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「上遠野浩平論」⑨~魔女の消滅と「可能性」の復活(『ヴァルプルギスの後悔』)

 上遠野浩平論の第9回です。

 本論はこれまで、第5回第6回では「可能性」を描いた第1期上遠野浩平について、第7回第8回では「運命」を描いた第2期上遠野浩平について、それぞれ論じることで、デビューからゼロ年代にかけての上遠野浩平が、どのような流れの中で自分の文学を展開してきたかを示してきた。

 今回はそうした流れの集大成となった作品について論じよう。

 論じる作品とは、ヴァルプルギスの後悔だ。

 作者が「ブギーポップシリーズを終える上で必要な作品」と称したこの作品は、本論がこれまで提示してきた用語で説明するならば、第2期上遠野浩平を終わらせた作品、にあたる。この作品が何に必要だったのかといえば、第3期上遠野浩平に移行するために必要だったのである。

 なぜそう言えるのか?

 第3期上遠野浩平とは何なのか?

 本記事では複雑に絡まりあった作品の構造を紐ほどき、シンプルな形に整理しなおしていく。またそうすることで、第2期上遠野浩平の終わりと、作者の現在に直結する更なる文学的展開を示す。

 

 

上遠野浩平の暗中模索~『ヴァルプルギスの後悔

 

 ヴァルプルギスの後悔は、2007~2011年に、電撃hp電撃文庫magazineで連載*1 された。その前に連載されていた『ビートのディシプリン』の実質的続編である*2

 

 この作品は紛れもない重要作品であり、上遠野浩平の文学を理解するためには絶対読まねばならない。しかし……議論の正当性を確保するためにはハッキリ言葉にしておかねばならないだろう……『ヴァルプルギスの後悔』は、あまり褒められた作品ではない。面白くないとは言いたくないが、少なくとも面白さが判り難い。しかもそれは内容が難しいからではなく、蛇足が長く、放置された伏線が多く、構成がとっちらかっているからだ。ネットの感想を探したら星1評価が余裕で出てくる類の低評価作品である*3

 

 個人の所感だが、低評価作品となった原因の大部分は、この作品が連載形式で発表されたことにあると思う。それでなくても、上遠野浩平はどちらかというとその場の勢い重視の作家で、計算ずくで書かれるべき長期間連載に向いた書き手ではない*4。だというのに、この作品は2000年に連載開始した『ディシプリン』も入れて考えると、連載期間が10年を超えているのだ。

 実際、どうもこの作品のストーリー展開は、最初に構想していた形にはなってない。連載前半に張っていた伏線がいくつも、連載後半になって不自然に放棄されているように読める。

 特に酷いのは「天敵」という語で、最初これは浅倉朝子に与えられた役割のはずだったが、『ヴァルプルギス』の開始と同時に役割が織機綺に移行、能力バトル的には魔女には勝てないことが明言されつつも、カレイドスコープに「この少女が天敵として完成したら魔女戦争のついに幕が降りるのかもしれない……」とか*5思わせぶりなことを言われ、しかし結局のところ最終決戦で凪の勝利に貢献することは一切なかった。じゃあ「天敵」って一体なんだったの? 魔女に利用されるだけのコマなら、『ディシプリン』の頃から何年もこの語を温めておく必要はなかったのでは? あと特に気になるのは、序盤に霧間凪の宿敵、という話が出てきたジィドが結局ぜんぜん凪と絡まないこと*6。あと、中枢候補になる?みたいな話までされた飛鳥井仁がそのシーン以降全然出てこないこと。それと、魔女の出現に備えていたはずのイディオティックとオキシジェンが場当たり的に行動しているように見えること。

 

 作者からによる内情バレも実はある。上遠野浩平は、そういうことは割と素直に言ってしまうタイプの作家だと思う*7

 2010年8月に出版された『Fire.3』から、あとがきを見てみよう。

 小説を書いていると当然、登場人物のことを考える訳だが、その中でもよく頭を悩ませるのは「こいつは何が楽しくていきているんだろう?」ということである。「何が目的なんだ?」「生き甲斐ってなに?」みたいなことを、自分が考えたはずのキャラクターに対して不思議がっているのは相当に変だが、でも本当に、疑問に思わざるを得ないほどに、ストーリーを練っていくとかなり頻繁に、とんでもないことをしでかすヤツが現れる。事前にはまったく予想できなかったような行動である。そのせいで話は逸れるは当初のテーマはどっかに行ってしまうわ終わりが全く見えなくなるわと大変なのだが、そいつがそういうことをするのはもう、あまりにも当然という感じで直しようがないのだ。最初に「こういう感じの人」といって決めたはずの設定など、そいつの生き様の前には消し飛んでいまうという風なのだ。別に立派なことばかりじゃなくて、「えーっ、おまえ、そこで挫けちゃうの?」というマイナス面も多くて、どう突っついても先に進んでくれなくなる。一体どうしてそうなるのだ、と思っても、なったんだからしょうがない、と連中は割りきっちゃうのである。実に困る。

 

 単独で読めば割とよく見る創作あるあるだが。

 しかしなぜこのタイミングでこの話をしたのか? 恐らく『Fire3』に掲載された範囲の執筆時、あるいはあとがきが書かれた2010年時の連載作業の中で、まさにそういう思いをしていたのではないか。しかも、このあとがきのタイトルが「あとがき――要するに、つまらない話であろうか?」という。連載がシンプルな面白さから離れていってしまっていることは、作者自身も織り込み済みだったらしい。もちろんその状態から軌道修正しようと苦心もしただろう。

 要するに何が言いたいかと言うと、上遠野浩平は『ヴァルプルギスの後悔』を、作者にすら先の読めない暗中模索の中で執筆したということだ。つまり、読者である我々の前に提示されているのは、作者の混乱も含まれるという意味での紛れもない"文学作品”であり、作品を誠実に読むためには、そのあたりの混乱に忖度することが必要となるだろう。

 

 

 +実はシンプルな物語構造

 

 そういう訳で、ここから先は全力の忖度とともに物語を整理していく。

 一見とっちらかって見える『ヴァルプルギスの後悔』だが、実は骨格となる物語構造自体は非常にシンプルだ。起こったことだけを見れば、物語には3つの段階しかない。

 

  1. 霧間凪のもとで魔女の「運命」が成就する。
  2. 魔女戦争が起きる。その陰で霧間凪が足掻く。
  3. 霧間凪が魔女の「運命」を打ち砕く。

 

 準備・対立・解決からなる、伝統的な三幕構成*8を踏襲していると考えていいだろう*9

 

 そして、この基本骨格の周囲に、物語の主題とは関係ない、上遠野サーガリンクの要素が肉付けされているのが『ヴァルプルギスの後悔』という小説だ。魔女の戦いとは、基本的に他人の運命をコマとして操作することなので、どうしたって沢山のコマ=魔女と関係ない他人が登場することになる。それにかこつけて作品間リンクを貼りまくって、上遠野サーガの全容を提示しようというのが、作品のコンセプトだったんじゃないかと思う。

 肉付けされたものとは、まず統和機構のアクシズ交代に絡むパート。あと、ロボット将軍・マキシムGが初登場したのは、どうにかロボット探偵・千条雅人を作品に出したかったから。フェイ・リスキィ博士のくだりがあるのも奇蹟使いを出したかったから、など。相克渦動の話や、オリセ・クォルトとリ・カーズの話も少しでてくる。

 なかでも大きく扱われるのが織機綺の周辺の話だ。彼女は『ヴァルプルギス』で、本論第8回でも言及した利己性の欠如がもたらす歪み*10に向き合った。この話は、結構上遠野浩平にとっても大事だったと思うのだが、魔女の消滅時に無かったことにしたのは、設定上しかたなかったのか? それとも、連載時の混乱で上手くいかなかったという判断なのか? いずれにしても、このテーマには後に『オルタナティヴ・エゴの乱逆』で再挑戦がなされる。

 あとここでは、パールについて触れておきたい。"生き延びる"ことに特化したこのキャラクターは、上遠野浩平の現実主義的な部分を煮詰めたような〈戦士〉だが……やることなすことが現実的すぎるのだろうか。小説で描かれるべき、自身の価値が試されるような試練にぜんぜん直面しない。魔女と長時間行動を伴にし、アルケルティスからアクシズ候補に挙げられ、可能性操作の一つである”終点を導きだす能力”を自覚し、最後には"生滅の指輪"を受け継ぎまでしたのに、連載全体を見たときにキャラクターにとって真に重要な出来事は何も起きなかった。結果として、『ヴァルプルギス』はパールにとっては溜め回である。今後、何か個別作品が出てくることを期待したい。

 

 いずれにしても、ここでの議論では肉付け部分は扱わない。個別の世界設定を考察するにはむしろそちらが重要なのだが、本論は、作品全体が上遠野文学においてどのような位置づけにあるかを示すのを目指すからだ。

 

 

 

+〈神秘主義的な運命〉の復活

 

 先に確認した物語の3段階で起きていることで、順に確認していこう。

 まずは1段階目について。

 『Fire1』と『Fire2』の文庫2冊分にあたるこの段階では、霧間凪を中心とした「運命」が、抵抗虚しく成就するまでが描かれる。

 この段階で行っているのは、基本的にそれまでの第2期上遠野公平作品で描いてきた「運命」表現のリフレインである。「○○はこの先の運命を知らない――」「避けられない運命に向かっていくことになる」「どっちみちもう逃げられないのよ」といった表現が繰り返され、運命には絶対に敵わないことが再確認される。キャラクターとしては、リキ・ティキ・タビが頑張って運命に抗おうとするが、失敗する。

 また、運命にただ流されていては碌なことにならない事も再確認される。村津隆はそのためのキャラクターで、彼は自らすすんで「運命」を成就させるために動き、結果使い捨ての道具として死ぬ*11

 

 さてこの物語の第1段階では、本論にとって重大な事が一つ起きている。

 

 神秘主義的な運命〉の復活である。

 

 本論第7回で主に述べたが、初期の上遠野浩平文学において「運命」という語は、”何者かが秩序だった方向へ世界と我々を操作している”という、オカルト的な意味を持っていた。しかしこの考えは比較的早い段階で破棄され、オキシジェンの登場とともに”我々は真の因果関係を決して把握できない”という認識からなる決定論的な運命〉が登場した。この概念は上遠野浩平の文学における主要な位置を占めており、第2期上遠野浩平において多用される「運命」という語は、ほぼ全てこの〈決定論的な運命〉であった。

 しかし、第2期上遠野浩平も後半になって始まった『ヴァルプルギス』で登場した二人の魔女は、どうみても神秘主義的な運命〉の擬人化である。魔女たちは、しばしば「私の目指す秩序が素晴らしく、敵の魔女も秩序を口にするがそれは間違っている」という話をする。これは〈神秘主義的な運命〉の、無軌道な世界に恣意的な秩序をもたらすという発想そのものである。

 

 しかも決定論的な運命〉と〈神秘主義的な運命〉は、連載中に露骨に切り替わっている。具体的には、『Fire1』に登場する運命は〈決定論的な運命〉で、『Fire2』以降に登場する運命は〈神秘主義的な運命〉である。

 確認してみよう。まずは『Fire1』でモブ敵役となった、合成人間ドーバーマンが霧間凪に敗北した直後の独白から。

(なんで俺は、今――こんな状況になった? あの女はなんだったんだ? 俺は船に行こうとしていて、そこであの女は――もし俺が船に乗っていたら、今頃はどうなっていたんだ?)

 なんだか変な感じだった――統和機構がこれからドーバーマンにどのような裁定を下すのかはわからない。だがそれは決して甘いものではなさそうだった。もしも、彼が今、あの女にそのままやられていたら、あいつは彼を殺していただろうか、それとも――。

(なんでだ? なんで――俺は今、もしかすると……あの女に助けられたのかも知れないって、そんなふうに思っているんだ……?)

 

 決定論的な運命〉の存在に事態が終了してから気づく、典型的な描写である

 船に乗っていたら、実はドーバーマンはフォルティッシモに吹き飛ばされて死んでいた。つまり彼の目の前には「船に乗るか、命を保つか」という運命の選択肢があったのだが、〈決定論的な運命〉において普通の人間は運命の選択肢の存在を察知することはできないので、ドーバーマンは軽率にも船に乗る方の運命を選ぼうとしていた。そこを霧間凪の介入によって、九死に一生を得ていた。彼は自分が死ぬ〈運命〉を選びかけていたことに、手遅れになってから気付いた。

 ここには魔女の操作する「運命」は存在しない。ただただ不可知で無秩序な世界法則がある。

 

 続いて『Fire2』におけるモブ敵役、合成人間部隊トラス・アトラスが、霧間凪に敗北した直後の会話を見てみよう。

「……す、するとあいつがお前が探していたやつだったというのか?」

「すごい偶然ね――と言いたいところだけど、これはそうじゃないわ。単なる運命よ。避けられない状況が迫ってきているということだけ」

 普通ならば単なる偶然というところを、彼女は逆に言った。そしてふふっ、と笑って、

「だからもう、あなたたちも逃げられないのよ。”あいつ”の敵になってしまったんだから」

 その微笑は、どう見てもかつてのトラス・サウスではなかったが、しかし他の者達はそのことを追求していいものかどうか迷っていた。彼らは自分たちが感じている恐怖が、今戦った相手に対してのものなのか、それとも目の前の味方のはずの女に対してのものなのか、今ひとつ判別がついていなかった。(中略)彼らは知らなかった。それはどっちにしろ、同じ存在に対しての恐怖だということを。――”魔女の災厄”に対しての。

 

  既にアルケルティスの傀儡となっているトラス・サウスが、やってきて残りのメンバーに「運命」を告げる。告げられているのは「魔女の操作している運命」、即ち〈神秘主義的な運命〉の存在である。トラス・アトラスたちには、不可知の運命の選択肢が存在したことなどない。彼らが逃げられないのは、魔女に目をつけられたからであり、自分たちが不用意だったからではない。

 同じように霧間凪に負けているのに、ドーバーマンのときとは、負けた原因に関する描写が全然違っているのだ。

 

 他にも、霧間凪や村津隆や織機綺の身に起きることはずっと「運命」と呼ばれているのだが、同じ語の含意が『Fire1』の序盤と『Fire2』の後半では全く変わっていたりする。

 この〈神秘主義的な運命〉の復活展開は、割と唐突であり、それまで上遠野浩平が表現してきたこととも全く食い違うため、初読時はだいぶ面食らわされた。

 しかし、いまでは個人的な考えもある。たぶん「炎の魔女と氷の魔女が戦う」というアイデアまだ〈神秘主義的な運命〉が有効だったころに思いついたものなんじゃないか。根拠は特にないのだが、上遠野浩平が構想だけ示して寝かせている作品がいくつあるか、またキャリア後期になってデビュー前のアイデアを使った作品がいくつもあることを考えたら、僕にはこれがむしろ自然だと思える*12

 

 

+〈戦士〉ではなかった魔女たち

 

 物語の第2段階には、だいたい『Fire3』と『Fire4』の前半が相当する。

ヴァルプルギスの後悔〈Fire3.〉 (電撃文庫)

ヴァルプルギスの後悔〈Fire3.〉 (電撃文庫)

 

  第2段階では、魔女とはどんなものなのかが主に描かれる。魔女たちは、マキシムGを誑かしたり、フェイ・リスキィの奇跡使いの才能を前倒しで開花させたりすることで、非常に迂遠な闘争を行う。作中の表現に即していえば「魔女たちは自分たちの未来という駒を如何に使うかを競っている」*13。最終的には、リキ・ティキ・タビすら、魔女のコマの一つとして存在したに過ぎないことが明らかとなった。また、霧間凪の肉体の封印から脱出したヴァルプルギスは、統和機構の首脳陣を支配してみせることで、魔女の横暴さを遺憾なく発揮する。

 

 この段階では、魔女たちは〈戦士〉ではないという事が明示されている

 『Fire4』から、オキシジェンからヴァルプルギスへのSEKKYOUを引用する。

「おまえは中途半端だ、オキシジェン――本来ならば経なければならなかった試練、もうひとりの候補との滅しあいを回避して、ずるずると長らえたツケが回ってきているのよ。それに比べてこの霧間凪は、これまでずっと自分よりも強い相手と戦ってきた。本来ならば勝負にならないはずのお前とも、こうやって対等にやり合えるほどに」「おまえとは違うのよ。アルケルティスの保護を受けながら中枢を続けてきたようなすねかじりの支配者とは、ね――」

 ここまで一方的に言われてきたオキシジェンが、そこでやっと口を開いた。 

「……それは、おまえも……だ、ヴァルプルギス――」

「――あ?」

「おまえも――霧間凪ではない。どんなに姿かたちがそっくりでも……お前は彼女にはなれない……」

オキシジェンの眼は、彼女のことを正面から見据えている。

「おまえも、私と同じ……決して手に入らない。霧間凪のようには、絶対になれない。いくら世界を支配できる力や、宇宙を引き裂くパワーを持っていても……己の虚無を埋める強さだけは……心のどこにもないのだ……」ぼそぼそ声で、ひたひたと迫るように語っていく。「アルケルティスも、おまえも……ほんとうは戦っているんじゃない……互いの暗闇を押し付けあっているだけだ……」

(中略)

「お前は霧間凪と一体化していたと思っているようだが――それは違う」と、やはり冷たい声で言う。「ただ……凪のことをこっそりと見ていただけだ。おまえはなんら……彼女に影響を与えていない。凪は自分だけで運命に立ち向かっていたが……おまえは」彼の目は、ずっと彼女のことを正面から見つめ続けている。「……凪の影に隠れていただけだ。対決を避けていたのはアルケルティスだけじゃない。おまえも……凪に――」

 言葉の途中で、彼が最後まで言い終わる前に、魔女は再び動いていた。

 

  言うべきことはオキシジェンが全部言ってしまっているが、例によって、本論なりの言葉で言い直しておく。

 本論第8回で確認した通り、〈戦士〉とは己の過酷な運命に立ち向かう者のことである。そしてそれで言えば、二人の魔女は全く己の運命に立ち向かうことが出来ていない。立ち向かうべき「運命」は、事前に能力で回避してしまうからだ。魔女たちは、イディオティックとのつぶしあいを回避したはオキシジェンと同じことを、常時やっている。原理的に〈戦士〉たり得ない存在なのだ。

  第2期上遠野浩平の文学世界では、〈戦士〉であるかどうかがキャラクターの明暗を分けてきた。『虚空に夜』のリーバクレキスが”戦果を期待されていない”と扱われたのと同じ扱いが、魔女たちにも待っている。霧間凪のようには絶対になれない*14、という訳だ。

 

 

+〈神秘主義的な運命〉の消滅と〈決定論的な運命〉との直面

 

 物語の第3段階となる『Fire4』の後半以降では、ヴァルプルギスと霧間凪の直接対決が実現する。

ヴァルプルギスの後悔〈Fire4.〉 (電撃文庫)

ヴァルプルギスの後悔〈Fire4.〉 (電撃文庫)

 

 最終的に、ヴァルプルギスは、自分では世界を滅ぼす気など毛頭ないという”覚悟の無さ”を霧間凪に突かれて、自ら敗北を受け入れざるを得なくなる。案の定〈戦士〉ではないことが、魔女の敗北に繋がったというわけだ。また、戦いの過程では紙木城直子が助けるために現れ*15、凪というキャラクターの在り方が示される。

 

 この最終段階において、『ヴァルプルギス』でも最大の問題となるシーンが描かれる。魔女の敗北によって世界に激変?がおき、魔女が存在したことを覚えている人間が誰も居なくなる。『ヴァルプルギス』の連載で起きたこと全てが無かったことになる上、エヴァ最終回を思わせる訳のわからない描写がなさていて、正直意味がわからない。

 判らないなりになんとか考察すべく、まずはメインの該当箇所を引用してみよう。

 とぷん――

 というその("氷の魔女"となった凪とヴァルプルギスが)沈んだ際に散った波紋が、世界の至るところに向かって広がっていった。

 そのときに生じた変化を表現するのは、溶けてしまった氷の彫刻を後から推測するようなもので、どうしても無理であり、また意味のないことだ。

 人間ではその認識の片鱗にすらたどり着いていない領域に起こった変動は、太陽が爆発すれば日光もなくなるから、昼夜もなくなるというような意味で、なにかを消し去った。

 それがなんなのか、後から振り返ることはできない。この世界に存在する意思、気配、希望、絶望、指向、可能性――囲い込みようもないぐらいに大雑把な”そういうもの”――仮に万物に魂が宿っているのだとするならば、このときにその魂は一斉に、ちょっとだけ傷ついた。ごくごくわずかに、あるいは半身を裂かれるほど大きく、その規模を計りようもないくらいに、決定的に傷ついた。

 影を落としていたものがなくなって、露わにされたところに容赦なく降り注いだものが全てを変えた。それに直に対応するように強制されるようになった魂たちは、その瞬間からそれまでの無垢を失い、変化を余儀なくされることになる。

 強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――対立していた二つのものは、しかし、もはやその境界線を消失して、限りなく同一のものになっていく。

 今まで見えなかった、対立を溶け合わせるものが、対立それ自体よりも先に問題になる。そういう傾向が如実になっていく。 

 

 もう、地の文が「人間には認識の片鱗にすらたどり着けない」と言ってしまっている訳だが*16

 実際に起きたことだけを言えば、世界の過去・現在・未来の全てから、魔女が消滅した、という事だろう。過去からも居なくなっているので、霧間凪ほか数名*17を除いた全員から、魔女の記憶が消えた。 

 魔女が消えたことは、本論の言葉でいえば神秘主義的な運命〉が消えたということを意味する。引用部分では「太陽が爆発することで昼夜も無くなる」という言い方で、昼夜=運命が世界から消えたことが言い表されている。

 また、影を落としていたものがなくなった」ことで露わにされたところで容赦なく降り注いだ」、あるいは直に対応するように強制されるようになったのは決定論的な運命〉に対しての話だろう。〈神秘主義的な運命〉の影響下では、人々はある意味「運命」を選択する責任から逃れていた。平たく言えば、あらゆる悪い出来事を魔女の操作のせいだと考える事ができていた*18のだが、もはやそれは通用しない。各々が自分自身の責任で、自分の「運命」に対するスタンスを示さねばならなくなった。

 

 エピローグで、再び霧間凪に封印されたヴァルプルギスはこう言った。

”魔女という巨大な制御を失って、このさきどうなるのかは誰にも判らないけれど、少なくとも無遠慮で無分別な方向に向かってしまうことは確実……目先のことに流されて、あっちこっちへ移ろって、肝心のことをどんどん見失っていく時代になることでしょうね――”

 総じて、「偶然」が世界を支配するようになると言っている。

 本論第7回で紹介した『ジンクスショップ』で、スイッチスタンスが「偶然」を見たことが思い出される。魔女の制御が失われた世界とは、〈決定論的な運命〉に人々が翻弄される世界にほかならない。

 

 以上で、だいたい物語の3段階を整理することができた。こうしてみると、実は『ヴァルプルギスの後悔』とは神秘主義的な運命〉が消滅して〈決定論的な運命〉が世界を席巻するという、第2期上遠野浩平が始まったときの展開を小説の中に落とし込んだ作品だったということがわかる。

 本論でさんざん述べてきた内容を使って理解が可能という意味である。今まで長々と読んでくださった皆様は、これでもう『ヴァルプルギス』を読んでも、意味わかんねーなこれ、みたいな気分になることはないはず。

 

  しかし、一件だけ、この作品にだけ起きた特別な自体が含まれている。

 上遠野浩平の文学を理解するためには、その部分をこそ論じねばならない。

 どうして〈神秘主義的な運命〉が消えて〈決定論的な運命〉の時代が到来すると同時に全ての人間が記憶を失わねばならなかったのだろうか?

 

 

+未来への未知と「可能性」の復活

 

 ここからが、本記事で本当に言いたかった話。

 まず前提として、魔女の消滅によって『ヴァルプルギス』で起きた全てが無かったことになる、というこの状況はジョジョ6部のラストで到来した「一巡後の世界」にインスパイアされたものだと思われる*19

 だから本論でも、魔女消滅後の物語世界のことを〈一巡後のセカイ〉と呼ぶことにする。『ヴァルプルギス』以降のブギーポップは、ジョジョの7部や8部がパラレルワールドを舞台としているのと同様、〈一巡後のセカイ〉が舞台になっていると考えるべきだと思う*20

 

 そして、この〈一巡後のセカイ〉を舞台とする作品群を第3期上遠野浩平と定義することにしよう

 

 上遠野浩平が『ヴァルプルギス』がブギーポップが終わるために必要と言っていたのは、作品を〈一巡後のセカイ〉に到達させねばならなかったからである。〈一巡後のセカイ〉は、上遠野サーガのリンク解釈や、各キャラクターに貼られた伏線という以上に、文学的な意味での衝撃が非常に大きいのだ。 

 では〈一巡後のセカイ〉とは、一体どんなセカイなのか?

 

 それを論じるためには、そもそも第1期上遠野浩平から第2期上遠野浩平に移行したときの流れを思い出さねばならない。

 

 第1期上遠野浩平とは「可能性」の時代であった。

 上遠野浩平は、人々が極めて大きな「可能性」を持っていながら、ほぼ確実に失敗して〈世界の敵〉になっていくという、希望と悲観の相克した世界観を描いていた。「可能性」は、大きければ大きいほど失敗したときのショックも大きくて、持っているだけ損でさえある*21。しかし、それでも万に一つの確率で、「可能性」が本当に新たな未来となるかもしれなかった。我々にとって未来が未知である以上「可能性」が真の成功に至る僅かな可能性を、完全に否定することはできない。未来を知りえないことは、将来への不安が消せないことであり、不安こそがかつてセカイ系文学が描いた"断絶"の本体だったが、不安をもたらす未知は同時に希望でもあった。

 

 第2期上遠野浩平では、「可能性」が駆逐され、「運命」が物語世界の中心となった

 「可能性」の駆逐は、未知の消滅によって行われた。上遠野浩平はオキシジェンのような能力者*22たちを登場させることで、セカイとの断絶の向こう側を描写し始めた。これではもはや、"未来に何が起こるかなんて判らないから「可能性」が成功する確率はゼロじゃない"などと、開き直ることはできない。我々は誰もが、間違いなく人生を失敗する。失敗するという前提で生きていく必要があるということが過酷な現実が確認された。上遠野浩平は過酷な現実を生き延びるために〈戦士〉という生き様を繰り返し描くようになり、各作品において〈戦士〉であるキャラクターが生き延び、〈戦士〉になれないキャラクターは敗北した。

 

 そして今第3期上遠野浩平では魔女が消滅した

 魔女が消滅したということは未来を知ることは再び不可能になったということだ。

 というか、『ヴァルプルギス』で示されたのは、実は俯瞰観測者(オーバースケール)にとってすら未来は不確定である、ということだった。魔女に「一部しか見えてない」と明言されたオキシジェンは言うに及ばず、末真和子の能力を看破できなかったり、霧間凪の意図を全然見通せなかったりした魔女たちも、結局のところ我々と同じ。後になって「なんで私はあのときあんな判断をしたんだろう」と後悔*23する程度の存在だった。御都合主義バトルの極地みたいな強力な超能力を想定してすら、未知は消滅などしなかったのだ。 

 

 未来がやはり未知であるなら、当然、セカイに再び「可能性」が復活する

 

 

+〈一巡後のセカイ〉がもたらす〈戦士〉の自覚

 

 しかもこれは、上遠野浩平の文学が第1期のデビュー時と全く同じになった、という話ではない。 

 ジョジョプッチ神父が構想した「一巡後の世界」は、人々が未来を前もって認知していることで、普通に生きていても将来に起きる悲劇への覚悟している世界であった。魔女消滅によって訪れた〈一巡後のセカイ〉もこれと似ている。

 

 第2期上遠野浩平という期間を経て、我々は決定論的な運命〉の存在を自覚している

 そして、〈決定論的な運命〉という絶望と戦うためには〈戦士〉である必要があるのだと、作品を通して幾度も学んでいる。

 

 未来への未知が復活したというとは、”セカイとの断絶”がもたらす不安もまた復活したことを意味する。かつてセカイ系文学は、この絶対に解決できない不安から逃れることができず、「ひきこもり/心理主義*24」に至った。碇シンジは不安と対決することが出来ず、母の子宮に回帰するしかなかった。

 しかしブギーポップで〈一巡後のセカイ〉に至った者たちは、今や誰もが〈戦士〉である。〈戦士〉とは、絶対に勝つことができない絶望に対しても果敢に挑むことのできる存在である。だとすれば、将来が不安だからといって、立ち竦むことがあろうか? 0.1%でも勝利の確率があるならば、むしろ状況は良くなってさえいる。

 

 不安を前に、ひたすら立ちすくんでいた第1期とは違う。

 勇敢に戦うが、勝利は決して得られない第2期とも違う。

 

 勇敢に戦場に飛び込み、真の意味で勝利を目指す時代が訪れた。

 

 上遠野浩平は『ヴァルプルギス』の結びとなるあとがきにこのように書いた。

それは不安と隣り合わせで、限りなく不条理に近づくことでもあるが、その辺はもう”怖いもの知らず”ってことで切り抜けるんじゃないか、と。いったい何の話なんだというと、もちろん霧間凪の話をしていた訳であるが、うまく行ったかどうか作者は見極められない。手に負えない。効果があるかどうかもわからない素材で薬を作って、それが効くかもしれないという錯覚に頼るしかない。どうなんでしょうこれ?

 

 第3期上遠野浩平のセカイは、相変わらず将来が不安であり、読むことのできない運命は不条理でなままである。しかし、勇気があれば、不安は乗り越えられる。

 そして不安を乗り越えた先には、かつて諦めた真の「可能性」が待っている。

 

 

+そして第3期上遠野浩平へ~上遠野浩平20周年~

 

 アニメ放映を翌日に控えた2019年1月3日*25現在、上遠野浩平はいまも第3期の文学を描いている。

 最初に第1回の記事を書いたとき、「上遠野浩平は、螺旋上昇を続けて今や"セカイ系をかかえたその先"に至った」と述べておいた。ここがその場所である。ブームに捕らわれずにセカイ系を書き続けた作家の、一つの到達点が、ここにある。

 

 最近のブギーポップが、かつてのように面白い、と感じている読者は多いのではないか?と思うが、それは上遠野浩平が再び「可能性」をテーマに描くようになっているのが大きいと、僕は思う。1998年2月にデビューした上遠野浩平は、現在20周年の最終盤を終えて、次の21周年目に入ろうとしている。当然、これからも作品は発表され続け、作品世界は進化を続けるだろう。

 上遠野信者の一人として、その瞬間を楽しみに待つつもりだ。

 

 次回は連載のエピローグとして、第3期上遠野浩平における各作品について言いたいことを述べるとともに、将来の展望や期待について好き放題を書く。

*1:連載中に電撃hpが休載となり、掲載誌が移行した。

*2:ところで『ディシプリン』が終了してから『ヴァルプルギス』が開始するまで期間の発表作に『オルフェの方舟 』がある。この作品は、全てを燃やし尽くす能力者vs全てを停止させる能力者、という設定を持っており、なんだか"炎の魔女と氷の魔女の話を描く前に練習しておく"という意味で書かれたように思える。

*3:連載中から不人気だったらしく、雑誌バックナンバーを検索しても「掲載作品一覧」にタイトルすら載ってなくて困る。打ち切りとかない雑誌で本当によかった。

*4:本論第3回でこのことは述べた。

*5:『Fier.3』chapter3のラストでのこと。こんな後半に思わせぶりな伏線はったら普通は何かあるだろう。

*6:wikipediaの『ヴァルプルギスの後悔』のジィドのキャラクター紹介に、魔女の運命から自ら引いた、みたいなことが書いてあるんですが、そんな描写ありました? 連載版から文庫になったとき修正が入ったりしているのかな。

*7:しかし言い回しが全て上遠野節なのでよく読まないと今内情をばらしている、ということを見落としがちだ。このブログ連載がやっているのは、要するにその見落としをひたすら拾い上げるだけのことだったりする。

*8:ハリウッドで脚本執筆の技術を理論化したときに、基礎とされている技術。映画2時間あるいは本1冊に、ストーリーを規則正しく配置するのに役立つ。

*9:ただし、『Fire1』と『Fire2』つまり全体の半分が、第1段階の準備シークエンスにあたるのは長すぎる。また、第2段階の対立シークエンスでやってることが、ほぼストーリーの本質と無関係な上遠野サーガ間リンクの提示であり、構成の役に立ってない。根本的な部分で三幕構成になっておらず、これもまた連載時における混乱の結果であろう。

*10:『Fire2』には、霧間誠一の引用で「最も卑屈な者は、同時に最も傲慢な者でもある」という警句が載っている。

*11:ただし、上遠野浩平は『Fire2』のあとがきで「実はちょっとだけ、彼のことがうらやましいと思っているのだ、僕は」とも言っている。運命に流されて平気でいられるなら、それはそれで個人の生き方だ。

*12:また、そうだとすれば〈決定論的な運命〉に上遠野浩平が至れた理由は「魔女が操る運命っていうのは一体なんなんだろうな?」ということを考え続けた結果なのかもしれない。……これは流石に踏み込みすぎかな。脚注にしまっておく。

*13:とはいえ、ここで魔女たちの能力考察に踏み込むのはやめておく。虚空牙と同じでできることや出来ないことを精密に考える事自体が無駄な感じがあるし、作品中にハッキリと「我々には理解できない」と書いてさえある。ただ将来の別作品で、新しい魔女が出てきたら、そのときはこの『Fire3』を読み返す価値があるかも。

*14:霧間凪の〈戦士〉の資質について、ここでまとめておく。彼女の強さは2つの能力?による。第一に、本来誰よりも弱い存在である彼女は、敵の弱さに共感することで敵の弱点を見抜く。フォルティッシモの"油断しない"特性が防御特化として、その攻撃版みたいな感じだ。第二に、常に直感による即座の判断を行うことで〈決定論的な運命〉における選択の瞬間を逃すことが無い。こっちは末真和子の"運命の選択を間違わない能力"に近いかな。つまり、上遠野シリーズでも相当無茶なキャラの特性を併せ持っているということですね。どうりで強いわけだよ。

*15:上遠野浩平の能力バトル的作品群において、最も「そのときなにかふしぎなことがおこった」と言うしかない展開。エコーズと話すことのできた紙木城直子は、やっぱり特別な存在だったんですかね。

*16:以下本文では引用部分の考察をしているわけだが、実は「対立を溶け合わせるものが対立自体よりも先に問題になる」くだりだけ、まだちょっと僕にもピンときていない。相克渦動の話だろうか、VSイマジネーターの話だろうか。あるいはその両方だろうか。

*17:九連内朱巳、フォルティッシモ、パールの3人だけが依然として魔女のことを覚えている

*18:『Fire4』のあとがきには、現実の魔女というのはこの世の悪いことの責任を押し付ける存在であった、という話がされている

*19:とくに根拠はないのだが、少なくともよく似ているので、とりあえずそういう前提で論を進める。

*20:言うまでもないが、ジョジョ7部や8部が「一巡後の世界(そもそもそれ自体はプッチ神父の死で消滅した)」であると公式にアナウンスがあったことはない。ブギーポップもその点は同じはずだ。

*21:最近『製造人間』シリーズで雑誌掲載された『悪魔人間は悼まない』には"自動的な存在"であることの意味について触れられている。どうやら、可能性があまりにも大きいと可能性を実現すること以外のことが考えられなくなる、可能性に縛られることになる、という話らしい。

*22:本論の言い方でより正確に表現するならば、可能性操作能力者。

*23:ヴァルプルギスの後悔』というタイトルについて、僕は読み終わった後もしばらく「いったい霧間凪が何を後悔したというんだ?」とか考えていたが、ヴァルプルギスと霧間凪は別人だと先の引用部でオキシジェンがハッキリいっているし、エピローグではちゃんとヴァルプルギスが、何で私は霧間凪と戦っちゃってりしたんだろう、という後悔をしている。

*24:宇野常寛の概念。本論第1回でも少しだけ触れた

*25:当日前に記事をアップ出来て本当によかった。

「上遠野浩平論」8.5~キャビネッセンスと生命と心(『ソウルドロップシリーズ』)

 上遠野浩平論の第8.5回です。

 第8.5回、という言い方をするのは、今回の記事では本来この連載が目ざす文学論の論旨にあまり必要ない話をするので。もともとは第8回で〈戦士〉の話をするついでに、1パラグラフぐらい使って簡単に触れておこう、ぐらいに思っていた内容なのだが、語りたいことが多すぎてどんどん膨らんでいったので、もう完全にページを独立させることにした。

 語りたいこと、というのは『ソウルドロップシリーズ』の話。

 特に、キャビネッセンス、というあの謎めいた概念が何を意味しているのか、整理がついていない読者も多いのではないだろうか?*1 ここでは僕が本論を構築する過程で得た理解をブログ記事にまとめていく。内容は、作家論を離れて作品論とかテキスト論、もっといえば”設定まとめ”みたいになるかもしれないが、もう今回は気にしない。書いてて面白ければそれでいいつもりで書くので、どうかお手柔らかに読んでいただきたい。

 

 

+怪盗との対決劇ではなく群像劇~『ソウルドロップシリーズ』

 

 まず、『ソウルドロップシリーズ』という作品自体について。

ソウルドロップの幽体研究 (NON NOVEL)
 

 ソウルドロップシリーズ*2は、2004年~2012年の刊行。これまでに7冊が出版されている*3。このシリーズは、「その人間にとって命に等しいもの」=キャビネッセンスを盗む謎の怪盗ペイパーカットと対決を描いた作品だ――という事になっているが、それは本の帯に印刷された惹句上だけの話*4。実際にはペイパーカットに関わる人々の姿を描いた群像劇だ*5。どの作品でもペイパーカット自体は、実は単なる印象的な舞台装置にすぎない*6

 

 第2期上遠野浩平作品の一つである当シリーズは、これまで本論が論じてきた絶対に勝てない〈運命〉との対決を描いた作品でもある。

 ソウルドロップシリーズで初めて上遠野浩平を手に取る読者に対しては不親切としか言いようのないことだが、この作品は結局のところペイパーカットに勝つことはできないという認識が前提されている。勝てない理由は、我々上遠野信者には自明なのだが、一応言語化しておくとやはり面白くなってくるというか……つまり、ソウルドロップシリーズは現代日本を舞台とする広義のミステリなのに対し、ペイパーカット=虚空牙っていうはスペース系SF作品たるナイトウォッチシリーズの大ボスであって……。

 ……例えるなら、古畑任三郎vsゼットン、みたいな

 なにそれ、としか言いようがない。

 ソウルドロップシリーズは、最初から理不尽なカテゴリーエラーか仕組まれた作品だ。上遠野浩平は、その理不尽さに気付くことのできないまま翻弄される人々を、ミステリ仕立ての群像劇として描いた。

 

 

+唯一怪盗に恐怖できている男、伊佐俊一

 

 そんなソウルドロップシリーズにおいて、主人公をやっているのが伊佐俊一である。

 彼が主人公なのは、彼こそがこの作品における〈戦士〉であり、ペイパーカットのことを誰より正確に認識しているからだ。

 伊佐俊一の"ペイパーカットを一番判っている"というキャラクター性は、シリーズ中ほぼずっと強調されているのだが、ここでは特に本論に都合のいい具体例として、シリーズ3作目『メイズプリズンの迷宮回帰(脱走のやつ)』のから、伊佐俊一の独白を引用しよう。

「――俺とお前たちの違いは何だだろうと思った(中略)――答えは簡単だった。俺にあっておまえたちにないもの、それはペイパーカットに対する恐怖感だ。俺は、ヤツが怖い――だからそのにおいに敏感でいつもびくびくしている。今回の件は、明らかにそのにおいがするのに、しかしヤツ自信の影は全然見えない――」

 

 伊佐俊一は、ペイパーカットが怖い

 本論第8回を読んでいただいた皆様には、もうこれだけで伊佐俊一が真の〈戦士〉だと解って頂けると思う。彼だけが、ペイパーカット=虚空牙という脅威、作品に仕組まれたカテゴリーエラーの理不尽さを認識できているということだ。

 ソウルドロップシリーズのキャラクターたちは、どいつもこいつも、全くペイパーカットを怖がらない。彼らにとってペイパーカットとは、何か不思議な現象であり、サーカムが保険金を払う材料であり、科学の未知の地平であり……色々あるが、恐怖の対象でないという点においては同じだ。ペイパーカットが危険ということぐらい知っている! と覚悟っぽい事を言う者はそこそこいるが、怖がってないという点については変わらない。

 伊佐俊一だけが「ヤツは人殺しだ」「ヤツを許してはいけない」「ヤツに関わるのは危険だ」「危険だからお前は逃げておけ」と言い続けている。これはほぼ間違いなく、上遠野浩平が故意にそうしている。普通に連続殺人ミステリをシリーズもので出していたら、もっと怯える人間が居ても良さそうなものだ。なにしろ、人が死んでいるし、自分が殺されるかもしれないのだから。しかし、もし今夜わたしがペイパーカットに殺されたらどうしよう? とか考えている人が登場しない。

 

 なぜそうする必要があったか? それは、伊佐俊一だけがペイパーカットのことを判っていて、他の人間は基本的に判っていない、という状況が、作品とって重要だからだ。この群像劇の根幹には「そのキャラはペイパーカットのことをどう認識しているか?」という問題がある。

 

 

+伊佐俊一だけが銀色を見られる

 

 ペイパーカットは、認識する人間によって姿が変わる存在である。

 判りきったことではあるが、念の為確認しよう。

 

 基本的には、ペイパーカットの姿は見た人間のキャビネッセンスに関連した人物となる。一番判りやすい例では、ロボット探偵・千条雅人には、ペイパーカットの姿が"生前"の姉の姿に見える*7。この現象は、どうやらペイパーカット自身の意思や操作とはあまり関係ないらしく、ペイパーカットはしばしば「君には僕がこの姿で見えるのか」と自身の姿について受動的であることを示す台詞を口にする*8

 ペイパーカットの姿が、銀色の髪とコートを着た謎の人物・飴屋に見える場合もある。ペイパーカットを飴屋として見るキャラクターは、1巻につき必ず1人~数人登場するのだが、なぜ彼らが"そう"なのか、直接的な言及は少ない。一応ペイパーカット本人から説明がなされたケース*9もあるのだが、肝心の説明が一定しない。1作目の『ソウルドロップの幽体研究 (ライブのやつ)』ではペイパーカットを家に泊めたカップルに対して「その人物のキャビネッセンスが”決して奪えないもの”である場合」に飴家の姿を見るいう説明がされていたのに、3作目の『メイズプリズン(脱走)』に登場した双季蓮生は明らかに"奪う事の出来る"キャビネッセンスを持ちながら飴家を見た、そして4作目の『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』では、妹に執着する保険マン諸三谷吉郎に対し「その人物が自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っている」から飴家の姿が見えるのだという、従来とは全然異なる説明がされた。(複数の説明がある理由は後に考察する)。

 

 ペイパーカットの見え方は、基本的にはこの2パターンたが、例外的に3パターン目の認識が存在する。他ならぬ、伊佐俊一のパターンだ。

 重要なので引用を使おう。伊佐俊一は『メイズプリズン(脱走)』において、思わせぶりな老脱走犯に次のような指摘を受けている。

「伊佐さん、あなたは実際のところ、それを”現象”だとは感じていないのでしょう? それは見るものによって全然違う姿に見えるという……そう言われても、あなた自身にはどうもピンとこない……違いますか?」

「何が言いたいんだ?」

「そうでしょう? あなたにはそれがただ”銀色”にしか見えなかったのではありませんか?」

「…………!」

 

 伊佐俊一はペイパーカットの姿を見ても"銀色"以上の印象を何も受けない*10

 伊佐俊一は、数度だけあるペイパーカットとの直接対面で、他の人間と同じように、謎の男・飴屋の姿を見ている。しかし他の人間は、飴家の姿を見たとしても、「銀色の服を着たなんか派手なくせに印象の薄い人だな」と思うだけで、「銀色以外の印象がない」なんてことは考えない。これは彼だけの特殊なケースだと考えるべきだ。また、他に伊佐俊一だけが持っている感覚として、彼はペイパーカットが他の誰かの姿に見えたという他の人間の言葉に違和感を感じているという。

 

  • 普通、ペイパーカットがキャビネッセンスに関連した人物に見える。
  • 一部の人間には、ペイパーカットは銀色の謎の男、飴屋に見える。
  • 伊佐俊一は、ペイパーカットを見ても"銀色"だとしか思えない。

 

 もちろん、これは伊佐俊一だけが正しいということだ

 先の2パターンが間違っており、伊佐俊一の認識が最も正解に近い。伊佐俊一が真実に近いのだということは、作品中でずっと書かれ続けているのだから、ここでもそのように見るべきである。

 しかしだとしたら、ペイパーカットの"銀色"とはいったい何を意味するのか?*11

 

 

+"銀色"の理由=二人目の虚空牙だから

 

 もったいぶってもしょうがないのでさっさと答えを言ってしまおう。

 ペイパーカットが"銀色"なのは、この存在が「鏡」であるという意味だ

 

 直接の描写としては、5作目の『クリプトマスクの擬死工作(映画のやつ)』のラストで言及があった。このシーンでは、舟曳沙遊里が、ペイパーカット映画の1場面を演じている。

 「――あなたの心がわからない。あなたが何を知りたいのか、私は想像もできない」

「あなたのしていることに理由があるのか、それともただの気まぐれなのか、私はそれが本当に知りたいのかしら? ひとつだけわかっていることは、私の言葉なんてあなたの前じゃ意味がないってことだけ――あなたは自分勝手に、私の想いをつまみ食いするだけなんだから」

「あなたを理解しようとしても、無駄だってわかっているわ。あなたは鏡。私の胸の内の乱れをただ映しているだけ。だからあなたに振り向いてもらうには、私は私自身を見つめなきゃいけない」

「ああ――でも、それはなんて難しいことなのかしら。私はあなたに夢中で、あなたのことしか考えられないのに」

 

 明確に、ペイパーカットのことを「鏡」と呼んでいる

 舟曳沙遊里は『クリプトマスク(映画)』で問題となったペイパーカット映画を通じて、伊佐俊一すら気付いていないペイパーカットの意図や文脈に気付いているキャラクターである。だからこのセリフは、そのままペイパーカットの真実と考えていい。

 この『クリプトマスク』でペイパーカットしんじつを認識してから前巻までのシリーズを再読してみると、実は折々に触れて「銀色は全ての光を反射する色だ」とか、「(ペイパーカットを探している者は)本当は自分自身を探しているのだ」とか、鏡を意味する描写がされている*12。初読でそれらが鏡の比喩だと見抜くのは結構難しいので、何となくペイパーカットって設定が曖昧すぎない? と感想に書いてしまったりするが、シリーズの最初からこの怪盗は鏡なのだという設定はカッチリ確定しているのだ。先に紹介しておいた、伊佐俊一の"銀色"しか印象がないという証言もそうした後になって気付く比喩の一つで、彼が言っているのは「そこには鏡があるようにしか見えない」という意味の話だ。ジャングルにでっかい鏡を置いて、映った自分の姿にむかってゴリラや豹が威嚇している動画を見たことある人も多いのではないかと思う*13が、あのイメージが上遠野浩平の中にあるのではないだろうか? 伊佐俊一はいわば、特別に賢くて鏡がそこにある事が判っているゴリラだ。このゴリラは鏡に写っている自分を見ても、そこにあるのは鏡だと判っているので無駄な威嚇はしない。鏡に向かった自分に向かって威嚇している他のゴリラを見て「何やってるんだあいつ?」とか思ったりもする。だから伊佐俊一は『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』や『アウトギャップの無限試算(マジシャンのやつ)』で、他のハンターの的外れさに終始呆れていのだろう。

  

「ペイパーカット=鏡」という認識は、物語世界の謎に、判りやすい説明をつけてくれたりもする。

 例えば、伊佐俊一の視力障害には、実は大して謎なんてものはない。彼はたまたま目を傷めている時に、強烈に光を反射する「鏡」を直視してしまった*14だけである。認識してはいけないものを認識したのではと推測されたり、釘斗博士が伊佐だけが特別な理由を不思議がったりしているが。たぶん他の人間でも、目を傷めている状態でペイパーカットを見たら同様に目を傷めるだろう*15

 他にも、ペイパーカットの「初対面でもなぜか親身にしてもらえる能力」の件がある*16。この能力は、自分自身が相手なので親身にならざるをえない、という理屈で発生しているはずだ。たいていの人間は自分を愛しているし、自分自身に秘密を持つこともできない。*17

 あとは、ペイパーカットがたまにやる「そこにある物体を見えなくする能力」は、手品の鏡を使ったトリックが念頭にあるはず。それと、「通行人から一切注目されない能力」は、鏡があっても背景に混じってしまって注意しないとわからない、みたいなイメージだろうか*18

 

 元々のアイデアは、ごく単純な発想でしかなかったはずである。

 恐らくは「一人目のエコーズが音を反射していたのだから、二人目は光を反射するやつがいいよね*19」とかいう考えから設定を膨らませていったのが、ペイパーカットなのだと思う。 

 

 

 +鏡に反射している〈何か〉の発見

 

 では、さっき確認したうち、伊佐俊一以外の人間がペイパーカットを見た場合の2パターンも「ペイパーカット=鏡」という点から説明可能なのだろうか?

 もちろん可能だ。順に確認していく。

 

 まず、キャビネッセンスに関連した人物の姿となる場合だが、これはもちろん「自分自身の姿が鏡に映っている」ことを意味する。ペイパーカットが見る人によって姿を変えるのは、ペイパーカットが見た人の姿になっているから、という訳だ。ペイパーカットが鏡であることさえ分かっていれば、特に付記すべきことはない。非常に判りやすい理屈だ。

 そして、もう一つのパターンである、一部の人間にはペイパーカットが銀色の男・飴家の姿に見える場合だが、これは結論から言えば鏡に何も映らないのでに"銀色"が見えるということを意味する。ただし、先ほど確認した通り、作中において飴屋が見える理由(=鏡に何も映らない理由)には、複数の説明があり*20、それは一つの理由を様々な言葉で説明しているのではなく、理由自体が複数あるのだと思われる。

 まず「キャビネッセンスが"決して奪えないもの"であるから」という説明だが、これは映るべき物理的実体が無いので鏡には映らないということだと思われる。『ソウルドロップ(ライブ)』に登場したカップルのキャビネッセンスはいわゆる"愛"というヤツだが、そんなものが鏡に映るわけがなく、したがって銀色が銀色のままで見える。他にも、『メモリアノイズの流転現象(田舎の名家のやつ)』で飴家を見た早見壬敦のキャビネッセンスは恐らく"自由"、『クリプトマスク(映画)』のヒライチは"病気"だった。次の『メイズプリズン(脱走)』の双季蓮生は、キャビネッセンスが"生き別れた家族へのお土産だった人形"であり、物理的実体が存在することが明示されているにも関わらず飴屋の姿を見ている。これは恐らく、双季蓮生が極端に生に執着しない人物だったせいだ。生命の光が弱すぎて鏡にすら映らないという理由で、彼は銀色を銀色のまま見ることができたのだと思われる。このパターンは作中でもかなり特殊な例に見えるが、もしかしたら『コギトピノキオの遠隔思考(孤島のやつ)』のドクトルワイツも同じだったのかもしれない。あとは、『トポロシャドウ(トポロス)』でされた「自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っているから」だという説明*21だが、これはエネルギーに強い指向性があるので鏡に干渉しないということだろう。強い指向性を持つレーザー光線は、暗闇にあっても拡散しないので周囲を照らすことがない。そのイメージで、『トポロシャドウ(トポロス)』諸三谷吉郎の光のエネルギーは自分の妹の方向にしか向いていないので、結果として別の方向に立っている鏡には何も反射されず、銀色を銀色のままで見られた。『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一や、『アウトギャップ(マジシャン)』のスイヒン素子も、明確なキャビネッセンスがあるのに飴家を見たのは同じ理由だったと思われる。

 もしかしたら他にも理由はあるのかもしれないが、とりあえず読み取れるのはこんなものだろう。彼らは伊佐俊一と違って鏡のことは何も分かってないのだが、鏡に写った像をみることがないので、鏡像に誤魔化されることもない。

 

 さて、これでペイパーカットの見え方についての設定考察を終えたが、ここにはこの先の議論に向けて注意を払っておくべきちょっとしたポイントがある。

 鏡が反射している〈何か〉は普通の光ではない

 普通の光だったら、当然鏡には自分自身の姿が見えるはずだからだ。上の説明では、生命の光だとか光のエネルギーだとか適当な語で考察を進めたが、たぶん実際には、人間の精神を放射源とするなにかエネルギーがあって、ペイパーカットの鏡はそのエネルギーを反射しているはず。 

 ……いやいやいや。本当にそうか? 読んでいる人はたぶん「確かに何か鏡が関係してるかもしれんが、何も本当にエネルギーを反射していることにしなくても」とか思っているんじゃないか? 確かに、白雪姫の魔法の鏡が小説に登場するからといってそこに厳密な世界設定を求めるのは、不誠実な読解としかいいようがない。ペイパーカットについても、能力バトルから離れた単なる不思議現象と読む方が道理ではないか?

 あるいはそうかもしれない。

 しかし、何しろペイパーカットによる反射は、光?の強さや弱さが関係するし、またエネルギーの指向性のようなものも存在する。具体的な実態としてペイパーカットが操作して、エネルギーを子供に与えることすらもできる。白雪姫的な"魔法な鏡"の表現にしては、いちいち描写が具体的すぎるのだ。

 具体的なエネルギーとしての〈何か〉があると考えたほうが話が通りやすくなるとは言えないだろうか?

 

 

+キャビネッセンスは〈何か〉が生み出す

 

 正直根拠が茫漠としているが、一旦以下は〈何か〉が存在することを前提に話を進める。というのも、「ペイパーカットが鏡であること」と「鏡は〈何か〉を反射すること」の二つを確認することで、念願のキャビネッセンスの話題に入ることができる。

 

 キャビネッセンス(Cabinessence)とは、もともとはビーチボーイズの未発表のアルバム収録曲*22に使われている造語だそうである。その意味はCabin+Essenceで「狭いところに閉じ込めた霊的なモノ」という感じだとか。その語源に沿うとするならば、キャビネッセンスとは「生命を狭い場所に閉じ込めたモノ」を意味するのだろう*23。 

 本記事ではここまで、このキャビネッセンスという概念を、「ペイパーカットは見た人物のキャビネッセンスに関連した姿になる」という説明の一部として扱ってきた。また、そのことに特に疑問を呈したりはしなかった。ペイパーカットの姿の変化に、キャビネッセンスが関係しているのだということを、本記事は根拠なく自明視してきたし、読者も普通はそう考えていると思う。

 

 しかし我々は、今、ペイパーカットの見え方の変化は〈何か〉によって起きることを確認した

 

 これが何を意味するのかというと、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の変化に、相関が見られるように思えたのは、疑似相関だったということだと思う。

 疑似相関とは、原因Aが、結果Bと結果Cを同時に生み出すとき「Bの変化とCの変化に相関がある」ように見えることだ。有名な例では、アイスクリームの売上が多い月は、溺死者が多いので、統計を見て「アイスクリームを食べた人は溺死しやすくなる」とかいいたくなるが、本当は猛暑という真の原因がアイスと溺死の両方の結果を生み出しているだけだ、とかいう話がある。

 つまり、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の関係は、アイスクリームと溺死の関係と同じだった。真の原因である〈何か〉の影響が両方に及んでいるため、あたかも両者に相関があるかのように見えていただけだった。本当は、ペイパーカットの見え方を変えていたのは〈何か〉のエネルギーであり、同じエネルギーが、何がその人間のキャビネッセンスになるのかも決定付けていた。

 

 一言で言えば、キャビネッセンスを生み出しているのも〈何か〉である

 

 鏡に反射する前のエネルギーが、特定の物品に強い影響を及ぼすとき、その物品のことをキャビネッセンスと呼ぶ。〈何か〉の存在を仮定することで、そういう結論にたどり着くことが可能となるのだ。

 

 

+〈何か〉は「意思」と関係している

 

 もしも〈何か〉が存在し、またキャビネッセンスにとって決定的な役割を果たしているなら、本論は〈何か〉の正体について有力な手がかりを提示ことができる。

 先にも言及した、伊佐俊一とは別の意味でペイパーカットの正体に最も肉薄しているキャラクター、舟曳沙遊里は、キャビネッセンスについてこう証言した。

「キャビネッセンスが関係しているのは、実際は生命ではなく、意思のほうよ」

 

 作品中では衝撃的な台詞として提示された後、特に回収されるでもストーリー展開に絡むでもない台詞だが。

 いままでの仮定を踏まえれば、この説明は〈何か〉は人間の意思に関連するエネルギーであると読むことができそうだ。

 そして、意思が関係しているのだと考えれば、ここでもまた、いろいろなことの説明がつくようになる。

 例えば、『トポロシャドウ(トポロス)』の諸三谷吉郎や『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一は、ペイパーカットの匠な弁舌に精神状態を誘導されることで、他人から認識されなくなる不思議な能力を発揮した。あれは、当人の精神状態が〈何か〉のエネルギーに影響を与えたということではないのか。また別の例としてキャビネッセンスの性質について考えることもできて、どんな人間も必ずキャビネッセンスを持っているというあれはどんな人間も必ず意思を持っているということだろうし、ペイパーカットが人間がすぐにキャビネッセンスを変化させてしまうことを不思議がるのは、どんな強固な意思も永遠に変わらないことなどない、ということだろう。

 

 注意してほしいのだが、我々がいま〈何か〉と呼んでいるものは、物理的な光に近い性質を持つ具体的なエネルギーであって、通常「意思」と呼ばれるような抽象的な精神活動や現象ではない。

 〈何か〉は、反射したり、指向性を持たせたり、トポロスとして数学的に計算することができる*24具体性を持った、しかし実態が謎のエネルギーである。このエネルギーは我々には観測できないが、ペイパーカットには観測も操作もできる。いくら虚空牙でも、他人の意思を直接操作するような真似はできないはず。というか、むしろ人間の精神を操作することだけが、ほとんど唯一、虚空牙に不可能な行為のはずだ*25

 恐らく、意思は〈何か〉のエネルギーを操ったり操作したりする要素だ。強い意思をもって命じた場所にエネルギーが移動すると考えるのは、ラノベ的発想としても自然に思える。本人の意思が無意識のうちに集中している地点に〈何か〉のエネルギーは自然と集中するし、集中した先が物品であれば定着してキャビネッセンスと呼ばれるモノになる。さっきは、”キャビネッセンスは〈何か〉が生み出している”という言い方をしたが、どうやら生み出している訳ではなく、単にエネルギーが物品に宿っているだけなのかも。

 

 ……ん? 物品に宿っている、意思に反応するエネルギー?

 

 ここで上遠野信者である我々は、ある推測の存在に気付くことができる。

 

 意思に反応して、物品に残すことのできるエネルギー、それは、別シリーズで〈呪詛〉と呼ばれているものではないのか

 

 

+ペイパーカットが本当に盗んでいるもの

 

 呪詛〉についての詳しい説明は、『紫骸城事件』のなかでされている。

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

 

 魔法の原理とは、単純に言ってしまえば、生命エネルギーの二次利用、ということになる。ここでいう一次利用とは"生きていること"そのものである。それは当然、死ぬときに終わる。だがその生命の残滓というものがこの地上には残り、それが呪詛と呼ばれる魔力の源となるエネルギーなのだ。通常は見ることも感じることもない。しかし、この地上に生命が誕生してどれくらいになるのか正確なところは知らないが、少なくともそれが夥しい量であろうというのは誰でも想像のつくことだろう。

(中略)

 しかし我々は確かに呪詛を使って文明を築いているし、人間以外の動物でも魔法に類する能力を持っているものが珍しくないにも関わらず、つまるところ呪詛というのが如何なるものなのか、という点についてはまだまだわからないことが多い。ただ、このエネルギーが生物の”思考の流れ”のようなものに反応することは判っている。反応すれば、その分だけその生物は呪詛の存在とパワーを認識し利用できる。

 

 非常に興味深い。

 この説明からは、ソウルドロップシリーズにおける「キャビネッセンス」と、無視できない関連を2つ見つけることができる。

 

 第一に、〈呪詛〉のエネルギーは本来生命維持に使われている

 キャビネッセンスを盗まれると人は死ぬ、という事実を思い出さずにはいられない。

 キャビネッセンスを盗まれた者は、同時にそこに宿る〈何か〉のエネルギーも失っているのではないだろうか? 〈何か〉が〈呪詛〉であるなら、そのエネルギーを失うと、人が死ぬことの説明がつく。また、必ずしも人が死なないことの説明もつく。恐らくだが、生来多量のエネルギーを持っているならば、その大半を失っても生命活動維持には足りるということはあるのではないだろうか? 更に、これならば、ペイパーカットが魂の一滴(ソウルドロップ)と呼ぶものを与えることで、死にかけた人間を癒やすことが出来た理由も説明がつく*26

 第二に、「呪詛」は人の思考の流れに反応する

 思考の流れ、つまりは意思である。しかも、『紫骸城事件』ではこの説明が「意識的に思考の流れをを扱う訓練を受けた人間を魔術師と呼ぶ」という話につながるのだが、逆に言ったら、それは訓練を受けてなくても思考の流れ自体は存在するという意味ではないだろうか。例えば、命と同じくらい大切に思っているモノの方向に〈呪詛〉のエネルギーが自然と集まっていく、というようなことは起こるのではないか。また、集まったエネルギーは活用されれば魔法となるのだろうが、別に活用されなくてもエネルギーの移動はあるではないだろうか。

 ついでに言えば、『紫骸城事件』はソウルドロップシリーズの3年前の出版であり、〈呪詛〉という発想がキャビネッセンスというアイデアに先攻していたのは間違いない。

 あまりにも関連が明確である。これはもう、どうやら間違いない。

 

 キャビネッセンスとは、その人間の生命を維持している〈呪詛〉が集中している物品のことである

 即ち、ペイパーカットが本当に盗み、操作し、研究対象としているのは〈呪詛〉である

 

 ペイパーカット自身は、自分は生命を研究しています、と常に言っているが、それはペイパーカットの勘違いである。

 千条雅人の姉によれば、

「たぶん、遥か向こうから観ているせいで、生命とそうでないものとの区別が微妙についていないんでしょうね――だから類似するものを収集しているんだわ」

 

 ということだ。

 ペイパーカットには、生命と、生命維持の材料たる〈呪詛〉の、区別がついていない。風邪と病原菌の区別がつかないようなものだろう。初歩的な違いのようにも思えるし、病気という概念を持たない宇宙人には区別が難しいかもとも思える。

 

 

+虚空牙が来た理由と上遠野サーガの全容(の妄想)

  

 考えてみれば、ペイパーカットが「生命」を研究対象にしているという話は、元から奇妙だった。なにしろ、他シリーズの虚空牙は、ヒトの生命のことなんて全然調べている様子がない。

 虚空牙が何を調べようとしているかは、『虚夢を月』で明らかになっている。コーサ・ムーグを介した試みが失敗に終わり、現れた虚空牙はこのように研究の失敗を嘆いた。

”――失敗だ”

 どことも知れぬ虚無から響く声が聞こえてくる。

”――また失敗だ。またしても〈心〉なるものの手がかりが消滅した”

 

 虚空牙が気にしているのは「心」である

 他にも、『笑わない』のエコーズは人間の善悪*27を報告せねばならなかったようだし、『虚空に夜』では直接〈戦士〉である工藤兵吾のことを調べに来たし。あとこれは単なる予想だが、『螺旋のエンペロイダー』の才牙虚空介と才牙そらは、試しに一から端末を人間社会で(しかも男女の兄弟で)育ててみるという実験*28の対象者のはず。

 いずれも、どう見ても調査の傾向が「心」寄りである。ペイパーカットの研究対象だという「生命」だけが、どうも他の調査から乖離しているように見える。この乖離は、各シリーズが明確に独立しているため、いくら作品間リンクの好きな上遠野浩平でも関係のない事例として処理したくなってしまうが。

 

 しかし、ペイパーカットの研究対象が実は〈呪詛〉であるならばここにも話が通る。

 虚空牙が「心」を通じて調べたがっているモノもまた、実は〈呪詛〉だった違いない

 全ては呪詛エネルギーの振る舞いを、つまりは振る舞いに影響をあたえる「心」のことを調査するためなのだ。

 

 この気付きによって上遠野信者の妄想はますます爆裂する。

 せざるを得ないッ! うおおおお!

 

 (*以下すごく早口で喋るので読み飛ばしていただいて結構です)

 きっと、純粋なエネルギー体であり、しかも「心」を認識できない虚空牙にしてみれば、地球という場所は「何にもないのに何故かエネルギーが激しく動いている場所」なのだ。原理が判らなかった頃のブラウン運動を見るような感覚だろうか。虚空牙が呪詛エネルギーの激しい動きを観測して地球を調べにきたのは、ブギポ世界=現代がだったが、これは当時代がMPLSが急に増加している時代であることと、無関係ではないだろう。MPLSも呪詛を使っているということだな。そういえば現代におけるMPLSの増加は、魔女の存在と関係あるらしい。だとすると魔女のせいで虚空牙が地球に来たとことになってしまうぞ。魔女というのは全くなんて傍迷惑な連中だろうか。それはともかく、どうやら虚空牙は最初のうち、研究対象に影響を与え過ぎないよう注意して研究をすすめたようだ。エコーズが喋れない設定とかあったし。ペイパーカットもかなり手加減しているように見える(ペイパーカットは配慮に失敗していると言わざるを得ないが)。で、それらの初期調査によって、どうもエネルギーの動きには「心」って奴が関係しているんじゃないかって事と、「心」の影響を受けてエネルギーの出力が強くなったり弱くなったりするという事は虚空牙にも分かった。だけど、やはり根本的なところはわからない。「心」は虚空牙にとって本質的に認識不可能な事象だというので無理もない。そこで、虚空牙はちょっと大胆な実験を行うことにした。できるだけ地球のエネルギーがブーストされるように、あえて強い刺激を与えてみることにしたのだ。これが虚空牙による地球攻撃である。虚空牙という外敵を得たことで、人類は外宇宙に進出し、ナイトウォッチを作り出すほどの文明を手にしたのだという。ペイパーカットに呪詛を盗まれた人間からは、生き様からやる気や創造性が失われることがあるが、ならばその逆で、エネルギーが強くなったらやる気と創造性がもりもりわいてくるのではないだろうか。そしてやる気が向上しまくれば、文明の発展さえ促されるということがあるのでは? こうして出来たのが虚空シリーズの世界。しかし、やがて虚空牙は実験を終えて、地球を引き上げて、すると人類の不自然なやる気ブーストは途絶えて、宇宙文明は衰退した。文明が衰退した地球で、人類はあいかわらず生きたり死んだりしたが、やがて魔女の影響からも既に逃れた時代、本来のタイミングであらためて奇蹟使いたちがエネルギーの利用法を見出していく。あと、界面干渉学の向こう側に存在する『事件シリーズ』のパラレルワールドでは、そもそも生まれた時からこのエネルギーを活用している魔物だとか竜だとかいう生き物がいて、パラレル人類もそれに沿って呪詛文明を築いているッ。

 

 これが!! 上遠野サーガの全容だあああ!!!!!

 

 

上遠野浩平の生命観

 

 申し訳ない。不用意に興奮してしまいました。

 正直なところ、こんなのは一繋ぎの財宝やラフテルの正体を妄想するようなもので、信憑性はあんまりないし、作品の魅力や本質とも全然関係がない。だから、文学論を目指すうえでは関係ない話をする、と前もって言っておかなければならなかったんだよね。面白いのは間違いないのだけど。

 

 だが、せっかくなので最後にあらためて、文学論に舵を切っておこう。

 上遠野浩平は、キャビネッセンス、あるいは〈呪詛〉というモチーフを用いて一体何を描こうとしているのか? 

 

 その手掛かりとして、エネルギーだとか文明だとか上遠野サーガ間のリンクだとか、余計な修飾を排除した、純粋な作者の生命観ともいうべきものが表れているシーンがある。

 『虚夢を月』から、兎型月探査ロボット・シーマスが登場する第3章を紹介したい。この短編の末尾では、旧設備を復活させようとするシーマスのもとに突然、水乃星透子があらわれる。水乃星透子はシーマスに対し、死への誘惑を試みるが、彼はいとも簡単に一蹴する。

”ここには調和があるわ。冷たい死の、月にふさわしい静かな世界が、ね。それを再び目覚めさせて、残酷な真実に直面させることにどれほどの意味があるのかしら?”

「……えーと、その」「僕には難しいことを言われてもよくわかんないけど――でも、一人生き残っているんだよ。助けないと」

”生き延びることが助かることになるのかしら””生き延びれば幸福が待っているというのは、世界が喜びで満たされている時だけだわ。この冷たく凍りついた月にそんなものがあるのかしら?”

「だって、生きているってことは遊ぶってことだろう? だったらどんなトコにだって面白いことは見つけられるんじゃないかな」

”そんなに簡単なものかしら?”

「そんなに難しいことなのかな。生きるって」「苦しいなら苦しくないようにしようとする。つまらないなら面白いことをみつける。生きるってことはそれだけのことじゃないのかな。そんなに難しいとも思えないけど?」

”……”

 すると少女の微笑みに、少しそれまでとは異なる表情が混じった。なんというか、それはわがままを言い通す子供を見た時の母親のような、あきらめといとおしさが入り混じったような”しょうがないな”という微笑みだった。

”心っていうのはまったくしぶといものね”

 

 水乃星透子は、シーマスが死の道理に屈しないのは「心」がしぶといせいだと言う。

 つまり、「生命」というのは本質的に「心」が維持している

 心があるから我々は生きているのであって、生きているから心があるのではない。

 心が主であり生命は従である

 

 〈呪詛〉という発想の根本にあるのは、この生命感であると思われる。

 現実的悲観主義を作品の前面に出すことの多い上遠野浩平だが、どうやらこと生命に関してだけは、理想主義的な側面を持っているようだ。上遠野浩平は、

「生命なんて化学現象ですよ」とか、

「魂なんて電気信号ですよ」とか、

「だから一切に価値はなく無情ですよ」とか、

 そういう漫画や小説でもよくある現実主義・即物主義的な立場を取らない。〈運命〉の悲観の中にあって、生きていることには価値がある、という一点だけは決してブレることがない。

 上遠野浩平という作家は、しばしば死の描写が巧いと評される。個人的には『パンドラ』で仲間たちが死んでいくシーンや、『ジンクスショップ』で老執事が倒れるシーンが、特に顕著なのではないかと思うが。いずれにしても、それらのシーンの巧さ、エモーショナルなリアルさは、上遠野浩平が生命の喪失を非常に重く感じ取っているということの表れなのだ。

 こうした上遠野浩平の生命観は、特に第1期とか第2期とかで変化はしていないので、本連載では今後は特に触れる予定はないが。作者を理解する上では重要なポイントの一つではあるし、なによりこれから出てくる作品の中で今後も度々見ることができるはずである。

 

 

 以上、連載の本来の流れを無視して、ソウルドロップシリーズとキャビネッセンスについて、言いたい放題を語った。

 次回は元の流れに戻る。満を辞して『ヴァルプルギスの後悔』と、第2期上遠野浩平の結末について論じよう。

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:毎回のことではあるが、もちろん整理がついていなかったのは僕自身だ。人より自分のほうが読めてるとか畏れ多いことは思ってない。

*2:またどうでもいい話を脚注でしていくが、ソウルドロップシリーズは、タイトルの言葉の意味がわからないし、第何巻みたいな通し番号もついてないし、表紙は全部ペイパーカットのどアップだしで、どれがどれやら全然わからん。だからこの記事で各作品の名前を出すときには、同時に簡単な説明も書いておくことにした。

*3:断言は避けたいが、個人的にはもう最終回を迎えたシリーズなんだろうと思っている。マジシャンの話で伊佐俊一とペイパーカットの直接対決をやって、最後にオーロードが盗まれる=延々ペイパーカットを追いかける話が終わる、という話でオチになっているんだろう。もし続きがあるとしたら、ペイパーカットが居ない別シリーズで、ロボット探偵が吸血鬼に戻る話、とかかな……。

*4:むしろ不思議なのは、出版時の帯に「神出鬼没の謎の怪盗vs異能の私立探偵!」とか書いちゃってることのほう。やっぱりミステリ界隈的には探偵が敵と対決するっていうポーズのほうが売れるのかなあ

*5:もちろん作者本人も最初からそのつもりで書いていて、『クリプトマスク(映画)』のプロローグでペイパーカットを題材とした映画について「謎の存在すぎてストーリーにならないよ」「じゃあ、そいつ自体は謎にして、それを巡る人々の物語にしようか」と言っているのは内情の暴露であろう。

*6:しかし一方でこの作品の構造の特異さは、作品内のキャラクターたちはペイパーカットと対決しているつもり、という点にある。小説全体としては群像劇なのに、キャラクターたちは、ロボット探偵も、ライバルたちも、サーカムも、東澱も、謎の怪盗ペイパーカットと対決するための行動をとるということ。つまり、キャラクターの言動の焦点が、物語の焦点とは全然違う場所にある。この点を逃してしまうと、シリーズの面白い部分を取り落としがちになってしまうと思う。

*7:あとは、子供などキャビネッセンスを作り出す人生観自体が明確になってない場合は、なにかボンヤリした像しか見えないこともある。特異なパターンともとれるが、本記事では1つ目のパターンの類型として扱う。

*8:しかし、ペイパーカットはしばしば任意で他人の認識を弄るような能力も使う。この点は、能力バトル的な設定考察ではほぼ説明ができない。だって、ならペイパーカットは鏡でなくなることもできるんじゃないのか? なぜそうしないのか?……もはや「虚空牙は万能かつ理解不能だから」と考えるしかない

*9:ただしペイパーカットは基本的にキャビネッセンスのことが判ってない(だから研究している)。つまりペイパーカットは自分でも判ってないことを説明しようとしているのであって、説明が正しい保証はないのが厄介だ。

*10:同じ内容は他に、釘戸博士による問診で証言されている。

*11:これは記事の流れのために上でペイパーカットの正体は謎、みたいなフリをしてるだけであって……常識レベルの話の気がしてならない。でも僕はマジで今回読み込むまでわかってなかったんです。

*12:再読してみたら思ったよりもたくさん見つかってびっくりしたよ

*13:参考動画検索結果:ジャングル 鏡像認知

*14:警察内部に侵入していた暗殺者ともみ合ったときに、銃の火薬が目に入ったという描写がわざわざされている。

*15:恐らく、鏡に反射した光=伊佐俊一の意思の力が特別に強烈、ということもあるので、皆が皆ではないだろうけれど。

*16:サーカムが把握してないせいで明文化されないのだが、飴屋がしばしば何も知らない一般人と一時的に行動を共にする度に、その一般人が「初対面のはずなのにおかしいな?」とか思いながらも飴屋と親しくする……いう形で描写がある。

*17:伊佐俊一は、恐らく自分自身を許すことができない人間だからだろう、ペイパーカットを見ると胸がむかむかしてきたりするようだ。早見壬敦からはそのことを「いっさん、アンタはペイパーカットを許せるのかな」と心配されている。

*18:本記事ではここで厳密さを捨てたイメージ先行の考察を使っている。というのも、先の脚注でも述べた通り、厳密な能力分析は恐らく無駄なので。能力バトル的には「ペイパーカットは他人の認識をかなりの程度操れる」という事であろうが、でもじゃあ何が出来て何が無理なのかという話になると、虚空牙にはほぼ何でもできるはずで、認識以外のものすら好きに操っているのかもしれないし。

*19:他シリーズで「虚空牙は人間を通してしか人間を理解できない」とされるのも、彼らが反射をつかさどっていることと恐らく関係がある……と思うのだが、「時間」を使うらしきブリックや、あと何を使っているかよくわからない(「螺旋」なのか?)才牙虚宇介は、人間から何かを反射しているようには思われないんだよなあ。

*20:巻が進むごとに、理由が変化しているように見える。これはペイパーカットの興味の対象が移り変わっているということなのだろうか? それとも移り変わっているのは上遠野浩平の興味か?

*21:この説明の言いようは、どうみても他シリーズでこの時期描き続けていた〈戦士〉とダブるが、しかしソウルドロップシリーズで飴家の姿を見る人々はどう見ても「ううう……」となるタイプの人たちで〈戦士〉からは程遠い。関連はしているが別の要素だと思っていたほうがよさそうだ。あるいは、これはペイパーカットこそが研究対象を良く分かってがない故に起きる間違い、の一環なのかもしれない。

*22:「未発表のアルバム収録曲」という単語だけでもう最高に上遠野浩平が好きそう。

*23:突然だが、伊佐俊一のキャビネッセンスとは何か? 直接の描写はないのだが、それは恐らく「いのち」である。伊佐俊一はいつも人が死んだり命が粗末にされたりすると怒っている。伊佐俊一にとって、命より大切なものなど命以外にはない。即ち、伊佐俊一とは生命のエネルギーを狭いところに閉じ込めてない男なのだ。ペイパーカットにとってはさぞ興味深い研究対象であろう

*24:キャビネッセンスの代替品として作られたというトポロスは、恐らく「エネルギーが宿った物質にどういう力が加わるかを計算する」という試みであった。博士はキャビネッセンスだと判っている物質に、何らかの変質の痕跡を発見したのかもしれない。しかし、いくら正確なモデルを作ろうと、そこにエネルギーが宿っていない限りはキャビネッセンス自体とは成りえないだろうし、やっぱり的外れだったとしか言いようがない。

*25:この点については本記事中にもう一度触れる。

*26:特に前半のシリーズで見られた行動で、『ソウルドロップ(ライブ)』では伊佐俊一を、『メモリアノイズ(田舎)』ではかわいそうな昭彦少年を癒やした。

*27:というか、エコーズはどうも「人間とは共同体において助けあうのか排斥しあうのか」を調べていたようだ。複数の人間の呪詛エネルギーの相互干渉かなにかに関係するのだろうか?

*28:たぶんそういう話ですよね?

「上遠野浩平論」⑧~〈戦士〉の条件(『ぼくらは虚空に夜を観る』ほか)

 上遠野浩平論の第8回です。

 本論は、上遠野浩平の作品世界について文学論的検討を行うことを目指している。前回の第7回では、だいたい2000年以降の作品群を第2期上遠野浩平と呼ぶことを提案し、その第2期では〈決定論的な運命〉という概念が上遠野世界の中心的テーマになっているという見解を示した。 

 今回の第8回では、中心的なテーマである〈運命〉*1が、どのような形で作品に現れているかを提示するつもりだ。

 

 ということは、必然的に本記事は〈戦士〉*2について論じることになる。

 第2期上遠野浩平は、極端に単純化すればだが、基本的に二つの内容しか描いてない。

 うち一つは、セカイには誰にも抗えない絶望的な現実(=運命)が存在すること。

 もう一つは、抗えない絶望と対決しなければならないこと。

 そして絶望と対決する者のことを、上遠野浩平は〈戦士〉と呼んでいる。

 本記事では〈戦士〉の役割を負わされたキャラクターを掘り下げることで、概念全体の輪郭を浮き彫りにすることを目指す。そうすることで、上遠野浩平が運命との対決をどう考えているかが示されることになるはずだ。

 

 

+人類史上最強の〈戦士〉、工藤兵吾~『僕らは虚空に夜を観る』

 

 本記事で、主に考察の対象とする"〈戦士〉の役割を負わされたキャラクター"とは『ぼくらは虚空に夜を視る』に登場した、工藤兵吾=マバロハーレイである。彼は上遠野浩平の考える、最も典型的かつ最強の〈戦士〉だ*3

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

ぼくらは虚空に夜を視る (星海社文庫)

 

 『ぼくらは虚空に夜を観る』は、今は無き徳間デュアル文庫から2000年に出版されたSF小説で*4、今は星海社文庫から再版されている。2000年に出版ということは、本論が考える第2期上遠野浩平の概ね最初期に出た作品ということ。そして、この作品は〈戦士〉というタームを上遠野浩平が前面に押し出してきた最初の作品だ。

 具体的には、虚空牙がこの用語を明確な重要語として持ち出してきた。

 

「お前はいったいなんでこのカプセル船の中の世界に入ってきたんだ?」

 兵吾はあらためて、この”敵”に向かって訊ねかけた。

 これには、さっきと同じ返答が帰ってくるだけだった。

〝だから言っただろう。我は君に会うために来たのだ――〈戦士〉よ〟

 

 明確に〈戦士〉というタームが上遠野浩平の作品世界に現れたのは、このシーンが最初だ。〈戦士〉という単語は、例えば〈世界の敵〉と違って一般語の範疇にある語なので見逃しがちだが、これは上遠野浩平の文学において独自の意味を持つ概念である*5

 また、ここで特に説明なしで文学的解釈を前面に出してしまうが、そもそも虚空牙とは絶対的絶望の擬人化である。オキシジェンとはまた別の意味で〈決定論的な運命〉そのものと言える。絶対的絶望そのものたる存在が「なんか工藤兵吾ってやつが〈戦士〉っぽい」という理由で、わざわざ会いに来て話す。

 なぜなのか? 〈戦士〉の何がそんなに重要なのか?

 言うまでもないが、この扱いははなにも彼が超宇宙級に強力な戦闘機を他の人間より上手に使うから、ではない*6。実際、戦果の数、あるいは人類にとっての価値で判断するなら、"人類の守護者"という呼び方をされる マイロー・スタースクレイパー*7のほうが大きいのではないだろうか?人類全般・社会一般にとっての意味や価値、あるいは掲示板の強さ議論スレに列挙されるスペックは、工藤兵吾が〈戦士〉である事と何も関連性もない。

 

 では何が関連しているのか。作品中で語られていることを、順に拾い出してみよう。

 

 

+景瀬観叉子とリーパクレキスの絶望

 

 工藤兵吾について明らかにするには、同じ『虚空に夜』に登場する、景瀬観叉子・リーパクレキスから考察を始めるのがいい。

 景瀬観叉子・リーパクレキスは、"ナイトウォッチコア"、と"スタビライザー"が、入れ替わった存在である。つまり、ナイトウォッチを操縦していたリーパクレキスは虚空牙との戦いに嫌気が指したので現代日本で暮らすようになり、反対に景瀬観叉子はいじめか何かで現代日本が嫌になったので虚空牙と喜んで戦うようになったとうこと。彼女らは、工藤兵吾の先輩としていかにも優秀そうに振る舞うにも関わらず、その特異さ故に「ジャイロサイブレータに期待されてはいない*8」のだという。

 

 景瀬観叉子=リーパクレキスは、そういう自身の状況について、次のように冷静な意見をそれぞれ述べ、自分たちの正しさを主張する。 

「(なぜ入れ替わりが起きたのか)表面的な理由だけを言えば、私が手首を切ったからでしょうね」

「な……なんで? なんかあったのかよ?」

「そっちが納得しやすいような意味では、理由はないわ」「機械にも、困ったものだと思わない? 世界を再現すればいいなんて、あまりにも安直というものだわ。まるで苦痛や恐怖が絶対真空にしかないみたいな、すごく能天気な発想……。」

*景瀬美佐子の台詞

「(宇宙空間に居て)あの空っぽを前にしていると、どうしてもこういうことを考えてしまう――”なんで存在などということがあるのだろうか。世界はこんなにもどこまでも果てしなく空っぽなのに、存在なんて、何の意味があるんだろう?”って――」

「…………」

「覚悟の上で来たそこなのに、あまりにも身も蓋もない現実に、何もかもがどうでも良くなってしまう――。虚空牙との激しい戦闘を行っているその最中に、ついこんなことを考えてしまう時が来る。”ああ、ここでちょっとだけ回避行動を遅らせればそれで自分もからっぽになれる”――って。(中略)ストレスなら機械が分解してくれる。孤独感なら無意識の中では別の世界で暮らしていることで埋め合わせられる。希望がないことも、可能性はあるとごまかせる。でも――”事実”はどうしようもない。」

*リーパクレキスの台詞

 

 要するに、景瀬観叉子は現代日本の生活に、リーパクレキスは虚空牙との戦いに、それぞれ絶望していた。だから互いの立場を交換することで、互いに絶望を避けることにしたのだ。

 彼女らは、自分たちが直面した困難の原因は、そういう絶望を想定すらしていなかったジャイロサイブレータの不手際だと言っている。その主張は一見正当性を帯びて見える。

 

 

+工藤兵吾と景瀬観叉子の対比

 

 しかし忘れがちな事実がある。

 工藤兵吾は学校でいじめられている

 時折、彼がため息などつこうものなら、確かにくすくすという忍び笑いが聞こえてきたりして、一日二十四時間の中の、ホームルームや授業の合間の、ほんの数十分に過ぎなくとも、その時間は兵吾にとっては非常にキツイものであった。

(くそ、まるで拷問だな……)

 つい、そんな事も思ってしまう。

 

 この設定は、ナイトウォッチが本格的に登場する前の、ほんの序盤に短く描写されるだけなので、小説を読み終わった時点で全く印象に残らない。しかし、実はこの設定が『虚空に夜』において決定的に重要だ。つまり、工藤兵吾は、景瀬観叉子よりも過酷か少なくとも同等程度に劣悪な学校生活を送っているということなのだ。

 更に、もちろん工藤兵吾は空っぽの絶対真空で虚空牙と戦ってもいる。工藤兵吾という主人公には、景瀬観叉子たちとは別の特異性があり、"コア"と"スタビライザー"が同一人物である。リーパレキスと景瀬観叉子のように人格が分離したりしていない。だから現代日本と宇宙空間の両方を体験しているのだ。また、絶対真空の虚無感に気づいてないわけでもない。彼は、初戦闘終了時ですでに虚無のヤバさに気付いてパニック発作を起こしている。 

 つまり、工藤兵吾は景瀬観叉子とリーパクレキスが逃げだした苦境の両方を受け止めている

 

 上遠野浩平は、この差異がもたらす結果を「戦果を期待されていない」リーパクレキスと「戦闘の天才」工藤兵吾という形で、明確に表現している。景瀬観叉子とリーパクレキスは、何か強者っぽい態度でこそいるが、あんなのは見せかけだけで、実際には何の成果も出せないチキンなのだ。文学的な存在意義として話せば、真の〈戦士〉がどういう人間かを示すためだけに居る、かませ犬的な存在が景瀬観叉子・リーパクレキスだと言える。

 この露骨ですらある対比表現に、最初から気付ける人は気付いていたのだろうか。少なくとも僕自身はずいぶん後になるまで全く気付いていなかったが。

 

 

+絶望を忘れているコーサ・ムーグ

 

 このように『虚空に夜』は、実は「〈戦士〉とは何か?」を描こうとしている作品である。

 そうと判れば、虚空シリーズ3部作全体にも同じ理解を適応できることが容易に判る。虚空シリーズ3部作には、常に〈戦士〉であるキャラクターと、そうではないキャラクターの2種類が出てきており、そういう理解のもとで読めば物語全体の文学的な価値がずいぶんクリアに見えてくる。

 ここでは字幅の問題から3部作全てに言及することは避けるが、特に言及したい箇所としてもう一点、工藤兵吾⇔景瀬観叉子と同じような対比がある『わたしは虚夢を月に聴く』第4章を取り上げよう。

わたしは虚夢を月に聴く (星海社文庫)

わたしは虚夢を月に聴く (星海社文庫)

 

  虚空シリーズの第2作目『わたしは虚夢を月に聴く』は、章ごとに主人公が変わるタイプの短編連作だが、その第4章には連作のキーとなる人物、コーサ・ムーグが登場する。彼は、虚空牙と人類の共存を目指しており、シンパサイザーという装置を使うために醒井弥生の世界に現れた。この装置は、シールドサイブレータの仮想現実世界を構築するために使われているが、コーサ・ムーグは自身の思想を演説するためにそれを借りたいと考えている。しかし実はコーサ・ムーグは、過去の時点でとっくに目標に挫折しており、今は虚空牙に操られているだけの存在だ。シンパサイザーを使いたいと考えているのは、それによって虚空牙の影響をウイルスのように広げるためなのだ。

 

 コーサ・ムーグはほとんどシンパサイザーを使うという目論見に成功しかける。しかしその時、水乃星透子*9が現れ、彼が忘れていた過去の挫折を指摘する。

「ああ、あなただってもう知っているはず――あなたは、自分が救おうとした人間によって殺されたときに、はっきりと思ってしまった――”絶望”を」

 その一言は、コーサ・ムーグの胸をさながら電撃のように貫いた。

(――――!)

「人類は救う価値などない、ただの"愚か"なのだと、そう考えてしまって、そして……そのために死んだ。――その亡霊が、果たして人々に呼びかけ、伝えるべき言葉を持っているのかしら? あなたは、あなたを殺した人間たちを、ほんとうに心の底から許す事ができているのかしら? いいえ、信じられるのかしら? あなたは、あなたがかつて夢みていた、人と人でないものとの共存を? 人間は自分たちの間ですら殺し合いやすれ違いを繰り返しているのに……?」

 

  繰り返しておくが、コーサ・ムーグはこの絶望を指摘されるまで忘れていた。本論のここまでの表現に即せば、運命を受け止められていなかった。

 

 

 +コーサムーグと醒井弥生の対比

 

 ところで『虚夢を月』第4章の主人公は、先程少し名前を出した醒井弥生である。

 彼女は単なる女子高生だが、世界から消えてしまった水乃星透子のことを思い出そうとしている。彼女は非力だ。彼女のささやかすぎる努力は、世界に全く影響を与えることができない。その上、努力しているという事実は単なる利用されやすさとして扱われてしまい、システムの守護者・妙ヶ谷幾乃には外的排除の道具にされ、虚空牙の傀儡たるコーサ・ムーグの都合のいい現地ガイドにされたり、とにかくろくなことにならない。彼女の努力はマイナス以外、何の結果も残さない。

 だが少なくとも、醒井弥生は忘れたものを思い出そうとしているキャラクターだ

 虚空牙に利用され、ほとんど世界を滅ぼしかけたのは、コーサ・ムーグと全く同じだが、しかし、醒井弥生は、実は困難から目を反らすということを全然していない。結果的にマイナスの結果をもたらしたとしても、すべての行動は自分の想いを忘れなかったからだし、彼女はそのために自らの身の安全すら犠牲にした。作品中ずっと非力で無知なので見逃されがちだが、彼女こそは虚空シリーズ2作目において〈戦士〉の役割を負わされたキャラクターである

 

 醒井弥生は、『虚夢を月』のエピローグで、成長して大人になり、ついにかつて辿りつけなかった水乃星透子との対面を果たす。その第一声のシーンが非常に象徴的だ。 

「……あ……あなたは」

 わたしの声は震える。

 とうとう――会えた。

 ずっと探していて、確たるイメージさえなかったそのものが今、わたしの目の前にいる。

 だが、わたしに言えることは、それは――

「あなたは、私の妄想なの?」

 わたしはまず、それを訊かなくてはならないのだった。

 

 醒井弥生は、物語中ずっと水乃星透子の存在を確信していたように見える。にもかかわらず、「それは自分の妄想であるかもしれない」という想定も、ずっと忘れていなかった。自分にとって最も悲劇と思える想定を、直視していられる。それはまさに〈戦士〉の特徴だと言えよう。

 

 

+〈戦士〉はとにかく負けず嫌い ~ 九連内朱巳

 

 さて、ここまで虚空シリーズを検討してきたことよって、〈戦士〉という概念の大枠が理解できた。ここからはもう少し理解を精緻化していこう。 

 工藤兵吾や醒井弥生に代表される〈戦士〉たちは、どうしてそんなにも強くいられるのだろうか? 絶望の擬人化として虚空牙、あるいは無慈悲な決定論的な運命、そういうモノに直面すると、上遠野セカイの一般人はふつう「うううう……」となり一歩も動けなくなってしまう。あるいは、無意識のうちに絶望から目を逸らし、恐怖と直面することがないように行動してしまったりする。上遠野浩平が〈戦士〉と呼ぶのは、そうならないで居られる人格のことだが。しかし彼らが"そう"であることには何か特別な理由があるのだろうか?

 

 工藤兵吾の幼馴染である槇村聡美は、『虚空に夜』の中で、憎からず思っている彼がテロリストと戦う姿を直面する。そしてその闘争が本質的に何なのか、親しさ故の的確さで察知している。

(――あ)

 聡美は、兵吾のそういう表情を前にも見たことがあった。

 それは兵吾が、”ムキになっている”ときに見せる表情だった。たとえば野球をやっていて、自軍が負けていて、彼のところで一打逆転のチャンスが来たりしたときに、よくこういう表情になるのだ――そして聡美は知っていた。このときに兵吾に話しかけると、こういう返事しか返ってこないのである――”絶対に大丈夫だ”。

 工藤兵吾は、要するにムキになっているだけなのだという。別に、高尚な決意とか思想が彼を支えている訳ではないのだ。  

 この「ムキになること」は、上遠野浩平の中でかなりポジティブな意味を持つ感情のようである。上遠野サーガには、他の作品にも名だたる〈戦士〉たちが登場するが、彼らはしばしば「ムキになりやすい」あるいは「負けず嫌い」な性格の持ち主だということが明示される。

 

 そういう性質を持つ〈戦士〉の代表といえば、やはり九連内朱巳が挙がるだろう。 

 九連内朱巳については、初登場時の引用をするだけでほとんど語ることがなくなってしまうのだが。

 ……どうして少女はかくも我が強いのか。

 その理由はおそらく、こうして意地を張っている九連内朱巳本人にすはわからないだろう。訊ねることができるなら彼女はきっとこう答えるだろう。

「うるさいわね。人の勝手でしょ。ほっとしてよ。あたしが意地を貼るのと、あんたとなんの関係があるっていうのよ? 悪いけどあたしはあんたと関係なんか持ちたくないんだからね!」

 ……だがその意地のせいで彼女は今や抜き差しならぬ状況に陥った。彼女はこれからずっと、世界を制しているシステムを相手に、舌先三寸の詐欺を働き続けなくてはならなくなったのだ。彼女はいったいどこまで、このほとんど余所に根拠の見出せぬ意地を貫くことができるだろう?

 しかしそれをやめたいと弱気になったとしても、この九連内朱巳には助かる道がもはやどこにもない。その先に何が待っているのか彼女は今のところ大して気にかけていないし——気にしてもしょうがない。他の選択肢はないのだから。

 

 この通り、九連内朱巳は、最初から"絶対に勝てないものに直面して意地を張る"という方向性のキャラクターであり*10、この方向性は登場以来一切ブレていない。しかも、意地を張る理由は本人にすら判らない、損得や正邪の論理を超えた単なる感情による。つまり、あるキャラクターが〈戦士〉であるかどうかは、戦闘や交渉の能力でやはなく、一見些細な感情のあり方で決まるのだ上遠野浩平の世界に登場する〈戦士〉たちには全員、多かれ少なかれ感情が基盤というところがある*11

 

 またここでは、九連内朱巳は意地を張ったことによって損をしている、という点にも注意を払っておきたい。〈戦士〉であることは、気高い生き方かもしないが、別に本人に勝利をもたらしたりはしない*12。普通のジュブナイルであれば、主人公が抗うと決めることは即ち勝利フラグだろう。だが、上遠野浩平の物語においてはそうではない。上遠野浩平のセカイではどんな人間も負ける〈運命〉であり、本当の意味での勝利フラグなど何をやっても立たない。〈戦士〉とは「自分は負ける」という事実を直視できる人間であり、勝利する人間ではない

 上遠野浩平の〈戦士〉が、この作家独自の概念であることがこの点からもわかる。

 

 

+〈戦士〉には利己性が極めて薄い ~ 織機綺

 

 更に続けて〈戦士〉を〈戦士〉たらしめる、他の理由も見てみよう。

 工藤兵吾が戦う理由には、もちろん幼馴染の槇村聡美の存在があり、自己の利益や安全には最終的に頓着しない。醒井弥生は本来は引っ込み事案のお嬢様だったが、物語中では実家のお金を持ち出してまで調査の依頼をしたり、変人扱いされることを厭わずに水乃星透子の実在を叫んだりした。

 なんというか、利己性が薄いとでもいうのか。

 〈戦士〉は自己の利益や安定を、無視するわけではないが、それ自体を目的とはしない。己の身の安全はむしろ普通よりしっかり確保するが、それは他の究極目的に必要だからに過ぎない。上遠野浩平の物語において〈戦士〉は、根本的に自己の身を顧みない存在として書かれている。

 

 この考察に、最適なキャラクターがいるので見てみよう。『ロスト・メビウスの時の織機綺だ。

 『ロスト・メビウス』は、"牙の跡"に入り込んだ織機綺と蒼衣秋良が、虚空牙の端末・ブリックとうろうろする話だ。ブギーポップシリーズの中では評価が下位になりがちな作品だが、それはしょうがないところがある。全体的に何の説明もされない話だし、ぶっちゃけ繋ぎ回だ。織機綺、ブリック、リセットリミット姉妹といった主要人物たちは、そのどれもが、2018年の今もまだ描ききれてないキャラクターであり、『ロスト・メビウス』でなぜ描かれる必要があったのかが明らかでない。いつか彼らの物語が終わったときには、『ジンクスショップ』のように過去の重要作品としての位置づけを得るのじゃないかと思う。

 

 それは兎も角、織機綺である。個人的に大好きなシーンがあるので引用したい。一連の事件を通しての織機綺の行動が、歴戦の兵士である蒼衣秋良を戦慄させている。

 焚き火の向こう側では、綺が微かに震えながら、ぶつぶつと呟いている。

「……大丈夫だから、正樹――」

 同じ言葉ばかり繰り返している。よく飽きないな、とやや悪意をもって蒼衣はその言葉を聞いていた。だが――ふと、あることに気がついた。綺はずっと譫言のようにそれを反復しているのだが、そこには一度も――泣き言が混じっていないということに。

 助けて、とか、寂しい、とか――そういうことを全く言わない。辛くないはずがない。痛くないはずがない。優しい彼に会いたいと思っていないはずがない――なのに、

(この女……まさか、ずっと……?)

 そう、こいつはずっと、自分のことなど一言も言っていなかったのだ。彼女が言っていたのは、いつも相手のことだった。

 その相手とどんな関係なのか、蒼衣は知らない。しかし、電話で今日のことを話していたのは盗み聞きしていたから、それが忙しい二人の、おそらくは最後の対話であろうと思える。さよならの一言も、当然のことながらなかった。近いうちに会おうという二人がそんな言葉を交わす必要はない。だからもし、ここで綺が倒れたら――相手はとんでもなく辛い状況に放り出されるだろう。何が起こったのかもわからないまま、彼女が消えて、そしてそれっきりだ。

 綺は――それを恐れているのか?

(こいつは――自分よりも、その相手のことを、たった今、危機に陥っている自分自身の現在よりも、半端な立場におかれるであろう彼氏の未来を、そっちの方をこそ助けるために――それで、耐えているのか……?)

 きっと助けに行く。絶対にそんな目にあわせたりしない。ここから出て、必ずあなたのところに帰るから大丈夫――その間になにがあっても、そんなものは大丈夫だから――そう言っていたのか?

 

 ここで織機綺が、第2期上遠野浩平以降における*13キャラクター性・本質を露わにしているのである。彼女が体現するのが利己性の薄さだ。織機綺は、とにかく自分に価値がないと考えている。現実に居たらメンヘラを心配したくなる性格であるが、これは〈戦士〉の資質である。なぜなら、彼女にとっては、価値のない自分がどれほど辛かろうとどうでもいい。そんなことより愛のために継続して行動できるかが大事だからだ。

 自分が辛いことが諦める理由にならない。へこたれるということがない

 起きている結果が、九連内朱巳が負けず嫌い故に折れることがないのと全く同じである。 醒井弥生が極めて弱い存在なのと同様、織機綺は弱さが際立つキャラクターなので見逃されがちだが、彼女もまた〈戦士〉の役割を負わされた存在だ。

 

 ただし、織機綺が持つのは、「利他性」ではない

 自己承認の欠如がまず先にあり、他者への思いやりはその結果にすぎない。上遠野浩平の描く〈戦士〉たちは、捨て身で人を助けたりはするが、それは自分のためだとしばしば強調する。反対に、他者の利益に単に奉仕する者のことは、むしろ特異な存在や、洗脳済みの者として描かがちである*14

 また、利己性の薄さによって成立する〈戦士〉の資質は、どうも上遠野浩平の中で歪なものとして理解されているような感じがする。だからか、結局のところ織機綺は物事を上手く運ぶことができない。この点については、作品の中で作者自身が何らかの答えを示していくのだと思う。というか、答えの片鱗らしきものは作品の中で既に見えているのかもしれないが、織機綺は今の所まだ着地しきっていないキャラクターであり、本論での決めつけは控えておきたい。

 

 

+〈運命〉に「あきらめ」で応じる ~ ザ・ミンサー

 

  更にもう一組、〈戦士〉という概念の輪郭を示すにあたって、紹介しておきたいキャラクターたちがいる。ザ・ミンサー、そしてピート・ビートだ。

ビートのディシプリン〈SIDE2〉 (電撃文庫)

ビートのディシプリン〈SIDE2〉 (電撃文庫)

 

 ザ・ミンサーは『ビートのディシプリンside2』の中で、ピート・ビートの過去を示すために登場するキャラクターだ。彼女は、脳の電気信号を読み書きすることで疑似的な読心術を行う能力者だが、この能力を使う際に、相手側にも彼女の精神から影響が出てしまう。そのせいで、彼女がもつ”あきらめ”が広く伝播してしまい、最終的に〈世界の敵〉としてブギーポップに殺されることになった。

 ザ・ミンサーが"あきらめ"の体現であることは『side2』の全編にわたり、様々な形で示され続けている。最も直接的には、九連内朱巳がザ・ミンサーのそういうところが危ないのだと指摘したが、ほかにも例えば、ピート・ビートとモ・マーダーに出会った瞬間から既に彼女自身が「わたしを見捨てて逃げろ」とか言い出しているし、その後の展開でも、統和機構からもたらされる理不尽にもまるで逆らうことがない*15

 

 ここでは、特に本記事の流れで有用なシーンとして、少し間接的に”あきらめ”が表現されている部分を引用したい。ザ・ミンサーの影響下に入ってしまった女子高生が、彼女から受けた影響の素晴らしさを説いたセリフだ。

「ただ――かけらさまと会って、私たちはかけらが心の中にあることを知ったの。それだけよ。それだけでずっと、世界というものの見え方が変わる――たとえば、もう二度とわたしたちは、かけらを組み合わせてひとつのものにすることはできないのだ、とか」

「そう、この世にまったく希望はない――でも、それがどうした――そんな気持ちになれたのは、かけらさまのおかげよ」

「希望がないとわかったら、すごく身軽になれたわ。今までつまらないことで悩んでいたのが馬鹿みたいに思えるわ」

 

 この直後に、ブギーポップがザ・ミンサーを殺しに現れて、それどころではなくなるのだが。よく見れば、これはどうも他の上遠野浩平作品でよく聞くフレーズではないだろうか。

 

 例えば、ほかならぬ工藤兵吾が『あなたは虚人と星に舞う 』での再登場時にこう言っている。 

「俺たちは――途中だ」

 兵吾はぼそり、と呟いた。

「きっと、どこにいても同じだ。無限の暗黒しかない恒星間区域の絶対真空の中でも、地べたを這いずり回る普通の、平凡な人生の中でもきっと――どこでも変わらない。みんながみんな、途中で生まれてきて、中途半端に生きて、途中で死んでいくんだ。自分たちが何を目指しているのか、正確に知ることもなく――しかし」

 彼は半分泣きそうな、だがもう半分では決して挫けないような、矛盾を抱え込んだ目をしていた。

「しかし――それがどうした」

 彼の口元には投げやりな、だか力強い笑みが浮いていた。

 

 まったく同じ「それがどうした」という台詞が飛び出している。

 この「それがどうした」は、上遠野浩平がしばしば物語のクライマックスでキャラクターに言わせる、「絶対的絶望の存在を認識しつつなお前に進む」という決意表明である。〈戦士〉の常套句といって良い。その常套句が、ザ・ミンサーに洗脳(?)された女子高生、とかいう意外なキャラクターから出てくる。この事は、ザ・ミンザーは〈戦士〉としての行動を半分までは取れている、ことを意味する。

 本記事はここまでの考察で〈戦士〉のことを、〈運命〉がもたらす絶望を受け止めることのできる存在、と定義してきた。ザ・ミンサーは、自分に訪れるであろう悲劇的な運命を正確に把握しているし、そのことを誤魔化したり忘れたりもしない。絶望の存在を認識し、逃げることなく正面から受け止めることができている。

 問題はそこからだ。ザ・ミンサーは受け止めた〈運命〉に抵抗しない。絶望をしっかり認識していながら、何の手を打つでもなく、ただただ敗北を受け入れる。

 それがザ・ミンサーが体現する”あきらめ”の正体なのだ。

 

 恐らく上遠野浩平は、本論が第2期上遠野浩平と呼んでいる流れを意識した上で、狙ってザ・ミンサーを出している。

 自分自身で提示してきた〈戦士〉という概念に「別に開き直れば万事オーケーじゃねぇぞ?」と釘を刺すためのキャラクターなのだ。

 

 

+「あきらめが悪い」が〈運命〉を知らない ~ ピート・ビート

 

 一方、ピート・ビート「あきらめが悪い」ことを強調されているキャラクターだ。

 この設定は、互いに大事に思っているザ・ミンザーとピート・ビートが人格の本質的に最も乖離している……という点が小説に悲哀や共感をもたらす。が、ここでは小説のエモーショナルな部分からは一旦距離を置こう。

 問題は、ザ・ミンサーと違ってあきらめないピート・ビートは〈戦士〉として十全の資質を持っていると言えるのか? という事である。

 

 ピート・ビートというキャラクターが物語の中で占める役割については、『ディシプリン』の冒頭で、飛鳥井仁と軌川十助が会話の中で提示している。

(飛鳥井仁や軌川十助は、己の〈運命〉を知ってしまっている人間であるから、何もしないでいることはできないだろう、という会話のあとで)

「……でも、試練か。それは自分がなんなのか知らない者にも訪れるのかな?」

「生きていることが試練である以上、それを免れるものはこの世には居ないと思うね」

「でも、僕の反対で、そのやるべきことがあまりにも大きい癖に、自分ではそのことをまったく知らないでいるような人は、そういうときに……どうなるんだろう?

「どうもならないだろうな」

「というと?」

「知っていようといまいと、彼はいずれその試練に直面する――誰のせいでもない。自分の運命というものと戦わざるを得なくなる。そういう存在は、その戦いのなかでやっと己自身を見出すことになるだろう。そう――それは”カーメン”とも呼ばれている」

 

 つまるところ、ピート・ビートは本論が〈運命〉と呼んできた絶望の存在を知らない

 『試練(ディシプリン)』とは、〈運命〉を知らない者が、何も知らないまま直面せざるを得なかった戦いの物語である。ピート・ビートもまた、上遠野浩平が自分が描いてきた概念に釘を刺すためのキャラクターということだ。「目の前に苦難にあらがってりゃオッケーでもねぇぞ?」と言っているのだ。

 

 それ故に、ピート・ビートもまた〈戦士〉ではない。

 彼は、ただあきらめることがないだけで、〈運命〉を受け止めることができていない。それは彼の人格に問題があるのではなく、さまざまな経緯から記憶と資質を剥奪されているせいなのだが、セカイはそんな個人の事情など考慮してくれない。

 ザ・ミンサーは、ピート・ビートのそういう性質に気付いていたのだろう。だから、オキシジェンは「ミンサーがお前(ピート)に何を託したのか気になった」と述べたし、浅倉朝子は「(ミンサーがカーメンを表現した言葉の)"スリー・オブ・パーフェクトペアー*16"とは、要するに世羅くんを励ましているのよ」と言った。ザ・ミンサーは、本質的にあきらめない存在であるピート・ビートが、真の〈戦士〉になればいいと期待していた。そのために自らの命を犠牲にしてビートの命をつないだし、実際ビートは後に己のカーメンにたどり着くことができた。

 『ディシプリン』はピート・ビートが、カーメン=〈運命〉を見つけることで、真の〈戦士〉になるまでの物語だ*17

 

 

ブギーポップによる第2期上遠野浩平の総括

 

 以上、上遠野文学における〈戦士〉が運命と対決する存在であることを示した後、対決に必要な資質として、負けず嫌いであること・利己性に薄いこと・あきらめないこと、の3条件を示した。

 

 上遠野浩平は、第2期と本論が呼ぶ期間を通し、実にこれだけのことを繰り返し描き続けている。なぜそうしなければならなかったかというと、〈決定論的な運命〉を発見した作者の文学的関心が「この絶望的なセカイを、どうやって我々は生きていくのか」という点に絞られたためだ。この文学的関心は、作者の精神から内発的に現れたように思われるが、一方で、発見されるまでもなく上遠野浩平の――というより、セカイ系文学に全般にもとから含まれていたものが顕在化しただけにも思える。結局のところ、セカイとの断絶という絶望と真摯に向き合い続けるなら、文学は我々の生き方を描いていく以外にないのだ*18

 

 ちょっと前の話になってしまうが、本論第4回では、ブギーポップが「戦わなければ生き残れない」みたいな事を述べているのを指摘したあと、でも全ての人間に戦う事ができるわけないですよね? という問題が残っている、と言っておいた。

 本記事のまとめとして、それについて、ブギーポップ先生から、厳しいお言葉を頂戴しておく。『彼方に竜が居るならば』の末尾で仰られた言葉である。

「君はどうやら、この世界が底なしだということを感覚としてわかっているみたいだが――それだけでは意味がないんだよ。そこから未来に一歩目を踏み出さないと。自動的な僕とは違って、君たちには意思があるのだから」

「そう、みんなそうやって世界と世界の狭間で空回りしている。取り憑かれた想念を振り切って前を向いただけで、そこで力尽きてしまった者もいる。張り付いた仮面を敢えて被り続けようとする者もいるし、賭けに出て、たとえ欲しいものを得られなくてもそのツケをきちんと払おうとする者もいる。みんなそれぞれ、底なしの世界の中で足掻いているんだ。君も同じだ。空から飛び降りるのをやめて、そして――これからどこへいく?」

「いや、別にすぐに答えなくていいし、僕に言う必要もない。それは君たちの心の問題なのだから」

 

 この言葉は、まさに第2期上遠野浩平全体を総括したものだ。『彼方に竜がいるならば』は2000年から2013年までの長きにわたって執筆された短編を、一冊にまとめた短編集である。いわば本自体が、第2期上遠野浩平の総括であるとも言える。

 ブギー先生は、誰もが常に戦いの最中にあると言っている。自分は戦士になれないし戦えないから戦ってない……とか思っていたらそれは間違いである。我々には、どのみち戦う以外の道は残されてない。戦いを終えてにどこへいくのかも含めて、自分で決めるしかない。

 我々は、〈戦士〉だから戦うことができるのではない。

 生きるために戦い続ける必要があり、戦い続けるために〈戦士〉であるべきなのだ。

 上遠野浩平が、〈運命〉と〈戦士〉を書き続けることで繰り返し示していたのは、実のところ「生きるために何をすればいいか」という、非常にプリミティブな問いへの答えなのだった。そして、もちろん人間の生き方は一様ではないから、答えも一様ではなく、何作も小説を発表するなかで様々な答えを示し続けていく。

 もしかしたらそれは、上遠野浩平が小説を書き続ける理由ですらあるのかもしれない。

 

 

 次回は、本論の終着点となるであろう、第2期上遠野浩平を終わらせた作品『ヴァルプルギスの後悔』についての考察をする――べきなのだが、せっかくなので、その前に寄り道をしたい。いわば、ラストダンジョンに突入する前に攻略しておくべき、サブストーリーのやりこみダンジョンがある。上遠野信者の一人として、ここまでやっておいてあの概念について話さないなんて勿体ないことはできない。

 というわけで次回はあの概念――キャビネッセンスの謎に迫る。

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

 

*1:以下、山カッコで〈運命〉と述べた場合、〈決定論的な運命〉の省略形を示すものとする。もう少し広い意味で言う場合は、カッコなしあるいは鍵カッコを用いる。

*2:以下の本記事で内容を論じるが、山カッコつきで〈戦士〉と述べた場合は辞書的な定義とは違う意味を示すものとする。

*3:工藤兵吾は「人類史上最強の戦士」であるとされている。虚空牙が長い時間人類を観察した中で、最も強い戦士が彼だったのだという。この観察にはフォルティッシモやリセットリミット姉妹や霧間凪ブギーポップも入っていたと思われ、つまり工藤兵吾は上遠野サーガ最強の戦士でもある……らしい。

*4:全然関係ないけど、徳間デュアルの作品群ほんと好きだったんですよ。版形が謎にデカくて本棚に入りにくいところも含めて中二心をくすぐる。

*5:エンブリオ2部作の「サムライ」は似ているが違う概念である。エンブリオ以来出てこないので確定し難いが、サムライは問答無用で理想を実現する存在であるが、戦士はありのままの現実を生き抜く……みたいなイメージだと思われる。

*6:ナイトウォッチ3作目の『あなたは虚人と星に舞う 』に再登場した工藤兵吾が、キッパリと断言している

*7:本論では触れる幅がなかったが、「NOVEL21 少年の時間―text.BLUE 」の一遍に掲載されているマイロー・スタースクレイパーの物語は、甘ったれた少年が、一瞬にして真の〈戦士〉になる物語である。〈戦士〉になれるかどうかは本人の心持ち次第という事が示されているのだろう。

*8:ナイトウォッチ世界の端末であるヨンの証言による

*9:何かの手違いでシールドサイブレータ世界に再製されるべきでないのに再製されてしまった。手違いに気づいたシステムによって消去されたが、連作集『月に聴く』の全話に渡って影響が残っている。

*10:こういうキャラクターが霧間凪のライバル格として登場したのは、霧間凪もやはり意地を張るキャラクターだからだ。霧間凪については今後『ヴァルプルギスの後悔』と共に検討することになるだろう。

*11:反対の例で面白いのは、能力的には最強であることが名言されているフォルティッシモが「あの脳天気な」とかしょっちゅう言われていることである。フォルティッシモは感情面で幼く、故に〈戦士〉ではないのだ。彼はそのせいで、エンブリオの声がいつまでも聞こえていたり、久しぶりに対決したイナズマには良いようにあしらわれれてしまったりする。フォルティッシモは、自身のカーメンの旅を終えた時はじめて〈戦士〉になるのだろう。

*12:関連して、『ビートのディシプリン』の中で飛鳥井仁と対話する九連内朱巳が「君のことはすごいと思うが、羨ましいとはやはり思えないな」とか評されてしまう一幕もある。

*13:『VSイマジネーター』などに登場したときは、こんな性質はまだ持っていなかったはずだ。

*14:ここで本論は水乃星透子を「あのお方」と呼ぶ者たちのことを念頭に話している。しかし、ラウンダバウト・カレイドスコープ・モータルジムなど、他者に忠誠をささげたことで利己性を捨てて〈戦士〉に至った者もおり、どうにも理解を精緻化できない部分だ。上遠野浩平は自分以外の強者に己の人生を仮託する者たちのことをどう考えているのだろうか?

*15:ザ・ミンサーについて、オキシジェンとカレイドスコープは「理由だけがあってしかし克服できなかった」「あれは失敗で残念だった」と述べている。それはつまり、オキシジェンとしてはザ・ミンサーにあきらめを克服させたかったのだろう。その為に統和機構は、ザ・ミンサーに運命と戦う理由、即ち「家族」を与えた。「家族」は確かに理由として機能したが、しかしザ・ミンザーはあきらめの完全克服に至らず、彼女は中枢候補として失格と判断された。明言されていない上に描写が散らばっていて判りにくいが、『side2』で起きていたのはそういう事態だった。

*16:過去と現在と未来のこと。過去と現在のことがわかっていれば、未来のことも決定論的に求めることができる。つまり自分の〈運命〉を知ることができる。

*17:しかも『SIDE4』では、ピート・ビートが実はフォルティッシや浅倉朝子に巻き込まれただけの存在、いわばモブキャラであることが強調される。これは、どんな些末な人間にも試練は待つということ話でもある。

*18:前の論でも少し触れたが、宇野恒弘が『ゼロ年代の想像力 』で提示した、日本全体におけるセカイ系文学以降の展開と合致するとろがあるようにも思える。

"マシな野党"の体現者、津村啓介(国民民主)を褒め上げる

 今回は、国民民主党の議員・津村啓介について書きます。

 実はこの話題の記事は前々から書く準備を進めていたのだが、この8月13日に国民民主党の代表戦に出馬表明したとのことで、急いで形にすることにした。

 

 僕は津村議員の選挙区である岡山市在住だ。近所には彼の選挙事務所もあり、だからというわけではないが、今までの選挙では、わりと津村議員に一票を投じてきた。

 しかし、これは最初に言っておかなければならないが、僕は安倍政権支持である*1。安倍支持者が民主党とか希望の党(当時)の議員に、積極的に票を入れていたということである。これは僕個人の投票行動ではあるが、理由が無いことではないので、たぶん他の人も同じように感じてくれるのではないか? そのため、今回は僕が津村啓介を積極的に支持する理由をブログにまとめて書いておく。

 結論から述べれば、津村啓介という男は、日頃からアベ信者と罵られがちな僕らがよくいう、「もしもアベ自民党よりもいい野党が出てきたらすぐにでも乗り換えたるわ!!!」の体現だということである。

 蓮舫や鳩山はクソだ、枝野さんも玉木さんも微妙かもしれない。

 だが津村啓介なら支持できる。

 この記事ではその理由をハッキリ書いておく。

 

津村啓介支持を作り上げる一冊の本

 そもそも僕が津村啓介議員に「お? この人はマシだぞ?」という印象をもち始めたのは、彼の選挙事務所ビルにでかでかと、<本を出しました>なる広告を掲示しだしたからである。僕はわりとビブリオマニアの気があり、本を出したとか読んだというだけでその人間に甘くなる傾向がある。それで、次の選挙でもうちの選挙区から出るのだろうし、内容を確かめて見ようと思ったのだ。

 その本がこれ。

国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)

国会議員の仕事―職業としての政治 (中公新書)

 

  内容としては、津村啓介林芳正という二人の政治家が、交互に自分が政治家になった理由・なった後の仕事について語ることで、国会議員という人が何を仕事としてやっているのか、内容を明らかにするという趣旨である。まあ、だいたいは彼らの半生記であって、僕のように政治家についてブログを書こうとか思ってないなら、特に買わなくてもいい。もう結構古い本でもあることだし。

 しかし、一点だけ重要な事がある。共著者の林芳正はゴリゴリの自民党二世議員だ。結構大臣ポストも歴任しており、今は安倍内閣文部科学大臣をやっている。

 この本は、民主党が政権を取ったあと1年たって低迷期に入りかけた、2011年の出版である。本の中の二人が対談している章でも、マニュフェストがなぜ形骸化しただの、民主党は持ち直さねばならないだの、かなり耳の痛いだろう話も多い。そういう話が出てくるとわかってる時期に、むしろ積極的に敵対勢力の自民党議員と話にいけること。しかも内容は、お互いにわかり合った雰囲気というか、批判しあうこともなく建設的な議論をしているんである*2

 

 この一点だけで、僕は津村啓介支持を明確に打ち出せる。

 今の日本の政治状況は、悲惨とすら言われるが、それは敵の言い分に理解を示すことのできない思想家・活動家・政治家・マスコミが作り出した悲惨さだと、僕は本気で思っている。

 津村啓介はそうではないのだ

 

 

+保守とかリベラルとかではない

 

 津村啓介は長年、民主党の有力な中堅若手議員と言われており、民主党政権時代は大臣職ですらないものの政策ポストをこなすなど、それなりに長い期間議員をやっていた。だから仕事はいろいろやっているのだが、なかでもメディアやネットで露出が多かったのは、女性宮家問題の担当者としてである。彼は女性宮家設立を目指す立場だったらしく、ネットでは急進的な?右翼から叩かれがちだった。

 一方、こんな記事もネット検索では出てくる。

ch.nicovideo.jp 

 ネット右翼の生みの親との呼び声も高い*3小林よしのりから、「本物の尊皇派」として大絶賛を受けていたりする。小林よしのりもまた、陛下が望まれるならそうしよう、という理由で女性宮家賛成派で立場を同じくしているので、これ自体は自然といえば自然だが。

 

  しかし、津村啓介は、本来どちらかといえば左派寄りの思想をもつ人である。 

www.sanyonews.jp 

 これは昨年の選挙の際に出たの地元新聞による候補者アンケートだ。

 津村啓介は、消費増税反対、憲法改正反対、北朝鮮圧力増反対、原発再稼働反対の立場を示している。ツイッターでこれだけ言ったら、ほぼ間違いなくパヨク呼ばわりされるであろう。僕自身は保守寄りなので、投票するときにちょっと悩んだ覚えがあり*4、この人はリベラルだという印象が強く残っている。

 そういう人が、ネトウヨの生みの親みたいな立場の人に、絶賛されている。このことを非常に大きく評価したい。敵を味方にすることが出来る能力! これ以上に政治家に必要な資質があろうか*5

 右左勢力の分断が、世界的に強く危惧されている昨今の情勢において、津村啓介はそれを飛び越えることができる。

 

 

+普段の活動からしてそういう感じ

 

 津村啓介のそういうところは、公式ツイッターを見ているだけでちょいちょい見ることができる。今は代表選出馬のニュースに埋もれて探し出すのがちょっと大変だが。

  津村啓介は、一貫して「アベガー」には組さない

 もちろん津村啓介は、モリカケ問題について強く批判していて、国会での関連発言もある。だが、相手が批判先の安倍であろうと、粗探しをしたりはしない。これは恐らくの話だが、彼はもともと二大政党制を強く志向する政治家であるので、「議論」というものが何なのか判っているし、他の野党政治家が「議論」を目指していないことを強く憂えている*6。相手の良いところは認め、悪いところだけを批判するのが、議論というものだ。相手との信頼関係が大事だし、相手を嘘つき呼ばわりすると――実際に嘘をついているとしても――議論は成立しない。

 津村啓介は、決して批判だけの野党であることを良しとしない。彼は、希望の党に一旦離脱したあと、最終的に国民民主党に入った。それは、政局の読み間違いではあったし、たぶんこの先も不利に働くだろう。だけど、そういう風になってしまった根本には、批判に終始していた旧民主党の体制への不満があったのだ。国民民主党の「解決」を全面に押し出す姿勢にも、津村啓介、ないし津村啓介の一派の影響があったのではないかと、僕は密かに思っている*7

 

 敵から学ぶ姿勢もある。

 はたして野党支持を日頃表明しているあなた方は、自民党が良いことをした! というニュースのときに、素直に褒めるツイートができるだろうか? なんか負けた気がするという理由で、何も言わずに、ニュース画面を無言で閉じたりしてないだろうか?

 これは与野党どっちでも関係ないが、敵のアラを探すってのは、非常に簡単なことなのである。人間の脳は、長所を探すよりも欠点を探すほうが得意な仕組みであり*8、困難とされる二足歩行がわれわれに簡単なのと同様に、相手の悪いところを批判するのも実に簡単なの行為なのだ*9。極論、批判っていうのは、全く知性など必要としない行動だと僕は思っている。

 反対に、褒める、というのはめちゃくちゃ難しい。僕も苦手だ。日頃、家族や子供をいかにして褒めるか、四苦八苦されている方々も多いのではないか。

 いわんや、褒める相手が政敵であればどうか

 敵を褒めることができるのは、相当に優秀な人だけだと思う。僕自身、いざそのときにそれができるか、気をつけたいが自信はない。

 

 

+政治信条が異なるとしても支持できる

 

 他の代表戦関連のニュースでは、津村啓介の政策とか思想とか経歴について、きっともっと詳しく書くのだと思う。しかしこの記事で、僕はそれをしない。関係ないからだ。

 文中でもちょっと述べたが、僕は政治的にはちょっと保守寄りである。改憲は出来るならしたほうがいいと思うし、北朝鮮に備えるためなら自衛隊法周りの整備はやむなしだし、原発可動は致し方ない。津村啓介がおそらく一番の政治目標としているであろう、二大政党制の実現すら、僕は日本人にはあわないんじゃないかなあとか思っている。強いて言えば、津村啓介は日銀勤務の経歴をもつので、アベノミクスに続くリフレ政策に理解があるかもしれない? でもいままの政治経歴は経済寄りじゃないので支持の根拠としてはそこまで強くない。

 

 しかし確信していることがある。津村啓介は、そういう政治信条を別にする僕の言葉を、切り捨てずに聞くであろう

 だから僕は津村啓介を支持するのだ。もっと興味がある人があれば、氏の出ている動画とか、国会の議事録とか、見てみれば良い。敬語ひとつとっても常に相手へのリスペクトがある。そうり!そうり!と叫んだ女性議員にはついぞ見られないものだ。

 

 この際だから、勝手に社会を代表するようなことを言ってしまうが、僕たちが常日頃「自民は野党よりマシ」とかいう言い方で求めているのも、結局このリスペクトだけであろう。だから、もしも国民民主党がこういう態度を崩さずにいけるなら、党勢はきっと復活するだろう。というか、それ以外に道はない。日本全国から安倍批判票をかきあつめた立憲民主党の凋落を見よ。あれではだめなのだ。

 むろん、この道は簡単ではない。信頼関係を築くのが基本路線なのだから、十年や二十年では、再び自民党と争うところまで盛り返すことはできまい。今回の代表選では、対自民よりむしろ立憲民主ほか野党との対峙のあり方が問題になるので、自民との融和姿勢だけが続くとも思わない。

 しかし、津村啓介のような議員が増えることでしか、こんどこそマトモな非自民政権をつくることは出来ないのではないか。少なくとも津村啓介本人は、それを目指しているはずだ。

 他の野党議員たちも、彼にならえ。

*1:僕のことはどうでもいいので脚注にしまって言っておくが、安倍支持は、リフレ政策支持かつ、今の対北朝鮮対応支持かつ、改憲派であるためだ。消費増税が起きるとなるとそのうちリフレが潰れるので、他に有力なリフレ派自民議員が出てきたら――石破と小泉は違うということだが――立場は変わるかも。あとモリカケについてのスタンスは前に別に記事を書いた。

*2:あとがきによれば、この本の出版は、中公新書の編集者が二人に呼びかけて実現したものだという。編集者さんは、二人のことをそういうことの出来る人材だと見きったのだろう。偉い人だなあ。

*3:言うまでもないが冗句だ。本人は割と不本意みたいだぞ

*4:結局のところ津村啓介に入れたが

*5:それができないから今の野党は負けているのだ! ということを強く主張したい。野党と野党支持者は津村議員にならえ

*6:安倍政権がご飯論法を議論をしていないのだ、とよく言われるが。俺はあのご飯論法が出てきたのを「安倍と麻生がついに、議論をしようとしない野党をまともに相手にするのを諦めた」と見ている。諦めたのは確かに褒められたことではないが、それ以上に俺はアベガー論法が嫌いだ。

*7:僕が玉木さんをイマイチ支持できないのは、党の設立会見のときにその「解決」部分に求めていることがちょいボケてたから。悪い人じゃあないんだが。

*8:だから人間は欠点を改善することができるのだ

*9:ちなみに、いわゆる"ブーメラン"が発生するのもこのためだ。民主党自民党の粗探しをした、と一度思われたら、民主党の粗探しが始まる。そして粗探しは簡単なので非専門家のネット民が容易く粗を見つける

「上遠野浩平論」⑦~決定論的な運命(『パンドラ』『ジンクスショップ』『酸素は鏡に映らない』)

 上遠野浩平論の第7回です。

 いま本論は、連載の第5回以降を第二章と位置づけ、上遠野浩平の文学が追及してい美意識・問題意識について検討している。その初めとなる第5回第6回では、「可能性」が上遠野文学の中核であるとの認識の元、〈世界の敵〉というタームや、種々のキャラクターの文学的な意味での存在意義について考察を重ねた。 

 この第7回からは、上遠野浩平の問題意識について、新しい検討に入っていく。 

 

 上遠野浩平は、ゼロ年代に入ったあたりで一度、作品で扱う主要なテーマを変更している

 このゼロ年代以降のことを第2期上遠野浩平*1と呼ぶことにする。本記事では、第1期と第2期の分割がなぜ可能かを示すため、ゼロ年代に起きた作品テーマ変更について語るつもりだ。

 最初に結論を提示しておくが、第2期における上遠野浩平のテーマ変更とは、作品世界の核心が「可能性」から「運命」に切り替わった、というものだ。

 このテーマの変化は、各作品だけを個別に読んでいてはなかなか分かりにくいところがあったために、リアルタイムで作品を追っていた最中には「最近のブギーポップは微妙なことが増えた」みたいに見られていた*2。しかし、デビュー20周年の今ならば材料も出そろい十分に明快なな検討が可能なはずだ。

 

 記事の流れとしては、まず第1期上遠野浩平で「運命」という概念がどういう扱われ方をしていたかを確認する。次に、その「運命」がどうして2期以降作品の中心的テーマになったのかを明らかにする。最後に、第2期上遠野浩平の中核となった「運命」がどのような概念なのかを詳細に検討していく。

 

 なお、いつも以上に記事がクソ長いです。分割しようかとも思ったが、ここはブログタイトルの精神でいかせていただきます。

 

 

+第1期上遠野浩平における「運命」~『パンドラ』

 

 さて、冒頭に述べたようなことを検討するにあたり、まず最初は、第1期上遠野浩平において「運命」という概念がどのように扱われているかを確認しておきたい。

  上遠野浩平の作品の中で、最初に「運命」にフューチャーした作品は『パンドラ』だ。

 

 『パンドラ』は、ブギーポップシリーズの3作目で、予知能力者たちを主人公にした青春群像劇の傑作だ。王道かつ他作品とのリンクや思想的な困難さが抑えられているため、上遠野浩平を読みだした読者が最初にハマる作品になりやすい。その一方で、王道故にセカイ系としては特筆するところのない作品であること*3や、作品感リンクや思想的側面の薄さが印象の薄さにも繋がってしまうことがあるのだろうか。人気の割にはあまり話題には挙がらない。個人的にも、最初大好きだったのが、ファン歴を経るほどに不思議と読み返す機会の減っていた作品である*4

 

 そんな『パンドラ』だが、特に「運命」が俎上にあがるのは次のシーンである。

 事件が全てが終わった後の、天色優=ユージンによる総括を引用しよう。

 

 だがそれにしても、回ってきた責任は重すぎた。世界の危機、そんなものにまで直面しなければならなかったというのは、少し行き過ぎだ。

(……それとも、逆だったのか? まわっていたのではなく――)

(――最初から、そうなるようになっていたのか)

 ぼくらはこの世界の危機に対応するために集められて、そしてその使命を果たした……そういうことだったのか? 運命、あるいは世界そのものが持っているバランス――そういうものがぼくらを操って、そして、こうして――

(――そのときが来たので、スイッチが入れられた、とでも……)

*一部執筆者の判断で省略アリ

 

 ユージンは、「運命」のことを「世界のバランス」ではないかと言っている。 

 

 ここで「運命」という呼び名で存在を示唆されているのは、「自動的であるブギーポップを動かしている何か」だろう。タイムトラベルもののSFでたまに出てくる、歴史の修正力のようなものが実在して、それが世界の危機への対応策を決定しているのだ……というアイデアが、初期の上遠野浩平にはあったと思われる。

 

 

+第1期上遠野浩平にみる〈神秘主義的な運命〉

 

 実は、同じアイデアが『パンドラ』の次に出版した『歪曲王』でも語られている。

 ムーンテンプルに残されていた、寺月恭一郎のビデオ映像を確認する。

 

 君は、世界になんというか、"流れ"のようなものがある、とか思ったことはないかな? 運命とか趨勢とかいうような言葉で表されているものだよ。(中略)いろいろなことがわかってきている。なにしろ"進化"という発想が生まれてからだいぶ経っているものでね。

 そう……あれは確率では説明がつかないんだ。どう考えても、ある程度何らかの指向性というか、流れがあるとしか考えられない節がある。キリンの首はいきなり長くなったとしか思えず、鯨はみるみるうちに馬鹿でかくなったとしか証明できない。たまたま適応する突然変異が、徐々に広まっていったにしては、その変化はほとんどの場合急すぎるんだよ。

 そして当然こういうことを考えた者がいる。”その流れは、今でも流れ続けているのだろうか? だとしたらその先――とまでは行かなくても、方向を知ることはできないか?"とね。

 それは神の領分だろうって? 神の領域に手を出そうとしなかった権力者など人類の歴史には一人もいないよ。

*表示部以外にも執筆者の判断で省略アリ

 

 寺月恭一郎は、「運命」のことを「流れ」と呼んでいるのが分かる

 言っていること自体はユージンの「世界のバランス」と同じだ。世界には独自の方向性があり、我々はそれに動かされている。進化のプロセスにも――つまりMPLSの出現にも――それは影響している。そして、ブギーポップや歪曲王 が自動的なのは、それに動かされているからであり、統和機構という人たちはそれを利用している不思議な謎の組織である。

 

 ユージンと寺月恭一郎の証言で、特に注意して欲しいのは、彼らは基本的に誰かに操作されている感覚について語っているという点だ。何か神様のようなものが矮小な我々の運命を操作している、という発想が、初期の上遠野浩平にはあった。

 第1期上遠野浩平にみられるこの運命観を神秘主義的な運命〉と呼ぶことにしよう。

 

 天性のセカイ系作家である上遠野浩平に、このような運命観が見られるのは、セカイとの断絶*5の向こうには我々の知らないもっと大きな意思があるはずだ、という考え方の表れだと思われる。

 セカイ系作品には割とよくある傾向なのだ。アカシックレコードだとか、ガイア仮説だとか、あるいはシンプルに"神"だとか、そういう単語と組み合わさって登場しがちなアレコレ。批評界隈では、そこには「我々の運命は瑣末ではなく、何か大きな物語があってほしい」という思春期的な欲望があったとされるが。初期の上遠野浩平もこの点では、セカイ系作家としての傾向から大きく外れてはいなかったということだ。

 

 

+〈神秘的主義な運命〉の問題点

 

 しかしこの神秘主義的な運命〉には、創作上の問題点がいくつかあった

 そして恐らく、上遠野浩平自身もそのことに気付いていた。

 問題点を3つに分けて順に確認しよう。

 

  第一に、このアイデアは、既にちょっと古いところがあった

 オカルト神秘主義が最も面白かったとされるのは、だいたい70年代から80年代とされている。それがフィクションに反映されるのは『ぼくの地球を守って』とか『アウターゾーン』とかで、だいたい80年代後半~90年代前半までが世代だ。

 つまり、ライトノベル作家としてデビューした上遠野浩平が当初メイン読者層としていた90年代後半の中高生には、あまり〈神秘主義的な運命〉は刺さらなかった*6

 しかもエンターテイメントとしてのオカルトは、その後もますます古びていった。本論が考えるところの第1期上遠野浩平の期間――デビューの96年から00年代に入るまで――は、オカルトがなんとか一定のリアリティを保っていた最後の時代だ。昔は学者による真面目な考察だったUFOや超能力の話題は、既にTV『特命リサーチ200X』や漫画『MMR』のように荒唐無稽な語り口しかとれなくなっていたし、最終的にノストラダムスの大予言が外れたのが止めとなって、オカルトはフィクションの題材として必要なリアリティをほとんど喪失した。セカイ系ブームの中においても、例えばエヴァには死海文書のようなオカルト成分が多分に含まれていたにも関わらず*7、2000年以降のセカイ系作品ではオカルト要素が希薄になっているのが確認できる。

 それ故、ゼロ年代以降の上遠野浩平は「運命」という自身の作品世界にとって重要なタームを、世界のバランス、みたいなオカルト神秘主義めいた古い語りから脱出させねばならなかったのである。

 

 第二に、思想としてシンプルに間違っている

 フィクションなのだから正誤は関係ないと言えばないのだが、リアリティがないのは問題だろう。

 そもそも、「世界のバランス」のような発想が当時のフィクションから出てきたのは、上で少し述べたように、地球を生き物と見做すガイア仮説の誤読がオカルト界隈で広まった影響が大きい(関係ない話が長くなるのは流石にアレなので詳しくは脚注*8)。なので、実は「世界や自然自身がなんらかの意図をもって全体を操作している」という設定がリアリティを持つのは、科学への無理解が前提というところがある。

 また、より明確な間違いとしては、上記の引用で寺月恭一郎が述べた「進化の流れ」みたいな話、これは今、進化論をちょっと勉強したら最初に矯正される考え方である。キリンの首が急に伸びた理由は、単純な淘汰と生存の理屈として説明可能なのであり、「何かの意思があるとしか思えない」とかいう考えは必要ない*9。こうした進化に関する知識は、ちょうど第1期上遠野浩平と同時期*10に一般へ広まりだしたので、この頃の上遠野浩平に進化に関する知識がないのは仕方ないのだが。

 それにしても、寺月恭一郎がデタラメを言っていたと判って僕がうけた衝撃に*11、共感を持ってくれる人はいるのでないだろうか。これらの件に関しては、上遠野浩平もどこかの時点で「大人は嘘をつくのではないのです……間違いをするだけなのです……」となったと思う。少なくとも、今の作品でもう一度、進化の流れ、という表現を使うことはできないはずだ。

 

 

 +〈神秘主義的な運命〉を否定していた上遠野浩平

 

 そして、次に述べる問題点が恐らく最も大きい。

 第三に、上遠野浩平自身が〈神秘主義的な運命〉の存在を信じていなかった

 『パンドラ』から、ウィスパリング・神元くんと、その理解者であるオートマティック・辻希美さんの会話を引用する。

 

「……だがどうやらこの子に僕らが関わるのは運命だったようだ」

「運命、ね……」希美はため息をついた。「らしくないわね。そういう考え方は大っ嫌いじゃなかったの。親と一緒にするなって」

「……それは」

 

 この二人は、ユージンと同じように「運命」あるいは「世界のバランス」の存在を感じながらその実在に半信半疑、というより、かなり否定的である。

 そもそも神元くんは、新興宗教を否定して勘当された息子、という設定のキャラクターである。そして「世界のバランス」がどうこういう話は、オウム真理教その他が掲げたオカルト世界観そのものだ。上遠野浩平は『VSイマジネーター』でも新興宗教的なものを敵に設定していたし、神元くんには最初から「運命」を否定するためのキャラクターという側面があった*12

 そんなキャラクターがなぜ、最初に「運命」に言及した『パンドラ』という作品で重要な地位を占めているのか。

 考えてみれば、記事の最初に引用したユージンの言葉だって、「運命なんて存在してほしくない、信じたくない」という意味を言外に含んでいる。

 

 上遠野浩平は最初の時点から〈神秘主義的な運命〉に否定的だったのである。

 

 実は、先程は敢えて言及しなかった論点もある。先のユージンと寺月恭一郎の独白の中で、上遠野浩平は「運命」を表現するために、"バランス"、"流れ"、"方向性"といった単語を選んでいるが、この表現には、意思とか意図とかいった単語を避ける意味合いがあったはずだ*13。つまり、宇宙人とか神みたいな精神を持った存在が全てを決めているのではない。SF作品の運命論にありがちな、神の支配を認識し、神と直接の対決を目指す路線は、明確に避けられていた*14上遠野浩平は、自分自身の物語世界に運命を操る神などといった、明確な敵、あるいは救いの存在を、決して許したことはないのである。

 しかし一方で、ユージンは、"集められて"、"操って"、"スイッチを入れた"と言い、寺月恭一郎に至っては明確に"神の領分"という表現を使ってしまっている。単語の選び方から離れてユージンや寺月恭一郎のセリフ全体の印象を見ても、やはり「何者かが明確な意思とか意図をもって運命の名のもと我々を操作している」という印象を受けざるを得ない。

 恐らく、上遠野浩平のなかでまだ「運命」という概念に対するスタンスが固まりきっていなかったのだ。

 上遠野浩平は、なんだかんだいってオカルト全盛時代の青春を過ごした人である。それ故、当初は古いオカルト世界観に基づいて「運命」を理解したのだろう。だが、自分でもその理解に納得しておらず、否定する方法を探していた、のではないろうか*15。 

 これは憶測であり、実際のところは定かではないけれども。

 

 ただ、実際に作品から読みとれるものは憶測ではない。

 神秘主義的な側面の強かった「運命」というタームは『パンドラ』以降姿を消した——というより、作品世界の深いところに浸水してしまったように思える。そうして、表向きは物語の中心的テーマとはならなくなった*16一方、時折思い出したように浮上して顔を見せては、思わせぶりな雰囲気をかもしだしたりしていた*17。そうしたシーンには、以下で本論が指摘していく内容がよく現れており、全体としては重要な意味を持っている。が、たいていはそれ以降に出版された別作品も読まないと何を言っているのかよく分からない、結果として思わせぶり(あるいは上遠野節)としか言いようのないシーンになっている。

 

 

+「運命」が「可能性」を上書きする~『ジンクスショップにようこそ』

 

 物語世界の深い場所に潜っていた「運命」というタームが、再び物語の中心に躍り出た作品は、『ジンクスショップにようこそ』である。

 「運命」の体現者、オキシジェンの登場だ。

 『ジンクスショップにようこそ』は、統和機構アクシズたるオキシジェンが、自分の後継者を探すために、4人のMPLSたちを争わせる話だ。『パンドラ』とは真逆で、他作品とのリンクが強すぎるせいで、単体作品として分かり難く、初読者の人気はあまりない*18。しかしシリーズ全体としては最重要作品の一つだと、誰もが薄々わかっている作品だと言える  

 そう、誰もが薄々察していた通り、この作品では、上遠野浩平の文学世界にとって、真に決定的なことが起こっている。しかも本論は、作品の中のある一つのシーンだけを、まさに決定的なことが起きた瞬間と考えている

 

 さっそく確認してみよう。ジンクスショップが詐欺扱いされたことで警察署に一旦捕まったオキシジェンが、カレイドスコープに助けられて、能力に捉えらえて身動きがとれない警察官たちの中を普通に歩いて外に出たシーンだ。

 大勢の者たちの中を、まるで無人の荒野を行くかの如く堂々たる態度で、オキシジェンたちは警察署の外に出ていった。

「さて――ジンクスショップに関わった運命どもは、どこまで残っているものかな……?」

 オキシジェンは夕暮れの空に向かってひとり呟いた。

 

 地味なシーンだが、お分かりだろうか。

 オキシジェンが、MPLSのことを「運命」と呼んでいることに注目してほしい。

 

 これは本当に決定的だ。

 これまでの連載でも確認してきた通り、ブギーポップシリーズにおいて、MPLSとはその人間が持つ「可能性」の体現である。言うなれば、MPLSイコール可能性である。つまりオキシジェンは「可能性」のことを「運命」と呼んだのだ。

  この瞬間、ブギーポップというシリーズの中心的テーマは、「可能性」から「運命」に上書きされた

 

 

+輝かしき未知の消失と、悲観主義の勝利

 

 もっと詳しく分析していこう。

 オキシジェンがMPLSを「運命」と呼ぶのはは、オキシジェンにはMPLSの可能性など先の決まり切ったものにしか見えていないからである。 彼の能力は物事の決まった行き先を察知するものであるから当然だろう。しかしこの事を、単にオキシジェンにセカイがそう見えているだけだ、と考える訳にはいかない。

 オキシジェンにそう見えているからには、事実として、可能性の未来は決まりきったものだからだ。オキシジェンの見ているセカイは独我論的解釈*19を許す類のものではないはずだ。本論の第6回連載で可能性操作能力について触れたとき、"可能性"は"確定"になってしまうと最早可能性ではいられなくなる、という指摘をしておいたが、オキシジェンは、この世の全ての"可能性"にそれを起こしている。

 

 しかも"未来が決まりきっている"という事実は、考えてみれば、上遠野浩平がこれまでに提示していた世界そのものでもある。本論第5回では、霧間誠一が「可能性は必ず失敗するのだ」と散々述べていると確認したが、必ずというのは100%ということであって、それは可能性の行先は最初から決定しているという意味ではなかったか

 確かに、第5回連載でこれを指摘したときには——つまり第1期上遠野浩平の範疇による語りでは——"未来など決まりきっている"という絶望的リアリズムへの反証として霧間誠一が「ほとんど全ての可能性が必ず失敗するとしても、ほんのわずかな可能性が未来に到達するかもしれない。それは誰にもわからない」と述べているシーンを『夜明けのブギーポップ』から引用しておいた。

 これはしかし、根本的に我々が未来について無知である、という前提があって初めて成り立つ話だ。例えるなら、「火星人が実在する可能性は火星に未探査区域が残っている限りゼロではない」というような。それは欺瞞であろう。普通に考えて、火星人は居ない。

 

 つまるところ、MPLSを「可能性」扱いすることもまた、欺瞞だったのだ。

 

 我々は、誰もがセカイと断絶しているが故に、真の意味で未来全体を知ることはできない。我々の未来への不安は永劫に払拭されない。これは絶望であって、絶望感こそがかつてセカイ系文学を成立させたはずである。だが、セカイとの断絶は、即ち、セカイに残る未知でもあっただから我々は未知を良いことに、断絶の向こうに何か素晴らしいものがあるかもしれないと、無意識に期待することができた

 強弁を承知で断言してしまえば、セカイ系文学を成立させたのは断絶への絶望感であったが、セカイ系文学のブームとヒットを支えたのは未知への期待のほうだった。

 

 しかし上遠野浩平は、セカイとの断絶を超えることのできる能力者にして、"断絶の向こう"の象徴たる統和機構の中心、オキシジェンを登場させたのだオキシジェンの登場によって、セカイとの断絶の向こう側が明確に描写されることとなった。それと同時に、上遠野浩平の文学世界から、未来への可能性、万に一つの成功、輝かしい未知は、完全に姿を消した。セカイとの断絶の向こうにあるのも、また絶望であることが暴露されてしまったのだ*20

 

 象徴的なシーンとして、『ジンクスショップにようこそ』から、夢を追っていたお嬢様が決定的に挫折するシーンを引用しておこう。

(う、うう……)

 それ以上、足が前に出なかった。

 恐怖があった。警察が怖いとか、野次馬たちが怖いとか、そういうのではなかった――彼女はそのとき、何もかもが急に、恐ろしくて仕方なくなってしまったのだ。理由も根拠も彼女にはわからない。だが、見えない鎖が彼女を縛り上げてしまったかのように、不二子はその場から一歩も動けなくなってしまったのだった。

 ”運命が切れた”

 さっきのオキシジェンの、冷ややかな言葉が脳裏に甦っていた。

 逆境なら抗うこともできるだろう。不運なら努力しだいでどうにかなるかも知れない。しかし――切れてしまった運命にはどうすればいいというのだろうか?

 

 こうして上遠野浩平が持っていた希望と絶望の相克は、ついに絶望の勝利で決着した。 

 その絶望の名を、「運命」と呼ぶ。

 

 

+〈決定論的な運命〉という認識

 

 ところで、こうして『ジンクスショップ』において再び存在感を露わにした「運命」というタームは、ユージンや寺月恭一郎がその存在を忌避した〈神秘主義的な運命〉とは、ずいぶん趣を異にしている。

 新しい運命観が姿を現しているのだ。

 それが具体的に判るシーンとして、『ジンクスショップ』から、オキシジェンに導かれたMPLSの一人、スイッチスタンス=小宮山愛が無謀にもオキシジェンを支配しようと試みた時のシーンを引用する。

 

「僕から意思を奪うだと? ……いくらでも持っていくがいい。ただし……そこに運命の本質を見て、己というものを全く鍛えていないおまえの意思が、どこまで保つかは保証しないがな……」

 彼の冷ややかな声など、小宮山の耳には届いていないようだった。彼女は、彼女の内部にあの靄と共に入り込んできた”認識”によって今や押し潰されそうになっていた。

「……そんな、そんなことって……それじゃあ、それじゃあこの世には……何の理由も存在しないって……世界は、世界はただの……ぐ、偶然が……」

 

 スイッチスタンスが自分を見たものを偶然と呼んでいることに注目してほしい。 

 これは明らかに、ユージンの「世界のバランス」や寺月恭一郎の「流れ」とは異なった認識である。〈神秘主義的な運命〉の根本には、"何らかの秩序があり、それが我々を操作している"という発想があった。だが、オキシジェンの操る「運命」は、秩序ではなく、偶然性を認識した先に現れるものだ。なんの意図も意義もない偶然が、我々の人生と運命を支配しているという理不尽。ジンクスショップで販売されていたような、「黄色信号を無視するかどうか」「金色のヘアピンを刺しているかどうか」とかいう極めてどうでもいいイベントが、我々の人生の成否を決定しているという理不尽さ。スイッチスタンスが耐えられなかったのは、恐らくこの理不尽さに対する認識であった。

 

 この認識のことを、本論では決定論的な運命〉と呼ぶことにする。

 そして、なぜそう呼ぶことにするのかを説明する前に、まず〈決定論的な運命〉が持つ2つの明確な特徴を提示しておこう。

 

  1. その人間の「運命」は、過去から未来に至るまでの、ある時点で決定する
  2. 普通の人間は「運命」の分岐点がどこなのか、知ることはできない*21

 

+〈決定論的な運命〉の特徴~『酸素は鏡に映らない』

 

 少し唐突気味に〈決定論的な運命〉という用語を提示してしまった。ここからは、用語の具体的内容が読み取れるシーンを詳しく見てみよう。せっかく*22オキシジェンの話をしているので、ここでは『酸素は鏡に映らない』を用いたい。 

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

酸素は鏡に映らない (MYSTERY LAND)

 

 『酸素は鏡に映らない』は、電撃文庫によるブギーポップシリーズではなく、講談社が「少年少女向けミステリーを著名な作家陣に依頼して出す」という趣旨で03~16年の間刊行していたミステリーランドというレーベルから出た作品だ。そのため本作品は、少年向けということを意識して、主人公が小学生男子、サブ主人公が平成ライダー俳優、子供が好きそうな宝探しが本筋……みたいなジュブナイル設定がふんだんに盛り込まれている。がしかし、こればっかりは上遠野浩平の悪癖ではないだろうか。恐らく筆が暴走した結果、完成した作品はどう見ても「統和機構アクシズのオキシジェンが死ぬ話」である。子供向けとしては難解かつ暗すぎる上、既存シリーズを知らない大人のミステリファンからすら、なんか裏に設定があるっぽかったのに全く説明不足で終わった、とか感想を書かれている*23(困ったものだ)。

 とはいえ、そういう作品であるからこそ、『酸素は鏡に映らない』は、オキシジェンと彼が体現する「運命」の特徴を検討するのに最適といえよう。

 

 この作品のプロローグを引用する。オキシジェンの登場シーンなので、必然的に「運命」の存在を暗示する内容になっている。

 シーンは、健輔という少年が、珍しいクワガタを追いかけて公園に入ってきたところからはじまる。公園にはオキシジェンがブランコに座っていて、ちょうどオキシジェンの膝の上にクワガタが止まる。そしてオキシジェンが唐突に口を開く。

 その影の薄い男は、健輔のことをいやにまっすぐな瞳で見つめている。やがて彼はその個性のない形の唇をひらいた。

「……ふたつにひとつ、だ」

「え?」

「欲しいものを諦めるか、それとも死ぬか……どっちがいい……?」

「え、えと……」

 戸惑った健輔は、その場で少し立ちすくんでしまった――そして、それが彼の命を助けることになった。次の瞬間、公園に面した道路のほうからいきなり、一台のオートバイが茂みを突き破って飛び出してきたからだ。ぶおん――という風を切る音が、健輔の目の前を通り過ぎていって、それはもし彼がクワガタを取ろうとして足を進めていたら、確実にぶつかっていた場所――そのものだった。

 健輔が呆然としていると、後ろからあのぼそぼそ声が聞こえてきた。

「――生命の方を、選択したわけだな……。」

 はっとなって振り向くと、男の膝からこの騒ぎに驚いたクワガタが、ぶうん、と空に向かって飛んでいってしまった。

*一部引用者による中略アリ

 

 上で述べておいた、2つのテーゼがかなり直截に表現されているのがお分かりだろうか。

  

 まず、主人公の健輔少年の「運命」は、最初の時点で決定していなかった

 健輔少年の運命の行く末が決定したのは、彼がクワガタを追いかけるかどうかを決めた時である。つまり「運命」は一本道ではなく、それぞれの人生にはちゃんと選択肢がある。これが先に示した1つめのテーゼで本論が言わんとしてたことだ。『パンドラ』でユージンが危惧していたような、最初から決まっていたからそうなるしかない、みたいな話ではないのだ。この点が〈神秘主義的な運命〉と明確に異なる。

 

 しかし、健輔少年は「運命」が決定した瞬間を認識できなかった。

 というか、誰が自分の命とクワガタが天秤にかかっているなんて思うだろう? 予知能力者でもなければ、そこに運命の選択があることなど予想できるはずもない。そして、予想できないのだから、運命の選択は常に軽率にならざるを得ない。これこそ本論が提示した2つめのテーゼである。少年は極めて軽率かつ、無自覚に、自分が死ぬか生きるかという真に重要な選択をした。もしもオキシジェンに声をかけられなければ、そこに"クワガタか死か"という運命の分岐点があることすら認識しなかった。

 これによって、新しい運命観は結果的に〈神秘主義的な運命〉と同じ効果をもたらす。自分自身で運命を決定できないことと、前もって運命が決定されていることで、当の本人にとって何の違いがあろうか。

 上遠野浩平は、おそらく意図的に、キャラクターたちの重要な分岐点を、物語の極めてどうでもいい時点に配置する*24。キャラクターの「運命」は、一見なにも関係のないような軽率な決断によって――よくあるパターンとしては、自分の能力ならどうせ勝てる敵だからついでに潰しておこう、とかいう決断によって――左右される。そしてそのキャラクターは、自身がその時重要な決断を下していたことに手遅れになってから気付き、たいていはそのまま死ぬ。

 

 

+〈決定論的な運命〉は常に手遅れ

 

 更に重要なのは、健輔少年の運命の分岐点は「バイクが飛んでくる」という危機を認識した瞬間ではなかったということである。危機を認識した瞬間、あるいは敵との戦っている最中、それらは「運命」の視点から言えば既に手遅れなのだ。

 

 本論が、決定論的な運命〉という用語を提案するのはそれを表すためだ。

 例えば、ボールを遠投する時のことを考える。ボールはどこに落ちるか? それはボールを投げた瞬間の力、風の強さ、ボールの重さや大きさ、地球の重力といった要素によって決定する。つまり、ボールの向かう先はボールが落下する前に既に決定しており、このことを、"ボールの落下地点は決定論的である"とか、"落下地点を決定論的に求めることが出来る"とか言う。

 つまり、「運命」の結果も、ボールの落下地点同様、実際にそれが起きる瞬間よりもずっと前に決定している、という話だ。それは単純な因果関係の作用によるものであり、〈神秘主義的な運命〉が想定していたような、秩序だった方向性や何者かの意図した操作ではない*25。むしろ、この「運命」には基本的に誰も介入できない。この世の全ての人間は、何が”ボールを投げる”行為に相当するのかすら、知ることができないからだ。

 一言で言えば、決定論的な運命〉のもとでは、あらゆる対処は常に手遅れになる

 わたしたちが○○を上手く操作して成功させたい、と考えたり、あるいは、××が起こりそうだ念のため逃げておこう、と考えたりすることはほとんどの場合無駄である。個人が意思決定を行う頃には、大抵の「運命」は既に決定しており、我々が何を悩もうと結末を左右することはできない。

 

 この認識は、よく小説の場面転換に利用されている。

 例えば以下は、『ビートのディシプリンside1』における、ピートビートが学校の教室で欠伸をして、それを見て浅倉朝子がニコニコするという、極めて平和なシーンの直後の描写である。

 一見すると、やや風変わりな乱入者はいても、いつもと大して変わらない学校の風景ではあった。

 ――だが既に、”モーニング・グローリー”を巡る、この錯綜する事態は大きく動き始めており、取り返しの付かぬ運命のうねりが学園を覆いはじめていることを、この学校に居る者はまだ、誰一人知らない。

 

  もう一つ、場面転換の例を示しておく。『ヴァルプルギスの後悔 Fire1.』で、霧間凪と羽原健太郎が、浅倉朝子の知り合いだという理由でラウンダバウトを助けた直後のシーン。

  凪には――この傷ついているとはいえ、怪しいことこの上ない男装の少女を”助けない”という発想がそもそも浮かばないようだった。それが霧間凪という人間である。だがその性格故に、今――彼女は後戻りのできない決定的な一歩を踏み出してしまっていたことを、健太郎も凪自身も知るよしはなかった。

 

 いずれも、はっきり言って陳腐な場面転換の描写である。

 なにしろ「主人公たちはこのストーリーの先に待ち受ける運命を知るよしもなかったのである……」だ。陳腐でないわけがない。しかしある時期以降の上遠野浩平は、この陳腐な場面転換をむしろ多用する。

 キャラクターの将来に事件が起こることは既に決定しており、しかも彼らは自分たちの運命を知らない、ということが、上遠野浩平の物語世界にとって極めて重要だからだ。上遠野浩平のキャラクターたちは、だいたいいつも、既に手遅れになった事態の中で右往左往している。

 

 

+〈決定論的な運命〉と、第2期上遠野浩平の始まり

 

 以上、初期の上遠野浩平においてみられた〈神秘的な運命〉がある時点で後退し、オキシジェンの登場とともに、〈決定論的な運命〉が上遠野浩平の作品世界に現れたことを論じた。記事の最初に、上遠野浩平の作品全体のテーマが「可能性」から「運命」に移行したと書いたが、正確に言えば、作品の中心的テーマとなったのはこの〈決定論的な運命〉である。

 この決定論的な運命〉の登場をもって、第2期上遠野浩平が始まっているのだと本論は主張したい。

 

 本記事では話の流れの都合で『ジンクスショップ』をターニングポイントとして紹介したが、第2期の最初がどのポイントだったかを明確に確定することは控える。継続的に年に何作も作品を出し続ける必要があるラノベ作家のことであるから、その変化はシームレスで、明確な変更点を決定すること自体が恐らく適切ではないし、『ジンクスショップ』は変化のピークではあっても開始地点では恐らくない。…… 強いて言えば、『ペパーミントの魔術師』の時点ではまだ変化は起こっていなくて、あのあたりまでが明確な第1期でいいのではないか? その次に出版された『エンブリオ浸食/炎生』ではまだ可能性がテーマの中心であるものの、タイトロープによって可能性操作という概念が姿を見せた。更にその後の、『ハートレスレッド』や『ホーリィ&ゴースト』では〈世界の敵〉とMPLS能力は単なる物語の背景と化しているし、徐々に決定済のものとしての「運命」が片鱗を見せ始めている。また、ゼロ年代前半の連載だった『ビートのディシプリン』や、新規作品の『事件シリーズ』『虚空シリーズ』も、明らかにテーマの軸足が「運命」寄りである。

 恐らくだが、上遠野浩平にとってもこの展開は手探りなところがあったはずだ。第2期上遠野浩平では、初期の上遠野浩平にあったような、出す作品が毎回名作! というシンプルな破壊力は後退し、これは面白いのだろうか? と一旦は首を傾げるような、でも上遠野節としか言いようがなくて好きだ、そんな作品が増えていく*26

 そういう作品も、〈決定論的な運命〉という軸足を意識することで、明確に作者の意図をくみ取り、より楽しむことができるようになるのではないかと思う。

 

 今回の記事は、概念の紹介に終始してしまい、あまりそういう面白い解釈論について踏み込めなかった。次回は〈決定的な運命〉という認識から生まれた上遠野浩平の新たな世界観について語ろう。

 先に予告してしまうと、それは戦士たちの世界である。

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:なお、最初は「中期上遠野浩平」と書いていたが、そうすると「後期」が発生してしまうので、表現を変えました。まだ現在進行形の作家ですからね。

*2:僕自身そういう風に感じつつ作品を買っていた頃があった。

*3:『パンドラ』は言ってしまえば「超能力者がセカイを救う」話であって、例えば『笑わない』の「実はセカイを救っていたのは紙木城直子=ただの優しい娘でした」と比べると普通の展開ではある。

*4:なお、『歪曲王』は逆にファン歴が伸びるほど読み返す回数が増えた。

*5:"セカイとの断絶"については連載の第4回で詳しく述べた。

*6:本当にに世代一般に刺さらなかったかどうかは、当時中高生だった筆者の主観がかなり入っているが……まあ的外れではないと思う。

*7:オカルト要素は『エヴァンゲリオンの謎』等で大いに消費された。エヴァ謎本の類が流行ったのは昔オカルトが好きだった層がアニメにお金を出す世代を占めていたからという部分が大きかったのではないか。

*8:関係ない話なので脚注にて詳しく述べる。ガイア仮設とは、元は「地球を一個の生き物であると考えれば恒常性や新陳代謝の概念を自然環境全体に適応できる」ということを述べた学説だった。しかしオカルト的な誤った理解により、地球は生き物である→生き物だから意思がある→地球には意思や記憶や感情がある、という変遷を遂げてしまった。この誤読に基づく有名な作品としては『おもいでエマノン』『星虫』『ファイナルファンタジー7』などを上げることができ、いまでもこれらの名作群が、ガイアの意思、みたいな誤読的理解を再生産し続けている。本来のガイア仮説の考え方は、今では「生態圏(バイオスフィア)」と呼ばれている。誤読抜きのガイア仮説は別にトンデモではなく、生物多様性とか環境保護のバランスとか、そういう問題を考える最初の一歩となった、有効な比喩だったと評価されている。

*9:これについて脚注で説明するのは僕の手には余る。興味のある方は「進化は漸進的ではない」などのワードでgoogle先生に訊いてみていただきたい。

*10:進化論の伝道師スティーブン・ジェイ・グールド『パンダの親指』がベストセラーになったのは、『笑わない』と同じ96年。その後、グールド最大ヒットの『ワンダフル・ライフ』は2000年の出版だった。グールドのヒットにより、アノマロカリスが有名なったり、この本を基にしたNHKスペシャルが便乗ヒットを飛ばしたりした。

*11:2001年ごろで、僕は大学生だった。

*12:否定していたものに追い付かれてしまう、というのがストーリー上の役回りではあるが。

*13:虚空牙とか魔女とかいった存在は、セカイの断絶の向こうにあるなにか大きなモノを利用はしているかもしれないが、大きなモノ自体ではないのだ。これについては『ヴァルプルギスの後悔』についての考察で述べたい。

*14:今となっては上遠野サーガにおける神の非実在は当然にも思えるが。しかし、初期ブギーポップの時点では、エコーズが何かしらの情報を送った先が「神」である……と誰もが想像していたのではないだろうか? そんな中、上遠野浩平はその方向性を明確に否定したという、これはこの人の天才エピソードの一つに数えて良いと思う。

*15:上遠野浩平が「運命」を発見しつつ否定の方法を探していたという点は、これまでの論で述べてきたような、上遠野浩平作品における希望と絶望の相克の一部とも読むことができるであろう。

*16:とはいえ〈神秘主義的な運命〉は完全に消え去ったわけではなく、例えば、短編『ギニョールアイの城』は〈神秘主義的な運命〉に操られ続けた少年の人生を描いた作品である。

*17:「運命」が作品のテーマとは全然関係ないタイミングでふいに顔を出す一例として、『ハートレスレッド』には、ブギーポップに運命論を持ち出された霧間凪が「運命なんて考えは甘えだ」と運命の実在を否定し、しかしブギーポップには「君はとても強い。だからこそ運命に縛られている」と反論される一幕がある。

*18:それでも老執事とお嬢様のストーリーは本当に感動モノで、過小評価されてるところがあると僕は思う。同じような自己犠牲的な愛のストーリーは『騎士は恋情の血を流す』で再度描かれていて、上遠野浩平の真骨頂の一つだ。

*19:独我論とは、「自分以外の他者に精神や思考があるかは原理的に確認できない」という理屈を用いて、自分の認識していないモノはセカイにおいて確実ではないと看做す、哲学的解釈の一つである。この解釈を採用すると「確かに月に人類が着陸したというニュースは聞いたが、俺は月に行ってないので、月にはウサギがやはりいるのではないか」みたいな不毛な事が起こる。

*20:全くの想像なので脚注にしまい込んでおくが、これは上遠野浩平の狙い通りというより、単にシリーズを継続する上で避けては通れない道だったのではないかと思う。デビュー作から数作の範囲にあるうちは統和機構が謎に包まれていてもよかっただろう。しかし上遠野浩平という作家は、謎の組織の実態を永遠にはぐらかすほど不誠実な書き手ではないし、はぐらかし続けることが可能なほどの器用さを持ち合わせてもいない。

*21:なお、二つの特徴が導く論理的な帰結により、3.「運命」は理不尽である。という特徴も現れることとなる。第2期以降の上遠野浩平作品では、しばしば中心的テーマはこの3番目のテーゼになるが、その前提にはやはり1番と2番のテーゼがある。

*22:決定論的な運命〉に関する話は、2期上遠野浩平の中核であることもあって、実はどの作品を紹介してもその特徴をくみ取ることはできる。また連載第6回のように、個別な作品について語る回を設けるかもしれない。

*23:オチで急に末間和子(大学生)とカレイドスコープとか出てきて、彼らが誰なのかはブギーポップを読んでないと判らないんだから、残当と言わざるを得ない。

*24:たぶん、見るからに重要な瞬間が運命の分岐点であることもない訳ではないのだろうが。

*25:オキシジェンのような可能性操作能力者、あるいはその究極である魔女たちは、因果関係の全容を感知することで運命を操作するが、因果関係という仕組み自体を改編するわけではない。この点はかなり重要であり、恐らく今後の考察で改めて触れることになるだろう。

*26:このゼロ年代上遠野浩平から離れた読者がかなりの数いるのは正直しかたないと信者の僕としても思う。けれども、10年代になると上遠野浩平は何か吹っ切れたところがあったのか、今はまた名作を連発している。ぜひまた読んで欲しい。

岡山県真備町・小田川の決壊における背景

 今回は、このほど岡山県倉敷市真備町で起きた洪水について書きます。

 被災者の皆様におかれましては、お悔みとお見舞いを申し上げます。

 

 しかしそれにしてもなんてタイミングで起きた災害だったか。

 今回決壊したのは、倉敷市真備町の南を流れる小田川という川です。ここはずっと前からヤバイヤバイと言われていた場所で、言ってしまえば、水害が懸念されていた場所で水害が起きたという、当たり前の事故でした。しかもこれは、人災といえば人災だが、誰が悪いとも言いにくい。何しろ、まさに今年から対策工事を始めようとしていたところに本当の災害が起きてしまうという。なんとも無念さの残るとしかいいようがない事態でした。

 既に県からの発表を受けて、そういった報道も始まっています。

www.sanyonews.jpmainichi.jp 

 でも字幅の問題がありますので、新聞記事を読んだだけではわかりにくいと思った。

 なので今回の記事では、こういった報道が言っていることの背景情報として、真備町という場所がなぜ危ないとされていたのか、どんな対策工事がされようとしていたのかについて、個人的にブログにまとめておきたいと思います。

 

 

+現地の地形~小田川と柳井原貯水池

 まずは被害をうけた真備町と決壊した小田川の地形について。

 

f:id:gentleyellow:20180710092033p:plain

 

 真備町は、小田川という川が、岡山県におけるメイン河川の一つである高梁川に、ちょうど合流する箇所にあります。

 実はこの河川合流点は、人工的に作られています。もともとの川は、今は柳井原貯水池になっている場所を流れていました(地図からも貯水池がなんとなく川っぽい形をしているのがわかります)。

 明治期に高梁川の堤防を作ったとき、堤防を作るついでに川の合流箇所をショートカットして、余った河道をしめきって農業用水確保のための貯水池にしました。

 

 参考リンク: https://www.jcca.or.jp/kaishi/253/253_doboku.pdf

 

 しかしこのせいで小田川はとても溢れやすい川になってしまった。

 

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 こういう風に川が流れにくくなることを「バックウォータ―現象」というそうです。

 戦後期から真備周辺はたびたび内水被害を受けており、その原因が小田川高梁川合流点にあるのは明らかでした。

 

 

+柳井原堰の計画と脱ダム

 

 問題があるのは明らかでしたので、国は対策事業を立てた。

 それは、高梁川総合開発事業といい、柳井原堰の整備を軸とするものでした。

 高梁川総合開発事業は、岡山県の西側に位置する高梁川と河口から約13.4㎞付近で合流する支川の小田川との合流点を現況より約4.6㎞下流に付け替えることにより、小田川の高水位を低下させて洪水及び内水被害の軽減を図ると共に、高梁川本川狭窄部の治水安全度の向上を図る。また、新たな合流点付近に流水の正常な機能の維持、水道用水の供給を目的とする柳井原堰を建設するものである。

  これはネットで見つけた当時の資料の引用です*1

 図にするとこう。

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 しかしこの事業にはなかなか着手できなかった。

 どうもダム建築に地元の反対があったらしいですね*2。そして、反対に対応する形で、計画の見直しを繰り返しているうちに、社会情勢の方が変わってしまった。

 2001年の長野県・田中知事による脱ダム宣言を受けて、全国でダム事業の見直しが行われました。岡山県でも2002年、柳井原堰の事業計画は国に「今後は治水のみによる事業を」と中止の申し入れがされました*3

 長野の脱ダムはかなり紛糾しましたが、岡山県のこの見直しのほうは、比較的妥当なものだったようです。もともと柳井原貯水池は農業用貯水池として作られた割に農業用水としての利用がほとんどされていなかった。ダムによる水利事業は必ずしも必要ではなかった訳だ。しかもこの地域は倉敷市中心部からもまあまあ近く、都市開発が進み田んぼがずいぶん減っていました。

 とはいえ、小田川の危険個所の是正はこれでずいぶん後回しになった。

 

 

+いよいよ事業をスタートしたところだった

 

 その後状況が動いたのは、2010年のこと。

 ダムは建設せずに小田川の付け替えだけを行う、小田川付け替え事業がスタートした。今度こそ地元の理解も問題なく、半世紀ごしの懸案が解決に向かっていくことになった。

 事業は工事期間10年、総事業費280億円と、県内有数のビックプロジェクト。

 有識者と専門家の委員会やら、業者による各種設計業務やらを繰り返し、ようやく工事に着手する予定だったのが今年。今年は本格的工事の前段階として、工事用道路や仮堤防の整備をすすめる計画となっていて、それらの工事の施工業者も既に決まっていて、施工は秋からの予定。まさにさあこれからといったタイミング。

 そこに今回の大雨が起きてしまった。 

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 今回の雨では、とても大きな河川の高梁川からして溢れてしまっています。この地図で言ったら右下にあるイオンモール倉敷では平面駐車場が浸かったという噂も災害当時聞いたし。ここから更に上流の総社市高梁市でも大雨被害は大きく、特に総社では高梁川沿いにあったアルミ工場で爆発事故*4が起きたりしました。

 そんな状況なものだから、高梁川よりも性能の悪い小田川はもう全然ダメだった。水が堤防を越えて流れ出し、堤防の土をその水が削り出し、ついに堤防が決壊したそうです。今も復旧作業や被害状況の確認が行われているらしい。より詳しい状況はその報道を待たねばなりませんが。

 

 なんで僕がこの記事を書いているかというと、大雨報道で被害区域に真備町の名前を聞いたとき。県内の小田川周りの事情を知ってた人はみんなそうだと思いますが、「ああ~~起きてしまったか~~~」という気持ちがね。防げたはずだったというか、防ぎに行くところだった災害が防げなかったことが、非常に残念という。やるせない気持ちがありますよね。

 

 

+強いて教訓を考えるとするならば

 

 僕は別に専門家ではありませんし、被害を直接受けた訳でもありません。単に小田川の工事予定についてたまたま地元の資料を読んで知ってたというだけです。

 だからあんまりあれこれ言うのは良くないのかもしれないが、それでもやっぱり思うところはある。

 

 第1には、やっぱり脱ダム宣言とか、コンクリートから人へとか、公共事業は悪みたいな風潮は間違っていたということ

 当時の判断としては、そういう潮流が生まれるのは致し方ないところがあったのは確かです。公共事業のムダはだめ、みたいな話に危機感を覚えていた人なんかいるんですか。少なくとも僕は違う。たぶん柳井原堰には実際問題があったんだろう。

 けれど、やっぱりそれぞれの地域にはそれぞれの事情があって、公共事業はそういう事情に即して立案されたものです。やったほうがいい工事は高額な税金がかかってもやったほうがよくて、素人が税金のムダだけを見て反対運動に突入する前に、少なくとも「前に専門家がこれが要ると判断したことがある」ことは重視するべきだった。

 

 第2には、そういう間違った風潮はちゃんと是正されているということです

 今回は間に合わなかったけれど、小田川付け替え事業はまさに実行されようとしていた訳です。実行されていれば今回のような被害は起こらなかっただろうし。当然、今後も事業は進むのだから、今回のような被害は二度と真備町に起こらない……少なくともリスクは大幅に減るはずです。

 そういう計画が、実際に災害が起きてからの後手後手ではなく、実行されようとしていた。これはやっぱり希望なんだろうと思います。

 

 だからまあ、きっと大丈夫だ、というね。

 政治家が飲み会してたから怒るだとか、迷惑なボランティアが千羽鶴を送ってくるから怒るだとか、自民で良かったとか民主が良かったとか、災害後を心配すればするほどそういうマイナス面の発言をしちゃうけども、思ったよりポジティブなことはあるんだという。それを知ろうとしたり報道したりSNSで共有したりしてもいいんじゃないかと。ぼんやり被災地近くの外野から考える訳でした。

 

 あと、もし反省が必要としたら、とりあえず自分の自治体のハザードマップぐらい再確認したほうがいいでしょうね。真備町に住んでた人たちには、小田川のことを知らない人多かったのかなと思うんですよ。

 

 

 

 

 

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 ここから追記

 本記事はまあまあの好評をいただきました。早い時期に書けたのがよかったのだろう。お読みいただきありがとうございます。

 早い時期に書いただけあって、結構内容に怪しいところもある記事ですが、いくつか参考になるコメントもいただきました。コメント返しをしておきますね。

 

>状況が動いたのは、平成19年(2007年)です。
>そしてその途中で、平成22年(2010年)の民主党事業仕分けで妨害されてます。
>そして小田川付け替え事業が復活したのが平成29年(2017年)です。

 

 確認してみました。

・基本計画の検討を始めたのが2007年

・計画を高梁川整備計画に明記したのが2010年

・事業着手が2014年(設計等の開始)

・設計等が完了して工事予定が確立したのが2017年

 のようです。

 この手のデカい公共事業はたいてい、基本計画を作る>基本設計をする>実施設計・環境アセスをする>工事に入る、という順番で進むのですが、どうもネットや報道では情報源によって、どこを「小田川付け替え事業の復活」と見るかが異なるようですね。

 あと、民主党事業仕分けの影響が小田川にあったかどうかを断言するのは、できれば控えたほうがいいと個人的に考えています。別に仕分けの中で小田川の名前が出た訳じゃないし、2010年の高梁川整備計画に計画が明記されており、削除されたという事実はないからです。

 もっとも、河川関係の防災予算の削減があったのは事実で、そのことが実施時期にどう影響を与えたかは、確かなことが言いにくい部分です。それに、いずれにしても事業仕分け自体が良くなかったのは記事の中でも述べた通り。コストの額しか見てないところがあった。

 

 

>これはしかし、元々の川の流れを変えて人工的に無理な合流地点を作ってしまっていた明治時代の人々の責任でもあると思うけど?
>そのせいで小田川が溢れ易くなっていたとの事だし、行政がのんびりしすぎてますね。

 

 明治時代にはまだ水防の知識が発達しきってなかったのでしょうね。それに、真備町で災害が起きだしたのは1970年代ぐらいからのようです。つまり明治時代には溢れてなかったということ。恐らく、高梁川堤防が完成に近づくにつれ、高梁川が溢れにくくなった反面水位が上がりやすくなり、バックウォーター現象が起こるようになったのでしょうか。

 国がのんびりしていた、という批判は僕はどうかと思います。というのも、柳井原堰が出来なかったのは地元の反対を無視しなかなかったからだし、2002年で事業中止になった後2007年に再検討を始めるというのは、僕の感覚からいうと十分早い範囲だからです。もっと早くはできただろうけど、既に改善してたり取り掛かったりしているものの責任取りをしてもしょうがないよ。

 あと、その間にも堤防の更新は別の場所で進んでいる、というのもありますしね。県内では岡山市中心部を通る旭川百間川では、今回の雨による浸水被害はほぼありませんでした。小田川高梁川の他、溢れそうになっていたのは、笹ケ瀬川・砂川などで、これらもまた、今まさに堤防の工事をしている河川です。

*1:

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00549/1999/51-0665.pdf

*2:当時の反対運動のことはもっと資料を掘り下げないとわからない。誰か詳しい人がこの記事を読むことがあるのだろうか。

*3:岡山県内で他のダムも見直しの対象になっているが、ここではそれは省略。

*4:こっちはこっちで大変な被害です。総社の件もまた、高梁川下流がちゃんと流れれば防げたかもしれない。

真の「民主主義の死」は公文書偽造で起きているのではない

 今回は民主主義について書きます。

 というのも、このほどのモリカケほか公文書偽造の件でもって、「民主主義の死である」などという意見が散見されるからです。その意見は正しい。公文書の偽造がまかり通るようになると、民主主義は立ち行かなくなる。

 しかし、僕が気になったのは「君たちは偽造が発覚するまで、民主主義がまともに生きているとでも思っていたのか?」ということです。公文書偽造によって理想の民主主義は確かに立ち行かなくなりますが、理想を実現するためには他にもいくつかの条件があり、それは今の日本で明らかに満たされていません。民主主義は最初から生きてなどいない。下手をすると、立ち行くことなど原則ありえない制度が民主主義であるかもしれない。

 もしも我々が、赤い布を見た牛の如く単にズルい奴に怒ってるのでなく、あるいは憲法改正に反対という理由で敵の弱点を見つけて喜んでいるのでもなく、本気の本気で民主主義を生き返したいと望んでいるのならば、安部政権以外のにも同じ怒りを向けねばいけません。

 具体的には、教育と、マスコミと、自分自身に怒りの矛先を向けねばならない。

 そして逆に、敵には怒りを向けることなく意見を聞かねばならない

 なにより、野党に方針の変更を求めないといけない

 

 本記事では僕なりに、理想的な民主主義とはどのような状態になるのか? ということと、それを阻害している今の日本の問題点とは? を書きます。それによって、本当は何に怒らねばならないかをハッキリさせます。

 

 

 +理想の民主主義とはどういう状態か

 

国会中に遊んでいる人たちのイラスト

 まず、民主主義とは何か、について。このような記事を読もうと思った人に言うのは恐らく釈迦に説法でしょうが、記事の流れとして。

 

 民主主義(デモクラシー)とは、民衆が主権者である政治体制のことです。

 

 これは何も複雑なところの一切ない、非常にシンプルな考えです。

 つまり普通の国ならば主権者は王様です。王様と同じ役割を国民がする国が民主主義国家です。自由だとか権利と義務だとか、そういう意味は一切含みません。王様に逆らってはいけないように、ただ国民*1に逆らうな。それだけの話です。

 実務としては、歴史上はじめて民主主義を実践した都市国家アテネやそれを参考したローマのように、投票と議会を運営します。

 しかし、それはどうやって上手く運営するのか?

 この時点で話が複雑になりだす。アテネの民主主義は衆愚政治収賄と独裁の繰り返しだったのは高校レベルの世界史で学んだ通り。そうならない為にはどうすべきか?

 理論的には、どういう状態になればいいのかは、ハッキリしています*2

 

  1. 人国10万人の国で、A、Bさんが大統領に立候補する。
  2. 十分に賢い国民が情報を精査し、どちらがふさわしいか判断する。
  3. もしAが7割の正しさ、Bが3割の正しさを持っているとしたら、国民は十分に賢いのでそれを見抜き、A´グループが7万人、B´グループが3万人に分かれる。
  4. A大統領が就任し、全ての国民がそれを認める。
  5. A大統領はA´グループだけでなく、B´グループに配慮した政策を実施する。なぜならB´グループの3万人が反乱を起こすと国が転覆するので。
  6. 同じプロセスが定期的に行われる。

 

 本記事ではきっかけが公文書の話なので、まず2を話題の中心に据えることになります。

 

 

+偽装のない公文書がなぜ理想の民主主義に必須か

 

 かわいい王様のイラスト大臣のイラスト

 上で述べた理想の民主主義プロセスを正しく回すには、偽装の無い公文書が必須です。だからみんな公文書偽装に怒っています*3

 

 民主主義とは、先に見たとおり、王様と同じことを国民がするということです。

 じゃあ王様とは何をするものなのか

 

 ここではイメージ優先にまとめましょう。

 王様が玉座に座ってると、部下から報告が挙がってきます。「○○という地方で干ばつが起きております」「○○に敵が攻めてきました」「○○のためには税金を集めねばなりません」などなど。それを基に、王様は、支援物資を送れ、敵を迎撃せよ、徴税権を地元有力者に与えて仕事をさせよ、とか政策を決定します。*4

 このとき重要なのは、王様は基本的に○○を自らいちいち見に行ったりしない、ということです。

 あくまでも部下の報告を基に判断する

 

 では、もしその報告がウソ情報だったら? 王様はウソ情報をもとに判断して、間違えるでしょう。

 王様が部下に騙された事例は歴史上いくらでもあります。奸臣がウソの反乱計画を王に教え、忠臣が切腹を命じられて、最終的に国が亡びるだとか。そんなことはかなり頻繁に起きています。

 だから公文書偽装はイコール亡国の危機なのです。

 王様が間違えたら 国がほろびる。

 だから間違えの原因になる要素はあってはならない。当然のことです。

 

 ……しかし、公文書に偽装さえなければ王様は間違えないでいられるのか?

 僕がひっかかってるのはそこだ。

 

 

+公文書以外に必要なもの

 

 グループディスカッションのイラスト

 民主主義は、結局のところ国民が王様の役をする制度です。

 ですので、理想的な民主主義とは「国民が政治判断を間違えない状態」を意味します。政治の理想とは政治が上手くいくことです。国民が間違えてもいいんだったら、それは公文書に偽造があってもいいということだ。

 

 それを踏まえて、上で確認したプロセスをもう一度確認しましょう。

 

 たとえば2番目の項目には、「十分に賢い国民が」政治を判断するのだと書いておきました。王様が無教養だと政治は間違える。これもまた当然のこと。さて我々日本人は、というか「あなた」は政治を十分に賢く判断しているのか? もっと言えば、そもそも判断をしているか? インフルエンサーが拡散した自分に都合のいいツイートをRTしてるだけではないか? 考えることを放棄して、国民がそもそも政治的判断をしないことも、当然ここでは問題になります。

  あと、3項目には、10万人の国民が7万と3万にピッタリわかれるとも書いておきました。今の日本の投票率はだいたいどんな選挙でも3割~4割ぐらいですから、国民はせいぜいAグループ3万人とBグループ1万人に分かれ、のこり6万人は態度不明のNグループです。6割がた態度不明の王様とか、結構な害悪ではないでしょうか。しかも、ちゃんと投票した4割の人たちは"政治的に熱心な人"が主で、それは悪く言えば、中立的で冷静な人が少ないということ。投票した人の意見だけを反映した政治は、中立性を失っているかもしれない*5。それは民主主義的に問題があるんじゃないのか*6

 5項目めには、代表者は反対派の国民の声も聴くことも必要だと書いておきました。上の例えでは代表者は大統領ですから、反対派とは少数派とイコールですが、選挙区制をとる日本の場合はそうではない。議員は、自分自身を支持者たちだけの代表者としてではなく、他候補を支持した地域の人たちの代表でもあると考えねばならない。テレビでよくみるあの議員さんは、自分に投票しなかった人の意見を聞いて、自分の意見に取り入れたりしているか?

 

 こういう理想の民主主義の話なんか、この記事をクリックした政治的に熱心なブロガーさんたちは、言われるまでもなく知っているでしょう。

 でも、僕がこの記事で言いたいのは、「ほならね、公文書偽造を怒るのと同じ勢いでね、国民の不勉強に怒ったり、無投票に怒ったり、したんですか」みたいな話なんです。

 もっと言えば「ほならね、公文書偽造した人らの言い分をそもそも聞こうとしてない政治家たちが*7、普段は、自分とは反対の意見に耳を傾けたりしてるというんですか」とかね。

 

 この憤りに何の意味も効果もないことは分かってる。

 確かに不正に怒ってるときは怒りにまかせて行動したほうが運動は盛り上がるかもしれない。

 でも筋が通ってないモンは、やっぱり筋が通ってないんだよ。

 

 

+特に必要な「ジャーナリズム」に基づく報道

 

 嫌な面接官のイラスト(就職活動)

 なかでも特に大きな問題がいくつかあります。

 そのうちの一つとして、理想の民主主義が実行されていない状況でとりわけ批判の対象にされるべきなのが、マスコミでしょう。

 

 皆様は「ジャーナリズム」という概念について正確なところを、ご存知でしょうか。

 ジャーナリズムというのは、18世紀に新聞(ジャーナル)ってものが出てきた時に、政治報道を主に行っていたその新聞を運営する上で持つべき倫理感という意味で語られ出した概念です。

 なぜ倫理観が問題になったのか? それは、インターネットも無かった当時、民衆にとって新聞だけが政治的判断を下す材料だったからです。民主主義下に置いて民衆が王様ってことは、王様は新聞だけを見て政治的決定を下しているということ。冷静に考えて、こんな怖い話があるか? だからまあ、せめて新聞を作る人にはかなり慎重な良識を持ってもらわねばならない、という。ジャーナリズムというのはそういう話。つまり、ジャーナリズムの良しあしっていうのは「民主主義の役にたっているか」だと言っていい*8。よく言われる客観報道とか真実を伝えるとかいう話は、そうしたほうが民主主義に役立つから言い出したことです。

 

 そうした理解を前提にすると、果たして今の報道ってのは、「民主主義の役に立って」いるのか? 

 これは本当に問題だと思ってるんですが、今の政治報道には、そもそも「民主主義の役に立とう」という意識自体が希薄です。

 

 もちろん、 芸能人のワイドショーや煽情的なだけの犯罪報道やりながら、ジャーナリズムがどうとか知る権利がどうとか、ちゃんちゃらおかしいわ……みたいな話は当然としてですよ。

 例えば「この報道で社会正義を成したい」だとか「国民を正しい方向に導きたい」だとか「悪の政治家を懲らしめたい」だとか。報道の人たちはそうやって考えている人が多いんじゃあないでしょうか?

 そんな心持ちで報道が成されてるっていうのは、国民=王様というこれまで繰り返してきた民主主義の比喩から言えば、王様の耳もとで「あいつ気に入らないから左遷しましょう」と囁き続けてくる部下が居る、という状態です。それがいい状態のわけがない。

 社会正義が何か決めたり、誰を裁くかを決めたり、ましてやどっちの方向が正しいか決めたりするのは、王様=国民で、マスコミではない。それが民主主義であり、ジャーナリズムというもの。

 

 これについて僕は、公文書偽造に怒ってる人らと同じぐらい怒ってるので、もう一度書いておきます。

 

 「国民を正しい方向に導く」のはジャーナリズムではないそんなのはただの扇動だ*9。 

 

 今の日本の職業報道人たちには、ジャーナリズムと民主主義の関係がわかってない人が多すぎる。自分は報道を職業にしてるからジャーナリストだ、ぐらいに思っている人が多い。少なくともそのように見える*10

 

 

+もう望まれてすらない民主主義

 

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 もう一つ、もっと根本的な問題について述べておきたい。

 民主主義はそもそも望ましいのかどうか

 多くの専門家や活動家が民主主義を守らねばならないということを、「ベストではないが、ベター」だとかよく言いますが、皆様はそのことをどれくらい本気で検討しましたか? なぜベターだと言えるのか、ちゃんと根拠を持っているか

 

 念のため最初に述べておきますがが、これは答えの出ない問題です。

 社会科学ってのはそういうところがあって、本当の科学なら、民主主義を採用した国と採用してない国を実験室にそれぞれ1000個づつ培養して実験しないといけないのだが。そんな訳にもいかないので、だから答えは出ない。

 しかし、正確なところは分からなくても、世界史を勉強することで明らかに嘘かどうかぐらいは判断がつくことがあって。そういう視点から見て明らかな嘘の根拠を持っている人が多いんじゃないかと思う。

 

 例えば、民主主義が望ましい根拠に、自由・権利・平和などを挙げたら、それは嘘です。よく知られているように、ナチスドイツの蛮行もイラク戦争の行為も民主主義制度下で行われたのであって、民主主義であるかどうかはそれら理想の実現とあまり関係がないのが明らかです。

 あるいは、自由民主主義社会は経済的に発展する、という考え方もある。これは冷戦下でソ連アメリカを対比したときに言われていたもので、古いが強力な思想です。昔はこれが正しいとされていたが、21世紀現在、だいぶ怪しくなってきました。というのも、自由化を進めたソ連は別に豊かにはならなかったし、民主化が不十分な中国がむしろ迅速な決定対応で経済的有利を築いているからです。

 あとは、民主主義でなくなった国では国民が弾圧される、という考え方もある。これは実際の弾圧の例を聞くことも多く、まあまあ有望ではないかと思います。しかし個人的にはどうかな。というのも、僕たちって今、まったく弾圧されてないと言えるんですかね? 犯罪被害者の家に野次馬やマスコミが殺到するのと、特高警察がやってくるのとで、どれほどの違いがあるのか?

 あと、逆に「民主主義が望ましくない理由」だってありますよね。

 一番わかりやすいのは、民主主義国家は戦争が弱い。これは歴史が証明した純然たる事実であって、ギリシャやローマが強かったのはペリクレスカエサル等による独裁制が強かったころだし、中国王朝もヨーロッパ諸国も王権が弱くなった国から滅んでいったし、逆になんだかんだいってナチスドイツも大日本帝国も(しばらくは)勝てた。普通、戦争が弱いと国は滅んでしまいます。今は核とかテロとかのせいでそうとは限らないが*11、自国の繁栄だけで考えるなら、戦争が強いに越したことはないのは確かだ。

 

 既にここまでの話で、ネトウヨがクソ議論をぶち上げてる、ぐらいに読んでる人も多いかもしれない。でも、ここで僕が訴えたいのは、「だから民主主義は捨てるべき」とかいう話じゃあないんですよ。主権を持っている国民自身が、こういう主張に説得力を感じはじめているってことを、もっと重要視したほうがいい

 国民主権を完璧に貫くのであれば、民主主義っていうのはもう捨てられるか、少なくとも弱体化するのが当たり前なのが昨今の世界です。トランプが当選したり、ブリグジットが起こったり、あるいはもっと身近かつ単純にネトウヨを良く見るとかいう話は、国民がそれを望んでいるということです。そのことをもっとよく考えてほしい。「民主主義を守るっていう結論に至らないやつは一部のアホ」みたいな考えを持っているとしたら、そいつがアホだと言わざるを得ない

 普通に生きてたら民主主義なんて馬鹿らしくなるのが今の社会ですよ。

 みんなそれくらいの不利益や不満は抱えている。

 

 なので、公文書偽装が発覚したからと、民主主義が死んでいる! と騒ぐ人たちを、僕は冷ややかな目で見ざるを得ない。民主主義が死んだかどうかより、制度とは無関係の民衆が救われているかを話したほうがいい。さもないと本当に民主主義は死ぬ。

 

 

+民主主義に唯一現存するメリット

 

 ドラフト会議でくじを引く人達のイラスト

 ここからは少し趣旨が変わります。

 民主主義の死についてじゃなく、生についても述べないといけない。民主主義のデメリットばかり述べると、まるで民主主義滅びろとか言っているみたいですが、僕は明確に民主主義は守らないといけないと思っています。でも、それは国民の権利や自由がどうこういう話じゃない(民主主義でそれが守れるという話は上で確認したようにウソです)。

 

 民主主義が「ベストではなくベター」である実際的な理由があるとすれば、それは流動性の確保という一点に尽きる

 民主主義社会っていうのは、衆愚政治に陥りやすくて、しばしば政治は迷走する。戦争にも弱いし、そのくせ戦争大好き人間がリーダーになることも多い。社会はすぐに混迷に陥り、対立が煽られやすいところがある。マスコミは暴走するし、官僚は不正をするし、決定が遅いから科学技術や経済の発展にも最適とはとてもいえない*12

 しかし、選挙が正常に行われている限り、内戦が起こらない

 流動性があるので内戦がおこらない、というこのたった一文が、民主主義制度における唯一最大のメリットです。

 

 これが王政や独裁制であれば、政権が交代するときには必ず内戦が起こります

 王政による統治は、いまよりもずっと安定していて、いったん賢王が統治につけばその先の数十年間は民衆が政治のことを何にも考えないでもオッケーで、民主主義よりもずっと安心感が強い。王が賢ければカリスマ統治で黄金時代を築く事もしばしばある。しかし盛者必衰。永遠に賢いまま存続できる政権など存在しません。けれど、愚かな独裁者が自分の権力を守らない訳がないし、独裁者から権力をはく奪するには武力以外の方法がない。

 王政・独裁制を採用している国家は、将来的な内戦があらかじめ確定しているということです*13。これは歴史的にも理屈的にも明らかなこと。安定すぎる社会はしばしば硬直的で、組みなおすときに必ず破壊を伴ってしまう。

 

 民主主義にとってもっとも大事な要素とは、何年かに一度選挙が行われ、その結果によって政権の強弱や、政権担当者自体の変更が成されることです

 どんなクソ政権が今の政治をおこなっていても、数年たったら入れ替わるのだから、わざわざ暴力に訴える理由がない。だから内戦やクーデターが起こらない。

 このメリットだけが、ほとんど死にっぱなしの民主主義制度を、今なお意味ある制度にしている。と僕は思います。国民の権利がどうとかいう他の理由は、ほとんどは関係ないか、関係あるとしても今は実現していない理想ばかりだと思う。

 

 逆に言ったら、ちゃんとした選挙が行われてさえいれば、民主主義は別に死んでなんかいないとも考えられる。選挙が不正で正常に行われなかったとかいう理由で起きる内戦が国際ニュースに載ることがありますが、あれこそが真の「民主主義の死」です。公文書偽装が見つかったとしても、それが選挙結果に反映されるなら別に民主主義的には構わないんですよ。

 

 

+唯一のメリットを潰してやしないか

 

選挙ポスターを見る人達のイラスト

 しかし、そういう前提に立つと腹立たしいのは野党だ。

 野党、特に立憲民主党共産党ですが、彼らは選挙で勝つ気がない

 少なくとも、選挙で勝つための最適戦略を取っていない。 選挙っていうのは、結局のところ人気投票ですよ。一番票を取ったやつが勝つ。その為には、多数派の支持を得ることが必須です。デモに参加してる少数派からいくら熱烈に支持されても過半数議席はとれないんです。

 

 例えば、政権交代を目指す視点でいえば、憲法改正反対をメインの主張に据えるのは絶対にNGです憲法改正の賛否はかなり明確に、ピッタリ半々に国民の意見が割れているので、憲法改正反対をメインに打ち出すのは、票の半分を取り逃すことに等しい。

 だから安部自民党はそれをしませんね。せいぜいサブに添えるだけ。

 でも野党は憲法改正をメインにしますね。

 それで勝てるわけがない。

 

 同じような理屈で、野党と野党支持者の今やってることのほとんどが否定できてしまう。

 まず、安部自民党批判を繰り返すのは選挙的にはNGですね

 確かにかつて、民主党は、自民批判を繰り返すことで一度政権を取りました。しかし懲罰的投票行動の結果、民主党政権はヒドかった、というのが国民の大方の評価です*14。ですので、もう一回自民党の悪を主張しても、自分の人気にはならず、政治不信が進んで投票率が下がるだけ。そして投票率が下がると組織票の強い自民・公明党が有利になる。あと単純に人の悪口を言ってる人はイメージが悪くなります。「アベガー」とかネットで言われてるのは選挙的にマジでやばいですよ。

 最近やってた国会欠席戦術も選挙的にはNGです

 こればっかりは、いくら政治の専門家が正当性を主張したり、自民も昔同じことをしたことを主張したり、それらの主張がいくら正しいとしても無駄。仕事してない、ということがプラスのイメージにつながる訳ないでしょう*15? 昨今は労働ストですら、何週間も前から告知したうえ1日だけで終えたりするというのに。

 アベノミクスの効果の無さをアピールするのもNGですよ

 本当に効果があったかは確かに不透明な部分はありますが、現実問題として、アベノミクスに効果があったと感じる国民がかなりの割合いるのだから、これを否定してもなんの意味もない。彼らを取り込めるような"もっといいアベノミクス"を提案するのがどう考えても常道です。ましてやドアホノミクスだとかいう造語を述べても、大半の人は言ってる言葉が下品っぽいから離れる。

 

 総じて言って、無党派層を取り込む、という選挙の大・大・大原則を忘れているとしか思えない

 リベラル活動家の支持でまあまあの支持率を取れたので、それで目が曇っているのでしょうか? そういえば政権交代とかも、もうあまり言わなくなりましたね。*16

 人気を取ることに興味がない野党は、当然与党よりも人気がないので、今回の公文書偽造問題も選挙結果にあまり反映されないでしょう*17。これこそが今の日本で最も重要な民主主義の機能不全であり、本当に民主主義を憂うなら考えないといけないことだと思う。

 

 

+守りたいのは民主主義か、正義の自分か

 

 まとめます。

 

  • 公文書偽造は確かに民主主義の危機です。
  • でも日本の民主主義は公文書偽造なんかなくてもずっと危機的でした。
  • 危機に陥っていてもかまわないという考え方すらある。
  • いくら危機的でも選挙さえちゃんと動いてればオッケーです。
  • 今の野党は選挙に勝とうとしてないからダメ。

 

 まあこんなこといっても、大概無駄なんでしょうけどね。今の野党を支持してるようなリベラル活動家が、自分が「正義」であるという思想を転向して勝利を目指すことなど、僕も期待していません。だからどんなに不祥事が出てきても自民有利は続くだろうし、そのことに安堵と絶望を同時に感じています。

 でも誰かに伝わってほしい。

 公文書偽造にいまのやり方で怒っている限り、野党とリベラル派は勝てないし、本当の意味で「民主主義は生き返る」には、彼らが選挙に勝ち得る存在にならないといけないんだと思っています。

 そのためには、思想上の正義なんか捨てて、真の理想実現に向けた合理性を取らないといけないよ。野党とリベラル派の皆さんは、悪と戦ったりしてる場合じゃないんだ。ほんと。

 

*1:ここで「国民」とは何なのか? という話にもっていくと、ルソーの一般意思とかいう話になるのですが、今回は記事のテーマがとっ散らかるので省略。

*2:なお、この記事の後で確認するように、この理想のプロセスはちゃんと成立したことがありません。この点を指摘して、理想の民主主義などないのだとよく言われる。

*3:この後の話を僕は「きみたちホントは民主主義に必須だからじゃなく、公文書偽装が単にズルい感じだから怒ってるだろ」という風に持っていくつもりですが、ここでは一旦、誰もが民主主義のために怒っていることにします。

*4:民主主義の場合は選挙で王様の支持を仰ぐのもコストがかかるので、基本的には代理総督の人事ぐらいにしか王様は口出ししませんが。

*5:よく言われるのは、今の日本では若者ほど投票率が低いせいで政治が若者を冷遇しがち、とか。

*6:集合知について述べた名著、スロウィッキー『みんなの意見は案外正しい』では、集合知が正しい答えを出す条件の一つに、一部ではなく全員の意見を集計すること、を挙げていました。無効票が多い選挙は単純に結果が間違っている恐れも強いです。

*7:相手がアホかどうかや不誠実かどうかは関係ないですよ。念のため。

*8:もとが"倫理観"とかいう曖昧な趣旨なので、ジャーナリズムへの考え方は専門家でも相当ブレがありますが、僕はこれくらい言うべきだと思います。

*9:念のため、僕以外に同じことをもっとマトモに言っているブログを紹介しておきますね。http://sakaiosamu.com/2015/0109080045/

*10:これには昔から言われている原因があって、欧米ではマスコミに就職するのはジャーナリスト大学を出た学生だったりするそうですが、日本の特に大手新聞社・テレビ局に就職するのは、多くの場合学歴が高くて見た目に優れている人です。ジャーナリズムを専門に勉強した学生は、使いにくいので積極的に面接で弾かれると聞きます。

*11:戦後日本という国は、戦争が弱いおかげで発展した歴史上でも極めて珍しい国です。冷戦構造においては、日本がアメリカ軍の保護下にあってほしいと他ならぬアメリカ自身が望んでおり、おかげで日本は軍事力を全く使わずに貿易有利を享受した。普通の国の歴史だったら、80年代のジャパンバッシングとか起きるよりも前に、『これ以上舐めた貿易してきたら軍事力に訴えようかな』とか言われて経済発展は阻害されるか、対抗策としての再軍事化があったはずです。

*12:ちなみに、こういった不利益を根本的に抱えている民主主義は、地政学的に有利な地域で根付きやすいとされます。日本やアメリカやイギリスで議会制民主主義が簡単に根付き、中国やロシアや中東で独裁がむしろ望まれるのは、地政学的に不利で他国との戦争に常に晒されてきた地域では、伝統的に強いリーダーが欲されているからです。民主主義には「少々の不利を受けても皆の納得を重要視できる恵まれた環境」が必要だ。

*13:この点、中国は非常に自覚的なのが強い。極端な民主化による内戦を警戒しながら、出来る範囲で流動性を用意しようとしていると思う。ロシアのプーチン政権も自覚はあるけど、対応策が「さらなる盤石化」なので、プーチン後にまたペレストロイカ的な内戦状態になるんじゃないか。北朝鮮はヤバイですね。体制が今のままなら、2・3世紀以内にクーデターは起こる。実際今の代になるときに血みどろの闘争はあった訳だし。なお、この脚注は全部僕の妄言です。

*14:野党の首脳陣がこの「国民の大方の評価」を把握してないかもしれないというのが、また頭の痛い点だが

*15:これを書いていた時点ではまだだったのですが、その後、実際にイメージがマイナスになりすぎて欠席戦術は失敗した、という報道が出てきましたね。

*16:こういう行動の不合理さは、きっと民主党の議員さんも多くの人が感じていたと思う。希望の党に流れたり、国民民主党を作ったりしたのは、そういう層だったんじゃないかと僕は想像しています。だから国民民主党にはちょっと期待している。

*17:しかも野党支持活動家は自民支持の多数派をしばしば「やつらはアホだから自民支持なんだ」とかいう。だとしたら君たちがアホに合わせないから勝てないのです。自民支持者の悪口を言っている皆様は、自分が野党の選挙の邪魔をしていることを認識したほうがいい。