、オシャレな各キャラのイラストと、物語中の印象的なセリフが引用されている。これは今でこそラノベ文庫定番の手法だが、当時は斬新であり*16非常に印象に残った人も多いはず。

 その中において、田中くんのこのセリフ*17

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「彼のほうが彼女のことを、僕よりも好きだったんじゃないかと思いますから」

 

 このセリフは『ブギーポップは笑わない』の本文中に登場しない

 どこに出てくるかというと、『歪曲王』で、羽原健太郎先輩の手によって歪曲王の夢から現実に戻された、その直後にぽろっと漏らすのである。このセリフが象徴する田中志郎の心の歪みが、のちに歪曲王*18を生んだ。田中くんの葛藤の中核となり、後のシリーズでもかなり重要な位置づけのセリフが、『ブギーポップは笑わない』の本文に入っておらず、しかし当然存在するものとしてカラーページに引用されているのだ。

 これは、上遠野浩平の狙い通りの演出なのだろうか? それともたまたま推敲段階で抜けたセリフを後に再利用したのか? それは作家本人でないと知りようがないが。 

 ただ、一つ言えるのは、上遠野浩平が「マンティコアに止めを刺した田中くんのその後」に思いを馳せていたのは確実である。引用のセリフは、明らかに過去形だ。なので恐らく、これは事件からしばらく経ったあとに、既に居なくなった紙木城直子について話したセリフである。つまり、実は田中志郎もまた「セカイと断絶したままの人生」を送ることになるキャラクターとして構想されている。

 

 考えてみれば、田中くんは怪物を倒してセカイを直接的に救った、碇シンジではなくアムロのポジションにいるはずの男である。イケメンだし好青年だし女にもモテて、怪物を倒す弓の才能を紙木城さんに見出されていた。設定と行動だけみれば本当に英雄的な少年なのだ。しかし上遠野浩平の手腕によって、英雄もまた誰にも理解されない断絶をかかえているという、彼はそういう状態を表現するキャラクターになっている。*19

 『歪曲王』はブギーポップシリーズの最終巻になる可能性も構想されていた、という話はファンの間では有名だが、それもこのあたりに端を発するのだろう。マンティコア殺しの英雄・田中志郎の心残りを解決してあげることが、実は「ブギーポップという物語の終わり」だったのである。

 

 上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で描いたセカイとの断絶の深さは、文庫一冊の厚みに最初から収まっていない。

 ではその射程はどこまで続いているのだろうか? 僕らがは上遠野サーガの深みにのめり込んでいくのは、まさにそれを確かめるためかもしれない。

 

 

 +断絶に対するブギーポップの回答

 

 さて、こんなにも広さと深さを兼ね備えた断絶を前にして、我々は立ちすくむばかりである。

 では、人生に迷う中高生だった我々に、上遠野浩平はただ絶望だけを示したか? 全く違う。なぜなら上遠野世界には、絶望から我々を救いあげるヒーローも存在するからだ。

 

 『ブギーポップは笑わない』の中で、われらがブギーポップ先輩は、立ちすくむ若者たちにこう仰っている。

「僕には義務があるように、君や宮下藤花にもやるべき仕事があるんだ。君らは自分で自分たちの世界を作っていかなくちゃならないんだよ。」

「紙木城直子は自分の使命を立派に果たした。だから君も、君の仕事を彼女に恥じぬように果たすべきだ」

 

 百点満点の回答。ほとんど唯一の正解だと言える

 たとえ我々がセカイを前に無力だとしても、その事実は認識したうえで、我々はただ前進していくしかないのである。絶望の広さも深さも抱えたまま、自分たちの使命を果たすべく、自分で自分の仕事に取り組んでいかないといけない。結果として、紙木城直子のように死ぬことになるとしてもだ。

 これは、後の2000年代批評文化がセカイ系ムーブメントに取り組んだ際にも、ほとんど唯一の正解と見做された回答と同じである碇シンジがダメなのは、セカイとの断絶を前に絶望して、引きこもってしまったからであった。宇野恒弘は、エヴァから始まったセカイ系文学にはそういう引きこもり的な問題点があったが故に、後の世代では、『戦わなければ生き残れない』で有名な仮面ライダー龍騎のような作品が登場したと指摘した*20

 上遠野浩平はここでも時代を先取りしていたのであった。ブギーポップは、戦わなければ生き残れないのだと、とっくのとうに我々に告げていた。

 

 ただし、ここで重要なことがある。

 戦うことが、全ての人間にできるはずがない

 上遠野浩平はそのことも、ちゃんと分かっている。上遠野世界において、絶望を前にして立ちすくむこともなく、パッと動くことを決断して自分なりの闘争へシフトしていけるのは、自動的に動く変身ヒーローとか、炎の魔女のような正義の戦士とか、そういう奴らだけである。一般人はたいてい「うううううう……」とか唸るだけ唸って、何も決断できないで終わる。それが上遠野浩平の世界観だ。

 決断には強さが必要となるし、弱い僕らは強さなんてものとは無縁なのだ。

 

 ではどうするか?

 上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』の後も、デビュー20周年を迎えた今日ですらセカイ系作品を書いているのだが、取り組んでいるのは結局はそういうことだと僕は思っている。より詳しい検討は後の連載に譲るが、ひとまずは『笑わない』で答えが示されたテーマには、まだ続きがあることを認識しておいていただきたきたい*21

 

 

+天才的セカイ系描写ゆえ、熱狂されて当然 

 

 という訳で、あの頃ブームになったブギーポップシリーズが書いていたセカイ系描写には、他のどの作品よりも”広さ”と”深さ”があった。

 まさに天才の仕事。将来に不安を抱える中高生の僕たちが熱狂したのも、今にして思えば当然と言える。

 

 さっきもちょっと触れたが、ブギーポップは今年20周年だそうである。それとともに、我々は中高生からオッサンになった。バブル後という時代はテロや地震と戦ってるうちにいつの間にか消え去り、セカイ系ブームもずいぶん遠くなってしまった。

 しかし、"セカイとの断絶"がもたらす不安は、別に消えて無くなった訳ではない

 したがって、今読んでも『ブギーポップは笑わない』は揺るぎなき名作である

 それに、本論ではあえてセカイ系描写の天才ぶりに絞って作品の魅力を分析したが、それは分析的にアプローチできるのがその部分だったからにすぎない。キャラクターの魅力、文庫デザインの革新性、文体のカッコよさといった要素もまた、当然のことながら作品の魅力を構成している(というか、そちらがメインかもしれない)。

 まあ、結局のところ名作だってことは読めばわかるのだから、その辺はやっぱり改めて自身でお読みくださいという話だ。

 

 この第4回までで、上遠野浩平論は第1章を完結とする。第1章では「上遠野浩平がどういう作家か」を述べることを目標とした。本当はブログ記事1つぶんでここまで書くつもりだったのだけれど、文字数が2万を超えたところでそれを諦めて分割したので、多少読みにくいところがあるかもしれない。

 第5回からは上遠野浩平論の2章と位置づけ、上遠野浩平の作品世界における美意識・思想の内容に迫る。特に次回では「世界の敵」という表現がいったい何を意味しているのかを僕なりに書くつもりだ。

 

 またどうせ文字数がとんでもないことになるだろうが、旬の話題になっちゃったのでできるだけ更新を急ぎます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:電撃の新人賞は最初のうち「ゲーム大賞」という名前だった。それは、富士見やスニーカーの賞がジュブナイルノベルの本流であり、電撃文庫はむしろ亜流だったということ。電撃文庫は、もともスニーカー文庫ヤングアダルト小説を出版していた角川書店が、新規作家をより積極的に発掘するために立ち上げたレーベルで、「ゲーム大賞」と名付けたのは、バーチャファイターが出たりFF7が出たりしていたのゲームの世界を時代の先端と捉え、メイン層よりもエッジの利いた先端を狙っていく、みたいな意図だった(はずだ)。ヤングジュブナイルライトノベルになっていったあの時代とは、このような、小説が漫画・ゲームに魅力で劣るという危機感が大きな流れを起こし始めていた時代でもあった。

*2:いずれも当時からのラノベ読みなら知ってて当然クラスの作家だ。

*3:当時は「ヤングアダルト

*4:富士見ファンタジアが擁するスレイヤーズオーフェン全盛の時代である

*5:http://dengekitaisho.jp/novel_interview_30.html

*6:学園ラノベ隆盛の端緒ではあったという見方もあるが、それなら蓬莱学園シリーズとかが先に挙がってくると思うのだ。

*7:この時の経験が、あるいは上遠野浩平に創作に関する偶然性を強く意識させたのかもしれない。つまり、この出世作を取り巻く偶然ぶりが、第3回で紹介した『製造人間』の発言が示唆するような創作哲学に上遠野浩平を導いていったんじゃないか、と考えることもできる。

*8:そういう認識でいえば、近年の『鉄血のオルフェンズ』でアトラちゃんが出産するとか、やっぱり革新的だったのかもしれない。物語市場はいつも変わらないと見せかけて、ちゃんと進歩もしていると思う。

*9:この時代の日本でそういう絶望を主に書くセカイ系が流行ったのは、バブル崩壊で社会全体に広まった無力感と無関係ではない、と言われている。ここでは本論から外れるので深くは踏み込まない

*10:無論ここは雑なまとめであって異論は積極的に認める。論の展開からエヴァについて話さざるを得ないが、僕は正直エヴァはそこまで好きでも詳しくもない。

*11:今、ふと思ったのだが、だから所謂『謎本』が時期ブームになったりしたのだろうか。セカイについて解き明かせないかという足掻きだったのかも。

*12:むしろオキシジェンなどは殆ど能力の奴隷と化している節がある

*13:文学表現において、という言い方をするのは「ストーリー的な面白さや整合性はともかく」という留保である。念のため。

*14:2019年1月追記・このテーマは、後に述べる通りマンティコアとエコーズの物語には本来必要ないため、アニメ化に際してごっそり丸ごと削られてしまった。原作の主テーマだったはずなのだが……。でも後の巻をしっかり書くためにはしょうがないか!!これについては皆さん、原作を読もう!!!

*15:彼女にとって、自分の命にとって真に重大だった事件と断絶したままセカイを生きていくという事態は耐え難かったからだ。この痛みは、非常に切実で、共感できる。大人になった今だから判る名シーンの一つだと思う。

*16:地の分の引用とともに、物語中の1シーンをそのままイラストで載せるのが(つまり、普通の文庫中の挿絵に色を塗ったものを載せるのが)当たり前だった。

*17:この点に気付いている人が多いのか少ないのか、ファン同士の交流というものにとんと接してない僕にはわからない。常識レベルの話だったらすいません。

*18:歪曲王は上遠野浩平にとって実はとても大事な存在である。そのことは後の記事で語るつもりだ。

*19:……今書きながら気づいたけど、そういえば「志郎」って、英雄につける名前だよ。「志」という感じにはそういう意図を込めるもんじゃないか、っていうか、言ってしまえば赤い弓使いの英霊につける名前だし。 それが平凡の極みの「田中」についてるんだよ。今ならこのキャラクターが何だったのか、名前からすら深読みできちゃう気がするよ。

*20:参考:ゼロ年代の想像力 (ハヤカワ文庫 JA ウ 3-1)

*21:(脚注追記)この点については連載第8回で言及した。

投資家以外向けに「なぜ仮想通貨は危険?」を素人解説

 今回は仮想通貨について書きます。

 しかも、仮想通貨は危険!というスタンスで書こうと思います。というのも、このほど仮想通貨バブルが無事に……というのも変ですが、はじけましたので、危険だよって意見を素人の僕がネットで表明しても多めに見てもらえるようになったかと思うからです。

 まえまえから「仮想通貨・危険・なぜ」とかでgoogle先生に検索した結果がたいがい、危険じゃないよー、乗り遅れるなよー、危険と思ってるのはIT音痴だけだよー、みたいな話しか出てこないのは変だと思っておりました。どこが変なのかを何かの機会に語りたくて、ちょいちょい勉強してたのを、ここで一旦まとめてみたいと思います。

 

 とはいえ僕は、投資には全く興味がありません。ですから仮想通貨はもうかるの? という趣旨の話はしませんしできません。

 

 僕が興味があるのは「将来的に仮想通貨は世界標準になるのか」です。

 そして結論は、そんなことはありえない、です。ほぼ間違いなく時代の仇花になります。そしてそれ故に、世界標準になるかもしれないという期待感でバブルったりはじけたりしてる今の仮想通貨は、長期的に危険だと言わざるを得ない訳です。

 なぜ仮想通貨は世界標準にならないのか?

 ここでは、素人の勉強して納得した理屈を、更に納得しやすくなるよう頑張ってまとめます。

 

 +仮想通貨の本質とはなにか

f:id:gentleyellow:20180308101421p:plain仮想通貨のイラスト(Virtual)f:id:gentleyellow:20180308102348p:plain

 

 まず基本的な話からはじめましょう。

 

 仮想通貨とは一体なにか?

 

 このお馴染みの質問に対する答えと解説は、いろいろなところに溢れかえっていると思います。しかし僕の見たところ、ブロックチェーンがどうとか、マイニングがどうとか、ネムがどうとかいう解説がメインとなっている。そして巷の解説はそういう技術の話をしたあと、いきなり「投資するには○○アプリが便利だ」みたいな話に飛んでしまう。

 しかし、そうした技術の仕様や内容の話は、仮想通貨の本質とは全く関係ないので、投資をするでもなければ基本的に忘れていい。

 

 仮想通貨の本質とは国が管理していない通貨』です。

 

 仮想通貨を作ったのは、どこかの謎のハッカーです。ハッカーっていうのは、昔から権力による統治を嫌い自由放任を尊ぶ、アナーキズム思想と関係が深い。「今の通貨ってのは、結局全部政府の管理下じゃん? 政府ってのは碌なことしないじゃん? 政府なしで流通する通貨があったら自由だしアツイじゃん?」みたいな発想で作られたのが仮想通貨でした。

 これを可能にした暗号化技術は、巷で言われている通りなかなかに素晴らしく、人々が誉めそやすのもたいていはこの技術の高度さです。技術が高度であることをもって、イノベーションだと持てはやす人々がとても多いと思う。

 しかし技術の高度さは、本質的に『国が管理してない』という状況を可能にするための手段にすぎません。仮想通貨を理解するためにはまず、国が管理者じゃないこと、というか、管理者がいないことを理解せねばならない。

 

 仮想通貨が有用かどうかの判断は、技術が高度かどうかではなく「国が管理してない通貨は有用か?」にかかっています。

 

 

+インフレとデフレは循環している

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 ところで、投資家の皆さんは仮想通貨の価値が上がったり下がったりしている状況から利益をはじき出していますよね。

 仮想通貨だけでなく、金本位制以後の世界において、全ての通貨価値は上がったり下がったりします。

 

 その現象について金融循環という考え方がある。

 

 モノの経済的価値は、需要と供給で決まります。

 このうち需要の大きさを決めるのは、普通だったら商品の魅力や有用性です。

 しかし、これが不動産・株・そして通貨といった投機商品だと、需要を主に決定するのは人々の気分だったりします

 人々の気分で商品の需要(=経済的価値)が変わるということは、次のようなことが起こるということです。

皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段が上がる

値段が上がったのを根拠に、皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段g(ループ)

 こういうループが常に起きているので、投機商品は理論上無限に値段があがる。この状況をインフレといいます*1

 しかし、理論上は無限でも、現実に無限ということはあり得ない。なぜならこれは、理屈ではなく感情に基づくループだから。人間には、どんなに好調でも、ある時フッと不安になるときが必ずやってくるのです。

皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段が上がる 

   →あまりにも値段が上がり過ぎて売ったほうがいい気がしてくる

  →売る

 →売られるので値段が下がる

値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

  →売る

 →売られるので値段g(ループ)

 こうして「あまりにも値段が上がりすぎ」とみんなが感じたタイミングで、今度は逆に値段が下がるループがはじまります。

 これは、理論上無限に値段が下がっていくループであり、この状況をデフレといいます。

 もちろんデフレのループが続くと、今度はフッと「ちょっとあまりにも値段下がりすぎで売るより買ったほうがよくね?」という気分になる時がきて、そうしたらまたインフレが始まります。

 

 ポイントは、インフレで値段が上がり続けると最後には必ずデフレが来て、デフレが続くと最後には必ずインフレが始まる、ということです。この循環を金融循環と呼ぶわけだ。まさに盛者必衰。

 この現象は一般に「バブル」「バブルがはじける」と呼ばれていると思いますが、金融循環という概念のキモは、こういう現象がバブル時以外にも常に起こっているという点です。あと、そういうループが実際の歴史から観察されたという点も重要なようです。その観察によれば、金融循環はだいたい10年とか20年周期でぐるぐる回っているとされていて、日本でも最近「失われた十年」とかいうデフレ期間がありましたね。

 

+経済全体にとってはインフレもデフレもキツい

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 世界には金融循環というものがあって、放っておくと、通貨含む金融商品の価値は、10年刻みで極端まで上がり続けるのと極端まで下がり続けるのを繰り返します。

 しかし、通貨の価値があんまり極端に上がったり下がったりするのは好ましくありません。通貨価値の上下は、いわゆる景気ってやつに直結するからです。例えば通貨の価値が極端に下がりまくることを"通貨危機"といいますが、ニュースで聞いたことがあるでしょう。なんとなく悪い感じがすると思う。*2

 とにかく通貨の価値が極端に変動するのはまずい。

 

 であるならば、どうするか?

 気分をコントロールする施策を打って、インフレやデフレの勢いを弱めるしかありません。放っておくのがまずいのならば、放っておかなければよい。

 例えば社会の授業で習ったあの「ニューディール政策」も、実はそれでした。

 →値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

   →売る

  →売られるので値段が下がる

 →値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

→国が大規模な公共事業の実施を発表!!!!

 →公共工事を根拠に、買ったほうがいい気がしてくる

  →買う

   →買われるので値段が上がる(値段が下がる勢いが落ちる)

 →(ループ)  

 このように、投資家の気分を操作することで、インフレの時にはインフレの行きすぎを止めて、デフレの時にはデフレの行きすぎを止めることが出来ます。

 もっと身近な例えだと、アベノミクスがやったのもこれでした。"異次元の金融緩和"でデフレの気分に歯止めをかけようとした訳だ*3

 

 一昔前までの経済学では、こういう操作を行わなくても市場が勝手に需給バランスを調節して(「神の見えざる手」とか言ったそうです)くれる、みたいな話になっていた。しかし近年は、そういう自動的な需給バランスまかせでは上手くいかない、という事になっている。過度のインフレやデフレ、バブルや通貨危機を起こさないためには、どうしても人為的な操作が必須ということが判ってきた。

 必須だから、その方針を決定するFRBグリーンスパン議長や日銀黒田総裁の発言が逐一ニュースになっていた訳です。

 

 

+国家が通貨を発行してないと永続的なコントロールは無理では?

電車の運転士のイラスト(男性)

 さて、長々と金融の話をしましたが、この記事は仮想通貨の記事でした。

 

 ここまでした金融への理解を前提すると、仮想通貨を考えるうえで一つ重大な問題が持ち上がってきます。それは「じゃあ仮想通貨のインフレやデフレは誰が操作するんだよ」ということです。

 普通の国が発行している通貨なら、グリーンスパン議長や黒田総裁、つまり政府中央銀行が金融操作を担当すればいいです。でも、最初に述べたように、仮想通貨の本質とは国による管理や操作を受け付けないようにしたい、という発想にあるわけです。

 それってのは通貨として大丈夫なのか

 最初の発想の時点から、極端なインフレや極端なデフレが約束されているということでは?

 

 しかし、仮想通貨を作ったひとたちだって、何も相場の安定を避けたかった訳じゃないでしょう。国家政府による強権的なコントロールさえ避けられればよいのかもしれない。例えば、なにも政府じゃなくても、もっと民主的で権力から独立した機関が、仮想通貨の相場を安定させればいいんじゃないでしょうか? ブロックチェーン推進協会みたいな人たちが現実にいるわけだし。

 

 ただ、このあたりから意見は分かれてくるのではないかと思いますが、僕は極めて懐疑的です。というのも、通貨を発行している主体と経済操作をする主体が一緒じゃないと、経済をコントロールし続けるのは無理だと思われるからです。

 

 つまりですね、デフレ対策で公共事業をするにしろ金利を下げるにしろ、もとになる資金が必要です。そのお金はどこからでてくるんですか?

 税金や手数料とかでは、とてもまかなえないんじゃないでしょうか。なにせ、税金や手数料のもとになる経済全体が低調となるのがデフレなんだから。

 

 この点、国が発行している通貨なら話は簡単です。必要なお金は刷ってしまえばいい実際、ニューディールアベノミクスもそうしました。国債を発行するとかで。

 仮想通貨にはそういう資金調達手段がないからデフレのコントロールが無理だと思う。

 ……と、こんな風に「通貨を国家が刷ればいい」とかいうと、ジンバブエのことが頭をよぎると思います。僕もそうでした。でもそれは的外れです。

 

 

+通貨を刷ってもジンバブエにはならないから大丈夫

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 「金融操作に足りないお金は刷ってしまえばいい」と言うと何となく不安になります。

 なぜなら、あの有名なジンバブエ・ドルでは、国の財政が苦しくなってきたときに、ばんばんお金を刷りまくったせいでハイパーインフレが進み(=通貨価値がだだ下がりしまくり)、経済がしっちゃかめっちゃかになりました。最終的には「100兆ドル札」とかが存在したとかいうのは有名な逸話。いまではジンバブエ・ドルという通貨自体が存在しません。

 この逸話は本当に有名なので、僕らは素人は国がお金を刷りすぎるのはよくない、となんとなく思ってしまいます。

 

 でも、ジンバブエが何を間違えたのかを考えれば、それは違うと判ります。

 彼らが間違ったのは、インフレが進んでるときに「もっとお金を刷る」というインフレ気分が加速する政策を進めたという点です。

 国がお金を刷るということは、国が公共投資をバンバンするということであり、国が公共投資をするとインフレ気分が促進されます。上の金融循環のときの説明で言えば、緑色の気分が出てるときに、もっと緑色の気分が出ることをやっていたということ。

 インフレのときにインフレを加速したら、ハイパーインフレにそりゃあなります。

 

 一方、さっき言ったような「デフレ対策で必要なお金は国が刷ればいい」という話は、青色の気分が出てるときに、緑色の気分が出るような政策を打つということです

 これはジンバブエの失敗の時とは全く違います。

 デフレは失速し、少しのインフレ気分が出ることでしょう。

 もちろん、そのまま永遠にお金を刷り続けると、やはりハイパーインフレになるかもしれませんが、政府と国民がよほどアホでない限りそんなことにはなりようがありません。

 インフレが進んできたら、単にお金を刷るのを止めればいいのだから

 そして放っておいたらだんだんインフレの金融循環が進んでくるでしょうが、今度は増税してデフレ気分を盛り上げればいい*4

 

 国が通貨を刷って流通させることを、今の日本のニュースは「国の借金」とか呼んでいるのですが、この呼び方はどうも良くないという解釈が経済学界隈では広まりつつあるようですね。デフレを防ぐためなら「国の借金」ぐらいすればいい。僕の如き素人はニュースの呼び方に影響されていたりしますが、あれは普通の借金みたいに沢山あると困るって話じゃあ必ずしもないみたいです。

 むしろ、「国の借金」が出来ないようでは、経済をコントロールしてデフレを防ぐことが難しい。もしかしたら無理かもレベルで難しいらしい。

 

+実際にデフレのコントロールが無理だった通貨~ユーロ

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 実は現実に、「国の借金」が困難な制度を採用している通貨があります。

 ユーロです。

 ユーロを発行しているのは、欧州中央銀行です。でも各国の経済政策は各国が独自に行っています。なのでユーロを使っている国では、自国がヤバいデフレになったときに他の国の許しを得ないと「国の借金」をすることができません

 

 これのせいでどうも、結構まずいことが現実に起きている。

 

 例えば2008年、サブプライムローン問題でスペインは危機に陥りました。それまでのバブルが弾けて、スペイン社会はデフレ気分に入ります

 普通の国だったら、こういう時は今日本がやってるように、大胆な金融緩和をやったり、減った税収の分は「国の借金」で賄って公共事業をやったりすることで乗り切ることになります。スペインもそうしたかったに違いありません。

 しかし、それはできませんでした。金利を決めたりユーロ債を発行したりするのは、スペイン政府ではなく欧州中央銀行だからです

 しょうがないので、スペインは減った税収を補うために増税します。

 

 デフレにはいっているのに、デフレ気分を盛り上げる増税をやった訳です。

 ジンバブエとやってることが同じ! 

 

 当然のことながら、スペイン経済はヤバいレベルのデフレに入ってしまいます。もともとの経済がそこまで強くなかったこともあって、この打撃に耐えられず、一時期のスペインは若年失業率が40%とかいってました。

 ニュースを聞いているだけでは僕には分からなかったことですが、欧州の若年失業率がどうとか言っていたのは、どうやらこのせいだったらしいのですね。

 

 他にも、ギリシャ危機の時などは、ギリシャ政府と欧州中央銀行の足並みが揃わないせいで相当ヤバイところまでいきました。もし通貨を発行していたのがギリシャ銀行だったら、あそこまでの事態にはならなかったに違いない。

 このように、通貨を管理しているのは「国」でないと結構まずいことになるらしいのです。

 

+仮想通貨=国の管轄してない通貨はヤバいので無理です。

芝生の上の草コインのイラスト

 まとめます。

 

  • 国が管理しないと通貨は安定しない。
  • 仮想通貨は国が管理してないのでムリです。

 

 ……たった2行で済んでしまいました。でもこれが全てだ。

 仮想通貨を称揚する記事は、しばしば「国が通貨を保証しててもそれが安心だとなぜいえる?」とか言うのですが、あれって「じゃあ誰も保証してないことが日本政府より信用できるのかよ?」みたいな、盛大なブーメランですからね。やめたほうがいい。

 

 仮想通貨に管理者がいないことは、やっぱりメリットだった面もあるようです。

 例えば、アフリカなど政府が脆弱な地域では国の管理がそもそも信用ならないので仮想通貨が積極的に利用された、みたいな面もあったそうな*5。そういうメリットが初期の仮想通貨で普及のきっかけになったみたいな話はあったらしい。

 でも投資家たちに目をつけられた今はもう、仮想通貨をメインの支払い手段に考えてる人なんて世界中にほぼ居ないでしょう。支払い手段にするには不安定すぎる。そのことは仮想通貨を普及させたい人たちも問題視しているようですが、しかし管理者がいない仮想通貨が本当の意味で安定することは、どうやら原理的にない。

 つまり仮想通貨が支払い手段として復活することは、恐らくこの先もないでしょう。

 

  最近は本記事のような説明を踏まえてなのか「国が仮想通貨のブロックチェーンの仕組みを採用する」という話も最近チラチラでてきています。

 しかしこれも僕は不安極まりないですね。国の経済全体の命運を預けるには、量子コンピューターでブロックチェーンが無効になるかもしれないとか、物理的金庫よりも強固な電子的金庫が存在するのかとか、そのあたりの可能性が不安すぎると思う*6

 

 最後に、素人の僕にちょっとわからないことがあって。仮想通貨ってのは上記のような理屈で世界の標準にならないことがほぼ確定していると思うんですが、こういう認識が仮に広まったとして、そのとき今の仮想通貨の価値っていうのはどうなるんでしょうね?

 世界通貨にならないってことがバレた状態でも、相変わらず投機の対象としてバブルやバブル破裂を繰り返していけるんでしょうか? 

 もしそうなら、投機先としてはまあまあ面白いような気はしないでもない。今のバブル崩壊も将来の買いに向けた布石となりえるのか。

 あーいやでもどうかな。犯罪者のマネーロンダリングになってるの件とかあるし、どうかな。最終的には政府側の規制かかる見込みが強いかも。 

 

 

*1:一般には通貨の価値が上がってたらデフレなのですが、ここでは「投機商品」が話の対象なのでインフレという呼び方にします。

*2:なんでそれが悪いのかはここではあまり関係ないし難しいので一旦置いておきましょう。僕にちゃんと説明する自信がないともいう

*3:もっともインフレ気分の演出に「金利」をつかっちゃうと、いつかは金利をあげなきゃいけなくてその時にもデフレ気分がが発生しちゃうので、その点がどうなのよ? 公共投資や減税のほうがよかったんじゃ? みたいな話になってるみたいです。

*4:ちなみに増税だけだったら、仮想通貨にも手数料操作の形でできるんで、インフレ抑制は国の管理なしでも可能だと思います。

*5:逆に言ったら日本みたいな政府が堅調な地域で仮想通貨を取引に利用する意味は、現状ほぼ無いと思われる。お店に支払い手段で導入したがってたのは、きっと円に換金するのがめんどいだけの投資家さんたちだろう。

*6:こういう話、ひろゆき先生は的を得たことしか言わない。

【仮想通貨】ひろゆき氏「毎日ハッカーと闘うなんて無理! 」 : 仮想通貨最新情報サイト | 仮想通貨まとめNews

「上遠野浩平論」③上遠野浩平の創作哲学(『製造人間は頭が固い』)

 上遠野浩平論の第3回。

 第2回では、エヴァよりも前に書かれたと思われる投稿時代の作品が既にセカイ系の特徴を踏まえていることを通して、上遠野浩平セカイ系ブームの影響を受けていないのだと主張した。

 今回は、更にその主張を補強するために、上遠野浩平の創作論に踏み込む。

 もちろん、上遠野浩平が自身の創作スタイルを完全に詳らかにしているなんてことはないが、たまたま最近、そういう分析にうってつけの作品が出版された。

 

 

+上遠野版の岸部露伴~『製造人間は頭が固い』

 

 うってつけの作品とは、何を隠そう『製造人間は頭が固い』

 前回に投稿時代の作品をやったのに、一気に最大ジャンプして2017年の作品となる。

 この作品は、SFマガジン不定期連載されていたものをまとめた短編集だ。内容は、統和機構の合成人間を作っているウトセラ・ムビョウという男が、リセットリミット姉妹やフォルティッシモといったお馴染みのキャラクターと話す、というもので、書籍版にはフェイ・リスキィ博士による間章が追加されている。ハヤカワSFマガジンの連載だが、電撃のブギーポップシリーズを読んでないと意味がわからないかもしれない。上遠野作品には偶にある、完全ファン向けの作品だ*1

 

 なぜこの作品を上遠野浩平という人物を分析するタイミングで紹介するかというと、僕の読んだ感じ、ウトセラ・ムビョウのモデルは上遠野浩平本人だからだ。少なくとも他のキャラよりも本人の性質が多めに投影されているはず。例えるなら、荒木飛呂彦における岸部露伴みたいな存在とでもいおうか。

 だってすべての合成人間の生みの親ですよ。それってやっぱり上遠野先生のことじゃないですか。

 しかもウトセラ・ムビョウは霧間誠一と違って生きていてしゃべる。

 故に『製造人間は頭が固い』は、上遠野浩平という作家の人物像を探り出すにあたり、早い段階で紹介しておいたほうがいい作品だ。

 

 

+作者の理想像としての分身

 

 とはいえ、荒木飛呂彦はクモの味を見ておこうなんて思わなかったろうし、空中に絵を書いてスタンドを出したりもしないし、プッチ神父の加速する世界の中で締め切りを守ることもたぶんできないだろう。

 岸辺露伴荒木飛呂彦は、当然のことながら同一人物ではない。

 同様のことは、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平にももちろん言える。

 上遠野浩平本人も『製造人間』刊行インタビュー*2の中でこう発言している。

(ウトセラが不思議な存在であることに同意して)私が彼を理解しているわけではないんですよね。先生の場合は、思考回路的なものを疑似的に頭の中に作って、それに問いかけると、よくわからない答えが返ってくる。私自身が作中のようなことを言われても、ウトセラ先生と同じ答えはできないです。そういう意味では、憧れの存在を書いているとも言えますね。何をいってもまったく動じずに反応する。正統性があるかどうかは別にして、そういう姿勢に憧れますね。

 このように、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平は別に同一の存在ではない。

 それは確かだ。

 しかし、僕はこのインタビューの発言を敢えて次のように読もうと思う。 

 上遠野浩平とウトセラ・ムビョウがイコールでないとしても、上遠野浩平がウトセラ・ムビョウを「憧れの存在」として書いたのなら、ウトセラ・ムビョウの言う内容は上遠野浩平が正しいと考える内容とイコールと見做してよいのではないか荒木飛呂彦も岸部露伴のことを「理想の漫画家像」だと公言している。それと同じだ。

 ウトセラ・ムビョウは、上遠野浩平から見て間違ったことは決して言わない。むしろ我々に伝えたいと思っていることや理想を積極的に語るキャラクターとして作られていると考えられる。

 

 ウトセラ先生の思想はすなわち上遠野先生の思想だ。

 勇み足なのは承知の上だが、そういう読みは少なくとも可能なはずである。

 そして、もしウトセラ先生の思想を作家自身の思想と見做すことが妥当なら、我々が今試みている上遠野浩平の文学論にとって非常に有用だ。

 なぜならば、ウトセラ・ムビョウは、物語のクライマックスで、一種の創作論を語るからだ

 

 

+製造人間による 交換人間=市場主義 批判

 

 ウトセラ先生が創作論を語るのは、製造人間と対を成す存在として登場する、交換人間ミナト・ローバイとの対決シーンだ。

 

 このミナト・ローバイというキャラクター*3も、露骨にモデルが透けて見える造形である。

 なにしろ名前からして直球だ。「交換人間」の「交換」とは、文化研究的な文脈で使われる「交換」を意味していると思われる。これは物品や価値を相互に贈与するという意味の単語で、しばしば経済の起源を論じる際に用いられるのだが。

 要するに、ミナト・ローバイというキャラクターは市場主義の権化である。やたらと価値の話をするところからも、ほぼ間違いないとみていいだろう。

 また、ミナト・ローバイは、迷うことも他者を振り返ることもなく、ひたすら自分の考える正解に向かって邁進する。それは彼が合理主義の権化でもあるということを意味すると思われる。

 市場主義と合理主義が、製造人間の敵として立ちふさがっているわけだ*4

 

 市場合理主義=ミナト・ローバイは、何物も新しい価値を創造してなどおらず、あるのは「交換」によって生じる価値の取り扱いの変化だけだと断言する。この世にもう真に新しいものを創造する余地などないのだと。そして自分自身こそが最も上手く価値の変化を扱えるのだと豪語する。*5

 

 それに対して、ウトセラ・ムビョウは、交換人間の主張を痛烈に批判して、こう言う。

ただし――何かと何かを交換するだけで世界を動かせる、という考え方には従わない。世界は不平等だ。それは事実だ。しかし、だからといって、その不平等の落差を利用するだけで豊かになろうとする、それが価値の創造とか言われては、話にならない。ほんとうの創造がなんなのか。モノを創り出すということがなんなのか全く判っていない。

創造の本質は『偶然』だ。たまたま出来る――それだけだ。本質的に不条理なものなんだ。それが僕が製造人間として生きてきて掴んだ実感だ。(中略)物作りというは結局、たまたまうまく出来るまで延々と続けることでしか成立しない、デタラメなモノだ。それを価値を交換してどうの、なんてことを途中でやっていたら、肝心のものにはいつまたっても到達できないんだ。交換だけをやたらと重要視し、至高のものと思い込むことは、自分は何も生み出せませんから、世界の寄生虫になります、と言っているようなものだ。

もちろん君たちは創造の一端には関わっているだろう。しかし忘れないでもらいたい。役に立つものを作って、そこで満足しているうちは、それはしょせんは工業でしかないんだ。僕と同じ製造人間だ。みんな産業に支配された、大多数にとって都合の良い部品に過ぎないんだ。それが悪いわけじゃない。僕だって同じだ。しかし真の未来は、今は役に立たないゴミのようなものの中からしか生まれないことだけは、見過ごしてはならない。役立たずの無能の、無数の可能性の屍のうちに文明は成り立っていて、僕らはそれを漁っている屍肉喰らいなのだということを――。

  物語上では、極端な主張をする悪役に主人公がSEKKYOUしているシーンに過ぎない。というか、実のところウトセラ先生は善も悪も述べてはなく、能力バトル的な都合から敵の挑発を試みているだけである。内容を読み飛ばしてもエンタメとしては何の問題もない。

 しかし、これが「小説家本人の化身が、擬人化した市場主義に言ったセリフ」だとすれば、だいぶ趣が変わってくるのが判るだろうか。

 

 

上遠野浩平の創作哲学

 

 上記の引用部分でウトセラ先生が言った内容は、創作活動全般への姿勢として読むことが出来そうである*6

 要素を抜き出して、検討してみよう。

 

 まず彼は、明らかに創作を制御できる可能性を否定している

 より正確にいえば、制御して作られた作品は「未来≒新しい作品」などではないと言っている。"本質的に不条理なもの"であり、つまり理屈をつけるのは不可能な活動だ。

 

 更に彼は、真に新しい作品を作るには試行回数を増やす以外に無いと指摘している。

 全て創作は制御不能の偶然に左右されるのであって、偶然を確実に変えるのは試行回数以外にない。意図や計算や市場分析の入り込む余地はなく、それどころか、意図や計算や市場分析に労力を割いていたら"いつまで経っても到達できない"、即ち、費やした労力の分だけ試行回数が減るので成功の確率が減る。

 

 そして、創作において他者の評価を気にすることは無駄であり有害だと言っている。

 他人の役に立つのは、即ち、市場の要請に従って人気のありそうな作品を作るのは、それは創作でなく工業に過ぎない。製造人間=上遠野浩平がしているのも実はそれである。しかし、真の意味で新しい作品は、工業的な活動からは出てこないことも、製造人間=上遠野浩平には判っているのである。

 

 どうだろうか。「創造」についての話としては正鵠を得ているようにも見えるが、小説執筆に関する理論だと読むと、かなり尖ったことを言っているのが判るだろうか。ウトセラ・ムビョウ=上遠野浩平は、緻密なプロットとか綿密な検討とかによって、真に新しい小説ができることはない、と断言している。ましてや、ブームに合わせた小説を書くことでは真に新しいものはできない。そうした執筆姿勢は、創造性のない工業であり、屍肉喰らいの行為に過ぎない

 純文学の分野ならこういうことを言う人はまあまあいるかもしれないが、ライトノベル作家がこれを言っている、という事実には、ちょっと感じ入るところがある。

 

 ところで、そろそろ本論がこのタイミングを最新作を取り上げた理由が明確になったのではないか。

 こういうことをいう作家が、流行ったからとセカイ系に手を出したりするか? という話なのだ。

 

 

上遠野浩平の執筆スタイル

 

 正直僕は、常に哲学めいた内容を書く上遠野浩平は頭が良いのだから、緻密にプロットや計算を行っているのだろうと思っていた。

 いや、ウトセラ・ムビョウが「自分も工業をやっている」と言うように、上遠野浩平ライトノベル読者が何を求めているかの計算ぐらいはしているだろう*7。しかし、そんな計算では真の名作は生まれないんだけどなあ、という思いがどうやらあるようなのだ。

 

 思っているだけでない。どうも上遠野浩平は、もともと計算して書くタイプの書き手ではないようだ。 小説家には、計算でプロットを練り上げて書くタイプと天性の勢いで書くタイプが居る、という話が経験的によく語られるが、それで言えば、上遠野浩平はどうやら天性の勢いで書くタイプの作家だ

 第1回で紹介した『小説家になるには』のインタビューでも、自身の書き方について、こんなことを言っていた。

――創作ノートは作りますか

上遠野:昔は作っていましたが、最近はほとんど作りません。せいぜい登場人物の名前を書き出しておくぐらいで。以前はプロットというかストーリーを書いて、矢印で次の展開を示したり分岐させていったりしたんだけど、あまり設計通りにならないんで。

――冒頭から書いていくんですか。

上遠野:頭からじゃないと書けないです。人によってはヤマ場から書くとか、ミステリだと解決するところから書いていって、それにあわせて事件を作っていくという人もあるようですが、私の場合は最初からでないと書けない。

  あるいは『ファウストvol5』に載っていた西尾維新との対談で、各作品にキャラクターが出て来るリンクについて「年表などがあるのか」との質問に答えて、こんなことも言っている。

上遠野:いや、それは作ってないですよ。作っちゃうとどうしても時系列が一列に並んじゃうので。

西尾:上遠野さんの作品は現時点で30作近くあって、しかもそれがすべてクロスオーバーしているから、僕なんかだと出てきたキャラクターを覚えきれないこともあります。

上遠野:作者にもわからないときがありますよ(笑)。でもあんまり意識してなくても大丈夫なんです。一つの作品のなかで、立ち位置がはっきりさえしてればいい。

(*引用者の判断で一部略あり)

 このように様々な部分で、実は上遠野浩平は――誤解を生む言い方だが他に言いようが思いつかない――その場のノリで書いている様子を見せる。作品としても例えば、雑誌連載だった『ビートのディシプリン』や『螺旋のエンペロイダー』は、文庫一冊で小説を発表した時とは物語構造や読書感が全然異なっている。

 

 

+やはり天才か……

 

 というわけで、上遠野浩平は世間のセカイ系ブームに流されるタイプの作家ではない。

 というか、たぶんそういうことの出来る人ではない

 

 上遠野浩平セカイ系とか評価されるのは、たまたまそういう時代が来たという、純粋に偶然の結果だ。上遠野浩平は特に狙ってなくても書く作品がセカイ系っぽくなってしまう作家であって、それは恐らく、上遠野浩平の天性と問題意識が、セカイ系と呼ばれた対象に向かい続けているからにすぎない。

 時代の寵児ではあっても、時代に迎合したわけではない、という訳だ。

 

 ……ところで、さっき小説家のタイプの話をしたが、計算して書くタイプの書き手は、しばしばこんな風に自分のスタイルを称する。聞いたことがないだろうか?  「中には勢いだけで書いても面白くなる天才作家もいると聞くが、自分は天才ではないので、しっかりして計算して書かないといけない」だとか。この手の主張は、小説執筆ハウツー本などにすらしばしば載る。なので僕のごときワナビ崩れは、計算して書くことこそが正しいのだとすら思いがちなのだが。

 翻って、今回の記事で、上遠野浩平は計算なしで書くタイプの作家だということになった。

 もしかしたら本論は、上遠野浩平は天才、という事実を図らずして証明したのではなかろうか? 

 

 ……。まあ、知っていたけどね。

 上遠野先生が天才ってことは読めばわかるし。

 

 次回は読めばわかる上遠野浩平の天才性へ、あえて分析的にアプローチする。

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:とはいえ初読者でも楽しめたとのレビューも見たので、先にあれ読めとか言うのは無粋というものなのだろう。上遠野浩平は、どの作品でも繋がりが判らなかろうが面白くなるよう努力している、としばしば釘を刺す発言をしている。

*2:https://www.hayakawabooks.com/n/n059f6430e6c2

*3:このキャラは上遠野世界観において珍しい、全く留保のない悪役だ。こんなにも明確に「悪」なのは、他にはフェイルセイフぐらいしかぱっと思いつかない。枢奇王などには悪は悪でもダークヒーロー的な一面があるのだが、ミナト・ローバイにはそれがない。

*4:本来別物のはずの市場主義と合理主義を一緒くたにしている、という点は、今後の上遠野読書において結構重要な気がする。が、今すぐどうこう言うことはできそうになかったので、補足に書いておく。

*5:そう豪語する交換人間が、唯一自分より上だと認めるのはオキシジェンだというのがまた、上遠野世界観におけるこのキャラクターの「悪」を端的に示している。オキシジェンというキャラクターが何なのか、についてもこの先機会を探して書きたい。

*6:というか、僕はそういうものが書かれていると読んだ

*7:螺旋のエンペロイダー』などは明らかに「なんか最近流行っている学園サバイバルモノ」を試しに書いてみた作品だろう。もっとも、上遠野浩平の天才性は物語を学園サバイバルとは完全に無関係な場所に着地させたが。

「上遠野浩平論」②誰より早くセカイにたどり着いた作家(『冥王と獣のダンス』)

 上遠野浩論の第二回。

 前回上遠野浩平のプロフィール、あとがき、インタビューの証言を基に、上遠野浩平がどのような人生を送ってきているかを探り、それが作品のバックボーンとなっていることを確認した。

 今回からはいよいよ文学論らしく、発表作品の分析に入ろう。

 しばしばセカイ系作家の代表とされる上遠野浩平だが、上遠野浩平セカイ系なのは、20世紀末の日本社会に訪れていたムーブメントとは何の関係もない。むしろ日本社会のほうが、上遠野浩平に近づいてきたのだ。本論第2回となるこの記事では、前回に引き続き、上遠野浩平が日本社会に先行していたことの立証を目指す。

 

 

+投稿時代の作品~『冥王と獣のダンス

 

 さて最初に述べた通り、本論第1回で試みたのは、上遠野浩平に関する作品外の情報を用いて、そのルーツを探ろうとすることだった。しかし、インタビューやコラム以外に、デビュー前の上遠野浩平について、手掛かりになりそうな作品がある。

 それは2000年に出版された『冥王と獣のダンスだ。

 実は、この作品が出た2000年は上遠野浩平にとって記念すべき年である。というのも『殺竜事件』『冥王と獣のダンス』『僕らは虚空に夜をみる』が相次いで出版され、"ブギーポップ以外の上遠野浩平"が初めて読めるようになった年だからだ。

 まず内容から紹介しておこう。主人公の平凡な男・トモルが、兵器として超能力をもつヒロイン・夢幻に一目ぼれして、その女を追いかけて戦場に出ていく、すると実はトモルにも能力があったので、超能力者の中の革新派であるリスキィ兄弟に次代の指導者と見込まれる……。

 

 僭越ながら僕の評価を述べてしまうが、この作品は基本的に名作とはいえない。荒削りに過ぎる。無理やり気味にボーイミーツガールを作った痕跡がみてとれるのに、肝心のヒロイン・夢幻があんまり可愛くないうえ、恋愛要素もとってつけたみたいな感じでリアリティがない。一部レビューでは妙に情熱的な感想がつくこともあるが、おそらく最大の魅力は独特の遠未来設定であろうか。確かにリスキィ兄弟のキャラクター造形や、元は宇宙船だった自動工場プルートゥの設定は最高だ。しかし、魅力はあるにせよ、先述通り同じ年に出た『事件シリーズ』『虚空シリーズ』と比べると、やはり何ランクか落ちると言わざるを得ないのが正直なところである。

 

 ただし、粗削りなのはむしろ当然のことだ。

 なぜなら、この作品の第一稿はブギーポップ受賞前に書かれたものだからだ。*1

 つまりこの作品は、投稿時代における上遠野浩平の痕跡とみることができる*2

 それゆえ上遠野浩平論で最初に検討するのは、この作品でなければならない。

 ここで本論のために、投稿時代の作品たる『冥王と獣のダンス』から確認しておきたいことは2つある。第一に、ヒロインの設定について。第二に、作品のキモとなるシーンについて。それぞれ他のセカイ系作品と比較してみることにする。

 

 

+最終兵器ヒロイン=夢幻

 

 第一に、ヒロインの設定について。

冥王と獣のダンス』のヒロイン・夢幻は自身を兵器と自認している。しかも、大量殺戮兵器だ。命令されないからやらないだけで、本当はすぐにでも戦争を勝って終わらせることだってできる。

 ヒロインが超強力な兵器。となれば、セカイ系として最も有名な作品の一つ『最終兵器彼女』を思い出さずにはいられない。

 『最終兵器彼女』は高梁しんが2000年に発表した作品で、衝撃的な第一話・第二話が大変な話題になった。ヒロインのチセは主人公シュウジの彼女だが、知らないうちに戦争兵器に改造されている。そしてチセが戦争で戦っていることを知りながら、シュウジとチセは普通の日本とほとんど変わらない日常を過ごしていく*3

 

 設定の類似を挙げこそしたが、2作を読んだ印象はだいぶ異なったものだろう。

 それはテーマも構造も全然違うのだから当然だ。例えば『最終兵器彼女』のキモは主人公が戦争に出ることは一切ないという点だが、『冥王と獣のダンス』のトモル君はバリバリ前線の兵士だったりする。また『最終兵器彼女』は"ぼくたちは恋していく"というキャッチコピーが示す通り恋愛描写に主眼があるが、『冥王と獣のダンス』は恋愛描写が優れるとはとてもいえない作品だ。

 

 ただし、ヒロインが圧倒的に武力として強力で、主人公は無力という点においては間違いなく共通している。この設定はしばしばセカイ系で採用されることに注意しよう。なぜならこれは、主人公にセカイを変える力は無い、という認識から生まれる必然的設定だからだ

 主人公が無力である、という共通点は、セカイ系ムーブメントに関する批評で、しばしば指摘される。エヴァ以前以後のシーンで何かが変わったとしたらその点につきるのだ。

 兜甲児もアムロも、ひとたびロボットに乗れば戦況を決定的に変えることができた。しかし碇シンジはロボットに乗ったところで何も変えられない。ロボットアニメにおいて「ロボットに乗る」ことは「大人になること」を表している、というのは批評家界隈では有名な解釈だが、碇シンジは大人になっても何も変えられないし、何なら大人になることすらできない。

 ポストエヴァに属すとされる『最終兵器彼女』や『冥王と獣のダンス』のヒロイン最強設定(=主人公無力設定)も同じ内容を表現するために生まれた。

 

 20世紀後半というあの時代において、中高生が感情移入する主人公は、強くてはいけなかった。多くの少年たちが、世間の言説とは乖離した、自身の無力を感じていたからだ。

 上遠野浩平の投稿作『冥王と獣のダンス』は、そういう点において、ヒット作たる『最終兵器彼女』と同様の方向性を持っていた。

 

 

+ちょっと自分にプライドを取りもどせたのに

 

 同じような必然的類似は、第二に確認する『冥王』のキモになるシーンにも現れている。

 それはこういうシーンだ。

 ヒロインと晴れて合流し、浮かれていた主人公トモルは、夢幻が戦うところを目にする。トモルは、夢幻の強さなら実はいつでも戦争に勝つことが出来るのだとすぐに見抜いた。つまり、彼女の敵として前線の一兵卒をやっていたトモルの頑張りや犠牲は全くの無駄だった。どうせ負けると決まっていた戦いに、だらだらと犠牲を払っていたにすぎなかった。

 それに気づいてしまったトモルは、これまで夢幻に会うためだけに様々な苦難を乗り越えてきたにもかかわらず、自暴自棄になって夢幻に当たり散らす*4。恋愛も何もかも投げ捨てて絶望と怒りをあらわにする……。

 

 そして『最終兵器彼女』にも趣旨を同じくするシーンがある。

 ヒロインのチセはとうとう戦場に疲れてしまい、主人公と駆け落ちをする。二人は逃げた港町で平和に夫婦生活を過ごす。しかし実は、チセは兵器の宿命から逃れた訳でもなんでもなく、ちょいちょい自衛隊のヒトに見張られたりしていたうえ、それを食い止めていたのはチセの暴力だった。平和に過ごしていたと思っているのは主人公だけだったのだ。主人公はチセに二度と人殺しをさせないと誓いすらするが、最終的に戦火のもとで全てを失い、再びチセを戦場にもどすしかなくなる……。

 

 これらのシーンも、他のセカイ系作品でも描かれる定番といえるシーンなのである。

 つまり、セカイには手が届かないので、自分の手のとどく範囲で有意義な何かを作ろうとするが、それは巨大なセカイの前では無意味と知らされることになる、という。

 セカイ系作品は、ほぼ間違いなく自己のセカイに対する無力を描くが、自己とセカイとの無関係は描かない。むしろ、セカイと無関係で暮らそうとしても、そんなことは不可能だという認識を描く。キャラクター(と読者)はセカイ全体、ひいては無力感・劣等感にきちんと向き合わねばならないのだ。

 しかも、教科書的な物語構造では、しばしば物語中に示された劣等感は解消され最終版のカタルシスにつながるが、セカイ系作品では、露わにされた劣等感は一切解消されない。『冥王』でも『最終兵器』でも、主人公たちは最後の戦いに赴いたりはするが、たとえラスボスに勝ったり彼女の愛を勝ち得たりしても、それによって劣等感が解消されたりすることはない。劣等感や無力感は投げっぱなされたまま、全くその後の展開には一切関わらずに、ストーリーを終える。

 つまり、自身の影響はセカイに及ばないという根本的な断絶の感覚がここでは書かれる。作品世界という舞台に置いてすら、キャラクターはセカイに対する影響力を一切もたない無力な存在だ。

 この認識を描いてこそのセカイ系と言ってよかろう。僕が中高生のころ読みまくったのはたぶんそれだった。

 

 

+投稿時代の作品に、後の代表作と類似点があること

 

 さて、ここまで『冥王と獣のダンス』の物語構造が、『最終兵器彼女』の物語構造と類似点を持つことを確認した。

 なお、たまたまヒロインの夢幻が兵器がどうとか言ってたから『最終兵器彼女』を比較しただけで、別に比較先が『イリヤの空、UFOの夏』でも『エルフェンリート』でも同じことはできるだろう。要するに各作品がセカイ系の系譜にあることを確認しただけだからだ。

 

 ただし——ここからが本論のメインの主張だが——上遠野浩平は少なくとも『冥王と獣とダンス』を、ブギーポップより前に書いたということに改めて注意を促したい。

 念のため補足しておくが、97年の賞を受賞した『ブギーポップは笑わない』が書かれたのは96年頃のはずだ。それより前に書かれた『冥王と獣のダンス』は、遅くみて96年中の完稿か、もうちょっと前なら94~95年度の作品かもしれない*5

 セカイ系の作品群は、通常、"ポスト・エヴァンゲリオン"と見做されている。そして上遠野浩平の「ブギーポップ」もその一部とされている。

 しかし、セカイ系ブームに決定的な影響を与えたエヴァ最終回は96年1月最終兵器彼女の第1話に至っては2000年だ。というか、セカイ系のムーブメントがいよいよ盛り上がりだすのはだいたい2000年からだ。

 製作時期に関わるこれらの事実は、上遠野浩平が天性のセカイ系作家であるという本論の主張を強力に裏付ける

 上遠野浩平は、エヴァ後のムーブメントに影響を受けたからセカイ系を書き始めた訳ではない。これまでも何度も述べてきた通り、昔からセカイ系を書いていた上遠野浩平のレベルに、社会のほうがおいついてきたのだ

 

 

上遠野浩平は今も昔もセカイ系

 

 というわけで、上遠野浩平は今も、かつてセカイ系と見做されたテーマを主題に書いている。

 本論は基本的に上遠野浩平を賛美する方針である。だからという訳ではないが、僕はセカイ系であることをマイナスと捉えたりはしない。一時期、セカイ系作品が乱立したことがあったので、一部にセカイ系であることを浅薄であることや非エンタメ的あることと同一視する向きがあるが、要はセカイ系で書かれた物語世界が面白かったり示唆に富んだりしていればよいのである。

 その点において、上遠野浩平セカイ系が極めて本当に限りなく上質であることは、保障できる。

 こんなニッチな論を読んでいる人に今更言うことではないのだろうが。

 

  次回の第3回は、上遠野浩平エヴァブームから影響を受けたのではない、という論点を更に補強するために、上遠野浩平の創作論について分析を重ねることにする。

  

 

 

 

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*1:文庫カバーの作者コメント欄に書いてある。初読のときはあとがきも読み終わった最後にたどり着く箇所なので、びっくりと同時に、ああだからこんな作品なのかと妙な納得を覚えたものだった。

*2:ちなみに上遠野浩平は2000年前半頃、同じように投稿時代の作品やアイデアを修正して発表ということを幾度かしている。『冥王』の他に判る範囲では『機械仕掛けの蛇奇使い』『残酷号事件』がそうらしい。

*3:なお、高梁しんはこの前作まで、草彅剛がドラマを演じた現代サラリーマンドラマ『いいひと』を書いていた。当時の僕には「あの高橋しんがコレ!?」という衝撃があったことを強く覚えている。それもまたムーブメントの一つだったのだろう。

*4:実はこのシーンがキモであるということが『冥王の獣のダンス』は荒削りと僕が言う最大の理由だ。なにせ、物語の動機である恋ともラスボスである宇宙船とも全く関係のないシーンが最も印象的だってことなのだ。

*5:ちなみにこれは、流石に「執筆生活」後半の作品ではないかと思うので90~92年とかそういう考えは流石に無いんじゃないか、とかその程度の根拠で言っている。

「上遠野浩平論」①上遠野浩平という人物(インタビュー・あとがきなど)

 今回は、上遠野浩平、という作家について書きます。

 作家名だけを言われてピンとくる人がどれだけいるのか。ガチ中のガチファンである僕には逆に想像がつかないが、「あのブギーポップの」という言い方をすれば、まあ結構な数の人が知っているのではなかろうか。

 なぜ上遠野浩平について書くかというと、まずその知名度や影響力の割に、言及が少ないからだ。僕と同年代の読書家(オタク、とは言わない)ならほぼ間違いなく知っている作家だ。2000年代に台頭した売れっ子作家陣*1がこぞって"影響を受けた作家"として挙げたことで再注目も浴びた。ラノベを語るうえで、ブギーポップ電撃文庫の天下を作ったのは一つの共通認識のはずだ。

 その割には、なにかとその存在や内容についての言及が少ない。個人的には上遠野浩平の新刊がでることは、村上春樹の新刊が出るのに近い大事件なのだが、そういう注目の浴び方を全くしない。しまいには、「ああまだブギーポップ出てるんだ」とか言われる始末である。誰かが作った上遠野浩平wikiは、内容が充実することもなく更新が止まってしまっている*2

 

 僕はもっと、他の人が上遠野浩平について思っていること、上遠野浩平について読みたい。

 

 そこでここはDIY精神を発揮して、自分自身で「上遠野浩平論」を書くことにした。文学の論文作法はあまり分からないのだが、とにかく上遠野浩平について作家論を試みるということである。

 なお、たくさんの本を紹介するが、ネタバレだろうと一切の容赦がない*3

 

 

+「セカイ系」の上遠野浩平

 

 上遠野浩平について、言及が少ないとは言ったが、もちろん別に皆無という訳ではない。よくある言及として、上遠野浩平という作家はしばしば『イリヤの空UFOの夏』とか『最終兵器彼女』とか『ほしのこえ』とかと同列に並べられ、「ラノベセカイ系作品代表」と紹介される。

 

 では、具体的にセカイ系作品とは何なのか。

 それについては、前島賢の著作セカイ系とはなにか』の議論が参考になる。

 上遠野ファンでもある前島賢*4によれば、「セカイ系」とは要するに"ポスト・エヴァ"のことだ。

 エヴァがTV版最終回で大混乱の結末を迎え、半ば意図的に既存のオタク世界観の消費を批判した結果炎上と擁護の嵐が起こり、現在まで続くいろいろな影響がシーンに残った。その影響で生まれたエヴァっぽい作品群の呼称が「セカイ系」なのだった*5エヴァ終盤のような、内省的で、大きな物語と断絶したうえで、セカイと自己と直結して語る作品群を総称してセカイ系と呼んだ訳だ。

 

 で、上遠野浩平の『ブギーポップを笑わない』は、そのムーブメントの一つとして登場し、影響を受けてまた影響を与えた一つの作品だった*6

 

  ……いやいや。いやいやいやいや。

 

 確かに上遠野浩平セカイ系だ。でも上遠野浩平は別にセカイ系の影響を受けてなんかない。上遠野浩平はずっと同じ、おそらくエヴァブームが起こる前から「セカイ系」と後に分類されるテーマを主題に書いていたし、エヴァブームから20年経った今だってずっと同じテーマについて書いている。

 

 時代のほうが勝手に上遠野浩平に追いつき、そして追い抜いていったのだ

 

 この、時代に追いつかれたと思ったらあっという間に追い抜かれている感が、いかにも上遠野浩平っぽい。中高生だった僕が熱狂した上遠野浩平の世界観そのものだ。

 しかも上遠野浩平という作家は、同じ場所に取り残されたようでいて、実はじんわりと螺旋上昇を続けている。今や上遠野浩平のの才能は"セカイ系を抱えたその次"へ向かおうとしている。本論では最終的にそうした上遠野浩平の世界観と展望について書いていくつもりだ。

 また、特に序盤では、上遠野浩平という作家がなぜ天性のセカイ系と断言できるのか、エヴァの影響を受けた他のセカイ系作品群と同じに見てはならないのかを確認していく。

 まずは、この作家の来歴を見てみることにしよう。

 

 

+上遠野浩平の来歴(とイメージ)

 

 上遠野浩平という作家は、あまりネットで発信をするタイプでもないし、たまにインタビューやエッセイがでても煙に巻いたようなことばかり言うので、その人物を知るのは難しい。けれど、これだけのビッグネームとなれば、流石に調べるだけで判ることは判ってくる。

 

 上遠野浩平は1968年(昭和43年)生まれ、神奈川県に生まれて野庭高校に通い、法政大学経済学部を出た。学歴だけで見れば優秀でも落ちこぼれでもない、平均的な都会の学生といった感じ、に見えるが、どうも大学は夜間だったらしい。特殊な事情があったのか。あるいはあまり熱心に勉強してなくて入試が楽で学歴の手に入る夜間を選んだのか? いずれかは確かではないが。「昼は寝て夜に大学に行っていた」と語っており、昼働いてたわけではなさそうなので、たぶん後者か*7

 学校でどういう生活を送っていたかは、ちょくちょく例の独特なあとがきで語っている。上遠野浩平は、本編で学校が舞台だと、あとがきで自身の学校体験について語ったりすることが多い。

僕にはあんまり学校が楽しかったという記憶はない。だがいくつか通っていた塾やそれに類するものは、どういうわけかみんな妙に楽しかったという変な思い出がある(螺旋のエンペロイダーspin1)

受験生だったころの私は「勉強しなきゃいけないことはわかっているんだ。わかっているんだが――」とか思いながら予備校の講義をサボっては本屋で少女マンガなどを立ち読みしていたのであるが、本当にあんときの私は「勉強の重要性」を理解して、それに対してあえて抵抗していたのだろうか? 抵抗する理由なんかあったか?(ホーリィ&ゴースト)

僕のどうでもいいような想い出の一つに、尾道に行ったときの記憶がある。修学旅行の最中だったのに、僕はひとりだけ見知らぬ街の、見知らぬ坂道をとぼとぼ歩いていた。どうして歩いていたのかはもう覚えていない。(化け猫とめまいのスキャット

私は割と、学校ではいつも消極的とか自分の意志がないだろとか馬鹿にされていた口なのだが、じゃあ希望がなかったのか、といえばそんなことはなく、今こうして小説を書いて発表しているくらいだから、他の人よりもかなり夢と希望に溢れていたのだろう。(壊れかけのムーンライト)

 これらはあとがきをざっと見なおして見つけてきた描写の一握りだ。

 参考になる記述はもっと見つかるだろうが……。

 

 これらの記述から僕は、若き上遠野浩平について想像する。

 

 きっとこの人は、友達とも遊ばずに本ばかり読んでいた。上遠野浩平が中高生だったころは昭和後期だから「青春といえばラグビー部だ」みたいな雰囲気がかなり大きかったはずだ。しかし、そういう文化には全く関わらなかったし、関われなかった。なぜ関わらないのかと眉を顰められることもあった。80年代といえば中学校でのいじめが問題になり始めたころでもある。とはいえ、この人は別段すごくいじめられていた訳ではない。そういう直接の被害に関する恨み節や絶望は、作品の中でも外でも語られたことがない。ただ、集団の中心からは孤立しており、皆がやってることや流行と自分が無関係であるという気分を抱えていた。何が起こるでもなかったが、何もなかったし、何もないことを負い目に感じていた——。

 

 繰り返すがこれは想像だ。

 しかも、僕は人を見る目には全く自信がないので、外れている可能性の方が高い。

 ただ、こういう人物像が、上遠野浩平を読み続けた僕のなかに割と確固とした形であるのは確かだ。

 

 あと関係ないけど、上遠野浩平の洋楽趣味はジョジョの影響。僕は一時期、文学っぽい作品性や露出が少ないことからなんとなく硬派な人だというイメージを抱いていたのだが、漫画の影響でにわかに趣味をもったりする一面も普通にあるようだ。作品の末尾にその時流れしている曲が書いてあるのはよく知られているが、一瞬だけ洋楽バンドを紹介するエッセイの連載をしたこともあって、たしかピストルズか何かについての話だっだろうか。しかし反響が微妙だったのかあまり書くことがなかったのか(僕は後者の印象を受けたが)すぐに連載は終わってしまった。あの連載が載っていたのはたしか電撃hpだったろうか……ファウストだったみたいです。

 上遠野浩平はこういう文庫未収録作品がかなり多い作家でもあって、出版社にはいつか全集の一つも出版して欲しいものである。

 

 

+最初期のワナビ上遠野浩平

 

 大学を出た後については、想像に頼らずとも、手元に少し資料がある。

 2004年の『小説家になるには』を紹介したい。

小説家になるには (なるにはBOOKS)

小説家になるには (なるにはBOOKS)

 

  中高生向けにさまざまなの職業になる方法について書くペリカン社「なるにはbooksシリーズ」のうち、最も闇が深い一冊であろう。内容は、中堅どころの作家に作家になった経緯をインタビューし続けるという益体のないもので(しかも僕の主観からすれば割と微妙な人を含んでいた)、それで"作家になるには"が本当の意味で判るなら苦労はないとしか言いようがなかった。だが、全体として益体もない内容なのだとしても上遠野浩平のインタビューが載っていたので、僕はわざわざ新刊でこれを買ったのだ*8

 

 そのインタビューにによると、上遠野浩平が小説を書き出したのは18歳、大学受験浪人のときだ*9。新人賞応募はその1年後の87年頃から始め、富士見・大陸書房小説現代などが対象だった。

 就職は、大学を卒業したあと1度、ビルメンテナンスの会社でしたが、即退社。若き上遠野浩平は「投稿生活」に入った。

 

 この「投稿生活」について、上遠野浩平はインタビューに答えて興味深いことを言っている。

会社を辞めて、家にこもって書き続けていました。当時は「引きこもり」なんて言葉がなかったけど、私がデビューした頃にそういう言葉が出てきて、「なんだ、俺がやっていたのは引きこもりというんじゃないか」と思いましたよ。

 この人はなんとそういう概念が出来る前からの「引きこもり」だったというのだ。

 

 参考文献のインタビューが2004年とやや古いので、より現在の言葉に近づけるとすれば、上遠野浩平は最初期の「ニート」であり、最初期の「ワナビ」でもあったという訳だ。 

 この期間、上遠野浩平は執筆投稿のほか、モデラーとしての活動もしていた。筋金入りだと言わざるをえない。この人作家にならなかったらどうしてたんだろう。

 

 だが、この経歴が上遠野浩平の根本にあるのは、恐らく間違いない。

 つまりこの人は、バブル以降に顕在化した現代日本の痛みや問題点に、誰よりも早くたどり着いてしていた。それどころか、当事者としての痛みを真っ先に感じていた。まさに当時最先端の人生を送っていたのである。小説において、実体験がどんな資料よりも有効に働くことは論を俟たない。

 フィクション作品批評から現代日本を語る宇野恒弘は、エヴァンゲリオンを「ひきこもり/心理主義」と称している。そういう風に位置づけられる平成のエヴァセカイ系ブームに上遠野浩平の作風が合致したのは、全く必然というものだった。

 

 

上遠野浩平のデビューと時代の変遷

 

 上遠野浩平のアマチュアとしての小説執筆は、新人賞投稿を始めてから10年間続いた。大学は普通に卒業した分を差し引けば、「投稿生活」の期間はおおよそ5~6年といったところだ。

 

 上遠野浩平がデビューした当時、僕は中学生だった。フォーチュンクエスト、スレイヤーズオーフェンと定番コースからラノベにどはまりしていた僕は、電撃文庫の新しい受賞作を読んだあと、受賞者の上遠野浩平の年齢がアラサーであることに気づいて驚いた。

 ラノベにどはまりした中学生らしく、僕自身もラノベを書きたいという願望をぼんやり持っていたから、どれくらいの年齢がデビューに適当なのかを自分なりに調べ始めていた。オーフェンの秋田貞信やスレイヤーズ神坂一の受賞はもっと若かったはずだ。

 驚いたのは、たぶん僕だけではなかったのではないだろうか? このころはまだ、読者も、恐らく業界も、ライトノベルという分野に三十代以上が新規参入することを想定していなかった。今となっては30代デビューなんて珍しくもなんともないが。そういう点でも、上遠野浩平のデビューは時代の転機そのものだった。

 

 

 字数が多くなったので、記事は一旦ここで切ることにする。

 次回はいよいよ、発表作品をもとに、上遠野浩平という作家を論じていく。

 

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*1:乙一西尾維新奈須きのこ等である

*2:いつか勝手に内容を充実させるか、あるいは自分で別のwikiかなにか作るかと考えたりしている

*3:上遠野浩平はすぐに「一切の容赦がない」とか言う。実はこれは本論の後の議論にとって重要になる気がする。

*4:ラノベ漂流20年!「前島賢の本棚晒し」 - 電子書籍はeBookJapan の連載において5回連続ブギーポップについて書いていて、大変楽しく読ませていただきました。こういうのが読みたいからこの記事を自分で書きだしているんだ僕は。

*5:僕の主観によるそうとう雑なまとめです。

*6:なお、前島氏がブギーポップエヴァの影響で書かれたと言っているわけではない。氏は先に紹介したラノベ書評連載でのブギーポップ評で、だいたい本論と同じ意味のことを言っている

*7:ファウストvol5』のインタビューに答えていた。なお、このインタビューはメールマガジン波状言論』での連載を再編集したもの。

*8:今では絶版なので実は正解だったかもしれない

*9:書き始めた年齢については別のコラムにも書いてあった。「電撃小説大賞 出身作家インタビュー

科学によって根拠を失った「人権」という概念

 前回、人権概念の社会的変容について書きました。

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 でも実は、「人権」の危機について語り切れてない部分がある。

 前回は権利概念の歴史的バックボーンや、社会情勢の変化、ヘイトスピーチ問題や、ポリティカルコレクトネスといった、純粋に文系的な分析から人権概念の変容を描きました。しかし、ここには大きく抜けている要素がある。それは、科学技術の進歩です。

 人権概念が生まれたのは、当時最先端の科学分析からでした。しかし、18世紀の科学は、21世紀現在までにずいぶんと変化し、誤解を恐れずに言えばかつての理論はその大部分が否定されてしまっている。

 つまり、人権を生んだ根拠の大部分は、実はすでに否定されてしまっているのです。そのことが、人権概念に変容と危機を持たらなさないはずがありません。

 この記事では、科学技術の進歩によって起きている人権概念の変容について、僕なりに述べていきます。

 

+人権という発想は啓蒙思想から生まれた

デカルトの似顔絵イラスト

  まず前回記事でも述べたことをざっと説明しておきます。

 人権が革新的だったのは「権利闘争に勝利したからではなく、ただ人間であるだけで権利を認めた」という点でした。それまで全ての権利は、本人や祖先が過去勝ち取ったから認められるものだった。例えば土地の所有権があるのは祖先がそこに住んでいたからだし、参政権があるのは戦争に兵士として参加したからでした。フランス人権宣言は、そうではなく、人間として存在するだけで幸福になる権利があると言った。戦争に参加したかどうかや、過去に犯罪者だったかどうかは関係ない。

 

 ところで、なぜフランス人は「人間であるだけで権利がある」と考えたのでしょうか?

 

 それは自然権という考え方が当時広まっていたことによります。これは、ホッブスやロックの社会契約説に基づく思想です。人間には、自然状態で=生まれついた瞬間から*1ある種の権利が宿っている。これは、そう考えないと社会契約説によって社会ができたと考えることが出来ないから生まれた発想です。何の権利もない人は社会契約もできないので、社会ができるよりも先に権利があったに違いない、という*2

 

 いずれにせよ、人権という発想を生んだのは当時の啓蒙思想だった、ということをここでは抑えておきます。

 

啓蒙思想時代の人間観と、人間ではないもの

神絵師のイラスト弱肉強食のイラスト

 人権思想は、啓蒙思想に基づいて「人間であるだけで権利がある」と考えた。

 

 では、人間とはなにか?

 結論から言えば、人間とは「動物ではない存在のこと」です

 

 権利というのは、常に内部と外部を想定する概念です。人間に権利を認めると断言したならば、必ず、人間以外に権利は認めないと断言しているのです。当時の啓蒙思想が排除した「人間以外」とは、いったい何だったのでしょうか? もちろん、人間以外とは動物のことだったのです。

 もう少し正確に言えば、ヒトは、神*3によって「人間」として作られたのです。神はヒトとは別に動物を作ったのであって、それは明確に区別されていた。人間と動物は完全に別の存在であり、定義の必要がないものだったのです。

 

 そしてこの時代、動物は、今われわれが考えるよりもずっと下等な存在だと考えらえていました

 具体的には、キリスト教において動物には霊魂がありません。霊魂を持つのは人間だけなのです。したがって、動物には精神もありません。精神は霊魂の作用だからです。精神がないので動物は理性や感情も持っておらず、ただ精巧にできているだけの、自動機械に等しい存在です。動物は野蛮であり、愛とか信仰とかいった善に属するものは理解しない。根本的に人間とは異なるのです*4

 

 今の僕らからしてみると、ちょっとペットを飼うだけで嘘っぱちだと判る、相当に無茶苦茶な論理ですが、当時の啓蒙思想——すなわち、知的階級の中ではこれが常識だったんですね。

 

 そういう時代に生まれた人権思想も、実はこの認識において「人間」を定義しています。

 人権が成立するのは、人間が神の創りたもうた高等な存在だからです

 念のため付記しますが、これは別に「人権」の根拠の全てではありません。が、屋台骨であったことは疑いない。今でも人権の根拠を定義しようとすると、どうしたって『人間はなぜ特別なのか(特別扱いすべきなのか)』を述べることになります。かつてそれは、本質的に宗教的な伝統に支えられていたのです。宗教的であるってことは、自明であることでもあり、むしろ初期の人権において非常に良く働いたと思われます。

 もっとも、啓蒙思想っていうのは宗教的な非合理をどうにか脱しようとするものでもあったので、一見論理的な理屈がいろいろと発表されたりもしました(その内容については後で紹介します)。

 

+グドールのチンパンジーの衝撃

道具を使うチンパンジーのイラスト

 人間が高等であり、動物は下等であるという認識は、ダーウィンの進化論などいつくかの事件を重ねてなお、長いこと支配的であり続けました。

 

 しかし、20世紀中盤、決定的な研究が発表されます。

 それはジェーン・グドールという女性によるチンパンジーの研究でした。

 

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

 

 

 グドールさんは、大学を出ていませんでしたが、有名教授の秘書として大学に勤務していました。そして教授の研究についていって、アフリカでチンパンジーの観察をします。教授はいい人だったので素人のグドールさんにも論文を書かせてくれて、そうして出版されたのが『森の隣人』です。

 

 この本の何が衝撃的だったか。

 グドールさんは大学を出ていませんでしたので、一般的な科学論文の手法を知りませんでした。だから、チンパンジーの観察結果を、文学の手法で表現した。すると、チンパンジーに明らかに精神があるという描写になった。○○というサルは引っ込みじあんであり、△△というサルは子育てが上手であり、総じて彼らには個性があった。またサルたちはコミュニケートしたり愛を表現したりして、明らかに社会を持っていた。更に科学的にホットなトピックとしては、あの有名な「葉っぱの茎をつかってアリをとるサル」を見つけたのもグドールだった。道具を使う動物を発見したわけだ。

 動物は精神のない自動機械にすぎない、という認識とはかけ離れた真実がそこにありました

 

 グドールの研究は、最初は黙殺され失笑されました。なにしろグドールは大学を出てなかったし、当時の科学の常識からかけ離れていたからです。しかしその後の努力もあって*5、徐々にグドールの発見は浸透していった。

 動物にも、人間同様の精神があることが、20世紀後半という割と最近のタイミングで明らかになったのです。

 

+人間が特別ではなくなっていく

考える人のイラスト

 人間と動物が等しくなることは、 実は人権思想(=哲学)にとって空前絶後の大事件です

 なにしろ、ヒトは高等だから人権を与えられたというのに、ヒトは思ったより高等でないことが明らかになった。我々一般人がサルって賢いんだなあと納得している影で、実は思想界隈では人文の専門家たちが右往左往していました*6

 

 人間が動物より特別であるという発想は、基本的にキリスト教の宗教観が根拠です。しかし、啓蒙思想は宗教を乗り越えようとするムーブメントだったので、少し前に述べた通り、宗教によらない論理によって人間の特別さを定義していました。

 さっき補足していた通り、ここでいくつか紹介・検討してみましょう。

 

 例えば、そもそもホモ・サピエンスのサピエンスとは「考える」という意味です。人間だけが考えることのできる存在だという、分かりやすい名前で、人間が特別だということを表していたのでした。

 でもグドール以降、考えるのはヒトだけでないことが明らかになった訳です。実は「サピエンス」などという言葉自体が、既に科学的な定義としては成り立たなくなっていた。

 

 他の例では、人間のことをホモ・ファーベルということがあります。ファーベルとは「道具を使う」という意味です。

 しかし、この定義もやはりダメですね。グドールのチンパンジーが道具を使ってましたし、それ以降もサルやラッコやビーバーやキツツキが道具を使うのが見つかってます。

 

 ホモ・ルーデンスという言葉もあります。ルーデンスとは「遊ぶ」という意味の単語。生存に無意味なことをするのは人間だけだという意味でしたが、案の定これも使えなくなってます。

 ウチの猫ちゃんも水族館のイルカも余裕でおもちゃ大好きですから。

 

 あとはホモ・シンボリクス。「象徴を使う」という難しい意味ですが、これは要するに難しい言語が使えるという意味です。

 もはやこんな判りにくいところまで追い詰められた感のある定義ですが、これもだめでした。手話を覚えたサルの話は有名だからご存知ではないでしょうか。

 

 他にも、社会を作る人、言語を使う人、文化を持つ人、音楽をする人、などなど、いろいろなホモ・○○○○が考案されました。それはどれも「○○ができるのは人間だけだから、人間は動物とは違う!」という意味でしたが、しかし科学が進むと、どこかに必ず○○が出来る動物が見つかったのです。

 科学は20世紀を通して、かなり熱心に、人間が動物と決定的に異なる証拠を探しましたが、それは結局のところ見つかりませんでした。

 

 もし動物が人間と同様の存在なのだとしたら、どうして人間だけが特別に権利が認められているのでしょうか? 

 

+人間じゃなくても人権を与えるべき?

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 人間と動物が同じなら、人間だけが特別じゃないのではないか。

 この当然の発想から生まれたのが、ネット界隈では悪名高い、動物の権利運動(アニマルライツ運動)です

 

 動物の権利っていう発想を最初に言いだしたのは、ピーター・シンガーという人*7で、彼の主張はかいつまめば非常に単純です。「動物にも精神があるんだから、動物の権利をないがしろにするのは、人種差別と同じで倫理的に間違いである」。シンガー以降、現代に至るまで、いろいろな文脈で動物の権利は主張さていれますが、基本は同じです。「動物にも人間同様の精神があるから(ex:イルカは人間同様にかしこいから)権利を尊重しなければいけない」。

 倫理学を熱心に学ぶ人ほど、この主張には説得されてしまったりします。だって偉大な古典を読むと「人権を守るのは、人間に精神があるからだ」と書いてある。精神があるものを食べるのは食人に等しいので、彼らは菜食主義を推奨していたりもします*8

 

 でも僕に言わせれば、この記事で述べてきたように、それは倫理学の大古典のほうが間違っていたのです。人権というのは、人間全体に権利を与えたかっただけの思想です。精神云々は「なぜ人間だけなのか」という疑問に対する18世紀の言い訳にすぎません

 科学が後に発見する事実を知らなかったから、こういう言い方になっただけです。動物にも精神があるから動物にも人権がある、みたいな主張は、ほとんど揚げ足取りみたいなものです。

 

 ただし、人権思想には取られる揚げ足がある、というのも事実です。

 アニマルライツ運動の広告をみて、頭がおかしい、と感じた皆さんは多いでしょう。

 しかし、皆さんが見ていたのは、実は頭のおかしい人たちではなく、人権思想の歪みだったのです

 

人間性最後の牙城も風前の灯

文章を書く人工知能のイラスト

 しかしそれでも、やっぱり人間と動物は違います。

 

 犬と牛が同じではないように、人間と動物一般は同じではない。 確かにイルカやカラスは賢いかもしれない、サルやオウムは言語を理解するかもしれない。ビーバーやキツツキは建築すら行うかもしれない。しかし、人間と同じ規模・同じ精度でそれらをする動物はいません。

 つまり、人間は動物よりもスゴい。21世紀の現在、それこそが人間性の定義になっていると考えていいでしょう。

 

 実はスゴいから人権を守るのだとかいう話にしてしまうと、それはそれで問題が出てくるのですが(超すごいイチローは一般人より人権も大きいのでしょうか?)まあ目をつぶれる範囲の問題です。人間と動物を区別できることが重要なんですから。

 

 しかし、近年この最後の牙城を崩す要素が、またしても科学の発展によって現れました。

 それは、人工知能です。人工知能の登場は、以前から人間性にとって危機なのではないか? と言われていましたが、特にここ数年の人工知能ブームを起こした技術革新は、人間性の定義にとって会心の一撃となりかねないものでした。

 ディープラーニングという言葉を聞いたことがあるでしょうか。あるいは、画像認識技術の発展についてのニュースを聞いたことは。

 あれらは人間の脳の機能に着想を得て、真似したことで、飛躍的に発展した技術です

 

 ということは、将来的に人間の脳を完全に模倣した人工知能というものが、現れるのではないでしょうか

 それに精神が無いと考える理由がなにかあるのか?

 

 しかも、汎用人工知能*9は間違いなく人間よりスゴイ。これは単純な話で、人間の脳は生化学反応で回路を作ってますが、それが全部光ファイバーだったらもっと速く動くに決まってます。

 

+空想の存在にさえ縋らざるをえない

人工知能と喧嘩をする人のイラスト

 こういう人工知能論に対して、人文学が持ち出してくるのがクオリアです。

 クオリアとは、よく「赤いという感じ」だとかいう判りにくい説明がされる概念です。我々の脳は電気刺激で動いているのであって、赤いリンゴを見たら赤いリンゴを見た電気刺激が脳に現れる。しかし、電気刺激は精神や思考自体ではない。「電気刺激によって、何か精神っぽい現象が起きた」その結果として、我々は赤い色を認識したのではないか? この、何かわからないけど引き起こされた現象をクオリアと呼ぶことになってます。

 

 人文学をかじった人たちは言います。「AIがいくら発展しても、脳は脳、機械は機械であるから、機械にはクオリアは宿らない。クオリアが宿らないということは機械は精神を持てない」だとか。

 これはちゃんちゃらおかしい主張です

 

 まず、そもそもクオリアという概念は脳科学が一旦持ち出したものの、よく考えたら意味なかったので捨てた考え方です。「神経細胞Aと神経細胞Bを突っつくと、同じように反応するんだけど、二つの神経細胞は違う役割を持っている。何が違うんだ。その違いをクオリアと呼ぼう」とか言ってたんですが、よく考えたら個別の神経細胞の役割の違いは神経間の接続方法に依存するのであって、クオリアなんて存在を仮定する必要はなかった。クオリアは脳機能の説明に要らなかった概念なのです。

 あと、クオリアを科学的に定義するのは不可能だったクオリアっていう概念はよく考えたら"観察出来ない"という内容を定義に含みます。神経細胞を見ても観察できないものがクオリアであって、観察できないものは科学では基本的に存在しないものとして扱います。だから本家の脳科学では、クオリアは無かったことになった。クオリアは、非科学的な概念でもあるのです。

 

 しかし人文学は、その捨てられた非科学的概念を拾い上げました。何しろ、この概念は科学では扱えないことが証明されているってことはどんなにいじくり回しても、こんどこそ科学がいちゃもんをつけてくることはないクオリアを持つのが人間だということにしてしまえば、二度と人間性は脅かされることはない。

 

 ……はい、こじつけですね。文系とはいえ仮にも学問が、事実をねつ造してどうするのか。

 クオリアは無いってことになったんだから、それはもう無いんです。確かに無いことは科学で証明できないけど、そんなこといったら妖精さんがこの世に居ないことだって証明できない。

 

 でも人文学はそれに縋るのです。

 妖精と実質的に同じ存在をもちださないと、もはや「人間だけが特別である」という主張ができないからです

 胡散臭いクオリア概念だけが、人権の根拠たりえる風に見えてしまうのです。僕は俗流クオリア論は批判したい側の人間ですが、しかしどうにか人権を守りたいという心意気は理解しないでもない。

 

+人権に根拠はあるのか、根拠が無いと何が起こるのか

養子縁組した同性カップルのイラスト(女性)

 まあしかし、いくら俗流クオリア論を振り回しても、事実は変わりません。

 「人権」はとっくに根拠を失っていると認めるべきです

 恐らく、いまフランス革命をやっても、人権宣言を再び成立させることはできないでしょう。人間だけに権利を認める、客観的・合理的な理由がない。

 かつてあると思われていた理由は、全部ウソだったことが暴露されてしまいました。

 

 今、我々が使っている「人権」という概念は、非常に主観的なものです。だからアニマルライツ運動のような、かわいそうだから権利がある、という論理がまかり通るのです。我々が普通の人権を守るのもまた、人権がないことにするなんて「かわいそうだから」にすぎない。我々は「かわいそうだから」発展途上国の人権侵害に憤るのであって、他に理由はありません。

 

 しかし、こんな主観的で、感情的で、客観的根拠が全く成立しない思想を、我々はいつまで正常に運用していけるのでしょうか? そのほころびは、すでにあちこちで現れています。

 

 僕自身の考えでは、人権概念はもう基本に立ち戻るしかありません。「人間だから」「理由とかなしに」「権利を認める」。人間が賢いからとか、人間に精神があるからとか、人間は思いやるべきだからとか、そういう全ての理由は余計な要素です。ただ人間でありさえすればいいという、フランス革命当初の理念を、もう一度決断するしかない。

 いわゆる人間賛歌ってやつっですね。

 たぶん「人権」は、そういう判断を、今まさに迫られているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから追記〜〜〜〜〜〜〜〜

 

なんかバズりました。

一晩経ってまあまあ落ち着いてきたと思うので、そろそろいくつかブクマのコメント見てて気になったことを書いておきますね。

 

+なんか「根拠がなくなった」と僕が書いているのを「人権は無効になった」とか「人権は要らなくなった」と読んで怒ってる人が多いと思います。

 僕が考えてるのは、せいぜい「指針がなくなってる」までです。もちろん人権はなくなったりしないし、守る。

+自然科学は人文科学の概念に関係しねーよ、とか怒ってる方もまあまあいます。これは完全に反対させていただきます。

 自然科学から遊離した人文科学なんて、ただの空想です。少なくとも影響はあるよ。

+既存の人権に関する根拠論に触れてないことを怒ってらっしゃるかたがたもいました。これは、僕はそうした論を全て『人間に精神があるからだ』にまとめてしまっているからです。そう出来るし、したほうが良いと思います。

 例えばロールズの無知のヴェールについて触れてる人は複数いましたが、ロールズは「そのヴェールを被ると自分が人間かミトコンドリアかもわからなくなる」とまでは言いませんでした。多くの古典は同様に人間だけに対象を限定することを、無言で前提していると思います。そしてその揚げ足をアニマルライツにとられていると思います。

+クオリア論の起源の部分、調べてみたら確かに僕が勉強したこととWikipediaの記述が食い違っています(それしかみれてない)。もうちょっと追いかけたほうがよさそうです。ご指摘ありがとうございました。

+特に気になったのは、「根拠なしに人間の権利を認めることは宗教的に人間の権利を認めるのと同じでは」みたいな指摘。言われてみれば確かにそうで、だとしたら根拠なき人間性の肯定は可能なんでしょうか?

 僕が言ったのは、人権の根拠と指針がなくなってる、までですから、「なくなったこの先どうなっていく」までは考えが及んでないです。ただ強いて言えば、前記事で述べたように、人権を殴り棒をした争いが激化するんではないか?とかぼんやり思っています。

+「専門家なら人権が実在するとか思ってない。理想を追求したらより良い社会が実現できるという事に過ぎない」というコメントも面白いと思いました*10。なるほど、僕は確かに素人ですので、そこら辺の専門界隈の機微はわかりかねますし、僕が言うようなことは当然専門家は前提しているでしょう。

 しかし僕はひねくれものですので、二つの疑問を持ちました。第一に、だったら専門家はどうして僕たちに人権なんか実在しないと言わないのか。実在を信じてる活動家のほうが多いのは間違いないと思う。僕らはやはり人権思想に騙されているのか。第二に、人権を追求したら社会がよくなるのは本当か。こんな主観と客観がごっちゃになった欠陥思想より、例えば最初から主観しかない孔子の「仁」とかのほうがよくないか。

 おそらくは、専門界隈でも人権の扱いが混乱しているんだろうと思います。

+面白がっていただきもしたようです。

 毎度ありがとうございます。

 

 

 

*1:厳密には、自然状態と"生まれた瞬間"は違います。自然状態とは「社会に一切属していない状態」のことです。

*2:ちなみに社会契約説は、今では事実ではなかったとされています。人間はサルのころから群れを作っていたので、「自然状態の人間」などというものは存在しないはずだからです。社会契約説が架空の説だったことも、この後説明する展開に大いに関係します。

*3:無論これはキリスト教の神です

*4:人権の話をしてる都合上キリスト教のせいにしてますが、東洋でも動物のことは「畜生」と呼んでバカにしてた。たぶんこれは世界全体の常識でした

*5:教授がまた本当にいい人で、グドールさんを大学に入れたりしてくれたそうです。

*6:グドールの成果を最後まで認めなかったのは、哲学・人文学の世界だったと聞きます。生物学が動物の精神を当然と見做すようになってなお、哲学はそれを否定し続けたそうです。

*7:それはまさにグドールの登場から数年後のことでした

*8:僕は、菜食主義の流行は、20世紀倫理学の犯した重大な人間性への裏切りだと思う。動物を食べるのが間違いだと述べることは、人間の歴史全てを間違いだと述べたに等しい。倫理が人間を愛さなくてどうするのか。

*9:ちなみに「汎用人工知能」とただの人工知能は違います。汎用人工知能が普通の人が考える人工知能で、要するに話しかけたらなんでもしてくれるスタートレックのコンピューター。ただ「人工知能」といっただけだと、例えばExcelのマクロは人工知能の一種です。

*10:これは久々にみたら面白いブコメがついていたので遅すぎる追記です