能書きを書くのが趣味。

文章がすぐ長く小難しくなるけど、好き放題長く小難しく書く。

真の「民主主義の死」は公文書偽造で起きているのではない

 今回は民主主義について書きます。

 というのも、このほどのモリカケほか公文書偽造の件でもって、「民主主義の死である」などという意見が散見されるからです。その意見は正しい。公文書の偽造がまかり通るようになると、民主主義は立ち行かなくなる。

 しかし、僕が気になったのは「君たちは偽造が発覚するまで、民主主義がまともに生きているとでも思っていたのか?」ということです。公文書偽造によって理想の民主主義は確かに立ち行かなくなりますが、理想を実現するためには他にもいくつかの条件があり、それは今の日本で明らかに満たされていません。民主主義は最初から生きてなどいない。下手をすると、立ち行くことなど原則ありえない制度が民主主義であるかもしれない。

 もしも我々が、赤い布を見た牛の如く単にズルい奴に怒ってるのでなく、あるいは憲法改正に反対という理由で敵の弱点を見つけて喜んでいるのでもなく、本気の本気で民主主義を生き返したいと望んでいるのならば、安部政権以外のにも同じ怒りを向けねばいけません。

 具体的には、教育と、マスコミと、自分自身に怒りの矛先を向けねばならない。

 そして逆に、敵には怒りを向けることなく意見を聞かねばならない

 なにより、野党に方針の変更を求めないといけない

 

 本記事では僕なりに、理想的な民主主義とはどのような状態になるのか? ということと、それを阻害している今の日本の問題点とは? を書きます。それによって、本当は何に怒らねばならないかをハッキリさせます。

 

 

 +理想の民主主義とはどういう状態か

 

国会中に遊んでいる人たちのイラスト

 まず、民主主義とは何か、について。このような記事を読もうと思った人に言うのは恐らく釈迦に説法でしょうが、記事の流れとして。

 

 民主主義(デモクラシー)とは、民衆が主権者である政治体制のことです。

 

 これは何も複雑なところの一切ない、非常にシンプルな考えです。

 つまり普通の国ならば主権者は王様です。王様と同じ役割を国民がする国が民主主義国家です。自由だとか権利と義務だとか、そういう意味は一切含みません。王様に逆らってはいけないように、ただ国民*1に逆らうな。それだけの話です。

 実務としては、歴史上はじめて民主主義を実践した都市国家アテネやそれを参考したローマのように、投票と議会を運営します。

 しかし、それはどうやって上手く運営するのか?

 この時点で話が複雑になりだす。アテネの民主主義は衆愚政治収賄と独裁の繰り返しだったのは高校レベルの世界史で学んだ通り。そうならない為にはどうすべきか?

 理論的には、どういう状態になればいいのかは、ハッキリしています*2

 

  1. 人国10万人の国で、A、Bさんが大統領に立候補する。
  2. 十分に賢い国民が情報を精査し、どちらがふさわしいか判断する。
  3. もしAが7割の正しさ、Bが3割の正しさを持っているとしたら、国民は十分に賢いのでそれを見抜き、A´グループが7万人、B´グループが3万人に分かれる。
  4. A大統領が就任し、全ての国民がそれを認める。
  5. A大統領はA´グループだけでなく、B´グループに配慮した政策を実施する。なぜならB´グループの3万人が反乱を起こすと国が転覆するので。
  6. 同じプロセスが定期的に行われる。

 

 本記事ではきっかけが公文書の話なので、まず2を話題の中心に据えることになります。

 

 

+偽装のない公文書がなぜ理想の民主主義に必須か

 

 かわいい王様のイラスト大臣のイラスト

 上で述べた理想の民主主義プロセスを正しく回すには、偽装の無い公文書が必須です。だからみんな公文書偽装に怒っています*3

 

 民主主義とは、先に見たとおり、王様と同じことを国民がするということです。

 じゃあ王様とは何をするものなのか

 

 ここではイメージ優先にまとめましょう。

 王様が玉座に座ってると、部下から報告が挙がってきます。「○○という地方で干ばつが起きております」「○○に敵が攻めてきました」「○○のためには税金を集めねばなりません」などなど。それを基に、王様は、支援物資を送れ、敵を迎撃せよ、徴税権を地元有力者に与えて仕事をさせよ、とか政策を決定します。*4

 このとき重要なのは、王様は基本的に○○を自らいちいち見に行ったりしない、ということです。

 あくまでも部下の報告を基に判断する

 

 では、もしその報告がウソ情報だったら? 王様はウソ情報をもとに判断して、間違えるでしょう。

 王様が部下に騙された事例は歴史上いくらでもあります。奸臣がウソの反乱計画を王に教え、忠臣が切腹を命じられて、最終的に国が亡びるだとか。そんなことはかなり頻繁に起きています。

 だから公文書偽装はイコール亡国の危機なのです。

 王様が間違えたら 国がほろびる。

 だから間違えの原因になる要素はあってはならない。当然のことです。

 

 ……しかし、公文書に偽装さえなければ王様は間違えないでいられるのか?

 僕がひっかかってるのはそこだ。

 

 

+公文書以外に必要なもの

 

 グループディスカッションのイラスト

 民主主義は、結局のところ国民が王様の役をする制度です。

 ですので、理想的な民主主義とは「国民が政治判断を間違えない状態」を意味します。政治の理想とは政治が上手くいくことです。国民が間違えてもいいんだったら、それは公文書に偽造があってもいいということだ。

 

 それを踏まえて、上で確認したプロセスをもう一度確認しましょう。

 

 たとえば2番目の項目には、「十分に賢い国民が」政治を判断するのだと書いておきました。王様が無教養だと政治は間違える。これもまた当然のこと。さて我々日本人は、というか「あなた」は政治を十分に賢く判断しているのか? もっと言えば、そもそも判断をしているか? インフルエンサーが拡散した自分に都合のいいツイートをRTしてるだけではないか? 考えることを放棄して、国民がそもそも政治的判断をしないことも、当然ここでは問題になります。

  あと、3項目には、10万人の国民が7万と3万にピッタリわかれるとも書いておきました。今の日本の投票率はだいたいどんな選挙でも3割~4割ぐらいですから、国民はせいぜいAグループ3万人とBグループ1万人に分かれ、のこり6万人は態度不明のNグループです。6割がた態度不明の王様とか、結構な害悪ではないでしょうか。しかも、ちゃんと投票した4割の人たちは"政治的に熱心な人"が主で、それは悪く言えば、中立的で冷静な人が少ないということ。投票した人の意見だけを反映した政治は、中立性を失っているかもしれない*5。それは民主主義的に問題があるんじゃないのか*6

 5項目めには、代表者は反対派の国民の声も聴くことも必要だと書いておきました。上の例えでは代表者は大統領ですから、反対派とは少数派とイコールですが、選挙区制をとる日本の場合はそうではない。議員は、自分自身を支持者たちだけの代表者としてではなく、他候補を支持した地域の人たちの代表でもあると考えねばならない。テレビでよくみるあの議員さんは、自分に投票しなかった人の意見を聞いて、自分の意見に取り入れたりしているか?

 

 こういう理想の民主主義の話なんか、この記事をクリックした政治的に熱心なブロガーさんたちは、言われるまでもなく知っているでしょう。

 でも、僕がこの記事で言いたいのは、「ほならね、公文書偽造を怒るのと同じ勢いでね、国民の不勉強に怒ったり、無投票に怒ったり、したんですか」みたいな話なんです。

 もっと言えば「ほならね、公文書偽造した人らの言い分をそもそも聞こうとしてない政治家たちが*7、普段は、自分とは反対の意見に耳を傾けたりしてるというんですか」とかね。

 

 この憤りに何の意味も効果もないことは分かってる。

 確かに不正に怒ってるときは怒りにまかせて行動したほうが運動は盛り上がるかもしれない。

 でも筋が通ってないモンは、やっぱり筋が通ってないんだよ。

 

 

+特に必要な「ジャーナリズム」に基づく報道

 

 嫌な面接官のイラスト(就職活動)

 なかでも特に大きな問題がいくつかあります。

 そのうちの一つとして、理想の民主主義が実行されていない状況でとりわけ批判の対象にされるべきなのが、マスコミでしょう。

 

 皆様は「ジャーナリズム」という概念について正確なところを、ご存知でしょうか。

 ジャーナリズムというのは、18世紀に新聞(ジャーナル)ってものが出てきた時に、政治報道を主に行っていたその新聞を運営する上で持つべき倫理感という意味で語られ出した概念です。

 なぜ倫理観が問題になったのか? それは、インターネットも無かった当時、民衆にとって新聞だけが政治的判断を下す材料だったからです。民主主義下に置いて民衆が王様ってことは、王様は新聞だけを見て政治的決定を下しているということ。冷静に考えて、こんな怖い話があるか? だからまあ、せめて新聞を作る人にはかなり慎重な良識を持ってもらわねばならない、という。ジャーナリズムというのはそういう話。つまり、ジャーナリズムの良しあしっていうのは「民主主義の役にたっているか」だと言っていい*8。よく言われる客観報道とか真実を伝えるとかいう話は、そうしたほうが民主主義に役立つから言い出したことです。

 

 そうした理解を前提にすると、果たして今の報道ってのは、「民主主義の役に立って」いるのか? 

 これは本当に問題だと思ってるんですが、今の政治報道には、そもそも「民主主義の役に立とう」という意識自体が希薄です。

 

 もちろん、 芸能人のワイドショーや煽情的なだけの犯罪報道やりながら、ジャーナリズムがどうとか知る権利がどうとか、ちゃんちゃらおかしいわ……みたいな話は当然としてですよ。

 例えば「この報道で社会正義を成したい」だとか「国民を正しい方向に導きたい」だとか「悪の政治家を懲らしめたい」だとか。報道の人たちはそうやって考えている人が多いんじゃあないでしょうか?

 そんな心持ちで報道が成されてるっていうのは、国民=王様というこれまで繰り返してきた民主主義の比喩から言えば、王様の耳もとで「あいつ気に入らないから左遷しましょう」と囁き続けてくる部下が居る、という状態です。それがいい状態のわけがない。

 社会正義が何か決めたり、誰を裁くかを決めたり、ましてやどっちの方向が正しいか決めたりするのは、王様=国民で、マスコミではない。それが民主主義であり、ジャーナリズムというもの。

 

 これについて僕は、公文書偽造に怒ってる人らと同じぐらい怒ってるので、もう一度書いておきます。

 

 「国民を正しい方向に導く」のはジャーナリズムではないそんなのはただの扇動だ*9。 

 

 今の日本の職業報道人たちには、ジャーナリズムと民主主義の関係がわかってない人が多すぎる。自分は報道を職業にしてるからジャーナリストだ、ぐらいに思っている人が多い。少なくともそのように見える*10

 

 

+もう望まれてすらない民主主義

 

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 もう一つ、もっと根本的な問題について述べておきたい。

 民主主義はそもそも望ましいのかどうか

 多くの専門家や活動家が民主主義を守らねばならないということを、「ベストではないが、ベター」だとかよく言いますが、皆様はそのことをどれくらい本気で検討しましたか? なぜベターだと言えるのか、ちゃんと根拠を持っているか

 

 念のため最初に述べておきますがが、これは答えの出ない問題です。

 社会科学ってのはそういうところがあって、本当の科学なら、民主主義を採用した国と採用してない国を実験室にそれぞれ1000個づつ培養して実験しないといけないのだが。そんな訳にもいかないので、だから答えは出ない。

 しかし、正確なところは分からなくても、世界史を勉強することで明らかに嘘かどうかぐらいは判断がつくことがあって。そういう視点から見て明らかな嘘の根拠を持っている人が多いんじゃないかと思う。

 

 例えば、民主主義が望ましい根拠に、自由・権利・平和などを挙げたら、それは嘘です。よく知られているように、ナチスドイツの蛮行もイラク戦争の行為も民主主義制度下で行われたのであって、民主主義であるかどうかはそれら理想の実現とあまり関係がないのが明らかです。

 あるいは、自由民主主義社会は経済的に発展する、という考え方もある。これは冷戦下でソ連とアメリカを対比したときに言われていたもので、古いが強力な思想です。昔はこれが正しいとされていたが、21世紀現在、だいぶ怪しくなってきました。というのも、自由化を進めたソ連は別に豊かにはならなかったし、民主化が不十分な中国がむしろ迅速な決定対応で経済的有利を築いているからです。

 あとは、民主主義でなくなった国では国民が弾圧される、という考え方もある。これは実際の弾圧の例を聞くことも多く、まあまあ有望ではないかと思います。しかし個人的にはどうかな。というのも、僕たちって今、まったく弾圧されてないと言えるんですかね? 犯罪被害者の家に野次馬やマスコミが殺到するのと、特高警察がやってくるのとで、どれほどの違いがあるのか?

 あと、逆に「民主主義が望ましくない理由」だってありますよね。

 一番わかりやすいのは、民主主義国家は戦争が弱い。これは歴史が証明した純然たる事実であって、ギリシャやローマが強かったのは進めたのはペリクレスカエサル等による独裁制が強かったころだし、中国王朝もヨーロッパ諸国も王権が弱くなった国から滅んでいったし、逆になんだかんだいってナチスドイツも大日本帝国も(しばらくは)勝てた。普通、戦争が弱いと国は滅んでしまいます。今は核とかテロとかのせいでそうとは限らないが、自国の繁栄だけで考えるなら、戦争が強いに越したことはないのは確かだ。

 

 既にここまでの話で、ネトウヨがクソ議論をぶち上げてる、ぐらいに読んでる人も多いかもしれない。でも、ここで僕が訴えたいのは、「だから民主主義は捨てるべき」とかいう話じゃあないんですよ。主権を持っている国民自身が、こういう主張に説得力を感じはじめているってことを、もっと重要視したほうがいい

 国民主権を完璧に貫くのであれば、民主主義っていうのはもう捨てられるか、少なくとも弱体化するのが当たり前なのが昨今の世界です。トランプが当選したり、ブリグジットが起こったり、あるいはもっと身近かつ単純にネトウヨを良く見るとかいう話は、国民がそれを望んでいるということです。そのことをもっとよく考えてほしい。「民主主義を守るっていう結論に至らないやつは一部のアホ」みたいな考えを持っているとしたら、そいつがアホだと言わざるを得ない

 普通に生きてたら民主主義なんて馬鹿らしくなるのが今の社会ですよ。

 みんなそれくらいの不利益や不満は抱えている。

 

 なので、公文書偽装が発覚したからと、民主主義が死んでいる! と騒ぐ人たちを、僕は冷ややかな目で見ざるを得ない。民主主義が死んだかどうかより、制度とは無関係の民衆が救われているかを話したほうがいい。さもないと本当に民主主義は死ぬ。

 

 

+民主主義に唯一現存するメリット

 

 ドラフト会議でくじを引く人達のイラスト

 ここからは少し趣旨が変わります。

 民主主義の死についてじゃなく、生についても述べないといけない。民主主義のデメリットばかり述べると、まるで民主主義滅びろとか言っているみたいですが、僕は明確に民主主義は守らないといけないと思っています。でも、それは国民の権利や自由がどうこういう話じゃない(民主主義でそれが守れるという話は上で確認したようにウソです)。

 

 民主主義が「ベストではなくベター」である実際的な理由があるとすれば、それは流動性の確保という一点に尽きる

 民主主義社会っていうのは、衆愚政治に陥りやすくて、しばしば政治は迷走する。戦争にも弱いし、そのくせ戦争大好き人間がリーダーになることも多い。社会はすぐに混迷に陥り、対立が煽られやすいところがある。マスコミは暴走するし、官僚は不正をするし、決定が遅いから科学技術や経済の発展にも最適とはとてもいえない。

 しかし、選挙が正常に行われている限り、内戦が起こらない

 流動性があるので内戦がおこらない、というこのたった一文が、民主主義制度における唯一最大のメリットです。

 

 これが王政や独裁制であれば、政権が交代するときには必ず内戦が起こります

 王政による統治は、いまよりもずっと安定していて、いったん賢王が統治につけばその先の数十年間は民衆が政治のことを何にも考えないでもオッケーで、民主主義よりもずっと安心感が強い。王が賢ければカリスマ統治で黄金時代を築く事もしばしばある。しかし盛者必衰。永遠に賢いまま存続できる政権など存在しません。けれど、愚かな独裁者が自分の権力を守らない訳がないし、独裁者から権力をはく奪するには武力以外の方法がない。

 王政・独裁制を採用している国家は、将来的な内戦があらかじめ確定しているということです*11。これは歴史的にも理屈的にも明らかなこと。安定すぎる社会はしばしば硬直的で、組みなおすときに必ず破壊を伴ってしまう。

 

 民主主義にとってもっとも大事な要素とは、何年かに一度選挙が行われ、その結果によって政権の強弱や、政権担当者自体の変更が成されることです

 どんなクソ政権が今の政治をおこなっていても、数年たったら入れ替わるのだから、わざわざ暴力に訴える理由がない。だから内戦やクーデターが起こらない。

 このメリットだけが、ほとんど死にっぱなしの民主主義制度を、今なお意味ある制度にしている。と僕は思います。国民の権利がどうとかいう他の理由は、ほとんどは関係ないか、関係あるとしても今は実現していない理想ばかりだと思う。

 

 逆に言ったら、ちゃんとした選挙が行われてさえいれば、民主主義は別に死んでなんかいないとも考えられる。選挙が不正で正常に行われなかったとかいう理由で起きる内戦が国際ニュースに載ることがありますが、あれこそが真の「民主主義の死」です。公文書偽装が見つかったとしても、それが選挙結果に反映されるなら別に民主主義的には構わないんですよ。

 

 

+唯一のメリットを潰してやしないか

 

選挙ポスターを見る人達のイラスト

 しかし、そういう前提に立つと腹立たしいのは野党だ。

 野党、特に立憲民主党共産党ですが、彼らは選挙で勝つ気がない

 少なくとも、選挙で勝つための最適戦略を取っていない。 選挙っていうのは、結局のところ人気投票ですよ。一番票を取ったやつが勝つ。その為には、多数派の支持を得ることが必須です。デモに参加してる少数派からいくら熱烈に支持されても過半数議席はとれないんです。

 

 例えば、政権交代を目指す視点でいえば、憲法改正反対をメインの主張に据えるのは絶対にNGです憲法改正の賛否はかなり明確に、ピッタリ半々に国民の意見が割れているので、憲法改正反対をメインに打ち出すのは、票の半分を取り逃すことに等しい。

 だから安部自民党はそれをしませんね。せいぜいサブに添えるだけ。

 でも野党は憲法改正をメインにしますね。

 それで勝てるわけがない。

 

 同じような理屈で、野党と野党支持者の今やってることのほとんどが否定できてしまう。

 まず、安部自民党批判を繰り返すのは選挙的にはNGですね

 確かにかつて、民主党は、自民批判を繰り返すことで一度政権を取りました。しかし懲罰的投票行動の結果、民主党政権はヒドかった、というのが国民の大方の評価です*12。ですので、もう一回自民党の悪を主張しても、自分の人気にはならず、政治不信が進んで投票率が下がるだけ。そして投票率が下がると組織票の強い自民・公明党が有利になる。あと単純に人の悪口を言ってる人はイメージが悪くなります。「アベガー」とかネットで言われてるのは選挙的にマジでやばいですよ。

 最近やってた国会欠席戦術も選挙的にはNGです

 こればっかりは、いくら政治の専門家が正当性を主張したり、自民も昔同じことをしたことを主張したり、それらの主張がいくら正しいとしても無駄。仕事してない、ということがプラスのイメージにつながる訳ないでしょう*13? 昨今は労働ストですら、何週間も前から告知したうえ1日だけで終えたりするというのに。

 アベノミクスの効果の無さをアピールするのもNGですよ

 本当に効果があったかは確かに不透明な部分はありますが、現実問題として、アベノミクスに効果があったと感じる国民がかなりの割合いるのだから、これを否定してもなんの意味もない。彼らを取り込めるような"もっといいアベノミクス"を提案するのがどう考えても常道です。ましてやドアホノミクスだとかいう造語を述べても、大半の人は言ってる言葉が下品っぽいから離れる。

 

 総じて言って、無党派層を取り込む、という選挙の大・大・大原則を忘れているとしか思えない

 リベラル活動家の支持でまあまあの支持率を取れたので、それで目が曇っているのでしょうか? そういえば政権交代とかも、もうあまり言わなくなりましたね。*14

 人気を取ることに興味がない野党は、当然与党よりも人気がないので、今回の公文書偽造問題も選挙結果にあまり反映されないでしょう*15。これこそが今の日本で最も重要な民主主義の機能不全であり、本当に民主主義を憂うなら考えないといけないことだと思う。

 

 

+守りたいのは民主主義か、正義の自分か

 

 まとめます。

 

  • 公文書偽造は確かに民主主義の危機です。
  • でも日本の民主主義は公文書偽造なんかなくてもずっと危機的でした。
  • 危機に陥っていてもかまわないという考え方すらある。
  • いくら危機的でも選挙さえちゃんと動いてればオッケーです。
  • 今の野党は選挙に勝とうとしてないからダメ。

 

 まあこんなこといっても、大概無駄なんでしょうけどね。今の野党を支持してるようなリベラル活動家が、自分が「正義」であるという思想を転向して勝利を目指すことなど、僕も期待していません。だからどんなに不祥事が出てきても自民有利は続くだろうし、そのことに安堵と絶望を同時に感じています。

 でも誰かに伝わってほしい。

 公文書偽造にいまのやり方で怒っている限り、野党とリベラル派は勝てないし、本当の意味で「民主主義は生き返る」には、彼らが選挙に勝ち得る存在にならないといけないんだと思っています。

 そのためには、思想上の正義なんか捨てて、真の理想実現に向けた合理性を取らないといけないよ。野党とリベラル派の皆さんは、悪と戦ってりしてる場合じゃないんだ。ほんと。

 

*1:ここで「国民」とは何なのか? という話にもっていくと、ルソーの一般意思とかいう話になるのですが、今回は記事のテーマがとっ散らかるので省略。

*2:なお、この記事の後で確認するように、この理想のプロセスはちゃんと成立したことがありません。この点を指摘して、理想の民主主義などないのだとよく言われる。

*3:この後の話を僕は「きみたちホントは民主主義に必須だからじゃなく、公文書偽装が単にズルい感じだから怒ってるだろ」という風に持っていくつもりですが、ここでは一旦、誰もが民主主義のために怒っていることにします。

*4:民主主義の場合は選挙で王様の支持を仰ぐのもコストがかかるので、基本的には代理総督の人事ぐらいにしか王様は口出ししませんが。

*5:よく言われるのは、今の日本では若者ほど投票率が低いせいで政治が若者を冷遇しがち、とか。

*6:集合知について述べた名著、スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』では、集合知が正しい答えを出す条件の一つに、一部ではなく全員の意見を集計すること、を挙げていました。無効票が多い選挙は単純に結果が間違っている恐れも強いです。

*7:相手がアホかどうかや不誠実かどうかは関係ないですよ。念のため。

*8:もとが"倫理観"とかいう曖昧な趣旨なので、ジャーナリズムへの考え方は専門家でも相当ブレがありますが、僕はこれくらい言うべきだと思います。

*9:念のため、僕以外に同じことをもっとマトモに言っているブログを紹介しておきますね。http://sakaiosamu.com/2015/0109080045/

*10:これには昔から言われている原因があって、欧米ではマスコミに就職するのはジャーナリスト大学を出た学生だったりするそうですが、日本の特に大手新聞社・テレビ局に就職するのは、多くの場合学歴が高くて見た目に優れている人です。ジャーナリズムを専門に勉強した学生は、使いにくいので積極的に面接で弾かれると聞きます。

*11:この点、中国は非常に自覚的なのが強い。極端な民主化による内戦を警戒しながら、出来る範囲で流動性を用意しようとしていると思う。ロシアのプーチン政権も自覚はあるけど、対応策が「さらなる盤石化」なので、プーチン後にまたペレストロイカ的な内戦状態になるんじゃないか。北朝鮮はヤバイですね。体制が今のままなら、2・3世紀以内にクーデターは起こる。実際今の代になるときに血みどろの闘争はあった訳だし。なお、この脚注は全部僕の妄言です。

*12:野党の首脳陣がこの「国民の大方の評価」を把握してないかもしれないというのが、また頭の痛い点だが

*13:これを書いていた時点ではまだだったのですが、その後、実際にイメージがマイナスになりすぎて欠席戦術は失敗した、という報道が出てきましたね。

*14:こういう行動の不合理さは、きっと民主党の議員さんも多くの人が感じていたと思う。希望の党に流れたり、国民民主党を作ったりしたのは、そういう層だったんじゃないかと僕は想像しています。だから国民民主党にはちょっと期待している。

*15:しかも野党支持活動家は自民支持の多数派をしばしば「やつらはアホだから自民支持なんだ」とかいう。だとしたら君たちがアホに合わせないから勝てないのです。自民支持者の悪口を言っている皆様は、自分が野党の選挙の邪魔をしていることを認識したほうがいい。

「なんでアイツは脱走なんかしたの?」とかいう疑問の危うさ

 今回は例の脱走したアイツの事件について思うところを書きます。

  というのも、知っての通り無事に捕まりましたので。

 この事件が起こっている間、僕が住んでいる岡山県は比較的地理的にも近いということもあったのか、職場やら実家やらで、しばしば、「逃げてるね」「怖いね」「つかまらんかな」という話をする機会がありました。

 その中で、必ずあった発言が「っていうかあいつは何で逃げたかな? すぐに釈放だったろうに」という疑問。

 そういう疑問を持ってしまう人が多かった、という点に、そもそもの社会の歪さとかが表れている気がするので、ちょっと自分の中の整理をかねて書いてみます。

 

 

+「理由がないのが理由」です

 

 不良少年のイラスト

 まずは、冒頭の疑問に僕としての明確な答えを示しておきます。

 もともと微罪であり、1年程度の契機で出る予定であり、模範囚であった平尾氏がなぜ逃げたのか。妹がどうこういう話が出てきたり、つかまってみたら本人は「人間関係が嫌になった」とか言っていたりしますが。しかしそれにしたって、冒頭の質問をしたうちの親父のような人にとっては「いや、逃げたらむしろ妹とは会えなくなるやろ?」「いや、人間関係キツくても逃げたらもっとキツイやん?」みたいな話に見える。

 これに関して、俺が返す答えは一つです。

 

 そんな後のことが計算できるんだったらそもそも犯罪なんかしない。

 

 冒頭のような質問が出てくる人は、社会の底辺って場所にどういう人たちがいるのか、実感できてないのだと思う。無理もない。僕もたまたま友達に一そういうのがいるから判っているだけだし。

 ヤツらは、あなた方の想像をはるかに超えてアホだ*1。24時間よりも先の計画はほぼ建てれないと思っていい。財布の中に金があったら、それが帰りの交通費だと判っていてもキャバクラかパチンコにいくし、次の日になって帰りの交通費がないから貸してくれとか泣きついてくる。*2

 

 たぶん平尾氏は、あるときフッと「あ、出れるな」ということに気付いたんですよだから出た。出たあとで苦労するであろうことや、しばらく我慢したほうが確実だったことなど、そもそも頭の中にない。できたからやっただけで、他の理由などない。はずだ。

(僕は彼の人格や実際の状況を全く知らないので、これは後に論を進めるための空想だ、ということは申し添えておくけれども)

 

 

+「よほどの理由」を求めちゃうカシコイ方々

 

陰謀論のイラスト

 以上のような「脱走の理由」は、僕としては、話を聞いた瞬間からまあだいたいこんなところだろうなぐらいに想像がつくことだと思うのだけど。しかし今回、僕は結構多くの場で冒頭の「なんであいつ脱走なんかしたんだ?」という疑問を聞いた。ていうかずっとワイドショーではその話ばかりしてたし、捕まった翌日の今日も、報道の主眼が"今後の捜査で動機の解明を進める"とかでした。

 なんかいい例ないかなと思って、真っ先に見つかったこれです。

 内容としては、開放型刑務所の必要性を強調した報道です。それはいい。開放型刑務所に効果があるのは数字が証明しているし必要だと思う。それはそれとして、

ノンフィクション作家で、ここを取材したこともある斎藤充功さんは「なにか、よほどの理由があったとしか考えられない」という。施設は刑務官の監督下にはあるが、日々の生活は受刑者の自治ルールで運営されている。逃げ出す理由を見つけにくい

  元刑務官は「規律はむしろ厳しいですよ。その悩みを刑務所側が受け止めていたかどうか、疑問があります」と語った。生活ルールは受刑者が決めるのだが、おじぎの角度、移動は隊列を組み、曲がるときは直角、毎日の反省会など、開放型であるがゆえにしっかりした自覚が求められる。ただ規則を守るだけの一般刑務所とは違うのだ。

 この二つの描写が並行してならんでいることにちゃんと違和感を感じられましたか?

 

 キツかったら逃げる奴は、そりゃあいるよ

 元刑務官という方は、流石に現場を知っていて、そのことが良く分かっていらっしゃる。逆にノンフィクション作家だという斎藤充功氏は*3、取材どうこうというより、ちょっと人間への理解が追い付いてないところがあるんじゃないか。

 もっと言えば、開放してるんだから、どんなに楽だろうと逃げるやつは逃げるよ。前もって面接やらなんやらで入る人を選んでいるとはいえ、100%面接で人格が見分けられるなら世話ないって話だし。

 

 なんていうんでしょうね、これって非常に危ないんじゃないかと思って。

 つまり、社会にアホが存在することを想定してない、ってことですよね。

 

 ちなみに、今回の脱走を「和製プリズンブレイク」とか見てしまったかたがたも、方向性が違うだけで、同じ間違いを犯していることに気をつけてくださいね。洋ドラみたいな大層な事がなくても、ほとんどの犯罪はその場のノリで起こる。その場のノリだけで広島まで逃げることもできる。

 

 

+アホを想定しない社会はアホを許容しない

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 この件について特に危ういと思うのは、社会的弱者の味方であるはずの、リベラルとか左派とか人権派とか平和主義者とか自認してる方々です。

 人権良識派の方々ってのは、ノリで犯罪を犯しがちアホたちも「普通の人」として扱おうとするが、そのせいでアホに普通の良識ある反応を期待していると思うし、アホだと判った相手を「普通じゃない人」扱いしがちだと思う。

 自分たちが保護しようと思っているヤツラはアホである、ということをきちんと認識できていないと、きっとおかしなことになる。

 

 例えば、今回の事件でいえば、開放型刑務所の意義を強調するために、

一部のアホがいるが、他の大部分はまともに更生している

 だとか言う人が沢山いると思います。

 それがもうだめ。

 開放型刑務所みたいな更生施設は、むしろアホのためにあります。だって賢かったら普通の刑務所に入って出てきたところで、別に再犯なんかしないのだから。今回たまたま平尾氏の場合は失敗したけれども、アホを100%救うのはどのみち無理なんだから、それはしょうがないぐらいの話。"他の大部分のまともに更生してる人たち"が普通で、平尾氏は例外事例であるとか考えるのは、まず間違いなく認知の歪みです。たぶんみんなそんな変わらないよ。

 

 あるいは、今回の脱走が人間関係原因だという報道を見て、

刑務所側はもっと受刑者の人格を尊重すべき

 だとか言っちゃったりする方々もいるでしょう。

 それももうだめ。

 人格を尊重すれば必ず分かってくれる、とかいう発想は、実際のアホを真のあたりにしたとき、きっと貴方を不寛容な人間にする。貴方が人格を尊重してあげたアホは、きっとあなたを裏切るよ。だってアホだから。弱者を救いたいとか、人権を追求したいとか考えるなら、貴方の金でパチンコに行ったアホのことは、とりあえず叱り飛ばしたあと、普通にいっしょに酒を飲みにいくぐらいの感性が必要です。金を渡しといてパチンコに使われたときに、人としてあり得ない!とか怒り狂うのは、それはあなたが”人としてあり得る"ことを知らなかっただけだ。

 

 別に、アホの犯罪者を許せとか、逆にアホは殺せとか、そういう話じゃなくて。

 現実を知らないと、ちゃんとした対策ってものが建てれないでしょう

 現実的に考えることができていたら、開放型刑務所のある島にはちゃんと海に向けて監視カメラしかけておくとか。刑務所が人格尊重ぶりが十分かどうかを平尾氏の証言だけで判断つけるのはヤバそうとか。そういう話にちゃんとたどり着くはずだ。

 

 もっとも、直接物事を見聞きしてる現場は現実的にそういう対処をしているんでしょうが。

 外野でごちゃごちゃいう人たちには、あまり現実が伝わってないように、今回の一連の報道と周囲の反応を見ていて思った次第です。

 

 

 

 

 

(今回は何だかいつも以上に能書き感があるなあ。)

(まあいいじゃん。趣味だし)

*1:一方で「彼らとつきあっていると、我々自身、我々が思っているよりもずっとアホに近い生物であることも分かってくる」とかも実は言いたいのだが、それはまた別の機会に。

*2:僕よりもずっと具体例に詳しい方の記事が話題になったことがありましたよね。

「貧困は社会のせいだ!」と信じて、生活保護申請随行のボランティアをしたら、クズばっかりだった話

*3:調べたら、刑務所ルポを積極的に執筆している方だった。他のキツイところを見過ぎて感覚が鈍ってたのかな……。

上遠野浩平論⑥「可能性」に基づく種々の考察(作品いろいろ)

 上遠野浩平論の第6回。

 前回の第5回では〈世界の敵〉というモチーフがどのように描かれているかをしてるか検討することによって、上遠野浩平の中に、「ヒトには無限の可能性があるという」前向きな希望と「可能性は将来的に必ず失敗する」との悲観的絶望が同居していることを確認した。

 また更に、ブギーポップが〈世界の敵〉を"最も美しい瞬間"に殺すのは、未来への可能性がまだ輝かしいものに見えているうちに、人生の方を先に終わらせてしまうためであることも示した。

 

 こうした「可能性」に関する考察は、上遠野浩平の文学性におけるまさに中核である。なので実は、ブギーポップ以外のキャラクターたちやモチーフも、「可能性」を軸に検討することで、文学的な意味での存在理由を明確にすることができる

 本記事では、前回考察の成果を用いて、ブギーポップ世界のこまごました設定を、文学論的に検討していく*1。関連性なく個別の検討を書き連ねていくので、今回に限っては、見出し毎に全く話が変わることに留意してほしい。

 

 

ブギーポップはなぜ能力バトルものになっていったか

 

 よく中期以降のブギーポップを評する際に、「なんか能力バトルものみたいになってつまらなくなった」とかいう話を聞く。『ビートのディシプリン』などは敢えてそれを目指したらしいが、それ以外も含めて。

 これは、個人的には正直否定したい評価ではある(そこらの能力バトルものと同じじゃあないんだよ)。しかし虚心坦懐にジャッジすれば、能力バトルものとしての要素が徐々に強くなっていることは否めない。もうたいていの新キャラが能力持ちだし、最近はただの一般人のはずだったキャラクターたち、それも新刻敬や末真和子といった重要普通人代表みたいな人たちが、どんどんMPLS能力に目覚めつつある。

 しかし、それはなぜなのか? 擁護は本論の趣旨に反するが、考察はできる。

 

 上遠野浩平の世界観において、能力とは、その人間の「未来の可能性」を意味する。未来への可能性を発揮した人間がMPLSになるのであり、〈世界の敵〉はその最も極端な発揮の形である。したがって、上遠野浩平が「可能性」についてのストーリーを描けば描くほど、それは「能力」についてのストーリーにならざるをえないのだ

 もし強弁が許されるとすれば、ブギーポップシリーズがやっているのは能力バトルではなく、「可能性バトル」とでもいうべきものだ。ブギーポップに登場するキャラクターたちは彼ら自身の能力の強さではなく、可能性の強さを競ってバトルしている。実際その為に、上遠野浩平の作品における能力バトルは、勝ち負けというよりも「将来の可能性が潰える」という破滅による決着になったりする。ジャンプやマガジンの漫画みたいに、選ばれた特殊能力でド派手な必殺技が出るから強い、みたいな話とは趣旨が違うのだ*2

 

 ただし、上遠野浩平が「可能性バトル」をやっているとの認識は、一つの残酷な真実も意味する。

 上遠野浩平は「可能性」に優劣や強弱の概念があると思っている

 

 セカイには、やはり才能のあるやつと無いやつが厳然と存在するのだ。そして才能の無いやつはより才能のある奴に淘汰される――少なくともされやすい。セカイ系作家上遠野浩平としての、夢や希望に絶望した悲観的リアリズムが、ここにも表れている。

 

 

+歪曲王~上遠野世界におけるもう一つのヒーローの形

 

 歪曲王について。(この連載で取り上げすぎだけど本当に好きなんです)

 この存在は明らかにブギーポップと対になるヒーローとして造形されている。

 まず歪曲王は、田中志郎の中に生まれた二重人格的ななにかであるが、意識は田中志郎とは独立している*3。これは明らかに、宮下藤花とブギーポップの関係と同一である。また彼が現れるとき、レッドツェッペリンの「カスタードパイ」が流れる。これもブギーポップが流れす「ニュルンベルグマイスタージンガー」との対比であるに違いなく、選曲基準は恐らくブギーさんは非常に重厚なクラシックだったから歪曲王は非常に軽薄な音楽にしたといったところであろう。極めつけに、歪曲王はブギーポップと同じ、自動的な存在であるという*4

 

 これらの外面上の対比は、二人の存在意義が対比しているが故に設定された

 最も根本にあるのは、歪曲王の「心の中の歪みを黄金にする」という行動原理であろう

 

 前記事における検討で、ブギーポップがする「その人間が最も美しい瞬間に殺す」とは、その人間が致命的な失敗をやらかす前に殺すことだと明らかにした。可能性が現実となって、それが失敗であることを知って絶望するよりも先に、サクッと人生のほうを終わらせてくれるヒーローが、死神ブギーポップだ。

 歪曲王がやっていることは全く逆。「心の中の歪みを黄金にする」とは、その人間を必然的な失敗に向かわせる”歪んだ”精神の方向性を、失敗以外の方向に正すことだと思われる。つまり、将来の約束された失敗が、起こらないように修正してくれる

 なんというか、ブラックジャックに対するDr.キリコとでも言おうか。この場合安楽死を試みるDr.キリコ側に位置しているのはブギーポップのほうだが。

 

 上遠野浩平は、歪曲王以前や以降もしばしば”歪み”という概念を使っている。

 精神に"歪み"を持つ者は、本来向かうべき方向には決して向かわず、失敗するべくして失敗する。逆に精神に歪みがなく、"まっすぐ”な者は、ほとんど何をやっても成功する。例えば、『しずるさん』でよーちゃんの全能性を担保しているのは彼女が"まっすぐ"であることだったりするし、『パンゲアの零兆遊戯』のエスタブたちは感性が"まっすぐ"であるから予知能力を持っているのだとされる。

 そうした世界観において、「心の中の歪みを黄金に」してもらえることが、どれほど強力な救いかおわかりだろうか

 

 はっきりいって歪曲王は、ブギーポップなんて目じゃないほどチート中のチートである。なにせ、ブギーポップは失敗する前に殺すが、歪曲王は失敗しないように修正してくれる。どっちが良いかなんて言うまでもない。デウスエクスマキナよりも更に都合のいい存在、それが歪曲王だ。僕はてっきり、もはや作家本人も存在を持て余していて、ストーリーに関わらせられないのだろうと思っていた。『デカダントブラック』で再登場があったのはほとんど奇跡だ*5

  

 

 +可能性を自ら潰した男と、なお残る問い~『ペパーミントの魔術師』

 

 ブギーポップを通読した人間に、どの話が一番好きかを尋ねると、結構な確率で『ペパーミントの魔術師』を真っ先に挙げる。僕もそうだ。

 その大傑作の主人公である軌川十助について。

  軌川十介は、アイスクリーム作りの天才であると同時に、シリーズでも最強格のMPLSの一人であるとされる。能力は「他人の痛みと同化すること」。どんな人間も自分の痛みを直視することは出来ないので、どんな人間も彼を発見したり傷つけたりできない。更に、彼の能力は他者の痛みを消すことができる。痛みを消された人間は、他者に対する攻撃性を失い、それに伴って人生におけるやる気、生きる意味といったものを喪失してしまう。彼は食べ物に自分の能力を乗せるので、食べ物を広く流通させることで世界全体から人生の意味を喪失させることができる、まさに〈世界の敵〉である。〈世界の敵〉であるはずだが、彼はブギーポップに見逃される。

 軌川十介自身が、彼の「痛みを消す」才能を使うことを忌避するからだ。

 

 これは類まれな才能(=可能性)を持つ男が、夢の実現を自ら諦めた話と読めばよいだろう

 己の可能性の実現を後先考えずに目指すはずの〈世界の敵〉が、〈世界の敵〉にならないというのは、つまり夢を諦めたということ。夢の実現を目指すことは、しばしば愛する人を傷つけることに繋がる。だから夢は捨てる。まさにセカイ系作家・上遠野浩平の本領発揮。90年代の若いんだから夢を追え、というメッセージに、全力でノーを突き付ける形だ。

 そして、この物語のラストシーンがまた印象的である。

「……どけよ」

 やっと彼は声を出し、黒帽子を少し乱暴に突き飛ばした。よろよろとふらつく足取りで遠ざかっていく。その背中にブギーポップが呼びかけた。

「なあ魔術師――」「君は世界をどう思う?」

「……」

「君はどうする?」

*一部引用者の判断で省略アリ

  自身の夢と可能性を全て捨てざるを得なかった男に、ブギーポップは、このくそったれなセカイで君は何を成すのかと問う。しかし彼はいま、やりたいことを全部投げ捨てたところなのだ。辛すぎるやりたいことを無くした彼に、なにをやれというのか……。

 軌川十介は、ブギーポップの問いに「お前の知ったことか」と悪態だけを残し、答えることはなかった。

 

 でも人生ってそんなもんだよね、というね。自分の可能性を実現しようとあがいているうちは、確かに何もかもが輝かしくて、万能感にあふれているかもしれない。しかし可能性は必ず潰える。そして、可能性の消えた人生が後に残るのだ。

 っていうか、これは、かつて中高生で今はオッサンになった我々上遠野ファンがいま生きている人生ではないのか

 

 軌川十介はブギーポップの問いに答えなかった。それは、我々の前にいまだこの問いが投げ出されているということでもある。 

 「君は世界をどう思う?」「君はどうする?」 

 ブギーさん相手なら、お前の知ったことか、で済ませてもいいが、自分自身にこの答えを返す訳にはいかない。この大傑作で主人公と同時に物語の語り部をやっていた軌川十介*6は、己の中でこの問いにどんな答えを示していたのか。そして我々自身は、この問いに何と答えるのだろうか。

 

 

+寺月恭一郎~可能性たちのパトロン

 

 『ペパーミントの魔術師』の話をしたので、ここで寺月恭一郎についても検討しておこう。

 寺月恭一郎は、上遠野ワールドの中でも最も頻繁に名前が登場するキャラクターの一人だ。統和機構の経済担当だったとされる彼は、どうやって稼いだのか意味が分からないほどとにかく金持ちで、ブギーポップ世界ではその死後の影響があちこちで現れている。例えば、最近の大きな関わりとしては、世界の統治者に直結するかもしれないエンペロイド金貨を集めていたのが寺月恭一郎だ。

 しかし影響力の大きさの割に、結局のところ彼は何がしたかったのか? が判りにくいところがある。統和機構に忠誠心が無かったことは確かだが、じゃあ統和機構を潰したかったかというとそんな様子はない。他にやりたいことがあるのかと思いきや、やっていることは「ムーンテンプルを建設して、警告のビデオメッセージを残す」とかで、動機のようなものはさっぱりわからない。統和機構に殺された理由すら、なんだか稼ぎすぎという理由で調査したらスケアクロウが何となく怪しい気配を感じた、だとか、具体的な内容に乏しい。

 

 僕が思うに、たぶん、本当に彼には大きな動機など何もないのだろう。

 というのも寺月恭一郎というキャラクターは、”パトロン”という役割を作者によって負わされているように思われるからである*7

 ほんの少しでも芸術・文学を志した人ならよく分かっているように、真の意味で「可能性」を実現しようとしたら、一番の問題になるのはお金のことである。日々の生活費や、絵の具代や、展示スペースの用意等、お金は可能性の実現とは無縁の場所で必要になるくせに、無いと可能性自体が頓挫する。かといって、お金のためにバイトなどしていると、いつの間にか可能性の芽は潰れてしまったりする。

 いつの時代も、芸術にパトロンは必須だ。現代でも、出版社やレコード会社や金を出して買うお客さん、即ち市場がパトロンの役割を果たしているが、市場というパトロンは割と作品内容に口を出してくるので、本当に尖ったことをしたいなら、巨大資産を持つ好事家をパトロンにつけておきたい。

 寺月恭一郎というキャラクターが、まさにその「好事家」なのだ。

 たぶん彼は、19世紀の金持ちがわけのわからない絵画を好むのと同じように、MPLSという可能性が単に好きだったのではないか。誰かが世界と戦うところを見てみたい、しかし自分自身にその才能はない、という。それが、有望そうなMPLS能力に金を出してみたり、何か事件を起こしそうな建物を意図的にたくさん作ってみたり、そういう行動に結びついたのでは。そして、このとにかくMPLSを育てる養分を無差別にばらまくような活動が、恐らくはオキシジェンの能力に察知され、それで抹殺へと向かっていったのではないか。

「まあ、寺月恭一郎の酔狂ってのが、こいつの最も適切な説明かもしれないな」

 これは羽原健太郎先輩がムーンテンプルがどういう建物かを説明したときの評価だが、どうやら羽原先輩の仰ることに間違いはなかった。寺月恭一郎は本当にあらゆることを酔狂でやっていたのではないだろうか。

 

 

+可能性の無駄使いという醜悪~『ハートレス・レッド』

 

 これまでの考察で、本論は、死神ブギーポップは「その人間が最も美しい時」に殺す存在であることを重視してきた。だが、実は〈世界の敵〉の中には、全然美しくないタイミングで死んだキャラクターが何人かいる。そういう時ブギーポップは、姿を見せるだけで自分からは手を下さない、という形で帳尻を合わせるのだが、しかし特異な状態ではあるので、この補足記事のうちに是非とも触れておくべきであろう。

 ぜんぜん美しくない時に死んだ〈世界の敵〉の代表といえば、個人的にはフェイルセイフだと思う。

 フェイルセイフは、水乃星透子の教団から、ストレンジデイズの能力をかすめ取った男である。彼は他者の「死」を自分自身の体に塗り込めておくという方法で、14回までは死んでも生き返ることが出来る。あと「死」を抜き取ったあとの他者は"自動的な存在"となってしまうので*8、フェイルセイフは前もってのプログラミングで犠牲者をロボットのように操ることができる。あと当然のことながら、直接ストレンジデイズ能力を使うことで敵を無力化もできる。

 要するに、再生+洗脳+接死能力者だ。

 たしかに色々できそうだが、正直なところ、そこまで強い感じはしない。性格もアレだし、身体能力自体は普通の男だし、悪役として明らかに小物だ。悪役が小物のせいか『ハートレス・レッド』はシリーズ中でも人気のあまりない作品だったりする。

 

 しかし実際のフェイルセイフは、ブギーポップに、

「……生命と魂と、そして意思と尊厳と――どれだけのものを踏みにじれば気が済むのか。どうやら今回の敵は酷く――」

 ブギーポップは底なし沼のような暗い目をしていた。

「――質が悪いようだ」

 とまで言わせた、特筆すべき〈世界の敵〉だったりするのである。ブギーポップが"一切の容赦がない"表情と"左右非対称の表情"以外の顔を浮かべているのだから、これは相当だ。*9

 

 この小物の何がそんなに悪いというのか?

 それは、フェイルセイフのやっていることが、言うなれば可能性の無駄遣いだからだろう。ブギー先生は、〈世界の敵〉としてのフェイルセイフに次のようなSEKKYOUをされた。

「君は"無為"なんだよ。何のためででもない存在なんだ。君というもののいることが、他のものにも、そして君自身にすら何の意味もない――」

「君には道が無いんじゃない。君は道なんかいらないと自らそれを破壊しているんだ。そして……世界に君という可能性を広げていく。先に何も残さないで、ただただ雲散霧消していくだけの未来を。だから――」

「だから――君は"世界の敵"なんだよ」

 引用だけでも十分ではあるが、一応本論なりの言葉で表現し直しておく。

 この記事の最初のほうでも触れたが、上遠野浩平の世界においてMPLS能力というのは、その人間の可能性そのものである上遠野浩平は人間の可能性を本当に重要視しているし、ブギーポップが人を殺す「その人間が最も美しい時」とは可能性が輝かしき未来にを目指して進んでいる時のことだ。

 しかし、フェイルセイフは、輝かしい未来なんてものにそもそも興味がない*10

 きわめて強い可能性でもって、他人の可能性を踏みにじるが、それは自分の可能性の実現とは何の関係もない。

 フェイルセイフは、言うなれば上遠野ワールドにおける「もっともドス黒い『悪』」である

 

 ブギーポップは、しばしば既にどうしようもなくなってしまった〈世界の敵〉を、挑発したり騙したりすることで「その人間が最も美しい」精神状態に誘導してから殺したりする。しかし、フェイルセイフについては、そもそも「美しい」状態になることがないので流石に無理だったのだろう。容赦なく殺すことを旨とする普段の方針とは全く反対に、死にかけたフェイルセイフを前に彼がいかに悪いかを丁寧に説明などした。しかしフェイルセイフは結局、そうして説明されたことすら理解することはなかった。見苦しくも水乃星透子についてブギーポップに密告した挙句、結局は「いやどっちみち君は出血多量で死ぬね」とか宣告されて死んだ。

 ちなみに、似たような末路を迎えたキャラクターには、他に『ジンクスショップ』に登場したギミーシェルターがいる。そういえば、ギミーシェルターも保身を主眼とするキャラクターですね。

 

 

+上遠野世界観における「最強の能力」、そして中期ブギーポップ以降

 

 上遠野浩平を語るうえで避けて通れない作品に『ジョジョの奇妙な冒険』がある( もっともドス黒い『悪』とか、今しがた本論でも使った)が、あの作品では知っての通り、"時を操作する能力"が、常に特別なパワーとして君臨しており、たぶんそれは、作者の狙いとかではなく、物語の自然な流れとして今現在そうなっている。なぜその話を急にしたかというと、実は、上遠野浩平の作品世界にも、そういった意味で"特別な能力"が存在すると思うからだ。

 

 それらを仮に、可能性を操作する能力と呼ぶことにしよう。

 初出は、恐らく『エンブリオ浸食/炎生』に登場した穂波弘・タイトロープ*11

 穂波弘は、この能力で、自分でも知らないままに世の中全部の状況を"姉を助ける"という自分の望みが叶うように操作していたという。

 これが上遠野世界においてどれほど例外的な事態か

 上遠野浩平の世界観において、「可能性」が作品モチーフの最上位に置かれていることは、これまで散々強調してきた通りだ。

 しかし、タイトロープという能力は、「可能性」を「確定」にしてしまっている

 可能性が可能性でいられるのは、未来が不確定だからなのだ。

 タイトロープの能力に捕まった者は、どんなに強力な力があっても、それに抗うことはできない。現に、あんなに強かったフォルティッシモもイナズマも、ほとんど万能存在に見えるエンブリオすら、物語が終わってみれば彼に全部いいように動かされていたことになった。

 

 穂波弘のタイトロープほど強力な能力は流石に少ないが、他にも"可能性を操作する"能力に近い能力者は、中期以降のシリーズでしばしば登場し、その誰もが特別な扱いを受けている。

 例えば才牙そら・ナイトフォールは、分かりやすく他人の未来を操作している。彼女が落下した場所が必ず事態の中心になるという能力で、これの対象になってしまったらの誰も逃れられない。本人は無意識というところも、タイトロープに似ている。

 あと、いまだ詳細は不明だが、末真和子・ムーンリヴァーは、"とにかく選択肢を間違えずに物事をうまくやってしまう"という能力だと思われ、これは自分自身の可能性を操作しているのではないか。

 浅倉朝子・モーニンググローリーもかなり特別扱いされている。物事の本質を直接につかんでしまう、という彼女の能力は、説明だけ見るなら可能性操作能力の仲間に入れていいかは微妙な線だが。しかし彼女の特別さは、「他の人間がまだ到達していない可能性や未来に一足飛びで到達するポテンシャルを持っている」と読むべき。あと、なにより物語中での振る舞いとして、彼女が操作しているのはほとんど世界全体だ。

 《奇蹟》がMPLS能力よりも完全に上位の能力であるとされるのも、可能性操作という概念との関係、というか、無関係があるのではないかと思う。可能とか不可能とかいう次元を超えていきなり結果を起こすのが奇蹟だ、とか。*12

 2018年4月発売の最新刊では、パニックキュートという大物キャラが登場した。これは世界の歪みが認識できる能力だったとされるが、それは世界の可能性と未来が認識できていたということではないか。直接能力を使った描写はないが*13、字面だけなら可能性操作能力の仲間に見える。

(我ながらだいぶ強弁を含んでいるのではという疑念はあるが一旦放っておいてほしい)

 

 そして、可能性操作能力を最も意識的に使っているのが、ほかならぬ統和機構アクシズ・オキシジェンである。

 しかしオキシジェンについてここで語るのは控えよう。

 というのも、次の記事からの連載の中心的なテーマにするからである。

 

 可能性を操作する能力が、上遠野浩平の作品世界に存在するということ。それは、MPLSや〈世界の敵〉の存在によって上遠野浩平が表現してきた可能性」よりも、オキシジェンが体現する「運命」のほうが上位に位置しているということだ。

 どんな「可能性」も、「運命」にはさからえない。

 上遠野浩平は、中期ブギーポップ以降、主に描くテーマを「人間の可能性」から「運命」に切り替えている節がある。このテーマの変更は、当初は分かりにくかったが――分かりにくかったせいで一部シリーズが迷走したとすら見られているが――デビュー20周年の節目を迎えた現在なら、考える材料も増えてきっちり文学的な検討ができると思う。

 

 という訳で、次回の第7回はオキシジェンについてだ。

 まだ正直いって検討がまとまりきらないので、少し時間をもらうかも。

 

*1:なお、この点はいくら強調しても足りないと思うのだが、本論の検討を「文学論的」とするのは、エンタメとしての価値や小説としての面白さの分析を行うのではないし、ましてや作者の意図の全てを明らかにする訳ではない、という点をはっきりさせる為である。

*2:能力バトル漫画は個人的にも好きであり、悪くいっている訳ではない。念のため。

*3:田中志郎と歪曲王が別の存在であることは、『歪曲王』のエンディングで、寝ている田中志郎が急に歪曲王として喋りだすことから判る。

*4:自動的な存在であるという設定は、上遠野浩平が「こいつめちゃ強い」とお墨付きを与えたも同然だ……と思っていいのだろうか?

*5:といっても、『デカダンドブラック』で歪曲王は、宿主に対して「君の歪みはもう歪み過ぎて僕にも処置なしだ」とか言っている。能力のチート性にある種の制約がつけられたとみて良く、これならまた登場があるだろうか?……いややっぱ難しいかな。短編『メタルグゥルー』はヒーローとしての歪曲王に、ライバル格の敵役が設定される話だったが、それも短編集にすら収録されないし。

*6:軌川十介が語り部をやっているということは、実は『ペパーミントの魔術師』全体が、彼自身による過去の振り返りということである。つまり彼は、分かりにくいが、第4回で検討した末真和子や木村昭雄と同じ「セカイと断絶したままの人生を生きている人」でもある。

*7:ちょっと悪い読み方をしてしまえば、ストーリーのギミック的にお金が必要になったら、寺月恭一郎の名前を出しておけばいい、みたいな。そういう意味でもパトロンの役割を作者に持たされたキャラクターと言える

*8:また出てきた、自動的な存在。ブギーポップや歪曲王はフェイルセイフの犠牲者と同じってことですよね。これはどう考えればいいのか……。

*9:どうでもいいが、本当に邪悪という設定の敵なのに読者からは小物にみられているという、このズレっぷり。本当に上遠野浩平っぽいと思う

*10:一応〈世界の敵〉でありながら可能性の実現に興味がないのは、彼の能力がしょせん貰い物で自分自身の可能性ではなかったからだ、という説明もできなくはない。彼自身の可能性が能力として目覚めたなら……いや、たぶん能力に目覚めるような可能性を持ってないからこその悪なのだろうな。

*11:恐らくと留保を設けるのは、『パンドラ』で、未来予知能力者たちがやっているのがそれでは?という話が本文中に出てきているので。しかし明確に可能性操作が名言されたのはタイトロープが最初のはずだ

*12:というか、どこかにそういう描写はあったと思うのだが。読み直して見つけたら引用元修正します。

*13:ないってことでいいよね。ネタバレかもしれないけど。

「上遠野浩平論」⑤〈世界の敵〉はなぜ敵なのか(『夜明けのブギーポップ』『VSイマジネーター』)

 

 上遠野浩平論の5記事目。ここからは第2章です。

 第1章に位置付けた第1~4回では、上遠野浩平という作家の来歴を中心に見ることで、この作家が所謂「セカイ系」に属する作品を書いていること、それはブームを狙ったのではなく、むしろブームのほうが上遠野浩平の上を通り過ぎていったこと、上遠野浩平セカイ系描写がまさに天才というべきものであることを確認した。

 

 ここからはそんな上遠野浩平が一体どういう作品を書いているのか、上遠野浩平という作家にとって中心となる問題点・美意識は何なのかについて述べていく(いよいよ文学論っぽくなってきた)。

 上遠野浩平の問題意識を探るのに、まず鍵となる概念は当然〈世界の敵〉

 ブギーポップが自動的に殺していく〈世界の敵〉とは何なのか。なぜ上遠野浩平は彼らをブギーポップに殺させるのか。それを検討すれば、この作家の中核となるポイントが見えてくると本論は考える。

 

 

 +世界の敵とは何なのか~『歪曲王』における証言

 

 さて〈世界の敵〉という問題に取り組むにあたり、開始地点とするのは、『歪曲王』のクライマックスだ。

 既にたびたび引き合いに出したこの作品だが、なかでも歪曲王とブギーポップが直接対決するクライマックスは、シリーズでも5本の指に入る屈指の名シーンだ。その中で、ほかならぬブギーポップが、これまで戦った世界の敵たちについて解説を行っている。

 ……かつて、一人の少年が居た。その少年は、別にそれ自体では悪くもなんともない人間だった。だが彼は実は世界の敵だった。なぜなら彼には"生きること"というものにたいして本人も気づかぬ根深い憎悪があったからだ。それでもそのまま生きていたとしたら、あるいは何でもないまま、普通に生きていたかもしれない。だが彼は運命のいたずらで"人喰い"と出会ってしまって、自分のことをはっきりと知ってしまった。彼自身が"人を喰うもの"になってしまった。怪物の法は単に生存条件だったから人を殺していたが、彼のほうは理由らしい理由もなく、ただただ殺し続けた。彼には終点という発想がなかった。もし今でも生きていたとしたら、彼は完全にとりかえしのつかないものを探し出して、世界を破壊していただろう。

  ……そして、一人の少女がいた。彼女は人の死を見ることがことができた。それ自体ではなんでもない能力だった。医療関係や危機管理などの方面に進めば、役に立てることができる能力だったかもしれない。しかし彼女はその"死"を絶対的な物だと考えてしまった。人から"死"を取り出して寄せ集めて、何か巨大なものが創れるという考えにとりつかれてしまった。それが人という限界を"突破"することだと思ってしまった。素晴らしいものに近づけるなら、生きている必要などない、という立場に立ってしまい、そして世界の敵になってしまった。"死"を全く恐れないように人の心を作り変えてしまおう、とまで思うようになってしまった。

  ……どちらも僕の敵になってしまった者たちだ。彼らには、残念ながらそれ以外の道というものはなかった。ぼくとしては彼らがそれ以上進まないように"遮断"する以外なかった。

 まず注目すべきなのは『笑わない』における〈世界の敵〉は、マンティコアではなく早乙女正美であった、という点だろう。人食いの化け物がそこにいること自体はどうでもよくて、ブギーさんの言うところの"人を食うもの"が問題だった、らしい。ただ、それはつまり行動の方向性の話ということだろうか。将来的にきっと世界に破滅をもたらした、という彼の精神性が問題だったのか。これだけでは判然としない。

 また、ブギーポップは、水乃星透子がなぜ〈世界の敵〉だったのかについても言及している。どうも、単に”死が見えて触れる少女”というだけなら〈世界の敵〉ではないという話らしい。しかし、死のエネルギーを束ねて”突破”を目指したので、世界の敵認定を受けてしまったようだった。

 なお、当の『歪曲王』のストーリーで〈世界の敵〉認定を受けていたのは、ゾーラギという大怪獣だったようである*1。想像上の存在だが、歪曲王の能力制御失敗で生まれかけており、もし本当に具現化していたら、まさしく世界が物理的に壊滅したであろう*2

 

 それにしても、こうして並べてるとなかなかに豊富なラインナップだ。

 

  •  なんだかちょっと頭のおかしいサイコパス
  •  超能力で何か変なことをしようとした少女
  •  物理的にただただ強い大怪獣

 

 ちょっとバラエティに富み過ぎてすらいる。

 これら全てに適応できる〈世界の敵〉の定義とはいったいなんなのだろうか?

 

 

+〈世界の敵〉とは?への明快な答え~『夜明けのブギーポップ

 

 ……まあ、答えは作品の中で割と明示的に示されているのである*3。僕含め上遠野ファンはわりと世界の敵の定義という話題で脳内が(直接上遠野浩平の話ができることは少ないので)盛り上がっちゃうのだが、実はあんまり議論の余地はなかったりする。

 答えが示されているのは、シリーズ最終巻(仮)だった『歪曲王』の直後に出版された、『夜明けのブギーポップにおいてだ。

 本作は、ブギーポップブギーポップになった時期の物語、いわばブギーポップのビギニングものである。なのでストーリーの随所で、不気味な泡(ブギーポップ)というネーミングの由来だとか、ブギーポップが黒い筒みたいな衣装を着てる理由だとか、ニュルンベルグマイスタージンガーを流す理由だとかが語られている。*4

 で、その一貫で、ブギーポップ自身が「自分が殺す〈世界の敵〉とはどういう存在か」をハッキリ語っているのだ。それは、宮下藤花が二重人格の患者として精神科医に連れられてきたシーンのことだ。

「しかし、使命のほうは分かっている。世界の危機を回避しなくてはならないんだ」

「へえ? 世界に危険がせまっているわけね?」

「そうらしいね。世界の敵がこのへんにあらわれている。このままでは世界は滅びる。迷惑をかけている宮下藤花本人や、その母親には悪いが、ぼくにはどうしようもなくてね」

「スケールが大きいわねえ」

「もっと正確に言うと、すべての人間はみな世界の敵たりうる可能性を秘めているんだ。人間というのは起爆剤のようなもので、ちょっとしたきっかけですぐに破裂する。そして後先考えずに世界を軋ませていく——ぼくは言うなれば、そういう者の天敵みたいなものか」

 *注:引用者による一部省略アリ

 僭越ながら僕が一言でまとめさせてもらおう。

 

 〈世界の敵〉とは、なんか放っておいたら世界を滅ぼしてしまうやつのことである。 

 

 身も蓋もないが、書いてあることをそのまま読めばそうなる。"破裂"して世界の敵になってしまった人間は、"このままでは世界を滅ぼして"しまう。

 問題は、ここで言う「世界を滅ぼす」とはどういう状態を指すのか、ということであるが。これは恐らく、観念的な意味とか例えではなく、ガチで世界が滅びることであろう。上遠野サーガにおける未来では必ずそれが起きることを、我々は知っている。虚空シリーズや奇跡使いのセカイが、ここでいう「世界が滅んだ」状態のはずだ。上遠野浩平は、「世界の滅び」についてかなり直接的な破滅を想定しているはずである(この点については本記事の中でまた改めて述べる)。

 

 ブギーポップ曰く、〈世界の敵〉は、後先を考えずに、そういうガチの滅びへ向かってしまう

 

 例として最も判りやすいキャラクターは、まさに『夜明けのブギーポップ』に登場する敵、来栖真紀子=フィア・グールであろう。フィア・グールは自分自身の性質を分析するなかで、「もし自分に"世界の弱点"が判るようになったら、それを突かずにいられるだろうか?」を考察している。そして「まちがいなく突くであろう」とハッキリ述べている。放っておいたら、彼女はきっとそのレベルに達していたに違いない。だからブギーポップが殺す必要があったのだ。 

 上で挙げた、早乙女正美、水乃星透子、ゾーラギが持っていた共通点も、まさに「放っておいたらヤバかった」という一点にある。逆に言えば、ブギーポップは「放っておいても大丈夫なヤツ」のことは普通に見逃す。

 

 本論の文学論としての趣旨から離れて、能力バトル設定的な話をすると、ブギーポップの最大の能力はそういう「危機かどうかの見極め」にあるのだろう。『オルフェの箱舟』の戦闘シーンにおいて、ワンホットリミットは、ブギーポップに攻撃しようとしても直前でそれを察知・対処される、と分析した。恐らくブギーポップは、直接戦闘だけでなく、〈世界の敵〉の感知という仕事にもこの危機察知能力を使っている。 

 

 

+水乃星透子の誤解~『VSイマジネーター』

 

 さて、これで〈世界の敵〉が「放っとくとなんか世界を滅ぼしちゃうヤツ」であることが判明した。

 でもなんというか、本当にそうなのか? という気分が拭えないことはないだろうか。

 実は、僕自身そうである。 いろいろ考えたのだが、恐らくこの違和感の原因は、作品内に「ブギーポップが殺す相手がどういう奴か」を誤解しているキャラクターがいるからだろう

 それは『VSイマジネーター』に登場する水乃星透子だ。

 『VSイマジネーター』は、基本的に谷口くんと織畑さんのボーイミーツガール、飛鳥井仁先生の人類補完計画、スプーキーEの統和機工悪だくみ、の3つのラインで構成された物語だ。しかし一方でこれは、上遠野ファンにとって貴重な「水乃星透子がガッツリ出てくる話」でもある。

 水乃星透子=イマジネーターは、上遠野浩平が〈世界の敵〉というテーマに最も熱心に取り組んでいた時期に登場した大物キャラだ。しかも、ブギーポップの宿敵とされている。なので、実は彼女の存在にこそ〈世界の敵〉という概念に込められたテーマ性が、真正面から現れている。 

 

 水乃星透子がブギーポップに関する評価を下すシーン。part2冒頭の、ブギーポップに追い詰められているときの発言を確認してみよう。

「残念だわまったく——」

「結局あなたも"今"にとどまるだけの存在なのね……本当に残念なことだわ」

「しかし、あなたがいくら待ったところで、いっこうに何ひとつはじまることはないと思うわよ。そのうちにあなたは、その名前の通り世界にむなしく浮いては消えるだけの、ただの泡ということになるんだわ」

    このあと彼女は、ブギーポップによって「イマジネーター」という名を与えられ、敢えて自殺することで、”本当に地面に落ちるまでの間"だけ存在する精神体として、ブギーポップにも手出しできない存在と化した。

 このシーンは、物語のプロローグ部分にあたり、それにふさわしい思わせぶりかつ期待を煽る描写となっている。そのため、『VSイマジネーター』だけを読んでいる段階では、例によって単なる難しいセリフとして流してしまいそうになる。

  しかし、上の『夜明けのブギーポップ』の検討で判明した〈世界の敵〉の定義を踏まえると、彼女はどうもおかしなことを言っている。

 

 水乃星透子は自分のことを"今"の反対、イコール"未来"だと評しているのである。 

 つまり、自分が世界を滅ぼすなんてことは微塵も思っていない

 

 彼女が目指した「突破」が何だったのかは、今に至っても明らかではないが、水乃星透子はそれを”良いこと”だと確信しているようだ。 しかしブギーポップが反応している以上「突破」は、明確に世界を滅ぼす行為であるはずだ。恐らく、早乙女正美が核兵器のボタンを押すとか、ゾーラギが街をぶっ壊すとか、それと同等程度に明確な滅びがもたらされる事態のはずなのである。

 

 ブギーポップと水乃星透子の見解が、正反対になっている。これは単なる立場の違いなのだろうか?

 

 念のため述べておくと、二人のうちいずれが正しいかを決めることは、基本的にできない。上遠野浩平がいつか「やっぱりブギーポップは変化を潰しただけの悪で最後には滅びるんだよね」とかやってくる可能性はゼロではない。しかし、本論では敢えて、ブギーポップがやはり正しいのだと、メタ読みしてしまおう。なんといってもブギーポップは変身ヒーローで、正義の味方なのだから。

 するとどうなるか? 先に引用したシーンは、水乃星透子がブギーポップを不当に非難している負け惜しみの場面ということになる。

 

 ちょっとヒーロー物のお約束シーンを想像してみよう。ロボット探偵か何かが、悪のマッドサイエンティストを追い詰める。マッドサイエンティストはロボット探偵を「人類の未来のために私の研究は必要なのにそれがなぜわからん」とか唾を散らして罵る。それで緑色の薬品を自分に打って怪人に変身したりする――。

 水乃星透子があんまり超然としているので、僕自身この記事を書き始めるまで思いもよっていなかったが。実は水乃星透子がイマジネーターになるあの墜落シーンは、そういう風に読むことが可能だ。

 

 

+統和機構の仲間と誤解されがちなブギーポップ

 

 『VSイマジネーターpart2』における、水乃星透子のブギーポップ評は単なる負け惜しみに過ぎない。この読みには、他の描写からも有力な傍証を得ることができる。

 先の引用をもう一度思い出そう。水乃星透子はブギーポップは所詮"今"に属す存在であるから、未来である私を殺そうとしている」と、述べている。

 

 それをやっているのは、統和機構であって、ブギーポップではない。 

 

 ブギーポップは"現在"を守っている、というのは、しばしば我々読者も陥ってしまっている誤解だ。さっき〈世界の敵〉の定義を確認したときに感じた違和感も恐らくその誤解が原因で、ここで水乃星透子が言っていることを、真実だと考えていたからだと思われる。『VSイマジネーターpart2』は、『夜明けのブギーポップ』はより約1年前に先に出版されている。先に聞いた話をなんとなく信じてしまうのは、無理からぬこと。*5

 

 その誤解をここで正してしまおう。

 上で確認したように、ブギーポップが対処する〈世界の敵〉とは、ガチの滅びをもたらす存在である。この「ガチの滅び」は「世界がいまとは全く別のセカイになってしまうことを便宜上〈世界の危機〉と呼んでいる」みたいな問題ではないという意味に受け取らなければ筋が通らなくなる。

 ブギーポップは、統和機構であれば間違いなく排除したであろう影響力の大きなMPLSや周辺状況を頻繁に見逃す。例えば、ノトーリアスI.C.E.やエンブリオがそうだし、世界に激変を与えたかもしれないピートビートのカーメンの旅や、ジンクスショップの活動に介入することはなかった。あるいは逆に、統和機構であれば"危険な道具"としか判断しなかったであろうロックボトムを〈世界の敵〉認定したりもする。

 

 〈世界の敵〉と統和機構の敵が同じでないでないことは、ブギーポップの行動を通してだけでなく、もっと直接的な描写としても明示されている。例えば、『夜明けのブギーポップ』における霧間誠一と水乃星透子が会話するシーンでもそれは示される。

「——おじさん、なんなの」

「実はすごい大物なのさ。こう見えても私は社会の敵ナンバーワンなんだよ」

 社会の敵という表現は、明らかに〈世界の敵〉との対比であろう

 この対比は「社会の敵は〈世界の敵〉とはまた違う存在ですよ」ということを示すための表現だ。実際、社会の敵たる霧間誠一を殺すのは、ブギーポップではなく統和機構である。

 水乃星透子は、自分もまた霧間誠一のように〈社会の敵〉として殺されるのだと誤解していた。だからブギーポップを社会の傀儡と見做し、所詮現在に属する存在だったと非難した。しかしそれこそが誤解の元だったのだ。水乃星透子は、自分が霧間誠一よりもずっとタチの悪い存在になっていることに、全く気付いていなかった。いや、もしかしたら、自動的な存在でもあった*6彼女には、自分が世界を滅ぼすことなんてそもそも思い至ることすら不可能だったのだろうか。

 いずれにしても、ブギーポップは、水乃星透子の誤解をわざわざ正すような真似はしなかった。死神は一旦敵と見做した相手に慈悲などみせない*7。水乃星透子は誤解を抱えたまま、即ち、自分が放っといたら世界を滅ぼしたであろうことなど全く知ることなく死んだ

 

 

+霧間誠一の警句に込められた意図

 

 そして、この水乃星透子の誤解と死を踏まえて、もう一度『VSイマジネーター』を通して読むと、当初は読み飛ばがちだった箇所が、ハッキリした文学的テーマ性を主張しだす。

 各章冒頭に引用(?)されている、霧間誠一の警句に注目しよう。なかでも最もわかりやすく上遠野浩平の意図したテーマが表れてくるのが、part1の冒頭付近で出てくるこれ。

もしも君が善良たろうとするならば、未来などには関わらぬことだ。それはほとんどの場合、歪んだ方向にしか向いていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 水乃星透子がpart2の冒頭でブギーポップを「今」と罵るのを踏まえると、非常に示唆的である。水乃星透子が誤ってしまったのは、彼女が「未来」を目指したからだったのだ

 霧間誠一は似たようなことを次々に述べる。

可能性、もしくは想像力と我々が呼んでいるもののうち99%までは偽物で、本物は残る1%に過ぎない。しかも問題は、それが同時に邪悪とも呼ばれることだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分の仕事を疑うのはよしたまえ。たとえどんなに意味不明で甲斐のない仕事に見えても、実際にその通りだという事実に直面するよりマシだ。

霧間誠一(VSイマジネーター)

新しい可能性は、ときに自分に似たものすべてを食い尽くし……挙句に自滅する。

霧間誠一(VSイマジネーター)

自分は正しいか、と自問するより、自分のどこが間違っているかと考えるほうがずっと事実に近いはずだ。ほとんどの人間はいつでも正しいことはできていない。

霧間誠一(VSイマジネーター)

 総じて、霧間誠一は「何かをやろうとすると失敗するぞ」「可能性は良いことなんてほぼ起こさないぞ」「正しいと思ったことをやってるなら騙されてるぞ」という意味のことをずっと述べている。悲観主義も極まれり。およそ未来には希望などない。

 本論は、上遠野浩平が描こうとしているテーマとは、まさにこれだと考える。

 

 〈世界の敵〉というのは、「未来に向かおうとして失敗した者たち」である

 

 上遠野世界において、ヒトの持つ可能性は限りなく大きい

 上遠野浩平は、どの作品でも「可能性」や「未来」といった言葉にこだわる。上遠野浩平はヒトの可能性をほとんど無限だと考えている。あんまりにもヒトの可能性が大きすぎるので、ちょっと刺激を与えられた程度でMPLSなんてものがぽこぽこ出てくる*8し、独力で世界を破滅させなかねない規模の可能性を持つ者もごろごろいる

 しかし一方で、霧間誠一がさんざん述べているように、可能性を実現しようとすることは、致命的な失敗に至ることとほぼ同義である。その点において、上遠野浩平は極めて悲観的だ。誰もが可能性を持っていることは、誰もが必ず失敗することに等しい。しかもそれが失敗に至ったとき衝撃の大きさは、可能性の大きさに比例する。実際、小説の盛り上がりという制約を差し引いて考える必要があるにせよ、上遠野世界において何かを目指した人がそれを成し遂げることは殆どない。

 

 上遠野浩平は、人間の可能性と未来について、無限の希望と底抜けの悲観を同時に抱いている。

 その表れたるモチーフが〈世界の敵〉なのだ

 

 もっと言えば、これは他人事の失敗の話ではない。〈世界の敵〉というモチーフを通して上遠野浩平が表現しようとしているのは、「未来に向かおうとして失敗する僕たち」である。誰にでも可能性があることは、誰でも〈世界の敵〉に成り得るということ。何か自分なりの夢をかなえようと努力している中高生の僕たちは、失敗して〈世界の敵〉と化そうとしている途中なのだ。

 それを認識してなお、僕たちには、なおも前に進もうとする勇気があっただろうか? 本当はもっと大きな夢があったけど、安定志向のためだけに大学受験を目指したりしなかったか? 僕同様に上遠野浩平のようになりたくてラノベ賞に投稿などしていた諸君、皆様の失敗の最大要因は、実は夢を目指したこと自体だったのです。

 

 ここで少し〈世界の敵〉という本論のテーマからずれて、補足をしておく。我々は、将来の失敗が前提されているのを実は霧間誠一に言われるまでもなく知っている。しかし、失敗が怖いけど前に進まなければならない、という状態になるときがある。そんなときに付け込んでくる存在が「イマジネーター」である。イマジネーターとは、自身の正しさを担保してくれる存在である。自分は正しい方向に進んでいるという確信を、宗教のように与えてくれる*9。イマジネーターによって自身の正しさを得た人間は、飛鳥井仁のように、本来は出来ないような非道を確信をもって成してしまう。

人間の生涯に何らかの価値があるとするならば、それはその何者かと戦うことにしかない。自分の代わりに物事を考えてくれるイマジネーターと対決するVSイマジネーター——それこそが人々がまず最初に立たねばならない位置だろう。

 私たちはイマジネーターに頼ってはならない。自信が間違っているとかもしれないという不安を抱えたまま、あくまでの己の意思で前に進まなくてはならない。その為に、前に進むかどうかを決断するよりも先に、まずイマジネーターと対決しないといけない。

 

 

+〈世界の敵〉が死ぬ「その人間が最も美しい瞬間」

 

 こうして〈世界の敵〉が敵なのは、彼らが「未来に向かおううとした失敗」だからだという事が明らかとなった。

 上遠野浩平は、初期ブギーポップにおいて、こういう「将来の可能性なんてものを本気で目指すと碌なことにならねーぞ」という話をわりと繰り返している。我々は、90年代のバブル崩壊前後まで、若さって素晴らしいとか、夢を実現しようだとか、そういうメッセージを受け取り続けてきたのであるが、上遠野世界が〈世界の敵〉に託しているのは、その手の希望のメッセージに対するアンチテーゼであろう。青春という輝かしいはずの時代にラノベなどに嵌っていた僕たちは、このメッセージに強い衝撃を受け、また共感した訳である。

 

 しかし、改めて絶望的なメッセージだ。ブギーポップは決して明るい雰囲気の小説でないことは一読して分るが、こうして言語化してみると、未来は必ず失敗すると思っているとか、本当に暗いとしか言いようがない。

 では、この絶望的なセカイに、救いはどこにもないのか?

 

 救いはある。それこそが僕らのヒーロー、死神ブギーポップ

 

死神とも呼ばれている。ある人間がどうしようもなく汚れてしまう、その寸前に現れて、それ以上醜くなる前に、人生でもっとも美しいその瞬間に、ブギーポップはそいつを殺してしまうのだ、と言われている……。

 

 ブギーポップは「その人間が最も美しい瞬間」に人を殺す。

 そして、殺す対象は「〈世界の敵〉=未来に向かおうとして失敗した者」である。

 では「未来に向かおうとして失敗した者」が「最も美しい瞬間」とは、何時なのか?

 

 それは、未来の可能性が現実となる直前のことだろう

 上遠野浩平は、ヒトの無限の可能性を信じている。それ故、上遠野浩平は夢を目指す者たちの美しさもまた知っている。〈世界の敵〉になってしまった彼らは、たとえ将来の失敗を約束されているとしても、やはり美しい存在なのだ。上遠野浩平の筆致からは、〈世界の敵〉になることのできる存在への、一種の憧れすら読み取ることができる。〈世界の敵〉となったキャラクターたちは常に、強く、賢く、決断力に満ちている*10。そこらの善良な一般人よりもずっと生命力に溢れ、輝いている。

 ブギーポップは、そんな彼らを殺すのだ。夢に向かって邁進していた若者が、自らの致命的失敗を知るよりも前の状態。無限の可能性が、まだ希望に満ちた未来に見えている、希望が絶望に変化するギリギリの瞬間。ブギーポップはその時にやってくる。

 そうして殺される〈世界の敵〉たちは、ブギーポップが来なかった場合に自分が何をしたのか、悲劇的結末を知ることは決してない。全ての終わりはブギーポップがもたらすのであり、彼ら自身が間違っていたことは最後まで露呈することがない。ブギーポップは決して、その死の原因を相手の失敗に起したりしない。水野星透子にそうしたように、ただ容赦なく殺す。

 

 ブギーポップが殺してくれるのは、自身の致命的な失敗なのである

 

 まさにセカイ系ヒーローにふさわしい。受験に失敗して自殺を考える類の中高生にとっての理想の死神だ。自分の頑張りが無駄だったと判る前に、サッと人生のほうを終わりにしてくれる。それが上遠野浩平が作り出した、ブギーポップという理想のセカイ系ヒーローなのだ。

 しかも、ブギーポップは、しばしば何か絶望して自殺しようとしてる中高生の元に現れては、「君に今回起きたようなことは、到底僕が殺すほどの致命的失敗とはいえないな。君はぜんぜん本当の絶望なんか経験してないな」とか言って自殺を辞めさせたりするのである。

 そういう意味でも理想のセカイ系ヒーローであると言えよう。

 

 

+〈世界の敵〉という希望と絶望、そしてその先

 

 という訳で、以上が〈世界の敵〉とは何か、という問題に対する本論なりの決着である。

 

 〈世界の敵〉とは、上遠野浩平の持つ「ヒトの持つ無限の可能性への期待」と「可能性の破綻に関する悲観的見解」という、二つの認識が結実した場所に生まれたモチーフである

 

 我々は誰でも〈世界の敵〉たりえるパワーを持つ。それ故に、〈世界の敵〉として世界を滅ぼしかねない。この希望と絶望の相克が、『ブギーポップ』というシリーズに通底している基本原理と言えるであろう。

 そしてブギーポップというヒーローがやっているのは、この相克に一つの強制的な結末を齎すことである。結末をもたらすのが役割なのだから、それはデウスエクスマキナにもなる。

 

 最後にもう一点補足がある。上遠野浩平は、可能性が必ず失敗する、という悲観主義に「失敗する前の死」という形で答えた。しかし、これはいわば悲観主義の上塗りであって、本論がたどり着いた希望と絶望の相克、という認識からすれば不十分。コインの裏側のみの答えに過ぎない。

 上遠野浩平は、コインの表側、希望を信じる者としての答えも持っている。『夜明けのブギーポップ』の中で、作者の分身たる霧間誠一は、こう言った。

「しかし、その意志だけは残る。たとえそれがどんなに悪いことにしか見えなくても、何かをしようとしたこと、それに向かおうとした真剣な気持ち、そういうものは必ず他の者たちの中に残る。その者たちだって結局は途中かもしれない。だがそのときは、さらにその次に伝わる。そして——誰にわかる? その中の誰かは本当に世界の中心にたどり着くかもしれない……」

  上遠野浩平は、ほとんどの可能性は必ず失敗に至るするという悲観主義の一方で、それでもほんの僅かな何かがあらゆる障害を乗り越えて、真の意味での成功に至るかもしれないという、その希望を決して捨てていない

 この最後の一線が、上遠野浩平の描く悲観的な物語世界において、しばしば大きな感動と共感を巻き起こすのである。

 

 

 次回の第6回は、今回の補足とする。

 何人かのキャラクターを中心に、いくつかの作品を個別に取り上げ、上遠野浩平が絶望と希望の相克をどのように表現してきたか、より詳細に検討していくことにしよう。これについては、語りたいことがいくらでもあるからね。

 

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:歪曲王自身ではなかった、というのがミソで、「なぜそんなに自分を悪いと思うのか?」から始まるブギーさんの説教はシリーズでもナンバーワンの名文だと思う。歪曲王についてはじきに別記事で取り上げる。

*2:それか、ゾーラギが出てきてもフォルティッシモやリセット・リミット姉妹なら倒せたのだろうか?

*3:本論を書くために原典にしっかり当たったら書いてありました。読まずに議論とかしちゃだめだよね。僕も本論を書いている間ぐらいは気を付けたいが、ここまでの連載で既に一部怪しかったりする。

*4:ちなみに今回のアニメ化に際し、コミカライズがあるらしい。非常に楽しみ。

*5:というか、自分以外にもそう信じていたファンは多いと思いたい。

*6:イマジネーター水乃星透子は、ブギー先輩によれば「僕のように分裂はしてなかったがそれでも自動的な存在であったことに違いはない」存在だったらしい。自動的な存在であるというのは、たぶん「目標に対して常に最適解を出す」みたいな事を意味すると思うのだけど、それが上遠野浩平の中で何を意味するのかはよく分からない。後の課題にしたいと思います。

*7:『オルフェの箱舟』で成される「ブギーポップの例の左右非対称な表情は、全ての感情を含んでいるが、唯一そこから慈悲だけが欠けている」みたいな説明がすごく好きです。最近のブギーポップ読んでない人多いと思うけど、やっぱり面白いですよ。

*8:最近の作品では、ウトセラ・ムビョウが、自分が作っている合成人間製造薬はプラシーボ効果の偽薬にすぎないとか言い出している。

*9:上遠野浩平がこのことを意識していたのは、90年代当時に起きたオウム・法の華統一教会といった一連の新興宗教ブームおよび事件と無縁ではあるまい。

*10:上遠野世界において「決断力」はもっとも根源的なパワーの一つだ。

「上遠野浩平論」④傑作セカイ系作品にみる天才性(『ブギーポップは笑わない』)

 祝アニメ化!!!……とは、関係なく書いていた、上遠野浩平論の第4回です。

 期せずしてタイムリーなことになった。

 

 第1回第2回第3回まで、上遠野浩平という作家の生い立ち・性質・執筆スタイルを詳しく検討することで、上遠野浩平を論じる上での基礎を固めてきた。それによって本論は、主に上遠野浩平が世間のブームとは無関係にセカイ系的なテーマを書いていたこと、いわば「天性のセカイ系作家」であることを明らかにした。 

 今回は上遠野浩平が「天性」だけでなく「天才性」すらも持っていることを述べていく。上遠野浩平が天才であることなど、今更僕が言うまでもないことではあるが、しかしどこが天才的なのかを改めて言語化しておくことは、上遠野浩平を論じる上で有用だし、それよりなによりも面白いだろう。

 言語化の対象とするのは、言わずと知れたデビュー作ブギーポップは笑わないだ。この作品の非凡さを逐一指摘することで、上遠野浩平の天才性をネット世界に共有していこう。

 

 

 +天才による偶然の受賞作 

 

 ブギーポップは笑わないは1997年の第4回電撃ゲーム大賞*1で大賞を受賞、出版した上遠野浩平のデビュー作だ。なお、この第4回での金賞は橋本紡、銀賞は阿知太郎。*2

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

ブギーポップは笑わない (電撃文庫)

 

 上遠野浩平は、この作品の成立と受賞が「偶然だった」旨をたびたび強調している

 

 まずそもそも、電撃ゲーム大賞を投稿先に選んだのは特殊な構造の作品がゲームっぽくて受けるかもと思った程度のことだった。本人は別にライトノベル*3を狙って書いていた訳ではない。

 また、当時の電撃文庫はまだ亜流もいいところで売れ線とは言いがたいところがあった*4電撃文庫でヒットすることがその後の一時代を作ることに繋がるなんて、当時はだれも思ってなかった。

 内容にも偶然性は影響しており、例えば当時のメインストリームだったファンタジーでなく学園モノを書いたのは、本人としては古臭いと思っていた。が、結果それがむしろ一周して新しいとウケた面があり*5、実際ちょうどその後から時代は学園ラノベが主流となった。しかもその流れを作ったのはブギーポップではなく*6フルメタとか涼宮ハルヒとかシャナとかだったと思われる。

 

 そしてなにより、これが最も大きいのだが、ブギーポップというシリーズが90年代後半という時代に熱烈にウケたのは、やはり「セカイ系だったからだ」と考えるのが適切だと思われる。第2回の『冥王と獣のダンス』の検討で確認したように、上遠野浩平ブギーポップ以前から変わらずセカイ系を書き続けいていた。しかし、20世紀末の日本ではバブルが崩壊し、時代が変化した。そうして、たまたま上遠野浩平が書いていたような世界観が流行る時代が来た

 

 『ブギーポップは笑わない』が強い偶然に恵まれた作品であるのは間違いないだろう。作家本人もそれに自覚的である*7

 

 ただし、本人は単なる偶然だったと言うとしても、僕のような信者はこれらの偶然エピソードは上遠野浩平の天才性を示唆すると思っている訳だ。

 狙わずして傑作を書く作家のことを天才の他に何と呼べばいいのか。

 

 

 +『ブギーポップは笑わない』の変則的な物語構造

 

 さて、作品内容の検討に入ろう。

 この記事を書くにあたって、改めて『ブギーポップは笑わない』を読み返したが(皆さん読み返したらいいと思う。ブギーポップは何度よんでもいい)、それにしてもこの小説は独特な構造をしている。

 本作は5人の人物が語り手を入れ替わる短編連作だ。語り手ごとに、5章に分かれる。

 

  1. 竹田くん。恋人の宮下さんの二重人格・ブギーポップと友達になる。
  2. 末真さん、霧間凪がなにやら調査をしているらしいことが示唆される。
  3. 早乙女くん、怪物マンティコアの存在を知ってその仲間になる。
  4. 木村くん、事件後何年も経ってから紙木城さんの痕跡を探しに来て、異常を見つける。
  5. 新刻さん、委員長気質を発揮した結果マンティコアの死を目の当たりにする。

 

 他に、マンティコアの材料になったらしき謎の存在・エコーズ、そのエコーズをかくまった紙木城さん、ビッチ気質の紙木城さんの本命でマンティコアに止めも刺した田中くん、などが登場する。

 

 この小説の変則的なところとして、具体的に2点が指摘できる。

 

 まずこの話には固定された主人公というのがいない

 というか物語全体の主人公たりうるキャラクター(ブギーポップ霧間凪・紙木城さん)は、そろって各章の語り手から外されている。わざわざサブキャラを語り手に採用して、それを5回もやっている訳だ。まだライトノベルの方向性が萌えの方向に固まりきってない時代なことを加味しても、キャラクター小説としてカテゴリーエラー一歩手前の手法である。

 

 また、この小説では時間軸が激しく前後する

 冒頭1章に事件結末が来ているはもちろんあるが、特に4章などは事件から数年も後の話だ。高校生たちの青春の話だと思っていたら、急に「高校卒業したあと浪人生をやってる宮下藤花=ブギーポップ」なんてものが出てくる。これも当時のヤングアダルト小説からしたら、女子高生主人公(?)が成長して大学生になった姿なんてのは、基本的に禁じ手だったのではなかろうか。今ですら、キャラクターの成長後とかエンディングや幕間でかろうじて見れるかどうかというところなのに*8。しかも浪人生・宮下藤花は、ページ数も半ばを超えた四章というタイミングで出てくる。

 

 なぜこんな変則的なことをしているのか?

 もちろんこれは、ただ奇をてらったとかではない。むしろこの小説の優れた発想に端を発する必然だ上遠野浩平はこうした工夫を用いて、より広くて深い"セカイとの断絶"を表現しようとした

 

 

+どんな人間もセカイには関われない

 

 セカイ系特有の表現の主な部分として、"セカイとの断絶感"があるという旨の話は、既に何度かした。それは「自分が何をしようがセカイには何の影響も与えることなどできない」という絶望。アムロと違って、ロボットにのってもセカイを変えられない碇シンジの絶望感である*9

 その断絶感の描写が、上遠野浩平は圧倒的に上手い

 しかも技術的にどうこうではなく、考えかたの根本が他のセカイ系作品を明らかに上回っている。

 

 上回っているは具体的にどこか。

 まずブギーポップは笑わない』の登場人物たちは事件の全容を知らないということに注目しよう。

 

 そもそも『笑わない』は、新刻委員長のこの一言から始まる小説だ。

 ……起こったこと自体は、きっと簡単な物語なのだろう。傍目にはひどく混乱して、筋道がないように見えても、実際には実に単純な、よくある話に過ぎないのだろう。

 でも、私たち一人一人の立場からはその全貌を知ることはない。

 油断すると、単なる冒頭モノローグと見做して流してしまう部分だが、実は上遠野浩平はこの描写について本気も本気だ。全ての人物は、比喩とか叙述トリックとか描写上の都合ではなく、本当に作品世界のだれも事件の全容を知らない。 

 

 例えば物語冒頭の語り部である竹田くんが最も顕著だ。彼はブギーポップと最も親しく会話し、あの自動的な存在に君は友達だとまで言わせしめたのに、ブギーポップが何と戦っていたのかすら知らないまま終わった。

 あるいは、田中くんマンティコア弓道で止めを刺したが、ブギーさんに言われるままにしただけで、自分が何に矢を打ち込んだのかも分かってない。物語の決定的な行為者でありながら、単なる傍観者の竹田くんと同程度に真実から遠い。

 また、早乙女くんも同じである。彼は物語の「真犯人」であるにも関わらず、自分が起こした事件が何なのか、自分が愛した怪物が本当はどういう存在なのか、ほとんど把握していない。陰謀の主体である彼ですら本質的に事態の傍観者だ。

 謎の対象がマンティコアならばまだマシなほうで、エコーズに至ってはそもそも設定上から謎の存在だ。謎だからこそ研究されていた訳で、物語の外側に存在する研究所(統和機工だろう)の人たちにとってすら彼が何なのかは謎。ましてや、彼の決断如何で世界が終わっていたであろうことや、その決断を回避して真に世界を救ったのは、実は紙木城さんの小さな優しさだったりしたなんて知りようがない。

 紙木城さんがの優しさが真に成したことが何だったのかについては、エンディングで霧間凪や新刻さんが言及しているが、それは単なる想像であり、紙木城さんの仕事の価値を知っているわけではない。物語のオチを付けた彼女らの言葉すら、真実とは何も関係がない。

 

 そして、最も真実に近いはずの読者にとってすら、事件の全容は謎である

 なにしろこの本の出版時点では「統和機構」「虚空牙」「MPLS」といったキータームはまだ影も形もない訳だ。『ブギーポップは笑わない』だけを読んで一体本当は何が起きていたのかを知るのは限りなく無理に近い。

 

 物語世界全体が読者にとって謎につつまれているという表現方法は、セカイ系としては比較的スタンダードな手法である。例えば『新世紀エヴァンゲリオン』において視聴者は人類補完計画とは何か、使徒がなぜ攻めてくるのか、ほとんど知ることはない。あるいは『最終兵器彼女』で、読者はヒロインが戦っていた戦争の全容を知ることはない。

 しかし『ブギーポップは笑わない』ほど徹底して、作品内のキャラクターも物語世界全体を把握していない、という事実は、他のセカイ系作品と比べても相当異質だ

 

 

+セカイには碇ゲンドウもゼーレもいない  

 

 他のセカイ系と比べても異質、とはどういうことか。

 それが何の意味を持つのか。

 

 例えば『新世紀エヴァンゲリオン』について考えてみよう。確かに作品世界の全容は、視聴者にとって謎だが、よく考えたらほとんど全てを把握している作品内のキャラクターが居る。ほかならぬ、碇ゲンドウその人である。視聴者の関心は「ゲンドウがいったい何を知っているのか?」「シンジ君はそれを知ってどうするのか?」とかいう部分に向くように、物語自体が出来ていた*10

 また『最終兵器彼女』の場合は更に露骨であり、無力で何も知らないのは主人公だけである。真実は漫画のコマの外でテレビニュースがちゃんと流しているし、自衛隊の人たちはある程度状況をコントロールして抗っていた。何も知らないのは読者だけであり、セカイのどこかには全てを知っている大人が必ず居て、我々にとっての謎の戦争は、セカイにとっては謎でもなんでもなかった。

 他の大抵のセカイ系作品においても、主人公と読者がセカイを把握できないのは、単に我々が無知で無力だからである*11。なんならあのセカイ系作品はどうだったか、各自思い返してみればいい。

 

 しかし『ブギーポップ』では、そういう"全てを知っている大人"は誰もいない。

 上遠野浩平の作品世界においては、本当にあらゆる人間がセカイから断絶されている 

 上遠野浩平の作品世界においては、どんなに強大な能力を持っていても、絶大な権力を持った裏社会のフィクサーでも、本当の真実にアクセスすることはできない。あの統和機構のアクシズすら、おそらくは虚空牙や枢機王ですら、本当の意味で本当の全容は何も知らない*12

 上遠野浩平の物語において、我々がセカイと断絶しているのは、我々が子供で無力だからではないのだ大人だって断絶されており、わけもわからずセカイに翻弄され続けているのだ。

 

 考えてみれば、それは当時の中高生読者すら判っていたであろう、当たり前の認識であった。なぜならば、大人になればセカイと互角に戦えるようになる、と信じることが出来るのなら、いくら思春期の中高生でも絶望なんかしなかったはずだ。というか、セカイ系が流行った時代背景には、バブルがはじけて将来の成功が信じられなくなった事があったはずなので、それは「大人なら上手くいく」という認識とは真逆だ。

 中高生だった僕たちが確かにセカイとの断絶を感じていた一方で、作品世界の側が碇ゲンドウやゼーレのごとき大人が居る(=将来そうなれる可能性がある)こと」を示していたのは、読者との乖離に他ならない。我々は、心の奥底で自分が碇ゲンドウになんてなれるはずがないと知っていたはずなのだから、"セカイとの断絶"を表現する文学表現において*13、実は碇ゲンドウの存在は余計もいいところだった。

 だから上遠野浩平はそういう余計を『ブギーポップは笑わない』によって一切排したのだ。 

 

 それによってブギーポップ世界のセカイ系表現は、より時代の核心に迫った。  

 こうして上遠野浩平が表現したものを、僕なりの言葉として、"セカイとの断絶"の〈広さ〉と呼ぶことにする。誰もその影響範囲からは逃げられない、という意味である。

 『ブギーポップは笑わない』の語り手が各章ごとに交代し、しかもメインキャラを避けて語り手を選んでいるのは、実にその〈広さ〉を表現するためであった。

 

 

+時間は断絶の絶望を消し去らない

 

 更に上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』において、断絶の〈広さ〉だけでなく、〈深さ〉の表現でも他のセカイ系作品との違いを見せている

 セカイ系という作品群は"セカイとの断絶"を主に書くものだが、実はブギーポップは笑わない』で主なテーマとして書かれているのは、断絶それ自体ではない。

 

 この小説の主題は、セカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちにある。

 

 僕がセカイとの断絶の〈深さ〉と呼ぶのは、このテーマによって表現されている要素。即ち、セカイとの断絶は決して一過性のものではない、青春期の一時の気の迷いではない、という認識のことだ。

 

 例えば、第2章で語られる末真さんの物語を思い返そう。

 後のシリーズで重要人物となる末真和子は、この本の第2章で、過去の殺人事件で自分が知らないうちに救われていたことについて、お礼ぐらい言わせろと霧間凪に迫った。*14が、よく考えてみれば末真和子の過去はマンティコアとエコーズの物語には必要ない。『笑わない』が紙木城さんとエコーズとマンティコアの事件を描くだけの小説だったなら、末真和子は単に無関係なキャラクターである。それがなぜ描かれているのか?

 また第4章では、木村くんはもう大学生なのに、昔の彼女だった紙木城さんの真実をわざわざ探しに来てしまう。事件当時から何年も経ってからの出来事を、わざわざ物語中盤の一章を割いて描写している訳だが、実はマンティコアの事件の真実に迫るだけなら、別に木村くんは卒業してなくてもよかった。なんなら新刻委員長や田中くんといっしょにラストバトルに参加したほうが盛り上がった可能性もある。しかし上遠野浩平はそうしない。なぜ事件から何年も経った後の出来事を書かねばならなかったのか?

 

 末真さんや木村くんに共通するのは、何年も前の事件においてセカイと断絶されていたし、今でもそれが解決していない、ということである。つまり、彼らこそがセカイとの断絶が続いたまま人生を送っている人たちである。

 そして、上遠野浩平がそんな人生を送る人たちを通して言わんとしてるのは、「今この場でセカイと断絶していることなど大した問題ではない」ということ。

 

 もし今、我々がセカイとの断絶を絶望しているのであれば、この絶望は将来にわたっても続いているのかもしれない

 

 これも考えてみれば当たり前の認識であった。

 上で言及した、上遠野浩平世界に碇ゲンドウが存在しない理由と同じだ。僕たちの絶望は、「大人になってもセカイに接続できる気がしない」、という無力感の認識から始まっているのだ。将来の僕たちがゼーレや碇ゲンドウになれないのという認識が事実ならば、それは論理的に言って、今僕たちが感じている断絶感は将来にわたっても消えないということも意味する。

 まさに、当時の僕たちが感じていた絶望は「セカイと断絶したまま僕たちはずっと生きていくであろう」という予感において存在した

  上遠野浩平の天才性は、絶望の本質を、鋭く的確に貫いていた。

 

  その後の作品でも、上遠野浩平は「セカイと断絶したままの人生」というテーマをしばしば扱う。しかし、とりわけ最も大きな主題としたのは、デビュー作の『ブギーポップは笑わない』においてである。

 この作品で、時間軸が変則的に前後しなければならなかったのは、それを表現するためであった。

 

 

 +作品外にすら突き抜ける絶望の深み

 

 ここで、セカイとの断絶の〈深さ〉という点に関連して、特に指摘しておきたいことがある。本作、『ブギーポップは笑わない』のカラーページについてだ。

 この本の冒頭カラーページには、オシャレな各キャラのイラストと、物語中の印象的なセリフが引用されている。これは今でこそラノベ文庫定番の手法だが、当時は斬新であり*15非常に印象に残った人も多いはず。

 その中において、田中くんのこのセリフ*16

f:id:gentleyellow:20180109133321p:plain

「彼のほうが彼女のことを、僕よりも好きだったんじゃないかと思いますから」

 

 このセリフは『ブギーポップは笑わない』の本文中に登場しない

 どこに出てくるかというと、『歪曲王』で、羽原健太郎先輩の手によって歪曲王の夢から現実に戻された、その直後にぽろっと漏らすのである。このセリフが象徴する田中志郎の心の歪みが歪曲王*17を生んだ。田中くんの葛藤の中核となり、後のシリーズでもかなり重要な位置づけのセリフが、『ブギーポップは笑わない』の本文に入っておらず、しかし当然存在するものとしてカラーページに引用されているのだ。

 これは、上遠野浩平の狙い通りの演出なのだろうか? それともたまたま推敲段階で抜けたセリフを後に再利用したのか? それは作家本人でないと知りようがないが。 

 ただ、一つ言えるのは、上遠野浩平が「マンティコアに止めを刺した田中くんのその後の人生」に思いを馳せていたのは確実である。引用のセリフは、明らかに過去形だ。なので恐らく、これは事件からしばらく経ったあとに、既に居なくなった紙木城直子について話したセリフである。

 

 『歪曲王』はブギーポップシリーズの最終巻になる可能性も構想されていた、という話はファンの間では有名だが、それもこのあたりに端を発するのだろう。マンティコア殺しの英雄・田中志郎の心残りを解決してあげることが、実は「ブギーポップという物語の終わり」だったのである。

 考えてみれば、田中くんは怪物を倒してセカイを直接的に救った、碇シンジではなくアムロのポジションにいるはずの男である。イケメンだし好青年だし女にもモテて、怪物を倒す弓の才能を紙木城さんに見出されていた。設定と行動だけみれば本当に英雄的な少年なのだ。しかし上遠野浩平の手腕によって、英雄もまた誰にも理解されない断絶をかかえているという、彼はそういう状態を表現するキャラクターになっている。*18

 

 上遠野浩平が『ブギーポップは笑わない』で描いたセカイとの断絶の〈深さ〉は、文庫一冊の厚みに最初から収まっていない。

 ではその射程はどこまで続いているのだろうか? 僕らがは上遠野サーガの深みにのめり込んでいくのは、まさにそれを確かめるためかもしれない。

 

 +断絶に対するブギーポップの回答

 さて、こんなにも〈広さ〉と〈深さ〉を兼ね備えた断絶を前にして、我々は立ちすくむばかりである。

 では、人生に迷う中高生だった我々に、上遠野浩平はただ絶望だけを示したか

 全く違う。なぜなら上遠野世界には、絶望から我々を救いあげるヒーローも存在するからだ。『ブギーポップは笑わない』の中で、われらがブギーポップ先輩は、立ちすくむ若者たちにこう仰っている。

「僕には義務があるように、君や宮下藤花にもやるべき仕事があるんだ。君らは自分で自分たちの世界を作っていかなくちゃならないんだよ。」

「紙木城直子は自分の使命を立派に果たした。だから君も、君の仕事を彼女に恥じぬように果たすべきだ」

 百点満点の回答。ほとんど唯一の正解だと言える

 たとえ我々がセカイを前に無力だとしても、その事実は認識したうえで、我々はただ前進していくしかないのである。絶望の広さも深さも抱えたまま、自分たちの使命を果たすべく、自分で自分の仕事に取り組んでいかないといけない。結果として、紙木城直子のように死ぬことになるとしてもだ。

 これは、後の2000年代批評文化がセカイ系ムーブメントに取り組んだ際にも、ほとんど唯一の正解と見做された回答と同じである碇シンジがダメなのは、セカイとの断絶を前に絶望して、引きこもってしまったからであった。宇野恒弘は、エヴァから始まったセカイ系文学にはそういう引きこもり的な問題点があったが故に、後の世代では、『戦わなければ生き残れない』で有名な仮面ライダー龍騎のような作品が登場したと指摘した。

 上遠野浩平はここでも時代を先取りしていたのであった。ブギーポップは、戦わなければ生き残れないのだと、とっくのとうに我々に告げていた。

 

 ただし、ここで重要なことがある。

 戦うことが、全ての人間にできるはずがない

 上遠野浩平はそのことも、ちゃんと分かっている。上遠野世界において、絶望を前にして立ちすくむこともなく、パッと動くことを決断して自分なりの闘争へシフトしていけるのは、自動的に動く変身ヒーローとか、炎の魔女のような正義の戦士とか、そういう奴らだけである。一般人はたいてい「うううううう……」とか唸るだけ唸って、何も決断できないで終わる。それが上遠野浩平の世界観だ。

 決断には強さが必要となるし、弱い僕らは強さなんてものとは無縁なのだ。

 

 ではどうするか?

 上遠野浩平は『ブギーポップは笑わない』の後も、デビュー20周年を迎えた今日ですらセカイ系作品を書いているのだが、取り組んでいるのは結局はそういうことだと僕は思っている。より詳しい検討は後の連載に譲るが、ひとまずは『笑わない』で答えが示されたテーマには、まだ続きがあることを認識しておいていただきたきたい。

 

+天才的セカイ系描写ゆえ、熱狂されて当然 

 という訳で、あの頃ブームになったブギーポップシリーズが書いていたセカイ系描写には、他のどの作品よりも〈広さ〉と〈深さ〉があった。

 まさに天才の仕事。将来に不安を抱える中高生の僕たちが熱狂したのも、今にして思えば当然と言える。

 

 さっきもちょっと触れたが、ブギーポップは今年20周年だそうである。それとともに、我々は中高生からオッサンになった。バブル後という時代はテロや地震と戦ってるうちにいつの間にか消え去り、セカイ系ブームもずいぶん遠くなってしまった。

 しかし、"セカイとの断絶"がもたらす不安は、別に消えて無くなった訳ではない

 したがって、今読んでも『ブギーポップは笑わない』は揺るぎなき名作である

 それに、本論ではあえてセカイ系描写の天才ぶりに絞って作品の魅力を分析したが、それは分析的にアプローチできるのがその部分だったからにすぎない。キャラクターの魅力、文庫デザインの革新性、文体のカッコよさといった要素もまた、当然のことながら作品の魅力を構成している(というか、そちらがメインかもしれない)。

 まあ、結局のところ名作だってことは読めばわかるのだから、その辺はやっぱり改めて自身でお読みくださいという話だ。

 

 この第4回までで、上遠野浩平論は第1章を完結とする。第1章では「上遠野浩平がどういう作家か」を述べることを目標とした。本当はブログ記事1つぶんでここまで書くつもりだったのだけれど、文字数が2万を超えたところでそれを諦めて分割したので、多少読みにくいところがあるかもしれない。

 第5回からは上遠野浩平論の2章と位置づけ、上遠野浩平の作品世界における美意識・思想の内容に迫る。特に次回では「世界の敵」という表現がいったい何を意味しているのかを僕なりに書くつもりだ。

 

 またどうせ文字数がとんでもないことになるだろうが、旬の話題になっちゃったのでできるだけ更新を急ぎます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:電撃の新人賞は最初のうち「ゲーム大賞」という名前だった。それは、富士見やスニーカーの賞がジュブナイルノベルの本流であり、電撃文庫はむしろ亜流だったということ。電撃文庫は、もともスニーカー文庫ヤングアダルト小説を出版していた角川書店が、新規作家をより積極的に発掘するために立ち上げたレーベルで、"ゲーム大賞"と名付けたのは、バーチャファイターが出たりFF7が出たりしていたのゲームの世界を時代の先端と捉え、メイン層よりもエッジの利いた先端を狙っていく、みたいな意図だったと思われる。ヤングジュブナイルが「ライトノベル」になっていった当時の流れには、このような、小説が漫画・ゲームに魅力で劣る、という危機感が大きな流れとしてあったと思う。

*2:いずれも当時からのラノベ読みなら知ってて当然クラスの作家だ。

*3:当時は「ヤングアダルト

*4:富士見ファンタジアが擁するスレイヤーズオーフェンが全盛の時代である

*5:http://dengekitaisho.jp/novel_interview_30.html

*6:学園ラノベ隆盛の端緒ではあったという見方もあるが、それなら蓬莱学園シリーズとかが先に挙がってくると思うのだ。

*7:この時の経験が、あるいは上遠野浩平に創作に関する偶然性を強く意識させたのかもしれない。この出世作を取り巻く偶然ぶりが、第3回で紹介した『製造人間』の発言が示唆するような創作哲学に、上遠野浩平を導いていったんじゃないかと——確かなことは言えないが——考えることもできる。

*8:そういう認識でいえば、近年の『鉄血のオルフェンズ』でアトラちゃんが出産するとか、やっぱり革新的だったのかもしれない。物語市場はいつも変わらないと見せかけて、ちゃんと進歩もしていると思う。

*9:この時代の日本でそういう絶望を主に書くセカイ系が流行ったのは、バブル崩壊で社会全体に広まった無力感と無関係ではない、と言われている。ここでは本論から外れるので深くは踏み込まない

*10:無論ここは雑なまとめであって異論は積極的に認める。論の展開からエヴァについて話さざるを得ないが、僕は正直エヴァはそこまで好きでも詳しくもない。

*11:今、ふと思ったのだが、だから所謂『謎本』が時期ブームになったりしたのだろうか。セカイについて解き明かせないかという足掻きだったのかも。

*12:むしろオキシジェンなどは殆ど能力の奴隷と化している節がある

*13:文学表現において、という言い方をするのは「ストーリー的な面白さや整合性はともかく」という留保である。念のため。

*14:彼女にとって、自分の命にとって真に重大だった事件と断絶したままセカイを生きていくという事態は耐え難かったからだ。この痛みは、非常に切実で、共感できる。大人になった今だから判る名シーンの一つだと思う。

*15:地の分の引用とともに、物語中の1シーンをそのままイラストで載せるのが(つまり、普通の文庫中の挿絵に色を塗ったものを載せるのが)当たり前だった。

*16:この点に気付いている人が多いのか少ないのか、ファン同士の交流というものにとんと接してない僕にはわからない。常識レベルの話だったらすいません。

*17:歪曲王は上遠野浩平にとって実はとても大事な存在である。そのことは後の記事で語るつもりだ。

*18:……今書きながら気づいたけど、そういえば「志郎」って、英雄につける名前だよ。「志」という感じにはそういう意図を込めるもんじゃないか、っていうか、言ってしまえば赤い弓使いの英霊につける名前だし。 それが平凡の極みの「田中」についてるんだよ。今ならこのキャラクターが何だったのか、名前からすら深読みできちゃう気がするよ。

投資家以外向けに「なぜ仮想通貨は危険?」を素人解説

 今回は仮想通貨について書きます。

 しかも、仮想通貨は危険!というスタンスで書こうと思います。というのも、このほど仮想通貨バブルが無事に……というのも変ですが、はじけましたので、危険だよって意見を素人の僕がネットで表明しても多めに見てもらえるようになったかと思うからです。

 まえまえから「仮想通貨・危険・なぜ」とかでgoogle先生に検索した結果がたいがい、危険じゃないよー、乗り遅れるなよー、危険と思ってるのはIT音痴だけだよー、みたいな話しか出てこないのは変だと思っておりました。どこが変なのかを何かの機会に語りたくて、ちょいちょい勉強してたのを、ここで一旦まとめてみたいと思います。

 

 とはいえ僕は、投資には全く興味がありません。ですから仮想通貨はもうかるの? という趣旨の話はしませんしできません。

 

 僕が興味があるのは「将来的に仮想通貨は世界標準になるのか」です。

 そして結論は、そんなことはありえない、です。ほぼ間違いなく時代の仇花になります。そしてそれ故に、世界標準になるかもしれないという期待感でバブルったりはじけたりしてる今の仮想通貨は、長期的に危険だと言わざるを得ない訳です。

 なぜ仮想通貨は世界標準にならないのか?

 ここでは、素人の勉強して納得した理屈を、更に納得しやすくなるよう頑張ってまとめます。

 

 +仮想通貨の本質とはなにか

f:id:gentleyellow:20180308101421p:plain仮想通貨のイラスト(Virtual)f:id:gentleyellow:20180308102348p:plain

 

 まず基本的な話からはじめましょう。

 

 仮想通貨とは一体なにか?

 

 このお馴染みの質問に対する答えと解説は、いろいろなところに溢れかえっていると思います。しかし僕の見たところ、ブロックチェーンがどうとか、マイニングがどうとか、ネムがどうとかいう解説がメインとなっている。そして巷の解説はそういう技術の話をしたあと、いきなり「投資するには○○アプリが便利だ」みたいな話に飛んでしまう。

 しかし、そうした技術の仕様や内容の話は、仮想通貨の本質とは全く関係ないので、投資をするでもなければ基本的に忘れていい。

 

 仮想通貨の本質とは国が管理していない通貨』です。

 

 仮想通貨を作ったのは、どこかの謎のハッカーです。ハッカーっていうのは、昔から権力による統治を嫌い自由放任を尊ぶ、アナーキズム思想と関係が深い。「今の通貨ってのは、結局全部政府の管理下じゃん? 政府ってのは碌なことしないじゃん? 政府なしで流通する通貨があったら自由だしアツイじゃん?」みたいな発想で作られたのが仮想通貨でした。

 これを可能にした暗号化技術は、巷で言われている通りなかなかに素晴らしく、人々が誉めそやすのもたいていはこの技術の高度さです。技術が高度であることをもって、イノベーションだと持てはやす人々がとても多いと思う。

 しかし技術の高度さは、本質的に『国が管理してない』という状況を可能にするための手段にすぎません。仮想通貨を理解するためにはまず、国が管理者じゃないこと、というか、管理者がいないことを理解せねばならない。

 

 仮想通貨が有用かどうかの判断は、技術が高度かどうかではなく「国が管理してない通貨は有用か?」にかかっています。

 

 

+インフレとデフレは循環している

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 ところで、投資家の皆さんは仮想通貨の価値が上がったり下がったりしている状況から利益をはじき出していますよね。

 仮想通貨だけでなく、金本位制以後の世界において、全ての通貨価値は上がったり下がったりします。

 

 その現象について金融循環という考え方がある。

 

 モノの経済的価値は、需要と供給で決まります。

 このうち需要の大きさを決めるのは、普通だったら商品の魅力や有用性です。

 しかし、これが不動産・株・そして通貨といった投機商品だと、需要を主に決定するのは人々の気分だったりします

 人々の気分で商品の需要(=経済的価値)が変わるということは、次のようなことが起こるということです。

皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段が上がる

値段が上がったのを根拠に、皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段g(ループ)

 こういうループが常に起きているので、投機商品は理論上無限に値段があがる。この状況をインフレといいます*1

 しかし、理論上は無限でも、現実に無限ということはあり得ない。なぜならこれは、理屈ではなく感情に基づくループだから。人間には、どんなに好調でも、ある時フッと不安になるときが必ずやってくるのです。

皆が良さそうだと思う

 →買う

  →買われるので値段が上がる 

   →あまりにも値段が上がり過ぎて売ったほうがいい気がしてくる

  →売る

 →売られるので値段が下がる

値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

  →売る

 →売られるので値段g(ループ)

 こうして「あまりにも値段が上がりすぎ」とみんなが感じたタイミングで、今度は逆に値段が下がるループがはじまります。

 これは、理論上無限に値段が下がっていくループであり、この状況をデフレといいます。

 もちろんデフレのループが続くと、今度はフッと「ちょっとあまりにも値段下がりすぎで売るより買ったほうがよくね?」という気分になる時がきて、そうしたらまたインフレが始まります。

 

 ポイントは、インフレで値段が上がり続けると最後には必ずデフレが来て、デフレが続くと最後には必ずインフレが始まる、ということです。この循環を金融循環と呼ぶわけだ。まさに盛者必衰。

 この現象は一般に「バブル」「バブルがはじける」と呼ばれていると思いますが、金融循環という概念のキモは、こういう現象がバブル時以外にも常に起こっているという点です。あと、そういうループが実際の歴史から観察されたという点も重要なようです。その観察によれば、金融循環はだいたい10年とか20年周期でぐるぐる回っているとされていて、日本でも最近「失われた十年」とかいうデフレ期間がありましたね。

 

+経済全体にとってはインフレもデフレもキツい

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 世界には金融循環というものがあって、放っておくと、通貨含む金融商品の価値は、10年刻みで極端まで上がり続けるのと極端まで下がり続けるのを繰り返します。

 しかし、通貨の価値があんまり極端に上がったり下がったりするのは好ましくありません。通貨価値の上下は、いわゆる景気ってやつに直結するからです。例えば通貨の価値が極端に下がりまくることを"通貨危機"といいますが、ニュースで聞いたことがあるでしょう。なんとなく悪い感じがすると思う。*2

 とにかく通貨の価値が極端に変動するのはまずい。

 

 であるならば、どうするか?

 気分をコントロールする施策を打って、インフレやデフレの勢いを弱めるしかありません。放っておくのがまずいのならば、放っておかなければよい。

 例えば社会の授業で習ったあの「ニューディール政策」も、実はそれでした。

 →値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

   →売る

  →売られるので値段が下がる

 →値段が下がったのを根拠に、売ったほうがいい気がしてくる

→国が大規模な公共事業の実施を発表!!!!

 →公共工事を根拠に、買ったほうがいい気がしてくる

  →買う

   →買われるので値段が上がる(値段が下がる勢いが落ちる)

 →(ループ)  

 このように、投資家の気分を操作することで、インフレの時にはインフレの行きすぎを止めて、デフレの時にはデフレの行きすぎを止めることが出来ます。

 もっと身近な例えだと、アベノミクスがやったのもこれでした。"異次元の金融緩和"でデフレの気分に歯止めをかけようとした訳だ*3

 

 一昔前までの経済学では、こういう操作を行わなくても市場が勝手に需給バランスを調節して(「神の見えざる手」とか言ったそうです)くれる、みたいな話になっていた。しかし近年は、そういう自動的な需給バランスまかせでは上手くいかない、という事になっている。過度のインフレやデフレ、バブルや通貨危機を起こさないためには、どうしても人為的な操作が必須ということが判ってきた。

 必須だから、その方針を決定するFRBグリーンスパン議長や日銀黒田総裁の発言が逐一ニュースになっていた訳です。

 

 

+国家が通貨を発行してないと永続的なコントロールは無理では?

電車の運転士のイラスト(男性)

 さて、長々と金融の話をしましたが、この記事は仮想通貨の記事でした。

 

 ここまでした金融への理解を前提すると、仮想通貨を考えるうえで一つ重大な問題が持ち上がってきます。それは「じゃあ仮想通貨のインフレやデフレは誰が操作するんだよ」ということです。

 普通の国が発行している通貨なら、グリーンスパン議長や黒田総裁、つまり政府中央銀行が金融操作を担当すればいいです。でも、最初に述べたように、仮想通貨の本質とは国による管理や操作を受け付けないようにしたい、という発想にあるわけです。

 それってのは通貨として大丈夫なのか

 最初の発想の時点から、極端なインフレや極端なデフレが約束されているということでは?

 

 しかし、仮想通貨を作ったひとたちだって、何も相場の安定を避けたかった訳じゃないでしょう。国家政府による強権的なコントロールさえ避けられればよいのかもしれない。例えば、なにも政府じゃなくても、もっと民主的で権力から独立した機関が、仮想通貨の相場を安定させればいいんじゃないでしょうか? ブロックチェーン推進協会みたいな人たちが現実にいるわけだし。

 

 ただ、このあたりから意見は分かれてくるのではないかと思いますが、僕は極めて懐疑的です。というのも、通貨を発行している主体と経済操作をする主体が一緒じゃないと、経済をコントロールし続けるのは無理だと思われるからです。

 

 つまりですね、デフレ対策で公共事業をするにしろ金利を下げるにしろ、もとになる資金が必要です。そのお金はどこからでてくるんですか?

 税金や手数料とかでは、とてもまかなえないんじゃないでしょうか。なにせ、税金や手数料のもとになる経済全体が低調となるのがデフレなんだから。

 

 この点、国が発行している通貨なら話は簡単です。必要なお金は刷ってしまえばいい実際、ニューディールアベノミクスもそうしました。国債を発行するとかで。

 仮想通貨にはそういう資金調達手段がないからデフレのコントロールが無理だと思う。

 ……と、こんな風に「通貨を国家が刷ればいい」とかいうと、ジンバブエのことが頭をよぎると思います。僕もそうでした。でもそれは的外れです。

 

 

+通貨を刷ってもジンバブエにはならないから大丈夫

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 「金融操作に足りないお金は刷ってしまえばいい」と言うと何となく不安になります。

 なぜなら、あの有名なジンバブエ・ドルでは、国の財政が苦しくなってきたときに、ばんばんお金を刷りまくったせいでハイパーインフレが進み(=通貨価値がだだ下がりしまくり)、経済がしっちゃかめっちゃかになりました。最終的には「100兆ドル札」とかが存在したとかいうのは有名な逸話。いまではジンバブエ・ドルという通貨自体が存在しません。

 この逸話は本当に有名なので、僕らは素人は国がお金を刷りすぎるのはよくない、となんとなく思ってしまいます。

 

 でも、ジンバブエが何を間違えたのかを考えれば、それは違うと判ります。

 彼らが間違ったのは、インフレが進んでるときに「もっとお金を刷る」というインフレ気分が加速する政策を進めたという点です。

 国がお金を刷るということは、国が公共投資をバンバンするということであり、国が公共投資をするとインフレ気分が促進されます。上の金融循環のときの説明で言えば、緑色の気分が出てるときに、もっと緑色の気分が出ることをやっていたということ。

 インフレのときにインフレを加速したら、ハイパーインフレにそりゃあなります。

 

 一方、さっき言ったような「デフレ対策で必要なお金は国が刷ればいい」という話は、青色の気分が出てるときに、緑色の気分が出るような政策を打つということです

 これはジンバブエの失敗の時とは全く違います。

 デフレは失速し、少しのインフレ気分が出ることでしょう。

 もちろん、そのまま永遠にお金を刷り続けると、やはりハイパーインフレになるかもしれませんが、政府と国民がよほどアホでない限りそんなことにはなりようがありません。

 インフレが進んできたら、単にお金を刷るのを止めればいいのだから

 そして放っておいたらだんだんインフレの金融循環が進んでくるでしょうが、今度は増税してデフレ気分を盛り上げればいい*4

 

 国が通貨を刷って流通させることを、今の日本のニュースは「国の借金」とか呼んでいるのですが、この呼び方はどうも良くないという解釈が経済学界隈では広まりつつあるようですね。デフレを防ぐためなら「国の借金」ぐらいすればいい。僕の如き素人はニュースの呼び方に影響されていたりしますが、あれは普通の借金みたいに沢山あると困るって話じゃあ必ずしもないみたいです。

 むしろ、「国の借金」が出来ないようでは、経済をコントロールしてデフレを防ぐことが難しい。もしかしたら無理かもレベルで難しいらしい。

 

+実際にデフレのコントロールが無理だった通貨~ユーロ

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 実は現実に、「国の借金」が困難な制度を採用している通貨があります。

 ユーロです。

 ユーロを発行しているのは、欧州中央銀行です。でも各国の経済政策は各国が独自に行っています。なのでユーロを使っている国では、自国がヤバいデフレになったときに他の国の許しを得ないと「国の借金」をすることができません

 

 これのせいでどうも、結構まずいことが現実に起きている。

 

 例えば2008年、サブプライムローン問題でスペインは危機に陥りました。それまでのバブルが弾けて、スペイン社会はデフレ気分に入ります

 普通の国だったら、こういう時は今日本がやってるように、大胆な金融緩和をやったり、減った税収の分は「国の借金」で賄って公共事業をやったりすることで乗り切ることになります。スペインもそうしたかったに違いありません。

 しかし、それはできませんでした。金利を決めたりユーロ債を発行したりするのは、スペイン政府ではなく欧州中央銀行だからです

 しょうがないので、スペインは減った税収を補うために増税します。

 

 デフレにはいっているのに、デフレ気分を盛り上げる増税をやった訳です。

 ジンバブエとやってることが同じ! 

 

 当然のことながら、スペイン経済はヤバいレベルのデフレに入ってしまいます。もともとの経済がそこまで強くなかったこともあって、この打撃に耐えられず、一時期のスペインは若年失業率が40%とかいってました。

 ニュースを聞いているだけでは僕には分からなかったことですが、欧州の若年失業率がどうとか言っていたのは、どうやらこのせいだったらしいのですね。

 

 他にも、ギリシャ危機の時などは、ギリシャ政府と欧州中央銀行の足並みが揃わないせいで相当ヤバイところまでいきました。もし通貨を発行していたのがギリシャ銀行だったら、あそこまでの事態にはならなかったに違いない。

 このように、通貨を管理しているのは「国」でないと結構まずいことになるらしいのです。

 

+仮想通貨=国の管轄してない通貨はヤバいので無理です。

芝生の上の草コインのイラスト

 まとめます。

 

  • 国が管理しないと通貨は安定しない。
  • 仮想通貨は国が管理してないのでムリです。

 

 ……たった2行で済んでしまいました。でもこれが全てだ。

 仮想通貨を称揚する記事は、しばしば「国が通貨を保証しててもそれが安心だとなぜいえる?」とか言うのですが、あれって「じゃあ誰も保証してないことが日本政府より信用できるのかよ?」みたいな、盛大なブーメランですからね。やめたほうがいい。

 

 仮想通貨に管理者がいないことは、やっぱりメリットだった面もあるようです。

 例えば、アフリカなど政府が脆弱な地域では国の管理がそもそも信用ならないので仮想通貨が積極的に利用された、みたいな面もあったそうな*5。そういうメリットが初期の仮想通貨で普及のきっかけになったみたいな話はあったらしい。

 でも投資家たちに目をつけられた今はもう、仮想通貨をメインの支払い手段に考えてる人なんて世界中にほぼ居ないでしょう。支払い手段にするには不安定すぎる。そのことは仮想通貨を普及させたい人たちも問題視しているようですが、しかし管理者がいない仮想通貨が本当の意味で安定することは、どうやら原理的にない。

 つまり仮想通貨が支払い手段として復活することは、恐らくこの先もないでしょう。

 

  最近は本記事のような説明を踏まえてなのか「国が仮想通貨のブロックチェーンの仕組みを採用する」という話も最近チラチラでてきています。

 しかしこれも僕は不安極まりないですね。国の経済全体の命運を預けるには、量子コンピューターブロックチェーンが無効になるかもしれないとか、物理的金庫よりも強固な電子的金庫が存在するのかとか、そのあたりの可能性が不安すぎると思う*6

 

 最後に、素人の僕にちょっとわからないことがあって。仮想通貨ってのは上記のような理屈で世界の標準にならないことがほぼ確定していると思うんですが、こういう認識が仮に広まったとして、そのとき今の仮想通貨の価値っていうのはどうなるんでしょうね?

 世界通貨にならないってことがバレた状態でも、相変わらず投機の対象としてバブルやバブル破裂を繰り返していけるんでしょうか? 

 もしそうなら、投機先としてはまあまあ面白いような気はしないでもない。今のバブル崩壊も将来の買いに向けた布石となりえるのか。

 あーいやでもどうかな。犯罪者のマネーロンダリングになってるの件とかあるし、どうかな。最終的には政府側の規制かかる見込みが強いかも。 

 

 

*1:一般には通貨の価値が上がってたらデフレなのですが、ここでは「投機商品」が話の対象なのでインフレという呼び方にします。

*2:なんでそれが悪いのかはここではあまり関係ないし難しいので一旦置いておきましょう。僕にちゃんと説明する自信がないともいう

*3:もっともインフレ気分の演出に「金利」をつかっちゃうと、いつかは金利をあげなきゃいけなくてその時にもデフレ気分がが発生しちゃうので、その点がどうなのよ? 公共投資や減税のほうがよかったんじゃ? みたいな話になってるみたいです。

*4:ちなみに増税だけだったら、仮想通貨にも手数料操作の形でできるんで、インフレ抑制は国の管理なしでも可能だと思います。

*5:逆に言ったら日本みたいな政府が堅調な地域で仮想通貨を取引に利用する意味は、現状ほぼ無いと思われる。お店に支払い手段で導入したがってたのは、きっと円に換金するのがめんどいだけの投資家さんたちだろう。

*6:こういう話、ひろゆき先生は的を得たことしか言わない。

【仮想通貨】ひろゆき氏「毎日ハッカーと闘うなんて無理! 」 : 仮想通貨最新情報サイト | 仮想通貨まとめNews

「上遠野浩平論」③上遠野浩平の創作哲学(『製造人間は頭が固い』)

 上遠野浩平論の第3回。

 第2回では、エヴァよりも前に書かれたと思われる投稿時代の作品が既にセカイ系の特徴を踏まえていることを通して、上遠野浩平セカイ系ブームの影響を受けていないのだと主張した。

 今回は、更にその主張を補強するために、上遠野浩平の創作論に踏み込む。

 もちろん、上遠野浩平が自身の創作スタイルを完全に詳らかにしているなんてことはないが、たまたま最近、そういう分析にうってつけの作品が出版された。

 

 

+上遠野版の岸部露伴~『製造人間は頭が固い』

 

 うってつけの作品とは、何を隠そう『製造人間は頭が固い』

 前回に投稿時代の作品をやったのに、一気に最大ジャンプして2017年の作品となる。

 この作品は、SFマガジン不定期連載されていたものをまとめた短編集だ。内容は、統和機構の合成人間を作っているウトセラ・ムビョウという男が、リセットリミット姉妹やフォルティッシモといったお馴染みのキャラクターと話す、というもので、書籍版にはフェイ・リスキィ博士による間章が追加されている。ハヤカワSFマガジンの連載だが、電撃のブギーポップシリーズを読んでないと意味がわからないはず。上遠野作品には偶にある、完全ファン向けの作品である*1

 

 なぜこの作品を上遠野浩平という人物を分析するタイミングで紹介するかというと、僕の読んだ感じ、ウトセラ・ムビョウのモデルは上遠野浩平本人だからだ。少なくとも他のキャラよりも本人の性質が多めに投影されているはず。例えるなら、荒木飛呂彦における岸部露伴みたいな存在とでもいおうか。

 

 だってすべての合成人間の生みの親ですよ。それってやっぱり上遠野先生のことじゃないですか。

 しかもウトセラ・ムビョウは霧間誠一と違って生きていてしゃべる。

 

 故に『製造人間は頭が固い』は、上遠野浩平という作家の人物像を探り出すにあたり、早い段階で紹介しておいたほうがいい作品だ。

 

 

+作者の理想像としての分身

 

 とはいえ、荒木飛呂彦はクモの味を見ておこうなんて思わなかったろうし、空中に絵を書いてスタンドを出したりもしないし、プッチ神父の加速する世界の中で締め切りを守ることもたぶんできないだろう。

 岸辺露伴荒木飛呂彦は、当然のことながら同一人物ではない。

 

 同様のことは、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平にももちろん言える。

 上遠野浩平本人も『製造人間』刊行インタビュー*2の中でこう発言している。

(ウトセラが不思議な存在であることに同意して)私が彼を理解しているわけではないんですよね。先生の場合は、思考回路的なものを疑似的に頭の中に作って、それに問いかけると、よくわからない答えが返ってくる。私自身が作中のようなことを言われても、ウトセラ先生と同じ答えはできないです。そういう意味では、憧れの存在を書いているとも言えますね。何をいってもまったく動じずに反応する。正統性があるかどうかは別にして、そういう姿勢に憧れますね。

 このように、ウトセラ・ムビョウと上遠野浩平は別に同一の存在ではない。

 それは確かだ。

 

 しかし、僕はこのインタビューの発言を敢えて次のように読もうと思う。 

 上遠野浩平とウトセラ・ムビョウがイコールでないとしても、上遠野浩平がウトセラ・ムビョウを「憧れの存在」として書いたのなら、ウトセラ・ムビョウの言う内容は上遠野浩平が正しいと考える内容とイコールと見做してよいのではないか

 荒木飛呂彦も岸部露伴のことを「理想の漫画家像」だと公言している。それと同じだ。

 ウトセラ・ムビョウは、上遠野浩平から見て間違ったことは決して言わない。むしろ我々に伝えたいと思っていることや理想を積極的に語るキャラクターとして作られていると考えられる。

 

 ウトセラ先生の思想はすなわち上遠野先生の思想だ。

 勇み足なのは承知の上だが、そういう読みは少なくとも可能なはずである。

 

 そして、もしウトセラ先生の思想を作家自身の思想と見做すことが妥当なら、我々が今試みている上遠野浩平の作家論にとって非常に有用だ。

 なぜならば、ウトセラ・ムビョウは、物語のクライマックスで、一種の創作論を語るからだ

 

 

+製造人間による 交換人間=市場主義 批判

 

 ウトセラ先生が創作論を語るのは、製造人間と対を成す存在として登場する、交換人間ミナト・ローバイとの対決シーンだ。

 

 このミナト・ローバイというキャラクター*3も、露骨にモデルが透けて見える造形である。

 なにしろ名前からして直球だ。「交換人間」の「交換」とは、文化研究的な文脈で使われる「交換」を意味していると思われる。物品や価値を相互に贈与するという意味の単語。この概念はしばしば経済の起源を論じる際に用いられるのだが——つまり、ミナト・ローバイというキャラクターは市場主義の権化である。やたらと価値の話をするところからも、ほぼ間違いないとみていいだろう。

 また、ミナト・ローバイは、迷うことも他者を振り返ることもなく、ひたすら自分の考える正解に向かって邁進する。それは彼が合理主義の権化でもあるということを意味すると思われる。

 

 市場主義と合理主義が、製造人間の敵として立ちふさがっているわけだ*4

 

 市場合理主義=ミナト・ローバイは、何物も新しい価値を創造してなどおらず、あるのは「交換」によって生じる価値の取り扱いの変化だけだと断言する。この世にもう真に新しいものを創造する余地などないのだと。そして自分自身こそが最も上手く価値の変化を扱えるのだと豪語する。*5

 

 それに対して、ウトセラ・ムビョウは、交換人間の主張を痛烈に批判して、こう言う。

ただし――何かと何かを交換するだけで世界を動かせる、という考え方には従わない。世界は不平等だ。それは事実だ。しかし、だからといって、その不平等の落差を利用するだけで豊かになろうとする、それが価値の創造とか言われては、話にならない。ほんとうの創造がなんなのか。モノを創り出すということがなんなのか全く判っていない。

創造の本質は『偶然』だ。たまたま出来る――それだけだ。本質的に不条理なものなんだ。それが僕が製造人間として生きてきて掴んだ実感だ。(中略)物作りというは結局、たまたまうまく出来るまで延々と続けることでしか成立しない、デタラメなモノだ。それを価値を交換してどうの、なんてことを途中でやっていたら、肝心のものにはいつまたっても到達できないんだ。交換だけをやたらと重要視し、至高のものと思い込むことは、自分は何も生み出せませんから、世界の寄生虫になります、と言っているようなものだ。

もちろん君たちは創造の一端には関わっているだろう。しかし忘れないでもらいたい。役に立つものを作って、そこで満足しているうちは、それはしょせんは工業でしかないんだ。僕と同じ製造人間だ。みんな産業に支配された、大多数にとって都合の良い部品に過ぎないんだ。それが悪いわけじゃない。僕だって同じだ。しかし真の未来は、今は役に立たないゴミのようなものの中からしか生まれないことだけは、見過ごしてはならない。役立たずの無能の、無数の可能性の屍のうちに文明は成り立っていて、僕らはそれを漁っている屍肉喰らいなのだということを――。

  物語上では、極端な主張をする悪役に主人公がSEKKYOUしているシーンに過ぎない。実際、能力バトルの上は、ウトセラ先生は単に相手を怒らせたくて言っているだけである。

 しかしこれを「小説家本人の化身が、擬人化した市場主義に言ったセリフ」と読めば、だいぶ趣が変わってくるのが判るだろうか。

 

 

上遠野浩平の創作哲学

 

 上記の引用部分でウトセラ先生が言った内容は、創作活動全般への姿勢として読むことが出来そうである*6

 要素を抜き出して、検討してみよう。

 

 まず彼は、明らかに創作を制御できる可能性を否定している

 より正確にいえば、制御して作られた作品は「未来≒新しい作品」などではないと言っている。"本質的に不条理なもの"であり、つまり理屈をつけるのは不可能な活動だ。

 

 更に彼は、真に新しい作品を作るには試行回数を増やす以外に無いと指摘している。

 全て創作は制御不能の偶然に左右されるのであって、偶然を確実に変えるのは試行回数以外にない。意図や計算や市場分析の入り込む余地はなく、それどころか、意図や計算や市場分析に労力を割いていたら"いつまで経っても到達できない"、即ち、費やした労力の分だけ試行回数が減るので成功するの確率が減る。

 

 そして、創作において他者の評価を気にすることは無駄であり有害だと言っている。

 他人の役に立つのは、即ち、市場の要請に従って人気のありそうな作品を作るのは、それは創作でなく工業に過ぎない。製造人間=上遠野浩平がしているのも実はそれである。しかし、真の意味で新しい作品は、工業的な活動からは出てこないことも、製造人間=上遠野浩平には判っているのである。

 

 どうだろうか。「創造」についての話としては正鵠を得ているようにも見えるが、小説執筆に関する理論だと読むと、かなり尖ったことを言っているのが判るだろうか。

 ウトセラ・ムビョウ=上遠野浩平は、緻密なプロットとか綿密な検討とかによって、真に新しい小説ができることはない、と断言している。ましてや、ブームに合わせた小説を書くことでは真に新しいものはできない。そうした執筆姿勢は、創造性のない工業であり、屍肉喰らいの行為に過ぎない

 純文学の分野ならこういうことを言う人はまあまあいるかもしれないが、ライトノベル作家がこれを言っている、という事実には、ちょっと感じ入るところがある。

 ところで、そろそろ本論がこのタイミングを最新作を取り上げた理由が明確になったのではないか。

 こういうことをいう作家が、流行ったからとセカイ系に手を出したりするか? という話なのだ。

 

 

上遠野浩平の執筆スタイル

 

 正直僕は、常に哲学めいた内容を書く上遠野浩平は頭が良いのだから、緻密にプロットや計算を行っているのだろうと思っていた。

 いや、ウトセラ・ムビョウが「自分も工業をやっている」と言うように、上遠野浩平ライトノベル読者が何を求めているかの計算ぐらいはしているだろう*7。しかし、そんな計算では真の名作は生まれないんだけどなあ、という思いがどうやらあるようなのだ。

 

 思っているだけでない。どうも上遠野浩平は、もともと計算して書くタイプの書き手ではないようだ。 小説家には、計算でプロットを練り上げて書くタイプと天性の勢いで書くタイプが居る、という話が経験的によく語られるが、それで言えば、上遠野浩平はどうやら天性の勢いで書くタイプの作家だ

 第1回で紹介した『小説家になるには』のインタビューでも、自身の書き方について、こんなことを言っていた。

――創作ノートは作りますか

上遠野:昔は作っていましたが、最近はほとんど作りません。せいぜい登場人物の名前を書き出しておくぐらいで。以前はプロットというかストーリーを書いて、矢印で次の展開を示したり分岐させていったりしたんだけど、あまり設計通りにならないんで。

――冒頭から書いていくんですか。

上遠野:頭からじゃないと書けないです。人によってはヤマ場から書くとか、ミステリだと解決するところから書いていって、それにあわせて事件を作っていくという人もあるようですが、私の場合は最初からでないと書けない。

  あるいは『ファウストvol5』に載っていた西尾維新との対談で、各作品にキャラクターが出て来るリンクについて「年表などがあるのか」との質問に答えて、こんなことも言っている。

上遠野:いや、それは作ってないですよ。作っちゃうとどうしても時系列が一列に並んじゃうので。

西尾:上遠野さんの作品は現時点で30作近くあって、しかもそれがすべてクロスオーバーしているから、僕なんかだと出てきたキャラクターを覚えきれないこともあります。

上遠野:作者にもわからないときがありますよ(笑)。でもあんまり意識してなくても大丈夫なんです。一つの作品のなかで、立ち位置がはっきりさえしてればいい。

(*引用者の判断で一部略あり)

 

 このように様々な部分で、実は上遠野浩平は――誤解を生む言い方だが他に言いようが思いつかない――その場のノリで書いている様子を見せる。作品としても例えば、雑誌連載だった『ビートのディシプリン』や『螺旋のエンペロイダー』は、文庫一冊で小説を発表した時とは物語構造や読書感が全然異なっている。

 

 

+やはり天才か……

 

 というわけで、上遠野浩平は世間のセカイ系ブームに流されるタイプの作家ではない。

 

 というか、たぶんそういうことの出来る人ではない

 

 上遠野浩平セカイ系とか評価されるのは、たまたまそういう時代が来たという、純粋に偶然の結果だ。上遠野浩平は特に狙ってなくても書く作品がセカイ系っぽくなってしまう作家であって、それは恐らく、上遠野浩平の天性と問題意識が、セカイ系と呼ばれた対象に向かい続けているからにすぎない。

 時代の寵児ではあっても、時代に迎合したわけではない、という訳だ。

 

 ……ところで、さっき小説家のタイプの話をしたが、計算して書くタイプの書き手は、しばしばこんな風に自分のスタイルを称する。聞いたことがないだろうか?  「中には勢いだけで書いても面白くなる天才作家もいると聞くが、自分は天才ではないので、しっかりして計算して書かないといけない」だとか。この手の主張は、小説執筆ハウツー本などにすらしばしば載る。なので僕のごときワナビ崩れは、計算して書くことこそが正しいのだとすら思いがちなのだが。

 翻って、今回の記事で、上遠野浩平は計算なしで書くタイプの作家だということになった。

 

 もしかしたら本論は、上遠野浩平は天才、という事実を図らずして証明したのではなかろうか? 

 

 ……。まあ、知っていたけどね。

 上遠野先生が天才ってことは読めばわかるし。

 

 次回は読めばわかる上遠野浩平の天才性へ、あえて分析的にアプローチする。

 

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:とはいえ初読者でも楽しめたとのレビューも見たので、先にあれ読めとか言うのは無粋というものなのだろう。上遠野浩平は、どの作品でも繋がりが判らなかろうが面白くなるよう努力している、としばしば釘を刺す発言をしている。

*2:https://www.hayakawabooks.com/n/n059f6430e6c2

*3:このキャラは上遠野世界観において珍しい、全く留保のない"悪役"だ。こんなにも明確に"悪"なのは、他にはフェイルセイフぐらいしかぱっと思いつかない。枢奇王みたいなやつだと、悪は悪でもダークヒーロー的な一面もあるのだが、ミナト・ローバイにはそれがない。

*4:本来別物のはずの市場主義と合理主義を一緒くたにしている、という点は、今後の上遠野読書において結構重要な気がする。が、今すぐどうこう言うことはできそうになかったので、補足に書いておく。

*5:そう豪語する交換人間が、唯一自分より上だと認めるのはオキシジェンだというのがまた、上遠野世界観におけるこのキャラクターの「悪」を端的に示している。オキシジェンというキャラクターが何なのか、についてもこの先機会を探して書きたい。

*6:というか、僕はそういうものが書かれていると読んだ

*7:螺旋のエンペロイダー』などは明らかに「なんか最近流行っている学園サバイバルモノ」を試しに書いてみた感じだった。もっとも、上遠野浩平の天才性は物語を学園サバイバルとは完全に無関係な場所に着地させたが。