なぜ人は「積読が無駄」という勘違いをするのか
今回は積読について書きます。
なぜ積読について書こうと思ったかというと、今日たまたま「積読している自分を反省する。計算ができずに無駄遣いをしている」という旨の読書ブログを読んだので。いや、読書ブログやってて積読が無駄使いとか意味がわからない。
あるいはまた、友人がある時○○というちょい高めの本を買うか悩むと言う。僕は言った。「迷わず積めよ、積めばわかるさ!」。でも彼女にはそれは難しいらしい。なぜならば今の新居には本棚がないから。読書好きなのに本を積むところがないなんて大変なのことでは? 元気ですか!?
積読はいいことです~なんて記事言説は、正直言ってネット上どころかネット以前から溢れています。それについて俺が新たにどうこう言うことはない。ただ、だからこそ読書好きにすら積読に忌避感があるのは変なことのように思えるのです。「積読が悪くないないという言説は溢れるほどなのに、なぜ積読が悪いことだと思うのか」ということについて考えをめぐらせているうちに、いくつかこれじゃないか? ということを思いついたので、ここに書いておくことにしました。
そこには現代社会の構造がもたらす文化・思考様式があるように思われます。この記事ではその問題について、仮説という名の放言を書いていくつもりです。
+積読が良いことである理由
まずは、積読が悪いことではない理由を再確認しておきましょう。これは先述通りこれまでさんざん述べられている内容で、ちょっとネットを探せばより詳細な内容が簡単に見つかるものです。
- 本は買わないと手に入らなくなる
- 買わなかった本のことは忘れてしまう
- 本には持っているだけでプラスになる面がある
- 本を買うことは買い支えることに繋がる*1
まず真っ先に思いつく理屈は「買っておかないともうその本は手に入らない」です。本は腐らないのでいつでも手に入るような気がしますが、実は全くそんなことはありません。アマゾンと電子書籍の現代においてすらです。僕はつい先日も、欲しい本をネットで注文しようとしたらプレミアで万の値段になっていて、絶望しました。プレミア系なので電子化も絶望的です。
例え在庫が払底することがなくても「そもそも買うことを忘れてしまう」という状況も頻繁にあります。ネットで検索すれば判ることでも、検索語を忘れてしまえば二度と判らないのです。僕にも昔からずっと探している本があるのですが、タイトルをすっかり忘れているので、いまだに見つけられておりません。
学術・実用書を中心に「本棚にあるだけで知になる」という考えもあります。人間の知には外部性という特徴がある。例えばものさしを使えば人間はミリ単位でものの長さを測れますが、これは「ものさしを持つ人間にはミリ単位でものを測る能力があること」を意味します。脳の中にあるものだけが知恵や知能じゃない。脳の外部にも能力や知識は保有されているのです。つまり本をたくさん持つ人間はそれだけ多くの知識を持っていると言える*2。あと、これはその人の生活にもよりますが、本棚に本が並んでるだけで刺激になるとかも言いますね。
最後に少し方向性がかわるのは「好きな作品を買い支える」という話。積読をするからには読まないとしても買っています。買ったということは、その素晴らしい本の作者にいくばくかの収入とモチベーションをもたらしたということです。貴方が本を買わないならば、その素晴らしい本の作者は2作目を書かない可能性がある。好きな作品を買い支えるという消費は、今ようやく日本でも広まりつつある気がしますが、もっと広範に行われるべきです。
+現代社会が積読を否定したがる理由4つ
以上のような事実が、積読を擁護するために頻繁に指摘されている訳です。
しかしどういう訳だか、この手の言説は積読否定者たちの心に実感として届かず、積読は無駄づかいだなあ、という事実に反する感想が相変わらず胸の内を占めているようです。それはなぜなのか? 彼らにあるのはなんなのか?
いくつか仮説があるので、先に全部確認しておきます。
- 消費社会の文化様式
- 暗記を重視する教育の弊害
- 文学という分野の衰退
- 経済に関する直感的すぎる理解
なお、実はこの仮説には最も有力なゼロ番があって、それは「0.本に興味がないから」というものです。本が好きじゃないので、本を買うことを感情的に肯定できない。読みもしない本をまた買って、とか妻がまた愚痴る。うるせぇ、年に数度も使わないバッグや帽子を買うんじゃない。あ、いやすいません。そうじゃなくて、そこはお互いに踏み込みすぎないようにして趣味のぶんのお金は確保しておこうね。
この記事では、あくまでも本が好きなのに積読がダメな気がする、という状態を問題にします。
+仮説1:消費社会の文化様式
この現代は消費社会です。
ここでいう消費社会というのは、通俗的な理解による"いっぱいゴミを出しちゃう無駄の多い社会"のことじゃなくて、消費することが社会に属する条件になっている社会のことです。ジグムント・バウマンとかアンソニー・ギデンスとかが言いました。
例えば、社会の上流階級の存在であると周囲のメンバーに認知されるためには、上流階級にふさわしい服を買っていないといけません。ハリウッドセレブであるためには、派手なドレスを着てベンツでパーティー会場に赴く必要がある。即ち、派手なドレスとベンツを買える消費者であることがハリウッドセレブである条件なのであり、例え借金まみれで役者としてのキャリアが微妙でも、ドレスとベンツを買っている間はハリウッドセレブであると見做されるのです。セレブの逆の例としてホームレスがあります。ホームレスであることとは「家や服を消費できないこと」であり、それ故に彼らは普通の社会に属していないと見做されます。現代というこの消費社会では、どういう消費をするかが、その人の属性を決定するのです。
これは別に、そういう極端な階級の人に限らない。普通の市民であるかどうかにも、消費内容は大事です。「かしこい消費」をするかどうかが、自分が「かしこい市民」であるかどうかを決定づけます。「かしこい市民」でいることは、自分がこの社会で受容されているという満足感をもたらしてくれます。雑誌に載っているセンスのいい買い物をするのが「かしこい市民」。テレビで紹介された100均の便利収納グッズを買うのが「かしこい市民」。オシャレ雑貨屋で素敵なインテリア小物を買うのが「かしこい市民」です。
翻って、読みもしない本を買うことや、大量の本で棚を占有することは「かしこい市民」の行動とはいえません。だってインテリア雑誌のオシャレな部屋はそんな風になっていないから。部屋の空間を背の高い本棚で埋めると圧迫感がでる、などという、昔の人は考えもしなかった価値観を雑誌とワイドショーが配信し続けています。本を買ってもいいが、それは読み終わったら断捨離するか、売って別のものを買う足しにするかするのが「かしこい」というだと雑誌は言っています。
本を買って積むような消費形態は「かしこい市民」という望ましい社会階層から除かれる恐怖を伴ってしまうのです。
個人的には、本当に賢く合理的な人間は社会の要請ではなく自分にあった生活様式を自分で選ぶと思いますから、読書好きならば上で述べたような積読のメリットを享受すべきだと思いますが。しかしまあ、積読的な消費がダサイとみる文化がいまの社会にあるのは確かです。
+仮説2:暗記を重視する教育の弊害
上の積読のメリットを挙げた項で、知が外部性を持つことを述べておきましたが、これがどうも一般に広まってない。
どうも現代人には蔵書と保有する知をイコールで結ぶ認識がない。
アインシュタインが自分の電話番号を覚えなかった逸話などは有名なのに、その核心部分「電話帳を持っていることは無数の電話番号を暗記しているのと同じ」が、なぜか自明と見做されてない。いやむしろ後退しているかもしれません。僕のおばあちゃんの時代までは、一家に一冊広辞苑といわれていたし、書斎と蔵書があることは知があることだったはずです。
広辞苑が消えたのはインターネットができたから? 確かにそうかも。でもネットに関する言説で"インターネットに書いてないことが沢山あるから本を読みなさい"とか言うアレ。あれなんか本当は「インターネットに書いてないことが沢山あるから蔵書を持ちなさい」であるべきだ。ネットが完璧でないのと同様、僕らの記憶力も完璧じゃないんだから。
なぜ蔵書を知とみなせないのか? それはたぶん暗記したことだけが保有する知であるという間違った印象を日本の義務教育が与えているからではないでしょうか。学校のテストでは、暗記していない知識は持っていないものとみなされる。きれいにまとまたノートを持っていることや、参考書のどこに求める情報が書いてあるか知っていることは、知識を持っていることとはみなされないのです。実用上はそちらのほうが余程大事に違いないのに。
いや、暗記教育に意味がないとは言いません。すぐに知識を思い出せるということは、思考速度に直結する。しかし、だからといって暗記していない知識を知でないと見做すのは問題でしょう。そういう認識だから、「難しい本を読んでもどうせ忘れるから無意味ね」とか「もう二度と読まないであろう本を置いておくのは無駄だな」とかいう間違った結論に飛びつくのだ。
蔵書、イコール、インテリジェンス。そのことを改めて確認したおいた方がいいと思います。そして、それができていないなら、積読と無意味を結び付けてしまうのも無理はないのかもしれない。
+仮説3:文学という分野の衰退
最初の序文で述べた、積読を反省してしまう読書ブログ、あるいは家に本棚を置かない読書好きの友人、彼らに共通しているのは主な読書がエンタメ系の小説作品に限られるということです。積読を反省とかしてしまうのは、読むものが娯楽作品だからなのかもしれない。積読を擁護するのはたいてい学者だったりするし、実用書以外は積まなくていいと思ってしまうのか。しかし、なぜ娯楽作品だと蔵書を持たなくてもいい気がするのだろう?*3。
理由は恐らく文学という分野が無効となり、エンタメと実用知が明確に分離してしまったからでしょう。
かつて「文学」は作品ジャンルではなく、文字通りの学問でした。なぜフィクションを読みこむことが学問足りえたかというと、ざっくり言えば、文学作品を読むことは人生を経験することだったからです。人生経験が無意味な訳ありませんよね? 文学作品とは、読者に人生経験を積ませるものであり、それは研究に値するもの。実用に値する価値を持つものでした。
ところが現代になってフィクション作品は「研究価値のある(と偉い人の考えた)文学」と「ただ楽しいだけのエンタメ」に分かれてしまいました。原因はいろいろあるんでしょうが、僕には何とも言えない。強いていえば、変わったのは作品や社会ではなく蛸壺化していった文学者たちだったのだろうと思う。それが悪いことなのかどうかも分からない。ただ、そういう経緯があったせいで現代人は自分たちが読んでいるものを「文学ではないので実用上の価値がない」「人生ではなくただのフィクション」「娯楽になってもそれ以上の価値はない」とどこかで考えています。
しかし、それは本当でしょうか?*4 かつてシェイクスピアが人生同等だと見られたことがあるならば、今僕が読んでるラノベだって人生同等とではなかろうか。記念写真のアルバムを捨てることを躊躇うのに、エンタメ本を捨てるのを躊躇わないのはなぜなのか。かつて、ほとんど初めて文学性に触れたあるオタクは言いました。「CLANNADは人生」。それは皮肉交じりに言い伝えられている名言ですが、僕が断言しましょう。CLANNADはガチで人生だし、他の作品も人生なんですよ。この人生は読まないから無駄なんて話は全く受け入れられない。
そう考えたら、積読することは、未来の人生経験にむけた可能性を確保していることに等しいと言えるんじゃないでしょうか。
+仮設4:経済に関する直感的すぎる理解
ここまでは積読のメリットが理解されてないという話をしました。でもやっぱり、気は進まないけど、積読のデメリットにも言及しないと流石にアンフェアかもしれない。
積読をすることの最大のデメリット、それはお金がかかるということです。読むぶんだけ買うのと、読めない分まで買うことでは、当然のことながら前者のほうがコストが安い。だから積読をすることは、お金の無駄であり、お小遣いの無駄遣いである。いや、ごもっとも。流石にそこを否定することはできそうにない。コストの問題は積読擁護派にとって、アキレウスの踵、ジークフリートの背中の葉っぱ、GACKTの格付けヤラセ疑惑にあたります。だから気がすすまんと言ったんだ。
しかし、敢えて、否定はできないという前提の上で、もう一度考えてみましょう。積読にかかるコストを、節約=善という素朴すぎる経済感覚に基いて計算してやしないか。
もしも貴方が日々の暮らしにも事欠くような給与で暮らしているのならば、たしかに積読は勧められない。しかし少なくとも今まで積読をしていたのならば、貴方の給料は積読ができる程度にはあるはずです。となれば、積読をしているとしてもいいはずです。なんといっても、積読は未来に読む本を買うこと、いうなれば将来への投資。ただお金が財布にあるより、投資したほうがいいというのは、賢い経済行動の基本です。
いえ、さすがの僕も積読がリターンの大きい投資行動だとまでは申しません。申しませんが、じゃあ貴方は積読を止めたお金で何を買うつもりなのか? 本を買わなくなった金で定期預金を始めたり、個人年金のランクを上げたり、英会話教室に通ったりするとでも? きっと僕なら、コンビニ弁当をの代わりに2000円のランチを食べて節約した金を使ってしまう。もしそうするなら、積読のデメリットの代わりに別のデメリットが生まれるだけです。しかも2000円ランチは全く将来の投資とはいえない。
だったら読書好きらしく、好き放題積読したほうがいいと思います。
あるいは、それでも積読をやめて金を何か別のマシなことに回したいなら、おすすめの使い方があります。積読を止めて数万円を節約したら、天井まである本棚とドキュメントスキャナを買おう。そういう将来的なビジョンができてから、初めて積読をやめればよいのです。
+心おきなく積読しよう。あと消化しよう。
以上、4つの仮設を述べることで、なぜあの人が積読を悪いことだと思っているのかを考えました。
……積読している自分のための擁護を精一杯述べただけだともいうが……。
ただ、例えここで僕が述べたことが自己弁護にすぎないとしても、積読に捨てがたいメリットがあるのは厳然とした事実です。そして、もし上で放言した仮設の形にしたような考えを貴方が持っているならば、貴方は積読のメリットを過小評価しているかもしれない。
先日、「積読しなくなる状態とは、読書欲が衰えている状態のことだ」という趣旨の発言をSNSで拝見しました。我々読書家にとってそれは、生存欲求が衰えていることだ。僕は目が見えなくなったら自殺するかもしれないと真面目に思っているし、他の読書家もそうだろうと真面目に思っている。我々にとって読書するとは生きることです。生きるのを欲望するのは普通のことだ。
即ち、積読するのは普通のことだと言えます。心置きなく積読をしていこうじゃないですか。
あとは、まあ、できるだけ積読は消化したほうがいいよね。もちろん。
夜神月のクソさは「レイ・ペンバー殺したじゃん」とかいう問題ではない。
なぜ今更デスノートかというと、その行動の評価について「犯罪率下げたけど、レイ・ペンバー殺したからダメだよ」とか「終盤保身に走らなければよかったんだ」とかいう言説がけっこう見られる、というか、僕が探したらそういう評価が主にネット上にのさばっていたからです。
個人的に、フィクションの話であることを差し引いても夜神月がやったことは悪であり許されないという理屈や評価が一般に広まりきっていないというのは、これは納得いかないところがあります。レイベンパー殺さなかろうが、最後の死に様で保身に走るような無様を晒さなかろうが、夜神月はクソ行為をしたクソ野郎です。
それが賛否両論みたいになってしまうのは、漫画デスノートで夜神月が何をしたのか? を分析するのに現実の社会に関する知識や視点が欠けているからです。
この記事では、漫画デスノートの社会で実際に何が起こったのか? について、僕の知識と分析を書いていきます。
+キラがしたのは悪人を裁くことではない
最初に述べる点がもっとも重要だと思います。
夜神月は自分=キラが犯罪者に裁きを下したと思っています。自分でもそう言っていますし、一部のキャラからそう思われているという表現も漫画に出てきます。でも実際に裁きを下しているのはキラではありません。
犯罪者を裁いているのは警察です。
キラはテレビの犯罪報道、あるいは警察の偉い人である父のパソコン等を見て、逮捕されたという情報のあった犯罪者を殺害します。そうです。既に逮捕されているのです。放っておいても裁きは下りました。懲役とか罰金とかいう形の裁きです。
当時高校生だった月クンはそういう既存の裁きでは不十分だと感じていたので、デスノートを使って犯罪者を死刑にすることにしたわけです。懲役や罰金で済んでいた犯罪を、死刑に変える。これは一般に厳罰化といわれる政策です。
つまりキラがしたのは「刑罰を許可なく厳罰化し、死刑にする」という行為でした。
+月くんはデスノートを「面倒だから」使った
言うまでもないことですが、刑の厳罰化は別に普通の人間にもできます。
政治家になって圧倒的な権力を得て国会で議案を通して、犯罪者を死刑にするという法律をつくればいい。実質的に無理ということをさておけば、原理上はデスノートなんか使わなくても可能なことです。歴史上でもポルポトとかは普通に近いことをしました。
だから月くんの「厳罰化のためにデスノートを利用する」という行為は、所詮高校生だった彼は自分でも判ってませんでしたが、要するに権力を手に入れたり政治家になったりするのは面倒だからという意味でした。
月くんが自分で考えるほど超絶天才で社会的に成功が約束された存在でキラの政策が社会に貢献するのだったら、警察庁長官の息子で東大卒の経歴を引っ提げて自民党から選挙に出て、総理大臣となり、独裁を実現すればよかった。
逆に言えば、キラはそれをしないで法律を変えちゃった。
キラが殺したのは、実は犯罪者ではなく議会制民主主義だったのでした。
+キラの行為は凶悪殺人鬼への恩赦に近い
まあ、原理的にデスノートなしで可能とはいったものの、現実問題、国会でキラがやったような厳罰化法案を通すのは無理です。だからデスノート意味なかったみたいにいうのは、さすがに言いすぎかもしれません。
でもなぜ無理なのかな? 理由はもちろん、皆が賛成してくれないから……なぜ賛成しないのか? 愚民どもは月くんよりも頭が悪いから、デスノートを使うしかないのかな?……もちろん頭が悪いのは、無知な高校生だった月くんのほうです。大人は月くんの考える通りにする事の何が問題なのかちゃんとわかってます。
気軽に犯罪者を死刑にすると、いろいろ問題はあるですが、恐らく一番大きな問題点は犯罪と罰にはちゃんと「量刑」をつけないといけないということでしょう。ハンムラビ法典の時代から、法律は「目を潰したら目だけを潰してそれ以上のことはしない」と決まっています*1社会の安定と公平のためには、罪の大きさがイコール罰の大きさでなければなりません。これを『罪刑法定主義』といいます。
ところで死刑には、それ以上大きな罰を設定できないという特徴があります。二回スピード違反をしたら二倍の罰金を課せばよいのですが、二人の人を殺したからといって二回死刑にすることは不可能なのです。罪刑法定主義の観点から言えばこれは不都合です。なので、現実に死刑を実施している国では、死刑は最大の罪に対する罰とされています*2。例えば日本では複数人以上殺した罪人が死刑になります。罪の大きさがカンストするので、それ以上は全部死刑という意味です。
ところがキラは比較的軽い犯罪を犯した人からいきなり死刑にしました。これは、大量殺人鬼と軽犯罪犯の罪は同価値であると宣言したことになります。
これが問題にならないわけなくて、例えば「俺は盗みを犯してしまったからもうどうにでもなれ好き放題強姦してやる」みたいな自暴自棄犯を生んだり、最悪の場合「俺は殺人したけどもっと軽い罪と程度の行動だからそれほどに悪くないよね」みたいな価値観を醸成する恐れすらあります。でも何よりの問題は、法の下の平等や公平といった価値を損なっているという点だと思います。倫理が破壊されている。
月くんはキラを正義の執行者だと思ってましたが、実は凶悪犯の罰を相対的に軽くした、正義を破壊した悪の擁護者だったのです。
+キラは大量の冤罪者と間接殺人者を生んだはず
気軽に犯罪者を死刑にした場合の、もっと判りやすい問題点として死刑にすると冤罪に対処できないという話もあります。
なにしろ一度死んだ人間を生き返すことはデスノートにもできません。
冤罪被害の議論は、現実の死刑問題でもしばしば死刑反対の協力な論拠として挙げられます。よくテレビを見る人なら「かつて死刑の判決を受けたアメリカの死刑囚がDNA鑑定普及の結果、再審やり直しで無罪になった」みたいな実話*3を見たことがあるかもしれません*4。最重犯罪に限っている現実の死刑についてすら冤罪が問題になっていて、判決後長い留保期間や再審請求の機会を確保してあるのに、テレビを見て気軽に死刑かどうか判断していた人間が間違ってないわけがない。キラのせいで冤罪被害を受けたまま死んだ人が確実にいるはずです。
更に言えば、犯罪報道に載ってしまうとキラに殺されるということはみんなが知っていたのだから、わざと殺したい相手に冤罪をかぶせるというタイプの殺人もあったに違いありません。キラの逮捕が不可能だった以上、そういう殺人者は物語終了後も野放しになっていたでしょうね。
+キラは司法権をマスコミに投げ与えた
百歩譲って、月くんがそういう「即死刑政策」の問題点を把握しており、それでもなおやるべきだという決意のもと行動に移したのだとしましょう。しかし、恐らく月くんが意図してなかった上に、実際に漫画の中でも描写された問題があります。マスコミの暴走です。
あれは月くんがとった行動を考えれば起こって当然の出来事でした。
なぜかというと、キラは基本的にマスコミの犯罪報道を見て死刑を実行していたし、社会の皆もそのことを知っていました。ということは誰を死刑にするかはマスコミが決めていたし、マスコミの中の人もそのことを知っていたということです。ていうか途中からはキラ自身がさくらTVの保護を公然と周知し、司法ではなくTV局への報告を推奨しました。
言うまでもなく「誰を死刑にするか決められる」というのは、相当大きな権力です。現代では普通は『司法権』として、大統領や総理大臣からすら分離されている権力で、最高裁判所の裁判官のような、注意深い選別と安全措置をとってやっと与えられるものです。キラはその絶大な権力をいきなり、よく知らないマスコミの人に与えたことになります。
案の定、いきなり強大な権力を与えられた人がマトモでいられるわけがなく、そうして「嫌な奴」から「暴君」になってしまったのが出目川Pというキャラクターでした。後にキラ自身*5も見るに堪えないという理由で彼を殺しましたが、どう考えても出目川Pの暴走を生んだのはキラでした。
彼はなにかにつけて死刑制度の運用が無思慮すぎる。悪であることよりも頭が悪いことが問題です。松田をバカ野郎とか罵っている場合ではない。
+「犯罪率下げた」とかで勝ち誇らないでください
しかし更に千歩ほど譲って、夜神月くんが出目川P暴走のような事態すら折込済みで、ただただ社会を良くしたいという正義感から行動したのだとしましょう。漫画デスノートでは明確に「キラの出現によって犯罪率が下がった。キラの消失によって犯罪率は戻った」という描写がされています。だからキラにも一面の正しさはあったと言えるんじゃないのか?
これについては二つの考え方があります。
第一に、別にキラのいない現代日本でも厳罰化は進んでいます。言われれば皆判ると思いますが、2000年と2007年には少年法の改正による低年齢化、2009年には道路交通法改正による飲酒運転点数増加などがありました*6。もしもデスノート世界でも現代日本と同じ出来事がおこっているのだとしたら、キラが何もしてなかったとしても厳罰化の流れはあったと思われる。キラの出現によって犯罪率が下がったのだったら、キラがいなくても厳罰化で犯罪率は下げたんじゃないでしょうか。
第二に、これはフィクションに対して言うのも何なんですが、実際には厳罰化による犯罪率低下は、起こらない・または効果が薄いと思われる。既に述べたように、犯罪を抑止する目的での厳罰化は別にデスノートでなくても可能です。そして、実際にやりました。その結果、専門家の議論はだいたい「厳罰化による犯罪抑止効果は限定的だったよね」という結論になっています。
例えばアメリカでは1970年代からずっと少年犯罪の厳罰化を進めていましたが、近年も銃乱射事件の報道をよく見るように、十分な抑止効果がないどころか下手すると悪化しています。他に有名なのはNYのゼロトレラント政策で、犯罪率は確かに下がったもののそれは他の施策による効果が主だったとされています。
厳罰化に犯罪抑止効果が少なかったのは、後知恵ですが、考えてみれば当たり前でした。だって犯罪後の結果について十分な思慮を働かせる余裕や知能がある人が、罰金100万円の犯罪を実行する訳がない。だから罰金を止めて死刑を採用しても、そいつは思慮を働かせることなく犯罪をします。犯罪っていうのはほとんどの場合、衝動的かつ軽率に行われるのであって、デメリットでかいからやめようみたいな合理的期待の効果は薄いと思われるのです。
というわけで「キラが犯罪率を下げた」というストーリー上の描写すら、ちゃんと考えるとどうやら怪しいのでした。
+キラが成し遂げたことってなによ?
まとめます。
- キラは悪人裁いてる気取りだけど実際やってるのは警察。
- キラは全くの無思慮で日本の政治システムを破壊した。
- キラの存在はむしろ多くの悪人を生んだ恐れがある。
- キラの恐怖は現実ならたぶん犯罪率を下げたりしない。
という訳で、夜神月くんは自分(と一部の読者)が思うよりはずっと悪いことをしているし、逆に良いことは全くしていないです。
というか些細な記憶力や計算能力で天才設定が演出されてますが、そもそも発端の「悪い奴を死刑にすれば世界はよくなるよね」という中二病発想は大学受験の時期になって言いだしている上、その考えを東大*7法学部に入り、司法試験に合格してまでまだ捨てていない訳です。司法の勉強が身になってないにも程がある。はっきり言って相当頭悪いです。*8
こういうことを抜いて、キラが明確に何かを成し遂げたことといったら、たぶん社会的ムーブメントを作り出して最終的にキラ教団を作ったことじゃないでしょうか。あれだけは、ちょっと否定しようのないストーリー中における明確な成果だと思います。無から有が生まれていますからね。
デスノート無しで教団を作ったぶん、大川隆法のほうが格上ということになりますけども。
*1:『目には目を』の復習法とは『俺の目を潰した相手は一族郎党皆殺しだ!』みたいな無法者を王が止めるために制定されました。
*2:この点は実は現実世界の死刑に関する議論でも問題となります。公平性や法的整合性の観点から言えば、人を一人殺したら懲役50年、二人殺したら懲役100年と加算していって、大量殺人鬼には懲役1000年みたいな数字を例え非現実的でも設定したほうが良いという考えがあるのです。
*3:だいたいこういのは月曜日のビートたけしの番組で紹介してました
*4:折しもデスノートを連載していた2000年代はDNA鑑定の普及で過去の冤罪被害が何件も明らかになっていたころで、この手の議論が大いに盛り上がっていました。月くんは犯罪被害に興味があるくせに当時のホットトピックすら把握してなかった、と言えるかもしれません。
*5:この時は魅上でしたっけ
*6:ちなみにこの日本の事例ですが、少年法改正については今のところ目立った効果は見つかりません。あと飲酒運転については減りましたが、罰の大きさが変わったせいというより、改正に伴って進んだ代行業者の普及や飲食業界によるハンドルキーパーキャンペーンのほうが大きいのではないかと思われます。
*7:東応大学でしたっけ
*8:なおこの記事は行きがかり上、原作者・大場つぐみ先生が政治思想に無知であることを責めてると取られてもしかたないですが、面白さにおいて圧倒的な作品を作った原作者を、僕は100%リスペクトしている旨をここに明言します。
いじめに遭ったらどうするか?(攻撃+抑止編)
前の記事で、「もしいじめに遭ってしまったらいかにしてそれを乗り切るか?」という内容について書きました。個人的には「いじめに遭ったらどうするか」というテーマでは、そっちがより大切な内容だと思っています。
ただ、基本的に受け身の内容で、積極的にいじめを無くしたりする内容ではないので納得いかない人もいるかもしれません。なので今回はいじめに対してより積極的に対処する方法、いじめられている状況を消し去る方法について書きます。名付けて攻撃+抑止編です。
(なお一連の記事の更に前段階で、いじめがなぜ起こるのか?という記事も書いていますので、そちらも参考にしてください)
+相手を面白がらせたらいじめが続く
いじめ加害者は、いじめを楽しんでいます。
認めがたいかもしれないし、あるいは言うまでもないかもしれませんが、いずれにしても「いじめは楽しい」です。いじめている相手が泣いたり傷ついたりすると、いじめっ子はますます楽しくなります。悪いことかどうかは関係ありません。いじめは、悪いことかどうかが判らないバカが起こすものだからです。
逆に言ったら、もし楽しくなくなったらいじめを止めるはずです。いじめ加害者はたいていバカなので、つまらない勉強を辞めるように、つまらないいじめは簡単に辞めるでしょう。いじめをつまらなくすることで、いじめは止めることができる可能性があります。
- 何か話しかけられても無視する。
- 何か命令されたら断る。
- 暴力を振るわれても痛がらない。
- すぐ帰る。
こういうことをすると、普通の友達でも「なんかあいつつまらない奴だから遊ぶのやめとこうぜ」とかなります。もしいじめ加害者がいじめ被害者に対し「遊ぶのやめとこうぜ」となったら、それはいじめが止まることです。
+気にしない心が大事
とはいえ「相手を面白がらせない」という方法は、ほとんど相手の心をコントロールすることを意味しています。それは人生経験を積んだ大人でも、普通に難しいことで、ある種の技術や才能が必要になります。
なので、場合によっては完ぺきには上手くいかないかもしれません。ですが上手くいかなくても気にしないでください。というのも「反応が面白くない相手」の筆頭が、特になにも気にしてないやつだからです。
貴方が相手を面白がらせないために、すぐに帰ってしまったとしましょう。次の日学校に来たら、靴に画びょうが入っているかもしれません。そこで、お前が画びょうを入れたんだろう! と怒ったりすると、入れた人が喜びます。黙って画びょうを靴から取り出して捨てて、入っ手たことすら忘れてしまう。で、今日もまたすぐに帰る。
そういう淡々とした対応が必要です。相手に興味を持たれないためには、自分のほうも相手に興味を持たない。何も気にしないほうがよいのです。
+「力」を手に入れ誇示しよう
ハッキリ言ってしまいますが、いじめに遭っているからには「弱者」です。
というのも、いじめは「弱者=いじめても問題がなさそうな相手」をターゲットに起こります。いじめ被害に遭っているということは、少なくとも「弱そう」に見られています。運動が苦手で見た目的に弱そうに見えたり、勉強が苦手だから皆から舐められていたり、コミュ力不足だからクラス内の立場が弱かったり、性格的に友人が少なかったりするはずです*1。
逆に言えば、いじめたら問題がありそうな強さがあると思われたら、もういじめられることはありません。
そのために広い意味での「力」をつけることです。「力」とはもちろん筋力も含みますが、例えば権力や財力なども含みます。貴方自身の力である必要もありません。
よくある例を箇条書きにすると、こういう話になります。
- 格闘技や筋トレをしてムキムキになる(殴り返されたらヤバそう)。
- 相手がいかに悪いかを他の友達に訴え、味方につける(人数に頼る)。
- 何かあったらすぐ家族や先生にチクる(大人の力を味方にする)。
- 勉強して超優秀になる(なんだかんだ学校は学力イコール実力です)。
- 法律を勉強して盾に使う(最強の権力です)。
要は立場が強くなればよいのです*2。こうした力を最初から持っているならば、恐らくいじめられることは無かった。そして今から力を手に入れたとしても、いじめられることは高い確率でなくなるはずです。
+「ポケットの中のナイフ」は無意味
ただし、いじめへの対処として力を手に入れようというときに、注意しないといけないのは、手に入れた"力"の運用方法についてです。この力は、使おうとするのではなく、誇示することを考えてください。
いじめ対策で力を手に入れるのは、相手をやっつけるためではありません。相手がビビってなにもしてこなくなるのを狙うのです。欲しいのは軍事や外交でいうところの抑止力です。
抑止力とは力を見せびらかしたときに発生するもので、使ったときに発生するものではない。むしろ力を行使してしまうと抑止力は消えて、差し迫った脅威とみなされた結果戦争になります。いじめに関して割と言いがちな意見に「いじめっ子に反撃なんかしたらもっと虐められる」という主張がありますが、だいたい事実と思います。反撃ではなくアピールをすればよいのです。北朝鮮がなぜ核ミサイルを実際に撃たないのかを考えましょう。撃たないでいるほうがいいからです。
先述の「力」のリストに即して言えば、次のような話になります。
- 相手にケンカで勝つことではなく、見るからに筋肉が大きかったりが大事。
- 頼れる交友関係があることを、加害者に知らせるようにつとめる。
- チクれるチャンスを待つのではなく、何かやったら先生にチクると告げる。
- 隠れた勉強でテストに挑むより、先生の前で堂々と勉強する。
- 相手を裁判で負かすより、相手の前で110番しようとする。
逆に悪い例をあげると、いじめられた時の対処で最悪な方法の一つが「ポケットにナイフを忍ばせる」ことです。昔のドラマで偶に見られましたが、ポケットの中にナイフをあることをいじめ加害者は知らないのだから、いじめ加害者はいままで通りいじめを続けます。そしていざ本当にナイフを抜いてしまったら、貴方はいじめっ子にとって命を脅かす敵ですから、貴方を殺すつもりで最大級の反撃をしてくる恐れがあります*3。
つまり、使わないと意味がない癖に使えば危険なのが「ポケットの中のナイフ」です。もっと目に見えやすい「力」をアピールしていきましょう。*4
+使える大人は使え、使えないなら別の大人を使え
自分自身が力をつける他に、他人の力を使う方法もあります。今の時代、いじめは当人だけでなく、教師や大人にとっても大変な問題です。大きな事件になればマスコミに取り上げられて怒られて最悪の場合職を失ったりします。だから、大抵の大人はいじめ対策に協力的です。これを使わない手はありません。
まず最も簡単な方法として担任の先生に相談する、という方策があります。
統計的事実として、担任の先生はいじめのことを知ると8割の確率でいじめを止めようとします。この止めようとする試みは、6~7割の確率で成功するか少なくとも一部成功します*5。先生に言うだけで、50%の確率でいじめがマシになるのです。これは是非とも試しておくべきでしょう。
ただしこの話は、先生に言っても50%の確率でいじめは止まらない、もしくは悪化するということでもあります。教師にもいろいろいるので、担任にやる気がなかったり無能だったりすることもあります。なので先生に対してあまり全面的に期待するのも精神衛生上よくありません*6。
でも全面的な期待はそもそも必要ありません。担任の先生でダメならそれよりも偉い人に相談するればよいからです。先生だってまた教室を出れば、教わったり怒られたりする立場ですから、それで改善する可能性が高くなります。教頭先生・校長先生・自治体の教育委員会・PTAの人・いじめ対策専門のNPO組織など頼れる場所はいくらでもあります。
そうして相談した全ての大人が何もしてくれないなんてことは、まずないです。
+最も身近かつ強力な味方「親」
先生に相談する他にできれば使っておきたい相談先は、いじめられている本人の両親です。
いじめ被害を受けた生徒は、しばしば両親にそのことを秘密にするのですが、これはどう考えても良くありません*7。まず大抵の親は子供の味方です。担任の先生よりも、解決に協力してくれる可能性はずっと高いです。それに大抵の親は子供よりも「力」があります。学校にとっては金を払っているお客なので学校に文句が言えるし、いじめっ子の親と対等に話したりもできるし、なんなら物理的な力だって子供よりは強いことが多いです。
なにより、なんだかんだいって親は子供の人生を一部コントロールしています。例えば親には「転校」という手段で無理やりいじめを解決することが可能ですが、子供にはできません。子供には転校するかどうかを決める権利がないからです。親の協力を得ないことは、言うなれば「自分というマシンの操縦が一部出来ない状態で戦う」ようなものです。右半身の操縦ができないガンダムで敵と戦うのは無謀といっていいでしょう。だから、是非ともいじめに遭ったら、親にそのことを相談して、何らかの協力を取り付けておかないとならないのです。
あと、これは心構え+防御編で挙げた内容ですが、家族に自分が辛いことを受け入れてもらうとストレスを解消できます。逆に秘密を持つとストレスが貯まります。これも非常に大切なことです。*8
+いますぐ解決できないことは永遠に解決できないことではない
以上のような取り組みで、だいたいのいじめは解消できます。
しかし注意しておかないといけないのは、こういう取り組みが効果を発揮するには時間がかかるということです。他人の態度を変えるのは普通に難しいことだし、「力」が一朝一夕の努力で付くなら苦労はないし、先生や親にだって相談されたからとすぐさまいじめを消し去るような真似はできません。今日いじめで辛かったなら、たぶん明日も同じように辛いでしょう。
しかし、それでも即効性を求めないでください。例えば残りの人生全てを犠牲にすれば、明日の辛さを消すことはできるかもしれません。しかし犠牲にしなくても解決できるのだからそうすべきです。
明日いじめが辛かったとしても、永遠に辛いわけではないということを、肝に銘じておきましょう。いじめはコミュニティの中で起こることですが、永遠に現状のままであるコミュニティは存在しません。
ここで述べたのは、自分の努力によってコミュニティに変化をもたらす方法です。
これで一連のいじめ関連ブログを終わります。
*1:もちろん、それは別に悪いことではありません。その人にも今いる場所では発揮できない長所があり、別の得意なことをして人の役に立つことが必ずできます
*2:ここで箇条書きにした他の「力」としては、財力にものを言わせて相手の親の会社を買うだとか、政治力を駆使してクラスの皆を扇動するだとか、超能力を身に着けて相手を攻撃するだとかも考えられますが、普通の人には不可能でしょう
*3:そればかりかポケットの中のナイフを使うと味方にすべきだった警察の権力を敵に回すことにもなります。あと武器は筋肉と違って奪い取ることができるので実はリスクが高い「力」です
*4:一つ注意があるとすれば、自分に力があるぞとアピールをするというのは、正直言って嫌な奴の行動です。ただ、今回はいじめられているという前提ですから、いじめ加害者から友達扱いされなくなって、完全に無視してくれたら、いじめはむしろ解決です
*5:なおこの統計は1999年の書籍に載っていたもので、いじめ対策が教師陣にも浸透してなかったころですから、2017年の現在はもっとマシです。
*6:いじめ被害者の告白には割と頻繁に無能だった教師への恨み節が登場します。
*7:生徒が両親にいじめを秘密にしたくなるのは、いじめが小5~中3にかけて多くなるためだと思われます。この時期は子供が両親から自立したくなる時期でもあります。
*8:注意点として、味方になってくれないタイプの「親」は確実に存在します。その場合は、いじめ対策と別の対策を並行して探さねばならないでしょう。
いじめに遭ったらどうするか?(心構え+防御編)
世の中にはいじめ対策の本やブログが溢れていますが、たいていの場合それは保護者や教師がどうすべきかについて書かれたものです。だからいじめられている生徒にどうするかといった話が中心で、いじめにあった当の本人はどう考えればはあまり書かれていません。書かれていても、「抱え込まないで先生に相談しましょう」とか益体もない方針が理由もなく告げられるばかりだったりします。あるいは当事者向けであっても、それは「いじめ加害者をいかにして法律的に追い詰め、社会的に抹殺するか」という内容だったりします*1。
別にそれが悪いという訳じゃなくて、大人に相談するのも、法的パワーに訴えかけるのも、確かにいじめ対策として有効です。
しかしなぜそれが有効なのかを理解しておけばもっと状況に即した役に立つ選択肢が見つかります。 この記事ではいじめに遭ったら当事者はどうすべきなのか、とりわけなぜそうすべきだと言えるのかを書いていきます。
(前段階としてなぜいじめは起きるのか?という記事も書いています)
今回は心構え編+防御編です。いじめに対処するにあたってのマインドセットのあるべき姿と、いじめ被害の辛い状況に如何にして耐えるかです。
+いじめられてると思うなら第一段階は既に完了
いじめに対処するにあたり、最初の関門は「自分がいじめられている」と気づくことです。
いじめが起こっている初期段階では普通、自分たちがやっていることがいじめであると気づいていません。気づかないのはいじめ被害を受けている側もです。
なぜ気づかないかというと、いじめでは誰かが「よしアイツをいじめよう」と決めたりしないからです。仲間のうち1人をからかったり、殴ったり、それをエスカレートさせたりするとなんだか楽しいだけです。そして、やられている側も「自分がいじられてみんなが楽しいなら、少しは我慢しようかな」とか思っていたりします。
もし貴方が自分がいじめられている/いたと考えているなら、どこかのタイミングで「あっ、俺もしかしていじめられてる!?」という気付きの段階があったはず。ということは、その時点でいじめ被害はかなりかなり大きくなってしまっているはずです。
でも、自分が今いじめられていると気づけたのたら、もうそれはいじめ解決の最初の一歩を踏み出したと言えます。まずはそのことをポジティブに捉えておきましょう。*2
+目指すは「いじめ加害者の仲間から抜ける」こと
前提条件を確認しておきましょう。
いじめ被害者のあなたは、いじめてくるやつの仲間です。
というのも、いじめは、同じコミュニティ*3のメンバーを対象に起こります。「いじめられている」とはいわば同じ群れの仲間が自分にひどいことをしてくる状態です。ただの他人や明確な敵がひどいことをされたら、単に怒って反撃すればいい。仲間が攻撃してくるから、いじめは辛いのです。いじめ被害者であるということは、加害者と同じ群れにいるということです。
それを踏まえて「いじめが解決する」とはどういう状態か? 一番良いのは加害者が悔い改めて仲良く親切にしてくれることですが、それはまず不可能でしょう。*4
いじめ当事者が目指すべきなのは、加害者たちの仲間ではなくなることです。
仲良くできない以上、仲間ではある必要はありません。クラスが同じだったりでなかなか難しいかもしれませんが、とにかく加害者たちと他人になって二度と人生で関わらないことを目指しましょう。恐らく、それが最も現実的な「いじめが解決した状態」です。
+仲間を抜けるのだから仲良くしなくていい
仲間を抜けるのだ、と明確に決意することは大事です。
というのも、大抵のいじめ被害者は「どうにか自分とも仲良くしてほしい」と思っているからです。
いじめ被害の当事者になる人は、どちらかといえば争いが嫌いなタイプのはずです。「俺をいじめるような奴は敵だ」とか自然と思えるような人はまずいじめにあいません*5。だから、いじめられてなお、性格が優しいために何もできなかったりします。
最初に貴方が何かされたとき、彼らから嫌われたくないがために笑ってごまかしたりしませんでしたか? 裏切りみたいだからチクりを躊躇ったりしませんでしたか? 嫌われたり責められたりするのが嫌で命令に従ったりしましたか?
そして何より、それらを継続してしまっていませんか?
やめましょう。限界ギリギリまで頑張って、彼らの機嫌をとっても無意味です。
あなたは彼らと他人になるのだから、好かれても嫌われても関係ないです。そういう覚悟を心の中で確認しておきましょう*6。
+主に対処すべき問題はストレスです
最終的ないじめ解決を目指すのとは別に、いま現在の問題にも対処する必要があります。
いじめ被害の当事者にとって最大の問題とは、ストレスです。
人間は継続的なストレスに晒されると、鬱になったり、体調が悪くなったり、注意力や記憶力が働かなくて失敗が増えたりします。そして最終的には鬱をこじらせて自殺してしまったりします。いじめ被害とはケガや物理的な危険による被害ではなく、主にストレスによる被害ですから、ストレスへの対処はいじめ解決と同じくらい大事*7です。いわば、いじめ攻撃に対して防御を固めるということ。
具体的に何をするというと、一般にストレス解消と呼ばれる活動をします。
- 趣味や好きなことをする
- 運動する
- 家族や友達と話す
- なんでもいいから笑っておく
- 規則正しい睡眠・食事をする
- ストレス源と接触する時間を単に減らす
他にもいろいろありますが、ストレスへの対処は大人にとっても大事なので情報は簡単に見つかるはずです。自分に向いたストレス解消法を探しましょう。
ストレス対策は、いじめに対する有効な防御であると同時に、解決方法にもなりえます。もしストレスに対処できさえすれば、貴方は時間という最も簡単な解決手段を得ることになるからです。学校を卒業するまでの状況を楽々我慢できるのであれば、それは「コミュニティを抜ける」といういじめ解決のゴールが楽々達成できるのと同じことです*8。
+ストレス解消と逆のことをしないように
注意しないといけないのは、いじめに限らず、人間は辛い目にあうとむしろストレスをため込む行動に走りがちです。よくある次のような行動はできるだけ避けましょう。どれもストレスに対する防御反応ですが、結果的にストレスは増加してします。
- 部屋に引きこもって一切運動しない。
- 昼夜逆転生活になり、太陽光を浴びない。
- 学校に行かず、他人にあうのを避ける。
- 辛いことを家族や友達に秘密にする。
- 怒られないよういじめっ子の呼び出しにはすぐ応じる。
例えば、気軽に不登校を行ってはいけません。テレビでいじめで自殺する事例ばかり報道されるため、「自殺するぐらいならいじめから逃げろ、学校行くな」とか言う人も多いですが、部屋から出ないことやいじめっ子に会わない代わりに他の友達に会えないことはストレスによる鬱傾向を加速します。それはいじめで受ける被害がかえって増えるとということです*9。
ただし、現にひきこもりや不登校になってしまったならそれは仕方ないです。なぜならば、学校に行けなかったということは既にストレスによる鬱病が始まっている可能性があります。鬱病になったことを責めるのは(自分で自分を責めるのも含め)最もしてはいけないことです。鬱が悪化すればそれもまた、いじめで受ける被害がかえって増えることに繋がります。
こうした行動の可否不可避の判断は複雑なようですが、ストレスに対処するという視点さえ持っていれば自分で容易に判断できます。
+避難場所にトイレを使うな
ストレス対策のなかで最も有効な手段の一つに、別室への避難があります。いじめ加害者とと別の空間にいる時間を長くすれば、そのぶんストレスが減るからです。
この効果は体感的にもわかりやすく、いじめが辛くなってくると多くの生徒が実行します。例えばよくある方法のうち、保健室に避難するのは非常に有効です。今の日本では、保健室の先生にそうやって避難した生徒を保護する仕事も求めており、邪見にされることはまずないでしょう。最近は国や県のいじめ対策で、週に何度か学校にスクールカウンセラーという人が通ってくることがあり、その人専用の教室があるなら、それはそもそも避難のために用意されたものなので遠慮なく使えます。
逆に、よくある避難先のなかであまり推奨できないのはトイレの個室などです。プライベートな空間のように思えますが、なんだかんだ言って公共空間だから割と他人が入ってくるし、なによりトイレは基本的に居心地が悪いです。ストレス対策で逃げているのに、ストレスが溜まりそうな場所に長時間居るのは不合理としかいいようがない。いわゆる便所飯なんてもっての他で、本来はストレス解消となる「食事」がストレスの原因になりかねません。
+いじめられていることを悲観しない
以上が、いじめ対策の心構え+防御編です。長くなりましたが、まとめてしまえば2行で済みます。
- いじめてくる相手と仲良くしなくていい。
- いじめに対処するとは、ストレス対策のこと。
この二つを心がけることができれば、ほとんどのいじめは「とても辛い人生経験」ではなく「今日起きた嫌なできごと」になるでしょう。
世の中には、いじめに近い目に遭ってもなんとも思わない人、というのが割といます。どんな人かというと、あまり人の目を気にしない性格の人です*10。クラスでいじめに遭っているとしても、そのことを悲観しないならば、大きなストレスは発生せず、いじめ被害は実質的に無くなります。
多くの人は、いじめが解決した状態を「みんなから仲良くしてもらえるようになること」だと思っています。しかし、自分を嫌っている人と仲良くしようとすることはそれ自体が不健康です。ここで僕が述べたのは、他人に嫌われてるという状況をどうやり過ごすか、ということです。完全に誰にでもどんな状況でも可能なこととは言いませんが、それに近い状況を目指すことは、いじめ当事者にとって良い指針になるでしょう。
次回はもうすこし積極的にいじめ解決を目指す、あるいはそもそもいじめられないための、抑止+攻撃編を書きます。
*1:きっと昔いじめられたことがある大人が恨み節を募らせているのだと思う
*2:「今まで学校嫌だなあと思ってたけど、それは俺がいじめられていたからか!」という驚きは、いじめられなくなって何年も後に来たりもするするので、それよりはだいぶ良いと言える……かもしれない
*3:大抵は学校のクラス
*4:仲良くできる相手ならそもそもいじめは起きてないし、もし可能だとしても、その実現は教師の仕事で当事者は適任でない。
*5:通常、いじめは反撃の心配がない相手が対象となります。
*6:ただし、身を危険から守るためなら、面従腹背するという選択肢はなくはない。何事もケースバイケースです。
*7:なおストレスを根源的に解決するには、ストレス源を完全に消さねばなりません。つまり、この場合はいじめのコミュニティから抜けることが根源的な解決です……が、それがすぐにできないなら解決以外の対応も必要という話。
*8:実際の統計から知るのは難しいと思うのですが、ほとんどのいじめは学校の卒業=コミュニティの解体によって「解決」しているのではないでしょうか。
*9:もちろん進学や就職にも直接的に悪い影響があります。統計的にも、実際に自殺が起こる事例は稀で、むしろひきこもったせいで大きなマイナスの影響が残るケースのほうが多いことが判っています。
*10:正直に言ってしまえば僕自身いじめられても平気なタイプの人間です。だから僕は、自分がいじめらている人の気持ちが判っているとは思いません。しかし僕と同じことができればいじめに耐えるのは容易だということも保証します。
なぜいじめは起きるのか? への教育者向けではない説明。
いじめはなぜ起こるのでしょうか?
+「なぜいじめが起こるのか?」なんて段階はもう終わってる
+学校のクラスでいじめは起きる
+なぜ学校のクラスでいじめが起きるのか
+いじめられ役は偶発的に選ばれる
+偶然いじめられやすい子はいる
- 何か集団内で和を乱したり、失敗や問題を起こしたことがある。
- 全体的に「力」(暴力・財力・権力・学力など)に欠ける。
- 集団内に親しいに仲間が少ない。
+いじめに加担しやすい子もいる
- 日頃から理不尽に怒られたりしがち。
- 健全な社会経験が不足している。
- バカである。
+いじめは無くならない
+先生たちは建前上こういったことは言えない
*1:要するにある意味危険な訓練をしている訳で、だからこそ訓練教官=教師の責任を軸にいじめは語られます
*2:なかにはそうした集団心理をコントロールするのに長けた子どももおり、そういった子がいじめっ子リーダーになったりします。そういった子はしばしばクラスの人気者だったりもします。
*3:日本では特にこの傍観者タイプの子供が多くなりがちだとされ、いじめ啓発教育はそのために行われます。
*4:「いじめ問題」にならないいじめ行動を「からかい」と呼んで区別することがあります。
*5:実は専門書などでは言っていますが(僕がこの知識をしっているのはだからです)しかし現場で言うには言葉を選ばねばならないでしょう。マスコミの会見なんでもってのほかです。
はじめに
このブログは、僕が本を読んで学んだこと、気になって調べてみたこと、学生時代に習ったけれどみんなが分かってないと思ったこと、などについて長文を書く場所が欲しかったので作りました。
この欲求は今まで、mixiやyahoo知恵袋や友達と行く居酒屋などで発散してきましたが、今はそれらのSNS(と居酒屋通い)を辞めてしまったので、Twitterに連投することで解消しています。しかし連投とか我ながら迷惑だし、140文字ごとに切るせいで思考がまとまらないうえ大して欲求も解消しないという、悪循環に陥っています。
なのでブログを作りました。
正直ブログとか今更という思いもありますが、作りました。
タイトルにあるように、僕はあくまでも趣味で勉強し、趣味で自分なりにまとめて書くのであって、専門家ではありません。
むしろ素人です。素人だから勉強したのです。
ここで長文を書くのも勉強の一環だと思っており、より詳しい方々からのツッコミや間違いの指摘を歓迎しています。
どうぞお手柔らかによろしくお願いいたします。
最後に僕自身について書きます。
僕は自分の専門は社会学だと思っています。大学で学んで、そのあとも関連文献を読んでいるからです。あとSFファンでもあり、科学への造詣は、あくまでも文系出身者としてですがあるつもりです。地方で場末の文筆業をしており、わかりやすい文章を書く力にはそこそこの自信がありますが、誤字は多いほうです。趣味はコンテンツめぐりですので、小説やら映画やら漫画やらについても書きたいことを書こうとおもっています。
……ここまで読まれましたか?
こんなどうでもいい記事よく読みましたね。
ブログの設定をするのに最初の1記事があったほうがいいので書いただけの記事ですよ。今日びブログの自己紹介を読むなんて貴方は本当に優しい方だ。
今後とも優しくよろしくおねがいします。