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「上遠野浩平論」③上遠野浩平の創作哲学(『製造人間は頭が固い』)

 上遠野浩平論の第3回。

 第2回では、エヴァよりも前に書かれたと思われる投稿時代の作品が既にセカイ系の特徴を踏まえていることを通して、上遠野浩平セカイ系ブームの影響を受けていないのだと主張した。

 今回は、更にその主張を補強するために、上遠野浩平の創作論に踏み込む。

 もちろん、上遠野浩平が自身の創作スタイルを完全に詳らかにしているなんてことはないが、たまたま最近、そういう分析にうってつけの作品が出版された。

 

 

+上遠野版の岸部露伴~『製造人間は頭が固い』

 

 うってつけの作品とは、何を隠そう『製造人間は頭が固い』

 前回に投稿時代の作品をやったのに、一気に最大ジャンプして2017年の作品となる。

 この作品は、SFマガジン不定期連載されていたものをまとめた短編集だ。内容は、統和機構の合成人間を作っているウトセラ・ムビョウという男が、リセットリミット姉妹やフォルティッシモといったお馴染みのキャラクターと話す、というもので、書籍版にはフェイ・リスキィ博士による間章が追加されている。ハヤカワSFマガジンの連載だが、電撃のブギーポップシリーズを読んでないと意味がわからないかもしれない。上遠野作品には偶にある、完全ファン向けの作品だ*1

 

 なぜこの作品を上遠野浩平という人物を分析するタイミングで紹介するかというと、僕の読んだ感じ、ウトセラ・ムビョウのモデルは上遠野浩平本人だからだ。少なくとも他のキャラよりも本人の性質が多めに投影されているはず。例えるなら、荒木飛呂彦における岸部露伴みたいな存在とでもいおうか。

 だってすべての合成人間の生みの親ですよ。それってやっぱり上遠野先生のことじゃないですか。

 しかもウトセラ・ムビョウは霧間誠一と違って生きていてしゃべる。

 故に『製造人間は頭が固い』は、上遠野浩平という作家の人物像を探り出すにあたり、早い段階で紹介しておいたほうがいい作品だ。

 

 

+作者の理想像としての分身

 

 とはいえ、荒木飛呂彦はクモの味を見ておこうなんて思わなかったろうし、空中に絵を書いてスタンドを出したりもしないし、プッチ神父の加速する世界の中で締め切りを守ることもたぶんできないだろう。

 岸辺露伴荒木飛呂彦は、当然のことながら同一人物ではない。

 同様のことは、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平にももちろん言える。

 上遠野浩平本人も『製造人間』刊行インタビュー*2の中でこう発言している。

(ウトセラが不思議な存在であることに同意して)私が彼を理解しているわけではないんですよね。先生の場合は、思考回路的なものを疑似的に頭の中に作って、それに問いかけると、よくわからない答えが返ってくる。私自身が作中のようなことを言われても、ウトセラ先生と同じ答えはできないです。そういう意味では、憧れの存在を書いているとも言えますね。何をいってもまったく動じずに反応する。正統性があるかどうかは別にして、そういう姿勢に憧れますね。

 このように、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平は別に同一の存在ではない。

 それは確かだ。

 しかし、僕はこのインタビューの発言を敢えて次のように読もうと思う。 

 上遠野浩平とウトセラ・ムビョウがイコールでないとしても、上遠野浩平がウトセラ・ムビョウを「憧れの存在」として書いたのなら、ウトセラ・ムビョウの言う内容は上遠野浩平が正しいと考える内容とイコールと見做してよいのではないか荒木飛呂彦も岸部露伴のことを「理想の漫画家像」だと公言している。それと同じだ。

 ウトセラ・ムビョウは、上遠野浩平から見て間違ったことは決して言わない。むしろ我々に伝えたいと思っていることや理想を積極的に語るキャラクターとして作られていると考えられる。

 

 ウトセラ先生の思想はすなわち上遠野先生の思想だ。

 勇み足なのは承知の上だが、そういう読みは少なくとも可能なはずである。

 そして、もしウトセラ先生の思想を作家自身の思想と見做すことが妥当なら、我々が今試みている上遠野浩平の文学論にとって非常に有用だ。

 なぜならば、ウトセラ・ムビョウは、物語のクライマックスで、一種の創作論を語るからだ

 

 

+製造人間による 交換人間=市場主義 批判

 

 ウトセラ先生が創作論を語るのは、製造人間と対を成す存在として登場する、交換人間ミナト・ローバイとの対決シーンだ。

 

 このミナト・ローバイというキャラクター*3も、露骨にモデルが透けて見える造形である。

 なにしろ名前からして直球だ。「交換人間」の「交換」とは、文化研究的な文脈で使われる「交換」を意味していると思われる。これは物品や価値を相互に贈与するという意味の単語で、しばしば経済の起源を論じる際に用いられるのだが。

 要するに、ミナト・ローバイというキャラクターは市場主義の権化である。やたらと価値の話をするところからも、ほぼ間違いないとみていいだろう。

 また、ミナト・ローバイは、迷うことも他者を振り返ることもなく、ひたすら自分の考える正解に向かって邁進する。それは彼が合理主義の権化でもあるということを意味すると思われる。

 市場主義と合理主義が、製造人間の敵として立ちふさがっているわけだ*4

 

 市場合理主義=ミナト・ローバイは、何物も新しい価値を創造してなどおらず、あるのは「交換」によって生じる価値の取り扱いの変化だけだと断言する。この世にもう真に新しいものを創造する余地などないのだと。そして自分自身こそが最も上手く価値の変化を扱えるのだと豪語する。*5

 

 それに対して、ウトセラ・ムビョウは、交換人間の主張を痛烈に批判して、こう言う。

ただし――何かと何かを交換するだけで世界を動かせる、という考え方には従わない。世界は不平等だ。それは事実だ。しかし、だからといって、その不平等の落差を利用するだけで豊かになろうとする、それが価値の創造とか言われては、話にならない。ほんとうの創造がなんなのか。モノを創り出すということがなんなのか全く判っていない。

創造の本質は『偶然』だ。たまたま出来る――それだけだ。本質的に不条理なものなんだ。それが僕が製造人間として生きてきて掴んだ実感だ。(中略)物作りというは結局、たまたまうまく出来るまで延々と続けることでしか成立しない、デタラメなモノだ。それを価値を交換してどうの、なんてことを途中でやっていたら、肝心のものにはいつまたっても到達できないんだ。交換だけをやたらと重要視し、至高のものと思い込むことは、自分は何も生み出せませんから、世界の寄生虫になります、と言っているようなものだ。

もちろん君たちは創造の一端には関わっているだろう。しかし忘れないでもらいたい。役に立つものを作って、そこで満足しているうちは、それはしょせんは工業でしかないんだ。僕と同じ製造人間だ。みんな産業に支配された、大多数にとって都合の良い部品に過ぎないんだ。それが悪いわけじゃない。僕だって同じだ。しかし真の未来は、今は役に立たないゴミのようなものの中からしか生まれないことだけは、見過ごしてはならない。役立たずの無能の、無数の可能性の屍のうちに文明は成り立っていて、僕らはそれを漁っている屍肉喰らいなのだということを――。

  物語上では、極端な主張をする悪役に主人公がSEKKYOUしているシーンに過ぎない。というか、実のところウトセラ先生は善も悪も述べてはなく、能力バトル的な都合から敵の挑発を試みているだけである。内容を読み飛ばしてもエンタメとしては何の問題もない。

 しかし、これが「小説家本人の化身が、擬人化した市場主義に言ったセリフ」だとすれば、だいぶ趣が変わってくるのが判るだろうか。

 

 

上遠野浩平の創作哲学

 

 上記の引用部分でウトセラ先生が言った内容は、創作活動全般への姿勢として読むことが出来そうである*6

 要素を抜き出して、検討してみよう。

 

 まず彼は、明らかに創作を制御できる可能性を否定している

 より正確にいえば、制御して作られた作品は「未来≒新しい作品」などではないと言っている。"本質的に不条理なもの"であり、つまり理屈をつけるのは不可能な活動だ。

 

 更に彼は、真に新しい作品を作るには試行回数を増やす以外に無いと指摘している。

 全て創作は制御不能の偶然に左右されるのであって、偶然を確実に変えるのは試行回数以外にない。意図や計算や市場分析の入り込む余地はなく、それどころか、意図や計算や市場分析に労力を割いていたら"いつまで経っても到達できない"、即ち、費やした労力の分だけ試行回数が減るので成功の確率が減る。

 

 そして、創作において他者の評価を気にすることは無駄であり有害だと言っている。

 他人の役に立つのは、即ち、市場の要請に従って人気のありそうな作品を作るのは、それは創作でなく工業に過ぎない。製造人間=上遠野浩平がしているのも実はそれである。しかし、真の意味で新しい作品は、工業的な活動からは出てこないことも、製造人間=上遠野浩平には判っているのである。

 

 どうだろうか。「創造」についての話としては正鵠を得ているようにも見えるが、小説執筆に関する理論だと読むと、かなり尖ったことを言っているのが判るだろうか。ウトセラ・ムビョウ=上遠野浩平は、緻密なプロットとか綿密な検討とかによって、真に新しい小説ができることはない、と断言している。ましてや、ブームに合わせた小説を書くことでは真に新しいものはできない。そうした執筆姿勢は、創造性のない工業であり、屍肉喰らいの行為に過ぎない

 純文学の分野ならこういうことを言う人はまあまあいるかもしれないが、ライトノベル作家がこれを言っている、という事実には、ちょっと感じ入るところがある。

 

 ところで、そろそろ本論がこのタイミングを最新作を取り上げた理由が明確になったのではないか。

 こういうことをいう作家が、流行ったからとセカイ系に手を出したりするか? という話なのだ。

 

 

上遠野浩平の執筆スタイル

 

 正直僕は、常に哲学めいた内容を書く上遠野浩平は頭が良いのだから、緻密にプロットや計算を行っているのだろうと思っていた。

 いや、ウトセラ・ムビョウが「自分も工業をやっている」と言うように、上遠野浩平ライトノベル読者が何を求めているかの計算ぐらいはしているだろう*7。しかし、そんな計算では真の名作は生まれないんだけどなあ、という思いがどうやらあるようなのだ。

 

 思っているだけでない。どうも上遠野浩平は、もともと計算して書くタイプの書き手ではないようだ。 小説家には、計算でプロットを練り上げて書くタイプと天性の勢いで書くタイプが居る、という話が経験的によく語られるが、それで言えば、上遠野浩平はどうやら天性の勢いで書くタイプの作家だ

 第1回で紹介した『小説家になるには』のインタビューでも、自身の書き方について、こんなことを言っていた。

――創作ノートは作りますか

上遠野:昔は作っていましたが、最近はほとんど作りません。せいぜい登場人物の名前を書き出しておくぐらいで。以前はプロットというかストーリーを書いて、矢印で次の展開を示したり分岐させていったりしたんだけど、あまり設計通りにならないんで。

――冒頭から書いていくんですか。

上遠野:頭からじゃないと書けないです。人によってはヤマ場から書くとか、ミステリだと解決するところから書いていって、それにあわせて事件を作っていくという人もあるようですが、私の場合は最初からでないと書けない。

  あるいは『ファウストvol5』に載っていた西尾維新との対談で、各作品にキャラクターが出て来るリンクについて「年表などがあるのか」との質問に答えて、こんなことも言っている。

上遠野:いや、それは作ってないですよ。作っちゃうとどうしても時系列が一列に並んじゃうので。

西尾:上遠野さんの作品は現時点で30作近くあって、しかもそれがすべてクロスオーバーしているから、僕なんかだと出てきたキャラクターを覚えきれないこともあります。

上遠野:作者にもわからないときがありますよ(笑)。でもあんまり意識してなくても大丈夫なんです。一つの作品のなかで、立ち位置がはっきりさえしてればいい。

(*引用者の判断で一部略あり)

 このように様々な部分で、実は上遠野浩平は――誤解を生む言い方だが他に言いようが思いつかない――その場のノリで書いている様子を見せる。作品としても例えば、雑誌連載だった『ビートのディシプリン』や『螺旋のエンペロイダー』は、文庫一冊で小説を発表した時とは物語構造や読書感が全然異なっている。

 

 

+やはり天才か……

 

 というわけで、上遠野浩平は世間のセカイ系ブームに流されるタイプの作家ではない。

 というか、たぶんそういうことの出来る人ではない

 

 上遠野浩平セカイ系とか評価されるのは、たまたまそういう時代が来たという、純粋に偶然の結果だ。上遠野浩平は特に狙ってなくても書く作品がセカイ系っぽくなってしまう作家であって、それは恐らく、上遠野浩平の天性と問題意識が、セカイ系と呼ばれた対象に向かい続けているからにすぎない。

 時代の寵児ではあっても、時代に迎合したわけではない、という訳だ。

 

 ……ところで、さっき小説家のタイプの話をしたが、計算して書くタイプの書き手は、しばしばこんな風に自分のスタイルを称する。聞いたことがないだろうか?  「中には勢いだけで書いても面白くなる天才作家もいると聞くが、自分は天才ではないので、しっかりして計算して書かないといけない」だとか。この手の主張は、小説執筆ハウツー本などにすらしばしば載る。なので僕のごときワナビ崩れは、計算して書くことこそが正しいのだとすら思いがちなのだが。

 翻って、今回の記事で、上遠野浩平は計算なしで書くタイプの作家だということになった。

 もしかしたら本論は、上遠野浩平は天才、という事実を図らずして証明したのではなかろうか? 

 

 ……。まあ、知っていたけどね。

 上遠野先生が天才ってことは読めばわかるし。

 

 次回は読めばわかる上遠野浩平の天才性へ、あえて分析的にアプローチする。

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:とはいえ初読者でも楽しめたとのレビューも見たので、先にあれ読めとか言うのは無粋というものなのだろう。上遠野浩平は、どの作品でも繋がりが判らなかろうが面白くなるよう努力している、としばしば釘を刺す発言をしている。

*2:https://www.hayakawabooks.com/n/n059f6430e6c2

*3:このキャラは上遠野世界観において珍しい、全く留保のない悪役だ。こんなにも明確に「悪」なのは、他にはフェイルセイフぐらいしかぱっと思いつかない。枢奇王などには悪は悪でもダークヒーロー的な一面があるのだが、ミナト・ローバイにはそれがない。

*4:本来別物のはずの市場主義と合理主義を一緒くたにしている、という点は、今後の上遠野読書において結構重要な気がする。が、今すぐどうこう言うことはできそうになかったので、補足に書いておく。

*5:そう豪語する交換人間が、唯一自分より上だと認めるのはオキシジェンだというのがまた、上遠野世界観におけるこのキャラクターの「悪」を端的に示している。オキシジェンというキャラクターが何なのか、についてもこの先機会を探して書きたい。

*6:というか、僕はそういうものが書かれていると読んだ

*7:螺旋のエンペロイダー』などは明らかに「なんか最近流行っている学園サバイバルモノ」を試しに書いてみた作品だろう。もっとも、上遠野浩平の天才性は物語を学園サバイバルとは完全に無関係な場所に着地させたが。

「上遠野浩平論」②誰より早くセカイにたどり着いた作家(『冥王と獣のダンス』)

 上遠野浩論の第二回。

 前回上遠野浩平のプロフィール、あとがき、インタビューの証言を基に、上遠野浩平がどのような人生を送ってきているかを探り、それが作品のバックボーンとなっていることを確認した。

 今回からはいよいよ文学論らしく、発表作品の分析に入ろう。

 しばしばセカイ系作家の代表とされる上遠野浩平だが、上遠野浩平セカイ系なのは、20世紀末の日本社会に訪れていたムーブメントとは何の関係もない。むしろ日本社会のほうが、上遠野浩平に近づいてきたのだ。本論第2回となるこの記事では、前回に引き続き、上遠野浩平が日本社会に先行していたことの立証を目指す。

 

 

+投稿時代の作品~『冥王と獣のダンス

 

 さて最初に述べた通り、本論第1回で試みたのは、上遠野浩平に関する作品外の情報を用いて、そのルーツを探ろうとすることだった。しかし、インタビューやコラム以外に、デビュー前の上遠野浩平について、手掛かりになりそうな作品がある。

 それは2000年に出版された『冥王と獣のダンスだ。

 実は、この作品が出た2000年は上遠野浩平にとって記念すべき年である。というのも『殺竜事件』『冥王と獣のダンス』『僕らは虚空に夜をみる』が相次いで出版され、"ブギーポップ以外の上遠野浩平"が初めて読めるようになった年だからだ。

 まず内容から紹介しておこう。主人公の平凡な男・トモルが、兵器として超能力をもつヒロイン・夢幻に一目ぼれして、その女を追いかけて戦場に出ていく、すると実はトモルにも能力があったので、超能力者の中の革新派であるリスキィ兄弟に次代の指導者と見込まれる……。

 

 僭越ながら僕の評価を述べてしまうが、この作品は基本的に名作とはいえない。荒削りに過ぎる。無理やり気味にボーイミーツガールを作った痕跡がみてとれるのに、肝心のヒロイン・夢幻があんまり可愛くないうえ、恋愛要素もとってつけたみたいな感じでリアリティがない。一部レビューでは妙に情熱的な感想がつくこともあるが、おそらく最大の魅力は独特の遠未来設定であろうか。確かにリスキィ兄弟のキャラクター造形や、元は宇宙船だった自動工場プルートゥの設定は最高だ。しかし、魅力はあるにせよ、先述通り同じ年に出た『事件シリーズ』『虚空シリーズ』と比べると、やはり何ランクか落ちると言わざるを得ないのが正直なところである。

 

 ただし、粗削りなのはむしろ当然のことだ。

 なぜなら、この作品の第一稿はブギーポップ受賞前に書かれたものだからだ。*1

 つまりこの作品は、投稿時代における上遠野浩平の痕跡とみることができる*2

 それゆえ上遠野浩平論で最初に検討するのは、この作品でなければならない。

 ここで本論のために、投稿時代の作品たる『冥王と獣のダンス』から確認しておきたいことは2つある。第一に、ヒロインの設定について。第二に、作品のキモとなるシーンについて。それぞれ他のセカイ系作品と比較してみることにする。

 

 

+最終兵器ヒロイン=夢幻

 

 第一に、ヒロインの設定について。

冥王と獣のダンス』のヒロイン・夢幻は自身を兵器と自認している。しかも、大量殺戮兵器だ。命令されないからやらないだけで、本当はすぐにでも戦争を勝って終わらせることだってできる。

 ヒロインが超強力な兵器。となれば、セカイ系として最も有名な作品の一つ『最終兵器彼女』を思い出さずにはいられない。

 『最終兵器彼女』は高梁しんが2000年に発表した作品で、衝撃的な第一話・第二話が大変な話題になった。ヒロインのチセは主人公シュウジの彼女だが、知らないうちに戦争兵器に改造されている。そしてチセが戦争で戦っていることを知りながら、シュウジとチセは普通の日本とほとんど変わらない日常を過ごしていく*3

 

 設定の類似を挙げこそしたが、2作を読んだ印象はだいぶ異なったものだろう。

 それはテーマも構造も全然違うのだから当然だ。例えば『最終兵器彼女』のキモは主人公が戦争に出ることは一切ないという点だが、『冥王と獣のダンス』のトモル君はバリバリ前線の兵士だったりする。また『最終兵器彼女』は"ぼくたちは恋していく"というキャッチコピーが示す通り恋愛描写に主眼があるが、『冥王と獣のダンス』は恋愛描写が優れるとはとてもいえない作品だ。

 

 ただし、ヒロインが圧倒的に武力として強力で、主人公は無力という点においては間違いなく共通している。この設定はしばしばセカイ系で採用されることに注意しよう。なぜならこれは、主人公にセカイを変える力は無い、という認識から生まれる必然的設定だからだ

 主人公が無力である、という共通点は、セカイ系ムーブメントに関する批評で、しばしば指摘される。エヴァ以前以後のシーンで何かが変わったとしたらその点につきるのだ。

 兜甲児もアムロも、ひとたびロボットに乗れば戦況を決定的に変えることができた。しかし碇シンジはロボットに乗ったところで何も変えられない。ロボットアニメにおいて「ロボットに乗る」ことは「大人になること」を表している、というのは批評家界隈では有名な解釈だが、碇シンジは大人になっても何も変えられないし、何なら大人になることすらできない。

 ポストエヴァに属すとされる『最終兵器彼女』や『冥王と獣のダンス』のヒロイン最強設定(=主人公無力設定)も同じ内容を表現するために生まれた。

 

 20世紀後半というあの時代において、中高生が感情移入する主人公は、強くてはいけなかった。多くの少年たちが、世間の言説とは乖離した、自身の無力を感じていたからだ。

 上遠野浩平の投稿作『冥王と獣のダンス』は、そういう点において、ヒット作たる『最終兵器彼女』と同様の方向性を持っていた。

 

 

+ちょっと自分にプライドを取りもどせたのに

 

 同じような必然的類似は、第二に確認する『冥王』のキモになるシーンにも現れている。

 それはこういうシーンだ。

 ヒロインと晴れて合流し、浮かれていた主人公トモルは、夢幻が戦うところを目にする。トモルは、夢幻の強さなら実はいつでも戦争に勝つことが出来るのだとすぐに見抜いた。つまり、彼女の敵として前線の一兵卒をやっていたトモルの頑張りや犠牲は全くの無駄だった。どうせ負けると決まっていた戦いに、だらだらと犠牲を払っていたにすぎなかった。

 それに気づいてしまったトモルは、これまで夢幻に会うためだけに様々な苦難を乗り越えてきたにもかかわらず、自暴自棄になって夢幻に当たり散らす*4。恋愛も何もかも投げ捨てて絶望と怒りをあらわにする……。

 

 そして『最終兵器彼女』にも趣旨を同じくするシーンがある。

 ヒロインのチセはとうとう戦場に疲れてしまい、主人公と駆け落ちをする。二人は逃げた港町で平和に夫婦生活を過ごす。しかし実は、チセは兵器の宿命から逃れた訳でもなんでもなく、ちょいちょい自衛隊のヒトに見張られたりしていたうえ、それを食い止めていたのはチセの暴力だった。平和に過ごしていたと思っているのは主人公だけだったのだ。主人公はチセに二度と人殺しをさせないと誓いすらするが、最終的に戦火のもとで全てを失い、再びチセを戦場にもどすしかなくなる……。

 

 これらのシーンも、他のセカイ系作品でも描かれる定番といえるシーンなのである。

 つまり、セカイには手が届かないので、自分の手のとどく範囲で有意義な何かを作ろうとするが、それは巨大なセカイの前では無意味と知らされることになる、という。

 セカイ系作品は、ほぼ間違いなく自己のセカイに対する無力を描くが、自己とセカイとの無関係は描かない。むしろ、セカイと無関係で暮らそうとしても、そんなことは不可能だという認識を描く。キャラクター(と読者)はセカイ全体、ひいては無力感・劣等感にきちんと向き合わねばならないのだ。

 しかも、教科書的な物語構造では、しばしば物語中に示された劣等感は解消され最終版のカタルシスにつながるが、セカイ系作品では、露わにされた劣等感は一切解消されない。『冥王』でも『最終兵器』でも、主人公たちは最後の戦いに赴いたりはするが、たとえラスボスに勝ったり彼女の愛を勝ち得たりしても、それによって劣等感が解消されたりすることはない。劣等感や無力感は投げっぱなされたまま、全くその後の展開には一切関わらずに、ストーリーを終える。

 つまり、自身の影響はセカイに及ばないという根本的な断絶の感覚がここでは書かれる。作品世界という舞台に置いてすら、キャラクターはセカイに対する影響力を一切もたない無力な存在だ。

 この認識を描いてこそのセカイ系と言ってよかろう。僕が中高生のころ読みまくったのはたぶんそれだった。

 

 

+投稿時代の作品に、後の代表作と類似点があること

 

 さて、ここまで『冥王と獣のダンス』の物語構造が、『最終兵器彼女』の物語構造と類似点を持つことを確認した。

 なお、たまたまヒロインの夢幻が兵器がどうとか言ってたから『最終兵器彼女』を比較しただけで、別に比較先が『イリヤの空、UFOの夏』でも『エルフェンリート』でも同じことはできるだろう。要するに各作品がセカイ系の系譜にあることを確認しただけだからだ。

 

 ただし——ここからが本論のメインの主張だが——上遠野浩平は少なくとも『冥王と獣とダンス』を、ブギーポップより前に書いたということに改めて注意を促したい。

 念のため補足しておくが、97年の賞を受賞した『ブギーポップは笑わない』が書かれたのは96年頃のはずだ。それより前に書かれた『冥王と獣のダンス』は、遅くみて96年中の完稿か、もうちょっと前なら94~95年度の作品かもしれない*5

 セカイ系の作品群は、通常、"ポスト・エヴァンゲリオン"と見做されている。そして上遠野浩平の「ブギーポップ」もその一部とされている。

 しかし、セカイ系ブームに決定的な影響を与えたエヴァ最終回は96年1月最終兵器彼女の第1話に至っては2000年だ。というか、セカイ系のムーブメントがいよいよ盛り上がりだすのはだいたい2000年からだ。

 製作時期に関わるこれらの事実は、上遠野浩平が天性のセカイ系作家であるという本論の主張を強力に裏付ける

 上遠野浩平は、エヴァ後のムーブメントに影響を受けたからセカイ系を書き始めた訳ではない。これまでも何度も述べてきた通り、昔からセカイ系を書いていた上遠野浩平のレベルに、社会のほうがおいついてきたのだ

 

 

上遠野浩平は今も昔もセカイ系

 

 というわけで、上遠野浩平は今も、かつてセカイ系と見做されたテーマを主題に書いている。

 本論は基本的に上遠野浩平を賛美する方針である。だからという訳ではないが、僕はセカイ系であることをマイナスと捉えたりはしない。一時期、セカイ系作品が乱立したことがあったので、一部にセカイ系であることを浅薄であることや非エンタメ的あることと同一視する向きがあるが、要はセカイ系で書かれた物語世界が面白かったり示唆に富んだりしていればよいのである。

 その点において、上遠野浩平セカイ系が極めて本当に限りなく上質であることは、保障できる。

 こんなニッチな論を読んでいる人に今更言うことではないのだろうが。

 

  次回の第3回は、上遠野浩平エヴァブームから影響を受けたのではない、という論点を更に補強するために、上遠野浩平の創作論について分析を重ねることにする。

  

 

 

 

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*1:文庫カバーの作者コメント欄に書いてある。初読のときはあとがきも読み終わった最後にたどり着く箇所なので、びっくりと同時に、ああだからこんな作品なのかと妙な納得を覚えたものだった。

*2:ちなみに上遠野浩平は2000年前半頃、同じように投稿時代の作品やアイデアを修正して発表ということを幾度かしている。『冥王』の他に判る範囲では『機械仕掛けの蛇奇使い』『残酷号事件』がそうらしい。

*3:なお、高梁しんはこの前作まで、草彅剛がドラマを演じた現代サラリーマンドラマ『いいひと』を書いていた。当時の僕には「あの高橋しんがコレ!?」という衝撃があったことを強く覚えている。それもまたムーブメントの一つだったのだろう。

*4:実はこのシーンがキモであるということが『冥王の獣のダンス』は荒削りと僕が言う最大の理由だ。なにせ、物語の動機である恋ともラスボスである宇宙船とも全く関係のないシーンが最も印象的だってことなのだ。

*5:ちなみにこれは、流石に「執筆生活」後半の作品ではないかと思うので90~92年とかそういう考えは流石に無いんじゃないか、とかその程度の根拠で言っている。

「上遠野浩平論」①上遠野浩平という人物(インタビュー・あとがきなど)

 今回は、上遠野浩平、という作家について書きます。

 作家名だけを言われてピンとくる人がどれだけいるのか。ガチ中のガチファンである僕には逆に想像がつかないが、「あのブギーポップの」という言い方をすれば、まあ結構な数の人が知っているのではなかろうか。

 なぜ上遠野浩平について書くかというと、まずその知名度や影響力の割に、言及が少ないからだ。僕と同年代の読書家(オタク、とは言わない)ならほぼ間違いなく知っている作家だ。2000年代に台頭した売れっ子作家陣*1がこぞって"影響を受けた作家"として挙げたことで再注目も浴びた。ラノベを語るうえで、ブギーポップ電撃文庫の天下を作ったのは一つの共通認識のはずだ。

 その割には、なにかとその存在や内容についての言及が少ない。個人的には上遠野浩平の新刊がでることは、村上春樹の新刊が出るのに近い大事件なのだが、そういう注目の浴び方を全くしない。しまいには、「ああまだブギーポップ出てるんだ」とか言われる始末である。誰かが作った上遠野浩平wikiは、内容が充実することもなく更新が止まってしまっている*2

 

 僕はもっと、他の人が上遠野浩平について思っていること、上遠野浩平について読みたい。

 

 そこでここはDIY精神を発揮して、自分自身で「上遠野浩平論」を書くことにした。文学の論文作法はあまり分からないのだが、とにかく上遠野浩平について作家論を試みるということである。

 なお、たくさんの本を紹介するが、ネタバレだろうと一切の容赦がない*3

 

 

+「セカイ系」の上遠野浩平

 

 上遠野浩平について、言及が少ないとは言ったが、もちろん別に皆無という訳ではない。よくある言及として、上遠野浩平という作家はしばしば『イリヤの空UFOの夏』とか『最終兵器彼女』とか『ほしのこえ』とかと同列に並べられ、「ラノベセカイ系作品代表」と紹介される。

 

 では、具体的にセカイ系作品とは何なのか。

 それについては、前島賢の著作セカイ系とはなにか』の議論が参考になる。

 上遠野ファンでもある前島賢*4によれば、「セカイ系」とは要するに"ポスト・エヴァ"のことだ。

 エヴァがTV版最終回で大混乱の結末を迎え、半ば意図的に既存のオタク世界観の消費を批判した結果炎上と擁護の嵐が起こり、現在まで続くいろいろな影響がシーンに残った。その影響で生まれたエヴァっぽい作品群の呼称が「セカイ系」なのだった*5エヴァ終盤のような、内省的で、大きな物語と断絶したうえで、セカイと自己と直結して語る作品群を総称してセカイ系と呼んだ訳だ。

 

 で、上遠野浩平の『ブギーポップを笑わない』は、そのムーブメントの一つとして登場し、影響を受けてまた影響を与えた一つの作品だった*6

 

  ……いやいや。いやいやいやいや。

 

 確かに上遠野浩平セカイ系だ。でも上遠野浩平は別にセカイ系の影響を受けてなんかない。上遠野浩平はずっと同じ、おそらくエヴァブームが起こる前から「セカイ系」と後に分類されるテーマを主題に書いていたし、エヴァブームから20年経った今だってずっと同じテーマについて書いている。

 

 時代のほうが勝手に上遠野浩平に追いつき、そして追い抜いていったのだ

 

 この、時代に追いつかれたと思ったらあっという間に追い抜かれている感が、いかにも上遠野浩平っぽい。中高生だった僕が熱狂した上遠野浩平の世界観そのものだ。

 しかも上遠野浩平という作家は、同じ場所に取り残されたようでいて、実はじんわりと螺旋上昇を続けている。今や上遠野浩平のの才能は"セカイ系を抱えたその次"へ向かおうとしている。本論では最終的にそうした上遠野浩平の世界観と展望について書いていくつもりだ。

 また、特に序盤では、上遠野浩平という作家がなぜ天性のセカイ系と断言できるのか、エヴァの影響を受けた他のセカイ系作品群と同じに見てはならないのかを確認していく。

 まずは、この作家の来歴を見てみることにしよう。

 

 

+上遠野浩平の来歴(とイメージ)

 

 上遠野浩平という作家は、あまりネットで発信をするタイプでもないし、たまにインタビューやエッセイがでても煙に巻いたようなことばかり言うので、その人物を知るのは難しい。けれど、これだけのビッグネームとなれば、流石に調べるだけで判ることは判ってくる。

 

 上遠野浩平は1968年(昭和43年)生まれ、神奈川県に生まれて野庭高校に通い、法政大学経済学部を出た。学歴だけで見れば優秀でも落ちこぼれでもない、平均的な都会の学生といった感じ、に見えるが、どうも大学は夜間だったらしい。特殊な事情があったのか。あるいはあまり熱心に勉強してなくて入試が楽で学歴の手に入る夜間を選んだのか? いずれかは確かではないが。「昼は寝て夜に大学に行っていた」と語っており、昼働いてたわけではなさそうなので、たぶん後者か*7

 学校でどういう生活を送っていたかは、ちょくちょく例の独特なあとがきで語っている。上遠野浩平は、本編で学校が舞台だと、あとがきで自身の学校体験について語ったりすることが多い。

僕にはあんまり学校が楽しかったという記憶はない。だがいくつか通っていた塾やそれに類するものは、どういうわけかみんな妙に楽しかったという変な思い出がある(螺旋のエンペロイダーspin1)

受験生だったころの私は「勉強しなきゃいけないことはわかっているんだ。わかっているんだが――」とか思いながら予備校の講義をサボっては本屋で少女マンガなどを立ち読みしていたのであるが、本当にあんときの私は「勉強の重要性」を理解して、それに対してあえて抵抗していたのだろうか? 抵抗する理由なんかあったか?(ホーリィ&ゴースト)

僕のどうでもいいような想い出の一つに、尾道に行ったときの記憶がある。修学旅行の最中だったのに、僕はひとりだけ見知らぬ街の、見知らぬ坂道をとぼとぼ歩いていた。どうして歩いていたのかはもう覚えていない。(化け猫とめまいのスキャット

私は割と、学校ではいつも消極的とか自分の意志がないだろとか馬鹿にされていた口なのだが、じゃあ希望がなかったのか、といえばそんなことはなく、今こうして小説を書いて発表しているくらいだから、他の人よりもかなり夢と希望に溢れていたのだろう。(壊れかけのムーンライト)

 これらはあとがきをざっと見なおして見つけてきた描写の一握りだ。

 参考になる記述はもっと見つかるだろうが……。

 

 これらの記述から僕は、若き上遠野浩平について想像する。

 

 きっとこの人は、友達とも遊ばずに本ばかり読んでいた。上遠野浩平が中高生だったころは昭和後期だから「青春といえばラグビー部だ」みたいな雰囲気がかなり大きかったはずだ。しかし、そういう文化には全く関わらなかったし、関われなかった。なぜ関わらないのかと眉を顰められることもあった。80年代といえば中学校でのいじめが問題になり始めたころでもある。とはいえ、この人は別段すごくいじめられていた訳ではない。そういう直接の被害に関する恨み節や絶望は、作品の中でも外でも語られたことがない。ただ、集団の中心からは孤立しており、皆がやってることや流行と自分が無関係であるという気分を抱えていた。何が起こるでもなかったが、何もなかったし、何もないことを負い目に感じていた——。

 

 繰り返すがこれは想像だ。

 しかも、僕は人を見る目には全く自信がないので、外れている可能性の方が高い。

 ただ、こういう人物像が、上遠野浩平を読み続けた僕のなかに割と確固とした形であるのは確かだ。

 

 あと関係ないけど、上遠野浩平の洋楽趣味はジョジョの影響。僕は一時期、文学っぽい作品性や露出が少ないことからなんとなく硬派な人だというイメージを抱いていたのだが、漫画の影響でにわかに趣味をもったりする一面も普通にあるようだ。作品の末尾にその時流れしている曲が書いてあるのはよく知られているが、一瞬だけ洋楽バンドを紹介するエッセイの連載をしたこともあって、たしかピストルズか何かについての話だっだろうか。しかし反響が微妙だったのかあまり書くことがなかったのか(僕は後者の印象を受けたが)すぐに連載は終わってしまった。あの連載が載っていたのはたしか電撃hpだったろうか……ファウストだったみたいです。

 上遠野浩平はこういう文庫未収録作品がかなり多い作家でもあって、出版社にはいつか全集の一つも出版して欲しいものである。

 

 

+最初期のワナビ上遠野浩平

 

 大学を出た後については、想像に頼らずとも、手元に少し資料がある。

 2004年の『小説家になるには』を紹介したい。

小説家になるには (なるにはBOOKS)

小説家になるには (なるにはBOOKS)

 

  中高生向けにさまざまなの職業になる方法について書くペリカン社「なるにはbooksシリーズ」のうち、最も闇が深い一冊であろう。内容は、中堅どころの作家に作家になった経緯をインタビューし続けるという益体のないもので(しかも僕の主観からすれば割と微妙な人を含んでいた)、それで"作家になるには"が本当の意味で判るなら苦労はないとしか言いようがなかった。だが、全体として益体もない内容なのだとしても上遠野浩平のインタビューが載っていたので、僕はわざわざ新刊でこれを買ったのだ*8

 

 そのインタビューにによると、上遠野浩平が小説を書き出したのは18歳、大学受験浪人のときだ*9。新人賞応募はその1年後の87年頃から始め、富士見・大陸書房小説現代などが対象だった。

 就職は、大学を卒業したあと1度、ビルメンテナンスの会社でしたが、即退社。若き上遠野浩平は「投稿生活」に入った。

 

 この「投稿生活」について、上遠野浩平はインタビューに答えて興味深いことを言っている。

会社を辞めて、家にこもって書き続けていました。当時は「引きこもり」なんて言葉がなかったけど、私がデビューした頃にそういう言葉が出てきて、「なんだ、俺がやっていたのは引きこもりというんじゃないか」と思いましたよ。

 この人はなんとそういう概念が出来る前からの「引きこもり」だったというのだ。

 

 参考文献のインタビューが2004年とやや古いので、より現在の言葉に近づけるとすれば、上遠野浩平は最初期の「ニート」であり、最初期の「ワナビ」でもあったという訳だ。 

 この期間、上遠野浩平は執筆投稿のほか、モデラーとしての活動もしていた。筋金入りだと言わざるをえない。この人作家にならなかったらどうしてたんだろう。

 

 だが、この経歴が上遠野浩平の根本にあるのは、恐らく間違いない。

 つまりこの人は、バブル以降に顕在化した現代日本の痛みや問題点に、誰よりも早くたどり着いてしていた。それどころか、当事者としての痛みを真っ先に感じていた。まさに当時最先端の人生を送っていたのである。小説において、実体験がどんな資料よりも有効に働くことは論を俟たない。

 フィクション作品批評から現代日本を語る宇野恒弘は、エヴァンゲリオンを「ひきこもり/心理主義」と称している。そういう風に位置づけられる平成のエヴァセカイ系ブームに上遠野浩平の作風が合致したのは、全く必然というものだった。

 

 

上遠野浩平のデビューと時代の変遷

 

 上遠野浩平のアマチュアとしての小説執筆は、新人賞投稿を始めてから10年間続いた。大学は普通に卒業した分を差し引けば、「投稿生活」の期間はおおよそ5~6年といったところだ。

 

 上遠野浩平がデビューした当時、僕は中学生だった。フォーチュンクエスト、スレイヤーズオーフェンと定番コースからラノベにどはまりしていた僕は、電撃文庫の新しい受賞作を読んだあと、受賞者の上遠野浩平の年齢がアラサーであることに気づいて驚いた。

 ラノベにどはまりした中学生らしく、僕自身もラノベを書きたいという願望をぼんやり持っていたから、どれくらいの年齢がデビューに適当なのかを自分なりに調べ始めていた。オーフェンの秋田貞信やスレイヤーズ神坂一の受賞はもっと若かったはずだ。

 驚いたのは、たぶん僕だけではなかったのではないだろうか? このころはまだ、読者も、恐らく業界も、ライトノベルという分野に三十代以上が新規参入することを想定していなかった。今となっては30代デビューなんて珍しくもなんともないが。そういう点でも、上遠野浩平のデビューは時代の転機そのものだった。

 

 

 字数が多くなったので、記事は一旦ここで切ることにする。

 次回はいよいよ、発表作品をもとに、上遠野浩平という作家を論じていく。

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:乙一西尾維新奈須きのこ等である

*2:いつか勝手に内容を充実させるか、あるいは自分で別のwikiかなにか作るかと考えたりしている

*3:上遠野浩平はすぐに「一切の容赦がない」とか言う。実はこれは本論の後の議論にとって重要になる気がする。

*4:ラノベ漂流20年!「前島賢の本棚晒し」 - 電子書籍はeBookJapan の連載において5回連続ブギーポップについて書いていて、大変楽しく読ませていただきました。こういうのが読みたいからこの記事を自分で書きだしているんだ僕は。

*5:僕の主観によるそうとう雑なまとめです。

*6:なお、前島氏がブギーポップエヴァの影響で書かれたと言っているわけではない。氏は先に紹介したラノベ書評連載でのブギーポップ評で、だいたい本論と同じ意味のことを言っている

*7:ファウストvol5』のインタビューに答えていた。なお、このインタビューはメールマガジン波状言論』での連載を再編集したもの。

*8:今では絶版なので実は正解だったかもしれない

*9:書き始めた年齢については別のコラムにも書いてあった。「電撃小説大賞 出身作家インタビュー

科学によって根拠を失った「人権」という概念

 前回、人権概念の社会的変容について書きました。

gentleyellow.hatenablog.com

 でも実は、「人権」の危機について語り切れてない部分がある。

 前回は権利概念の歴史的バックボーンや、社会情勢の変化、ヘイトスピーチ問題や、ポリティカルコレクトネスといった、純粋に文系的な分析から人権概念の変容を描きました。しかし、ここには大きく抜けている要素がある。それは、科学技術の進歩です。

 人権概念が生まれたのは、当時最先端の科学分析からでした。しかし、18世紀の科学は、21世紀現在までにずいぶんと変化し、誤解を恐れずに言えばかつての理論はその大部分が否定されてしまっている。

 つまり、人権を生んだ根拠の大部分は、実はすでに否定されてしまっているのです。そのことが、人権概念に変容と危機を持たらなさないはずがありません。

 この記事では、科学技術の進歩によって起きている人権概念の変容について、僕なりに述べていきます。

 

+人権という発想は啓蒙思想から生まれた

デカルトの似顔絵イラスト

  まず前回記事でも述べたことをざっと説明しておきます。

 人権が革新的だったのは「権利闘争に勝利したからではなく、ただ人間であるだけで権利を認めた」という点でした。それまで全ての権利は、本人や祖先が過去勝ち取ったから認められるものだった。例えば土地の所有権があるのは祖先がそこに住んでいたからだし、参政権があるのは戦争に兵士として参加したからでした。フランス人権宣言は、そうではなく、人間として存在するだけで幸福になる権利があると言った。戦争に参加したかどうかや、過去に犯罪者だったかどうかは関係ない。

 

 ところで、なぜフランス人は「人間であるだけで権利がある」と考えたのでしょうか?

 

 それは自然権という考え方が当時広まっていたことによります。これは、ホッブスやロックの社会契約説に基づく思想です。人間には、自然状態で=生まれついた瞬間から*1ある種の権利が宿っている。これは、そう考えないと社会契約説によって社会ができたと考えることが出来ないから生まれた発想です。何の権利もない人は社会契約もできないので、社会ができるよりも先に権利があったに違いない、という*2

 

 いずれにせよ、人権という発想を生んだのは当時の啓蒙思想だった、ということをここでは抑えておきます。

 

啓蒙思想時代の人間観と、人間ではないもの

神絵師のイラスト弱肉強食のイラスト

 人権思想は、啓蒙思想に基づいて「人間であるだけで権利がある」と考えた。

 

 では、人間とはなにか?

 結論から言えば、人間とは「動物ではない存在のこと」です

 

 権利というのは、常に内部と外部を想定する概念です。人間に権利を認めると断言したならば、必ず、人間以外に権利は認めないと断言しているのです。当時の啓蒙思想が排除した「人間以外」とは、いったい何だったのでしょうか? もちろん、人間以外とは動物のことだったのです。

 もう少し正確に言えば、ヒトは、神*3によって「人間」として作られたのです。神はヒトとは別に動物を作ったのであって、それは明確に区別されていた。人間と動物は完全に別の存在であり、定義の必要がないものだったのです。

 

 そしてこの時代、動物は、今われわれが考えるよりもずっと下等な存在だと考えらえていました

 具体的には、キリスト教において動物には霊魂がありません。霊魂を持つのは人間だけなのです。したがって、動物には精神もありません。精神は霊魂の作用だからです。精神がないので動物は理性や感情も持っておらず、ただ精巧にできているだけの、自動機械に等しい存在です。動物は野蛮であり、愛とか信仰とかいった善に属するものは理解しない。根本的に人間とは異なるのです*4

 

 今の僕らからしてみると、ちょっとペットを飼うだけで嘘っぱちだと判る、相当に無茶苦茶な論理ですが、当時の啓蒙思想——すなわち、知的階級の中ではこれが常識だったんですね。

 

 そういう時代に生まれた人権思想も、実はこの認識において「人間」を定義しています。

 人権が成立するのは、人間が神の創りたもうた高等な存在だからです

 念のため付記しますが、これは別に「人権」の根拠の全てではありません。が、屋台骨であったことは疑いない。今でも人権の根拠を定義しようとすると、どうしたって『人間はなぜ特別なのか(特別扱いすべきなのか)』を述べることになります。かつてそれは、本質的に宗教的な伝統に支えられていたのです。宗教的であるってことは、自明であることでもあり、むしろ初期の人権において非常に良く働いたと思われます。

 もっとも、啓蒙思想っていうのは宗教的な非合理をどうにか脱しようとするものでもあったので、一見論理的な理屈がいろいろと発表されたりもしました(その内容については後で紹介します)。

 

+グドールのチンパンジーの衝撃

道具を使うチンパンジーのイラスト

 人間が高等であり、動物は下等であるという認識は、ダーウィンの進化論などいつくかの事件を重ねてなお、長いこと支配的であり続けました。

 

 しかし、20世紀中盤、決定的な研究が発表されます。

 それはジェーン・グドールという女性によるチンパンジーの研究でした。

 

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

森の隣人―チンパンジーと私 (朝日選書)

 

 

 グドールさんは、大学を出ていませんでしたが、有名教授の秘書として大学に勤務していました。そして教授の研究についていって、アフリカでチンパンジーの観察をします。教授はいい人だったので素人のグドールさんにも論文を書かせてくれて、そうして出版されたのが『森の隣人』です。

 

 この本の何が衝撃的だったか。

 グドールさんは大学を出ていませんでしたので、一般的な科学論文の手法を知りませんでした。だから、チンパンジーの観察結果を、文学の手法で表現した。すると、チンパンジーに明らかに精神があるという描写になった。○○というサルは引っ込みじあんであり、△△というサルは子育てが上手であり、総じて彼らには個性があった。またサルたちはコミュニケートしたり愛を表現したりして、明らかに社会を持っていた。更に科学的にホットなトピックとしては、あの有名な「葉っぱの茎をつかってアリをとるサル」を見つけたのもグドールだった。道具を使う動物を発見したわけだ。

 動物は精神のない自動機械にすぎない、という認識とはかけ離れた真実がそこにありました

 

 グドールの研究は、最初は黙殺され失笑されました。なにしろグドールは大学を出てなかったし、当時の科学の常識からかけ離れていたからです。しかしその後の努力もあって*5、徐々にグドールの発見は浸透していった。

 動物にも、人間同様の精神があることが、20世紀後半という割と最近のタイミングで明らかになったのです。

 

+人間が特別ではなくなっていく

考える人のイラスト

 人間と動物が等しくなることは、 実は人権思想(=哲学)にとって空前絶後の大事件です

 なにしろ、ヒトは高等だから人権を与えられたというのに、ヒトは思ったより高等でないことが明らかになった。我々一般人がサルって賢いんだなあと納得している影で、実は思想界隈では人文の専門家たちが右往左往していました*6

 

 人間が動物より特別であるという発想は、基本的にキリスト教の宗教観が根拠です。しかし、啓蒙思想は宗教を乗り越えようとするムーブメントだったので、少し前に述べた通り、宗教によらない論理によって人間の特別さを定義していました。

 さっき補足していた通り、ここでいくつか紹介・検討してみましょう。

 

 例えば、そもそもホモ・サピエンスのサピエンスとは「考える」という意味です。人間だけが考えることのできる存在だという、分かりやすい名前で、人間が特別だということを表していたのでした。

 でもグドール以降、考えるのはヒトだけでないことが明らかになった訳です。実は「サピエンス」などという言葉自体が、既に科学的な定義としては成り立たなくなっていた。

 

 他の例では、人間のことをホモ・ファーベルということがあります。ファーベルとは「道具を使う」という意味です。

 しかし、この定義もやはりダメですね。グドールのチンパンジーが道具を使ってましたし、それ以降もサルやラッコやビーバーやキツツキが道具を使うのが見つかってます。

 

 ホモ・ルーデンスという言葉もあります。ルーデンスとは「遊ぶ」という意味の単語。生存に無意味なことをするのは人間だけだという意味でしたが、案の定これも使えなくなってます。

 ウチの猫ちゃんも水族館のイルカも余裕でおもちゃ大好きですから。

 

 あとはホモ・シンボリクス。「象徴を使う」という難しい意味ですが、これは要するに難しい言語が使えるという意味です。

 もはやこんな判りにくいところまで追い詰められた感のある定義ですが、これもだめでした。手話を覚えたサルの話は有名だからご存知ではないでしょうか。

 

 他にも、社会を作る人、言語を使う人、文化を持つ人、音楽をする人、などなど、いろいろなホモ・○○○○が考案されました。それはどれも「○○ができるのは人間だけだから、人間は動物とは違う!」という意味でしたが、しかし科学が進むと、どこかに必ず○○が出来る動物が見つかったのです。

 科学は20世紀を通して、かなり熱心に、人間が動物と決定的に異なる証拠を探しましたが、それは結局のところ見つかりませんでした。

 

 もし動物が人間と同様の存在なのだとしたら、どうして人間だけが特別に権利が認められているのでしょうか? 

 

+人間じゃなくても人権を与えるべき?

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 人間と動物が同じなら、人間だけが特別じゃないのではないか。

 この当然の発想から生まれたのが、ネット界隈では悪名高い、動物の権利運動(アニマルライツ運動)です

 

 動物の権利っていう発想を最初に言いだしたのは、ピーター・シンガーという人*7で、彼の主張はかいつまめば非常に単純です。「動物にも精神があるんだから、動物の権利をないがしろにするのは、人種差別と同じで倫理的に間違いである」。シンガー以降、現代に至るまで、いろいろな文脈で動物の権利は主張さていれますが、基本は同じです。「動物にも人間同様の精神があるから(ex:イルカは人間同様にかしこいから)権利を尊重しなければいけない」。

 倫理学を熱心に学ぶ人ほど、この主張には説得されてしまったりします。だって偉大な古典を読むと「人権を守るのは、人間に精神があるからだ」と書いてある。精神があるものを食べるのは食人に等しいので、彼らは菜食主義を推奨していたりもします*8

 

 でも僕に言わせれば、この記事で述べてきたように、それは倫理学の大古典のほうが間違っていたのです。人権というのは、人間全体に権利を与えたかっただけの思想です。精神云々は「なぜ人間だけなのか」という疑問に対する18世紀の言い訳にすぎません

 科学が後に発見する事実を知らなかったから、こういう言い方になっただけです。動物にも精神があるから動物にも人権がある、みたいな主張は、ほとんど揚げ足取りみたいなものです。

 

 ただし、人権思想には取られる揚げ足がある、というのも事実です。

 アニマルライツ運動の広告をみて、頭がおかしい、と感じた皆さんは多いでしょう。

 しかし、皆さんが見ていたのは、実は頭のおかしい人たちではなく、人権思想の歪みだったのです

 

人間性最後の牙城も風前の灯

文章を書く人工知能のイラスト

 しかしそれでも、やっぱり人間と動物は違います。

 

 犬と牛が同じではないように、人間と動物一般は同じではない。 確かにイルカやカラスは賢いかもしれない、サルやオウムは言語を理解するかもしれない。ビーバーやキツツキは建築すら行うかもしれない。しかし、人間と同じ規模・同じ精度でそれらをする動物はいません。

 つまり、人間は動物よりもスゴい。21世紀の現在、それこそが人間性の定義になっていると考えていいでしょう。

 

 実はスゴいから人権を守るのだとかいう話にしてしまうと、それはそれで問題が出てくるのですが(超すごいイチローは一般人より人権も大きいのでしょうか?)まあ目をつぶれる範囲の問題です。人間と動物を区別できることが重要なんですから。

 

 しかし、近年この最後の牙城を崩す要素が、またしても科学の発展によって現れました。

 それは、人工知能です。人工知能の登場は、以前から人間性にとって危機なのではないか? と言われていましたが、特にここ数年の人工知能ブームを起こした技術革新は、人間性の定義にとって会心の一撃となりかねないものでした。

 ディープラーニングという言葉を聞いたことがあるでしょうか。あるいは、画像認識技術の発展についてのニュースを聞いたことは。

 あれらは人間の脳の機能に着想を得て、真似したことで、飛躍的に発展した技術です

 

 ということは、将来的に人間の脳を完全に模倣した人工知能というものが、現れるのではないでしょうか

 それに精神が無いと考える理由がなにかあるのか?

 

 しかも、汎用人工知能*9は間違いなく人間よりスゴイ。これは単純な話で、人間の脳は生化学反応で回路を作ってますが、それが全部光ファイバーだったらもっと速く動くに決まってます。

 

+空想の存在にさえ縋らざるをえない

人工知能と喧嘩をする人のイラスト

 こういう人工知能論に対して、人文学が持ち出してくるのがクオリアです。

 クオリアとは、よく「赤いという感じ」だとかいう判りにくい説明がされる概念です。我々の脳は電気刺激で動いているのであって、赤いリンゴを見たら赤いリンゴを見た電気刺激が脳に現れる。しかし、電気刺激は精神や思考自体ではない。「電気刺激によって、何か精神っぽい現象が起きた」その結果として、我々は赤い色を認識したのではないか? この、何かわからないけど引き起こされた現象をクオリアと呼ぶことになってます。

 

 人文学をかじった人たちは言います。「AIがいくら発展しても、脳は脳、機械は機械であるから、機械にはクオリアは宿らない。クオリアが宿らないということは機械は精神を持てない」だとか。

 これはちゃんちゃらおかしい主張です

 

 まず、そもそもクオリアという概念は脳科学が一旦持ち出したものの、よく考えたら意味なかったので捨てた考え方です。「神経細胞Aと神経細胞Bを突っつくと、同じように反応するんだけど、二つの神経細胞は違う役割を持っている。何が違うんだ。その違いをクオリアと呼ぼう」とか言ってたんですが、よく考えたら個別の神経細胞の役割の違いは神経間の接続方法に依存するのであって、クオリアなんて存在を仮定する必要はなかった。クオリアは脳機能の説明に要らなかった概念なのです。

 あと、クオリアを科学的に定義するのは不可能だったクオリアっていう概念はよく考えたら"観察出来ない"という内容を定義に含みます。神経細胞を見ても観察できないものがクオリアであって、観察できないものは科学では基本的に存在しないものとして扱います。だから本家の脳科学では、クオリアは無かったことになった。クオリアは、非科学的な概念でもあるのです。

 

 しかし人文学は、その捨てられた非科学的概念を拾い上げました。何しろ、この概念は科学では扱えないことが証明されているってことはどんなにいじくり回しても、こんどこそ科学がいちゃもんをつけてくることはないクオリアを持つのが人間だということにしてしまえば、二度と人間性は脅かされることはない。

 

 ……はい、こじつけですね。文系とはいえ仮にも学問が、事実をねつ造してどうするのか。

 クオリアは無いってことになったんだから、それはもう無いんです。確かに無いことは科学で証明できないけど、そんなこといったら妖精さんがこの世に居ないことだって証明できない。

 

 でも人文学はそれに縋るのです。

 妖精と実質的に同じ存在をもちださないと、もはや「人間だけが特別である」という主張ができないからです

 胡散臭いクオリア概念だけが、人権の根拠たりえる風に見えてしまうのです。僕は俗流クオリア論は批判したい側の人間ですが、しかしどうにか人権を守りたいという心意気は理解しないでもない。

 

+人権に根拠はあるのか、根拠が無いと何が起こるのか

養子縁組した同性カップルのイラスト(女性)

 まあしかし、いくら俗流クオリア論を振り回しても、事実は変わりません。

 「人権」はとっくに根拠を失っていると認めるべきです

 恐らく、いまフランス革命をやっても、人権宣言を再び成立させることはできないでしょう。人間だけに権利を認める、客観的・合理的な理由がない。

 かつてあると思われていた理由は、全部ウソだったことが暴露されてしまいました。

 

 今、我々が使っている「人権」という概念は、非常に主観的なものです。だからアニマルライツ運動のような、かわいそうだから権利がある、という論理がまかり通るのです。我々が普通の人権を守るのもまた、人権がないことにするなんて「かわいそうだから」にすぎない。我々は「かわいそうだから」発展途上国の人権侵害に憤るのであって、他に理由はありません。

 

 しかし、こんな主観的で、感情的で、客観的根拠が全く成立しない思想を、我々はいつまで正常に運用していけるのでしょうか? そのほころびは、すでにあちこちで現れています。

 

 僕自身の考えでは、人権概念はもう基本に立ち戻るしかありません。「人間だから」「理由とかなしに」「権利を認める」。人間が賢いからとか、人間に精神があるからとか、人間は思いやるべきだからとか、そういう全ての理由は余計な要素です。ただ人間でありさえすればいいという、フランス革命当初の理念を、もう一度決断するしかない。

 いわゆる人間賛歌ってやつっですね。

 たぶん「人権」は、そういう判断を、今まさに迫られているのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ここから追記〜〜〜〜〜〜〜〜

 

なんかバズりました。

一晩経ってまあまあ落ち着いてきたと思うので、そろそろいくつかブクマのコメント見てて気になったことを書いておきますね。

 

+なんか「根拠がなくなった」と僕が書いているのを「人権は無効になった」とか「人権は要らなくなった」と読んで怒ってる人が多いと思います。

 僕が考えてるのは、せいぜい「指針がなくなってる」までです。もちろん人権はなくなったりしないし、守る。

+自然科学は人文科学の概念に関係しねーよ、とか怒ってる方もまあまあいます。これは完全に反対させていただきます。

 自然科学から遊離した人文科学なんて、ただの空想です。少なくとも影響はあるよ。

+既存の人権に関する根拠論に触れてないことを怒ってらっしゃるかたがたもいました。これは、僕はそうした論を全て『人間に精神があるからだ』にまとめてしまっているからです。そう出来るし、したほうが良いと思います。

 例えばロールズの無知のヴェールについて触れてる人は複数いましたが、ロールズは「そのヴェールを被ると自分が人間かミトコンドリアかもわからなくなる」とまでは言いませんでした。多くの古典は同様に人間だけに対象を限定することを、無言で前提していると思います。そしてその揚げ足をアニマルライツにとられていると思います。

+クオリア論の起源の部分、調べてみたら確かに僕が勉強したこととWikipediaの記述が食い違っています(それしかみれてない)。もうちょっと追いかけたほうがよさそうです。ご指摘ありがとうございました。

+特に気になったのは、「根拠なしに人間の権利を認めることは宗教的に人間の権利を認めるのと同じでは」みたいな指摘。言われてみれば確かにそうで、だとしたら根拠なき人間性の肯定は可能なんでしょうか?

 僕が言ったのは、人権の根拠と指針がなくなってる、までですから、「なくなったこの先どうなっていく」までは考えが及んでないです。ただ強いて言えば、前記事で述べたように、人権を殴り棒をした争いが激化するんではないか?とかぼんやり思っています。

+「専門家なら人権が実在するとか思ってない。理想を追求したらより良い社会が実現できるという事に過ぎない」というコメントも面白いと思いました*10。なるほど、僕は確かに素人ですので、そこら辺の専門界隈の機微はわかりかねますし、僕が言うようなことは当然専門家は前提しているでしょう。

 しかし僕はひねくれものですので、二つの疑問を持ちました。第一に、だったら専門家はどうして僕たちに人権なんか実在しないと言わないのか。実在を信じてる活動家のほうが多いのは間違いないと思う。僕らはやはり人権思想に騙されているのか。第二に、人権を追求したら社会がよくなるのは本当か。こんな主観と客観がごっちゃになった欠陥思想より、例えば最初から主観しかない孔子の「仁」とかのほうがよくないか。

 おそらくは、専門界隈でも人権の扱いが混乱しているんだろうと思います。

+面白がっていただきもしたようです。

 毎度ありがとうございます。

 

 

 

*1:厳密には、自然状態と"生まれた瞬間"は違います。自然状態とは「社会に一切属していない状態」のことです。

*2:ちなみに社会契約説は、今では事実ではなかったとされています。人間はサルのころから群れを作っていたので、「自然状態の人間」などというものは存在しないはずだからです。社会契約説が架空の説だったことも、この後説明する展開に大いに関係します。

*3:無論これはキリスト教の神です

*4:人権の話をしてる都合上キリスト教のせいにしてますが、東洋でも動物のことは「畜生」と呼んでバカにしてた。たぶんこれは世界全体の常識でした

*5:教授がまた本当にいい人で、グドールさんを大学に入れたりしてくれたそうです。

*6:グドールの成果を最後まで認めなかったのは、哲学・人文学の世界だったと聞きます。生物学が動物の精神を当然と見做すようになってなお、哲学はそれを否定し続けたそうです。

*7:それはまさにグドールの登場から数年後のことでした

*8:僕は、菜食主義の流行は、20世紀倫理学の犯した重大な人間性への裏切りだと思う。動物を食べるのが間違いだと述べることは、人間の歴史全てを間違いだと述べたに等しい。倫理が人間を愛さなくてどうするのか。

*9:ちなみに「汎用人工知能」とただの人工知能は違います。汎用人工知能が普通の人が考える人工知能で、要するに話しかけたらなんでもしてくれるスタートレックのコンピューター。ただ「人工知能」といっただけだと、例えばExcelのマクロは人工知能の一種です。

*10:これは久々にみたら面白いブコメがついていたので遅すぎる追記です

ガキ使批判記事に見られた「人権」概念の変容

 今回は「人権」について書きます。

 なぜ人権について書くかというと、ハフィントンポスト記事の話題をTwitterで読んだからです。

 この件について、ハフィントンポストは批判されています。最も頷けた批判は、「エディ・マーフィーの真似をすることは、黒人を戯画化することとは違うだろ」というもので、僕もその批判に賛同するところです*1

 しかし、批判している皆さんは、自分が批判しているものについて、本当に理解しているのでしょうか? 「そもそも人権とはなにか?」ということを考えなければ、この記事から生まれる謎の不快感の正体を捉えることはできないと思う。

 この「人権」という一見批判しようもないように見える概念は、もともとかなり特殊で、不安定さを孕んだ思想です。しかも21世紀までに起きた社会情勢の変化は、もともとの不安定さを、潜在的な危うさと言えるレベルまで膨らませています。日本人は「人権」をあまりにも素朴に扱っていて、その特殊性や危険性に無自覚ですが。しかし、我々の目の前に今回のような批判されるべき記事が出てくるのも、そうした危うさ、最近の社会情勢や思想の変化をバックグラウンドとしているのです。

 ここでは僕の察知した「人権」についての事実を書いていきます。

 

+「権利」とは所有権のこと。所有権は常に侵害しあう。

ジェロニモの似顔絵イラスト

 人権について考える前に、「権利」についてはっきりさせておきましょう。

 権利という考え方は恐らく、そもそも所有権を考える上で生まれてきたものです*2

 しかも、特に土地所有権に関する問題が権利という概念を生み出しました。「我々が耕した畑であるからこの農作物は我々のものである」「先祖代々の土地であるから私が受け継ぐのである」。そういう一種素朴な観念が権利の始まりだったはずです。

 土地っていうのは、畑とイコールだから、それを占有できるかはまさに生きるか死ぬかの問題だった。ここで重要なのは、ある土地の所有権を主張するということは、他者がその土地を所有する権利を認めないことだ、という点です。土地境界線を確定したら、その線を侵犯することは何者にも許されない。

 権利が主張されるのは常にその土地を侵害する侵略者が現れたときです。そして、縄張り争いは闘争の起源です。古来より、戦争の多くは土地所有権をめぐって行われた。権利という考え方には、最初から「その土地を守るためなら戦う」という、闘争の論理が刻み込まれています。

 権利が持つのは闘争の論理であって、善とか優しさの論理ではないということです。法が権利を定めるのは、闘争を調停するためであって、みんな仲良くしたいからではありません。権利に厳しい文化を持つアメリカ人やイギリス人はこのことに非常に自覚的であって、よく知られる彼らはSorryと滅多に言わないという話も、権利を譲ることが、占有をあきらめ不利益を受けることに繋がると考えているからです。

 そして、平和の原理だと思われている「人権」もまた、例外ではなく、闘争を基本としているのです。僕がこのブログ記事で言っていくのも、最終的にはそれが全部です。

 

+架空の権利としての「人権」

イマジナリーフレンドのイラスト

 歴史において、権利は常に闘争と共にありました。

 例えば民主政治で数百年の平和を築いた共和制ローマですが、彼らは平民の参政権とか、貴族・大富豪から権利をぶんどって平民の小作農に配るとか、現代の左派政策に通じることをちゃんとやっていました。しかしそれらの平民の権利は全て、元老院と平民会の争いによって、平民が勝ち取ったものです。ローマ人は、善を知っていたのではなく、単に多数派が勝ったとか合理性が勝ったとか、それだけのこと。権利のために闘争し、勝ったから権利があるという。人類はずっとそれ一本でやってきました。

 

 それがひっくり返ったのがフランス革命の人権宣言です。これは本当に、いい意味でも悪い意味でも革命的なもので。なにしろ勝ったからではなく、人間であるから権利を認めるという。

 同時代でも、これがイギリスの権利章典だったら、それは「先祖代来受けついできたかつての良き法を取り戻す」という趣旨です。王が持っていたと言っているものも、遡れば臣民のものだったことがあるという、歴史と証拠に基づいた、ある意味では通常の権利闘争でした。

 フランス革命は、そういう歴史性を「権利」から意図的に切り離した。祖先が何をやっただとか、今までどういう戦いに参加しただとか、過去の行いが善人か犯罪者かとか、そういうことは「人権」では考慮されないフランス革命に参加しなかった人たちも権利があることにした、という言い方なら、この革新性が伝わるでしょうか。ただ人間でさえあれば、幸福を追求する権利が認められるのです。

 

 例えるなら、権利闘争に於ける徳政令なんですね。いきなり全員借金ゼロ!みたいな。フランス革命における歴史性排除は、今日でも、基本的人権のおおもとの考え方になっています。

 

 しかしここで注意を促したいのは、歴史を持たない人間など存在しないし、人間は歴史を考慮するものである、という点です。人間の感情は、当然のことながら、善人と犯罪者を区別するようにできています。「犯罪者であっても権利を認める」などという思想は、実に理性的であり理想的な反面、機械的で非人間的なものです人権派弁護士とかいうと、優しくて人間性を重視しそうに感じますが、意外にも彼が信じるのは原理原則であり人間性ではない。彼らはある意味で人間のことは見ていないのです*3

 よく知られるように、貧民を救うために世界で幾度か行われた徳政令は、大抵別の問題を伴いました。歴史性を無いものと見做し、広範な人類全体を救おうとした「人権」も同様に、大きな問題を孕むことになったのです。それは、現実の人間に即してない、ある意味で架空の原則であるということ。この問題は大抵の場合無視されますが、問題を無視しきれなくなる場合もしばしばあります。その最たるものが、人権侵害について論じる場面です。

 

+みんなが無自覚な「差別反対」の本質

人種差別のイラスト(黒人)

 さて、人権が問題になるのは、しばしば「差別」――とりわけ「人種差別」においてです。冒頭のハフィントンポスト記事も、人種差別を取り上げたものでした。

 しかし上で述べてきたことを踏まえると、人権の名のもとに人種差別撤廃する、という論理が、実は結構過激な主張であることがわかります。あらゆる権利は闘争にもとづき、他者の権利と対立するものであることを思い出してください。ある権利を認めるということは、他者にある権利を認めないこと、認めないという論理のもとに闘争すること。人権もまた、何か別の権利と闘争することで成り立っている。

 では人種差別闘争はどんな権利を闘争し、侵害しているか?

 それは「他人を自由に嫌う権利」です。

 よく考えたら、これは相当に冒険的な闘争です。他人の自由な感情を侵害しようというのです。うちの妻に「お前が人参を嫌いであることは間違いだ」とか言ったとしたら、相当機嫌が悪くなること間違い無し。それは人参でも黒人でも韓国人でも同じことでしょう。

 

 っていうか、そもそも思想信条の自由こそ、本来は人権が保証しているのではないでしょうか? にも関わらず、なぜ人種差別では感情の制限が認められるのか?

 それは、本来、人種差別の議論で問題になったのは「誰かが嫌われていること」ではないからです。例えば黒人差別では、黒人嫌いという感情が白人の親から子に受け継がれること、受け継いた白人の子が政府高官や企業社長を占めることが問題となります。そして、その政府や企業が黒人職員を採用しなかったり、白人と黒人の学校を分けたり、警察の対応を不平等にしたりした、という事実が問題でした。

 つまり、嫌っているという思想信条を禁止したのではない。その思想信条にもとに政府の政策が不公平になっていることを批判したのが、人種差別反対運動です

 これは”人権””のもつ歴史性を排除する考え方と完全に合致します。例えば警察の扱いの件には「実際黒人のほうが犯罪者が多いから仕方ない」という現場の反対はありました。しかし、人権とはそういう事実は考慮しない思想なのです。過去の黒人犯罪者がいくら多かろうが、人間は平等に扱わねばならないのです。

 人種差別するなっていうのは、別に黒人や韓国人が嫌いでもいいのです。

 ただ、採用試験のときに不平等な扱いをしないのなら、それでいい。

 しかしここで人権概念の架空性が問題となってきます

 

+感情を制限しているわけじゃない、はずだったが

ヘイトスピーチのイラスト学生運動のイラスト

 人権は架空性を持つ思想です。現実の人間とは乖離しています。

 ですから、人権思想にもとづいて内心の自由を制限しないけど公平な扱いをしますよ、とか言っても、そんなことは人間には不可能なのです。人間は本質的に歴史性を持つ動物であり、それを排除することはできません。

 黒人が嫌いな人に、黒人を平等に扱えと言っても、それを完全に履行するのは無理です。必ずどっかで何か不平等な扱いをします。これは、差別する側だけでなく差別される側にしてももそうで、「嫌われてるけど公平な扱いを受けている」なんて信じることのできる人間はいなかったのです。ですから、黒人を真の意味で社会が平等に扱うには、黒人を嫌いでいることを禁止するしかなかった。人種差別の議論は、参政権や教育機会の是正という公的要素の是正が済んだあたりから、徐々に感情の制限を求めるようになっていきました。

 

 この矛盾が、とりわけ強く噴出した問題こそ、最近日本でも議論が盛んになってきたヘイトスピーチ問題でした。

 ヘイトスピーチが問題となったのは、さる白人犯罪者の法廷報道からです。この白人犯罪者はとっても黒人嫌いでした。ですから、法廷を出たマスコミのカメラの前で、裁判や犯罪とは全く関係がなく、黒人はクソだという内容を叫び続けました。

 従来の人権概念からすれば、彼の発言や内心の自由は、彼が犯罪者であることや差別主義者であることとは何の関係もなく、人権のもと保護されているはずです。しかし彼は本当に黒人を罵っただけだった。「この発言の自由を守る必要が本当にあるのか?」みんながそう思いました。こうしてヘイトスピーチ=公共のもとで差別的な感情を吐露する自由は、制限されることとなった

 今でも、ヘイトスピーチ規制の議論では「本当に自由な発言や感情を制限していいのか?」という疑問が頻繁に呈されています。しかし、大抵は退けられます。なぜなら事実として傷ついている人がおり、事実としてヘイトスピーチは公的利益になっておらず、事実は"人権"などという架空の原理原則より重いからです

 

 ヘイトスピーチ問題は、だいたいが規制の是非としてしか語られません。しかしこれは思想的に見てそうとう革新的なことです。21世紀現在、人権概念は再び歴史性と人間性を取り戻しました。今や、かつてフランス革命が想定していたようなやり方で、機械的に全ての人権を保護することは許されないのです。”人権”は架空性という蛹から脱皮しようとしている。

 しかしそのことは、人権概念に大きな歪みを産んでいます

 冒頭のハフィントンポストの記事に現れているのは、その歪みなのです。

 

+人権侵害とは「社会的弱者を不快にすること」なのか

部下を怒鳴りつけている上司のイラスト

 ヘイトスピーチ規制の流れに見られるように、20世紀後半から21世紀にかけて、人権概念は「他者の感情を思いやること」を重視するようになりました。いわば人権概念は、人を愛することを思い出した*4。それは良いことのようにも思えます。

 しかし、思い出してください。そもそも権利とは闘争の原理であり、人権も例外ではありません。人権を侵害するものは、攻撃されなければならないのです。その人権が「愛」によって――言い換えれば「主観的感情」によって判断するようになった

 これは下手をすると主観的な感情によって闘争が起こることを意味します

 上記のハフィントンポストの記事がやっていることこそ、まさにそれです。

多くの日本人は「そんな過去は知らない」「そんなつもりは無い」と言うでしょう。

しかし、例えばアメリカ人が「ヒロシマの人の真似」と言って、焼けただれボロボロになった格好をして笑いを取っていたら、我々はどう感じるでしょうか?

 「どう感じているか」を基に、表現の自由とか思想信条の自由を制限することが、当然のことかのように、この記事の執筆者は言っている。これは人間性あふれる思いやりと見せかけて、相当に危険なことです*5。公的利益ではなく、ある特定の集団の趣味嗜好・感情傾向が、権利闘争の根拠となっていることに、この執筆者は全く無自覚です。無自覚に"人権"を侵害をしている。「無自覚な差別こそ問題」とか人に言ってる場合ではない。

 この理屈が通るなら、次のようなことも言えてしまう。社会的弱者が不快感を覚えるから言論統制をするべきならば、まさにこの記事が不快感を与えたせいでネットが炎上しています*6。この記事が多くの人に不快感を与えているのは事実だ。だからあの記事は削除すべきだ。

 そんなことが許されるのか。そして、許すかどうかより重要なのは——そういう問題があることに気付くことができるのか?

 

 最初に紹介したこの記事に対するTwitterの批判「エディ・マーフィーというキャラクターを戯画化することが、黒人差別を助長するとでもいうのか?」は、客観的な公的利益を強調したものでした。感情は知らんけど、客観的に言えば黒人差別の助長はないからいいじゃないか、という。そっちが本来の――古いタイプの、と言うべきか――"人権"だったはずなのです。

 しかし、そういった客観性が通用しない時代が、21世紀の今、訪れている

 社会的弱者が不快になるからやめよう、という主張が、一種の正当性をまとうようになっており、それは僕のようなひねくれものですら、こうして文章にしないとおかしさに気付けないほどです。

 

+ポリティカルコレクトネスで、臭いものに蓋

 ハフィントンポストは、ネット上の批判に反応したのか。この後、似ているけれど全く意味の違う記事をいくつか出しました。その代表がこちら。これなら僕も認める。

 実際の外国人の声が紹介されているのが、とりわけ素晴らしい記事です。中でも大きく大きく取り上げられているこの人の発言に注目しましょう。

「顔、容姿、特に皮膚の色で表現しようとするなんて、すごく繊細な問題だからやるべきではない」(白人男性・高校生) 

  やるべきでないのは、悪だからではありません。「繊細な問題だから」です

 最近はこういう「繊細な問題」を扱う方法を、ポリティカル・コレクトネスと呼びます。政治的な正しさ、という意味のこの単語ですが、言っていることは本質的にこれまで述べたのと同じこと。人権概念に人間らしい感情を復活させるという考え方です。

 考えてみてください。政治的に正しい、とはどういうことでしょうか? 有権者に嫌われないことこそが、政治的な正しさなのです。つまり、有権者の感情に配慮すること……客観的理性的な正義はおいといてでも、有権者の感情に配慮することが、ポリティカル・コレクトネスです*7

 ポリコレを積極的に擁護する主張は、しばしば正しくないと馬鹿にされるが、それも無理のないことなのです。だって、ポリコレは客観的正しさじゃないから。感情に対する主観的配慮こそ、ポリコレの本質であって、原理とか原則みたいに扱うと必ず間違うことになります。ルールじゃないのにルールみたいになるので、ポリコレ嫌いを公言する人も多いです。

 しかしポリティカル・コレクトネスは、どうにかして世に広まる人々の感情を調停する手段としては有用です。政治的な正しさを目指すからには、例えばネトウヨ諸君の「そうはいっても韓国人は嫌いである」という感情にも配慮はするはず。理想的なポリコレにおいては、韓国人差別のヘイトスピーチを制限はするかもしれないが、同時に積極的な韓国人宣伝表現も否定するでしょう。

 後から紹介した記事で紹介されている外国人の発言も、そういったポリコレ教育が大変に行き届いているといえます。「我々は別にコメディを思想統制しない」「しかしあれは不快に思う人が確実に出る」「だから明確な意図なしにやるのは自重したほうがよいだろう」。それなら僕もだいたい賛同する。難しい時代になったとは思いますが、他人を思いやるってのは元来難しいことでしょう。そして、そういう教育が日本で行き届いてない、という話には、同意するしかない。

 

 ただし、ポリティカルコレクトネスは、本質的になんの解決にもなっていない、ということには、改めて注意を促したいと思います。ポリコレが言うのは、主観的感情と主観的感情が対立するのは当たり前だから、全ての矛盾を全部個別に調停するということです。つまり、実質的になんの矛盾も解決していない。かつてのような客観的な判断基準ではないし、単なる「気を付けよう」という注意喚起にすぎない。

 人権概念に感情を復活させたことで噴出した矛盾を、「ポリコレの徹底が大事だね」とかで解決するかのように扱うのは、まさに臭いものに蓋というものです。蓋をしても矛盾は消えたりしない。人権という思想の大黒柱が腐っていることは、変えようのない事実です

 

+単なる思いやりとしての「人権」は成立するのか

オリーブの枝をくわえた鳩のイラスト

 ハフィトンポストで炎上したあの記事が見せたのは、思いやりだと思って行った正義の批判が、実は必ずしも正しくないし、別のだれかを傷つけかねないものだったという、ある種当たり前の事実でした。

 左派の皆さんはもっと、自分たちが「正義の戦争」を批判していることに自覚的であるべきです。自分が絶対的に正義であると思うときほど危うい。

 しかし僕は、あの記事に現れたような、素朴すぎるほど素朴な感情への配慮、それが無価値だとも思わないのです。人権概念は揺らいでいますが、人類普遍を救済したいという理念は、依然として価値を持っている。あの記事を書いた人は、黒人をいたわろうとした。そういういわたりの道にヒトを導いてきたのが「人権」という概念だったのも、また変えようのない事実です。

 単純で、素朴で、この弱者は傷ついているから救わなければならないとシンプルに考えることができる、そうした「人権」という概念は、この先もつつがなく運用していけるのでしょうか?

 

 それにはもしかしたら、皆が人権に起きている揺らぎを知らないほうがいいのかもしれない。不信感が広まるよりは、無自覚であったほうがましなのかも。人権が完全な善だという信仰を持っていたほうが。

  しかしそれでも、言わずにはいられなかったのでした。

 人権って、君たちが思っているのほど、絶対的な善の概念じゃないから。

 このような記事はまったくポリティカルコレクトネスに反しているといえます。政治的に正しくない。利益とか平和を求めるなら、こういう発言はやめたほうがいいですよ。しかし僕は利益を求めないので書いた。

 

 

 

追記:この記事で語り切れなかった人権概念の揺らぎについて、別の記事を書きました。人権という概念の当初の根拠は無効になってしまった、という話です。

gentleyellow.hatenablog.com

*1:念のため述べておきますが、なんか個人コラム的な記事だし、ハフィントンポスト本体に責任があるかは微妙です。あと、ハフィントンポストはこの記事のあと、もっと事実紹介に沿ったマシな記事を出しており、僕はそちらの論調にも概ね賛同するところです。記事の最後に紹介します

*2:権利の起源とかいうと、教科書ではジョン・ロックがどうとかいう話になりますが、それは権利思想の起源であって、権利は紀元前からありました。確かなことはいえないので"恐らく"という言い方になりますが。

*3:もちろん非人間的であることは正しくないことではない、という点はちゃんと留保しておきたいと思います。

*4:本当はここで、アドルノの「痛み」に関する議論を引こうと思いましたが、あまりにも理屈っぽくなりすぎるので控えました。

*5:っていうかたぶん、人間性っていうものが本来危険で、公平とは程遠いものなんでしょう。

*6:これは全然関係ないですが、左派の方々がネトユヨを社会的弱者の敵として扱うのは理屈が通らない、と常々僕は思っています。ネトウヨになるのは彼らが社会的に弱者で貧乏だからだ。それは統計的にも思想的にも明らかです。

*7:実は僕はポリコレについてはまだそこまで詳しくありません。今のところこういう理解ですが、あとから勉強して修正するかもしれません

なぜ人は「積読が無駄」という勘違いをするのか

 今回は積読について書きます。

 なぜ積読について書こうと思ったかというと、今日たまたま「積読している自分を反省する。計算ができずに無駄遣いをしている」という旨の読書ブログを読んだので。いや、読書ブログやってて積読が無駄使いとか意味がわからない

 あるいはまた、友人がある時○○というちょい高めの本を買うか悩むと言う。僕は言った。「迷わず積めよ、積めばわかるさ!」。でも彼女にはそれは難しいらしい。なぜならば今の新居には本棚がないから。読書好きなのに本を積むところがないなんて大変なのことでは? 元気ですか!?

 積読はいいことです~なんて記事言説は、正直言ってネット上どころかネット以前から溢れています。それについて俺が新たにどうこう言うことはない。ただ、だからこそ読書好きにすら積読に忌避感があるのは変なことのように思えるのです。積読が悪くないないという言説は溢れるほどなのに、なぜ積読が悪いことだと思うのか」ということについて考えをめぐらせているうちに、いくつかこれじゃないか? ということを思いついたので、ここに書いておくことにしました。

 そこには現代社会の構造がもたらす文化・思考様式があるように思われます。この記事ではその問題について、仮説という名の放言を書いていくつもりです。

 

積読が良いことである理由

本棚から本を出す男の子のイラスト  積み重なった本のイラスト

 まずは、積読が悪いことではない理由を再確認しておきましょう。これは先述通りこれまでさんざん述べられている内容で、ちょっとネットを探せばより詳細な内容が簡単に見つかるものです。

 

  • 本は買わないと手に入らなくなる
  • 買わなかった本のことは忘れてしまう
  • 本には持っているだけでプラスになる面がある
  • 本を買うことは買い支えることに繋がる*1

 

 まず真っ先に思いつく理屈は「買っておかないともうその本は手に入らない」です。本は腐らないのでいつでも手に入るような気がしますが、実は全くそんなことはありません。アマゾンと電子書籍の現代においてすらです。僕はつい先日も、欲しい本をネットで注文しようとしたらプレミアで万の値段になっていて、絶望しました。プレミア系なので電子化も絶望的です。

 例え在庫が払底することがなくても「そもそも買うことを忘れてしまう」という状況も頻繁にあります。ネットで検索すれば判ることでも、検索語を忘れてしまえば二度と判らないのです。僕にも昔からずっと探している本があるのですが、タイトルをすっかり忘れているので、いまだに見つけられておりません。

 学術・実用書を中心に「本棚にあるだけで知になる」という考えもあります。人間の知には外部性という特徴がある。例えばものさしを使えば人間はミリ単位でものの長さを測れますが、これは「ものさしを持つ人間にはミリ単位でものを測る能力があること」を意味します。脳の中にあるものだけが知恵や知能じゃない。脳の外部にも能力や知識は保有されているのです。つまり本をたくさん持つ人間はそれだけ多くの知識を持っていると言える*2。あと、これはその人の生活にもよりますが、本棚に本が並んでるだけで刺激になるとかも言いますね。

 最後に少し方向性がかわるのは「好きな作品を買い支える」という話。積読をするからには読まないとしても買っています。買ったということは、その素晴らしい本の作者にいくばくかの収入とモチベーションをもたらしたということです。貴方が本を買わないならば、その素晴らしい本の作者は2作目を書かない可能性がある。好きな作品を買い支えるという消費は、今ようやく日本でも広まりつつある気がしますが、もっと広範に行われるべきです。

 

現代社会が積読を否定したがる理由4つ

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 以上のような事実が、積読を擁護するために頻繁に指摘されている訳です。

 しかしどういう訳だか、この手の言説は積読否定者たちの心に実感として届かず、積読は無駄づかいだなあ、という事実に反する感想が相変わらず胸の内を占めているようです。それはなぜなのか? 彼らにあるのはなんなのか?

 いくつか仮説があるので、先に全部確認しておきます。

 

  1. 消費社会の文化様式
  2. 暗記を重視する教育の弊害
  3. 文学という分野の衰退
  4. 経済に関する直感的すぎる理解

 

 なお、実はこの仮説には最も有力なゼロ番があって、それは「0.本に興味がないから」というものです。本が好きじゃないので、本を買うことを感情的に肯定できない。読みもしない本をまた買って、とか妻がまた愚痴る。うるせぇ、年に数度も使わないバッグや帽子を買うんじゃない。あ、いやすいません。そうじゃなくて、そこはお互いに踏み込みすぎないようにして趣味のぶんのお金は確保しておこうね。

 この記事では、あくまでも本が好きなのに積読がダメな気がする、という状態を問題にします

 

+仮説1:消費社会の文化様式

インテリアコーディネーターのイラスト(女性)

 この現代は消費社会です。

 ここでいう消費社会というのは、通俗的な理解による"いっぱいゴミを出しちゃう無駄の多い社会"のことじゃなくて、消費することが社会に属する条件になっている社会のことです。ジグムント・バウマンとかアンソニー・ギデンスとかが言いました。

 例えば、社会の上流階級の存在であると周囲のメンバーに認知されるためには、上流階級にふさわしい服を買っていないといけません。ハリウッドセレブであるためには、派手なドレスを着てベンツでパーティー会場に赴く必要がある。即ち、派手なドレスとベンツを買える消費者であることがハリウッドセレブである条件なのであり、例え借金まみれで役者としてのキャリアが微妙でも、ドレスとベンツを買っている間はハリウッドセレブであると見做されるのです。セレブの逆の例としてホームレスがあります。ホームレスであることとは「家や服を消費できないこと」であり、それ故に彼らは普通の社会に属していないと見做されます。現代というこの消費社会では、どういう消費をするかが、その人の属性を決定するのです。

 これは別に、そういう極端な階級の人に限らない。普通の市民であるかどうかにも、消費内容は大事です。「かしこい消費」をするかどうかが、自分が「かしこい市民」であるかどうかを決定づけます。「かしこい市民」でいることは、自分がこの社会で受容されているという満足感をもたらしてくれます。雑誌に載っているセンスのいい買い物をするのが「かしこい市民」。テレビで紹介された100均の便利収納グッズを買うのが「かしこい市民」。オシャレ雑貨屋で素敵なインテリア小物を買うのが「かしこい市民」です。

 翻って、読みもしない本を買うことや、大量の本で棚を占有することは「かしこい市民」の行動とはいえません。だってインテリア雑誌のオシャレな部屋はそんな風になっていないから。部屋の空間を背の高い本棚で埋めると圧迫感がでる、などという、昔の人は考えもしなかった価値観を雑誌とワイドショーが配信し続けています。本を買ってもいいが、それは読み終わったら断捨離するか、売って別のものを買う足しにするかするのが「かしこい」というだと雑誌は言っています。

 本を買って積むような消費形態は「かしこい市民」という望ましい社会階層から除かれる恐怖を伴ってしまうのです。

 個人的には、本当に賢く合理的な人間は社会の要請ではなく自分にあった生活様式を自分で選ぶと思いますから、読書好きならば上で述べたような積読のメリットを享受すべきだと思いますが。しかしまあ、積読的な消費がダサイとみる文化がいまの社会にあるのは確かです。

 

+仮説2:暗記を重視する教育の弊害

本棚・書棚のイラストf:id:gentleyellow:20171217152701p:plain

 上の積読のメリットを挙げた項で、知が外部性を持つことを述べておきましたが、これがどうも一般に広まってない。

 どうも現代人には蔵書と保有する知をイコールで結ぶ認識がない

 アインシュタインが自分の電話番号を覚えなかった逸話などは有名なのに、その核心部分「電話帳を持っていることは無数の電話番号を暗記しているのと同じ」が、なぜか自明と見做されてない。いやむしろ後退しているかもしれません。僕のおばあちゃんの時代までは、一家に一冊広辞苑といわれていたし、書斎と蔵書があることは知があることだったはずです。

 広辞苑が消えたのはインターネットができたから? 確かにそうかも。でもネットに関する言説で"インターネットに書いてないことが沢山あるから本を読みなさい"とか言うアレ。あれなんか本当は「インターネットに書いてないことが沢山あるから蔵書を持ちなさい」であるべきだ。ネットが完璧でないのと同様、僕らの記憶力も完璧じゃないんだから。

 なぜ蔵書を知とみなせないのか? それはたぶん暗記したことだけが保有する知であるという間違った印象を日本の義務教育が与えているからではないでしょうか。学校のテストでは、暗記していない知識は持っていないものとみなされる。きれいにまとまたノートを持っていることや、参考書のどこに求める情報が書いてあるか知っていることは、知識を持っていることとはみなされないのです。実用上はそちらのほうが余程大事に違いないのに。

 いや、暗記教育に意味がないとは言いません。すぐに知識を思い出せるということは、思考速度に直結する。しかし、だからといって暗記していない知識を知でないと見做すのは問題でしょう。そういう認識だから、「難しい本を読んでもどうせ忘れるから無意味ね」とか「もう二度と読まないであろう本を置いておくのは無駄だな」とかいう間違った結論に飛びつくのだ。

 蔵書、イコール、インテリジェンス。そのことを改めて確認したおいた方がいいと思います。そして、それができていないなら、積読と無意味を結び付けてしまうのも無理はないのかもしれない。

 

+仮説3:文学という分野の衰退

小川未明の似顔絵イラスト

 最初の序文で述べた、積読を反省してしまう読書ブログ、あるいは家に本棚を置かない読書好きの友人、彼らに共通しているのは主な読書がエンタメ系の小説作品に限られるということです。積読を反省とかしてしまうのは、読むものが娯楽作品だからなのかもしれない積読を擁護するのはたいてい学者だったりするし、実用書以外は積まなくていいと思ってしまうのか。しかし、なぜ娯楽作品だと蔵書を持たなくてもいい気がするのだろう?*3

 理由は恐らく文学という分野が無効となり、エンタメと実用知が明確に分離してしまったからでしょう

 かつて「文学」は作品ジャンルではなく、文字通りの学問でした。なぜフィクションを読みこむことが学問足りえたかというと、ざっくり言えば、文学作品を読むことは人生を経験することだったからです。人生経験が無意味な訳ありませんよね? 文学作品とは、読者に人生経験を積ませるものであり、それは研究に値するもの。実用に値する価値を持つものでした

 ところが現代になってフィクション作品は「研究価値のある(と偉い人の考えた)文学」と「ただ楽しいだけのエンタメ」に分かれてしまいました。原因はいろいろあるんでしょうが、僕には何とも言えない。強いていえば、変わったのは作品や社会ではなく蛸壺化していった文学者たちだったのだろうと思う。それが悪いことなのかどうかも分からない。ただ、そういう経緯があったせいで現代人は自分たちが読んでいるものを「文学ではないので実用上の価値がない」「人生ではなくただのフィクション」「娯楽になってもそれ以上の価値はない」とどこかで考えています。

 しかし、それは本当でしょうか?*4 かつてシェイクスピアが人生同等だと見られたことがあるならば、今僕が読んでるラノベだって人生同等とではなかろうか。記念写真のアルバムを捨てることを躊躇うのに、エンタメ本を捨てるのを躊躇わないのはなぜなのか。かつて、ほとんど初めて文学性に触れたあるオタクは言いました。CLANNADは人生。それは皮肉交じりに言い伝えられている名言ですが、僕が断言しましょう。CLANNADはガチで人生だし、他の作品も人生なんですよ。この人生は読まないから無駄なんて話は全く受け入れられない。

 そう考えたら、積読することは、未来の人生経験にむけた可能性を確保していることに等しいと言えるんじゃないでしょうか。

 

+仮設4:経済に関する直感的すぎる理解

ケチのイラスト

 ここまでは積読のメリットが理解されてないという話をしました。でもやっぱり、気は進まないけど、積読のデメリットにも言及しないと流石にアンフェアかもしれない。

 積読をすることの最大のデメリット、それはお金がかかるということです。読むぶんだけ買うのと、読めない分まで買うことでは、当然のことながら前者のほうがコストが安い。だから積読をすることは、お金の無駄であり、お小遣いの無駄遣いである。いや、ごもっとも。流石にそこを否定することはできそうにない。コストの問題は積読擁護派にとって、アキレウスの踵ジークフリートの背中の葉っぱ、GACKTの格付けヤラセ疑惑にあたります。だから気がすすまんと言ったんだ。

 しかし、敢えて、否定はできないという前提の上で、もう一度考えてみましょう。積読にかかるコストを、節約=善という素朴すぎる経済感覚に基いて計算してやしないか。

 もしも貴方が日々の暮らしにも事欠くような給与で暮らしているのならば、たしかに積読は勧められない。しかし少なくとも今まで積読をしていたのならば、貴方の給料は積読ができる程度にはあるはずです。となれば、積読をしているとしてもいいはずです。なんといっても、積読は未来に読む本を買うこと、いうなれば将来への投資。ただお金が財布にあるより、投資したほうがいいというのは、賢い経済行動の基本です

 いえ、さすがの僕も積読がリターンの大きい投資行動だとまでは申しません。申しませんが、じゃあ貴方は積読を止めたお金で何を買うつもりなのか? 本を買わなくなった金で定期預金を始めたり、個人年金のランクを上げたり、英会話教室に通ったりするとでも? きっと僕なら、コンビニ弁当をの代わりに2000円のランチを食べて節約した金を使ってしまう。もしそうするなら、積読のデメリットの代わりに別のデメリットが生まれるだけです。しかも2000円ランチは全く将来の投資とはいえない。

 だったら読書好きらしく、好き放題積読したほうがいいと思います

 あるいは、それでも積読をやめて金を何か別のマシなことに回したいなら、おすすめの使い方があります。積読を止めて数万円を節約したら、天井まである本棚とドキュメントスキャナを買おう。そういう将来的なビジョンができてから、初めて積読をやめればよいのです。

 

+心おきなく積読しよう。あと消化しよう。

読書の秋のイラスト(男性)

 以上、4つの仮設を述べることで、なぜあの人が積読を悪いことだと思っているのかを考えました。

 ……積読している自分のための擁護を精一杯述べただけだともいうが……。

 ただ、例えここで僕が述べたことが自己弁護にすぎないとしても、積読に捨てがたいメリットがあるのは厳然とした事実です。そして、もし上で放言した仮設の形にしたような考えを貴方が持っているならば、貴方は積読のメリットを過小評価しているかもしれない。

 先日、「積読しなくなる状態とは、読書欲が衰えている状態のことだ」という趣旨の発言をSNSで拝見しました。我々読書家にとってそれは、生存欲求が衰えていることだ。僕は目が見えなくなったら自殺するかもしれないと真面目に思っているし、他の読書家もそうだろうと真面目に思っている。我々にとって読書するとは生きることです。生きるのを欲望するのは普通のことだ。

 即ち、積読するのは普通のことだと言えます。心置きなく積読をしていこうじゃないですか。

 

 あとは、まあ、できるだけ積読は消化したほうがいいよね。もちろん

 

 

*1:なお「買うという楽しみを得た時点で役割が終わっている」とか「コレクションである」という積読擁護論は、広範な理解が得られそうにないので省きました。

*2:だから蔵書を捨てるのはやめた方がいいですよ。それは自らの知を捨てることです。場所がないなら考えるべきは、ドキュメントスキャナか本棚を買うことです。

*3:書きながら、たった今自覚しましたが、こう言っている僕ですら大量のライトノベル蔵書をうっすら無駄と思っていたようです。自戒が必要だ。

*4:ここから詭弁に入っている自覚はある。反省はない。

夜神月のクソさは「レイ・ペンバー殺したじゃん」とかいう問題ではない。

 今回はデスノート夜神月について書きます。

 なぜ今更デスノートかというと、その行動の評価について「犯罪率下げたけど、レイ・ペンバー殺したからダメだよ」とか「終盤保身に走らなければよかったんだ」とかいう言説がけっこう見られる、というか、僕が探したらそういう評価が主にネット上にのさばっていたからです。

 個人的に、フィクションの話であることを差し引いても夜神月がやったことは悪であり許されないという理屈や評価が一般に広まりきっていないというのは、これは納得いかないところがあります。レイベンパー殺さなかろうが、最後の死に様で保身に走るような無様を晒さなかろうが、夜神月はクソ行為をしたクソ野郎です

 それが賛否両論みたいになってしまうのは、漫画デスノート夜神月が何をしたのか? を分析するのに現実の社会に関する知識や視点が欠けているからです。

 この記事では、漫画デスノートの社会で実際に何が起こったのか? について、僕の知識と分析を書いていきます。

 

 

+キラがしたのは悪人を裁くことではない

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 最初に述べる点がもっとも重要だと思います。

 夜神月は自分=キラが犯罪者に裁きを下したと思っています。自分でもそう言っていますし、一部のキャラからそう思われているという表現も漫画に出てきます。でも実際に裁きを下しているのはキラではありません。

 犯罪者を裁いているのは警察です

 キラはテレビの犯罪報道、あるいは警察の偉い人である父のパソコン等を見て、逮捕されたという情報のあった犯罪者を殺害します。そうです。既に逮捕されているのです。放っておいても裁きは下りました。懲役とか罰金とかいう形の裁きです。

 当時高校生だった月クンはそういう既存の裁きでは不十分だと感じていたので、デスノートを使って犯罪者を死刑にすることにしたわけです。懲役や罰金で済んでいた犯罪を、死刑に変える。これは一般に厳罰化といわれる政策です。

 つまりキラがしたのは「刑罰を許可なく厳罰化し、死刑にする」という行為でした

 

+月くんはデスノートを「面倒だから」使った

 言うまでもないことですが、刑の厳罰化は別に普通の人間にもできます

 政治家になって圧倒的な権力を得て国会で議案を通して、犯罪者を死刑にするという法律をつくればいい。実質的に無理ということをさておけば、原理上はデスノートなんか使わなくても可能なことです。歴史上でもポルポトとかは普通に近いことをしました。

 だから月くんの「厳罰化のためにデスノートを利用する」という行為は、所詮高校生だった彼は自分でも判ってませんでしたが、要するに権力を手に入れたり政治家になったりするのは面倒だからという意味でした。

 月くんが自分で考えるほど超絶天才で社会的に成功が約束された存在でキラの政策が社会に貢献するのだったら、警察庁長官の息子で東大卒の経歴を引っ提げて自民党から選挙に出て、総理大臣となり、独裁を実現すればよかった。

 逆に言えば、キラはそれをしないで法律を変えちゃった。

 キラが殺したのは、実は犯罪者ではなく議会制民主主義だったのでした。

 

+キラの行為は凶悪殺人鬼への恩赦に近い

「デスノ ふざけるな」の画像検索結果

 まあ、原理的にデスノートなしで可能とはいったものの、現実問題、国会でキラがやったような厳罰化法案を通すのは無理です。だからデスノート意味なかったみたいにいうのは、さすがに言いすぎかもしれません。

 でもなぜ無理なのかな? 理由はもちろん、皆が賛成してくれないから……なぜ賛成しないのか? 愚民どもは月くんよりも頭が悪いから、デスノートを使うしかないのかな?……もちろん頭が悪いのは、無知な高校生だった月くんのほうです。大人は月くんの考える通りにする事の何が問題なのかちゃんとわかってます。

 気軽に犯罪者を死刑にすると、いろいろ問題はあるですが、恐らく一番大きな問題点は罪と罰にはちゃんと「量刑」をつけないといけないということでしょう。ハンムラビ法典の時代から、法律は「目を潰したら目だけを潰してそれ以上のことはしない」と決まっています*1社会の安定と公平のためには、罪の大きさがイコール罰の大きさでなければなりません。これを罪刑法定主義といいます。

 ところで死刑には、それ以上大きな罰を設定できないという特徴があります。二回スピード違反をしたら二倍の罰金を課せばよいのですが、二人の人を殺したからといって二回死刑にすることは不可能なのです。罪刑法定主義の観点から言えばこれは不都合です。なので、現実に死刑を実施している国では、死刑は最大の罪に対する罰とされています*2。例えば日本では複数人以上殺した罪人が死刑になります。罪の大きさがカンストするので、それ以上は全部死刑という意味です。

 ところがキラは比較的軽い犯罪を犯した人からいきなり死刑にしました。これは、大量殺人鬼と軽犯罪犯の罪は同価値であると宣言したことになります。

 これが問題にならないわけなくて、例えば「俺は盗みを犯してしまったからもうどうにでもなれ好き放題強姦してやる」みたいな自暴自棄犯を生んだり、最悪の場合「俺は殺人したけどもっと軽い罪と程度の行動だからそれほどに悪くないよね」みたいな価値観を醸成する恐れすらあります。でも何よりの問題は、法の下の平等や公平といった価値を損なっているという点だと思います。倫理が破壊されている。

 月くんはキラを正義の執行者だと思ってましたが、実は凶悪犯の罰を相対的に軽くした、正義を破壊した悪の擁護者だったのです。

 

+キラは大量の冤罪者と間接殺人者を生んだはず

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 気軽に犯罪者を死刑にした場合の、もっと判りやすい問題点として死刑にすると冤罪に対処できないという話もあります。

 なにしろ一度死んだ人間を生き返すことはデスノートにもできません。

 冤罪被害の議論は、現実の死刑問題でもしばしば死刑反対の協力な論拠として挙げられます。よくテレビを見る人なら「かつて死刑の判決を受けたアメリカの死刑囚がDNA鑑定普及の結果、再審やり直しで無罪になった」みたいな実話*3を見たことがあるかもしれません*4。最重犯罪に限っている現実の死刑についてすら冤罪が問題になっていて、判決後長い留保期間や再審請求の機会を確保してあるのに、テレビを見て気軽に死刑かどうか判断していた人間が間違ってないわけがない。キラのせいで冤罪被害を受けたまま死んだ人が確実にいるはずです。

 更に言えば、犯罪報道に載ってしまうとキラに殺されるということはみんなが知っていたのだから、わざと殺したい相手に冤罪をかぶせるというタイプの殺人もあったに違いありません。キラの逮捕が不可能だった以上、そういう殺人者は物語終了後も野放しになっていたでしょうね。

 

 

+キラは司法権をマスコミに投げ与えた

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 百歩譲って、月くんがそういう「即死刑政策」の問題点を把握しており、それでもなおやるべきだという決意のもと行動に移したのだとしましょう。しかし、恐らく月くんが意図してなかった上に実際に漫画の中でも描写された問題があります。マスコミの暴走です。

 あれは月くんがとった行動を考えれば起こって当然の出来事でした。

 なぜかというと、キラは基本的にマスコミの犯罪報道を見て死刑を実行していたし、社会の皆もそのことを知っていました。ということは誰を死刑にするかはマスコミが決めていたし、マスコミの中の人もそのことを知っていたということです。ていうか途中からはキラ自身がさくらTVの保護を公然と周知し、司法ではなくTV局への報告を推奨しました。

 言うまでもなく「誰を死刑にするか決められる」というのは、相当大きな権力です。現代では普通は司法権として、大統領や総理大臣からすら分離されている権力で、最高裁判所の裁判官のような、注意深い選別と安全措置をとってやっと与えられるものです。キラはその絶大な権力をいきなり、よく知らないマスコミの人に与えたことになります

 案の定、いきなり強大な権力を与えられた人がマトモでいられるわけがなく、そうして「嫌な奴」から「暴君」になってしまったのが出目川Pというキャラクターでした。後にキラ自身*5も見るに堪えないという理由で彼を殺しましたが、どう考えても出目川Pの暴走を生んだのはキラでした。

 彼はなにかにつけて死刑制度の運用が無思慮すぎる。悪であることよりも頭が悪いことが問題です。松田をバカ野郎とか罵っている場合ではない。

 

 

+「犯罪率下げた」とかで勝ち誇らないでください

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 しかし更に千歩ほど譲って、夜神月くんが出目川P暴走のような事態すら折込済みで、ただただ社会を良くしたいという正義感から行動したのだとしましょう。漫画デスノートでは明確に「キラの出現によって犯罪率が下がった。キラの消失によって犯罪率は戻った」という描写がされています。だからキラにも一面の正しさはあったと言えるんじゃないのか?

 これについては二つの考え方があります。

 第一に、別にキラのいない現代日本でも厳罰化は進んでいます。言われれば皆判ると思いますが、2000年と2007年には少年法の改正による低年齢化、2009年には道路交通法改正による飲酒運転点数増加などがありました*6。もしもデスノート世界でも現代日本と同じ出来事がおこっているのだとしたら、キラが何もしてなかったとしても厳罰化の流れはあったと思われる。キラの出現によって犯罪率が下がったのだったら、キラがいなくても厳罰化で犯罪率は下げたんじゃないでしょうか。

 第二に、これはフィクションに対して言うのも何なんですが、実際には厳罰化による犯罪率低下は、起こらない・または効果が薄いと思われる。既に述べたように、犯罪を抑止する目的での厳罰化は別にデスノートでなくても可能です。そして、実際にやりました。その結果、専門家の議論はだいたい「厳罰化による犯罪抑止効果は限定的だったよね」という結論になっています。

 例えばアメリカでは1970年代からずっと少年犯罪の厳罰化を進めていましたが、近年も銃乱射事件の報道をよく見るように、十分な抑止効果がないどころか下手すると悪化しています。他に有名なのはNYのゼロトレラント政策で、犯罪率は確かに下がったもののそれは他の施策による効果が主だったとされています。

 厳罰化に犯罪抑止効果が少なかったのは、後知恵ですが、考えてみれば当たり前でした。だって犯罪後の結果について十分な思慮を働かせる余裕や知能がある人が、罰金100万円の犯罪を実行する訳がないだから罰金を止めて死刑を採用しても、そいつは思慮を働かせることなく犯罪をします。犯罪っていうのはほとんどの場合、衝動的かつ軽率に行われるのであって、デメリットでかいからやめようみたいな合理的期待の効果は薄いと思われるのです。

 というわけで「キラが犯罪率を下げた」というストーリー上の描写すら、ちゃんと考えるとどうやら怪しいのでした。

 

 

+キラが成し遂げたことってなによ?

 まとめます。

 

  •  キラは悪人裁いてる気取りだけど実際やってるのは警察。
  •  キラは全くの無思慮で日本の政治システムを破壊した。
  •  キラの存在はむしろ多くの悪人を生んだ恐れがある。
  •  キラの恐怖は現実ならたぶん犯罪率を下げたりしない。

 

 という訳で、夜神月くんは自分(と一部の読者)が思うよりはずっと悪いことをしているし、逆に良いことは全くしていないです。

 というか些細な記憶力や計算能力で天才設定が演出されてますが、そもそも発端の「悪い奴を死刑にすれば世界はよくなるよね」という中二病発想は大学受験の時期になって言いだしている上、その考えを東大*7法学部に入り、司法試験に合格してまでまだ捨てていない訳です。司法の勉強が身になってないにも程がある。はっきり言って相当頭悪いです*8

 こういうことを抜いて、キラが明確に何かを成し遂げたことといったら、たぶん社会的ムーブメントを作り出して最終的にキラ教団を作ったことじゃないでしょうか。あれだけは、ちょっと否定しようのないストーリー中における明確な成果だと思います。無から有が生まれていますからね。

 デスノート無しで教団を作ったぶん、大川隆法のほうが格上ということになりますけども。

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*1:『目には目を』の復習法とは『俺の目を潰した相手は一族郎党皆殺しだ!』みたいな無法者を王が止めるために制定されました。

*2:この点は実は現実世界の死刑に関する議論でも問題となります。公平性や法的整合性の観点から言えば、人を一人殺したら懲役50年、二人殺したら懲役100年と加算していって、大量殺人鬼には懲役1000年みたいな数字を例え非現実的でも設定したほうが良いという考えがあるのです。

*3:だいたいこういのは月曜日のビートたけしの番組で紹介してました

*4:折しもデスノートを連載していた2000年代はDNA鑑定の普及で過去の冤罪被害が何件も明らかになっていたころで、この手の議論が大いに盛り上がっていました。月くんは犯罪被害に興味があるくせに当時のホットトピックすら把握してなかった、と言えるかもしれません。

*5:この時は魅上でしたっけ

*6:ちなみにこの日本の事例ですが、少年法改正については今のところ目立った効果は見つかりません。あと飲酒運転については減りましたが、罰の大きさが変わったせいというより、改正に伴って進んだ代行業者の普及や飲食業界によるハンドルキーパーキャンペーンのほうが大きいのではないかと思われます。

*7:東応大学でしたっけ

*8:なおこの記事は行きがかり上、原作者・大場つぐみ先生が政治思想に無知であることを責めてると取られてもしかたないですが、面白さにおいて圧倒的な作品を作った原作者を、僕は100%リスペクトしている旨をここに明言します。