能書きを書くのが趣味。

文章がすぐ長く小難しくなるけど、好き放題長く小難しく書く。

アニマルライツもクオリア論も「人権」のせいです

 前回、人権概念の社会的変容について書きました。

gentleyellow.hatenablog.com

 でも実は、「人権」の危機について語り切れてない部分がある。

 前回は権利概念の歴史的バックボーンや、社会情勢の変化、ヘイトスピーチ問題や、ポリティカルコレクトネスといった、純粋に文系的な分析から人権概念の変容を描きました。しかし、ここには大きく抜けている要素がある。それは、科学技術の進歩です。

 人権概念が生まれたのは、当時最先端の科学分析からでした。しかし、18世紀の科学は、21世紀現在までにずいぶんと変化し、誤解を恐れずに言えばかつての理論はその大部分が否定されてしまっている。

 つまり、人権を生んだ根拠の大部分は、実はすでに否定されてしまっているのです。そのことが、人権概念に変容と危機を持たらなさないはずがありません。

 この記事では、科学技術の進歩によって起きている人権概念の変容について、僕なりに述べていきます。

 

+人権という発想は啓蒙思想から生まれた

デカルトの似顔絵イラスト

  まず前回記事でも述べたことをざっと説明しておきます。

 人権が革新的だったのは「権利闘争に勝利したからではなく、ただ人間であるだけで権利を認めた」という点でした。それまで全ての権利は、本人や祖先が過去勝ち取ったから認められるものだった。例えば土地の所有権があるのは祖先がそこに住んでいたからだし、参政権があるのは戦争に兵士として参加したからでした。フランス人権宣言は、そうではなく、人間として存在するだけで幸福になる権利があると言った。戦争に参加したかどうかや、過去に犯罪者だったかどうかは関係ない。

 ところで、なぜフランス人は「人間であるだけで権利がある」と考えたのでしょうか?

 それは自然権という考え方が当時広まっていたことによります。これは、ホッブスやロックの社会契約説に基づく思想です。人間には、自然状態で=生まれついた瞬間から*1ある種の権利が宿っている。これは、そう考えないと社会契約説によって社会ができたと考えることが出来ないから生まれた発想です。何の権利もない人は社会契約もできないので、社会ができるよりも先に権利があったに違いない、という*2

 いずれにせよ、人権という発想を生んだのは当時の啓蒙思想だった、ということをここでは抑えておきます。

 

啓蒙思想時代の人間観と、人間ではないもの

神絵師のイラスト弱肉強食のイラスト

 人権思想は、啓蒙思想に基づいて「人間であるだけで権利がある」と考えた。

 では、人間とはなにか?

 結論から言えば、人間とは「動物ではない存在のこと」です

 権利というのは、常に内部と外部を想定する概念です。人間に権利を認めると断言したならば、必ず、人間以外に権利は認めないと断言しているのです。当時の啓蒙思想が排除した「人間以外」とは、いったい何だったのでしょうか? もちろん、人間以外とは動物のことだったのです。

 もう少し正確に言えば、ヒトは、神*3によって「人間」として作られたのです。神はヒトとは別に動物を作ったのであって、それは明確に区別されていた。人間と動物は完全に別の存在であり、定義の必要がないものだったのです。

 そしてこの時代、動物は、今われわれが考えるよりもずっと下等な存在だと考えらえていました

 具体的には、キリスト教において動物には霊魂がありません。霊魂を持つのは人間だけなのです。したがって、動物には精神もありません。精神は霊魂の作用だからです。精神がないので動物は理性や感情も持っておらず、ただ精巧にできているだけの、自動機械に等しい存在です。動物は野蛮であり、愛とか信仰とかいった善に属するものは理解しない。根本的に人間とは異なるのです*4

 今の僕らからしてみると、ちょっとペットを飼うだけで嘘っぱちだと判る、相当に無茶苦茶な論理ですが、当時の啓蒙思想——すなわち、知的階級の中ではこれが常識だったんですね。

 

 そういう時代に生まれた人権思想も、実はこの認識において「人間」を定義しています。

 人権が成立するのは、人間が神の創りたもうた高等な存在だからです

 これは本質的に宗教的な伝統に基づく考えですが、啓蒙思想っていうのは宗教的な非合理をどうにか脱しようとするものでもあったので、一見論理的な理屈がいろいろと発表されました(その内容については後で紹介します)。

 

+グドールのチンパンジーの衝撃

道具を使うチンパンジーのイラスト

 人間が高等であり、動物は下等であるという認識は、ダーウィンの進化論などいつくかの事件を重ねて なお、長いこと支配的であり続けました。しかし、20世紀中盤、決定的な研究が発表されます。

 それはジェーン・グドールという女性によるチンパンジーの研究でした。

 グドールさんは、大学を出ていませんでしたが、有名教授の秘書として大学に勤務していました。そして教授の研究についていって、アフリカでチンパンジーの観察をします。教授はいい人だったので素人のグドールさんにも論文を書かせてくれて、そうして出版されたのが『森の隣人』です。

 この本の何が衝撃的だったか。

 グドールさんは大学を出ていませんでしたので、一般的な科学論文の手法を知りませんでした。だから、チンパンジーの観察結果を、文学の手法で表現した。すると、チンパンジーに明らかに精神があるという描写になった。○○というサルは引っ込みじあんであり、△△というサルは子育てが上手であり、総じて彼らには個性があった。またサルたちはコミュニケートしたり愛を表現したりして、明らかに社会を持っていた。更に科学的にホットなトピックとしては、あの有名な「葉っぱの茎をつかってアリをとるサル」を見つけたのもグドールだった。道具を使う動物を発見したわけだ。

 動物は精神のない自動機械にすぎない、という認識とはかけ離れた真実がそこにありました

 グドールの研究は、最初は黙殺され失笑されました。なにしろグドールは大学を出てなかったし、当時の科学の常識からかけ離れていたからです。しかしその後の努力もあって*5、徐々にグドールの発見は浸透していった。

 動物にも、人間同様の精神があることが、20世紀後半という割と最近のタイミングで明らかになったのです。

 

+人間が特別ではなくなっていく

考える人のイラスト

 人間と動物が等しくなることは、 実は人権思想(=哲学)にとって空前絶後の大事件です。なにしろ、ヒトは高等だから人権を与えられたというのに、ヒトは思ったより高等でないことが明らかになった。

 我々一般人がサルって賢いんだなあと納得している影で、実は思想界隈では人文の専門家たちが右往左往していました*6

 

 人間が動物より特別であるという発想は、基本的にキリスト教の宗教観が根拠です。しかし、啓蒙思想は宗教を乗り越えようとするムーブメントだったので、宗教によらない論理によって人間の特別さを定義していました。

 例えば、そもそもホモ・サピエンスのサピエンスとは「考える」という意味です。人間だけが考えることのできる存在だという、分かりやすい名前で、人間が特別だということを表していたのでした。でもグドール以降、考えるのはヒトだけでないことが明らかになった訳です。この定義はもはや使えない。

 他の例では、人間のことをホモ・ファーベルということがありますが、これは「道具を使う」という意味でした。しかし、やはりこれもダメです。グドールのチンパンジーが道具を使ってましたし、それ以降もサルやラッコやビーバーやキツツキが道具を使うのが見つかってます。

 ホモ・ルーデンスという「遊ぶ人」という意味の言葉もあります。生存に無意味なことをするのは人間だけだという意味でしたが、もちろんこれも使えません。ウチの猫ちゃんも水族館のイルカも余裕でおもちゃ大好きです。

 あとはホモ・シンボリクス、「象徴を使う」という難しい意味ですが、要するに難しい言語が使えるという意味です。もはやこんな判りにくいところまで追い詰められた感のある定義ですが、これもだめでした。手話を覚えたサルの話は有名だからご存知ではないでしょうか。

 他にも、社会を作る人、言語を使う人、文化を持つ人、音楽をする人、などなど、いろいろなホモ・○○○○が考案されました。それはどれも「○○ができるのは人間だけだから、人間は動物とは違う!」という意味でしたが、しかし科学が進むと、どこかに必ず○○が出来る動物が見つかったのです。

 科学は20世紀を通して、かなり熱心に、人間が動物と決定的に異なる証拠を探しましたが、それは結局のところ見つかりませんでした。

 もし動物が人間と同様の存在なのだとしたら、どうして人間だけが特別に権利が認められているのでしょうか? 

 

+人間じゃなくても人権を与えるべき?

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 人間と動物が同じなら、人間だけが特別じゃないのではないか。

 この当然の発想から生まれたのが、ネット界隈では悪名高い、動物の権利運動(アニマルライツ)でした

 動物の権利っていう発想を最初に言いだしたのは、ピーター・シンガーという人*7で、彼の主張はかいつまめば非常に単純です。「動物にも精神があるんだから、動物の権利をないがしろにするのは、人種差別と同じで倫理的に間違いである」。シンガー以降、現代に至るまで、いろいろな文脈で動物の権利は主張さていれますが、基本は同じです。「動物にも人間同様の精神があるから(ex:イルカは人間同様にかしこいから)権利を尊重しなければいけない」。

 倫理学を熱心に学ぶ人ほど、この主張には説得されてしまったりします。だって偉大な古典を読むと「人権を守るのは、人間に精神があるからだ」と書いてある。精神があるものを食べるのは食人に等しいので、彼らは菜食主義を推奨していたりもします*8

 でも僕に言わせれば、この記事で述べてきたように、それは倫理学の大古典のほうが間違っていたのです。人権というのは、人間全体に権利を与えたかっただけの思想です。精神云々は「なぜ人間だけなのか」という疑問に対する言い訳にすぎません。科学が後に発見する事実を知らなかったから、こういう言い方になっただけです。動物にも精神があるから動物にも人権がある、みたいな主張は、ほとんど揚げ足取りみたいなものです。

 ただし、人権思想には取られる揚げ足がある、というのも事実です。アニマルライツ運動の広告をみて、頭がおかしい、と感じた皆さんは多いでしょう。しかし、皆さんが見ていたのは、実は頭のおかしい人たちではなく、人権思想の歪みです

 

人間性最後の牙城も風前の灯

文章を書く人工知能のイラスト

 しかしそれでも、やっぱり人間と動物は違います。

 犬と牛が同じではないように、人間と動物一般は同じではない。 確かにイルカやカラスは賢いかもしれない、サルやオウムは言語を理解するかもしれない。ビーバーやキツツキは建築すら行うかもしれない。しかし、人間と同じ規模・同じ精度でそれらをする動物はいません。

 つまり、人間は動物よりもスゴい。21世紀の現在、それこそが人間性の定義になっていると考えていいでしょう。

 実はスゴいから人権を守るのだとかいう話にしてしまうと、それはそれで問題が出てくるのですが(超すごいイチローは一般人より人権も大きいのでしょうか?)まあ目をつぶれる範囲の問題です。人間と動物を区別できることが重要なんですから。

 

 しかし、近年この最後の牙城を崩す要素が、またしても科学の発展によって現れました。

 それは、人工知能です。人工知能の登場は、以前から人間性にとって危機なのではないか? と言われていましたが、特にここ数年の人工知能ブームを起こした技術革新は、人間性の定義にとって会心の一撃となりかねないものでした。ディープラーニングという言葉を聞いたことがあるでしょうか。あるいは、画像認識技術の発展についてのニュースを聞いたことは。あれらは人間の脳の機能に着想を得て、真似したことで、飛躍的に発展した技術です

 ということは、将来的に人間の脳を完全に模倣した人工知能というものが、現れるのではないでしょうか。それに精神が無いと考える理由がなにかあるのか?

 しかも、汎用人工知能*9は間違いなく人間よりスゴイ。これは単純な話で、人間の脳は生化学反応で回路を作ってますが、それが全部光ファイバーだったらもっと速く動くに決まってます。

 

+空想の存在にさえ縋らざるをえない

人工知能と喧嘩をする人のイラスト

 こういう人工知能論に対して、人文学が持ち出してくるのがクオリアです。

 クオリアとは、よく「赤いという感じ」だとかいう判りにくい説明がされる概念です。我々の脳は電気刺激で動いているのであって、赤いリンゴを見たら赤いリンゴを見た電気刺激が脳に現れる。しかし、電気刺激は精神や思考自体ではない。「電気刺激によって、何か精神っぽい現象が起きた」その結果として、我々は赤い色を認識したのではないか? この、何かわからないけど引き起こされた現象をクオリアと呼ぶことになってます。

 人文学をかじった人たちは言います。「AIがいくら発展しても、脳は脳、機械は機械であるから、機械にはクオリアは宿らない。クオリアが宿らないということは機械は精神を持てない」だとか。

 これはちゃんちゃらおかしい主張です

 まず、そもそもクオリアという概念は脳科学が一旦持ち出したものの、よく考えたら意味なかったので捨てた考え方です。「神経細胞Aと神経細胞Bを突っつくと、同じように反応するんだけど、二つの神経細胞は違う役割を持っている。何が違うんだ。その違いをクオリアと呼ぼう」とか言ってたんですが、よく考えたら個別の神経細胞の役割の違いは神経間の接続方法に依存するのであって、クオリアなんて存在を仮定する必要はなかった。クオリアは脳機能の説明に要らなかった概念なのです。

 あと、クオリアを科学的に定義するのは不可能だったクオリアっていう概念はよく考えたら"観察出来ない"という内容を定義に含みます。神経細胞を見ても観察できないものがクオリアであって、観察できないものは科学では基本的に存在しないものとして扱います。だから本家の脳科学では、クオリアは無かったことになった。クオリアは、非科学的な概念でもあるのてわす。

 しかし人文学は、その捨てられた非科学的概念を拾い上げました。何しろ、この概念は科学では扱えないことが証明されているってことはどんなにいじくり回しても、こんどこそ科学がいちゃもんをつけてくることはないクオリアを持つのが人間だということにしてしまえば、二度と人間性は脅かされることはない。

 ……はい、こじつけですね。文系とはいえ仮にも学問が、事実をねつ造してどうするのか。

 クオリアは無いってことになったんだから、それはもう無いんです。確かに無いことは科学で証明できないけど、そんなこといったら妖精さんがこの世に居ないことだって証明できない。

 でも人文学はそれに縋るのです。妖精と実質的に同じ存在をもちださないと、もはや「人間だけが特別である」という主張ができないからです。胡散臭いクオリア概念だけが、人権の根拠たりえる風に見えてしまうのです。

 

+人権に根拠はあるのか、根拠が無いと何が起こるのか

養子縁組した同性カップルのイラスト(女性)

 まあ、いくら俗流クオリア論を振り回しても、事実は変わりません。

 「人権」はとっくに根拠を失っていると認めるべきです

 恐らく、いまフランス革命をやっても、人権宣言を再び成立させることはできないでしょう。人間だけに権利を認める、客観的な合理的な理由がない。かつてあると思われていた理由は、全部ウソだったことが暴露されてしまいました。

 今、我々が使っている「人権」という概念は、非常に主観的なものです。だからアニマルライツ運動のような、かわいそうだから権利がある、という論理がまかり通るのです。我々が普通の人権を守るのもまた、人権がないことにするなんて「かわいそうだから」にすぎない。我々は「かわいそうだから」発展途上国の人権侵害に憤るのであって、他に理由はありません。

 しかし、こんな主観的で、感情的で、客観的根拠が全く成立しない思想を、我々はいつまで正常に運用していけるのでしょうか? そのほころびは、すでにあちこちで現れています。

 

 僕自身の考えでは、人権概念はもう基本に立ち戻るしかありません。「人間だから」「理由とかなしに」「権利を認める」。人間が賢いからとか、人間に精神があるからとか、人間は思いやるべきだからとか、そういう全ての理由は余計な要素です。ただ人間でありさえすればいいという、フランス革命当初の理念を、もう一度決断するしかない。

 荒木飛呂彦先生のいうところの人間賛歌ってやつっですね。

 たぶん「人権」は、そういう判断を、今まさに迫られているのだと思います。

*1:厳密には、自然状態と"生まれた瞬間"は違います。自然状態とは「社会に一切属していない状態」のことです。

*2:ちなみに社会契約説は、今では事実ではなかったとされています。人間はサルのころかrら群れを作っていたので、「自然状態の人間」などというものは存在しないはずからです。社会契約説が架空の説だったことも、この後説明する展開に大いに関係します。

*3:無論これはキリスト教の神です

*4:人権の話をしてる都合上キリスト教のせいにしてますが、東洋でも動物のことは「畜生」と呼んでバカにしてた。たぶんこれは世界全体の常識でした

*5:教授がまた本当にいい人で、グドールさんを大学に入れたりしてくれたそうです。

*6:グドールの成果を最後まで認めなかったのは、哲学・人文学の世界だったと聞きます。生物学が動物の精神を当然と見做すようになってなお、哲学はそれを否定し続けたそうです。

*7:それはまさにグドールの登場から数年後のことでした

*8:僕は、菜食主義の流行は、20世紀倫理学の犯した重大な人間性への裏切りだと思う。動物を食べるのが間違いだと述べることは、人間の歴史全てを間違いだと述べたに等しい。倫理が人間を愛さなくてどうするのか。

*9:ちなみに「汎用人工知能」とただの人工知能は違います。汎用人工知能が普通の人が考える人工知能で、要するに話しかけたらなんでもしてくれるスタートレックのコンピューター。ただ「人工知能」といっただけだと、例えばExcelのマクロは人工知能の一種です。

ガキ使批判記事に見られた「人権」概念の変容

 今回は「人権」について書きます。

 なぜ人権について書くかというと、ハフィントンポスト記事の話題をTwitterで読んだからです。

 この件について、ハフィントンポストは批判されています。最も頷けた批判は、「エディ・マーフィーの真似をすることは、黒人を戯画化することとは違うだろ」というもので、僕もその批判に賛同するところです*1

 しかし、批判している皆さんは、自分が批判しているものについて、本当に理解しているのでしょうか? 「そもそも人権とはなにか?」ということを考えなければ、この記事から生まれる謎の不快感の正体を捉えることはできないと思う。

 この「人権」という一見批判しようもないように見える概念は、もともとかなり特殊で、不安定さを孕んだ思想です。しかも21世紀までに起きた社会情勢の変化は、もともとの不安定さを、潜在的な危うさと言えるレベルまで膨らませています。日本人は「人権」をあまりにも素朴に扱っていて、その特殊性や危険性に無自覚ですが。しかし、我々の目の前に今回のような批判されるべき記事が出てくるのも、そうした危うさ、最近の社会情勢や思想の変化をバックグラウンドとしているのです。

 ここでは僕の察知した「人権」についての事実を書いていきます。

 

+「権利」とは所有権のこと。所有権は常に侵害しあう。

ジェロニモの似顔絵イラスト

 人権について考える前に、「権利」についてはっきりさせておきましょう。

 権利という考え方は恐らく、そもそも所有権を考える上で生まれてきたものです*2

 しかも、特に土地所有権に関する問題が権利という概念を生み出しました。「我々が耕した畑であるからこの農作物は我々のものである」「先祖代々の土地であるから私が受け継ぐのである」。そういう一種素朴な観念が権利の始まりだったはずです。

 土地っていうのは、畑とイコールだから、それを占有できるかはまさに生きるか死ぬかの問題だった。ここで重要なのは、ある土地の所有権を主張するということは、他者がその土地を所有する権利を認めないことだ、という点です。土地境界線を確定したら、その線を侵犯することは何者にも許されない。

 権利が主張されるのは常にその土地を侵害する侵略者が現れたときです。そして、縄張り争いは闘争の起源です。古来より、戦争の多くは土地所有権をめぐって行われた。権利という考え方には、最初から「その土地を守るためなら戦う」という、闘争の論理が刻み込まれています。

 権利が持つのは闘争の論理であって、善とか優しさの論理ではないということです。法が権利を定めるのは、闘争を調停するためであって、みんな仲良したいからではありません。権利に厳しい文化を持つアメリカ人やイギリス人はこのことに非常に自覚的であって、よく知られる彼らはSorryと滅多に言わないという話も、権利を譲ることが、占有をあきらめ不利益を受けることに繋がると考えているからです。

 そして、平和の原理だと思われている「人権」もまた、例外ではなく、闘争を基本としているのです。僕がこのブログ記事で言っていくのも、最終的にはそれが全部です。

 

+架空の権利としての「人権」

イマジナリーフレンドのイラスト

 歴史において、権利は常に闘争と共にありました。

 例えば民主政治で数百年の平和を気づいた共和制ローマですが、彼らは平民の参政権とか、貴族・大富豪から権利をぶんどって平民の小作農に配るとか、現代の左派政策に通じることをちゃんとやっていました。しかしそれらの平民の権利は全て、元老院と平民会の争いによって、平民が勝ち取ったものです。ローマ人は、善を知っていたのではなく、単に多数派が勝ったとか合理性が勝ったとか、それだけのこと。権利のために闘争し、勝ったから権利があるという。人類はずっとそれ一本でやってきました。

 

 それがひっくり返ったのがフランス革命の人権宣言です。これは本当に、いい意味でも悪い意味でも革命的なもので。なにしろ勝ったからではなく、人間であるから権利を認めるという。

 同時代でも、これがイギリスの権利章典だったら、それは「先祖代来受けついできたかつての良き法を取り戻す」という趣旨です。王が持っていたと言っているものも、遡れば臣民のものだったことがあるという、歴史と証拠に基づいた、ある意味では通常の権利闘争でした。

 フランス革命は、そういう歴史性を「権利」から意図的に切り離した。祖先が何をやっただとか、今までどういう戦いに参加しただとか、過去の行いが善人か犯罪者かとか、そういうことは「人権」では考慮されないフランス革命に参加しなかった人たちも権利があることにした、という言い方なら、この革新性が伝わるでしょうか。ただ人間でさえあれば、幸福を追求する権利が認められるのです。

 例えるなら、権利闘争に於ける徳政令なんですね。いきなり全員借金ゼロ!みたいな。フランス革命における歴史性排除は、今日でも、基本的人権のおおもとの考え方になっています。

 しかしここで注意を促したいのは、歴史を持たない人間など存在しないし、人間は歴史を考慮するものである、という点です。人間の感情は、当然のことながら、善人と犯罪者を区別するようにできています。「犯罪者であっても権利を認める」などという思想は、実に理性的であり理想的な反面、機械的で非人間的なものです人権派弁護士とかいうと、優しくて人間性を重視しそうに感じますが、意外にも彼が信じるのは原理原則であり人間性ではない。彼らはある意味で人間のことは見ていないのです*3

 よく知られるように、貧民を救うために世界で幾度か行われた徳政令は、大抵別の問題を伴いました。歴史性を無いものと見做し、広範な人類全体を救おうとした「人権」も同様に、大きな問題を孕むことになったのです。それは、現実の人間に即してない、ある意味で架空の原則であるということ。この問題は大抵の場合無視されますが、問題を無視しきれなくなる場合もしばしばあります。その最たるものが、人権侵害について論じる場面です。

 

+みんなが無自覚な「差別反対」の本質

人種差別のイラスト(黒人)

 さて、人権が問題になるのは、しばしば「差別」――とりわけ「人種差別」においてです。冒頭のハフィントンポスト記事も、人種差別を取り上げたものでした。

 しかし上で述べてきたことを踏まえると、人権の名のもとに人種差別撤廃する、という論理が、実は結構過激な主張であることがわかります。あらゆる権利は闘争にもとづき、他者の権利と対立するものであることを思い出してください。ある権利を認めるということは、他者にある権利を認めないこと、認めないという論理のもとに闘争すること。人権もまた、何か別の権利と闘争することで成り立っている。

 では人種差別闘争はどんな権利を闘争し、侵害しているか?

 それは「他人を自由に嫌う権利」です。

 よく考えたら、これは相当に冒険的な闘争です。他人の自由な感情を侵害しようというのです。うちの妻に「お前が人参を嫌いであることは間違いだ」とか言ってみればいったとしたら、相当機嫌が悪くなること間違い無し。それは人参でも黒人でも韓国人でも同じことでしょう。

 

 っていうか、そもそも思想信条の自由こそ、本来は人権が保証しているのではないでしょうか? にも関わらず、なぜ人種差別では感情の制限が認められるのか?

 それは、本来、人種差別の議論で問題になったのは「誰かが嫌われていること」ではないからです。例えば黒人差別では、黒人嫌いという感情が白人の親から子に受け継がれること、受け継いた白人の子が政府高官や企業社長を占めることが問題となります。そして、その政府や企業が黒人職員を採用しなかったり、白人と黒人の学校を分けたり、警察の対応を不平等にしたりした、という事実が問題でした。

 つまり、嫌っているという思想信条を禁止したのではない。その思想信条にもとに政府の政策が不公平になっていることを批判したのが、人種差別反対運動です

 これは”人権””のもつ歴史性を排除する考え方と完全に合致します。例えば警察の扱いの件には「実際黒人のほうが犯罪者が多いから仕方ない」という現場の反対はありました。しかし、人権とはそういう事実は考慮しない思想なのです。過去の黒人犯罪者がいくら多かろうが、人間は平等に扱わねばならないのです。

 人種差別するなっていうのは、別に黒人や韓国人が嫌いでもいいのです。

 ただ、採用試験のときに不平等な扱いをしないのなら、それでいい。

 しかしここで人権概念の架空性が問題となってきます

 

+感情を制限しているわけじゃない、はずだったが

ヘイトスピーチのイラスト学生運動のイラスト

 人権は架空性を持つ思想です。現実の人間とは乖離しています。

 ですから、人権思想にもとづいて内心の自由を制限しないけど公平な扱いをしますよ、とか言っても、そんなことは人間には不可能なのです。人間は本質的に歴史性を持つ動物であり、それを排除することはできません。

 黒人が嫌いな人に、黒人を平等に扱えと言っても、それを完全に履行するのは無理です。必ずどっかで何か不平等な扱いをします。これは、差別する側だけでなく差別される側にしてももそうで、「嫌われてるけど公平な扱いを受けている」なんて信じることのできる人間はいなかったのです。ですから、黒人を真の意味で社会が平等に扱うには、黒人を嫌いでいることを禁止するしかなかった。人種差別の議論は、参政権や教育機会の是正という公的要素の是正が済んだあたりから、徐々に感情の制限を求めるようになっていきました。

 

 この矛盾が、とりわけ強く噴出した問題こそ、最近日本でも議論が盛んになってきたヘイトスピーチ問題でした。

 ヘイトスピーチが問題となったのは、さる白人犯罪者の法廷報道からです。この白人犯罪者はとっても黒人嫌いでした。ですから、法廷を出たマスコミのカメラの前で、裁判や犯罪とは全く関係がなく、黒人はクソだという内容を叫び続けました。

 従来の人権概念からすれば、彼の発言や内心の自由は、彼が犯罪者であることや差別主義者であることとは何の関係もなく、人権のもと保護されているはずです。しかし彼は本当に黒人を罵っただけだった。「この発言の自由を守る必要が本当にあるのか?」みんながそう思いました。こうしてヘイトスピーチ=公共のもとで差別的な感情を吐露する自由は、制限されることとなった

 今でも、ヘイトスピーチの議論では「本当に自由な発言や感情制限していいのか?」という疑問が頻繁に呈されています。しかし、大抵は退けられます。なぜなら事実として傷ついている人がおり、事実としてヘイトスピーチは公的利益になっておらず、事実は"人権"という架空の存在より重いからです

 

 ヘイトスピーチ問題は、だいたいが規制の是非としてしか語られません。しかしこれは思想的に見てそうとう革新的なことです。21世紀現在、人権概念は再び歴史性と人間性を取り戻しました。今や、かつてフランス革命が想定していたようなやり方で、機械的に全ての人権を保護することは許されないのです。”人権”は架空性という蛹から脱皮しようとしている。

 しかしそのことは、人権概念に大きな歪みを産んでいます

 冒頭のハフィントンポストの記事に現れているのは、その歪みなのです。

 

+人権侵害とは「社会的弱者を不快にすること」なのか

部下を怒鳴りつけている上司のイラスト

 ヘイトスピーチ規制の流れに見られるように、20世紀後半から21世紀にかけて、人権概念は「他者の感情を思いやること」を重視するようになりました。いわば人権概念は、人を愛することを思い出した*4。それは良いことのようにも思えます。

 しかし、思い出してください。そもそも権利とは闘争の原理であり、人権も例外ではありません。人権を侵害するものは、攻撃されなければならないのです。その人権が「愛」によって――言い換えれば「主観的感情」によって判断するようになった

 これは下手をすると主観的な感情によって闘争が起こることを意味します

 上記のハフィントンポストの記事がやっていることこそ、まさにそれです。

多くの日本人は「そんな過去は知らない」「そんなつもりは無い」と言うでしょう。

しかし、例えばアメリカ人が「ヒロシマの人の真似」と言って、焼けただれボロボロになった格好をして笑いを取っていたら、我々はどう感じるでしょうか?

 「どう感じているか」を基に、表現の自由とか思想信条の自由を制限することが、当然のことかのように、この記事の執筆者は言っている。これは人間性あふれる思いやりと見せかけて、相当に危険なことです*5。公的利益ではなく、ある特定の集団の趣味嗜好・感情傾向が、権利闘争の根拠となっていることに、この執筆者は全く無自覚です。無自覚に"人権"を侵害をしている。「無自覚な差別こそ問題」とか人に言ってる場合ではない。

 この理屈が通るなら、次のようなことも言えてしまう。社会的弱者が不快感を覚えるから言論統制をするべきならば、まさにこの記事が不快感を与えたせいでネットが炎上しています*6。この記事が多くの人に不快感を与えているのは事実だ。だからあの記事は削除すべきだ。

 そんなことが許されるのか。そして、許すかどうかより重要なのは——そういう問題があることに気付くことができるのか?

 

 最初に紹介したこの記事に対するTwitterの批判「エディ・マーフィーというキャラクターを戯画化することが、黒人差別を助長するとでもいうのか?」は、客観的な公的利益を強調したものでした。感情は知らんけど、客観的に言えば黒人差別の助長はないからいいじゃないか、という。そっちが本来の――古いタイプの、と言うべきか――"人権"だったはずなのです。

 しかし、そういった客観性が通用しない時代が、21世紀の今、訪れている

 

+ポリティカルコレクトネスで、臭いものに蓋

 ハフィントンポストは、ネット上の批判に反応したのか。この後、似ているけれど全く意味の違う記事をいくつか出しました。その代表がこちら。これなら僕も認める。

 実際の外国人の声が紹介されているのが、とりわけ素晴らしい記事です。中でも大きく大きく取り上げられているこの人の発言に注目しましょう。

「顔、容姿、特に皮膚の色で表現しようとするなんて、すごく繊細な問題だからやるべきではない」(白人男性・高校生) 

  やるべきでないのは、悪だからではありません。「繊細な問題だから」です

 最近はこういう「繊細な問題」を扱う方法を、ポリティカル・コレクトネスと呼びます。政治的な正しさ、という意味のこの単語ですが、言っていることは本質的にこれまで述べたのと同じこと。人権概念に人間らしい感情を復活させるという考え方です。

 考えてみてください。政治的に正しい、とはどういうことでしょうか? 有権者に嫌われないことこそが、政治的な正しさなのです。つまり、有権者の感情に配慮すること……客観的理性的な正義はおいといてでも、有権者の感情に配慮することが、ポリティカル・コレクトネスです*7

 ポリコレを積極的に擁護する主張は、しばしば正しくないと馬鹿にされるが、それも無理のないことなのです。だって、ポリコレは客観的正しさじゃないから。感情に対する主観的配慮こそ、ポリコレの本質であって、原理とか原則みたいに扱うと必ず間違うことになります。ルールじゃないのにルールみたいになるので、ポリコレ嫌いを公言する人も多いです。

 しかしポリティカル・コレクトネスは、どうにかして世に広まる人々の感情を調停する手段としては有用です。政治的な正しさを目指すからには、例えばネトウヨ諸君の「そうはいっても韓国人は嫌いである」という感情にも配慮はするはず。理想的なポリコレにおいては、韓国人差別のヘイトスピーチを制限はするかもしれないが、同時に積極的な韓国人宣伝表現も否定するでしょう。

 後から紹介した記事で紹介されている外国人の発言も、そういったポリコレ教育が大変に行き届いているといえます。「我々は別にコメディを思想統制しない」「しかしあれは不快に思う人が確実に出る」「だから明確な意図なしにやるのは自重したほうがよいだろう」。それなら僕もだいたい賛同する。難しい時代になったとは思いますが、他人を思いやるってのは元来難しいことでしょう。そして、そういう教育が日本で行き届いてない、という話には、同意するしかない。

 ただし、ポリティカルコレクトネスは、本質的になんの解決にもなっていない、ということには、改めて注意を促したいと思います。ポリコレが言うのは、主観的感情と主観的感情が対立するのは当たり前だから、全ての矛盾を全部個別に調停するということです。つまり、実質的になんの矛盾も解決していない。かつてのような客観的な判断基準ではないし、単なる「気を付けよう」という注意喚起にすぎない。

 人権概念に感情を復活させたことで噴出した矛盾を、「ポリコレの徹底が大事だね」とかで解決するかのように扱うのは、まさに臭いものに蓋というものです。蓋をしても矛盾は消えたりしない。人権という思想の大黒柱が腐っていることは、変えようのない事実です

 

+単なる思いやりとしての「人権」は成立するのか

オリーブの枝をくわえた鳩のイラスト

 ハフィトンポストで炎上したあの記事が見せたのは、思いやりだと思って行った正義の批判が、実は必ずしも正しくないし、別のだれかを傷つけかねないものだったという、ある種当たり前の事実でした。

 左派の皆さんはもっと、自分たちが「正義の戦争」を批判していることに自覚的であるべきです。自分が絶対的に正義であると思うときほど危うい。

 しかし僕は、あの記事に現れたような、素朴すぎるほど素朴な感情への配慮、それが無価値だとも思わないのです。人権概念は揺らいでいますが、人類普遍を救済したいという理念は、依然として価値を持っている。あの記事を書いた人は、黒人を労わろうとした。そういういわたりの道にヒトを導いてきたのが「人権」という概念だったのも、また変えようのない事実です。

 単純で、素朴で、この弱者は傷ついているから救わなければならないとシンプルに考えることができる、そうした「人権」という概念は、この先もつつがなく運用していけるのでしょうか?

 

 それにはもしかしたら、皆が人権に起きている揺らぎを知らないほうがいいのかもしれない。不信感が広まるよりは、無自覚であったほうがましなのかも。人権が完全な善だという信仰を持っていたほうが。

  しかしそれでも、言わずにはいられなかったのでした。

 人権って、君たちが思っているのほど、絶対的な善の概念じゃないから。

 このような記事はまったくポリティカルコレクトネスに反しているといえます。政治的に正しくない。利益とか平和を求めるなら、こういう発言はやめたほうがいいですよ。しかし僕は利益を求めないので書いた。

*1:念のため述べておきますが、なんか個人コラム的な記事だし、ハフィントンポスト本体に責任があるかは微妙です。あと前もって補足しますが、ハフィントンポストはこの記事のあと、もっと事実紹介に沿ったマシな記事を出しており、僕はそちらの論調にも概ね賛同するところです。記事の最後に紹介します

*2:権利の起源とかいうと、教科書ではジョン・ロックがどうとかいう話になりますが、それは権利思想の起源であって、権利は紀元前からありました。確かなことはいえないので"恐らく"という言い方になりますが。

*3:もちろん非人間的であることは正しくないことではない、という点はちゃんと留保しておきたいと思います。

*4:本当はここで、アドルノの「痛み」に関する議論を引こうと思いましたが、あまりにも理屈っぽくなりすぎるので控えました。

*5:っていうかたぶん、人間性っていうものが本来危険で、公平とは程遠いものなんでしょう。

*6:これは全然関係ないですが、左派の方々がネトユヨを社会的弱者の敵として扱うのは理屈が通らない、と常々僕は思っています。ネトウヨになるのは彼らが社会的に弱者で貧乏だからだ。それは統計的にも思想的にも明らかです。

*7:実は僕はポリコレについてはまだそこまで詳しくありません。今のところこういう理解ですが、あとから勉強して修正するかもしれません

なぜ人は「積読が無駄」という勘違いをするのか

 今回は積読について書きます。

 なぜ積読について書こうと思ったかというと、今日たまたま「積読している自分を反省する。計算ができずに無駄遣いをしている」という旨の読書ブログを読んだので。いや、読書ブログやってて積読が無駄使いとか意味がわからない

 あるいはまた、友人がある時○○というちょい高めの本を買うか悩むと言う。僕は言った。「迷わず積めよ、積めばわかるさ!」。でも彼女にはそれは難しいらしい。なぜならば今の新居には本棚がないから。読書好きなのに本を積むところがないなんて大変なのことでは? 元気ですか!?

 積読はいいことです~なんて記事言説は、正直言ってネット上どころかネット以前から溢れています。それについて俺が新たにどうこうい言うことはない。ただ、だからこそ読書好きにすら積読に忌避感があるのは変なことのように思えるのです。積読が悪くないないという言説は溢れるほどなのに、なぜ積読が悪いことだと思うのか」ということについて考えをめぐらせているうちに、いくつかこれじゃないか? ということを思いついたので、ここに書いておくことにしました。

 そこには現代社会の構造がもたらす文化・思考様式があるように思われます。この記事ではその問題について、仮説という名の放言を書いていくつもりです。

 

積読が良いことである理由

本棚から本を出す男の子のイラスト  積み重なった本のイラスト

 まずは、積読が悪いことではない理由を再確認しておきましょう。これは先述通りこれまでさんざん述べられている内容で、ちょっとネットを探せばより詳細な内容が簡単に見つかるものです。

 

  • 本は買わないと手に入らなくなる
  • 買わなかった本のことは忘れてしまう
  • 本には持っているだけでプラスになる面がある
  • 本を買うことは買い支えることに繋がる*1

 

 まず真っ先に思いつく理屈は「買っておかないともうその本は手に入らない」です。本は腐らないのでいつでも手に入るような気がしますが、実は全くそんなことはありません。アマゾンと電子書籍の現代においてすらです。僕はつい先日も、欲しい本をネットで注文しようとしたらプレミアで万の値段になっていて、絶望しました。プレミア系なので電子化も絶望的です。

 例え在庫が払底することがなくても「そもそも買うことを忘れてしまう」という状況も頻繁にあります。ネットで検索すれば判ることでも、検索語を忘れてしまえば二度と判らないのです。僕にも昔からずっと探している本があるのですが、タイトルをすっかり忘れているので、いまだに見つけられておりません。

 学術・実用書を中心に「本棚にあるだけで知になる」という考えもあります。人間の知には外部性という特徴がある。例えばものさしを使えば人間はミリ単位でものの長さを測れますが、これは「ものさしを持つ人間にはミリ単位でものを測る能力があること」を意味します。脳の中にあるものだけが知恵や知能じゃない。脳の外部にも能力や知識は保有されているのです。つまり本をたくさん持つ人間はそれだけ多くの知識を持っていると言える*2。あと、これはその人の生活にもよりますが、本棚に本が並んでるだけで刺激になるとかも言いますね。

 最後に少し方向性がかわるのは「好きな作品を買い支える」という話。積読をするからには読まないとしても買っています。買ったということは、その素晴らしい本の作者にいくばくかの収入とモチベーションをもたらしたということです。貴方が本を買わないならば、その素晴らしい本の作者は2作目を書かない可能性がある。好きな作品を買い支えるという消費は、今ようやく日本でも広まりつつある気がしますが、もっと広範に行われるべきです。

 

現代社会が積読を否定したがる理由4つ

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 以上のような事実が、積読を擁護するために頻繁に指摘されている訳です。

 しかしどういう訳だか、この手の言説は積読否定者たちの心に実感として届かず、積読は無駄づかいだなあ、という事実に反する感想が相変わらず胸の内を占めているようです。それはなぜなのか? 彼らにあるのはなんなのか?

 いくつか仮説があるので、先に全部確認しておきます。

 

  1. 消費社会の文化様式
  2. 暗記を重視する教育の弊害
  3. 文学という分野の衰退
  4. 経済に関する直感的すぎる理解

 

 なお、実はこの仮説には最も有力なゼロ番があって、それは「0.本に興味がないから」というものです。本が好きじゃないので、本を買うことを感情的に肯定できない。読みもしない本をまた買って、とか妻がまた愚痴る。うるせぇ、年に数度も使わないバッグや帽子を買うんじゃない。あ、いやすいません。そうじゃなくて、そこはお互いに踏み込みすぎないようにして趣味のぶんのお金は確保しておこうね。

 この記事では、あくまでも本が好きなのに積読がダメな気がする、という状態を問題にします

 

+仮説1:消費社会の文化様式

インテリアコーディネーターのイラスト(女性)

 この現代は消費社会です。

 ここでいう消費社会というのは、通俗的な理解による"いっぱいゴミを出しちゃう無駄の多い社会"のことじゃなくて、消費することが社会に属する条件になっている社会のことです。ジグムント・バウマンとかアンソニー・ギデンスとかが言いました。

 例えば、社会の上流階級の存在であると周囲のメンバーに認知されるためには、上流階級にふさわしい服を買っていないといけません。ハリウッドセレブであるためには、派手なドレスを着てベンツでパーティー会場に赴く必要がある。即ち、派手なドレスとベンツを買える消費者であることがハリウッドセレブである条件なのであり、例え借金まみれで役者としてのキャリアが微妙でも、ドレスとベンツを買っている間はハリウッドセレブであると見做されるのです。セレブの逆の例としてホームレスがあります。ホームレスであることとは「家や服を消費できないこと」であり、それ故に彼らは普通の社会に属していないと見做されます。現代というこの消費社会では、どういう消費をするかが、その人の属性を決定するのです。

 これは別に、そういう極端な階級の人に限らない。普通の市民であるかどうかにも、消費内容は大事です。「かしこい消費」をするかどうかが、自分が「かしこい市民」であるかどうかを決定づけます。「かしこい市民」でいることは、自分がこの社会で受容されているという満足感をもたらしてくれます。雑誌に載っているセンスのいい買い物をするのが「かしこい市民」。テレビで紹介された100均の便利収納グッズを買うのが「かしこい市民」。オシャレ雑貨屋で素敵なインテリア小物を買うのが「かしこい市民」です。

 翻って、読みもしない本を買うことや、大量の本で棚を占有することは「かしこい市民」の行動とはいえません。だってインテリア雑誌のオシャレな部屋はそんな風になっていないから。部屋の空間を背の高い本棚で埋めると圧迫感がでる、などという、昔の人は考えもしなかった価値観を雑誌とワイドショーが配信し続けています。本を買ってもいいが、それは読み終わったら断捨離するか、売って別のものを買う足しにするかするのが「かしこい」というだと雑誌は言っています。

 本を買って積むような消費形態は「かしこい市民」という望ましい社会階層から除かれる恐怖を伴ってしまうのです。

 個人的には、本当に賢く合理的な人間は社会の要請ではなく自分にあった生活様式を自分で選ぶと思いますから、読書好きならば上で述べたような積読のメリットを享受すべきだと思いますが。しかしまあ、積読的な消費がダサイとみる文化がいまの社会にあるのは確かです。

 

+仮説2:暗記を重視する教育の弊害

本棚・書棚のイラストf:id:gentleyellow:20171217152701p:plain

 上の積読のメリットを挙げた項で、知が外部性を持つことを述べておきましたが、これがどうも一般に広まってない。

 どうも現代人には蔵書と保有する知をイコールで結ぶ認識がない

 アインシュタインが自分の電話番号を覚えなかった逸話などは有名なのに、その核心部分「電話帳を持っていることは無数の電話番号を暗記しているのと同じ」が、なぜか自明と見做されてない。いやむしろ後退しているかもしれません。僕のおばあちゃんの時代までは、一家に一冊広辞苑といわれていたし、書斎と蔵書があることは知があることだったはずです。

 広辞苑が消えたのはインターネットができたから? 確かにそうかも。でもネットに関する言説で"インターネットに書いてあることが沢山あるから本を読みなさい"とか言うアレ。あれなんか本当は「インターネットに書いてあることが沢山あるから蔵書を持ちなさい」であるべきだ。ネットが完璧でないのと同様、僕らの記憶力も完璧じゃないんだから。

 なぜ蔵書を知とみなせないのか? それはたぶん暗記したことだけが保有する知であるという間違った印象を日本の義務教育が与えているからではないでしょうか。学校のテストでは、暗記していない知識は持っていないものとみなされる。きれいにまとまたノートを持っていることや、参考書のどこに求める情報が書いてあるか知っていることは、知識を持っていることとはみなされないのです。実用上はそちらのほうが余程大事に違いないのに。

 いや、暗記教育に意味がないとは言いません。すぐに知識を思い出せるということは、思考速度に直結する。しかし、だからといって暗記していない知識を知でないと見做すのは問題でしょう。そういう認識だから、「難しい本を読んでもどうせ忘れるから無意味ね」とか「もう二度と読まないであろう本を置いておくのは無駄だな」とかいう間違った結論に飛びつくのだ。

 蔵書、イコール、インテリジェンス。そのことを改めて確認したおいた方がいいと思います。そして、それができていないなら、積読と無意味を結び付けてしまうのも無理はないのかもしれない。

 

+仮説3:文学という分野の衰退

小川未明の似顔絵イラスト

 最初の序文で述べた、積読を反省してしまう読書ブログ、あるいは家に本棚を置かない読書好きの友人、彼らに共通しているのは主な読書がエンタメ系の小説作品に限られるということです。積読を反省とかしてしまうのは、読むものが娯楽作品だからなのかもしれない積読を擁護するのはたいてい学者だったりするし、実用書以外は積まなくていいと思ってしまうのか。しかし、なぜ娯楽作品だと蔵書を持たなくてもいい気がするのだろう?*3

 理由は恐らく文学という分野が無効となり、エンタメと実用知が明確に分離してしまったからでしょう

 かつて「文学」は作品ジャンルではなく、文字通りの学問でした。なぜフィクションを読みこむことが学問足りえたかというと、ざっくり言えば、文学作品を読むことは人生を経験することだったからです。人生経験が無意味な訳ありませんよね? 文学作品とは、読者に人生経験を積ませるものであり、それは研究に値するもの。実用に値する価値を持つものでした

 ところが現代になってフィクション作品は「研究価値のある(と偉い人の考えた)文学」と「ただ楽しいだけのエンタメ」に分かれてしまいました。原因はいろいろあるんでしょうが、僕には何とも言えない。強いていえば、変わったのは作品や社会ではなく蛸壺化していった文学者たちだったのだろうと思う。それが悪いことなのかどうかも分からない。ただ、そういう経緯があったせいで現代人は自分たちが読んでいるものを「文学ではないので実用上の価値がない」「人生ではなくただのフィクション」「娯楽になってもそれ以上の価値はない」とどこかで考えています。

 しかし、それは本当でしょうか?*4 かつてシェイクスピアが人生同等だと見られたことがあるならば、今僕が読んでるラノベだって人生同等とではなかろうか。記念写真のアルバムを捨てることを躊躇うのに、エンタメ本を捨てるのを躊躇わないのはなぜなのか。かつて、ほとんど初めて文学性に触れたあるオタクは言いました。CLANNADは人生。それは皮肉交じりに言い伝えられている名言ですが、僕が断言しましょう。CLANNADはガチで人生だし、他の作品も人生なんですよ。この人生は読まないから無駄なんて話は全く受け入れられない。

 そう考えたら、積読することは、未来の人生経験にむけた可能性を確保していることに等しいと言えるんじゃないでしょうか。

 

+仮設4経済に関する直感的すぎる理解

ケチのイラスト

 ここまでは積読のメリットが理解されてないという話をしました。でもやっぱり、気は進まないけど、積読のデメリットにも言及しないと流石にアンフェアかもしれない。

 積読をすることの最大のデメリット、それはお金がかかるということです。読むぶんだけ買うのと、読めない分まで買うことでは、当然のことながら前者のほうがお金がかからない。だから積読をすることは、お金の無駄であり、お小遣いの無駄遣いである。いや、ごもっとも。流石にそこを否定することはできそうにない。コストの問題は積読擁護派にとって、アキレウスの踵ジークフリートの背中の葉っぱ、GACKTの格付けヤラセ疑惑にあたります。だから気がすすまんと言ったんだ。

 しかし、敢えて、否定はできないという前提の上で、もう一度考えてみましょう。積読にかかるコストを、節約=善という素朴すぎる経済感覚に基いて計算してやしないか。

 もしも貴方が日々の暮らしにも事欠くような給与で暮らしているのならば、たしかに積読は勧められない。しかし少なくとも今まで積読をしていたのならば、貴方の給料は積読ができる程度にはあるはずです。となれば、積読をしているとしてもいいはずです。なんといっても、積読は未来に読む本を買うこと、いうなれば将来への投資。ただお金が財布にあるより、投資したほうがいいというのは、賢い経済行動の基本です

 いえ、さすがの僕も積読がリターンの大きい投資行動だとまでは申しません。申しませんが、じゃあ貴方は積読を止めたお金で何を買うつもりなのか? 本を買わなくなった金で定期預金を始めたり、個人年金のランクを上げたり、英会話教室に通ったりするるとでも? きっと僕なら、コンビニ弁当をの代わりに2000円の飯を食べて節約した金を使ってしまう。もしそうするなら、積読のデメリットの代わりに別のデメリットが生まれるだけです。しかも2000円ランチは全く将来の投資とはいえない。

 だったら読書好きらしく、好き放題積読したほうがいいと思います

 あるいは、それでも積読をやめて金を何か別のマシなことに回したいなら、おすすめの使い方があります。積読を止めて数万円を節約したら、天井まである本棚とドキュメントスキャナを買おう。そういう将来的なビジョンができてから、初めて積読をやめればよいのです。

 

+心おきなく積読しよう。あと消化しよう。

読書の秋のイラスト(男性)

 以上、4つの仮設を述べることで、なぜあの人が積読を悪いことだと思っているのかを考えました。

 ……積読している自分のための擁護を精一杯述べただけだともいうが……。

 ただ、例えここで僕が述べたことが自己弁護にすぎないとしても、積読に捨てがたいメリットがあるのは厳然とした事実です。そして、もし上で放言した仮設の形にしたような考えを貴方が持っているならば、貴方は積読のメリットを過小評価しているかもしれない。

 先日、「積読しなくなる状態とは、読書欲が衰えている状態のことだ」という趣旨の発言をSNSで拝見しました。我々読書家にとってそれは、生存欲求が衰えていることだ。僕は目が見えなくなったら自殺するかもしれないと真面目に思っているし、他の読書家もそうだろうと真面目に思っている。我々にとって読書するとは生きることです。生きるのを欲望するのは普通のことだ。

 即ち、積読するのは普通のことだと言えます。心置きなく積読をしていこうじゃないですか。

 

 あとは、まあ、できるだけ積読は消化したほうがいいよね。もちろん

 

 

*1:なお「買うという楽しみを得た時点で役割が終わっている」とか「コレクションである」という積読擁護論は、広範な理解が得られそうにないので省きました。

*2:だから蔵書を捨てるのはやめた方がいいですよ。それは自らの知を捨てることです。場所がないなら考えるべきは、ドキュメントスキャナか本棚を買うことです。

*3:書きながら、たった今自覚しましたが、こう言っている僕ですら大量のライトノベル蔵書をうっすら無駄と思っていたようです。自戒が必要だ。

*4:ここから詭弁に入っている自覚はある。反省はない。

夜神月のクソさは「レイ・ペンバー殺したじゃん」とかいう問題ではない。

 今回はデスノート夜神月について書きます。

 なぜ今更デスノートかというと、その行動の評価について「犯罪率下げたけど、レイ・ペンバー殺したからダメだよ」とか「終盤保身に走らなければよかったんだ」とかいう言説がけっこう見られる、というか、僕が探したらそういう評価が主にネット上にのさばっていたからです。

 個人的に、フィクションの話であることを差し引いても夜神月がやったことは悪であり許されないという理屈や評価が一般に広まりきっていないというのは、これは納得いかないところがあります。レイベンパー殺さなかろうが、最後の死に様で保身に走るような無様を晒さなかろうが、夜神月はクソ行為をしたクソ野郎です

 それが賛否両論みたいになってしまうのは、漫画デスノート夜神月が何をしたのか? を分析するのに現実の社会に関する知識や視点が欠けているからです。

 この記事では、漫画デスノートの社会で実際に何が起こったのか? について、僕の知識と分析を書いていきます。

 

 

+キラがしたのは悪人を裁くことではない

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 最初に述べる点がもっとも重要だと思います。

 夜神月は自分=キラが犯罪者に裁きを下したと思っています。自分でもそう言っていますし、一部のキャラからそう思われているという表現も漫画に出てきます。でも実際に裁きを下しているのはキラではありません。

 犯罪者を裁いているのは警察です

 キラはテレビの犯罪報道、あるいは警察の偉い人である父のパソコン等を見て、逮捕されたという情報のあった犯罪者を殺害します。そうです。既に逮捕されているのです。放っておいても裁きは下りました。懲役とか罰金とかいう形の裁きです。

 当時高校生だった月クンはそういう既存の裁きでは不十分だと感じていたので、デスノートを使って犯罪者を死刑にすることにしたわけです。懲役や罰金で済んでいた犯罪を、死刑に変える。これは一般に厳罰化といわれる政策です。

 つまりキラがしたのは「刑罰を許可なく厳罰化し、死刑にする」という行為でした

 

+月くんはデスノートを「面倒だから」使った

 言うまでもないことですが、刑の厳罰化は別に普通の人間にもできます

 政治家になって圧倒的な権力を得て国会で議案を通して、犯罪者を死刑にするという法律をつくればいい。実質的に無理ということをさておけば、原理上はデスノートなんか使わなくても可能なことです。歴史上でもポルポトとかは普通に近いことをしました。

 だから月くんの「厳罰化のためにデスノートを利用する」という行為は、所詮高校生だった彼は自分でも判ってませんでしたが、要するに権力を手に入れたり政治家になったりするのは面倒だからという意味でした。

 月くんが自分で考えるほど超絶天才で社会的に成功が約束された存在でキラの政策が社会に貢献するのだったら、警察庁長官の息子で東大卒の経歴を引っ提げて自民党から選挙に出て、総理大臣となり、独裁を実現すればよかった。

 逆に言えば、キラはそれをしないで法律を変えちゃった。

 キラが殺したのは、実は犯罪者ではなく議会制民主主義だったのでした。

 

+キラの行為は凶悪殺人鬼への恩赦に近い

「デスノ ふざけるな」の画像検索結果

 まあ、原理的にデスノートなしで可能とはいったものの、現実問題、国会でキラがやったような厳罰化法案を通すのは無理です。だからデスノート意味なかったみたいにいうのは、さすがに言いすぎかもしれません。

 でもなぜ無理なのかな? 理由はもちろん、皆が賛成してくれないから……なぜ賛成しないのか? 愚民どもは月くんよりも頭が悪いから、デスノートを使うしかないのかな?……もちろん頭が悪いのは、無知な高校生だった月くんのほうです。大人は月くんの考える通りにする事の何が問題なのかちゃんとわかってます。

 いきなり全犯罪者を死刑にすると、いろいろ問題はあるですが、恐らく一番大きな問題点は罪と罰にはちゃんと「量刑」をつけないといけないということでしょう。ハンムラビ法典の時代から、法律は「目を潰したら目だけを潰してそれ以上のことはしない」と決まっています*1社会の安定と公平のためには、罪の大きさがイコール罰の大きさでなければなりません。これを罪刑法定主義といいます。

 ところで死刑には、それ以上大きな罰を設定できないという特徴があります。二回スピード違反をしたら二倍の罰金を課せばよいのですが、二人の人を殺したからといって二回死刑にすることは不可能なのです。罪刑法定主義の観点から言えばこれは不都合です。なので、現実に死刑を実施している国では、死刑は最大の罪に対する罰とされています*2。例えば日本では複数人以上殺した罪人が死刑になります。罪の大きさがカンストするので、それ以上は全部死刑という意味です。

 ところがキラは盗みなど比較的軽い犯罪を犯したりした人からいきなり死刑にしました。つまり、大量殺人鬼と窃盗犯の罪は同価値であると宣言したことになります。

 これが問題にならないわけなくて、例えば「俺は盗みを犯してしまったからもうどうにでもなれ好き放題強姦してやる」みたいな自暴自棄犯を生んだり、最悪の場合盗みと同じ程度の行動だから殺人したけど俺そんなに悪くないよね、みたいな価値観を醸成する恐れすらあります。でも何よりの問題は、法の下の平等や公平といった価値を損なっているという点だと思います。倫理が破壊されている。

 月くんはキラを正義の執行者だと思ってましたが、実は凶悪犯の罰を相対的に軽くした、正義を破壊した悪の擁護者だったのです。

 

+キラは大量の冤罪者と間接殺人者を生んだはず

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 いきなり全犯罪者を死刑にした場合の、もっと判りやすい問題点として死刑にすると冤罪に対処できないという話もあります。

 なにしろ一度死んだ人間を生き返すことはデスノートにもできません。

 冤罪被害の議論は、現実の死刑問題でもしばしば死刑反対の協力な論拠として挙げられます。よくテレビを見る人なら「かつて死刑の判決を受けたアメリカの死刑囚がDNA鑑定普及の結果、再審やり直しで無罪になった」みたいな実話*3を見たことがあるかもしれません*4。最重犯罪に限っている現実の死刑についてすら冤罪が問題になるのに、窃盗なんかの軽犯罪まで逮捕するそばから全部死刑にしていったのだから、キラのせいで冤罪被害を受けたまま死んだ人が確実にいるはずです。

 更に言えば、犯罪報道に載ってしまうとキラに殺されるということはみんなが知っていたのだから、わざと殺したい相手に冤罪をかぶせるというタイプの殺人もあったに違いありません。キラの逮捕が不可能だった以上、そういう殺人者は物語終了後も野放しになっていたでしょうね。

 

 

+キラは司法権をマスコミに投げ与えた

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 百歩譲って、月くんがそういう「即死刑政策」の問題点を把握しており、それでもなおやるべきだという決意のもと行動に移したのだとしましょう。しかし、恐らく月くんが意図してなかった上に実際に漫画の中でも描写された問題があります。マスコミの暴走です。

 あれは月くんがとった行動を考えれば起こって当然の出来事でした。

 なぜかというと、キラは基本的にマスコミの犯罪報道を見て死刑を実行していたし、社会の皆もそのことを知っていました。ということは誰を死刑にするかはマスコミが決めていたし、マスコミの中の人もそのことを知っていたということです。ていうか途中からはキラ自身がさくらTVの保護を公然と周知し、司法ではなくTV局への報告を推奨しました。

 言うまでもなく「誰を死刑にするか決められる」というのは、相当大きな権力です。現代では普通は司法権として、大統領や総理大臣からすら分離されている権力で、最高裁判所の裁判官のような、注意深い選別と安全措置をとってやっと与えられるものです。キラはその絶大な権力をいきなり、よく知らないマスコミの人に与えたことになります

 案の定、いきなり強大な権力を与えられた人がマトモでいられるわけがなく、そうして「嫌な奴」から「暴君」になってしまったのが出目川Pというキャラクターでした。後にキラ自身*5も見るに堪えないという理由で彼を殺しましたが、どう考えても出目川Pの暴走を生んだのはキラでした。

 彼はなにかにつけて死刑制度の運用が無思慮すぎる。悪であることよりも頭が悪いことが問題です。松田をバカ野郎とか罵っている場合ではない。

 

 

+「犯罪率下げた」とかで勝ち誇らないでください

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 しかし更に千歩ほど譲って、夜神月くんが出目川P暴走のような事態すら折込済みで、ただただ社会を良くしたいという正義感から行動したのだとしましょう。漫画デスノートでは明確に「キラの出現によって犯罪率が下がった。キラの消失によって犯罪率は戻った」という描写がされています。だからキラにも一面の正しさはあったと言えるんじゃないのか?

 これについては二つの考え方があります。

 第一に、別にキラのいない現代日本でも厳罰化は進んでいます。言われれば皆判ると思いますが、2000年と2007年には少年法の改正による低年齢化、2009年には道路交通法改正による飲酒運転点数増加などがありました*6。もしもデスノート世界でも現代日本と同じ出来事がおこっているのだとしたら、キラが何もしてなかったとしても厳罰化の流れはあったと思われる。キラの出現によって犯罪率が下がったのだったら、キラがいなくても厳罰化で犯罪率は下げたんじゃないでしょうか。

 第二に、これはフィクションに対して言うのも何なんですが、実際には厳罰化による犯罪率低下は、起こらない・または効果が薄いと思われる。既に述べたように、犯罪を抑止する目的での厳罰化は別にデスノートでなくても可能です。そして、実際にやりました。その結果、専門家の議論はだいたい「厳罰化による犯罪抑止効果は限定的だったよね」という結論になっています。

 例えばアメリカでは1970年代からずっと少年犯罪の厳罰化を進めていましたが、近年も銃乱射事件の報道をよく見るように、十分な抑止効果がないどころか下手すると悪化しています。他に有名なのはNYのゼロトレラント政策で、犯罪率は確かに下がったもののそれは他の施策による効果が主だったとされています。

 厳罰化に犯罪抑止効果が少なかったのは、後知恵ですが、考えてみれば当たり前でした。だって犯罪後の結果について十分な思慮を働かせる余裕や知能がある人が、罰金100万円の犯罪を実行する訳がないだから罰金を止めて死刑を採用しても、そいつは思慮を働かせることなく犯罪をします。犯罪っていうのはほとんどの場合、衝動的かつ軽率に行われるのであって、デメリットでかいからやめようみたいな合理的期待の効果は薄いと思われるのです。

 というわけで「キラが犯罪率を下げた」というストーリー上の描写すら、ちゃんと考えるとどうやら怪しいのでした。

 

 

+キラが成し遂げたことってなによ?

 まとめます。

 

  •  キラは悪人裁いてる気取りだけど実際やってるのは警察。
  •  キラは全くの無思慮で日本の政治システムを破壊した。
  •  キラの存在はむしろ多くの悪人を生んだ恐れがある。
  •  キラが犯罪率を下げたっていうけどそれもあやしい。

 

 という訳で、夜神月くんは自分(と一部の読者)が思うよりはずっと悪いことをしているし、逆に良いことは全くしていないです。

 というか些細な記憶力や計算能力で天才設定が演出されてますが、そもそも発端の「悪い奴を死刑にすれば世界はよくなるよね」という中二病発想は大学受験の時期になって言いだしている上、その考えを東大*7法学部に入り、司法試験に合格してまでまだ捨てていない訳です。司法の勉強が身になってないにも程がある。はっきり言って相当頭悪いです*8

 こういうことを抜いて、キラが明確に何かを成し遂げたことといったら、たぶん社会的ムーブメントを作り出して最終的にキラ教団を作ったことじゃないでしょうか。あれだけは、ちょっと否定しようのないストーリー中における明確な成果だと思います。無から有が生まれていますからね。

 デスノート無しで教団を作ったぶん、大川隆法のほうが格上ということになりますけども。

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*1:『目には目を』の復習法とは『俺の目を潰した相手は一族郎党皆殺しだ!』みたいな無法者を王が止めるために制定されました。

*2:この点は実は現実世界の死刑に関する議論でも問題となります。公平性や法的整合性の観点から言えば、人を一人殺したら懲役50年、二人殺したら懲役100年と加算していって、大量殺人鬼には懲役1000年みたいな数字を例え非現実的でも設定したほうが良いという考えがあるのです。

*3:だいたいこういのは月曜日のビートたけしの番組で紹介してました

*4:折しもデスノートを連載していた2000年代はDNA鑑定の普及で過去の冤罪被害が何件も明らかになっていたころで、この手の議論が大いに盛り上がっていました。月くんは犯罪被害に興味があるくせに当時のホットトピックすら把握してなかった、と言えるかもしれません。

*5:この時は魅上でしたっけ

*6:ちなみにこの日本の事例ですが、少年法改正については今のところ目立った効果は見つかりません。あと飲酒運転については減りましたが、罰の大きさが変わったせいというより、改正に伴って進んだ代行業者の普及や飲食業界によるハンドルキーパーキャンペーンのほうが大きいのではないかと思われます。

*7:東応大学でしたっけ

*8:なおこの記事は行きがかり上、原作者・大場つぐみ先生が政治思想に無知であることを責めてると取られてもしかたないですが、面白さにおいて圧倒的な作品を作った原作者を、僕は100%リスペクトしている旨をここに名言します。

いじめに遭ったらどうするか?(攻撃+抑止編)

 前の記事で、「もしいじめに遭ってしまったらいかにしてそれを乗り切るか?」という内容について書きました。個人的には「いじめに遭ったらどうするか」というテーマでは、そっちがより大切な内容だと思っています。

 ただ、基本的に受け身の内容で、積極的にいじめを無くしたりする内容ではないので納得いかない人もいるかもしれません。なので今回はいじめに対してより積極的に対処する方法、いじめられている状況を消し去る方法について書きます。名付けて攻撃+抑止編です。

(なお一連の記事の更に前段階で、いじめがなぜ起こるのか?という記事も書いていますので、そちらも参考にしてください)

 

+相手を面白がらせたらいじめが続く

人を押す男の子のイラスト

 いじめ加害者は、いじめを楽しんでいます。

 認めがたいかもしれないし、あるいは言うまでもないかもしれませんが、いずれにしても「いじめは楽しい」です。いじめている相手が泣いたり傷ついたりすると、いじめっ子はますます楽しくなります。悪いことかどうかは関係ありません。いじめは、悪いことかどうかが判らないバカが起こすものだからです。

 逆に言ったら、もし楽しくなくなったらいじめを止めるはずです。いじめ加害者はたいていバカなので、つまらない勉強を辞めるように、つまらないいじめは簡単に辞めるでしょう。いじめをつまらなくすることで、いじめは止めることができる可能性があります。

 

  • 何か話しかけられても無視する。
  • 何か命令されたら断る。
  • 暴力を振るわれても痛がらない。
  • すぐ帰る。

 こういうことをすると、普通の友達でも「なんかあいつつまらない奴だから遊ぶのやめとこうぜ」とかなります。もしいじめ加害者がいじめ被害者に対し「遊ぶのやめとこうぜ」となったら、それはいじめが止まることです。

 

 

+気にしない心が大事

集中して勉強をする人のイラスト(男性)

 とはいえ「相手を面白がらせない」という方法は、ほとんど相手の心をコントロールすることを意味しています。それは人生経験を積んだ大人でも、普通に難しいことで、ある種の技術や才能が必要になります。

 なので、場合によっては完ぺきには上手くいかないかもしれません。ですが上手くいかなくても気にしないでください。というのも「反応が面白くない相手」の筆頭が、特になにも気にしてないやつだからです。

 貴方が相手を面白がらせないために、すぐに帰ってしまったとしましょう。次の日学校に来たら、靴に画びょうが入っているかもしれません。そこで、お前が画びょうを入れたんだろう! と怒ったりすると、入れた人が喜びます。黙って画びょうを靴から取り出して捨てて、入っ手たことすら忘れてしまう。で、今日もまたすぐに帰る。

 そういう淡々とした対応が必要です。相手に興味を持たれないためには、自分のほうも相手に興味を持たない。何も気にしないほうがよいのです。

 

+「力」を手に入れ誇示しよう

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 ハッキリ言ってしまいますが、いじめに遭っているからには「弱者」です。

 というのも、いじめは「弱者=いじめても問題がなさそうな相手」をターゲットに起こります。いじめ被害に遭っているということは、少なくとも「弱そう」に見られています。運動が苦手で見た目的に弱そうに見えたり、勉強が苦手だから皆から舐められていたり、コミュ力不足だからクラス内の立場が弱かったり、性格的に友人が少なかったりするはずです*1

 逆に言えば、いじめたら問題がありそうな強さがあると思われたら、もういじめられることはありません

 そのために広い意味での「力」をつけることです。「力」とはもちろん筋力も含みますが、例えば権力や財力なども含みます。貴方自身の力である必要もありません。

 よくある例を箇条書きにすると、こういう話になります。

 

  • 格闘技や筋トレをしてムキムキになる(殴り返されたらヤバそう)。
  • 相手がいかに悪いかを他の友達に訴え、味方につける(人数に頼る)。
  • 何かあったらすぐ家族や先生にチクる(大人の力を味方にする)。
  • 勉強して超優秀になる(なんだかんだ学校は学力イコール実力です)。
  • 法律を勉強して盾に使う(最強の権力です)。

 

  要は立場が強くなればよいのです*2。こうした力を最初から持っているならば、恐らくいじめられることは無かった。そして今から力を手に入れたとしても、いじめられることは高い確率でなくなるはずです。

 

+「ポケットの中のナイフ」は無意味

世紀末感のある人のイラスト驚く豚のイラスト

 ただし、いじめへの対処として力を手に入れようというときに、注意しないといけないのは、手に入れた"力"の運用方法についてです。この力は、使おうとするのではなく、誇示することを考えてください

 いじめ対策で力を手に入れるのは、相手をやっつけるためではありません。相手がビビってなにもしてこなくなるのを狙うのです。欲しいのは軍事や外交でいうところの抑止力です。

 抑止力とは力を見せびらかしたときに発生するもので、使ったときに発生するものではない。むしろ力を行使してしまうと抑止力は消えて、差し迫った脅威とみなされた結果戦争になります。いじめに関して割と言いがちな意見に「いじめっ子に反撃なんかしたらもっと虐められる」という主張がありますが、だいたい事実と思います。反撃ではなくアピールをすればよいのです。北朝鮮がなぜ核ミサイルを実際に撃たないのかを考えましょう。撃たないでいるほうがいいからです。

 先述の「力」のリストに即して言えば、次のような話になります。

 

  • 相手にケンカで勝つことではなく、見るからに筋肉が大きかったりが大事。
  • 頼れる交友関係があることを、加害者に知らせるようにつとめる。
  • チクれるチャンスを待つのではなく、何かやったら先生にチクると告げる。
  • 隠れた勉強でテストに挑むより、先生の前で堂々と勉強する。
  • 相手を裁判で負かすより、相手の前で110番しようとする。

 

 逆に悪い例をあげると、いじめられた時の対処で最悪な方法の一つが「ポケットにナイフを忍ばせる」ことです。昔のドラマで偶に見られましたが、ポケットの中にナイフをあることをいじめ加害者は知らないのだから、いじめ加害者はいままで通りいじめを続けます。そしていざ本当にナイフを抜いてしまったら、貴方はいじめっ子にとって命を脅かす敵ですから、貴方を殺すつもりで最大級の反撃をしてくる恐れがあります*3

 つまり、使わないと意味がない癖に使えば危険なのが「ポケットの中のナイフ」です。もっと目に見えやすい「力」をアピールしていきましょう。*4

  

+使える大人は使え、使えないなら別の大人を使え

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 自分自身が力をつける他に、他人の力を使う方法もあります。今の時代、いじめは当人だけでなく、教師や大人にとっても大変な問題です。大きな事件になればマスコミに取り上げられて怒られて最悪の場合職を失ったりします。だから、大抵の大人はいじめ対策に協力的です。これを使わない手はありません。

 まず最も簡単な方法として担任の先生に相談する、という方策があります。

 統計的事実として、担任の先生はいじめのことを知ると8割の確率でいじめを止めようとします。この止めようとする試みは、6~7割の確率で成功するか少なくとも一部成功します*5先生に言うだけで、50%確率でいじめがマシになるのです。これはでは是非とも試しておくべきでしょう。

 ただし、それは先生に言っても50%の確率でいじめは止まらない、もしくは悪化するということでもあります。教師にもいろいろいるので、担任にやる気がなかったり無能だったりすることもあります。なので先生に対してあまり全面的に期待するのも精神衛生上よくありません*6

 でも全面的な期待はそもそも必要ありません。担任の先生でダメならそれよりも偉い人に相談するればよいからです。先生だってまた教室を出れば、教わったり怒られたりする立場ですから、それで改善する可能性が高くなります。教頭先生・校長先生・自治体の教育委員会・PTAの人・いじめ対策専門のNPO組織など頼れる場所はいくらでもあります。

 そうして相談した全ての大人が何もしてくれないなんてことは、まずないです。

 

+最も身近かつ強力な味方「親」

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  先生に相談する他にできれば使っておきたい相談先は、いじめられている本人の両親です。

 いじめ被害を受けた生徒は、しばしば両親にそのことを秘密にするのですが、これはどう考えても良くありません*7。まず大抵の親は子供の味方です。担任の先生よりも、解決に協力してくれる可能性はずっと高いです。それに抵の親は子供よりも「力」があります。学校にとっては金を払っているお客なので学校に文句が言えるし、いじめっ子の親と対等に話したりもできるし、なんなら物理的な力だって子供よりは強いことが多いです。

 なにより、なんだかんだいって親は子供の人生を一部コントロールしています例えば親には「転校」という手段で無理やりいじめを解決することが可能ですが、子供にはできません。子供には転校するかどうかを決める権利がないからです。親の協力を得ないことは、言うなれば「自分というマシンの操縦が一部出来ない状態で戦う」ようなものです。右半身の操縦ができないガンダムで敵と戦うのは無謀といっていいでしょう。だから、是非ともいじめに遭ったら、親にそのことを相談して、何らかの協力を取り付けておかないとならないのです。

 あと、これは心構え+防御編で挙げた内容ですが、家族に自分が辛いことを受け入れてもらうとストレスを解消できます。逆に秘密を持つとストレスが貯まります。これも非常に大切なことです。*8

 

+いますぐ解決できないことは永遠に解決できないことではない

 

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 以上のような取り組みで、だいたいのいじめは解消できます。

 しかし注意しておかないといけないのは、こういう取り組みが効果を発揮するには時間がかかるということです。他人の態度を変えるのは普通に難しいことだし、「力」が一朝一夕の努力で付くなら苦労はないし、先生や親にだって相談されたからとすぐさまいじめを消し去るような真似はできません。今日いじめで辛かったなら、たぶん明日も同じように辛いでしょう。

 しかし、それでも即効性を求めないでください。例えば残りの人生全てを犠牲にすれば、明日の辛さを消すことはできるかもしれません。しかし犠牲にしなくても解決できるのだからそうすべきです。

 明日いじめが辛かったとしても、永遠に辛いわけではないということを、肝に銘じておきましょう。いじめはコミュニティの中で起こることですが、永遠に現状のままであるコミュニティは存在しません。

 ここで述べたのは、自分の努力によってコミュニティに変化をもたらす方法です。

 

 これで一連のいじめ関連ブログを終わります。

*1:もちろん、それは別に悪いことではありません。その人にも今いる場所では発揮できない長所があり、別の得意なことをして人の役に立つことが必ずできます

*2:ここで箇条書きにした他の「力」としては、財力にものを言わせて相手の親の会社を買うだとか、政治力を駆使してクラスの皆を扇動するだとか、超能力を身に着けて相手を攻撃するだとかも考えられますが、普通の人には不可能でしょう

*3:そればかりかポケットの中のナイフを使うと味方にすべきだった警察の権力を敵に回すことにもなります。あと武器は筋肉と違って奪い取ることができるので実はリスクが高い「力」です

*4:一つ注意があるとすれば、自分に力があるぞとアピールをするというのは、正直言って嫌な奴の行動です。ただ、今回はいじめられているという前提ですから、いじめ加害者から友達扱いされなくなって、完全に無視してくれたら、いじめはむしろ解決です

*5:なおこの統計は1999年の書籍に載っていたもので、いじめ対策が教師陣にも浸透してなかったころですから、2017年の現在はもっとマシです。

*6:いじめ被害者の告白には割と頻繁に無能だった教師への恨み節が登場します。

*7:生徒が両親にいじめを秘密にしたくなるのは、いじめが小5~中3にかけて多くなるためだと思われます。この時期は子供が両親から自立したくなる時期でもあります。

*8:注意点として、味方になってくれないタイプの「親」は確実に存在します。その場合は、いじめ対策と別の対策を並行して探さねばならないでしょう。

いじめに遭ったらどうするか?(心構え+防御編)

 世の中にはいじめ対策の本やブログが溢れていますが、たいていの場合それは保護者や教師がどうすべきかについて書かれたものです。だからいじめられている生徒にどうするかといった話が中心で、いじめにあった当の本人はどう考えればはあまり書かれていません。書かれていても、「抱え込まないで先生に相談しましょう」とか益体もない方針が理由もなく告げられるばかりだったりします。あるいは当事者向けであっても、それは「いじめ加害者をいかにして法律的に追い詰め、社会的に抹殺するか」という内容だったりします*1

 別にそれが悪いという訳じゃなくて、大人に相談するのも、法的パワーに訴えかけるのも、確かにいじめ対策として有効です。

 しかしなぜそれが有効なのかを理解しておけばもっと状況に即した役に立つ選択肢が見つかります。 この記事ではいじめに遭ったら当事者はどうすべきなのか、とりわけなぜそうすべきだと言えるのかを書いていきます。

(前段階としてなぜいじめは起きるのか?という記事も書いています)

 今回は心構え編+防御編です。いじめに対処するにあたってのマインドセットのあるべき姿と、いじめ被害の辛い状況に如何にして耐えるかです。

 

+いじめられてると思うなら第一段階は既に完了

置いてけぼりの子供のイラスト

 いじめに対処するにあたり、最初の関門は「自分がいじめられている」と気づくことです。

 いじめが起こっている初期段階では普通、自分たちがやっていることがいじめであると気づいていません。気づかないのはいじめ被害を受けている側もです。

 なぜ気づかないかというと、いじめでは誰かが「よしアイツをいじめよう」と決めたりしないからです。仲間のうち1人をからかったり、殴ったり、それをエスカレートさせたりするとなんだか楽しいだけです。そして、やられている側も「自分がいじられてみんなが楽しいなら、少しは我慢しようかな」とか思っていたりします。

 もし貴方が自分がいじめられている/いたと考えているなら、どこかのタイミングで「あっ、俺もしかしていじめられてる!?」という気付きの段階があったはず。ということは、その時点でいじめ被害はかなりかなり大きくなってしまっているはずです。

 でも、自分が今いじめられていると気づけたのたら、もうそれはいじめ解決の最初の一歩を踏み出したと言えます。まずはそのことをポジティブに捉えておきましょう。*2

 

 

+目指すは「いじめ加害者の仲間から抜ける」こと

 

f:id:gentleyellow:20171109172004p:plain 授業中に居眠りをする学生のイラスト

 前提条件を確認しておきましょう。

 いじめ被害者のあなたは、いじめてくるやつの仲間です。

 というのも、いじめは、同じコミュニティ*3のメンバーを対象に起こります。「いじめられている」とはいわば同じ群れの仲間が自分にひどいことをしてくる状態です。ただの他人や明確な敵がひどいことをされたら、単に怒って反撃すればいい。仲間が攻撃してくるから、いじめは辛いのです。いじめ被害者であるということは、加害者と同じ群れにいるということです。

 それを踏まえて「いじめが解決する」とはどういう状態か? 一番良いは加害者が悔い改めて仲良く親切にしてくれることですが、それはまず不可能でしょう。*4

 いじめ当事者が目指すべきなのは、加害者たちの仲間ではなくなることです。

 仲良くできない以上、仲間ではある必要はありません。クラスが同じだったりでなかなか難しいかもしれませんが、とにかく加害者たちと他人になって二度と人生で関わらないことを目指しましょう。恐らく、それが最も現実的な「いじめが解決した状態」です。

 

 

+仲間を抜けるのだから仲良くしなくていい

歩きスマホのイラスト(男子学生) 通学している男子学生のイラスト(学ラン)

 仲間を抜けるのだ、と明確に決意することは大事です。

 というのも、大抵のいじめ被害者は「どうにか自分とも仲良くしてほしい」と思っているからです。

 いじめ被害の当事者になる人は、どちらかといえば争いが嫌いなタイプのはずです。「俺をいじめるような奴は敵だ」とか自然と思えるような人はまずいじめにあいません*5。だから、いじめられてなお、性格が優しいために何もできなかったりします。

 最初に貴方が何かされたとき、彼らから嫌われたくないがために笑ってごまかしたりしませんでしたか? 裏切りみたいだからチクりを躊躇ったりしませんでしたか? 嫌われたり責められたりするのが嫌で命令に従ったりしましたか?

 そして何より、それらを継続してしまっていませんか?

 やめましょう。限界ギリギリまで頑張って、彼らの機嫌をとっても無意味です

 あなたは彼らと他人になるのだから、好かれても嫌われても関係ないです。そういう覚悟を心の中で確認しておきましょう*6

 

 

+主に対処すべき問題はストレスです

ストレスを抱えている人のイラスト(男性)

 最終的ないじめ解決を目指すのとは別に、いま現在の問題にも対処する必要があります。

 いじめ被害の当事者にとって最大の問題とは、ストレスです

 人間は継続的なストレスに晒されると、鬱になったり、体調が悪くなったり、注意力や記憶力が働かなくて失敗が増えたりします。そして最終的には鬱をこじらせて自殺してしまったりします。いじめ被害とはケガや物理的な危険による被害ではなく、主にストレスによる被害ですからストレスへの対処はいじめ解決と同じくらい大事*7です。いわば、いじめ攻撃に対して防御を固めるということ。

 具体的に何をするというと、一般にストレス解消と呼ばれる活動をします。

  • 趣味や好きなことをする
  • 運動する
  • 家族や友達と話す
  • なんでもいいから笑っておく
  • 規則正しい睡眠・食事をする
  • ストレス源と接触する時間を単に減らす

 他にもいろいろありますが、ストレスへの対処は大人にとっても大事なので情報は簡単に見つかるはずです。自分に向いたストレス解消法を探しましょう。

 ストレス対策は、いじめに対する有効な防御であると同時に、解決方法にもなりえます。もしストレスに対処できさえすれば、貴方は時間という最も簡単な解決手段を得ることになるからです。学校を卒業するまでの状況を楽々我慢できるのであれば、それは「コミュニティを抜ける」といういじめ解決のゴールが楽々達成できるのと同じことです*8

 

 

+ストレス解消と逆のことをしないように

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 注意しないといけないのは、いじめに限らず、人間は辛い目にあうとむしろストレスをため込む行動に走りがちです。よくある次のような行動はできるだけ避けましょう。どれもストレスに対する防御反応ですが、結果的にストレスは増加してします。

  • 部屋に引きこもって一切運動しない。
  • 昼夜逆転生活になり、太陽光を浴びない。
  • 学校に行かず、他人にあうのを避ける。
  • 辛いことを家族や友達に秘密にする。
  • 怒られないよういじめっ子の呼び出しにはすぐ応じる。

 例えば、気軽に不登校を行ってはいけません。テレビでいじめで自殺する事例ばかり報道されるため、「自殺するぐらいならいじめから逃げろ、学校行くな」とか言う人も多いですが、部屋から出ないことやいじめっ子に会わない代わりに他の友達に会えないことはストレスによる鬱傾向を加速します。それはいじめで受ける被害がかえって増えるとということです*9

 ただし、現にひきこもりや不登校になってしまったならそれは仕方ないです。なぜならば、学校に行けなかったということは既にストレスによる鬱病が始まっている可能性があります。鬱病になったことを責めるのは(自分で自分を責めるのも含め)最もしてはいけないことです。鬱が悪化すればそれもまた、いじめで受ける被害がかえって増えることに繋がります。

 こうした行動の可否不可避の判断は複雑なようですが、ストレスに対処するという視点さえ持っていれば自分で容易に判断できます

 

+避難場所にトイレを使うな

保健室の先生のイラスト臭いトイレのイラスト

 ストレス対策のなかで最も有効な手段の一つに、別室への避難があります。いじめ加害者とと別の空間にいる時間を長くすれば、そのぶんストレスが減るからです。

 この効果は体感的にもわかりやすく、いじめが辛くなってくると多くの生徒が実行します。例えばよくある方法のうち、保健室に避難するのは非常に有効です今の日本では、保健室の先生にそうやって避難した生徒を保護する仕事も求めており、邪見にされることはまずないでしょう。最近は国や県のいじめ対策で、週に何度か学校にスクールカウンセラーという人が通ってくることがあり、その人専用の教室があるなら、それはそもそも避難のために用意されたものなので遠慮なく使えます。

 逆に、よくある避難先のなかであまり推奨できないのはトイレの個室などです。プライベートな空間のように思えますが、なんだかんだ言って公共空間だから割と他人が入ってくるし、なによりトイレは基本的に居心地が悪いです。ストレス対策で逃げているのに、ストレスが溜まりそうな場所に長時間居るのは不合理としかいいようがない。いわゆる便所飯なんてもっての他で、本来はストレス解消となる「食事」がストレスの原因になりかねません。

 

+いじめられていることを悲観しない

バンザイをしている学生たちのイラスト

 以上が、いじめ対策の心構え+防御編です。長くなりましたが、まとめてしまえば2行で済みます。

  • いじめてくる相手と仲良くしなくていい。
  • いじめに対処するとは、ストレス対策のこと。

 この二つを心がけることができれば、ほとんどのいじめは「とても辛い人生経験」ではなく「今日起きた嫌なできごと」になるでしょう。

 世の中には、いじめに近い目に遭ってもなんとも思わない人、というのが割といます。どんな人かというと、あまり人の目を気にしない性格の人です*10。クラスでいじめに遭っているとしても、そのことを悲観しないならば、大きなストレスは発生せず、いじめ被害は実質的に無くなります。

 多くの人は、いじめが解決した状態を「みんなから仲良くしてもらえるようになること」だと思っています。しかし、自分を嫌っている人と仲良くしようとすることはそれ自体が不健康です。ここで僕が述べたのは、他人に嫌われてるという状況をどうやり過ごすか、ということです。完全に誰にでもどんな状況でも可能なこととは言いませんが、それに近い状況を目指すことは、いじめ当事者にとって良い指針になるでしょう。

 

 次回はもうすこし積極的にいじめ解決を目指す、あるいはそもそもいじめられないための、抑止+攻撃編を書きます。

 

gentleyellow.hatenablog.com

*1:きっと昔いじめられたことがある大人が恨み節を募らせているのだと思う

*2:「今まで学校嫌だなあと思ってたけど、それは俺がいじめられていたからか!」という驚きは、いじめられなくなって何年も後に来たりもするするので、それよりはだいぶ良いと言える……かもしれない

*3:大抵は学校のクラス

*4:仲良くできる相手ならそもそもいじめは起きてないし、もし可能だとしても、その実現は教師の仕事で当事者は適任でない。

*5:通常、いじめは反撃の心配がない相手が対象となります。

*6:ただし、身を危険から守るためなら、面従腹背するという選択肢はなくはない。何事もケースバイケースです。

*7:なおストレスを根源的に解決するには、ストレス源を完全に消さねばなりません。つまり、この場合はいじめのコミュニティから抜けることが根源的な解決です……が、それがすぐにできないなら解決以外の対応も必要という話。

*8:実際の統計から知るのは難しいと思うのですが、ほとんどのいじめは学校の卒業=コミュニティの解体によって"解決"しているのではないでしょうか。

*9:もちろん進学や就職にも直接的に悪い影響があります。統計的にも、実際に自殺が起こる事例は稀で、むしろひきこもったせいで大きなマイナスの影響が残るケースのほうが多いことが判っています。

*10:正直に言ってしまえば僕自身いじめられても平気なタイプの人間です。だから僕は、自分がいじめらている人の気持ちが判っているとは思いません。しかし僕と同じことができればいじめに耐えるのは容易だということも保証します。

なぜいじめは起きるのか? への教育者向けではない説明。

いじめのイラスト(男の子)

いじめはなぜ起こるのでしょうか?

いじめっ子が悪いのか。いじめられるやつにも問題があるのか。あるいは管理者の先生が悪いのか。家庭環境が悪いのか。はたまたヒトの本来の悪性が原因なのか。いろんな考えがあり、いろんなことが色んなことを言っています。興味を持って調べれば実際いろいろなことが分かったりします。
ただ、いじめに関する情報はどうしても教師や両親(=いじめに関する責任を負わされる人たち)に向けた情報に偏りがちです。それは、いじめられている・いじめられていた当事者に向けた情報が少ないってことです。しかも、そういうオトナ向けの教育情報は良くも悪くも心がきれいな人が読み書きするので、しばしばキツい内容はタテマエ上省かれたりします。
そこでこの記事では、教育者以外の、今いじめられている人、かつていじめられていた人、単にいじめに興味がある人に向けて、いじめについて書きます。
 

+「なぜいじめが起こるのか?」なんて段階はもう終わってる

 

中学・高校の授業のイラスト

 

いじめについて論じるようとすると、人はすぐに「なぜいじめが起きるんだろう……」とか「いじめはどうしてなくならないんだろう……」とか考えてしまいがちです。
しかもいじめ被害者の親御さんとかがそうやって悩むところをメディアが流すので、特に学んでないうちは、結構賢い人たちもいじめの原因は不明だとか思っていたりします。
でも実は、なぜいじめが起きるのかは、既にはっきりしています。
少なくとも有力な仮設があり、その仮説に基づいて文科省等は対策を指導しています。
その仮説とは、
 
「いじめは、十分な信頼関係が築かれていないが一緒に行動せねばならない社会集団において、ほとんど偶発的に発生する
 
というものです。
 

+学校のクラスでいじめは起きる

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十分な信頼関係が築かれていないが一緒に行動せねばならない社会集団」とは、代表的には学校のクラスのことです。他のパターンとしては十分な信頼関係を築くのが難しい大企業の一部署などが考えられます。
 
逆に「信頼関係が築かれている社会集団」とは、例えば仲のいい幼馴染グループとか、家族とかを指します。当たり前のようですが、こういった集団ではいじめは起きません。
また、「信頼関係が築かれていないが一緒に行動しなくていい社会集団」というのも考えられます。これは例えばお店でたまたま会って話しているだけのグループ、あるいはその日のうちに解散することが判明している班行動などです。こういった社会集団でもいじめは起きることがありません。
 
平たく言えば「別に仲良くない」のに「無理やり一緒になった」集団において、いじめは発生します。 
学校教育では、子供にコミュニケーションの経験を積ませるため毎年クラス替えを行ったりして、わざとそういう集団を作っています
わざとそうしていること自体は教育として完全に正しいです。子供がいじめをしがちなのは、信頼関係のない集団に属すのが初めてだからという面が大きい。それにいじめが最も多発する小学校高学年~中学校2年の期間はまさに子供の社会性が発達する時期です。
学校は集団でのコミュニケーションを訓練する場なんだから、それはもうしかたないです。
ただ、そういう集団を作ると、一定の確率でいじめは起きてしまうことも判っている訳です*1
 

+なぜ学校のクラスでいじめが起きるのか 

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なぜ学校のクラス=信頼関係のない社会集団で、いじめが起きてしまうのでしょうか?
それは、信頼関係がない社会集団に属している不安を、いじめに参加することで消せるからです。
信頼関係がないということは、相手が自分を攻撃してこないという確証がありません。親しい友達や家族は間違いなく自分を罵ったりしないでしょうが、クラスメートにそうされないという保証はありません。攻撃されるかもしれない状況で、人間は不安になります。そして不安から逃れて安心することを、本能的に求めます。
 
そこでいじめでは、メンバーの中からいじめられる役の人間を一人選びます
それから、何か悪い事があったときは、そいつを責めるようにします。
すると、いじめられる役の人間を責めている間は、自分は責められないので安心です。
皆で協力して一人を責めているなら、仲間と一つの目標にむかって協調しているという満足感や、仲間との信頼関係を育むことすらできます。
精神的にプラスの感情が生まれています。つまり、いじめはやってると楽しいです。なので自分がやってることを「いじめ」だと認識するのが難しいです。タテマエ上あまり語られないことですが、これは事実です。しょうがない。人間は"悪者"を責めるのが単純に好きという面を持っていることも大いに関係しているのでしょう。
大して親しくない友達と、何か安心できる行為をして楽しむ必要がある。
それが、いじめの起きる場がしばしば学校のクラスである理由です。
 

+いじめられ役は偶発的に選ばれる

荷物持ちジャンケンのイラスト

信頼関係のない集団に居るという不安から逃れるため、集団のメンバーはいじめられる役の人間を選ぶと述べました。では、その選定はどういった基準のもとに行われるのでしょうか?
基準はないことが明らかになっています。
つまりそれが「ほとんど偶発的」ということです。
個々のケースでは、当事者たちは理由を持っています。大人から見てこれが理由ではと見えることもあります。しかし個別ではない複数のケースにまたがってみると、この特徴を持っていれば必ずいじめられてしまう、という条件は見つかりません
つまり、ブサイクだったからといっていじめられるとは限らない。
コミュ力がないからといっていじめられるとは限らないのです。
にもかかわらず、ある特定の子はいじめられることがあります。なぜか?
偶然だとしかいいようがありません
敢えていえるとすれば、その時の流れとか空気とか、まずコントロールできない集団心理によっていじめが起こるかどうかと誰がいじめられるかが決まります*2
 

+偶然いじめられやすい子はいる

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社会集団におけるいじめられ役の選定自体は、偶然としか言いようのないプロセスですが、それでもやはり傾向というか、確率の高い子は居ます。
 
いじめられ役の選定は、集団の総意(と見做される空気)によって行われますから、いじめられ役には、いじめられても他から文句や問題の出にくい人が選ばれます。
 
  • 何か集団内で和を乱したり、失敗や問題を起こしたことがある。
  • 全体的に「力」(暴力・財力・権力・学力など)に欠ける。
  • 集団内に親しいに仲間が少ない。
 
こういった人はいじめのターゲットになりやすいです。
ただし、そういった特徴が持っているとしてもいじめられない人のほうが世の中には多いこと、またこれらは普通に考えたら大した欠点ではないことに注意しないといけません。
いじめられっ子には実際欠点があったりするので、分かってない人はその欠点だけを見て「いじめられる方にも問題がある」論を肯定してしまいがちです。いじめ被害の当事者も自信を失ったりします。
 
しかし繰り返しますが、いじめの発生は偶然的です。
対象の欠点が誘発する必然ではないのです。
 
 

+いじめに加担しやすい子もいる

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いじめに加担しやすい子もいます。
いじめは信頼関係がない社会集団にいるという不安を軽減するために行われます。つまりいじめをしてしまうのは、どちらかといえば空気や他人の悪意といった権力の強弱に敏感な子です。これは例えば両親の機嫌に敏感にならざるをえない家庭環境の子供のことです。親が「私いま機嫌悪いんだけど」とかで怒ってくる家庭ってのは概ねろくでもない。
また同時に、不安という感情があったら感情のままに行動してしまう人でもあるでしょう。それはいわゆる"しつけ"が不十分であるということ。感情を我慢する能力というのは前頭葉の発達で決まりますが、前頭葉の発達は幼児期がピークとされます。
あと感情のままに行動する理由には、単純に無知とかもあったりします。いじめっ子って勉強とかをしないタイプだったりしますよね。何が悪いかということをそもそも学ぶ機会がなかった子ってのはやはり皆無とはいきません。単に知識がないことで、傍観者タイプの動きでいじめに加担することも多くなります*3
 
  • 日頃から理不尽に怒られたりしがち。
  • 健全な社会経験が不足している。
  • バカである。
 
いじめに積極的に加担するのは、こういう子であることが多いと思われます。
いじめられている・いた当事者にとって特に重要なのは、最後の「バカである」という点だと思います。というのも、いじめに遭っていると、あいつらはなんて悪いやつらなんだろう、とか、善人なんて日本にはいないのか、と考えて世に絶望してしまいがちだからです。
いじめをしている人たちは、生来の暴力者や悪人ではありません。悪ではなく単にバカなのです。いじめ加害者は、自分のやっていることが何なのかも区別がついてない。単に楽しいからやってるだけです。
 
 

+いじめは無くならない

ネットの誹謗中傷のイラスト(女性)

ここまで、いじめが不安を解消するために偶然起きる現象である、という趣旨のことを述べてきました。
でも、社会から不安が無くなることはおそらくありません。それに、偶然起きるってことは0%ではないということです。ではつまり、いじめはなくならないのでしょうか?
 
はい、そうです。いじめは無くなりません。
 
いじめの研究が最初に行われたのは70年代スカンジナビアだといいますが、しかし間違いなくもっと昔から連綿と人間集団で行われていた行動です。恐らくは社会性動物である人間の本能にかなり近い部分に根差しています。
だから必要なのは「いじめの根絶」などではありません
やらなければならないのは、いじめのコントロールです。社会生活で不安になるとついつい弱者を攻撃してしまうことはあります。ありますが、通常「いじめ問題」*4とされるのは、それが続して長期間にわたって行われること、ひいてはそのストレスで対象者の精神状態や健康に悪影響が出ることです。
要は、短期間でいじめを止めるとか、いじめられててもストレスの影響を最小にするとか、そういうことが出来ていればよいのです。
 
実際、学校教育がいじめ対策として最も力を入れるのは「いじめの早期発見」で次が「生徒へのケア」です。それはつまり、”いじめを起こさない"なんてことはほぼ不可能~という前提で対策を立てているのです。
 
 

+先生たちは建前上こういったことは言えない

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建前をないがしろにできない教育関係者は、これらを大っぴらに言えません。
言っててもしばしば要点がぼかされていたりします。
だって、「学校でクラスを作るといじめが起きますよ」とか「いじめは楽しいですよ」とか「いじめに遭ったのは偶々ですよ」とか「いじめ加害者になるのはバカだからですよ」とか、おおっぴらに言えるわけがない*5
なので原因は不明だとか、追って調査するとか、実質的に説明を諦めます。
 
しかし現実にいじめに対象するには上に挙げたような認識を前提しなければならないし、実際こういう認識に基づいていじめ対策は建てられているのです。
次回は、じゃあどうすればいいのか、という実際の行動指針や現実に行われている方策の意味について、教育者以外の人向けに書こうと思います。
 

*1:要するにある意味危険な訓練をしている訳で、だからこそ訓練教官=教師の責任を軸にいじめは語られます

*2:なかにはそうした集団心理をコントロールするのに長けた子どももおり、そういった子がいじめっ子リーダーになったりします。そういった子はしばしばクラスの人気者だったりもします。

*3:日本では特にこの傍観者タイプの子供が多くなりがちだとされ、いじめ啓発教育はそのために行われます。

*4:「いじめ問題」にならないいじめ行動を「からかい」と呼んで区別することがあります。

*5:実は専門書などでは言っていますが(僕がこの知識をしっているのはだからです)しかし現場で言うには言葉を選ばねばならないでしょう。マスコミの会見なんでもってのほかです。