能書きを書くのが趣味。

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『虚構推理』おひいさまは現代ミステリ最先端の体現だ

 今回は『虚構推理』について書きます。
 2020年3月現在、アニメが絶賛放映中のミステリ作品です。原作厨を自認する僕はアニメを見たかったがために、まずは原作のほうを全巻買いました。
虚構推理 (講談社タイガ)

虚構推理 (講談社タイガ)

 

 

 そしたらこれが、なんというか批評的な意味で面白かった。

 語りがいがありそうだったので、アニメが終盤に入ってきたこのタイミングで、一発ブログにまとめておきたいと思います。

 
 結論から言えば、『虚構推理』は平成後期から令和現在にまで連なる、本格ミステリの困難――もしかしたら本格ミステリの"衰退"――を踏まえたうえで、それを克服しようとしている。時代の最先端にあるミステリ*1だということです。しかも作者は、恐らく計算と作為によってそれを書いた。
 そしてその計算を体現しているのが、『虚構推理』人気の本体であろう岩永琴子、通称おひいさまです(ということにします。記事タイトルをキャッチーにするために)。
 計算して書かれた最先端であることは、この作品の最大の長所でもあり、短所でもあると思いますが、とりあえず今読んでおくべきなのは間違いない。メディア化されたのも当然の作品だし、今後これを踏まえた作品というのが出てくるのではないでしょうか?
 
 本記事では「虚構推理」をなぜ作為された最先端のミステリと僕が評価するのか、ミステリというジャンル全体の展開を踏まえたうえで、勝手な批評を書きなぐっていきます。
 
 

+ミステリとは「異常な状態を正常に戻す」ジャンル

 
 まず前提条件から始めます。
 そもそもエドガー・アラン・ポーの登場以来現代にまで連綿と続く、ミステリというジャンル、脚本論的に言えば「異常な状態を正常に戻す」ジャンルです*2。 

 これは史上初のミステリとされる『モルグ街の殺人』ですが、このあたりからもうお約束という名の物語構造が構築されている。一般的には、これをそのまま踏襲した、シャーロック・ホームズのほうが有名かもしれませんが。

 

 そもそもエンターテイメントであるならば、ストーリーは、まず何らかの問題に直面し、それを解決しなければなりません。
 例えばバトル漫画なら「強い敵が出てくる→邪魔なので→倒す
 パニック映画なら「死にそうな状況になる→死にたくないので→逃げる
 刑事ドラマなら「犯罪が起きる→任務なので→犯罪者を捕まえる
 というプロセスを描きます。
 
 これがミステリの場合は、
異常な事態が起きる→異常なのは怖いので→異常ではないと指摘する
 です。
 先に刑事ドラマを別途挙げておいた通り、犯人を捕まえることが目的地ではないのがミソです。人間の感情は、本能的に整理された状況を望み、異常な状況で不安を覚えます。不条理を解決することで、読者の感情を不安から安心へと動かす。それがミステリというジャンルに課せられた使命であり、目的だと言えます。
 
 

+犯罪は「異常な事態」ではない

 
 ここからちょっと極論寄りの持論を述べてしまいます。
 先に述べた「異常を解決する」意味でのミステリはジャンルとして――特に古典的な探偵ミステリに顕著なのですが――実は21世紀現在、時代遅れになってしまっています*3
 
 大きな原因は、犯罪が「異常な事態」でないことがバレてしまったことにあります。
 ポーやホームズの時代、つまり19世紀から20世紀中盤まで、犯罪者っていうのはすなわち異常者でした。まともな人間は犯罪を犯したりしないし、つまり異常者である犯罪者は何をしてくるか判らない。皆きっとそう思っていましたよね?
 だからそれを倒すヒーローは「異常者の思考を読み解く者」であればよかったのです。
 
 ところが、社会科学の発展と情報メディアの発達によって、犯罪者は異常者ではないことが読者一般に明らかになりました。
 
 殺人のほとんどはカッとなって勢いで行われます。何十年もかけてトリックの準備をする人は居ません。
 犯罪のほとんどは、バカが貧乏と短気を理由に起こします。巧みなトリックで不可能犯罪を作ることができる犯罪者も居ません。
 犯人逮捕に必要なのは、アリバイの確認や言葉の矛盾を突くことではなく、自供と目撃証言です。時刻表の読み解きや密室の解明やなどどうでもいい。古畑任三郎が揚げ足取りで追い詰めた犯人はたぶん現実なら無罪になっているのです。
 
 『虚構推理』のおひいさまもこうおっしゃっています。
 

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身も蓋もない探偵

 こういう言動、現代のミステリではもう定番ですね。
 探偵役が「児童虐待なら児童相談所だ」とか「この密室を解く必要はないだろ」とか、身も蓋もなくオッカムのカミソリを持ち出してくる。それで、相棒のミステリマニアが「それはどうなの」と当惑したり呆れたりする。
 ミステリの側も、認めざるを得なくなっているのです。我々のやってきたことは現実の犯罪とは何の関係もなかった、と。リアリティと論理の整合性を確保するためには、もうミステリの側がこれを言わざるを得ない。
 この話は普通、ミステリ界隈では"後期クイーン問題"という名前で、全く違う切り口の下に整理されています。ただ、僕は今、そのバックグラウンドにはそもそもの社会情勢の変化――社会一般における犯罪への理解の促進――があったという話をしています。
 
 

+「探偵」はもうヒーローではない

 
 更に、現実の犯罪と探偵ミステリが完全に切り離された結果、平成後期以降のミステリでは「探偵」がヒーローではいられなくなっています
 
 シャーロックホームズの時代、探偵とは、圧倒的なパワーで正義を成すヒーローでした。
 しかもそのヒーローは他と違って現実に存在するかもしれなかった。戦隊レッドに変身するためのガジェットは偽物のオモチャしか存在しないけれど、頭脳と推理力と観察力なら誰もがも持っています。訓練すればマジでホームズになれるかもしれないという希望があった。
 少しませた子供が、大人になったら戦隊よりもシャーロックホームズになりたいと真面目に言っていた。そんな時代がかつて確かにありました*4
 
 今は違います。「探偵」は荒唐無稽な存在です*5
 いまや、ギャグの一種ですらあります。漫画の『ああ探偵事務所』や『命運探偵神田川』や『全く最近の探偵ときたら』を読んだことはありますか? 
命運探偵 神田川(1) (ガンガンコミックスONLINE)

命運探偵 神田川(1) (ガンガンコミックスONLINE)

 

 これは個人的に特にオススメの神田川

 ギャグ漫画でネタとされているだけならまだ言い訳がきかなくもないけど、どちらかといえば、JCDとかいって探偵って要素をネタ消費しはじめたのは本格(シリアス)のほうが先ですからね。

 あとは、最近の金田一少年やコナンの扱いがとくに来るところまで来た感じがあります。犯人目線の漫画面白いですが、「探偵」が、もうヒーローというより、災厄とか確定フラグの類になっていることにお気づきでしょうか。同じキャラクターを書いているのに、90年代の探偵と令和の探偵で明確な差がある*6
 
 当たり前だけど、ヒーローが出てくる小説・脚本っていうのは、それだけでもう魅力的です。つまり、かつて「探偵」は存在するだけで物語の魅力を一定程度担保する存在だったのです。
 
 それが現代では違うということ。
 
 今や、ミステリであることが物語の魅力に直結しない
 
 本格ミステリが斜陽になるのも当然です。かつてSFというジャンルが、現実の科学に追い付かれて冬の時代を迎えたのに似ているんじゃないでしょうか*7
 
 

+ヒーロー物語から激辛ラーメン

 
 こんなことを言うと、ミステリファンを自認する方々から、いやミステリは今でも面白いよ! という反論があると思います。
 実際、以前ほどの勢いはないにせよ、相変わらずミステリは売れていますしね。
 ただ、それについて、僕は適切な比喩を一つ持っています。
 
 今のミステリっていうのは、激辛ラーメンなのです*8
 
 本当に美味い激辛ラーメンって、食べたことあります? 辛い! 辛いけど食べられるのが辞められない! 美味さと辛さが後からくる! そんな感じの。あの旨さを引き出しているのは、果たしてトウガラシのカプサイシンでしょうか? 違います。トウガラシが入っただけの水なんておいしくもなんともない。旨さを持っているのはあくまでも質の良い油や出汁です。旨い激辛ラーメンは、トウガラシが入っていなくても間違いなく美味しい。
 ミステリ要素っていうのは、ラーメンで言うところトウガラシなんですよ。
 確かに、料理は辛ければ辛いほどいい! というガチのミステリファンは居ます*9。いますが、多くの場合、ピリ辛ラーメンを食べる人が美味がっているのは実は辛さそれ自体ではありません。
 つまり、ミステリに分類される作品を読んでいても、多くの人々はミステリの特徴であるとされる謎解きや論理を主な魅力と感じてはいなかったりする*10
 
 かつて、ミステリっていう素材からは、濃厚な出汁が出ていました。
 もうそれを入れただけでラーメンが美味しくなるレベル。
 しかし現代において、ミステリだけでラーメンを作るのは無理です。素材がカラカラの鷹の爪みたいにになってしまっているのです。今のミステリからは、旨味の欠けたカプサイシンしか得ることができません*11
 
 

+次郎ラーメン系ヒロイン、岩永琴子

 
 そんな訳で、ミステリ、というジャンルはこの現代において衰退の危機に瀕しています*12
 なので、エンターテインメントとしてのミステリをやろうと思ったら、何か別の要素で旨味を補う、それなりの工夫が必要です。
 『虚構推理』は、その工夫がすごい。
虚構推理 スリーピング・マーダー (講談社タイガ)

虚構推理 スリーピング・マーダー (講談社タイガ)

  • 作者:城平 京
  • 発売日: 2019/06/21
  • メディア: 文庫
 

  もちろん、工夫を凝らしているのは他のミステリ全般もですが、『虚構推理』の場合は、工夫の具合が良い意味でえげつない。それを逐一指摘することが、批評として面白いと思ったので、僕はこんな長文を書いているのです。

 
 その工夫が、最も直接的に表れているのが主人公の岩永琴子の存在です。
 
 アニメやコミックから『虚構推理』に入った皆様は、"おひいさま"こと岩永琴子が魅力的なキャラクターであることを全面的に認めてもらえるのではないでしょうか。
 2012年のミステリ小説『虚構推理』が、令和の今になってアニメ化している。その原動力のうち半分ぐらいは、主人公の魅力にあると言っていい*13
 
 ではその魅力を生み出しているのが何か。
 冷静に考えると、これがものすごい露骨なのです。
 
 列挙してみましょう。
 岩永琴子は、まず、言いにくいことをズバズバ言っちゃう系女子です。主人公が持つべき資質としては一つの鉄板ですね。社会からのしがらみに囚われることのない、読者とは一線を画した、理想像としてのメンタル強者です。
 あと低身長です。つるぺたです。めちゃくちゃかわいくて、西洋人形のような、という描写が小説でも頻繁に使われます。服装もそれに即したひらひらフリフリのデザインです。杖も障碍者用というよりただのオシャレアイテムに見える。あと、このキュートさは強者メンタルとのギャップを演出してもいます。
 それと、おひいさまは超能力者です。特殊な生い立ちを持っています。それで、いろんな化け物と話すことができます。夏目友人帳です。ドリトル先生です。これも一つの鉄板ですね。
 更に、義手と義眼を使っています。身体に欠損があるって、中二病のころ憧れませんでした? ぶっちゃけハガレンですよね。露骨にそれをアピールもします。読者の前で義眼の眼球部分にわざと触ってみせたり、義足を外してくつろいでいるところを見せたりします。フェチズムです。
 彼女は、なんと少女漫画的な恋愛の主体でもあります。物語中で、推理するとき以外はほぼ全部、恋愛のことを考えています。その文脈でのギャグも多くて、つまりラブコメ要素も完備です。
 
 そして、この主人公を最も象徴すると思うセリフがこれ。
「大丈夫?」
「ええ…、破瓜の痛み比べればこれくらい」

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この顔をしながら言った
 なんて露骨なセックスアピール!
 こんなこと言うヒロイン、ラノベでもなかなか居ないよ。
 しかもこのセリフ、読者へのセックスアピールであると同時に、自ら恋愛にアプローチする強いヒロインの表現でもあり、衝撃的すぎることを言うタイプの下ネタギャグでもある。おひいさまのキャラクター性を象徴する一コマじゃないです?
 
 いやあ、なんでしょうか。
 この、お前らの好きなものを全部つめこんだぜ!感は。
 ラーメンでいえば全部乗せ、いや、それも超えていっそ次郎系かな。
 探偵要素だけじゃ魅力を作れないなら、探偵以外の魅力を詰め込めばいい!!*14 エンタメ創作理論としてめちゃくちゃ強力ではないですか。
 
 ちなみに、この方向性でミステリを成立させている他作品は、『謎解きはディナーの後で』とか、『心霊探偵八雲』とか。あの辺の作品は、硬派なファンには賛否両論あるんでしょうが*15、個人的にはそれで激辛ラーメンが美味くなるんだからそれでいいんではないかと思う。
 それらの作品にしたって、岩永琴子ほど属性山盛りではなかったけども。
 
 

+ミステリに媚びるため、ミステリ以外のジャンルに媚びる

 
 さっきちょっと夏目友人帳がどうとか言いましたが、その点も重要ですよね。
 『虚構推理』は、ミステリであると同時に、妖怪モノです
 
 ミステリと妖怪は親和性が圧倒的に高い。
 私見というか、偏見と言われてもしかたないですけど、ミステリファンを自称する女性なら、絶対『夏目友人帳』とか『蟲師』とかも好きでしょ。金田一がすぐに山奥の廃村に行って怪奇みたいな目にあうのも、メフィスト賞の探偵役がやたら民俗学に詳しかったりするのも、理由が同じでしょ。
 無理やり理屈という名の軟膏を引っ付けるとするなら、もともと「異常な犯罪」に関わろうとするのがミステリだったからでしょうかね。ミステリを好む者はその解決の有無に関わらず、「異常な状態」に魅力を感じていたのであって、従って別の「異常」に関わる物語、つまり怪異・妖怪モノに魅力を感じるのかもしれない。
 まあ、理屈の是非はともかく、こんなのは経験的に誰もが判ってることなんですよ。
 
 『虚構推理』はいっそ露骨なほどにそのツボを突いてくる。
 
 ミステリをやります → 魅力を増したい → だから妖怪を出しましょう!
 
 こんなダイレクトな発想ある?
 あと、妖怪モノとして見たときも、人間に友好的な、かわいい妖怪を出してくるのも良さ味がありますよね。ホラー調の怖い妖怪って、それこそ鋼人七瀬ぐらいしか出ません。おひいさまにてんこ盛りされた属性と同じ。絶対にウケたいという強い意志を感じる。
 
 しかし、妖怪モノであることは、あくまでもミステリとしての魅力を追及するためです。
 この事は、ミステリとしての『虚構推理』の頑固さをみれば一目でわかります。
 

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しつこすぎる蛇
 『虚構推理』は、いっそくどい程に延々と、論理を積み上げます。"理屈が通っている"ことに、作品の熱量と会話とページ数のほとんどを費やします。
 アニメ化範囲では、蛇のエピソードとか顕著ですよね。あと今放映中の鋼人七瀬討伐シーンもですが。アニメの蛇のシーン、2話から3話のほとんどを使ってしまって、鋼人七瀬のレスバも全然進むペースが遅くて、「ちょっと話しつこくね?」と思いませんでしたか。
 あれは実際にしつこい。
 ミステリがそこまで好きでない、尋常の書き手なら削ってしまうところです。
 
 しかしこれがミステリファンという激辛好きには必要なのです。
 述べたように、ミステリパートっていうのは、激辛ラーメンで言えばカプサイシンなんですよ。実はちょっぴり振りかけるぐらいに抑えておいたほうが一般受けする可能性がある。
 でも、精読して理屈の不備が見つからない事。重箱の隅が存在しない事がミステリの条件で、それはノックスの十戒よりもはるかに強力な第零戒といえます。重箱の隅をつぶしきるためには、それなりに行数を食ってしまいますが、それをやっているからこそ『虚構推理』は、妖怪モノでありがながら、ジャンルとしてはミステリでいられる。
 
 この作品は、ミステリ外にめちゃくちゃに媚びていながら、いっそラブコメ異世界転生ラノベか、という要素を主人公に全部盛りにしながら、そのすべては「ミステリであること」に奉仕するためにある。明確にミステリファンに向けて書かれているのです。
 
 ……いや実は『虚構推理』は2012年の原作公表時から、これはミステリなのか? という議論になることの多い作品なのですけどね。妖怪とか超能力が出して、ノックスをバールのようなもので殴りつけた上、"理屈が通っているだけ"の言い訳みたいな論理でアリバイ作りを重ねてくるから。
 でも、結局のところ、ミステリというしかないでしょう。むしろここまでやってなおミステリであることを褒めるべきだと僕は思う。
 
 

+「謎を解かない。問題を解決する」という答え

 
 更に『虚構推理』は、犯罪とミステリが無関係になってしまった、という時代の要請にも明快な答えを見せています。
 それは、そもそも犯罪や謎にかかわらない、というものです*16

 複数の事件に矢継ぎ早に関わる、短編集を読むのが判りやすいでしょう。

 現実の犯罪や謎に関わらない、という一点について『虚構推理』は徹底しています。

 そもそもおひいさまは、自らの異能力を使って、犯罪の犯人を立ちどころに知ることができます。彼女はどのエピソードでも、だいたいが「現場にいた妖怪が目撃していました」で真犯人を特定しています。

 しかし、おひいさまは、だからと言って犯人逮捕に関わったりはしません。そもそも関わるまでもなく、真犯人は警察が捕まえた人物で間違いない場合がほとんどですし、そうでない場合ですら特に何も言ったりはしません。
 おひいさまが解決するのは、あくまでも妖怪の問題です。
 彼女は、自らの知能と論理思考能力と弁説をもって、妖怪を説得したり、疑問に答えたり、妖怪の要請に従って現実の人間に干渉したりします。そのためなら、持ち前の頭脳でもっともらしい嘘をついたりもします。
 
 注目したいのは、あくまでも頭脳で問題を解決している、という点です。
 怪異を己の頭脳と論理のみでひも解く、ヒーローとしての探偵が復活している。
 
 確かに、おひいさまこと岩永琴子は超能力者です。しかも相棒役の彼氏は、おまえワンパンマンにいるS級ヒーローの上位互換よね? って感じの能力者で、彼女もそのパワーを存分に利用します。
 でも、あくまでも問題の解決は、頭脳一本槍なんですよね。
 
 最初のほうで、シャーロック・ホームズというヒーローについて述べたことを覚えていますでしょうか。頭脳一本でヒーローになれるなら、自分もヒーローになれるかもしれなかったんですよ。仮面ライダーの変身ベルトは持ってないけど、頭脳は自分にもあるんだから。
 それと同じで、岩永琴子になら、読者もなれるかもしれませんよね
 確かに妖怪と話す能力なんて僕にはないけれども、それが彼女の本質でないことぐらい判ります。
 
 これはもはや、魅力としてのジャンル「ミステリ」が復活しているではないか、と思う
 
 『虚構推理』の"犯罪には関わらない"という姿勢は、しばしば「アンチミステリ」という語に絡めて語られると思います。
 でも僕は、本格ミステリっていうジャンル内部だけではない、もうちょっとエンタメにとって本質的な事がここでは起きていると感じます。そしてこれは、同じようにアニメ化した『氷菓』なんかが有名ですが、ミステリっていうジャンル全体で起きている変化の一端なのではないか。
 
 

+良くも悪くも「良アニメ化」

 
 まとめます。
 
  • ミステリは平成後期以降、本来の魅力を喪失しつつあった
  • 『虚構推理』はその状況へのアンサーとして秀逸である。
  • アンサー①ミステリと無関係の魅力をしこたま盛った。
  • アンサー②なおかつミステリとしての魅力を徹底した。
  • アンサー③リアルな犯罪に関わらないことで、知的ヒーローとしての「探偵」を復活させた。
 
 まあ正直なところ僕はミステリ読みでは全くないので、本当のファンの見解とは一致しないかもしれませんがね。
 
 ところでこんな特徴を持つ『虚構推理』ですが、こんな特徴を持つからこその欠点が、明確に存在するようにも思えます。
 一つは、中二病ラノベ的に設定をガン盛りした結果として、旧来の硬派な本格ミステリファンがちょっと引いた目でみてるフシがあります。僕はラノベもよく読むので全く気にならないですが、だからこそ、ラノベ的要素に引いちゃう層がかなりいるという現実はよく知っている。
 もう一つは、ラノベ的魅力で人を集めた結果、ミステリが大して好きじゃない人まで作品に集まっています。述べてきたように、彼らにとって論理とか謎解きは魅力とならない。他の人の漫画の感想を読んでいて「謎ときシーンは退屈だから読み飛ばせばいいよ」とか書かれているのを見つけてしまって僕は、ああーっ、ってなりました。
 つまるところ、ミステリファンからも、非ミステリファンからも、全面的には受け入れてもらってない現実がある。
 
 今のアニメ化も、だいぶそれに即した作りになっていますね。3月17日現在、アニメは鋼人七瀬解決編の長い長い描写にはいっていますが、もう毎週「あんまり話が進まなかったな」みたいな感じになると思う。でも『虚構推理』はあくまでもミステリですから、これが元からなんですよ。
 第1話からテンポよく小粒な謎を解決していったのは、さすが良アニメ化の演出。しかしアニメ演出の方は、中盤から後半にかけて、むしろ忠実にミステリとしての本作を再現することに力を注いでいるように見える。そのことで、『虚構推理』の悪いところも忠実にアニメ化している……と言えるかも。
 アニメ期間の半分以上を原作と関係ない事件に費やした『ロードエルメロイⅡ世』とは真逆ですね。どっちが良いかは判断しかねる。
 
 まあどっちみち、僕にとっては面白いので、このまま続きを楽しみにしたいと思います。皆様も楽しみにアニメ終盤を見ていきましょう。
 (もしくは見終わってこの記事にきましたか? どうでしたか?)

*1:といっても、これ2012年の作品ですけどね。まあ2020年の現代まで同じ時代が続いていると考えればいいだろう。

*2:参考:ハリウッド脚本術―プロになるためのワークショップ101

*3:後にも注釈をつけていきますが、謎解き全振りを趣旨とした本格ミステリの台頭は、この時代の変遷に対応した一つの形だったのだと思います。しかし結局のところ対応しきれておらず、後期クイーン問題とか言い出さざるを得なかったのだと思う。

*4:これは実体験ですから時代の有無についての異論は認めません。

*5:この変化がいつから始まっているのか? について僕は語ることはできないのですが(ミステリの古典全般は追えていないので)、本格というジャンルの誕生自体「探偵」の脱ヒーロー化の進行と関係があったという読みも可能かもしれませんね。

*6:犯人モノのスピンオフだけじゃなくて、例えば本人が書いている続編『金田一37歳』にすらそういう傾向は現れているように思うんですよねえ。今回そこには踏み込みませんけれど。

*7:そして今、ジャンルとしてのSFは科学の更なる発展の兆しによって復活しつつある……のではないか? まさか『ロボサピエンス前史』が売れる時代になるとは。ミステリも何らかの社会的要因や作劇上の発明でそうなっていくかもしれません。ていうか今、それについて僕は記事を書いているのかも。

*8:この例えは、僕がネットで無貌の誰かに諭されたもので、オリジナルではないことを一応明記しておく。

*9:そういうミステリファンが読むのが例えば『その可能性は既に考えた』だったりします。一般人にあれは無理。ていうか僕があまり好きじゃないです。

*10:っていうかこれ僕の読み方の話ですけどね。でも少なくとも的外れじゃないし、自分側がマジョリティだと自分で思ってます

*11:逆に言えば、カプサイシンを得ることはできるわけですよ。話の流れ上ミステリ全体を貶すみたいになってますが、それはそれで唯一無二です。なんの料理にせよ、ピリ辛要素はやっぱり美味になることが多いのではないでしょうか。

*12:ここ凄く怒られそうなので言い訳を追記しておくんですが、先に述べた通り「ミステリ」を「異常を解決する」ジャンルだと定義した場合にそれが衰退していると言っているのであって、本屋のミステリの棚が消えるとか言っているわけではないです。あと、この記事は「衰退の危機を現代ミステリがどう克服しているか」についての話ですから、現実には危機はもう去っているはずです。

*13:なお、もう半分は大胆なコミカライズの手腕です。原作読んで、アニメ見て、それからコミカライズ読んだら「アニメ良改変じゃん!」と思ってた部分はほぼコミカライズがやっていましたよ。

*14:念のため付記しておきますと、別にキャラに要素をぶち込むのは現代ミステリに限ったことではありません。ごく標準的な創作手法です。でも、探偵役が「探偵以外」の要素を必ず持つみたいな傾向は、最初に述べておいたようなミステリの危機が顕在化して以降の顕著になったと思う。「探偵」一本槍ではもはやキャラクターが成立しなくなっている。

*15:本格ミステリが一番ブームだった世代には、真顔でアニメ絵のラノベを読むのはつらいものがあるでしょう。気持ちはわかります。たぶん。

*16:先にもたびたび述べていますが、恐らく作者的には"後期クイーン問題"という呼ばれる、ミステリ特有の問題にたいする答えとしてこの姿勢を出していると思います。しかし本論では、それは必ずしもミステリ特有の問題を反映したものではない、社会情勢の変化に対応するための答えでもある、という解釈を使っていきます。

『宇崎ちゃん』献血ポスター問題を表現の自由戦士として考える

 今回は『宇崎ちゃんは遊びたい』献血ポスター問題について、表現の自由戦士*1として書きます。
 というのも、はてブ界隈で"冷静な議論を出来る人がいた"というブログ記事が称賛されていたのを見たので。
 

 気になったのは、ポスターに不快感を覚えた女性たち(恐らく)がこぞって「冷静に議論できるオタクというのが居て嬉しい」とか「他のオタクはこれくらい考えてから言え」とかコメントしているってことです。
 いや僕はずっと冷静に宇崎ポスターを擁護、というか、宇崎ポスター反対運動はダメだと思っていますが。ちょっと女性側に賛同する男の意見が出てきたからって、冷静な議論扱いするされてるのは納得いかない。あなた方それは自分に賛成しない意見を感情的とみなしているだけなのでは……。
 あと元ブログに少し賛成できない点もありましたしね。
 
 既にブームに対して遅きに失した感はありますが、自分の中の論点を整理することを主目的に、見ず知らず人のブログへのアンサーを勝手に書いていきます。
 
 

+元ブログ(紙屋高雪さん)の考えまとめ

 
 まずは元のブログの考えをまとめます。
 
  1. 巨乳女性のイラストは環境型セクハラとして女性の人権を犯していない(この点で太田弁護士は間違っているか、少なくとも主張が雑である)
  2. しかし巨乳女性のイラストは我々の思想に無意識に影響を与え、女性は消費していい、との意識を醸成する恐れがある
  3. したがって、あのイラストに不快感を覚えたという主張は真摯に聞かねばならない
  4. しかしながら不快感を覚えるからといって作品自体の撤去や規制を求めるようなことはあってはならない。表現の自由は守るべき。
  5. しかしながら、公共団体のポスターにすべきでない、と主張し、政治的公正を求めることは表現の自由の侵害ではない。
 
 ざっくりとしたまとめですので、実際には元ブログを読んでください。
 これが冷静な議論、と言われるのは、双方の意見を順々に肯定する形で文章を提示したからだと思う。元ブログの論旨は、太田弁護士は間違っている→でも女性は正しい→表現の自由は大事だ→でも公共の場批判は正しい、の順番に論が展開されています。これは発言者の態度としてはなかなか巧者だと思います*2
 
 しかし、だからこそ表現の自由戦士たる僕は、そんなテクニックには騙されんぞ! という反骨心を露わにするわけです。
 
 僕から強く批判したいのはまず②についてです。
 そして⑤ひいては③の不可能について指摘します。
 最後に「ならどうするのか」「この先どうなるのか」について、元ブログの枝葉末節を用いながら僕の考えを述べたいと思います。
 
 

+巨乳女性のイラストは我々に女性差別感情を植え付けない

 
 まず②について。
 結論から言えば、巨乳女性のイラストが、我々または子供の権利意識に影響を与えることは無い、または無視できる程度に軽微であると考えられる。
 
 この点、フェミニズム界隈、あるいは教育界の皆様には以前から僕は不満を持っています。フェミニズム以外の学問をちゃんとやりましょう。これはメディア論、メディア効果論の分野です。
 社会学の一分野であるメディア論では、20世紀までに「テレビやゲームの影響が社会全体や子供の発育に対してどれくらい影響があるのか?」を詳細に研究しています*3
 それによれば、例えば「TVCMを見ることで思想を転向して大統領選の支持者を変える」という行動は全く観察できませんでした。
 また例えば「暴力的な映画・ゲームをした後に、子供が暴力的になる度合い」は、統計的に有効となるほど大きくはない*4。影響は無視できる程度に小さく、またあったとしても一過性のものであることが確認できています。
 メディアの影響は、少なくともストレートにな意味では、弱い。
 ですので、普通に考えて、エロいポスターを見たからといって、大人や子供がエロくなるとは考えられないと言える。
 
 なぜそうなるのか?という事についてメディア論は、一般的に選択的需要という概念を用いて説明します。
 大統領選のTVCMは効果がないのではありません。もともとその候補に興味がある人たちに強く喚起する力があります。暴力的なゲームは、もともと暴力的な素養を持つ子供にのみ強く影響し、その子はゲームの真似をした犯罪を起こしたりします*5
 つまり、受容する側の状態が、あるメディアの影響を受けるかどうかを決定づけるのです。メディアの側が、その影響力で、受容者の状態を変えることはない
 体験的にも理解できるのではないかと思う。人間は誰かに言われたからって簡単に考えを変えたりしない。FPSゲームのプレイヤーが銃犯罪に走り、エロゲーのプレイヤーが性犯罪に走る可能性は極めて低い。映画ジョーカーを見て犯罪に走る人が居たなら、その人は映画を見る前から鬱屈していたのでしょう。
 
 ……ちなみに、では子供の人間性に最も強く影響するのは何か? それは両親です。メディアの影響など、両親の影響力に比べたら極小もいいところ。
 僕もいいかげん親世代ですから、テレビや漫画の影響を受けて子供が悪行を行わないか心配なのはわかりますが、貴方の家庭がちゃんとしてればまずそういう子供にはならない*6もしも貴方の身近に、女性をモノ化して扱う男性がいたとしたら、まず考えるべきは、彼の父親がそうだった可能性でしょう。彼が性的漫画を読んだかどうかではなく……。
 
 閑話休題。いまは他人の家庭の健全さについての話をするときではありません。
 ともあれ、そういう訳で、宇崎ポスターの影響力で子供ひいては社会全体の女性感が歪む心配などする必要がないと、明確に言える。
 元から社会が歪んでいたらエンタメが女性蔑視的なシーンを書くことはあるでしょうし、過去あった。しかしその逆は無い。エンタメやメディアには社会を歪める力など認められない。
 
 表現の自由戦士と呼ばれる人たちは、もともとフェミニズムと戦うよりも、ゲーム脳だなんだとやってくる教育関係者と戦ってきましたので、この「メディアの影響などない」話にはまあまあ敏感です。
 逆に「文化が女性をモノ化する思想を保存拡散している」というのは、古くからフェミニズムが拡散してきた思想ですので、真面目に本を読んで勉強した結果信じてる人が専門家にも結構多いです。
 僕がここでしてのは、このうち、前者が正しく、後者は間違っているという話です。
 最初も言いましたが、僕のフェミニズムに対する不満ってのはそれで……彼女らはしばしばフェミニズムの古典に書いてあった、今の科学なら否定できる神話をそのまま紹介するんですよね。これもその類です。
 
 

+それは「政治的公正」なのか

 
 次に⑤について。
 元ブログは、公共の場のポスターにするな、という主張をするのことは表現の自由の侵害にはあたらない、という旨の主張を展開しました。僕も今回の場合*7それは賛同せざるを得ないと考えるところです。
 ただし、その主張が「政治的公正」に基づく、という点については疑問を呈したい。
 
 先に述べた通り、性的なポスターが公共の場に掲示してあることによる、文化・人権的な負の影響はほぼ存在しないと考えられます。あの内容を見たからといって、ヒトは、女性をモノ化してもいいとか考えるようになったりしない。
 となれば、実質的なデメリットはないということです。
 
 あれを見た女性が不快になっている、という事実を除けば。
 
 そうです。その点だけは紛れもない事実として、真摯に男性が受け止めねばならないでしょう。「宇崎ちゃんはウザ顔をするキャラで絶頂表現ではない」とか「巨乳なだけのキャラである」とかいう主張は、原作漫画のファンでもある僕は全くそのとおりだと頷くものの、それでも女性が不快に感じた、という事実は覆すことができない。
 宇崎ちゃんは、実際性的であるからウケているキャラクターです。
 性的なポスターじゃないし不快に思う方が変だよ、みたいな話はちょっと論点ずらしと言われても仕方がない。
 
 一方で、不快な表現だから撤去すを求めるという主張が「政治的公正」だ、という話になるとどうか。
 全面的に否定はしませんが、強い疑問がある。
 なぜなら、あの表現を求める政治市民は、不快感を覚える市民と同様に、実在するからです。しかもその市民はおそらく男性であり、反対派の女性と同数であると仮定できる。その状況でどっちが公正かを本当に決められるのか? 何度も言いますが、合理的な実害は女性の嫌悪感情以外にないんです。
 
 こう言うと、「いや、好きにやっていい権利と、嫌なことをされない権利では、後者が優越する」という理屈を出してくる方もいるでしょう。
 しかし、それも程度問題があります。
 実際、紙屋さんの元ブログでは、「件のポスターは環境型セクハラに当たらない」という旨が明確にされました。確かに胸は強調されているが、性器どころか肌も露出していないというのが客観的記号的事実。法的には明確にセーフです。こういうセーフの表現を、気分でアウトにしていくなら、他の表現も嫌われるという理由でアウトにできる。
 一部の煽り系自由戦士には、これがダメならジャニーズも禁止な! とか言う人が居ます。僕はそうすべきとは考えませんが、しかし客観的事実や法の範囲を逸脱した範囲に「公正」を置くならば、そういうアウトが現実的になっていく。
 それが政治的公正なのか。僕は違うと思う。
 
 

+女性の嫌悪感の優越への疑義

 
 そもそも女性がああした巨乳キャラのイラストに嫌悪感を覚えるのは、進化生物学的な理由が大きいと思われます。
 ヒトという動物の雌にとって「自分が欲情してないときに、他の雄が欲情している」状況は純粋にリスクです(レイプされるかもしれない)。したがって、ヒトの雌は雄の性欲を喚起する自分以外のモノについて基本的に嫌悪感を覚えるようにできている
 
 この知見を実際に現実で使っている人たちが居ます。ナンパ師といわれる人たちです。
 友達にいるのですが、彼はナンパ師だけあってとんでもないドスケベです。しかし彼曰く、どんなエロい発言をしてもだいたいの女性にキモいセクハラと思われない、そんな方法があります。それは「一切ニヤニヤせずに真顔で言うこと」です。ポーカーフェイスでさえいれば、貴方のパンツを見せてください、という発言をしてもセクハラではなくギャグとして処理できる。ニヤニヤしている=欲情しているという視覚情報さえ与えなければ、女性の動物脳は騙すことができるのです*8
 女性の嫌悪感を引き起こすのは言葉やコンテンツの内容ではない、ということです
*9
 宇崎ポスターを見るのがオタクであり、オタクはニヤニヤしてキモい、という想像力が嫌悪感を引き起こしている可能性が高い*10
 
 最近のtwitterでは、このことを女性の「負の性欲」と呼び表す表現が少し流行ってきているようです。
 この表現は非常に強力だし的確だと思います。
 女性にとって、宇崎ちゃんの巨乳に嫌悪感を覚えるのは、男性が宇崎ちゃんの巨乳に引き寄せられるのと同じぐらい当然のことである。この認識は、多くの女性が"男ってバカだから"とある程度譲歩を引き出してくれるのと、同じ効果を多くの男性から引き出せる可能性があるのではないか。
 しかし一方でこれは、女性が巨乳に嫌悪感を持つという状態は、男が巨乳を好きなのと同じくらいしょうもない反応である、という話にもなる。
 
 はたして、そういう嫌悪感に配慮することが「政治的公正」になりえるのか。
 女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するなんて理屈が倫理哲学から導き出せるのか
 イエスもノーも考えは様々だと思いますが、少なくとも全会一致の結論とか、自明の前提とはならないはずです。*11
 
 

+真摯に聞いたからといって解決するのか

 
 更に、宇崎ポスターへの嫌悪感は女性の生物的反応、負の性欲である、という認識によって③が怪しくなってきます。
 
 例えばゾーニングをしっかりやって、宇崎ポスターが献血の場に出てくることがなくなったとしましょう。そしたら似たような批判はもう出てこないのか?
 そうは思わない。男が欲情しなくなるぐらいありえない。
 
 実例をまとめてくれた人もいます。

 これまでに、駅の擬人化、のうりんポスター、ヴァーチャルコメンテーター、専門誌の表紙、コンビニの売り場、果ては本屋の専門売場コーナーまで、ざまざまなものがやり玉にあげられてきた。

 しかも重要なのは、これらは全社会的ななにかではない。たまたま誰かの目についてSNSで拡散した以外の共通点がない。他にエロ方面でやばいものはあったが、それが叩かれることはなかった。

 
 これは僕の予想にすぎないといえばそうなのですが、女性という動物は、たまたま目についた「エロいもの」について文句を言うようにできている
 負の性欲、という認識はこの予想を強力に支持する。
 だとすれば、ゾーニングの最終的な成功とは、女性の目につく場所に一切の「エロいもの」が目につかないようにすることでしょう。今文句を言っている強いツイフェミの人たちは、それまで文句を言うことを辞めないに違いない。
 それは例えるなら、すべての女性がブルカを被せられる社会と大差ない状態でしょう。かつてイスラム社会は、性を追放するために女にブルカを被せたが、現代ポリコレ社会ではサブカル表現がブルカを被せられようとしている。
 ならば表現の自由戦士として反発しない理由があるか? いやない。
 我々が真に危惧するのはそれです。
 
 フェミの方々は「オタクは批判をすぐ拡大解釈する」と常々いっているが、表現の自由戦士としての僕は「フェミの方々が批判を拡大しない」ということを経験的にも理論的にも全く信じられない。おそらく無意識だろうが、批判対象を無限に拡大していくと思うし、貴方がた自身にもそれは止められないと思う。
 
 

+良識フェミがなんと言おうとサブカルは被害を受ける

 
 しかも我々オタクは、すでにポリコレ棒による実害がサブカル界に現実化していることを知っています。
 ジェームズ・ガンの作るガーディアンズ・オブ・ギャラクシーが見たかった。ポリコレ棒に屈さないでほしかった。幸いにも我々のそうした訴えは認められ、3ではジェームズ・ガンが作ることになった。しかし間違いが"人権意識"の発達している欧米で起きたのは事実。しかもこれは最も極端な例であって、見ている人にしか分からないレベルではもっといろいろなことが起きている。スターウォーズの主人公は女性と黒人になり、ゴーストバスターズの女版が大して面白くもないのにリメイクされ、ターミネーターはサイボーグのSF映画ではなくサラ・コナーの映画になった。日本でもあれこれが起きている。一つ一つとしては大きな問題あるとは言えないが、我々はポリコレの圧力をひしひしと感じている。
 
 重要なのは、これらは法的な根拠や公的な正義に基づいて起きた規制ではないということです。ポリコレ文化人のロビー活動に基づく、メディアの萎縮がこうした状況を欧米で生んでいる。
 良識あるフェミ界隈の人々は、作品の撤去を求めるわけではない、と言うだろう。
 だが撤去されるんだ実際に
 
 日本はそういうものからできうる限り自由であってほしい。アズールレーンの中国人たちが、本当にしたい表現ができると喜ぶ日本であってほしい。
 だから、動物的な負の性欲を、ポリコレという文化的ラッピングに包んだだけの運動には、どんなものであれ、表現の自由戦士としてのオタクは断固反対して行かざるを得ない。
 少なくとも、それが自明の「政治的公正」ではない、ということは主張していきたい。
 
 

+終わらない闘争、という安定

 
 さて、表現の自由戦士として譲ることができない内容について、述べました。
 しかし……ここで認めてしまいましょう。それは僕の男性としての「正の性欲」と無関係ではない、と。もしも僕に欲望がなければ、宇崎ちゃんが連載中止に追い込まれたとしても大して声を上げたりはしないに違いない。
 
 この点で僕は、僕の表現の自由戦士としての思想が、規制派ツイフェミニズムに優越すると主張することが残念ながらできません。僕たち表現の自由戦士は、女性たちの主張を「所詮お気持ちじゃねーか」と正義の天蓋から地べたに引き落としますが、そうして引き落とした地べたでは、僕たちもまた泥に塗れています*12
 所詮は性欲と性欲のぶつかり合いです。生物学的感情に基づく以上、どちらにも譲歩の余地はない。理屈ではないからです。
 実は元ブログの論拠の中で、もっとも気になっているのがそのポイントです。
 
そして根本的には、政治的不公正、例えばジェンダー上の不公正さを批判するポリコレ棒を国民の中にビルドインするような啓発・教育・学習の方にもっと充填を置くべきじゃあないのか。そうなれば、自然にそうした不公正な表現は減るし、もし出てきてもそれは虚構上のネタだとすぐにわかる。
 
 こういう世界観は、まさに日本の*13「人権教育」の行き届いてなさからくる非現実的な虚構ではないかと思う。
 ポリコレ棒を教育によってビルドインされた人々は、自然と不公正な表現をへらすのではなく、棒で叩くための表現を探すだけの存在になるでしょう。争いはかえって激化し、社会は不安定になり、ゾーニング論者が求めるような炎上の存在しないネット言論界はかえって遠のくことになる。
 なぜなら権利とは、闘争の原理だからです。平和をもたらすような概念ではない*14
 
 もしも人権教育として行うべきことがあるとしたら、ポリコレ棒で殴りたい対象が目の前に現れてもまずは相手の立場を尊重せねばならない多様性とは他者との違いを許容することである、みたいな教育ではないかと思います。
 
 現状それができている人もいます。表現の自由戦士、あるいはツイフェミに、同意しないまでも相手に理解を示す人は、実は全体のうち多数派であるはずです(そして元ブログの紙屋氏もその多数派の一人であるはずだ)。 
 しかし同時に、そうした良識教育が全国民に行き届くことはありえない。そして良識を持たない人の軽率なツイートは拡散され、ポリコレ棒で殴られるでしょう。常に悪貨は良貨を駆逐するのです。
 この状況を無くすことは出来ません。だって性欲だから。争っているからそれをなくしたい……とか考える事自体がおそらく不毛で、関わらないことが唯一の正解に違いありません。
 
 というか、そうした殴り合いと争いのサイクルこそが、元ブログの言う「旺盛な批判」なのでしょう。言葉の暴力の伴わない批判などきっと永遠に実現しないし、表現の自由戦士とツイフェミがSNSで殴り合っている状態が正しくさえある。
 
 

+ポスターについては性欲以外の要素で判断しろ

 
 というわけで、全ては正の性欲と負の性欲の闘争に過ぎず、不毛であると同時に状態として正しい、というのが僕の意見です。
 貴方がたは、争いを止めようと心を痛めること自体を止めてください。
 
 しかしそれとは別に、じゃあ宇崎ポスターの是非はどう判断するのか、という問題がある。
 全体としての争いや炎上は不可避だとしても、個々のケースについては何らかの判断をして決着をつけねばならない。それはどうすべきか。
 
 それは、もう性欲を抜いた要素で判断するしかないでしょう。つまり、宇崎ポスターが不快だからとか、好きだからとか、そういう要素に基づく、人権思想や"政治的公正"で判断しないということ。
 
 さんざん言われていることではありますが、やっぱり献血が増えたかどうかの実利でだけ判断するのがいい
 
 女性がポスターに反感を覚えるのは厳然たる事実ですから。それは表現の自由戦士として何を言っても変えられない。我々オタクは、大好きなエロい漫画が市場原理のせいで連載を止められてしまうという経験を幾度となくしています。コンビニエロ漫画規制のときも「あれは高齢者向きの商品で実際撤去したほうが売上は増えるかも」という話になった時点で、「チッ、だったらしょうがねえな……」みたいに殆どの人間がなりました。
 女性が不快だし不快が正義だから公的に撤去せよ! という話には全力で抵抗します。抵抗しますが、女性が不快であるせいで献血が減ったかも……とか献血団体が言ったら、チッ、だったらしょうがねえな……とせざるを得ない。*15。実際、オタクは別に巨乳じゃなくてもリーフレットもらえるなら献血に行く。これは人権や正義とは関係ない、広告センスの問題です。
 
 広告センスの問題に過ぎない、ということを強調していくしかないと思います。
 
 ゾーニングの精査や倫理的検討では、闘争は永遠に続くし止まりません。そうじゃなくて、クレームだけが目的の女性やオタクからの電話もかかってくるから、人権や公正とは無関係なそういった現実にこそ対処しなければならない。そういった現実にだけ対処すればいい。
 そうすれば、我々オタクの行動は表現の自由戦士としてのものから、単なるオタクとしてのものに変わる。好きな作品を買い支えるというのは我々にとって普通のことです。宇崎ちゃんが売れて欲しいという理由で献血に行く人も出てくるでしょう。
 
 

+都合の悪い現実を直視し、軽率な発言をやめよう

 
 まとめます。
 
  •  宇崎ちゃんのポスターが社会や子供に負の影響を与えることにはならない。
  •  したがって反対運動の根拠は女性の嫌悪感だけである。
  •  女性の性的嫌悪が男性の性的嗜好に優越するという理屈を公正とは呼べない。
  •  両方が性欲によって話す以上、冷静な議論やゾーニングの検討は無意味。
  •  公正や倫理の問題ではなく、広告センスとして処理しろ。
 
 以上です。
 この記事で僕が特に言いたかったのは、「貴方がたそれは倫理ではなく生物的性欲なのわかってないでしょ?」ということです。
 それが分かっていれば避けられる軽率な発言がたくさんあると思います。特に、自分の生物的嫌悪を理解させるために、ゲイポルノを男性に向けてくるのはほんと軽率で、ゲイとかいう人たちが生物的に嫌悪されてるのを防ぎたいのが、LGBT運動だったんじゃないのか。🌈とか名前につけてる人がそれに賛同してるのがまた軽率すぎる。
 そういった思いでいますので、元ブログのブコメにあった、「冷静な議論できないオタクが多かったのがイラッとして人が多かったのでは」みたいなコメントね、こっちも同じですから。我々は、男も女もオタクもフェミも、性と正義への生物的欲望に駆動されてる、愚かな動物に過ぎないのです。
 そして生物的欲望に抗うために、論理を鍛えましょう。特に女性学専門家の方々は、生物学や社会学の他分野がもたらす、フェミ古典にとって都合の悪い先行研究を参照し、受け入れてください。
 
 これで僕なりの表現の自由戦士主張を終わります。

*1:これは僕が自らを卑下している表現であって、普段から積極的に炎上活動や罵倒に参加しているという意味ではないです。

*2:その意味で、僕には紙屋高雪さんに対する敵対意識や、まして憎しみの類は全くない、むしろリスペクトしていることを重ねて申し上げてあげたい。

*3:もちろん、これは社会科学の話です。つまり実験室の理科的分析ではなく、理系脳の皆様はそんなの証明されたとは言えないよ、と言うでしょう。これに対しては、文系科学ってのはそういうもんなんですよとしか言えない。ただ、先行研究の存在や妥当と信じられている仮説の存在を認識するぐらいはしたほうがよくないですか。

*4:この点"統計的に優位ではない"であることを"皆無じゃないってことだろうが"と取って否定されてない扱いする教育関係者がまあまあいるんですが、流石に無茶だと思う。

*5:映画「ボーリングフォーコロンバイン」などが、昔話題になりました。

*6:そしてちゃんとしている家庭とは「非道徳的なコンテンツが排除された環境」ではありません。

*7:今回の場合、に限るという但し書きはつく。ラノベ読者として表紙の件は到底許容できなかった……

*8:より確認しやすい実例として、少女漫画表現でも確認できます。主人公に性欲丸出しで男が迫るとき、ヒーローは真顔で、悪役やヤラレ役なニヤニヤしています。

*9:これは書いてから気づいたのですが、やはり多くの方が指摘した通り「宇崎ちゃんがニヤニヤしていた」のがやっぱ実は一番大きかったのでは。

*10:これをオタク差別、と見る向きもあるでしょうが、それは無理だと思う。これは述べたように生物的反応なので

*11:僕は、もとから社会的マイノリティの嫌悪感と人権侵害を同一視する風潮に懐疑的で、それについて記事も書きました。

*12:この点を認識できてない男が多い、という話にもまた同意せざるを得ない。

*13:日本だけかは怪しい……述べた通りポリコレ棒の殴り合いは欧米のほうが先鋭的なのです。

*14:先の引用でも貼りましたが、また自分で過去に書いた記事へのリンクを貼っておきます

*15:というか、献血団体としては、よほど献血が増えるのでもなければ、そうしていくでしょう。こんな炎上するんだったらめんどくさいから、次からは、KADOKAWAにあんま炎上しなそうなノベルティにしてくれって言うと思います。KADOKAWAだって、宇崎が献血に適しているとかいう判断はしていない。他にも人気がある作品のノベルティを総当りで出していて、宇崎ちゃんはその一つに過ぎないわけですよ。

新三国志(ソシャゲ)17鯖でここ一年に起きたこと

 今回は、『新三国志』というコーエーテクモゲームズ監修のソシャゲでサービス開始から1年間に起きたことについて書きます。

 実は、僕自身がこのゲームをやっている訳ではないです。しかし、実際にプレイしている友人のC君から聞いた話があまりにも面白く、またその一部始終は今のところ特にネットなどに纏められてはいないようですので、非才ながら司馬遷の志を次世代に繋ぐべく筆を取らせていただくことにした次第。

 あくまでも伝聞なので、不備があるとは思うし、基本C君視点の話にはなるのですが、話を聞いて去来した感動を是非とも共有させていただきたいと思います。

 

+2018年12月11日、激震

 

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 そもそも『新三国志』は、コーエーテクモゲームズが完全監修のもと中国企業が製作、日本向けに配信しているスマホゲームです。2018年8月にリリースされ、内容もなかなか好調な様子。

 このゲーム、僕自身は先述したようにやっていませんが(他のゲームが忙しいため)、基本的にソシャゲには辛口評価を下すC君がかなりマメにやっているのだから、相応の面白さがあるはずだと信じられる。C君は根っからの中国史オタである、という面を差し引く必要はあるでしょうが、彼が1年間同じゲームを続けているっていうのは、相当なことなんですよ。伝われ、この驚き。

 あと、19年8月めでたく一周年を迎えたそうです。 続いているということを鑑みても、やはりいいゲームなのだろう。

 

 コーエーファンのC君は、このゲームには登場当初から注目しており、最古参の一人としてサーバー17を舞台に独自に戦場を駆け巡り、群雄割拠、栄枯盛衰を繰り広げました。

 この手のゲームはやっぱり序盤が乱世で面白いところがありますからね。

 プレイヤーはみんな、自分なりの覇道を突き進み、いつか天下を獲る日を夢見ていたはず。

 

 だが2018年12月11日!!

 

 C君の主戦場だった、サーバー17に風雲急を告げる事態が!!!

 

ジャーンジャーンジャーン)

 

 

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サーバー17、中華統一、成る!!

 

 言わずもがなですが、上の画像のマス目を全プレイヤーが互いに奪い合っているのが『新三国志』というゲームです。つまり中華統一が成されたということは、他のプレイヤーの抵抗を全部なぎ倒して、圧倒的な戦力で戦場を蹂躙したということです。

 いくらなんでも、ソシャゲで普通そういうことは起こらない。現に他のサーバーではこんなことはまだ起こっていませんでした*1

 全サーバーで初めての快挙。

 しかもあまりにも急な快挙です。まさかそんなことができるとは!? と誰もが思った*2

 

 一体何者がそれを成したというのか!?

 

 

+天が乱世に遣わせた麒麟児 ichi

 ■

 サーバー17で三国時代の中華を制したのは、ichi というプレイヤーでありました。

 彼は知る人ぞ知る、世界的なプレイヤーです。

 

 元はといえば、ichi は『戦国炎舞』というソシャゲの高額課金者であったそうです。だが、彼はただの高額課金者ではない、あまりにも高額の課金者なのでなんと彼の引退が公式からアナウンスされたという。

*参考記事↓

 

 参考記事の内容を抜粋します。

 

  • 公開されたスクショから、戦国炎舞に3億3000万円以上課金していたことが判明。
  • 同じペースで課金していれば最終的に5億円は課金していたはず。
  • 戦国炎舞では後発組だったが一瞬でトップまで上り詰めた。
  • 初心者の質問に答えつづけ、ゲームコミュニティの中心人物だった。
  • 彼が居たからゲームを続けたプレイヤーも多い。
  • 他の高額課金者は嫉妬を覚えることすらできず、ありがたいものを見たという気持ちになる。

 

 全盛期の ichi 伝説コピペか何かか? 

 いえ、彼は今でもバリバリの全盛期なのです。

 

 彼が2016年の『炎舞』引退以来、何をしていたのかは我々には定かでないですが、C君が異変に気付いた時には、既にサーバー17は ichi 軍団の圧倒的な財力により蹂躙され尽くしていました。そうなってから初めて、17鯖の諸侯たちはichiという稀代の麒麟児の存在に気付きました。

 

 恐らくはその前段階には、桃の木の下にある小さな庵で過ごしていたichiの元に、何者かが訪れてこう言ったはずです。

 

「先生、実は面白いゲームがあります。ご存知コーエーテクモゲームズが監修した新三国志というスマホゲームです。しかし諸侯は驕り荒ぶり、民は放浪し、国は乱れるばかりです。先生が戦を憂いて、こうして隠居なさっておられるのは重々承知の上ですが、先生ほどの仁徳のある君主は他におりません。どうか立って天子となっていただけませんか。そしてわたくしを一番の臣下としてください」

 

 これに ichi 師は答えて曰く、

 

「民が苦しんでいるならばなぜ立たないということがあろうか」

 

 とかなんとか。

 ichi 師がゲームを始めたのは、どうやら2018年10月末のことです。これは中華統一の僅か1カ月半ほど前でありました。

 

 

+ichi という男の課金実態

 

龍のイラスト獏・バクのイラスト

 しかし、かつて別ゲーで伝説級の課金をしていたとはいえ、『新三国志』というゲームに、ichi 氏はどれほどの力を注いでいるのでしょうか?

 別にあらゆるゲームに廃課金しているわけではないかもしれない。

 これについて、C君に聞きました*3

 

 具体的に、ichi はどれくらいの強いのよ?

 

「具体的な数字の話は……ほんとやってもらわないとわからないところがあるんだけど」

 

 と、彼は前置きしてから説明した。

(と、言わないと嘘になりそうなので実際のプレイヤーの皆様は以下の説明の細部は多めに見てください)

 

 例えば『新三国志』において、プレイヤーの強さの指標となるある数値がC君の場合は20万パワーほどあります。

 ichi 氏は、これが40万パワーあります

 C君のおよそ倍です。

 

 え、無課金と比べてたった倍程度なの? と僕は思いました。しかし、これはとんでもない数値のようです。

 

 『新三国志』は、この手のゲームでよくある、砦に新たな施設を増築することで軍隊が強くなる方式を採用しています。この施設ですが、1個つくるごとに40~80程度のパワーが増えます。

 つまり、C君とのパワー差20万というのは、ざっくり施設2500個分の差があるということです。

 更にこの施設建築には、多大な資源はもちろんのこと、何よりも時間がかかります。施設1つにかかる施工期間はだいたいリアル3日ほどで、これは全プレイヤー共通です。ただし、この施工期間を短縮する方法があります。もちろん課金です。

 即ち、2500施設分の差があるという、イコール、 ichi氏 は施工短縮だけで2500回以上の課金を行っています。もちろん実際にはもっと多いはずで、ichi師は『新三国志』でも後発組ですから、C君たち最古参に追いつくまでの時間も課金で短縮しています。

 

 なるほど、2500回施工短縮をしていると。

 で、それは一体1回にいくらリアルマネーがかかるのかね?

 

「……とりあえず今の俺の城を施工短縮で強化しようとしたら2万円かかるね……」

 

 だそうです。

 もちろん低レベルのうちはもっと安いのですが、それにしたって1カ月で他プレイヤーをぶっちぎる回数の施工短縮課金を、ichi 氏は確実にしています。

 2万円課金を一体何回すればそこまでいけるのだろうか。

 仮にめちゃめちゃ大目に見て、低課金でできる分が1000回はあったとしても、1500回はやってるよね……2万×1500yen……? 僕が計算を間違っているのか……?

 

「まてまて、今のは拠点のパワーの話であって、武将とか武器とか軍とか兵法とか、いくらでも課金強化要素はあるから」

 

 課金要素がもっとあるの!?

 それはもう億待ったなしということだよね!?

 念のため確認しておきますが、これソシャゲの課金の話ですよ。

 

 

+ichi という漢の兵法

 ダビデとゴリアテのイラスト

 だが ichi とは、財力に任せて敵を殴るだけの卑劣漢なのだろうか?

 春秋三国時代のなみいる将軍たちは、札束で人を殴るしか脳がないオッサンに蹂躙されたとでもいうのか。

 

 そうではない。Cくんはこんなエピソードを話してくれました。

 

「ichiさんといえども、負けたことが皆無なわけではない」 

 

 あるとき、ichi が負けたとの一報がCくんに届いたという。

 やる気だけはある無課金勢として雌伏の時を過ごしていたCくんはいきり立ちました。そうかそうか! やつに勝つ方法があるのか! してそれはどうやったのだ。

 

 情報は簡単に見つかった。

 というのも、ichi がそのときのログを公開していたので。

 ichi は自分が負けると、広くログを公開して諸侯たちの意見まで求めたのだ。

 そして、その時の状況を徹底的に分析した。

 そうしてわかったのは、当時はまだマイナーだった「相手を同士うちさせる計略」が、ichiの最強軍団にブッ刺さっていて、その結果彼の軍は破れたということ。

 ichi は即座に対策を打った。豊富な財力を駆使して、同士討ちの計略に耐性がつく装備を整えた。前線にはカッチカチの防御特化兵を、後衛には攻撃特化兵をおいて、今まで以上に生半可では太刀打ちできない、盤石な耐性を整えた。

 

 そういう訳でCくんはもう火を点けかけていた反撃の狼煙を速攻で片付けた。

 Cくんが ichi 敗北の報を耳にしたときには、ichi 軍団はもう、今まで以上に手がつけられない存在になっていたからである。

 

 このエピソードを聞いて史家の僕は思いました。

 ichi がすごいのは財力がではない

 なんていうんでしょうか、彼はやるからには徹底的です。

 ゲーマーがたまたま金を持っているのではなく、金稼ぎも何もかもを徹底的にする気質の人間が、たまたまシミュレーションゲームも好きである

 そういう気配がしますね、この歴史上の人物からは。

 

 

+天帝 ichi との戦い方

 

孫子の兵法書のイラスト

 『新三国志』では、サーバーランキングで一位になると帝(みかど)の称号が得られます。

 もちろん17鯖の帝は ichi です。

 まさに天に帝になるべしと定めらえた男と言えるでしょう。

 

 しかし覇道・天道に敵多し!

 特に17鯖は、天下統一までやっているのだから、流石にみんな「ichi がヤバイ」という事は把握しています。三国志のゲームをやろうなんて思うやつはみんな我こそは天下人であると思うような野心家ばかりです(C君を見ての経験則です)。

 だから皆、何とかして ichi に一矢報いてやろうとしたはず。

 

 僕は史家としてC君に尋ねました。

「 ichi と戦う方策が何かあるのではないか? 奇策、計略の類は用いたのか?」

 

 C君は教えてくれました。

 ichi と戦うにあたって、共有された指針があったそうです。

 

  • ichi と1対1の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対2の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対4の状況になったら即逃げろ! 絶対に勝てないからである。
  • ichi と1対8の状況になったら全力で攻撃しろ! そうすれば ichi の体力をそれなりに減らせるからである。

  

 その絶望的な指針は一体なんなんだよ。

 なお、1対8というのは、平面マップを使った戦略シュミレーションである『新三国志』のシステム的な上限値になります

 

 三国志が主題であるこのゲームは、後漢の首都である洛陽が戦略上の超重要地です。この場所を長時間抑えていればいるほど、高レアのキャラが配布されるので、誰もがこの都が欲しい。

 しかし当然、洛陽は ichi軍団 が常に抑えています

 長時間、洛陽の支配権を持っていればいるほど、ichi 軍団は強化されるということです。これでは ichi はますます手が付けられなくなってしまいます。本当は早々に波状攻撃でもなんでもして、 ichi から洛陽を奪うべきです。

 しかしそれができないのです。ichi が強すぎて、先陣を切って突っ込んだ奴から必ず死ぬからです

 

 

+17鯖ドラフト同盟の成立

 握手をしているビジネスマンのイラスト「若者とおじさん」

 

 このような圧倒的なパワーをもって、ichi軍団は乱世の中華を統一せしめたのでした。

 ichi の威光は17鯖において圧倒的であり、ワールドチャットでは時折、三国志とはまるで関係ないビジネス関係の相談が飛び交うといいます。億の課金が出来る人ともなれば、そりゃあ当然ビジネスの相談もできますよ。ゲームから離れてすら人間性能が強力すぎる。

 

 けれども、まあ、この現状はゲームとしてはあまりにもあんまりなのは否めなかった。

 なにしろ ichi とその仲間たちに勝つことは誰にもできませんからね。天下が統一されたまま、他の軍団は全く領土が取れないのではそもそもゲームにならない。

 そこで17サーバーでは、ユーザー間で特殊なルールが制定されました。

 

 一定期間ごとに、ランキングトップ勢の軍団リーダーが話し合いの場を持ち、ドラフト制を用いて交代制の同盟関係を結ぶ同盟関係にある間、軍団同士は互いに攻撃しない

 ここで言う同盟というのは、ゲーム上のシステムとは何も関係ありません。単なるプレイヤー同士の口約束だし、運営はまったく関与していない。

 その意味するところは、要するに、ある一定期間ごとに交代で Ichi と同盟関係を結ぶことができる、という話。

 

 ichi が居るからには、こういう特殊ルールでも作らないとやってられない。もはや17鯖において、ichi とはゲーム環境のことであり、『新三国志』は ichi が存在する中華をどう生き抜くかを競うゲームなのです。

 いやはや、ここまで来たか、という感じですね。

 

 ちなみに、時おり同盟関係を無視して攻撃を始めてしまう軍団員が出て、粛清の嵐が吹き荒れることもあるとか。

 なにそれめちゃくちゃ面白そう。

 

 

+黒雁公の乱

 中二病のイラスト

 

 しかし、繰り返しますが、三国志のゲームをやろうなんて思うやつはみんな、我こそは天下人である、と思うような野心家ばかりなんです

 ichi が強い、それがなんだ

 奴に勝ちたい。勝てるはずだ!

 当然そう思う人達もいます。

 

 その筆頭は、17鯖でサーバーランキング2位のプレイヤーで、仮にここでは黒雁公と呼ぶことにしましょう。彼は、C君曰く「ichi ほどではないにしろ十分手に負えないほど強い」武将です。

 黒雁公は各地の強力な諸侯に文をしたためたそうです。

 たぶんそれはこういう内容でした。

 

「この中華は今や ichi という成り上がりに支配されています。天がこんな状況を許すはずがない。多大すぎる課金は悪であり、悪は正されねばならない。志あるものは我々と伴に立ち上がれ!」

 

 かなりの諸侯がこの檄文に呼応したらしい。

 そして2019年初春!

 

 黒雁公同盟軍による ichiへの一斉攻撃が行われた!!

 

 同盟軍にはサーバー2位の黒雁公を筆頭に、17鯖でも選りすぐりの有史たちが参加。シュミレーションゲーム特有の攻撃中ラインが、ichiの拠点に向けて一斉に伸び、まるで漫画の集中線のようだったとC君は言います。

 

 先に、Cくんからは、8対1の戦いならば ichi の体力を減らせる、という話を聞いていましたよね。それを波状攻撃で繰り返せばもしかして勝てるのか。

 ましてや、黒雁公たちは曲がりなりにもサーバーで2番目に強い人たちです。ステータス上の差もそこまで圧倒的には見えない。

 これはもしかしたらするのでは……!!!

 

 と、思いますよね。

 

 結論から申し上げますと、全然だめだったようです。

 

 さっきC君から聞いた「8対1ならある程度いける」という話が、実はもう嘘だったことが、黒雁公の戦いの結果わかりました。

 C君曰く、「そうなるってことは ichi は外部から見れる数字では判別がつかない、隠しステータスみたいな部分までバッキバキに鍛えているってことなんだよね」だそうです。

 

 この黒雁公の乱を最後に、17鯖では ichi帝 への大規模な反抗作戦はなりを潜めてしましました。諸侯たちの野心の矛先は「2位以下の争いの中で少しでも上に行きたい」という風に完全にシフトしてしまったとか。

 

 

+覇道を征く〜未来へ〜

  飛行機雲のイラスト

 

 こうしてichi 帝は、盤石な天下を我が物にしたまま、『新三国志』というソシャゲで一周年フェスを迎えているのでした。

  今回はC君の証言をもとに17鯖での状態をまとめたので省きましたが、『新三国志』では各サーバーのトップ勢同士の対戦、というイベントも開催されており、そこでもichi がトップの座をほしいままにしているそうです。

 いやもうなんだ。圧倒的すぎるわ。

 

 ただし、今回の記事は、何度も言うようですが、C君から聞いた話があまりにも面白かったので門外漢の僕が伝聞をもとにブログに書いただけのものです。なので、正直面白さ重視で誇張してるところがある。C君の分と僕の分で、おもしろフィルターを2回も通ってしまっています。

 本当はどうか? については、是非ともあなたが実際のゲームで確かめてください。

 もしかしたら貴方はそこで、21世紀の覇道、というやつを目にできるかもしれませんよ。

 

*1:その後はいくつかのサーバーで中華統一は起きたようです

*2:想定外過ぎて運営も何も準備がなかったのか、中華統一が成されたゲーム上ではファンファーレの一つすら無く、プレイヤーたちからは結構な不満の声が挙がったといいます

*3:19年4月ぐらいの話で、もちろんソシャゲですから、プレイヤーは今もどんどんレベルアップしています

上遠野浩平論・目次(あと御報告)

 ご好評を受けました「上遠野浩平論」のための目次用ブログ記事です。

 2018年1月〜2019年2月ぐらいで、ちまちまブログに書いていました。

 ブログなので埋もれてしまうと掘り出しにくくなるかな? という懸念があるのと、目次を読んで内容がわかるのが真の良書、という師の教えに忠実であるために、新しい記事を投稿したこのタイミングで目次と称したリンクリストを用意しておきます。

 

 

 

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

 あと小さくここでご報告させていただきます。

 このブログをきっかけに依頼を頂きまして、雑誌「ユリイカ」2019年4月号、上遠野浩平特集において、第二期上遠野浩平に関してブログとは別の切り口で記した論考一編と、上遠野浩平全作品解題(2019年4月時点まで)の執筆を担当させていただきました。

  他の先生方の論考も大変すばらしいので、未読の方は今からでも御一読いただければと存じます。

 

 

 

 いや雑誌の表紙みるだけで今でもほんとグッとくるものがありますね。

 

 

上遠野浩平論⑩(終)~未来へと向かう上遠野浩平(『螺旋のエンペロイダー』『不可抗力のラビット・ラン』『パンゲアの零兆遊戯』など)

 上遠野浩平論の第10回です。今回で最終回になります。

 前回の第9回では『ヴァルプルギスの後悔』で起きた魔女消滅後の世界を〈一巡後のセカイ〉と定義し、また〈一巡後のセカイ〉を舞台とする『ヴァルプルギス』以降の作品群を第3期上遠野浩平と呼ぶことを提案した。

 最終回となる今回は、最近発表された作品をいくつか取り上げることで、第3期上遠野浩平における文学とはどんなものなのか、つまり現在の上遠野浩平が描いている文学がどんなものなのを論じる。

 第3期上遠野浩平の舞台となる〈一巡後のセカイ〉とは、かつて「運命」の前に破れた「可能性」が、再び息を吹き替えした世界である。故に、第3期上遠野浩平の文学とは、第1期上遠野浩平と同じく「可能性」を中心的テーマとするものである。しかし、その内容はかつてと同じでは決してない。同じ場所に戻ってきたようでいて、明確に進化している。"螺旋上昇している"という表現がこれほどふさわしい作家も居ない。

 また本記事では、今出版されている作品群の話から、更に僕が個人的に読み取った、上遠野浩平の未来への挑戦についても扱う。

 言い訳がましい話を最初にさせておいてもらうが、これまで上遠野浩平論と称してあれこれ書けたのは、上遠野浩平を読み始めてから20年の蓄積がが大きい*1。故に、蓄積のない現代ひいては未来の話をするとあっては、的外れも多くなっていくだろう。読者の皆様に置かれましては、サッカーニュースのコメンテーターの勝敗予想を聞くような気持ちで、気軽に本論の結末に目を通していただきたい。

 

 

+「運命」に疑問を呈する男、才牙虚宇介~『螺旋のエンペロイダー

 

  まずは螺旋のエンペロイダーから議論を始めないといけない。同作品は、『ヴァルプルギス』終了後の電撃文庫MAGAZINEで、2012年3月から2016年11月まで連載された。

 この作品は、虚空牙の影響下で生まれた才牙虚宇介・才牙そらの二人を中心に、統和機構のMPLS育成所・NPスクールに通う生徒たち*2、そして枢機王が、エンペロイダーと呼ばれる謎の概念についてあれこれ争う物語である。

 なぜ『エンペロイダー』から最終回の議論を始めるかというと、この作品は、文中で明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台となっている旨が示されているからである。具体的には、まず『ヴァルプルギス』のラストで登場した御堂璃央がNPスクールに在籍している。また『Spin.2』に登場するフェイ・リスキィが、奇蹟使いの能力を使いこなしていて、「ちょっと前の(MPLSなら)何でもかんでも抹殺してしまえって風潮だった頃~」と統和機構の内部で決定的な方針転換があったことも話す。あと、九連内朱巳とイディオティック・オキシジェンの仲がやけに良さそうだったりする。

 

 そんな『エンペロイダー』は、文学的にも明確に『ヴァルプルギス』後の展開を、つまり本論が第3期上遠野浩平と呼ぶ流れを描いている。

 特にそれが現れるのは、主人公の才牙虚宇介の言動だ。

 

 才牙虚宇介は『Spin.1』で最初の敵役となったミューズトゥファラオ・虹川みのりと、こんな会話をした。

「――ふざけるな!」みのりは絶叫した。「貴様も化け物なら、化け物らしくしろ! なんだその――優等生みたいな言い草は!」

「ほらほら、だからそこだよ――狭い。すごく狭い。どうして君の能力が、そのまま世界の敵になるしかないって思い込みに直結するんだ?」

 虹川みのりは、この会話の前に、「私には覚悟ができた――何ものにも負けないという決意が」などと、運命と対決する〈戦士〉の立場を度々表明し続けている*3。それらは、第2期上遠野浩平であれば主人公が高らかに宣言したであろう台詞であり、実際虹川みのりはNPスクールの生徒たちなどより、明らかに〈戦士〉として格上である。

 才牙虚宇介は、そんな虹川みのりの前に急に現れて、「その戦いは本当に必要なんですか? あなたは本当に〈世界の敵〉なんですか? あなたが〈戦士〉である必要は実はないんじゃないですか?」と、前提をひっかり返す疑問をぶつけている訳だ。

 

 もう一つ同じような会話を引用する。才牙虚宇介は『Spin.2』で、アロガンスアローの能力を引き出して枢機王と戦おうとする才牙そらと対峙し、こののような話をした。

「私たちの、本来の使命を忘れるな――お前はまだ、あのNPスクールという欺瞞に囚われているの? 適度に安全なMPLSを矯正して教育する、とか――馬鹿馬鹿しい。全ての能力者は、この〈アロガンス・アロー〉のように、世界を組み替えて変革するためにのみ存在している――今の世界の敵であり、未来の支配者となるか否か、その二者択一の運命しかない」

「だから単純だって言ってるんだよ――運命なんて曖昧な言葉を、そんな風に物々しく使うもんじゃない。そもそも君の、その人間を見極めるとかいうやり方も、ずいぶんと粗雑で取りこぼしの多い話じゃないか」

 才牙そらは、やはり「日高迅八郎は自分の運命を自覚してなくて可哀想」「運命からは決して逃れられない」などと、第2期上遠野浩平を彷彿させる台詞を連発している。というか、彼女のナイトフォールの能力は、言ってしまえばオキシジェンや魔女の縮小版*4であり、第2期上遠野浩平の擬人化とさえ読むことが可能だ。

 才牙虚宇介は、そこに「運命って本当に絶対なんですか? そんな単純には決められないんじゃないんですか? 何であなたは運命を分かったつもりになってるんですか?」という疑問をぶつけ、やはり前提自体をひっくり返してしまう。

 

 つまり、才牙虚宇介とは第2期上遠野浩平という文脈自体に疑問を呈してくるキャラクターなのだ。

 

 魔女が消滅した〈一巡後のセカイ〉とは、基本的に、万に一つの成功が否定できなくなっただけの世界であり、我々を失敗に導く「運命」は相変わらず絶望的なまでに強大だ。だから、第2期上遠野浩平の文脈を踏襲した虹川みのりや才牙そらの言葉は、既存作品で発せられた時と同じように正しく見えるし、実際ほとんどの場合彼女らは正しい。

 しかし彼女らは、才牙虚宇介に根本的な疑問を突き付けられると、何も反論できない。正しいはずの主張が通らなくなるので、彼女らは、もはや逆ギレする以外になくなってしまう。

 才牙虚宇介というキャラクターは、空気を読まずに疑問を呈するだけで何が本当に正しいのかは言わない。なので、普段の態度はひたすら曖昧でどっちつかずに見える。そういう傾向は、特にシリーズ前半の『Spin.1』から『Spin.2』にかけて顕著だ。(『Spin3』以降の展開についてはまた本記事の後半で改めて触れる)

 

 

+将来を問われる既存キャラたち~『不可抗力のラピッドラン』など

 

 明確に〈一巡後のセカイ〉が舞台だと示されない作品にも、第3期上遠野浩平の影響は見て取れる。 

 中でも 『不可抗力のラビット・ラン』で九連内朱巳のもとに訪れた影響の大きさには、本論がこれまでで指摘して来たような既存作品の内容を把握していると、ちょっとびっくりさせられてしまう。

  この本で初めて九連内朱巳の前に現れたブギーポップの言葉を、複数のシーンから引用する*5

「君はまだ、”負けてたまるか”と思っていればいいと考えている。自分というものを抑圧する敵が居て、そいつに打ち勝てばいいと……だがもう、それは限界なんだ」

「………」

「十分に強い君は、他人を踏みにじっても、もはや対して面白いとは思えない。そしてそれは君だけではない――世界中の人間が、心のどこかで飽き飽きしているんだ。しかし他のやり方をしらないし、見つけられない。だから仕方なく、これまでの惰性をえんえんと続けていくしかないと思っていて、それにうんざりしている――」

「君はずっと文句を言い続けてきた。あれこれが悪い、どれそれがおかしい、誰彼が間違っている、と攻撃するだけでよかった。それが逆に、他者から攻撃される立場になったら、かつての自分の浅ましさが逆流してくるようで、それが苦しいんだ」

 

 九連内朱巳が、あろうことか〈戦士〉であることを責められている。 

 これには本当にびっくりだ。ゼロ年代に描いてきたものを丸々ひっくり返すような展開。

 だが、これが第3期上遠野浩平なのである。

 

 前回の第9回の末尾で述べておいたとおり、第3期上遠野浩平とは「勇敢に戦い、真の勝利を目指す時代」である。一方、第2期上遠野浩平で展開してきた〈戦士〉という語は、負けるという現実を直視できる者を意味し、絶望に折れずに抗える者を称えるためのモチーフである。〈戦士〉とは、勇敢に勝利を目指す者とか、勝利するもののことではない*6

 即ち〈戦士〉であるだけでは、第3期上遠野浩平のセカイを生き抜くことはできない

 負けず嫌いなだけ、今の場所で踏ん張っているだけでは全然だめで、未来の勝利に向かって一歩を踏み出さねばならないのだ。 『ラビットラン』で世界の敵となった白渡須奈緒は"未来について真剣に悩んでない"キャラクターであった。そして九連内朱巳は、それと同類だとブギーポップに怒られている訳だ。

 

 しかし、じゃあ未来に向けて一歩を踏み出すことにするとして。その時必然的に問題となってくるのは、我々はどっちに向かって踏み出せばいいのか? なにをやったら未来に向かって踏み出したことになるのか? 

 平たく言えば、僕たちは将来どんな大人になればいいのか? という話になる。

 現在、第3期上遠野浩平は、特にブギーポップシリーズの新展開と既存キャラクターの再登場を通して、青春期の若者たちにこの問いを突き付け続けている。『オルタナティヴエゴ』ではカミールは統和機構に戻った。『デカタントブラック』で新刻敬は風紀委員の自分に折り合いをつける。『ラビットラン』のもう一人の主人公・羽原健太郎は、霧間凪からの独立を考えだしている。『パニックキュート』で末真和子はアクシズとしての活動に本格的に着手した*7

 最近のブギーポップで描かれていたのは、月並みのようだが、いわゆる進路志望調査だったということである。

 

 それにしても、20年もライトノベル(≒ジュブナイル)を描いてきて、やっとテーマに出来るようになった新たな展開が「君たちはどんな大人になるのか」ですよ。

 ホント上遠野浩平って作家は度し難いな! エモ中のエモ(唐突な感情の発露)!

 

 

+復活した「可能性」が生み出す新たな葛藤

 

 最近のブギーポップについて見ることで、第3期上遠野浩平における葛藤の焦点が一つ明らかとなった。ここで、より深く葛藤の核心に迫るために一旦『螺旋のエンペロイダー』に戻る。

 

 この『螺旋のエンペロイダー』という小説は、タイトル通りエンペロイダーという概念の謎を追うことがストーリーの主軸となっている。この謎の舞台設定的な正解は、一応「枢機王が虚空牙から隠れる目的で、エンペロイド試論と呼ばれるでっちあげの論文を書き、統和機構をMPLSを沢山増やすように誘導した」なのだが、しかしこの説明ではモチーフの文学的意図が明確にならない。 

 本論が行いたい解釈のために、最も重要な見解の一つが『Spin.3』の冒頭でオキシジェンが示しているものである。

「エンペロイダーという……仮説は……あるかもしれないという、仮定……もしくは妄想にすぎない……本来は」

 ぼそぼそ声の男が言う。

「……いずれ、すべての可能性が潰えたときに、その果てにもなお立っている者こそ、真の支配者……最後の皇帝であろう、という……それに至る前段階、その似姿……」

 

 「可能性」の中でも、最後に残った者こそがエンペロイダーなのだという

 つまり、誰が最後に残るかで序列がつく序列のために競争する話だということ。 

 これまでも述べてきたとおり、第3期上遠野浩平の物語世界では、どんな人間にも真の成功に至る「可能性」がある。「可能性」が真の成功に至り得ることは、僅かだが確かに存在する希望だ。キャラクターたちは、誰もがこの僅かな希望を目指して、各々が現実に立ち向かう。

 しかし、もし仮に”万が一の成功”に至れるのはただ一人で、他の者は全て敗退するのだとしたら? 僅かな希望を奪い合うために、凄惨な争いが発生してしまうのではないか。

 エンペロイダーという仮説、あるいは被害妄想*8が示唆するのは、この競争なのだ。本当は「可能性」が互いに成功を奪い合うなどという必然性は無いはずだし、実際それ作中でほぼずっと単なる妄想だと言われ続けているのだが。しかし競争への不安に駆られた者たちは*9、互いに相争わずにはいられなくなる。流刃昴夕のように、積極的に他者同士を潰し合せようとする者も出てくる。

 

 ここでこの解説をしなければならなかったのは……エンペロイダーという謎っぽいモチーフについて話すのが面白かったのもあるが……それよりも、先に話しておいた進路志望調査の件と併せて、という話である。

 結局は同根の葛藤であることを指摘したい。

 つまり、第3期上遠野浩平で描かれるセカイは、確かに「可能性」という希望が復活しているが、別に薔薇色の時代ではない。既存キャラクターたちが進路選択に苦心する羽目になることといい、エンペロイダーの闘争が生まれることといい、むしろ希望の存在自体が新たな葛藤、問題、不安となるのだ。

 これからの上遠野浩平が何を描いていくのかは知るよしもないが、この路線の葛藤は今後もかなり重要になっていくはずである。

 

 それにしても、未来に希望があることが逆に不安、だとか。こんな月並みの話、いくら上遠野浩平が天才でも、デビュー時点で描いていたとしたらなんかよくある青春モノっぽいと思うだけで、ここまで真に迫った物語と受け取ることはできなかったであろう。

 20年かけて螺旋上昇した成果がここにある! エモ中のエモ(突然の感情の発露)!!!

 

 

+セカイとの断絶を踏破する~『パンゲアの零兆遊戯』

 

 さて、ここまで、第3期上遠野浩平という文学の特徴と、現出する新たな文学的葛藤について述べた。

 けれど、本記事ではやはり、第3期上遠野浩平が描くのは希望の存在するセカイであることを強調していきたい。世の中には確かに問題が尽きることがないし、基本的にエンタメ小説である以上、何かしらの解決すべき問題は描かれる。

 しかし、これまでの上遠野浩平では間違いなく描けなかったであろう希望あふれる展開も、今の上遠野作品には確かに現れている。

 

 このポジティブな論点では2つの作品を紹介する。

 そのうちの一つはパンゲアの零兆遊戯』だ。

パンゲアの零兆遊戯

パンゲアの零兆遊戯

 『パンゲアの零兆遊戯』は、エスタブと呼ばれる予知能力者たちがプレイしているジェンガに、主人公・生瀬亜季と、伝説のプレイヤー零元東夷が投入され、ゲームを戦い抜く姿を描く話だ。物語構造自体は、もろに『ライヤーゲーム』であり、恐らくは上遠野浩平が"最近の流行りも取り入れてみた*10"やつ。しかし僕は、現時点で上遠野浩平の最高傑作は何かというと、この作品だと思っている。

 なにせ、これが『ライヤーゲーム』や『アカギ』であれば主人公が勝つのは頭がいいからだが、この作品で描かれる勝負はそういう問題ではない。頭脳ゲームものを描いていながら、頭脳ゲームの勝ち負けや出来不出来はどうでもよく、プレイヤーたちは各々の人生全体を試され、敗北していく。完全に他の作家よりレイヤーが上のものを書いている*11。作中の零元東夷の台詞を借りるなら「次元が違うんだ、次元が。レベルなどというみみっちい発想からは外れている」。

 

 他の作家と異なるというだけではなく、上遠野浩平自身の他作品と比べても『パンゲア』という作品は、今までに無かった考えられない展開を盛り込んでいる。

 

 小説の最終版だ。それまで基本的にゲームを傍観していた生瀬亜季は、状況の変化によって、自らゲームに参加することになる。その直後、生瀬亜季は、自分が生前のみなもと雫(偽名:宇多方玲唯)に、最後にあったときの会話を回想する。

「ねえ、あんたは何になりたい? 亜季?(中略)たとえば、だ――あんた、宇多方玲唯か、みなもと雫になりたいと思う?」

 いきなり言われて、反応に困る。

「……なれる訳ないじゃないですか。無理ですよ。私だけじゃなくて、誰にも玲唯さんの代わりなんかできっこないです」

「それは世界中のだれでも同じことよ、亜季。別に人間はひとりひとり偉大とかそういう綺麗事じゃない。悪い意味でも人は、誰かの代わりを完全に務めることはできない。だから世界は劣化していくことを避けられない。新しいものを無理やり隙間に詰め込んで、どんどん形が変わっていくことを止められない――しかし、私はその点で、少しだけ希望を持っているのよ」

 ここで、生瀬亜季はみなもと雫の後継者であったことが明らかになる。

 生瀬亜季はこの後のゲームの中で、エスタブとしての才能を開花する。彼女は才能を見出されていたキャラクターであり、この物語全体で起きた出来事は全て、彼女の才能のためにあったのだ。

 彼女は、暴走する才能の中で、みなもと雫の幻覚を見る。

(みなもと雫――)

 挫折した未来予測のスペシャリストでもなく、夭折した天才アーティストでもない。余計の飾りのなくなった彼女がそこに視えていた。

 いろいろ踏まえて、一言で言えば、こうだ。

 

 生瀬亜季は、みなもと雫になった

 

 これが本当に考えれば考えるほどとんでもない。みなもと雫は『ソウルドロップ』シリーズにおいて、音楽関係者等から絶対に追いつけない絶望扱いされていたキャラクターである。コンセプトだけで言えば、虚空牙と同じ*12乗り越えられない"セカイとの断絶"そのものといえる。

 それと同じになった。あるいはそれの真の姿を捉えた。

 つまり、生瀬亜季とは、ついに自力で"セカイとの断絶"を乗り越えたキャラクターである。

 かつて霧間誠一が夢見た真の成功を達成した人物なのだ。上遠野浩平の作品遍歴において、これは本当にエポックメイキングな出来事だと思う。ついにここに到達したか! という感じだ。

 

 しかも同時に『パンゲア』は、やはり今まで通りの上遠野文学でもあるのだ。

 この物語の終盤では、零元東夷もまた、"セカイとの断絶"をとっくに乗り越えて、輝かしき成功に到達していた人物だということが明らかになる。しかし彼は、明らかにパッとしない、自分以外には価値のわからない人生を歩んでいる。

 作品のラストシーンで彼は、「零元東夷を舐めているやつが居なくなった」という理由で、何かを成し遂げるでも、報酬をうけとるでもなく、淡々と舞台から去る。

「君は――これから何をするつもりだ? どんな未来が視えている?」

 来栖の問いに、東夷は振り返って、そして面倒くさそうに、投げやりに、

「そいつが問題なんだ」

 と言って静かに扉を閉ざした。

 

 これこそは、上遠野浩平が『笑わない』でのデビュー以来ずっと書いているものである*13全てが終わったあとも人生は続く。それは真の可能性の成功に辿り着こうが世界の敵となり果てようが、何も変わることはないのだということが、第3期上遠野浩平という文脈において、改めて確認された訳である。

 

 

+セカイとの和解~『恥知らずのパープルヘイズ』

 

 もう一つ、希望に満ちた作品として取り上げたい作品がある。

 アニメ化もあって盛り上がりに盛り上がっている名作、『恥知らずのパープルヘイズ』だ。

  ジョジョ5部アニメの成功もあいまって、話題に上がることも多くなってきた本作。上遠野浩平の作品としては例外的に、上遠野サーガの外に位置しており、作品間リンクの要素を持たないが、上遠野浩平の文学の一つである以上、テーマ的な一貫性はやはりある。本論における議論の上では、この作品も第3期上遠野浩平に属する作品の一つだ。

 しかも、この作品もまた、既存の上遠野作品では考えられなかった展開を含んでいるのである。ラストシーンにおける、主人公のフーゴとギャングのボスとなったジョルノの会話、そのクライマックスを引用する

 その影がフーゴにかかる。顔を上げる。ジョルノは彼を正面から見つめながら、

「半歩だ」

 と言った。

「君が一歩を踏み出せないと言うのなら、ぼくの方から――半歩だけ近付こう」

「………」

「すべては君の決断にかかっているが、それでも悲しみが君の脚を重くするのならば、ぼくもそれを共に背負っていこう」

 

 この会話、普通にジョジョとして読んでも名台詞だが、第3期上遠野浩平の言葉として受け取ると、また違った趣が出てくる。

 漫画では主人公として我々の感情移入の対象だったジョルノだが、『恥知らずのパープルヘイズ』では、"あのブチャラティすらも従えていた圧倒的カリスマを持った存在"として描かれている。シーラEやムーロロといった上遠野キャラたちは、ジョルノに対して、ギャングのボスだからとかそういう問題ではない忠誠を捧げており、パッショーネディアボロの時代より遥かに強い権力を備えている。

 ハッキリ言ってこの小説では、ジョルノ・ジョバーナというキャラクターはみなもと雫の同類になっている。ジョルノとフーゴの間にはもはや、セカイと断絶が立ちふさがっているのである。

 

 つまりこのシーンでは、"断絶"の向こうの存在が半歩近づいてきてくれている

 

 上遠野浩平は、パンナコッタ・フーゴというキャラクターを"一歩を踏み出せない"キャラクターとして描いた。フーゴは「うううう……」となっちゃうタイプの人ということだ。彼は麻薬チームとの戦いを通じて、かつてナランチャが先に進めた理由を、いわば、彼にとってのカーメンを得ている。だというのに、彼にはやはり一歩が踏み出せない。〈戦士〉になりきれない。

 こういう人は、従来の上遠野作品では、そのまま取り残されるのが常だった。せいぜいブギー先生が「僕らは前に進むしかないんだ」と厳しいお声をかけてくれるぐらいで、救いなんてものはほとんど無かった。

 それに明確な救いが与えられている。

 上遠野浩平はついに、厳しいばかりだったセカイと、一つの和解を成し遂げるところまで来た。

 

 『恥しらずのパープルヘイズ』は2011年の出版であり、これは『ヴァルプルギスの後悔』の完結とほぼ同時だ。つまり『恥知らず』こそが、第3期上遠野浩平の最初の作品である。

 だとしたら――根拠のない情緒優先の読みをしてしまうが――この作品でのセカイと和解する展開は、荒木飛呂彦が"半歩"を埋めてくれたが故の、上遠野浩平にとっての断絶の克服だったのかもしれない。そしてこの時に経験したセカイとの和解が、現在に至るまでの第3期上遠野浩平作品に、優しさの血脈となって受け継がれているのかもしれない。

 

 

上遠野浩平の「愛」への挑戦

 

 以上、現在出版されている、第3期上遠野浩平の既存作品について述べたいことを述べた。

 ここからは、本論の〆として、これからの上遠野浩平、未来の上遠野浩平について予想というか、思うことを書く(つまりいよいよ話が信憑性の薄い領域に踏み込んでいく)。

 

 三度『螺旋のエンペロイダー』の検討に戻ろう

  先に確認した通り、連載前半では第2期上遠野浩平の文脈に疑問を呈し続けていた才牙虚宇介だが、『spin3』から『spin4』までの連載後半では、いよいよ他人に疑問を突き付けるだけでなく、自分自身の問題*14に直面せざるをえなくなっていく。

 その中で、彼が決定的な場面で頼ったのは、クラスメイトの日高迅八郎との友情であった。当該箇所では、バトル展開のクライマックスとは思えない、単なる少年同士の会話に数ページを費やしている。他にも、この作品では最終的な結論として、人間としての絆みたいなものが強調される。才牙そらは兄と同様に友人の志邑詩歌に救われて、最終的に遠未来に旅立つ。その姉の志邑咲桜も、愛する妹との関係を再確認し、更なる戦いへと身を投じていった。

 

 これって今まであったようで無かった展開だよな、という話で。

 

 さっき既存キャラクターたちの進路志望に絡めても触れたが、第3期上遠野浩平という文脈において、避けて通れない問題があるとすれば、それは「何をもって真の成功に至ったと判断するのか」という事である。

 単に敵を倒せば成功でもないだろう。大きな夢を実現すれば成功でもないだろう。

 じゃあ何が成功例としてふさわしいか?

 一般的な発想として、「愛」とか「絆」というものは当然、具体的な成功として描かねばならないはず、ではないだろうか。

 

 折しも「愛」は、上遠野浩平が今まであまり書いてこなかったモチーフでもある。

 僕が思うに、第1期上遠野浩平で描かれていたのは、「愛」というよりも「ボーイミーツガール」だった。『冥王と獣のダンス』や『VSイマジネーター』に描かれているのは、具体性に欠けた曖昧な理想としての恋愛であり、成功が絶望的な可能性の一つに過ぎなかった。

 第2期上遠野浩平では、もうちょっと踏み込んで「愛」について描いた作品として『戦車のような彼女たち』や『騎士は恋情の血を流す』のような作品が出て来た。だが、ここで描かれたのはキャラクターが利己性を捨てて〈戦士〉に至る理由としての「愛」であった。これは行動の原因ではあっても、目的とか達成ではない。

 

 そうじゃなくて、第3期上遠野浩平は、もっとそれ自体で価値のある、輝かしき達成としての「愛」とか「絆」について描こうとしている。もしくは描かざるを得なくなっているんじゃないだろうか? 

  先に引用した『エンペロイダー』以外にも、いまSFマガジンで第2部を連載中の『製造人間』にコノハ・ヒノオ君が出てくるのは、家族愛を表現するためだと思うし。なぜか急にジャンプ恋愛小説対象に上遠野浩平が寄稿した『しずるさんとうろこ雲』では、久々にしずるさんとよーちゃんと、更には東澱奈緒までひっぱりだして、そのものズバリ恋愛の話をし始めている*15。こうしてみると、愛や絆が大事になってくる*16という傾向は、やはり確かにあるように思えてくる。

 

 ただ、この先の第3期上遠野浩平で中心的な話題となるかまでは判らないですね。なにしろ話が現在進行形過ぎるので。 

 あと、その『しずるさんとうろこ雲』の中で、しずるさんがちょっと気になる話をしていた。

「まあ、どう答えられても、私には反応のしようがないのだけど。私、恋とか苦手だから。感受性に乏しいのよね」

 あっさりとした調子で言う。私はますます困る。

「乏しい、って──」

「私はほら、知識がなくて、さっきみたいにすっごくとんちんかんなことを言うでしょ。あれよ。私が恋について話すっていうのは、きっと魚が鳥について語るようなものよ。的外れで、肝心の所には触れられない」

 

 これは、上遠野浩平自身の代弁だと思う。

 本論の第2回でも、上遠野浩平は恋愛描写があんまり上手じゃないという話はした。アマチュア期間もいれたら30年近いキャリアを持つ作家が、自分のそういう資質について自覚的でない訳がない。

 ということは「『愛』について描く」という、今まさに作品にみられる傾向は、上遠野浩平が新たな地平に挑戦しているという事でもある……のかもしれない。

 そうだとすれば、我々読者は、その挑戦がどういうふうに結実するのか、ただただ注視するのみである。

 

 

ブギーポップが「ワタシの敵」となるとき?

 

 もう一つ、これから上遠野浩平が書くかもしれないものについて。

 まだ消化していない伏線の中で、特に気になるものがある。

 

 『ロストメビウス』のエピローグから、リミットに憑りついて?いる水乃星透子と、ブギーポップの会話を確認する。

「過去と未来と――どこまでおまえは、その力を広げているんだ?」

 それは紛れもなく、なにか巨大なものに挑む者の言葉だったが、しかしこれに、

「――いいえ、そうではないわ」

 と、リミットの姿を借りた者は首を横に振った。

「残念だけど、もうこの世界に私はいないのよ。あなたの敵だった、”イマジネーター”は消滅している――ここに私はいない」

 ガラスに写っているその微笑みは、まったく何にも動じることがないように、変わらない。

「あなたの自動的なまでの奇妙(ストレインジ)さを受け止めてあげることは、もう存在しない私にはできないによ”不気味な泡”さん――世界の敵機の、敵――あなたという存在の矛盾、そのことはきっといつか、あなた自身に跳ね返ってくる――その日はもうそんなに遠くない」

「……………」

 そいつは、その言葉を受けていわくがたい、なんとも不思議な表情をした。

 それは怒っているような、泣いているような、悟っているような、苛立っているような、どれでもありどれでもないような、左右非対称の顔だった。

 

 世界の敵の敵、という矛盾?

 いや、これはどういうことになるんだろうか。

 ブギーポップシリーズの最終回の構想すら思わせる話だが、この件に関しては『ロストメビウス』以降、ずいぶん長いこと関連する言及がなかった。だからハッキリ言って、これは上遠野信者であっても多くが忘れ気味になっている伏線ではないかと思うのだが。

 しかし、最近になってこの伏線が再浮上してきているような気がする。たぶん第3期上遠野浩平という時代が、先に述べてあるような理由で、宮下藤花の将来を要請するようになってきたからだろう。最も記憶に新しいところでは、最新刊『パニックキュート帝王学』で、末間和子を助けられないブギーポップという存在の限界について言及があった。

 

 考えてみれば、ブギーポップという存在は、設定のそもそもから危うい。

 言うまでも無いことだが、ブギーポップは「自動的」な存在だが*17、『海賊島事件』や『悪魔人間は悼まない』の描写によれば、自動的であるということは「持っている可能性が大きすぎるとその可能性に行く先を縛られてしまう」という話のようである。例えるなら、ピアノの類まれな才能を持った子供が、ピアノの練習以外の道を断たれてしまうように。

 ということは、ブギーポップという強力すぎる可能性は、自動的であることによって、宮下藤花という女子高生の未来を閉ざしているのだ。

 実際、彼女はブギーポップ活動のせいで浪人する*18し、竹田先輩との恋愛関係もギクシャクしがちで、もしずっとこのままなら、やっぱり人生に支障が出るんじゃないか。

 

 ブギーポップが何の敵かといったら、宮下藤花の敵に他ならない

 

 この事実とどう折り合いをつけるのか*19。イマジネーターを倒したその後の活動は単なる惰性かもしれないブギーポップ、一方で、成長して不安定な思春期を脱する次期に入りつつある宮下藤花。

 これについて上遠野浩平は、書くんだろうか、書かないんだろうか。わからないけれど、少なくとも問題意識としては既に意識にのぼっているだろう。しかしこの問題に取りくむということは、上遠野浩平の文学を根本から問い直す作業でもある。第3期上遠野浩平といわず、あるいは次の20年にまで、この課題は残っていくかもしれない。

 もはや我々読者がどうこう言うこと自体が――つまりこの記事のこの項目自体が――不適切である。黙って何が出てくるのかを待つべきなのだろう。

 

 いやでもなー気になるなー。だれかと気になることについてはなしたいなー(感情の発露)。

 

 

+セカイを抱えたままの未来へ~上遠野浩平21周年~

 

 以上です。

 本当にこれでもう、言いたいことは全部言い終わりました! 以上です!

 少なくとも次の何かを読むまで新たに追加して言うべきことはないです。この20年で貯まりに溜まったものを、残さずインターネットに吐き出し終わりました。虚脱感にも似た清々しさがある。

 

 上遠野浩平のデビュー作『ブギーポップは笑わない』は、調べてみたところ、1998年2月6日に発売されたようです。即ち、本日2019年2月6日をもって、上遠野浩平は21周年に突入したということであります。連載を通して20周年だ20周年だと強調し続けてきたが、もう次の年になってしまいました。

 もう次の未来が来てしましました。

 我々がよく知る上遠野浩平なら、こんなふうに言うでしょう。20周年も21周年も関係がない。ただ淡々とやるべきことをやるだけだ。未来が来たとか印象的なレトリックを使ったところで、それが何ら特別なものではないという事は隠しようがなく、我々はただダラダラと今を生きていくのだ。とかなんとか。

 実際、このような論考は上遠野浩平の次の作品の発売日が来るかどうか、アニメのDVDが売れて2期……とまでも言わないまでもペパーミントの映画版とかパンドラのOVAとか……が出るかどうかに比べれば、全く大したことがない。読む必要など全くない記事でありましょう。

 

 それでも、書いておきたかった。

 だって読み込めば読み込むほど面白いですよ! 上遠野浩平は! 作品間でリンクしているのは設定とかだけじゃないというか、テーマ性とか主張こそ、むしろ強固にリンクしているってことをですね、この期に理解した上で、新刊を待っていただきたい。この手のハイコンテキストを理解出来たほうが、絶対面白いですからね!

 もっと言えば、他の人が僕の気づいてないことについて書いているのを読むほうが、僕はもっと面白くなると思います。こんなクソ長いブログを最後まで読んだ皆様におかれましては、この期に皆様なりの上遠野浩平論を書いて、セカイに問うてみていただけると、僕が嬉しいです。

 これで僕なりの「上遠野浩平論」を終わります。

 

 

 

*1:書きはじめる前には、数少なかったネットの先行考察や掲示板関係の意見も結構参考にしています。先行研究を手がけた皆様には、この場で大きなリスペクトを表明させていただきます。

*2:ところでNPスクールの生徒たちは、前回の第9回で引用した魔女消滅次の記述「強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――」に対応しているように読める。生徒たちには、正義とか公正とか傲慢とか臆病とか、それぞれ役割というか、世界に対する態度の類型が割り当てられている。

*3:この態度は流刃昂夕に植え付けられたものだった訳だが。

*4:これは流刃昂夕のマジカル・ミステリー・ツアーにも同じことが言える。

*5:なお、本論における主張を分かりやすくするため、引用する二つのシーンは登場順を逆にしています。

*6:このことは第8回で九連内朱巳について触れた時、既に言及しておいた

*7:ところでこの疑問の先には、さっさと将来を決めちゃった彼氏にコンプレックスを持ち、大学浪人もすることになる、宮下藤花というキャラクターがどんな大人になるのかという問いがぶら下がっていると思うのだが……この点についてはこの記事の最後に改めて触れよう。

*8:被害妄想、という単語は『エンペロイダー』の中でしばしば強調される。この語は虚空牙侵略への不安を示すと同時に、己の成功が出し抜かれるかもしれない、という不安も示している。

*9:虹川みのりは、才牙そらに「エンペロイド金貨を求めるのは弱虫だけよ」と言われた。

*10:前にも書いたが『エンペロイダー』も最近流行りの学園サバイバルものの体を取った作品だと思う。

*11:連載の第4回で『笑わない』が他のセカイ系作品よりも完全に上だ、と指摘したことが思い出される。デビューの頃の爆発力が戻ってきている。

*12:っていうか本当に虚空牙関係の何かであるかもしれない。『パンゲア』では、みなもと雫が音楽やパンゲアゲームを片手間にやっており、本当は別の「何か」と戦っていて、その末に死んだという事が示唆されている。

*13:あの名作『ペパーミントの魔術師』のラストと同じ問いであることに注目していただきたい。

*14:問題とはもちろん彼の出自のことだ。具体的な内容は特に本論の主張と関係ないので詳しくは扱わない。

*15:あと「愛」の話をするとなると、たぶんリセット・リミットの姉妹愛と、ブリックへのリミットの母性愛の話をせざるを得なくなると思うんだよな。どういう感じで消化するんでしょうか、この伏線。上遠野浩平が寝かせ過ぎた話を小説にすると微妙な作品が生まれるっていう傾向は不安だけども、やっぱり楽しみですね。

*16:これには負の側面もある。最近のブギーポップシリーズでは「単体では大したことないMPLSがたまたま来た合成人間に影響を与えたら、相互作用で世界が滅びかねない現象が起きた」みたいなパターンが多い。人と人の繋がりによって生まれた可能性は、やはりそれ自体が失敗に至って〈世界の敵〉となってしまう訳だ。

*17:「自動的」絡みの話は、本連載を執筆しコメント等をいただく中で考えがまとまってきたものです。当初は愛についての話で連載は終わるつもりだったが、やっぱりまとまった考えを最後に書いておきたいと思った。改めてですが、ありがとうございます。

*18:ブギーポップファントム(旧アニメ)の展開を公式扱いしていいのかはイマイチわからないが、まあ、これについては大筋原作通りと考えてよかろう。

*19:例えば漫画版のブギーポップデュアルの展開を輸入したら、宮下藤花とブギーポップが分離されるけれど、それでいいのかという気もする。能力が精神を渡り歩く、というネタは『沈黙ピラミッド』のメザニーンで消化したし……。

「上遠野浩平論」⑨~魔女の消滅と「可能性」の復活(『ヴァルプルギスの後悔』)

 上遠野浩平論の第9回です。

 本論はこれまで、第5回第6回では「可能性」を描いた第1期上遠野浩平について、第7回第8回では「運命」を描いた第2期上遠野浩平について、それぞれ論じることで、デビューからゼロ年代にかけての上遠野浩平が、どのような流れの中で自分の文学を展開してきたかを示してきた。

 今回はそうした流れの集大成となった作品について論じよう。

 論じる作品とは、ヴァルプルギスの後悔だ。

 作者が「ブギーポップシリーズを終える上で必要な作品」と称したこの作品は、本論がこれまで提示してきた用語で説明するならば、第2期上遠野浩平を終わらせた作品、にあたる。この作品が何に必要だったのかといえば、第3期上遠野浩平に移行するために必要だったのである。

 なぜそう言えるのか?

 第3期上遠野浩平とは何なのか?

 本記事では複雑に絡まりあった作品の構造を紐ほどき、シンプルな形に整理しなおしていく。またそうすることで、第2期上遠野浩平の終わりと、作者の現在に直結する更なる文学的展開を示す。

 

 

上遠野浩平の暗中模索~『ヴァルプルギスの後悔

 

 ヴァルプルギスの後悔は、2007~2011年に、電撃hp電撃文庫magazineで連載*1 された。その前に連載されていた『ビートのディシプリン』の実質的続編である*2

 

 この作品は紛れもない重要作品であり、上遠野浩平の文学を理解するためには絶対読まねばならない。しかし……議論の正当性を確保するためにはハッキリ言葉にしておかねばならないだろう……『ヴァルプルギスの後悔』は、あまり褒められた作品ではない。面白くないとは言いたくないが、少なくとも面白さが判り難い。しかもそれは内容が難しいからではなく、蛇足が長く、放置された伏線が多く、構成がとっちらかっているからだ。ネットの感想を探したら星1評価が余裕で出てくる類の低評価作品である*3

 

 個人の所感だが、低評価作品となった原因の大部分は、この作品が連載形式で発表されたことにあると思う。それでなくても、上遠野浩平はどちらかというとその場の勢い重視の作家で、計算ずくで書かれるべき長期間連載に向いた書き手ではない*4。だというのに、この作品は2000年に連載開始した『ディシプリン』も入れて考えると、連載期間が10年を超えているのだ。

 実際、どうもこの作品のストーリー展開は、最初に構想していた形にはなってない。連載前半に張っていた伏線がいくつも、連載後半になって不自然に放棄されているように読める。

 特に酷いのは「天敵」という語で、最初これは浅倉朝子に与えられた役割のはずだったが、『ヴァルプルギス』の開始と同時に役割が織機綺に移行、能力バトル的には魔女には勝てないことが明言されつつも、カレイドスコープに「この少女が天敵として完成したら魔女戦争のついに幕が降りるのかもしれない……」とか*5思わせぶりなことを言われ、しかし結局のところ最終決戦で凪の勝利に貢献することは一切なかった。じゃあ「天敵」って一体なんだったの? 魔女に利用されるだけのコマなら、『ディシプリン』の頃から何年もこの語を温めておく必要はなかったのでは? あと特に気になるのは、序盤に霧間凪の宿敵、という話が出てきたジィドが結局ぜんぜん凪と絡まないこと*6。あと、中枢候補になる?みたいな話までされた飛鳥井仁がそのシーン以降全然出てこないこと。それと、魔女の出現に備えていたはずのイディオティックとオキシジェンが場当たり的に行動しているように見えること。

 

 作者からの内情バレも実はある。上遠野浩平は、そういうことは割と素直に言ってしまうタイプの作家だと思う*7

 2010年8月に出版された『Fire.3』から、あとがきを見てみよう。

 小説を書いていると当然、登場人物のことを考える訳だが、その中でもよく頭を悩ませるのは「こいつは何が楽しくていきているんだろう?」ということである。「何が目的なんだ?」「生き甲斐ってなに?」みたいなことを、自分が考えたはずのキャラクターに対して不思議がっているのは相当に変だが、でも本当に、疑問に思わざるを得ないほどに、ストーリーを練っていくとかなり頻繁に、とんでもないことをしでかすヤツが現れる。事前にはまったく予想できなかったような行動である。そのせいで話は逸れるは当初のテーマはどっかに行ってしまうわ終わりが全く見えなくなるわと大変なのだが、そいつがそういうことをするのはもう、あまりにも当然という感じで直しようがないのだ。最初に「こういう感じの人」といって決めたはずの設定など、そいつの生き様の前には消し飛んでいまうという風なのだ。別に立派なことばかりじゃなくて、「えーっ、おまえ、そこで挫けちゃうの?」というマイナス面も多くて、どう突っついても先に進んでくれなくなる。一体どうしてそうなるのだ、と思っても、なったんだからしょうがない、と連中は割りきっちゃうのである。実に困る。

 

 単独で読めば割とよく見る創作あるあるだが。

 しかしなぜこのタイミングでこの話をしたのか? 恐らく『Fire3』に掲載された範囲の執筆時、あるいはあとがきが書かれた2010年時の連載作業の中で、まさにそういう思いをしていたのではないか。しかも、このあとがきのタイトルが「あとがき――要するに、つまらない話であろうか?」という。連載がシンプルな面白さから離れていってしまっていることは、作者自身も織り込み済みだったらしい。もちろんその状態から軌道修正しようと苦心もしただろう。

 要するに何が言いたいかと言うと、上遠野浩平は『ヴァルプルギスの後悔』を、作者にすら先の読めない暗中模索の中で執筆したということだ。つまり、読者である我々の前に提示されているのは、作者の混乱も含まれるという意味での紛れもない"文学作品”であり、作品を誠実に読むためには、そのあたりの混乱に忖度することが必要となるだろう。

 

 

 +実はシンプルな物語構造

 

 そういう訳で、ここから先は全力の忖度とともに物語を整理していく。

 一見とっちらかって見える『ヴァルプルギスの後悔』だが、実は骨格となる物語構造自体は非常にシンプルだ。起こったことだけを見れば、物語には3つの段階しかない。

 

  1. 霧間凪のもとで魔女の「運命」が成就する。
  2. 魔女戦争が起きる。その陰で霧間凪が足掻く。
  3. 霧間凪が魔女の「運命」を打ち砕く。

 

 準備・対立・解決からなる、伝統的な三幕構成*8を踏襲していると考えていいだろう*9

 

 そして、この基本骨格の周囲に、物語の主題とは関係ない、上遠野サーガリンクの要素が肉付けされているのが『ヴァルプルギスの後悔』という小説だ。魔女の戦いとは、基本的に他人の運命をコマとして操作することなので、どうしたって沢山のコマ=魔女と関係ない他人が登場することになる。それにかこつけて作品間リンクを貼りまくって、上遠野サーガの全容を提示しようというのが、作品のコンセプトだったんじゃないかと思う。

 肉付けされたものとは、まず統和機構のアクシズ交代に絡むパート。あと、ロボット将軍・マキシムGが初登場したのは、どうにかロボット探偵・千条雅人を作品に出したかったから。フェイ・リスキィ博士のくだりがあるのも奇蹟使いを出したかったから、など。相克渦動の話や、オリセ・クォルトとリ・カーズの話も少しでてくる。

 なかでも大きく扱われるのが織機綺の周辺の話だ。彼女は『ヴァルプルギス』で、本論第8回でも言及した利己性の欠如がもたらす歪み*10に向き合った。この話は、結構上遠野浩平にとっても大事だったと思うのだが、魔女の消滅時に無かったことにしたのは、設定上しかたなかったのか? それとも、連載時の混乱で上手くいかなかったという判断なのか? いずれにしても、このテーマには後に『オルタナティヴ・エゴの乱逆』で再挑戦がなされる。

 あとここでは、パールについて触れておきたい。"生き延びる"ことに特化したこのキャラクターは、上遠野浩平の現実主義的な部分を煮詰めたような〈戦士〉だが……やることなすことが現実的すぎるのだろうか。小説で描かれるべき、自身の価値が試されるような試練にぜんぜん直面しない。魔女と長時間行動を伴にし、アルケルティスからアクシズ候補に挙げられ、可能性操作の一つである”終点を導きだす能力”を自覚し、最後には"生滅の指輪"を受け継ぎまでしたのに、連載全体を見たときにキャラクターにとって真に重要な出来事は何も起きなかった。結果として、『ヴァルプルギス』はパールにとっては溜め回である。今後、何か個別作品が出てくることを期待したい。

 

 なんにせよ、本記事の議論では肉付け部分は扱わない。個別の世界設定を考察するにはむしろそちらが重要なのだが、本論は、作品全体が上遠野文学においてどのような位置づけにあるかを示すのを目指すからだ。

 

 

 

+〈神秘主義的な運命〉の復活

 

 先に確認した物語の3段階で起きていることで、順に確認していこう。

 まずは1段階目について。

 『Fire1』と『Fire2』の文庫2冊分にあたるこの段階では、霧間凪を中心とした「運命」が、抵抗虚しく成就するまでが描かれる。

 この段階で行っているのは、基本的にそれまでの第2期上遠野公平作品で描いてきた「運命」表現のリフレインである。「○○はこの先の運命を知らない――」「避けられない運命に向かっていくことになる」「どっちみちもう逃げられないのよ」といった表現が繰り返され、運命には絶対に敵わないことが再確認される。キャラクターとしては、リキ・ティキ・タビが頑張って運命に抗おうとするが、失敗する。

 また、運命にただ流されていては碌なことにならない事も再確認される。村津隆はそのためのキャラクターで、彼は自らすすんで「運命」を成就させるために動き、結果使い捨ての道具として死ぬ*11

 

 さてこの物語の第1段階では、本論にとって重大な事が一つ起きている。

 

 神秘主義的な運命〉の復活である。

 

 本論第7回で主に述べたが、初期の上遠野浩平文学において「運命」という語は、”何者かが秩序だった方向へ世界と我々を操作している”という、オカルト的な意味を持っていた。しかしこの考えは比較的早い段階で破棄され、オキシジェンの登場とともに”我々は真の因果関係を決して把握できない”という認識からなる決定論的な運命〉が登場した。この概念は上遠野浩平の文学における主要な位置を占めており、第2期上遠野浩平において多用される「運命」という語は、ほぼ全てこの〈決定論的な運命〉であった。

 しかし、第2期上遠野浩平も後半になって始まった『ヴァルプルギス』で登場した二人の魔女は、どうみても神秘主義的な運命〉の擬人化である。魔女たちは、しばしば「私の目指す秩序が素晴らしく、敵の魔女も秩序を口にするがそれは間違っている」という話をする。これは〈神秘主義的な運命〉の、無軌道な世界に恣意的な秩序をもたらすという発想そのものである。

 

 しかも決定論的な運命〉と〈神秘主義的な運命〉は、連載中に露骨に切り替わっている。具体的には、『Fire1』に登場する運命は〈決定論的な運命〉で、『Fire2』以降に登場する運命は〈神秘主義的な運命〉である。

 確認してみよう。まずは『Fire1』でモブ敵役となった、合成人間ドーバーマンが霧間凪に敗北した直後の独白から。

(なんで俺は、今――こんな状況になった? あの女はなんだったんだ? 俺は船に行こうとしていて、そこであの女は――もし俺が船に乗っていたら、今頃はどうなっていたんだ?)

 なんだか変な感じだった――統和機構がこれからドーバーマンにどのような裁定を下すのかはわからない。だがそれは決して甘いものではなさそうだった。もしも、彼が今、あの女にそのままやられていたら、あいつは彼を殺していただろうか、それとも――。

(なんでだ? なんで――俺は今、もしかすると……あの女に助けられたのかも知れないって、そんなふうに思っているんだ……?)

 

 決定論的な運命〉の存在に事態が終了してから気づく、典型的な描写である

 船に乗っていたら、実はドーバーマンはフォルティッシモに吹き飛ばされて死んでいた。つまり彼の目の前には「船に乗るか、命を保つか」という運命の選択肢があったのだが、〈決定論的な運命〉において普通の人間は運命の選択肢の存在を察知することはできないので、ドーバーマンは軽率にも船に乗る方の運命を選ぼうとしていた。そこを霧間凪の介入によって、九死に一生を得ていた。彼は自分が死ぬ〈運命〉を選びかけていたことに、手遅れになってから気付いた。

 ここには魔女の操作する「運命」は存在しない。ただただ不可知で無秩序な世界法則がある。

 

 続いて『Fire2』におけるモブ敵役、合成人間部隊トラス・アトラスが、霧間凪に敗北した直後の会話を見てみよう。

「……す、するとあいつがお前が探していたやつだったというのか?」

「すごい偶然ね――と言いたいところだけど、これはそうじゃないわ。単なる運命よ。避けられない状況が迫ってきているということだけ」

 普通ならば単なる偶然というところを、彼女は逆に言った。そしてふふっ、と笑って、

「だからもう、あなたたちも逃げられないのよ。”あいつ”の敵になってしまったんだから」

 その微笑は、どう見てもかつてのトラス・サウスではなかったが、しかし他の者達はそのことを追求していいものかどうか迷っていた。彼らは自分たちが感じている恐怖が、今戦った相手に対してのものなのか、それとも目の前の味方のはずの女に対してのものなのか、今ひとつ判別がついていなかった。(中略)彼らは知らなかった。それはどっちにしろ、同じ存在に対しての恐怖だということを。――”魔女の災厄”に対しての。

 

  既にアルケルティスの傀儡となっているトラス・サウスが、やってきて残りのメンバーに「運命」を告げる。告げられているのは「魔女の操作している運命」、即ち〈神秘主義的な運命〉の存在である。トラス・アトラスたちには、不可知の運命の選択肢が存在したことなどない。彼らが逃げられないのは、魔女に目をつけられたからであり、自分たちが不用意だったからではない。

 同じように霧間凪に負けているのに、ドーバーマンのときとは、負けた原因に関する描写が全然違っているのだ。

 

 他にも、霧間凪や村津隆や織機綺の身に起きることはずっと「運命」と呼ばれているのだが、同じ語の含意が『Fire1』の序盤と『Fire2』の後半では全く変わっていたりする。

 この〈神秘主義的な運命〉の復活展開は、割と唐突であり、それまで上遠野浩平が表現してきたこととも全く食い違うため、初読時はだいぶ面食らわされた。

 しかし、いまでは個人的な考えもある。たぶん「炎の魔女と氷の魔女が戦う」というアイデアまだ〈神秘主義的な運命〉が有効だったころに思いついたものなんじゃないか。根拠は特にないのだが、上遠野浩平が構想だけ示して寝かせている作品がいくつあるか、またキャリア後期になってデビュー前のアイデアを使った作品がいくつもあることを考えたら、僕にはこれがむしろ自然だと思える*12

 

 

+〈戦士〉ではなかった魔女たち

 

 物語の第2段階には、だいたい『Fire3』と『Fire4』の前半が相当する。

ヴァルプルギスの後悔〈Fire3.〉 (電撃文庫)

ヴァルプルギスの後悔〈Fire3.〉 (電撃文庫)

 

  第2段階では、魔女とはどんなものなのかが主に描かれる。魔女たちは、マキシムGを誑かしたり、フェイ・リスキィの奇跡使いの才能を前倒しで開花させたりすることで、非常に迂遠な闘争を行う。作中の表現に即していえば「魔女たちは自分たちの未来という駒を如何に使うかを競っている」*13。最終的には、リキ・ティキ・タビすら、魔女のコマの一つとして存在したに過ぎないことが明らかとなった。また、霧間凪の肉体の封印から脱出したヴァルプルギスは、統和機構の首脳陣を支配してみせることで、魔女の横暴さを遺憾なく発揮する。

 

 この段階では、魔女たちは〈戦士〉ではないという事が明示されている

 『Fire4』から、オキシジェンからヴァルプルギスへのSEKKYOUを引用する。

「おまえは中途半端だ、オキシジェン――本来ならば経なければならなかった試練、もうひとりの候補との滅しあいを回避して、ずるずると長らえたツケが回ってきているのよ。それに比べてこの霧間凪は、これまでずっと自分よりも強い相手と戦ってきた。本来ならば勝負にならないはずのお前とも、こうやって対等にやり合えるほどに」「おまえとは違うのよ。アルケルティスの保護を受けながら中枢を続けてきたようなすねかじりの支配者とは、ね――」

 ここまで一方的に言われてきたオキシジェンが、そこでやっと口を開いた。 

「……それは、おまえも……だ、ヴァルプルギス――」

「――あ?」

「おまえも――霧間凪ではない。どんなに姿かたちがそっくりでも……お前は彼女にはなれない……」

オキシジェンの眼は、彼女のことを正面から見据えている。

「おまえも、私と同じ……決して手に入らない。霧間凪のようには、絶対になれない。いくら世界を支配できる力や、宇宙を引き裂くパワーを持っていても……己の虚無を埋める強さだけは……心のどこにもないのだ……」ぼそぼそ声で、ひたひたと迫るように語っていく。「アルケルティスも、おまえも……ほんとうは戦っているんじゃない……互いの暗闇を押し付けあっているだけだ……」

(中略)

「お前は霧間凪と一体化していたと思っているようだが――それは違う」と、やはり冷たい声で言う。「ただ……凪のことをこっそりと見ていただけだ。おまえはなんら……彼女に影響を与えていない。凪は自分だけで運命に立ち向かっていたが……おまえは」彼の目は、ずっと彼女のことを正面から見つめ続けている。「……凪の影に隠れていただけだ。対決を避けていたのはアルケルティスだけじゃない。おまえも……凪に――」

 言葉の途中で、彼が最後まで言い終わる前に、魔女は再び動いていた。

 

  言うべきことはオキシジェンが全部言ってしまっているが、例によって、本論なりの言葉で言い直しておく。

 本論第8回で確認した通り、〈戦士〉とは己の過酷な運命に立ち向かう者のことである。そしてそれで言えば、二人の魔女は全く己の運命に立ち向かうことが出来ていない。立ち向かうべき「運命」は、事前に能力で回避してしまうからだ。魔女たちは、イディオティックとのつぶしあいを回避したはオキシジェンと同じことを、常時やっている。原理的に〈戦士〉たり得ない存在なのだ。

  第2期上遠野浩平の文学世界では、〈戦士〉であるかどうかがキャラクターの明暗を分けてきた。『虚空に夜』のリーバクレキスが”戦果を期待されていない”と扱われたのと同じ扱いが、魔女たちにも待っている。霧間凪のようには絶対になれない*14、という訳だ。

 

 

+〈神秘主義的な運命〉の消滅と〈決定論的な運命〉との直面

 

 物語の第3段階となる『Fire4』の後半以降では、ヴァルプルギスと霧間凪の直接対決が実現する。

ヴァルプルギスの後悔〈Fire4.〉 (電撃文庫)

ヴァルプルギスの後悔〈Fire4.〉 (電撃文庫)

 

 最終的に、ヴァルプルギスは、自分では世界を滅ぼす気など毛頭ないという”覚悟の無さ”を霧間凪に突かれて、自ら敗北を受け入れざるを得なくなる。案の定〈戦士〉ではないことが、魔女の敗北に繋がったというわけだ。また、戦いの過程では紙木城直子が助けるために現れ*15、凪というキャラクターの在り方が示される。

 

 この最終段階において、『ヴァルプルギス』でも最大の問題となるシーンが描かれる。魔女の敗北によって世界に激変?がおき、魔女が存在したことを覚えている人間が誰も居なくなる。『ヴァルプルギス』の連載で起きたこと全てが無かったことになる上、エヴァ最終回を思わせる訳のわからない描写がなさていて、正直意味がわからない。

 判らないなりになんとか考察すべく、まずはメインの該当箇所を引用してみよう。

 とぷん――

 というその("氷の魔女"となった凪とヴァルプルギスが)沈んだ際に散った波紋が、世界の至るところに向かって広がっていった。

 そのときに生じた変化を表現するのは、溶けてしまった氷の彫刻を後から推測するようなもので、どうしても無理であり、また意味のないことだ。

 人間ではその認識の片鱗にすらたどり着いていない領域に起こった変動は、太陽が爆発すれば日光もなくなるから、昼夜もなくなるというような意味で、なにかを消し去った。

 それがなんなのか、後から振り返ることはできない。この世界に存在する意思、気配、希望、絶望、指向、可能性――囲い込みようもないぐらいに大雑把な”そういうもの”――仮に万物に魂が宿っているのだとするならば、このときにその魂は一斉に、ちょっとだけ傷ついた。ごくごくわずかに、あるいは半身を裂かれるほど大きく、その規模を計りようもないくらいに、決定的に傷ついた。

 影を落としていたものがなくなって、露わにされたところに容赦なく降り注いだものが全てを変えた。それに直に対応するように強制されるようになった魂たちは、その瞬間からそれまでの無垢を失い、変化を余儀なくされることになる。

 強くなるのか、卑屈になるのか、粗暴になるのか、慎重になるのか、優しくなるのか、厳しくなるのか、楽になるのか、怖くなるのか――対立していた二つのものは、しかし、もはやその境界線を消失して、限りなく同一のものになっていく。

 今まで見えなかった、対立を溶け合わせるものが、対立それ自体よりも先に問題になる。そういう傾向が如実になっていく。 

 

 もう、地の文が「人間には認識の片鱗にすらたどり着けない」と言ってしまっている訳だが*16

 実際に起きたことだけを言えば、世界の過去・現在・未来の全てから、魔女が消滅した、という事だろう。過去からも居なくなっているので、霧間凪ほか数名*17を除いた全員から、魔女の記憶が消えた。 

 魔女が消えたことは、本論の言葉でいえば神秘主義的な運命〉が消えたということを意味する。引用部分では「太陽が爆発することで昼夜も無くなる」という言い方で、昼夜=運命が世界から消えたことが言い表されている。

 また、影を落としていたものがなくなった」ことで露わにされたところで容赦なく降り注いだ」、あるいは直に対応するように強制されるようになったのは決定論的な運命〉に対しての話だろう。〈神秘主義的な運命〉の影響下では、人々はある意味「運命」を選択する責任から逃れていた。平たく言えば、あらゆる悪い出来事を魔女の操作のせいだと考える事ができていた*18のだが、もはやそれは通用しない。各々が自分自身の責任で、自分の「運命」に対するスタンスを示さねばならなくなった。

 

 エピローグで、再び霧間凪に封印されたヴァルプルギスはこう言った。

”魔女という巨大な制御を失って、このさきどうなるのかは誰にも判らないけれど、少なくとも無遠慮で無分別な方向に向かってしまうことは確実……目先のことに流されて、あっちこっちへ移ろって、肝心のことをどんどん見失っていく時代になることでしょうね――”

 総じて、「偶然」が世界を支配するようになると言っている。

 本論第7回で紹介した『ジンクスショップ』で、スイッチスタンスが「偶然」を見たことが思い出される。魔女の制御が失われた世界とは、〈決定論的な運命〉に人々が翻弄される世界にほかならない。

 

 以上で、だいたい物語の3段階を整理することができた。こうしてみると、実は『ヴァルプルギスの後悔』とは神秘主義的な運命〉が消滅して〈決定論的な運命〉が世界を席巻するという、第2期上遠野浩平が始まったときの展開を小説の中に落とし込んだ作品だったということがわかる。

 本論でさんざん述べてきた内容を使って理解が可能という意味である。今まで長々と読んでくださった皆様は、これでもう『ヴァルプルギス』を読んでも、意味わかんねーなこれ、みたいな気分になることはないはず。

 

  しかし、一件だけ、この作品にだけ起きた特別な自体が含まれている。

 上遠野浩平の文学を理解するためには、その部分をこそ論じねばならない。

 どうして〈神秘主義的な運命〉が消えて〈決定論的な運命〉の時代が到来すると同時に全ての人間が記憶を失わねばならなかったのだろうか?

 

 

+未来への未知と「可能性」の復活

 

 ここからが、本記事で本当に言いたかった話。

 まず前提として、魔女の消滅によって『ヴァルプルギス』で起きた全てが無かったことになる、というこの状況はジョジョ6部のラストで到来した「一巡後の世界」にインスパイアされたものだと思われる*19

 だから本論でも、魔女消滅後の物語世界のことを〈一巡後のセカイ〉と呼ぶことにする。『ヴァルプルギス』以降のブギーポップは、ジョジョの7部や8部がパラレルワールドを舞台としているのと同様、〈一巡後のセカイ〉が舞台になっていると考えるべきだと思う*20

 

 そして、この〈一巡後のセカイ〉を舞台とする作品群を第3期上遠野浩平と定義することにしよう

 

 上遠野浩平が『ヴァルプルギス』がブギーポップが終わるために必要と言っていたのは、作品を〈一巡後のセカイ〉に到達させねばならなかったからである。〈一巡後のセカイ〉は、上遠野サーガのリンク解釈や、各キャラクターに貼られた伏線という以上に、文学的な意味での衝撃が非常に大きいのだ。 

 では〈一巡後のセカイ〉とは、一体どんなセカイなのか?

 

 それを論じるためには、そもそも第1期上遠野浩平から第2期上遠野浩平に移行したときの流れを思い出さねばならない。

 

 第1期上遠野浩平とは「可能性」の時代であった。

 上遠野浩平は、人々が極めて大きな「可能性」を持っていながら、ほぼ確実に失敗して〈世界の敵〉になっていくという、希望と悲観の相克した世界観を描いていた。「可能性」は、大きければ大きいほど失敗したときのショックも大きくて、持っているだけ損でさえある*21。しかし、それでも万に一つの確率で、「可能性」が本当に新たな未来となるかもしれなかった。我々にとって未来が未知である以上「可能性」が真の成功に至る僅かな可能性を、完全に否定することはできない。未来を知りえないことは、将来への不安が消せないことであり、不安こそがかつてセカイ系文学が描いた"断絶"の本体だったが、不安をもたらす未知は同時に希望でもあった。

 

 第2期上遠野浩平では、「可能性」が駆逐され、「運命」が物語世界の中心となった

 「可能性」の駆逐は、未知の消滅によって行われた。上遠野浩平はオキシジェンのような能力者*22たちを登場させることで、セカイとの断絶の向こう側を描写し始めた。これではもはや、"未来に何が起こるかなんて判らないから「可能性」が成功する確率はゼロじゃない"などと、開き直ることはできない。我々は誰もが、間違いなく人生を失敗する。失敗するという前提で生きていく必要があるということが過酷な現実が確認された。上遠野浩平は過酷な現実を生き延びるために〈戦士〉という生き様を繰り返し描くようになり、各作品において〈戦士〉であるキャラクターが生き延び、〈戦士〉になれないキャラクターは敗北した。

 

 そして今第3期上遠野浩平では魔女が消滅した

 魔女が消滅したということは未来を知ることは再び不可能になったということだ。

 というか、『ヴァルプルギス』で示されたのは、実は俯瞰観測者(オーバースケール)にとってすら未来は不確定である、ということだった。魔女に「一部しか見えてない」と明言されたオキシジェンは言うに及ばず、末真和子の能力を看破できなかったり、霧間凪の意図を全然見通せなかったりした魔女たちも、結局のところ我々と同じ。後になって「なんで私はあのときあんな判断をしたんだろう」と後悔*23する程度の存在だった。御都合主義バトルの極地みたいな強力な超能力を想定してすら、未知は消滅などしなかったのだ。 

 

 未来がやはり未知であるなら、当然、セカイに再び「可能性」が復活する

 

 

+〈一巡後のセカイ〉がもたらす〈戦士〉の自覚

 

 しかもこれは、上遠野浩平の文学が第1期のデビュー時と全く同じになった、という話ではない。 

 ジョジョプッチ神父が構想した「一巡後の世界」は、人々が未来を前もって認知していることで、普通に生きていても将来に起きる悲劇への覚悟している世界であった。魔女消滅によって訪れた〈一巡後のセカイ〉もこれと似ている。

 

 第2期上遠野浩平という期間を経て、我々は決定論的な運命〉の存在を自覚している

 そして、〈決定論的な運命〉という絶望と戦うためには〈戦士〉である必要があるのだと、作品を通して幾度も学んでいる。

 

 未来への未知が復活したというとは、”セカイとの断絶”がもたらす不安もまた復活したことを意味する。かつてセカイ系文学は、この絶対に解決できない不安から逃れることができず、「ひきこもり/心理主義*24」に至った。碇シンジは不安と対決することが出来ず、母の子宮に回帰するしかなかった。

 しかしブギーポップで〈一巡後のセカイ〉に至った者たちは、今や誰もが〈戦士〉である。〈戦士〉とは、絶対に勝つことができない絶望に対しても果敢に挑むことのできる存在である。だとすれば、将来が不安だからといって、立ち竦むことがあろうか? 0.1%でも勝利の確率があるならば、むしろ状況は良くなってさえいる。

 

 不安を前に、ひたすら立ちすくんでいた第1期とは違う。

 勇敢に戦うが、勝利は決して得られない第2期とも違う。

 

 勇敢に戦場に飛び込み、真の意味で勝利を目指す時代が訪れた。

 

 上遠野浩平は『ヴァルプルギス』の結びとなるあとがきにこのように書いた。

それは不安と隣り合わせで、限りなく不条理に近づくことでもあるが、その辺はもう”怖いもの知らず”ってことで切り抜けるんじゃないか、と。いったい何の話なんだというと、もちろん霧間凪の話をしていた訳であるが、うまく行ったかどうか作者は見極められない。手に負えない。効果があるかどうかもわからない素材で薬を作って、それが効くかもしれないという錯覚に頼るしかない。どうなんでしょうこれ?

 

 第3期上遠野浩平のセカイは、相変わらず将来が不安であり、読むことのできない運命は不条理でなままである。しかし、勇気があれば、不安は乗り越えられる。

 そして不安を乗り越えた先には、かつて諦めた真の「可能性」が待っている。

 

 

+そして第3期上遠野浩平へ~上遠野浩平20周年~

 

 アニメ放映を翌日に控えた2019年1月3日*25現在、上遠野浩平はいまも第3期の文学を描いている。

 最初に第1回の記事を書いたとき、「上遠野浩平は、螺旋上昇を続けて今や"セカイ系をかかえたその先"に至った」と述べておいた。ここがその場所である。ブームに捕らわれずにセカイ系を書き続けた作家の、一つの到達点が、ここにある。

 

 最近のブギーポップが、かつてのように面白い、と感じている読者は多いのではないか?と思うが、それは上遠野浩平が再び「可能性」をテーマに描くようになっているのが大きいと、僕は思う。1998年2月にデビューした上遠野浩平は、現在20周年の最終盤を終えて、次の21周年目に入ろうとしている。当然、これからも作品は発表され続け、作品世界は進化を続けるだろう。

 上遠野信者の一人として、その瞬間を楽しみに待つつもりだ。

 

 次回は連載のエピローグとして、第3期上遠野浩平における各作品について言いたいことを述べるとともに、将来の展望や期待について好き放題を書く。

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

 

*1:連載中に電撃hpが休載となり、掲載誌が移行した。

*2:ところで『ディシプリン』が終了してから『ヴァルプルギス』が開始するまで期間の発表作に『オルフェの方舟 』がある。この作品は、全てを燃やし尽くす能力者vs全てを停止させる能力者、という設定を持っており、なんだか"炎の魔女と氷の魔女の話を描く前に練習しておく"という意味で書かれたように思える。

*3:連載中から不人気だったらしく、雑誌バックナンバーを検索しても「掲載作品一覧」にタイトルすら載ってなくて困る。打ち切りとかない雑誌で本当によかった。

*4:本論第3回でこのことは述べた。

*5:『Fier.3』chapter3のラストでのこと。こんな後半に思わせぶりな伏線はったら普通は何かあるだろう。

*6:wikipediaの『ヴァルプルギスの後悔』のジィドのキャラクター紹介に、魔女の運命から自ら引いた、みたいなことが書いてあるんですが、そんな描写ありました? 連載版から文庫になったとき修正が入ったりしているのかな。

*7:しかし言い回しが全て上遠野節なのでよく読まないと今内情をばらしている、ということを見落としがちだ。このブログ連載がやっているのは、要するにその見落としをひたすら拾い上げるだけのことだったりする。

*8:ハリウッドで脚本執筆の技術を理論化したときに、基礎とされている技術。映画2時間あるいは本1冊に、ストーリーを規則正しく配置するのに役立つ。

*9:ただし、『Fire1』と『Fire2』つまり全体の半分が、第1段階の準備シークエンスにあたるのは長すぎる。また、第2段階の対立シークエンスでやってることが、ほぼストーリーの本質と無関係な上遠野サーガ間リンクの提示であり、構成の役に立ってない。根本的な部分で三幕構成になっておらず、これもまた連載時における混乱の結果であろう。

*10:『Fire2』には、霧間誠一の引用で「最も卑屈な者は、同時に最も傲慢な者でもある」という警句が載っている。

*11:ただし、上遠野浩平は『Fire2』のあとがきで「実はちょっとだけ、彼のことがうらやましいと思っているのだ、僕は」とも言っている。運命に流されて平気でいられるなら、それはそれで個人の生き方だ。

*12:また、そうだとすれば〈決定論的な運命〉に上遠野浩平が至れた理由は「魔女が操る運命っていうのは一体なんなんだろうな?」ということを考え続けた結果なのかもしれない。……これは流石に踏み込みすぎかな。脚注にしまっておく。

*13:とはいえ、ここで魔女たちの能力考察に踏み込むのはやめておく。虚空牙と同じでできることや出来ないことを精密に考える事自体が無駄な感じがあるし、作品中にハッキリと「我々には理解できない」と書いてさえある。ただ将来の別作品で、新しい魔女が出てきたら、そのときはこの『Fire3』を読み返す価値があるかも。

*14:霧間凪の〈戦士〉の資質について、ここでまとめておく。彼女の強さは2つの能力?による。第一に、本来誰よりも弱い存在である彼女は、敵の弱さに共感することで敵の弱点を見抜く。フォルティッシモの"油断しない"特性が防御特化として、その攻撃版みたいな感じだ。第二に、常に直感による即座の判断を行うことで〈決定論的な運命〉における選択の瞬間を逃すことが無い。こっちは末真和子の"運命の選択を間違わない能力"に近いかな。つまり、上遠野シリーズでも相当無茶なキャラの特性を併せ持っているということですね。どうりで強いわけだよ。

*15:上遠野浩平の能力バトル的作品群において、最も「そのときなにかふしぎなことがおこった」と言うしかない展開。エコーズと話すことのできた紙木城直子は、やっぱり特別な存在だったんですかね。

*16:以下本文では引用部分の考察をしているわけだが、実は「対立を溶け合わせるものが対立自体よりも先に問題になる」くだりだけ、まだちょっと僕にもピンときていない。相克渦動の話だろうか、VSイマジネーターの話だろうか。あるいはその両方だろうか。

*17:九連内朱巳、フォルティッシモ、パールの3人だけが依然として魔女のことを覚えている

*18:『Fire4』のあとがきには、現実の魔女というのはこの世の悪いことの責任を押し付ける存在であった、という話がされている

*19:とくに根拠はないのだが、少なくともよく似ているので、とりあえずそういう前提で論を進める。

*20:言うまでもないが、ジョジョ7部や8部が「一巡後の世界(そもそもそれ自体はプッチ神父の死で消滅した)」であると公式にアナウンスがあったことはない。ブギーポップもその点は同じはずだ。

*21:最近『製造人間』シリーズで雑誌掲載された『悪魔人間は悼まない』には"自動的な存在"であることの意味について触れられている。どうやら、可能性があまりにも大きいと可能性を実現すること以外のことが考えられなくなる、可能性に縛られることになる、という話らしい。

*22:本論の言い方でより正確に表現するならば、可能性操作能力者。

*23:ヴァルプルギスの後悔』というタイトルについて、僕は読み終わった後もしばらく「いったい霧間凪が何を後悔したというんだ?」とか考えていたが、ヴァルプルギスと霧間凪は別人だと先の引用部でオキシジェンがハッキリいっているし、エピローグではちゃんとヴァルプルギスが、何で私は霧間凪と戦っちゃってりしたんだろう、という後悔をしている。

*24:宇野常寛の概念。本論第1回でも少しだけ触れた

*25:当日前に記事をアップ出来て本当によかった。

「上遠野浩平論」8.5~キャビネッセンスと生命と心(『ソウルドロップシリーズ』)

 上遠野浩平論の第8.5回です。

 第8.5回、という言い方をするのは、今回の記事では本来この連載が目ざす文学論の論旨にあまり必要ない話をするので。もともとは第8回で〈戦士〉の話をするついでに、1パラグラフぐらい使って簡単に触れておこう、ぐらいに思っていた内容なのだが、語りたいことが多すぎてどんどん膨らんでいったので、もう完全にページを独立させることにした。

 語りたいこと、というのは『ソウルドロップシリーズ』の話。

 特に、キャビネッセンス、というあの謎めいた概念が何を意味しているのか、整理がついていない読者も多いのではないだろうか?*1 ここでは僕が本論を構築する過程で得た理解をブログ記事にまとめていく。内容は、作家論を離れて作品論とかテキスト論、もっといえば”設定まとめ”みたいになるかもしれないが、もう今回は気にしない。書いてて面白ければそれでいいつもりで書くので、どうかお手柔らかに読んでいただきたい。

 

 

+怪盗との対決劇ではなく群像劇~『ソウルドロップシリーズ』

 

 まず、『ソウルドロップシリーズ』という作品自体について。

ソウルドロップの幽体研究 (NON NOVEL)
 

 ソウルドロップシリーズ*2は、2004年~2012年の刊行。これまでに7冊が出版されている*3。このシリーズは、「その人間にとって命に等しいもの」=キャビネッセンスを盗む謎の怪盗ペイパーカットと対決を描いた作品だ――という事になっているが、それは本の帯に印刷された惹句上だけの話*4。実際にはペイパーカットに関わる人々の姿を描いた群像劇だ*5。どの作品でもペイパーカット自体は、実は単なる印象的な舞台装置にすぎない*6

 

 第2期上遠野浩平作品の一つである当シリーズは、これまで本論が論じてきた絶対に勝てない〈運命〉との対決を描いた作品でもある。

 ソウルドロップシリーズで初めて上遠野浩平を手に取る読者に対しては不親切としか言いようのないことだが、この作品は結局のところペイパーカットに勝つことはできないという認識が前提されている。勝てない理由は、我々上遠野信者には自明なのだが、一応言語化しておくとやはり面白くなってくるというか……つまり、ソウルドロップシリーズは現代日本を舞台とする広義のミステリなのに対し、ペイパーカット=虚空牙っていうはスペース系SF作品たるナイトウォッチシリーズの大ボスであって……。

 ……例えるなら、古畑任三郎vsゼットン、みたいな

 なにそれ、としか言いようがない。

 ソウルドロップシリーズは、最初から理不尽なカテゴリーエラーか仕組まれた作品だ。上遠野浩平は、その理不尽さに気付くことのできないまま翻弄される人々を、ミステリ仕立ての群像劇として描いた。

 

 

+唯一怪盗に恐怖できている男、伊佐俊一

 

 そんなソウルドロップシリーズにおいて、主人公をやっているのが伊佐俊一である。

 彼が主人公なのは、彼こそがこの作品における〈戦士〉であり、ペイパーカットのことを誰より正確に認識しているからだ。

 伊佐俊一の"ペイパーカットを一番判っている"というキャラクター性は、シリーズ中ほぼずっと強調されているのだが、ここでは特に本論に都合のいい具体例として、シリーズ3作目『メイズプリズンの迷宮回帰(脱走のやつ)』のから、伊佐俊一の独白を引用しよう。

「――俺とお前たちの違いは何だだろうと思った(中略)――答えは簡単だった。俺にあっておまえたちにないもの、それはペイパーカットに対する恐怖感だ。俺は、ヤツが怖い――だからそのにおいに敏感でいつもびくびくしている。今回の件は、明らかにそのにおいがするのに、しかしヤツ自信の影は全然見えない――」

 

 伊佐俊一は、ペイパーカットが怖い

 本論第8回を読んでいただいた皆様には、もうこれだけで伊佐俊一が真の〈戦士〉だと解って頂けると思う。彼だけが、ペイパーカット=虚空牙という脅威、作品に仕組まれたカテゴリーエラーの理不尽さを認識できているということだ。

 ソウルドロップシリーズのキャラクターたちは、どいつもこいつも、全くペイパーカットを怖がらない。彼らにとってペイパーカットとは、何か不思議な現象であり、サーカムが保険金を払う材料であり、科学の未知の地平であり……色々あるが、恐怖の対象でないという点においては同じだ。ペイパーカットが危険ということぐらい知っている! と覚悟っぽい事を言う者はそこそこいるが、怖がってないという点については変わらない。

 伊佐俊一だけが「ヤツは人殺しだ」「ヤツを許してはいけない」「ヤツに関わるのは危険だ」「危険だからお前は逃げておけ」と言い続けている。これはほぼ間違いなく、上遠野浩平が故意にそうしている。普通に連続殺人ミステリをシリーズもので出していたら、もっと怯える人間が居ても良さそうなものだ。なにしろ、人が死んでいるし、自分が殺されるかもしれないのだから。しかし、もし今夜わたしがペイパーカットに殺されたらどうしよう? とか考えている人が登場しない。

 

 なぜそうする必要があったか? それは、伊佐俊一だけがペイパーカットのことを判っていて、他の人間は基本的に判っていない、という状況が、作品とって重要だからだ。この群像劇の根幹には「そのキャラはペイパーカットのことをどう認識しているか?」という問題がある。

 

 

+伊佐俊一だけが銀色を見られる

 

 ペイパーカットは、認識する人間によって姿が変わる存在である。

 判りきったことではあるが、念の為確認しよう。

 

 基本的には、ペイパーカットの姿は見た人間のキャビネッセンスに関連した人物となる。一番判りやすい例では、ロボット探偵・千条雅人には、ペイパーカットの姿が"生前"の姉の姿に見える*7。この現象は、どうやらペイパーカット自身の意思や操作とはあまり関係ないらしく、ペイパーカットはしばしば「君には僕がこの姿で見えるのか」と自身の姿について受動的であることを示す台詞を口にする*8

 ペイパーカットの姿が、銀色の髪とコートを着た謎の人物・飴屋に見える場合もある。ペイパーカットを飴屋として見るキャラクターは、1巻につき必ず1人~数人登場するのだが、なぜ彼らが"そう"なのか、直接的な言及は少ない。一応ペイパーカット本人から説明がなされたケース*9もあるのだが、肝心の説明が一定しない。1作目の『ソウルドロップの幽体研究 (ライブのやつ)』ではペイパーカットを家に泊めたカップルに対して「その人物のキャビネッセンスが”決して奪えないもの”である場合」に飴家の姿を見るいう説明がされていたのに、3作目の『メイズプリズン(脱走)』に登場した双季蓮生は明らかに"奪う事の出来る"キャビネッセンスを持ちながら飴家を見た、そして4作目の『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』では、妹に執着する保険マン諸三谷吉郎に対し「その人物が自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っている」から飴家の姿が見えるのだという、従来とは全然異なる説明がされた。(複数の説明がある理由は後に考察する)。

 

 ペイパーカットの見え方は、基本的にはこの2パターンたが、例外的に3パターン目の認識が存在する。他ならぬ、伊佐俊一のパターンだ。

 重要なので引用を使おう。伊佐俊一は『メイズプリズン(脱走)』において、思わせぶりな老脱走犯に次のような指摘を受けている。

「伊佐さん、あなたは実際のところ、それを”現象”だとは感じていないのでしょう? それは見るものによって全然違う姿に見えるという……そう言われても、あなた自身にはどうもピンとこない……違いますか?」

「何が言いたいんだ?」

「そうでしょう? あなたにはそれがただ”銀色”にしか見えなかったのではありませんか?」

「…………!」

 

 伊佐俊一はペイパーカットの姿を見ても"銀色"以上の印象を何も受けない*10

 伊佐俊一は、数度だけあるペイパーカットとの直接対面で、他の人間と同じように、謎の男・飴屋の姿を見ている。しかし他の人間は、飴家の姿を見たとしても、「銀色の服を着たなんか派手なくせに印象の薄い人だな」と思うだけで、「銀色以外の印象がない」なんてことは考えない。これは彼だけの特殊なケースだと考えるべきだ。また、他に伊佐俊一だけが持っている感覚として、彼はペイパーカットが他の誰かの姿に見えたという他の人間の言葉に違和感を感じているという。

 

  • 普通、ペイパーカットがキャビネッセンスに関連した人物に見える。
  • 一部の人間には、ペイパーカットは銀色の謎の男、飴屋に見える。
  • 伊佐俊一は、ペイパーカットを見ても"銀色"だとしか思えない。

 

 もちろん、これは伊佐俊一だけが正しいということだ

 先の2パターンが間違っており、伊佐俊一の認識が最も正解に近い。伊佐俊一が真実に近いのだということは、作品中でずっと書かれ続けているのだから、ここでもそのように見るべきである。

 しかしだとしたら、ペイパーカットの"銀色"とはいったい何を意味するのか?*11

 

 

+"銀色"の理由=二人目の虚空牙だから

 

 もったいぶってもしょうがないのでさっさと答えを言ってしまおう。

 ペイパーカットが"銀色"なのは、この存在が「鏡」であるという意味だ

 

 直接の描写としては、5作目の『クリプトマスクの擬死工作(映画のやつ)』のラストで言及があった。このシーンでは、舟曳沙遊里が、ペイパーカット映画の1場面を演じている。

 「――あなたの心がわからない。あなたが何を知りたいのか、私は想像もできない」

「あなたのしていることに理由があるのか、それともただの気まぐれなのか、私はそれが本当に知りたいのかしら? ひとつだけわかっていることは、私の言葉なんてあなたの前じゃ意味がないってことだけ――あなたは自分勝手に、私の想いをつまみ食いするだけなんだから」

「あなたを理解しようとしても、無駄だってわかっているわ。あなたは鏡。私の胸の内の乱れをただ映しているだけ。だからあなたに振り向いてもらうには、私は私自身を見つめなきゃいけない」

「ああ――でも、それはなんて難しいことなのかしら。私はあなたに夢中で、あなたのことしか考えられないのに」

 

 明確に、ペイパーカットのことを「鏡」と呼んでいる

 舟曳沙遊里は『クリプトマスク(映画)』で問題となったペイパーカット映画を通じて、伊佐俊一すら気付いていないペイパーカットの意図や文脈に気付いているキャラクターである。だからこのセリフは、そのままペイパーカットの真実と考えていい。

 この『クリプトマスク』でペイパーカットしんじつを認識してから前巻までのシリーズを再読してみると、実は折々に触れて「銀色は全ての光を反射する色だ」とか、「(ペイパーカットを探している者は)本当は自分自身を探しているのだ」とか、鏡を意味する描写がされている*12。初読でそれらが鏡の比喩だと見抜くのは結構難しいので、何となくペイパーカットって設定が曖昧すぎない? と感想に書いてしまったりするが、シリーズの最初からこの怪盗は鏡なのだという設定はカッチリ確定しているのだ。先に紹介しておいた、伊佐俊一の"銀色"しか印象がないという証言もそうした後になって気付く比喩の一つで、彼が言っているのは「そこには鏡があるようにしか見えない」という意味の話だ。ジャングルにでっかい鏡を置いて、映った自分の姿にむかってゴリラや豹が威嚇している動画を見たことある人も多いのではないかと思う*13が、あのイメージが上遠野浩平の中にあるのではないだろうか? 伊佐俊一はいわば、特別に賢くて鏡がそこにある事が判っているゴリラだ。このゴリラは鏡に写っている自分を見ても、そこにあるのは鏡だと判っているので無駄な威嚇はしない。鏡に向かった自分に向かって威嚇している他のゴリラを見て「何やってるんだあいつ?」とか思ったりもする。だから伊佐俊一は『トポロシャドゥの喪失証明(トポロスのやつ)』や『アウトギャップの無限試算(マジシャンのやつ)』で、他のハンターの的外れさに終始呆れていのだろう。

  

「ペイパーカット=鏡」という認識は、物語世界の謎に、判りやすい説明をつけてくれたりもする。

 例えば、伊佐俊一の視力障害には、実は大して謎なんてものはない。彼はたまたま目を傷めている時に、強烈に光を反射する「鏡」を直視してしまった*14だけである。認識してはいけないものを認識したのではと推測されたり、釘斗博士が伊佐だけが特別な理由を不思議がったりしているが。たぶん他の人間でも、目を傷めている状態でペイパーカットを見たら同様に目を傷めるだろう*15

 他にも、ペイパーカットの「初対面でもなぜか親身にしてもらえる能力」の件がある*16。この能力は、自分自身が相手なので親身にならざるをえない、という理屈で発生しているはずだ。たいていの人間は自分を愛しているし、自分自身に秘密を持つこともできない。*17

 あとは、ペイパーカットがたまにやる「そこにある物体を見えなくする能力」は、手品の鏡を使ったトリックが念頭にあるはず。それと、「通行人から一切注目されない能力」は、鏡があっても背景に混じってしまって注意しないとわからない、みたいなイメージだろうか*18

 

 元々のアイデアは、ごく単純な発想でしかなかったはずである。

 恐らくは「一人目のエコーズが音を反射していたのだから、二人目は光を反射するやつがいいよね*19」とかいう考えから設定を膨らませていったのが、ペイパーカットなのだと思う。 

 

 

 +鏡に反射している〈何か〉の発見

 

 では、さっき確認したうち、伊佐俊一以外の人間がペイパーカットを見た場合の2パターンも「ペイパーカット=鏡」という点から説明可能なのだろうか?

 もちろん可能だ。順に確認していく。

 

 まず、キャビネッセンスに関連した人物の姿となる場合だが、これはもちろん「自分自身の姿が鏡に映っている」ことを意味する。ペイパーカットが見る人によって姿を変えるのは、ペイパーカットが見た人の姿になっているから、という訳だ。ペイパーカットが鏡であることさえ分かっていれば、特に付記すべきことはない。非常に判りやすい理屈だ。

 そして、もう一つのパターンである、一部の人間にはペイパーカットが銀色の男・飴家の姿に見える場合だが、これは結論から言えば鏡に何も映らないのでに"銀色"が見えるということを意味する。ただし、先ほど確認した通り、作中において飴屋が見える理由(=鏡に何も映らない理由)には、複数の説明があり*20、それは一つの理由を様々な言葉で説明しているのではなく、理由自体が複数あるのだと思われる。

 まず「キャビネッセンスが"決して奪えないもの"であるから」という説明だが、これは映るべき物理的実体が無いので鏡には映らないということだと思われる。『ソウルドロップ(ライブ)』に登場したカップルのキャビネッセンスはいわゆる"愛"というヤツだが、そんなものが鏡に映るわけがなく、したがって銀色が銀色のままで見える。他にも、『メモリアノイズの流転現象(田舎の名家のやつ)』で飴家を見た早見壬敦のキャビネッセンスは恐らく"自由"、『クリプトマスク(映画)』のヒライチは"病気"だった。次の『メイズプリズン(脱走)』の双季蓮生は、キャビネッセンスが"生き別れた家族へのお土産だった人形"であり、物理的実体が存在することが明示されているにも関わらず飴屋の姿を見ている。これは恐らく、双季蓮生が極端に生に執着しない人物だったせいだ。生命の光が弱すぎて鏡にすら映らないという理由で、彼は銀色を銀色のまま見ることができたのだと思われる。このパターンは作中でもかなり特殊な例に見えるが、もしかしたら『コギトピノキオの遠隔思考(孤島のやつ)』のドクトルワイツも同じだったのかもしれない。あとは、『トポロシャドウ(トポロス)』でされた「自分自身の”命よりも大切なもの"をハッキリ判っているから」だという説明*21だが、これはエネルギーに強い指向性があるので鏡に干渉しないということだろう。強い指向性を持つレーザー光線は、暗闇にあっても拡散しないので周囲を照らすことがない。そのイメージで、『トポロシャドウ(トポロス)』諸三谷吉郎の光のエネルギーは自分の妹の方向にしか向いていないので、結果として別の方向に立っている鏡には何も反射されず、銀色を銀色のままで見られた。『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一や、『アウトギャップ(マジシャン)』のスイヒン素子も、明確なキャビネッセンスがあるのに飴家を見たのは同じ理由だったと思われる。

 もしかしたら他にも理由はあるのかもしれないが、とりあえず読み取れるのはこんなものだろう。彼らは伊佐俊一と違って鏡のことは何も分かってないのだが、鏡に写った像をみることがないので、鏡像に誤魔化されることもない。

 

 さて、これでペイパーカットの見え方についての設定考察を終えたが、ここにはこの先の議論に向けて注意を払っておくべきちょっとしたポイントがある。

 鏡が反射している〈何か〉は普通の光ではない

 普通の光だったら、当然鏡には自分自身の姿が見えるはずだからだ。上の説明では、生命の光だとか光のエネルギーだとか適当な語で考察を進めたが、たぶん実際には、人間の精神を放射源とするなにかエネルギーがあって、ペイパーカットの鏡はそのエネルギーを反射しているはず。 

 ……いやいやいや。本当にそうか? 読んでいる人はたぶん「確かに何か鏡が関係してるかもしれんが、何も本当にエネルギーを反射していることにしなくても」とか思っているんじゃないか? 確かに、白雪姫の魔法の鏡が小説に登場するからといってそこに厳密な世界設定を求めるのは、不誠実な読解としかいいようがない。ペイパーカットについても、能力バトルから離れた単なる不思議現象と読む方が道理ではないか?

 あるいはそうかもしれない。

 しかし、何しろペイパーカットによる反射は、光?の強さや弱さが関係するし、またエネルギーの指向性のようなものも存在する。具体的な実態としてペイパーカットが操作して、エネルギーを子供に与えることすらもできる。白雪姫的な"魔法な鏡"の表現にしては、いちいち描写が具体的すぎるのだ。

 具体的なエネルギーとしての〈何か〉があると考えたほうが話が通りやすくなるとは言えないだろうか?

 

 

+キャビネッセンスは〈何か〉が生み出す

 

 正直根拠が茫漠としているが、一旦以下は〈何か〉が存在することを前提に話を進める。というのも、「ペイパーカットが鏡であること」と「鏡は〈何か〉を反射すること」の二つを確認することで、念願のキャビネッセンスの話題に入ることができる。

 

 キャビネッセンス(Cabinessence)とは、もともとはビーチボーイズの未発表のアルバム収録曲*22に使われている造語だそうである。その意味はCabin+Essenceで「狭いところに閉じ込めた霊的なモノ」という感じだとか。その語源に沿うとするならば、キャビネッセンスとは「生命を狭い場所に閉じ込めたモノ」を意味するのだろう*23。 

 本記事ではここまで、このキャビネッセンスという概念を、「ペイパーカットは見た人物のキャビネッセンスに関連した姿になる」という説明の一部として扱ってきた。また、そのことに特に疑問を呈したりはしなかった。ペイパーカットの姿の変化に、キャビネッセンスが関係しているのだということを、本記事は根拠なく自明視してきたし、読者も普通はそう考えていると思う。

 

 しかし我々は、今、ペイパーカットの見え方の変化は〈何か〉によって起きることを確認した

 

 これが何を意味するのかというと、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の変化に、相関が見られるように思えたのは、疑似相関だったということだと思う。

 疑似相関とは、原因Aが、結果Bと結果Cを同時に生み出すとき「Bの変化とCの変化に相関がある」ように見えることだ。有名な例では、アイスクリームの売上が多い月は、溺死者が多いので、統計を見て「アイスクリームを食べた人は溺死しやすくなる」とかいいたくなるが、本当は猛暑という真の原因がアイスと溺死の両方の結果を生み出しているだけだ、とかいう話がある。

 つまり、キャビネッセンスとペイパーカットの姿の関係は、アイスクリームと溺死の関係と同じだった。真の原因である〈何か〉の影響が両方に及んでいるため、あたかも両者に相関があるかのように見えていただけだった。本当は、ペイパーカットの見え方を変えていたのは〈何か〉のエネルギーであり、同じエネルギーが、何がその人間のキャビネッセンスになるのかも決定付けていた。

 

 一言で言えば、キャビネッセンスを生み出しているのも〈何か〉である

 

 鏡に反射する前のエネルギーが、特定の物品に強い影響を及ぼすとき、その物品のことをキャビネッセンスと呼ぶ。〈何か〉の存在を仮定することで、そういう結論にたどり着くことが可能となるのだ。

 

 

+〈何か〉は「意思」と関係している

 

 もしも〈何か〉が存在し、またキャビネッセンスにとって決定的な役割を果たしているなら、本論は〈何か〉の正体について有力な手がかりを提示ことができる。

 先にも言及した、伊佐俊一とは別の意味でペイパーカットの正体に最も肉薄しているキャラクター、舟曳沙遊里は、キャビネッセンスについてこう証言した。

「キャビネッセンスが関係しているのは、実際は生命ではなく、意思のほうよ」

 

 作品中では衝撃的な台詞として提示された後、特に回収されるでもストーリー展開に絡むでもない台詞だが。

 いままでの仮定を踏まえれば、この説明は〈何か〉は人間の意思に関連するエネルギーであると読むことができそうだ。

 そして、意思が関係しているのだと考えれば、ここでもまた、いろいろなことの説明がつくようになる。

 例えば、『トポロシャドウ(トポロス)』の諸三谷吉郎や『クリプトマスク(映画)』の誉田樹一は、ペイパーカットの匠な弁舌に精神状態を誘導されることで、他人から認識されなくなる不思議な能力を発揮した。あれは、当人の精神状態が〈何か〉のエネルギーに影響を与えたということではないのか。また別の例としてキャビネッセンスの性質について考えることもできて、どんな人間も必ずキャビネッセンスを持っているというあれはどんな人間も必ず意思を持っているということだろうし、ペイパーカットが人間がすぐにキャビネッセンスを変化させてしまうことを不思議がるのは、どんな強固な意思も永遠に変わらないことなどない、ということだろう。

 

 注意してほしいのだが、我々がいま〈何か〉と呼んでいるものは、物理的な光に近い性質を持つ具体的なエネルギーであって、通常「意思」と呼ばれるような抽象的な精神活動や現象ではない。

 〈何か〉は、反射したり、指向性を持たせたり、トポロスとして数学的に計算することができる*24具体性を持った、しかし実態が謎のエネルギーである。このエネルギーは我々には観測できないが、ペイパーカットには観測も操作もできる。いくら虚空牙でも、他人の意思を直接操作するような真似はできないはず。というか、むしろ人間の精神を操作することだけが、ほとんど唯一、虚空牙に不可能な行為のはずだ*25

 恐らく、意思は〈何か〉のエネルギーを操ったり操作したりする要素だ。強い意思をもって命じた場所にエネルギーが移動すると考えるのは、ラノベ的発想としても自然に思える。本人の意思が無意識のうちに集中している地点に〈何か〉のエネルギーは自然と集中するし、集中した先が物品であれば定着してキャビネッセンスと呼ばれるモノになる。さっきは、”キャビネッセンスは〈何か〉が生み出している”という言い方をしたが、どうやら生み出している訳ではなく、単にエネルギーが物品に宿っているだけなのかも。

 

 ……ん? 物品に宿っている、意思に反応するエネルギー?

 

 ここで上遠野信者である我々は、ある推測の存在に気付くことができる。

 

 意思に反応して、物品に残すことのできるエネルギー、それは、別シリーズで〈呪詛〉と呼ばれているものではないのか

 

 

+ペイパーカットが本当に盗んでいるもの

 

 呪詛〉についての詳しい説明は、『紫骸城事件』のなかでされている。

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

紫骸城事件 (講談社ノベルス)

 

 魔法の原理とは、単純に言ってしまえば、生命エネルギーの二次利用、ということになる。ここでいう一次利用とは"生きていること"そのものである。それは当然、死ぬときに終わる。だがその生命の残滓というものがこの地上には残り、それが呪詛と呼ばれる魔力の源となるエネルギーなのだ。通常は見ることも感じることもない。しかし、この地上に生命が誕生してどれくらいになるのか正確なところは知らないが、少なくともそれが夥しい量であろうというのは誰でも想像のつくことだろう。

(中略)

 しかし我々は確かに呪詛を使って文明を築いているし、人間以外の動物でも魔法に類する能力を持っているものが珍しくないにも関わらず、つまるところ呪詛というのが如何なるものなのか、という点についてはまだまだわからないことが多い。ただ、このエネルギーが生物の”思考の流れ”のようなものに反応することは判っている。反応すれば、その分だけその生物は呪詛の存在とパワーを認識し利用できる。

 

 非常に興味深い。

 この説明からは、ソウルドロップシリーズにおける「キャビネッセンス」と、無視できない関連を2つ見つけることができる。

 

 第一に、〈呪詛〉のエネルギーは本来生命維持に使われている

 キャビネッセンスを盗まれると人は死ぬ、という事実を思い出さずにはいられない。

 キャビネッセンスを盗まれた者は、同時にそこに宿る〈何か〉のエネルギーも失っているのではないだろうか? 〈何か〉が〈呪詛〉であるなら、そのエネルギーを失うと、人が死ぬことの説明がつく。また、必ずしも人が死なないことの説明もつく。恐らくだが、生来多量のエネルギーを持っているならば、その大半を失っても生命活動維持には足りるということはあるのではないだろうか? 更に、これならば、ペイパーカットが魂の一滴(ソウルドロップ)と呼ぶものを与えることで、死にかけた人間を癒やすことが出来た理由も説明がつく*26

 第二に、「呪詛」は人の思考の流れに反応する

 思考の流れ、つまりは意思である。しかも、『紫骸城事件』ではこの説明が「意識的に思考の流れをを扱う訓練を受けた人間を魔術師と呼ぶ」という話につながるのだが、逆に言ったら、それは訓練を受けてなくても思考の流れ自体は存在するという意味ではないだろうか。例えば、命と同じくらい大切に思っているモノの方向に〈呪詛〉のエネルギーが自然と集まっていく、というようなことは起こるのではないか。また、集まったエネルギーは活用されれば魔法となるのだろうが、別に活用されなくてもエネルギーの移動はあるではないだろうか。

 ついでに言えば、『紫骸城事件』はソウルドロップシリーズの3年前の出版であり、〈呪詛〉という発想がキャビネッセンスというアイデアに先攻していたのは間違いない。

 あまりにも関連が明確である。これはもう、どうやら間違いない。

 

 キャビネッセンスとは、その人間の生命を維持している〈呪詛〉が集中している物品のことである

 即ち、ペイパーカットが本当に盗み、操作し、研究対象としているのは〈呪詛〉である

 

 ペイパーカット自身は、自分は生命を研究しています、と常に言っているが、それはペイパーカットの勘違いである。

 千条雅人の姉によれば、

「たぶん、遥か向こうから観ているせいで、生命とそうでないものとの区別が微妙についていないんでしょうね――だから類似するものを収集しているんだわ」

 

 ということだ。

 ペイパーカットには、生命と、生命維持の材料たる〈呪詛〉の、区別がついていない。風邪と病原菌の区別がつかないようなものだろう。初歩的な違いのようにも思えるし、病気という概念を持たない宇宙人には区別が難しいかもとも思える。

 

 

+虚空牙が来た理由と上遠野サーガの全容(の妄想)

  

 考えてみれば、ペイパーカットが「生命」を研究対象にしているという話は、元から奇妙だった。なにしろ、他シリーズの虚空牙は、ヒトの生命のことなんて全然調べている様子がない。

 虚空牙が何を調べようとしているかは、『虚夢を月』で明らかになっている。コーサ・ムーグを介した試みが失敗に終わり、現れた虚空牙はこのように研究の失敗を嘆いた。

”――失敗だ”

 どことも知れぬ虚無から響く声が聞こえてくる。

”――また失敗だ。またしても〈心〉なるものの手がかりが消滅した”

 

 虚空牙が気にしているのは「心」である

 他にも、『笑わない』のエコーズは人間の善悪*27を報告せねばならなかったようだし、『虚空に夜』では直接〈戦士〉である工藤兵吾のことを調べに来たし。あとこれは単なる予想だが、『螺旋のエンペロイダー』の才牙虚空介と才牙そらは、試しに一から端末を人間社会で(しかも男女の兄弟で)育ててみるという実験*28の対象者のはず。

 いずれも、どう見ても調査の傾向が「心」寄りである。ペイパーカットの研究対象だという「生命」だけが、どうも他の調査から乖離しているように見える。この乖離は、各シリーズが明確に独立しているため、いくら作品間リンクの好きな上遠野浩平でも関係のない事例として処理したくなってしまうが。

 

 しかし、ペイパーカットの研究対象が実は〈呪詛〉であるならばここにも話が通る。

 虚空牙が「心」を通じて調べたがっているモノもまた、実は〈呪詛〉だった違いない

 全ては呪詛エネルギーの振る舞いを、つまりは振る舞いに影響をあたえる「心」のことを調査するためなのだ。

 

 この気付きによって上遠野信者の妄想はますます爆裂する。

 せざるを得ないッ! うおおおお!

 

 (*以下すごく早口で喋るので読み飛ばしていただいて結構です)

 きっと、純粋なエネルギー体であり、しかも「心」を認識できない虚空牙にしてみれば、地球という場所は「何にもないのに何故かエネルギーが激しく動いている場所」なのだ。原理が判らなかった頃のブラウン運動を見るような感覚だろうか。虚空牙が呪詛エネルギーの激しい動きを観測して地球を調べにきたのは、ブギポ世界=現代がだったが、これは当時代がMPLSが急に増加している時代であることと、無関係ではないだろう。MPLSも呪詛を使っているということだな。そういえば現代におけるMPLSの増加は、魔女の存在と関係あるらしい。だとすると魔女のせいで虚空牙が地球に来たとことになってしまうぞ。魔女というのは全くなんて傍迷惑な連中だろうか。それはともかく、どうやら虚空牙は最初のうち、研究対象に影響を与え過ぎないよう注意して研究をすすめたようだ。エコーズが喋れない設定とかあったし。ペイパーカットもかなり手加減しているように見える(ペイパーカットは配慮に失敗していると言わざるを得ないが)。で、それらの初期調査によって、どうもエネルギーの動きには「心」って奴が関係しているんじゃないかって事と、「心」の影響を受けてエネルギーの出力が強くなったり弱くなったりするという事は虚空牙にも分かった。だけど、やはり根本的なところはわからない。「心」は虚空牙にとって本質的に認識不可能な事象だというので無理もない。そこで、虚空牙はちょっと大胆な実験を行うことにした。できるだけ地球のエネルギーがブーストされるように、あえて強い刺激を与えてみることにしたのだ。これが虚空牙による地球攻撃である。虚空牙という外敵を得たことで、人類は外宇宙に進出し、ナイトウォッチを作り出すほどの文明を手にしたのだという。ペイパーカットに呪詛を盗まれた人間からは、生き様からやる気や創造性が失われることがあるが、ならばその逆で、エネルギーが強くなったらやる気と創造性がもりもりわいてくるのではないだろうか。そしてやる気が向上しまくれば、文明の発展さえ促されるということがあるのでは? こうして出来たのが虚空シリーズの世界。しかし、やがて虚空牙は実験を終えて、地球を引き上げて、すると人類の不自然なやる気ブーストは途絶えて、宇宙文明は衰退した。文明が衰退した地球で、人類はあいかわらず生きたり死んだりしたが、やがて魔女の影響からも既に逃れた時代、本来のタイミングであらためて奇蹟使いたちがエネルギーの利用法を見出していく。あと、界面干渉学の向こう側に存在する『事件シリーズ』のパラレルワールドでは、そもそも生まれた時からこのエネルギーを活用している魔物だとか竜だとかいう生き物がいて、パラレル人類もそれに沿って呪詛文明を築いているッ。

 

 これが!! 上遠野サーガの全容だあああ!!!!!

 

 

上遠野浩平の生命観

 

 申し訳ない。不用意に興奮してしまいました。

 正直なところ、こんなのは一繋ぎの財宝やラフテルの正体を妄想するようなもので、信憑性はあんまりないし、作品の魅力や本質とも全然関係がない。だから、文学論を目指すうえでは関係ない話をする、と前もって言っておかなければならなかったんだよね。面白いのは間違いないのだけど。

 

 だが、せっかくなので最後にあらためて、文学論に舵を切っておこう。

 上遠野浩平は、キャビネッセンス、あるいは〈呪詛〉というモチーフを用いて一体何を描こうとしているのか? 

 

 その手掛かりとして、エネルギーだとか文明だとか上遠野サーガ間のリンクだとか、余計な修飾を排除した、純粋な作者の生命観ともいうべきものが表れているシーンがある。

 『虚夢を月』から、兎型月探査ロボット・シーマスが登場する第3章を紹介したい。この短編の末尾では、旧設備を復活させようとするシーマスのもとに突然、水乃星透子があらわれる。水乃星透子はシーマスに対し、死への誘惑を試みるが、彼はいとも簡単に一蹴する。

”ここには調和があるわ。冷たい死の、月にふさわしい静かな世界が、ね。それを再び目覚めさせて、残酷な真実に直面させることにどれほどの意味があるのかしら?”

「……えーと、その」「僕には難しいことを言われてもよくわかんないけど――でも、一人生き残っているんだよ。助けないと」

”生き延びることが助かることになるのかしら””生き延びれば幸福が待っているというのは、世界が喜びで満たされている時だけだわ。この冷たく凍りついた月にそんなものがあるのかしら?”

「だって、生きているってことは遊ぶってことだろう? だったらどんなトコにだって面白いことは見つけられるんじゃないかな」

”そんなに簡単なものかしら?”

「そんなに難しいことなのかな。生きるって」「苦しいなら苦しくないようにしようとする。つまらないなら面白いことをみつける。生きるってことはそれだけのことじゃないのかな。そんなに難しいとも思えないけど?」

”……”

 すると少女の微笑みに、少しそれまでとは異なる表情が混じった。なんというか、それはわがままを言い通す子供を見た時の母親のような、あきらめといとおしさが入り混じったような”しょうがないな”という微笑みだった。

”心っていうのはまったくしぶといものね”

 

 水乃星透子は、シーマスが死の道理に屈しないのは「心」がしぶといせいだと言う。

 つまり、「生命」というのは本質的に「心」が維持している

 心があるから我々は生きているのであって、生きているから心があるのではない。

 心が主であり生命は従である

 

 〈呪詛〉という発想の根本にあるのは、この生命感であると思われる。

 現実的悲観主義を作品の前面に出すことの多い上遠野浩平だが、どうやらこと生命に関してだけは、理想主義的な側面を持っているようだ。上遠野浩平は、

「生命なんて化学現象ですよ」とか、

「魂なんて電気信号ですよ」とか、

「だから一切に価値はなく無情ですよ」とか、

 そういう漫画や小説でもよくある現実主義・即物主義的な立場を取らない。〈運命〉の悲観の中にあって、生きていることには価値がある、という一点だけは決してブレることがない。

 上遠野浩平という作家は、しばしば死の描写が巧いと評される。個人的には『パンドラ』で仲間たちが死んでいくシーンや、『ジンクスショップ』で老執事が倒れるシーンが、特に顕著なのではないかと思うが。いずれにしても、それらのシーンの巧さ、エモーショナルなリアルさは、上遠野浩平が生命の喪失を非常に重く感じ取っているということの表れなのだ。

 こうした上遠野浩平の生命観は、特に第1期とか第2期とかで変化はしていないので、本連載では今後は特に触れる予定はないが。作者を理解する上では重要なポイントの一つではあるし、なによりこれから出てくる作品の中で今後も度々見ることができるはずである。

 

 

 以上、連載の本来の流れを無視して、ソウルドロップシリーズとキャビネッセンスについて、言いたい放題を語った。

 次回は元の流れに戻る。満を辞して『ヴァルプルギスの後悔』と、第2期上遠野浩平の結末について論じよう。

 

 

gentleyellow.hatenablog.com

 

*1:毎回のことではあるが、もちろん整理がついていなかったのは僕自身だ。人より自分のほうが読めてるとか畏れ多いことは思ってない。

*2:またどうでもいい話を脚注でしていくが、ソウルドロップシリーズは、タイトルの言葉の意味がわからないし、第何巻みたいな通し番号もついてないし、表紙は全部ペイパーカットのどアップだしで、どれがどれやら全然わからん。だからこの記事で各作品の名前を出すときには、同時に簡単な説明も書いておくことにした。

*3:断言は避けたいが、個人的にはもう最終回を迎えたシリーズなんだろうと思っている。マジシャンの話で伊佐俊一とペイパーカットの直接対決をやって、最後にオーロードが盗まれる=延々ペイパーカットを追いかける話が終わる、という話でオチになっているんだろう。もし続きがあるとしたら、ペイパーカットが居ない別シリーズで、ロボット探偵が吸血鬼に戻る話、とかかな……。

*4:むしろ不思議なのは、出版時の帯に「神出鬼没の謎の怪盗vs異能の私立探偵!」とか書いちゃってることのほう。やっぱりミステリ界隈的には探偵が敵と対決するっていうポーズのほうが売れるのかなあ

*5:もちろん作者本人も最初からそのつもりで書いていて、『クリプトマスク(映画)』のプロローグでペイパーカットを題材とした映画について「謎の存在すぎてストーリーにならないよ」「じゃあ、そいつ自体は謎にして、それを巡る人々の物語にしようか」と言っているのは内情の暴露であろう。

*6:しかし一方でこの作品の構造の特異さは、作品内のキャラクターたちはペイパーカットと対決しているつもり、という点にある。小説全体としては群像劇なのに、キャラクターたちは、ロボット探偵も、ライバルたちも、サーカムも、東澱も、謎の怪盗ペイパーカットと対決するための行動をとるということ。つまり、キャラクターの言動の焦点が、物語の焦点とは全然違う場所にある。この点を逃してしまうと、シリーズの面白い部分を取り落としがちになってしまうと思う。

*7:あとは、子供などキャビネッセンスを作り出す人生観自体が明確になってない場合は、なにかボンヤリした像しか見えないこともある。特異なパターンともとれるが、本記事では1つ目のパターンの類型として扱う。

*8:しかし、ペイパーカットはしばしば任意で他人の認識を弄るような能力も使う。この点は、能力バトル的な設定考察ではほぼ説明ができない。だって、ならペイパーカットは鏡でなくなることもできるんじゃないのか? なぜそうしないのか?……もはや「虚空牙は万能かつ理解不能だから」と考えるしかない

*9:ただしペイパーカットは基本的にキャビネッセンスのことが判ってない(だから研究している)。つまりペイパーカットは自分でも判ってないことを説明しようとしているのであって、説明が正しい保証はないのが厄介だ。

*10:同じ内容は他に、釘戸博士による問診で証言されている。

*11:これは記事の流れのために上でペイパーカットの正体は謎、みたいなフリをしてるだけであって……常識レベルの話の気がしてならない。でも僕はマジで今回読み込むまでわかってなかったんです。

*12:再読してみたら思ったよりもたくさん見つかってびっくりしたよ

*13:参考動画検索結果:ジャングル 鏡像認知

*14:警察内部に侵入していた暗殺者ともみ合ったときに、銃の火薬が目に入ったという描写がわざわざされている。

*15:恐らく、鏡に反射した光=伊佐俊一の意思の力が特別に強烈、ということもあるので、皆が皆ではないだろうけれど。

*16:サーカムが把握してないせいで明文化されないのだが、飴屋がしばしば何も知らない一般人と一時的に行動を共にする度に、その一般人が「初対面のはずなのにおかしいな?」とか思いながらも飴屋と親しくする……いう形で描写がある。

*17:伊佐俊一は、恐らく自分自身を許すことができない人間だからだろう、ペイパーカットを見ると胸がむかむかしてきたりするようだ。早見壬敦からはそのことを「いっさん、アンタはペイパーカットを許せるのかな」と心配されている。

*18:本記事ではここで厳密さを捨てたイメージ先行の考察を使っている。というのも、先の脚注でも述べた通り、厳密な能力分析は恐らく無駄なので。能力バトル的には「ペイパーカットは他人の認識をかなりの程度操れる」という事であろうが、でもじゃあ何が出来て何が無理なのかという話になると、虚空牙にはほぼ何でもできるはずで、認識以外のものすら好きに操っているのかもしれないし。

*19:他シリーズで「虚空牙は人間を通してしか人間を理解できない」とされるのも、彼らが反射をつかさどっていることと恐らく関係がある……と思うのだが、「時間」を使うらしきブリックや、あと何を使っているかよくわからない(「螺旋」なのか?)才牙虚宇介は、人間から何かを反射しているようには思われないんだよなあ。

*20:巻が進むごとに、理由が変化しているように見える。これはペイパーカットの興味の対象が移り変わっているということなのだろうか? それとも移り変わっているのは上遠野浩平の興味か?

*21:この説明の言いようは、どうみても他シリーズでこの時期描き続けていた〈戦士〉とダブるが、しかしソウルドロップシリーズで飴家の姿を見る人々はどう見ても「ううう……」となるタイプの人たちで〈戦士〉からは程遠い。関連はしているが別の要素だと思っていたほうがよさそうだ。あるいは、これはペイパーカットこそが研究対象を良く分かってがない故に起きる間違い、の一環なのかもしれない。

*22:「未発表のアルバム収録曲」という単語だけでもう最高に上遠野浩平が好きそう。

*23:突然だが、伊佐俊一のキャビネッセンスとは何か? 直接の描写はないのだが、それは恐らく「いのち」である。伊佐俊一はいつも人が死んだり命が粗末にされたりすると怒っている。伊佐俊一にとって、命より大切なものなど命以外にはない。即ち、伊佐俊一とは生命のエネルギーを狭いところに閉じ込めてない男なのだ。ペイパーカットにとってはさぞ興味深い研究対象であろう

*24:キャビネッセンスの代替品として作られたというトポロスは、恐らく「エネルギーが宿った物質にどういう力が加わるかを計算する」という試みであった。博士はキャビネッセンスだと判っている物質に、何らかの変質の痕跡を発見したのかもしれない。しかし、いくら正確なモデルを作ろうと、そこにエネルギーが宿っていない限りはキャビネッセンス自体とは成りえないだろうし、やっぱり的外れだったとしか言いようがない。

*25:この点については本記事中にもう一度触れる。

*26:特に前半のシリーズで見られた行動で、『ソウルドロップ(ライブ)』では伊佐俊一を、『メモリアノイズ(田舎)』ではかわいそうな昭彦少年を癒やした。

*27:というか、エコーズはどうも「人間とは共同体において助けあうのか排斥しあうのか」を調べていたようだ。複数の人間の呪詛エネルギーの相互干渉かなにかに関係するのだろうか?

*28:たぶんそういう話ですよね?